2011年11月20日日曜日

ルネサンス、古代劇場の再生/©



(ルネサンスの祝祭)
ルネサンスの祝祭もまた音楽と建築に支えられている。祝祭を必要としたのは君主。君主の正当性を人々に知らしめるため、そのイメージの強調が絶えず求められるのは中世と変わらない。

しかし、この時代、君主の正当性と権威の強調に役立つモノ、それは最早、宗教的権威のみが総てではない。絶対化された宗教とは距離を保ち、いかに自らのの権威を強調するかがルネサンスの祝祭の特徴。

前時代、教会の中で一体化していた音楽と建築は教会から離れ「作品」として分離し、宮廷や邸宅、庭園や都市という世俗の空間の隅々へと広がって行く。この時代の音楽と建築は神による典礼の時代を人間中心の祝祭の時代へと変容して行った。

周辺列強の侵出によりイタリア半島は共和制から君主制へ移行していかざるを得なくなる。市民・商人の間から抜きん出て登場したメディチ家のような新興君主は、その存続と正当性の維持のため、従来とは異なる手法を必要とする。

宗教的権威と距離をおいての君主制の強調、それは古代社会の寓意(アレゴリー)を利用し、神話的な劇的情景の創出することだった。新興君主は古代の神々に直接連なる家系であり、その威光と正当性を保持していることを示そうとする。祝祭を象徴的な寓意(アレゴリー)による視覚像の集合とし、そのイメージによって君主の権威を意識づける。それが手法であり、祝祭の役割。

祝祭を支えるの古代、中世と同じように音楽だが、その視覚的世界を演出する建築家は音楽家以上に重要な役割を果たすようになる。宗教的または職能的ギルドによる制作の規模も大きくなった演劇やページェント、その実際的な担い手が専業化しつつある中、ルネサンスにおける祝祭全体をプロデュースし、仕切っていくのは今や建築家の役割となっていたのだ。

彼らは当然、美術ばかりでなく、音楽も一体化させ、イメージの強調のための劇的情景を都市の隅々に生み出していく。ルネサンスの祝祭は視覚中心の一大ページェント。さらにまた、君主たるもの、その地位を確保し、存続するためには宮廷における祝宴が不可決。

アレゴリーによる劇的情景の創出は都市における祝祭以上に、広間における祝宴が有利だった。神話的情景は都市広場より宮廷の広間のほうが、より凝縮され繰り返され有効であったと同時に、そのテーマそのものも、街中の一般市民より宮廷内の貴族あるいは文化的エリートのほうが理解しやすかったのだ。

スペイン、フランス、神聖ローマ帝国という三大勢力の覇権争いに翻弄されるイタリア諸都市の君主たち、彼らは生き残りの道を画策し、政略的結婚の祝宴や外交上の祝祭を盛んに催す必要があった。都市の広場での祝祭は君主館の広間や中庭にまで持ち込まれ、そこには仮設舞台も設置される。

十七世紀に入ると、仮設舞台は常設化され、劇場は君主たちの権勢を誇示する為の不可欠の場となる。そして豪奢を極めた宮廷劇場が建てられた。

古代社会のあるいは神話的世界のアレゴリーで満たされる劇場空間は透視画法により生み出されたアルカディア、君主や貴族たちもニンフやパンと共に踊り舞う空間なのだ。祝宴を開き、政略的結婚をことほぎ、外交交渉を重ねる宮廷劇場は娯楽の場ではあるが、そこはまたイタリア半島に分立した諸都市にとっては生き残りを賭た重要な政治的装置となっていたのです。


(ラテン喜劇はルネサンス市民の教養)

十五世紀イタリアは清貧禁欲を尊ぶキリスト教に変わる新しい神を探していた。人間を中心とした現実的、合理的な価値観を賛美し、多少の快楽をも許してくれる新しい神、新しい秩序、新しい生き方を模索していたのだ。

そのような風潮が古代の文芸を復興させたのであり、多くの人文主義者(ユマニスト)を生み出した。文芸復興というルネサンスのテーマにとって、注目されていたのはローマ時代の喜劇や悲劇と、その上演の為の劇場のデザインにある。

テレンティウスやプラトゥスが書いた古代ローマの戯曲が再評価され、人文主義者の間ではその戯曲を具体的にどう上演するかが大きな関心。ルネサンスの人々にとって、ラテン喜劇こそ市民の教養(フマニスタ)の証しであり、上演の為の劇場は人文主義思想表現の最も有効な場となっている。

ラテン喜劇の上演は祝宴の催しものとしては些か華やかさに欠け、教育的ではあるがフェラーラ、フィレンツェ、マントバでは盛んに行われていた。観客にとって古典文化と接触しうる場は非キリスト教的生活の規範を知る、あるいは古典的会話の文体を学ぶ絶好の機会。その上演は政治的外交装置ではあるが、同時に新しいライフスタイルの為のカルチャーセンターとなっていたのです。


(古代劇場の再生)

ラテン喜劇の上演にはローマ時代の「ヴィトルヴィウスの建築書」が使われた。彼は紀元前一世紀、建築のみならず、音楽、天文学、機械、土木、都市計画の為の当時最先端の技術書を書き上げ、時のローマ皇帝アウグストゥスに捧げている。小宇宙=大宇宙の原理に関わるダヴィンチの人体比例図やアルベルティの「建築論」、パラーディオの「建築十書」等に大きな影響を与えたこの書は、すでに触れたが、ルネサンスの人文主義者・建築家にとって欠くことができないもの。

同時代のヴィトルヴィウスの研究とラテン喜劇への関わり、その数は記録が残されているだけでも膨大な量にのぼっている。フラ・ジョコンド、チェザリァーノ、ブラマンテ、セルリオ、バルバロという人たちはヴィトルヴィウス研究で名をなした人文主義者・建築家たち、彼らは各々の研究書の中で古代劇場の再生を試みている。


人文主義者の関心はこの書の中では特に舞台背景画にあった。ヴィトルヴィウスによれば悲劇、喜劇、風刺劇の三つの背景画が存在する。「一つは悲劇の、他は喜劇の、第三は風刺劇のスカエナと呼ばれるもの。これらの装飾は手法において互に異なり別々である。悲劇のスカエナは円柱や破風や彫像やその他王者に属するもので構成され、喜劇のスカエナは私人の邸宅や露台の外観また一般建物の手法を模して配置された窓の情景を持ち、風刺劇のスカエナは樹木や洞窟や山やその他庭師のつくる景色にかたどった田舎の景色で装飾される。」(前掲ヴィトルヴィウス建築書)この記述から類推すれば先述したローマ時代のサブラータ劇場のスカエナ(舞台背景)は円柱や破風であるから悲劇用と言えるようだ。


(舞台の背景画と透視画法)

上演の舞台背景には発見されたばかりの透視画法の空間が不可欠。ブルネレスキが発見し、アルベルティが理論付けた、人間の想像による等質・等方の透視画法の空間こそ、神の支配を受けないルネサンス劇の舞台を支えるものと言える。

つまり、理想都市とアルカディアがその舞台背景を構成している。そして、ルネサンスの舞台と透視画法、それはどちらも人間の計画的意志を持ってその中にシンボル配置することから生み出される新しい世界。その新しい世界こそ、神なき世界の生き方をレヴューするルネサンス特有の思考の空間となっていたのです。

劇の上演だけであるなら貴族館の広間か中庭が用意され、そこに舞台背景画を掲げるだけで十分であったが、劇場全体の再構成を試みるとなると容易ではない。と同時に、最初の実践が具体的にどのようなものであったのか、実はまだ充分には解っていない。

アルベルティは1452年にニコラウス五世の為のテアトルムを建てている。このテアトルムは当然、ヴィトルヴィウス劇場の再現であり、最初の実践と目されているが、資料が少なく詳細が解らない。むしろ、残された透視画法との関連でのヴィトルヴィウスの舞台背景の再生の試みはレオナルド・ダ・ヴィンチが最初と考えられている。

「アトランティコ手稿」の街路の情景のための素描がその舞台背景。その手稿の制作が1496年あるいは97年であるならば、現存する最古の再生スケッチとなる。


(舞台の背景のスケッチ、透視画法による理想都市図)



一般的な研究ではウフィッツ美術館に保存されているブラマンテの版画が最初のスケッチ。十六世紀初頭の理想都市図だ。

線画描写の絵は左右に柱廊を持った街路が広場の入口を構成する古代風アーチの門を潜り、アルベルティ風のルネサンスの教会まで続いている。人文主義者あるいは建築家は舞台背景画は描くことで、彼らがイメージする理想都市を具現化していたことがよく解る。


プロスペッティーヴァ(透視図)という言葉がフェラーラでのアリオスト作「ラ・カッサーリア」の舞台装置の記述に使われる。ウルビーノ公ロレンツォの結婚式、パラッツォ・メディチでの上演の際の背景画はヴィトルヴィウスの記述の再現、理想都市図が作られたという記録がある。

透視画法は人文主義者のいだいた理想的な都市観を表現するのに最も適している。ピエロ・デラ・フランチェスカ作とされるウルビーノの理想都市図はその情景から斬新で調和のとれた穏やかな佇まい、まさにルネサンスの理想がそのままシンボル化され表現された。

興味深い透視画法の背景画がもう一つある。ラッファエロとともに沢山の舞台背景を設計したペルツィッヒの作品。中央に格子状に仕切られた床模様を持つ街路、その左はアーケード、右は列柱廊、ルネサンス風宮殿の上にはパンテオンのドームにサンタンジェロの円筒の城砦が描かれている。

ポポロ広場のオベリスクの左にはゴシック風尖塔アーチ窓、後ろには空高くコロッセオの最上階の列柱も望める。この背景画は古代ローマ建築のコラージュとなっている。この背景を使いどんなラテン喜劇が演じられたかは定かではないが、観客にとってその世界はもう、迷うことなくイメージとしての理想都市ローマそのものであったことは間違いない


(透視画法の役割と劇場の変容)

透視画法を使った舞台装置は建物をシンボル化して配置することで、都市をイメージさせてきたのだが、やがてその装置は絶対君主のイリュージュン操作の道具へと変容する。本来は純粋に人文主義者の都市観を表現していた透視画法だが、その役割は「都市のシンボル」としての役割からリアルな効果をもたらす「視覚的技巧」へと変化する。

ヴィトルヴィウスはその円形劇場の中心点について、そこはすべての視線が集まるが、何も置かずに、空いたままにされる場所と記しているが、やがて、その場所は必然的に絶対君主の座席として与えられることになった。

ルネサンス期の古代劇場の再生はキリスト教からは自由になり、人間中心のイマージナルな空間の発見ではあったが、劇場そして透視画法はバロックの絶対君主が操作するイリュージョナルな空間へと変容していく。

オペラはこのイリュージョナルな空間の誕生から始まる。その空間と音楽による表現性の高い、感情表現に富んだ娯楽的世界、それがオペラだ。

従ってオペラはその誕生から観客の想像力より、作り手の作品力がより大きな役割を占めるものと言える。さらに、そのイリュージュン効果を最大限に活用し、バロック音楽と結びつけたスペクタクルな劇的な世界を生み出していくことが、その発展の大きな道であったこともまた確かなのだ。

2011年10月25日火曜日

ラテン喜劇はルネサンス市民の教養

十五世紀イタリアは清貧禁欲を尊ぶキリスト教に変わる新しい神を探していた。人間を中心とした現実的、合理的な価値観を賛美し、多少の快楽をも許してくれる新しい神、新しい秩序、新しい生き方を模索していたのだ。 そのような風潮が古代の文芸を復興させたのであり、多くの人文主義者(ユマニスト)を生み出した。文芸復興というルネサンスのテーマにとって、注目されていたのはローマ時代の喜劇や悲劇と、その上演の為の劇場のデザインにある。 テレンティウスやプラトゥスが書いた古代ローマの戯曲が再評価され、人文主義者の間ではその戯曲を具体的にどう上演するかが大きな関心。ルネサンスの人々にとって、ラテン喜劇こそ市民の教養(フマニスタ)の証しであり、上演の為の劇場は人文主義思想表現の最も有効な場となっている。 ラテン喜劇の上演は祝宴の催しものとしては些か華やかさに欠け、教育的ではあるがフェラーラ、フィレンツェ、マントバでは盛んに行われていた。観客にとって古典文化と接触しうる場は非キリスト教的生活の規範を知る、あるいは古典的会話の文体を学ぶ絶好の機会。その上演は政治的外交装置ではあるが、同時に新しいライフスタイルの為のカルチャーセンターとなっていたのです。

2011年10月15日土曜日

古代社会の音楽と建築/©




(アテネ風の塔)

アテネのロ-マ広場の「風の塔」。エオル通りの終点に建つこの塔はアクロポリスを真後ろ背負う白い大理石の八角形の建物。水時計と風見が組み合わされた、紀元前一世紀の建築。塔の内部の水面の高さで「時」をはかり、屋根のてっぺんのトリトンの右手の杖の位置で「風」の方向を知らせる。

「ロ-マ時代の風見」は聖ピエトロの故事にある鶏ではなく、海神ポセイドンの息子、いつも呑気そうに法螺貝を吹くトリトンだった。ズングリムックリしたその塔の八つの壁の上部には、吹いてくる風の方向に合わせギリシャ神話の風の神々が飾られている。

 

エオル通りに面する北の壁は北風ボレアス、西風はゼピュロス、南風ノトス、東風エウロスそしてさらに、カイキオス、アペロテス、リップス、スキロンの浮き彫り像が描かれていて、東西南北の四面とその中間の四面を加えた合計八面の壁が正確に方位に合わされている。

花の女神フロ-ラの愛人であった西風ゼピュロスが、ニンフのアネモネに恋をする。その恋に嫉妬したフロ-ラはアネモネを風のひと吹きで散りやすい花の姿に変えてしまった話など、ギリシャの風の神々の物語は、恐ろしさ、優しさ、気まぐれさ、にあふれている。

そのような神々に囲まれた「風の塔」は古代の人々の風に対する関心と、当時の都市生活のなかでの風とのきめ細かな関わりを示していてとても興味深い。

「本」や「印刷物」をほとんど手にすることがなかったアテネの人々にとって、風の神々の物語が書かれた「風の塔」は「一冊の書物」、大事な「愛読書」となっていた。


(記憶装置しての音楽と建築)

自然界に充ちあふれる音、その音はどんなに美しくとも反復しない、録音・再生技術がなければ繰り返し聞くことはできないからだ。 しかし、人が謡う詩や歌は記憶され再現可能。無文字社会にあって、詩や歌は人類最初の記憶装置となった。人ひとりの頭脳に入りきらない情報を歌に仕込むことで集団の記憶となる。

古代の人々は石や羊皮紙に「文字」を刻んでいる。 「文字」こそ最初の記憶装置か、しかし、それは権力者やエリートの専有物。「文字」は彼らの権力装置、あるいは呪力装置だった。

ワーグナーのオペラ「ニーベルングの指輪」のヴォータンはルーン文字を彫った槍を持ち、神の力を示している。槍に刻まれた「文字」そのものが、呪力的パワーを発揮しジークフリートを助けるという場面は印象的だ。 しかし、ここでは「文字」は記憶装置ではなくヴォータンの力。

私たちは愛の告白、神への祈願、心に秘めた胸の内を「歌」に託す。「歌」は古来から感情を伝える有効な媒体。 しかし、集団で生きる人間にとって、「歌」は知識や情報を保存し共有する、生きる上に不可欠な記憶装置でもあったのだ。

古代社会において「歌」とともにもうひとつ、権力者やエリートだけでなく、誰もが自由に利用できる記憶装置がある、それは「建築」。ギリシャの神殿、古代ローマ広場の風の塔あるいは中世の教会、「建築」はただ居住や利用に役立つだけが役割ではない、誰もが共有できる情報媒体でもあるのだ。

「建築」には様々な物語が託される。 物語は「建築」が人々に体験され、読み取られることで伝達される。「建築」は世界の形を示し、神々の世界を伝え、目に見えない歴史を語り、夢と現実を想像させる媒体としての役割を果してきた。

風の塔のあるアテネのローマ広場から北西部のアクロポリスを見上げれば、そこには紀元前四世紀のパルテノン神殿が建つ。その建築の東のペディメント、三角形の破風部分の彫刻はゼウスの頭から生まれるアテネの情景。アテネはゼウスの娘、しかし、ゼウスは母親である知恵の女神メティスがゼウス自身より賢い子を生むのではないかとおそれ、妊ったメティスを丸ごと呑み込んでしまう。やがて九ヶ月、ゼウスは頭痛に襲われ、彼の頭からアテネが誕生した。

西に回れば都市アテネの守護神をかけての争い。アテネと彼女の叔父であるポセイドン。神々の世界は何とも喧しい。

南北の柱列を屋根の下で連結するメトープ(三層の柱上帯の中央部分をフリーズといい、その中の矩形部分)には様々な蛮族、野蛮人とギリシャ人の闘いの場面が彫刻されている。

内陣の梁の小壁(フリーズ)には四年ごとに行われるパンアテナイア大祭の行列に参加しているアテネの市民たちの姿。アゴラからアクロポリスの上のパルテノンの東入口に到達するまでの様がまさにリアルタイムの動画を感じさせるがごとく装飾されている。

パルテノン神殿はだれが見ても美しいプロポーションだ。しかし、その全体から「神の家」と呼ぶ以外の特定の情報は見当たらない。

神殿を、生け贄に用いられた、食物を含んだ素材のあれこれの集合体と解釈する J・ハーシー、彼は 「何故に建築家たちは、元々は古代ギリシャの神殿から由来した円柱や神殿の正面を使い、(その意味も解らないのに)建築を建てるのであろうか。古代ギリシャの宗教が、何世紀ものあいだ死に絶えてしまっているというのに。」( 古典建築の失われた意味:鹿島出版会)と書いている。確かに、神殿に施された壁面彫刻からは様々な物語を読み取ってはいるが、構築された建築本体からは具体的なメッセージはなにも受け取っていない。しかし、ヨーロッパでは何世紀にも渡って、そのファサード(建物の外観正面)部分デザインを利用し、建築を作り続けた。

紀元前六世紀のピタゴラスは、ギリシャの美は、調和が源泉、ある特定な数比にあるといっている。さらに、ローマ時代の建築家ヴィトルヴィウスは解説する。「1モデユールは円柱の直径の半分、柱頭を含めた円柱の高さは14モデユール、したがって円柱の高さと直径の関係は7対1、パルテノンの場合は6対1である」(ヴィトルヴィウスの建築書第四書三章:東海大学出版会)

建築においては「数と比例」がいつも問題となり、いかなる数値も最終的には「正数」として表現されている、というのだ。ヴィトルヴィウスは古代建築のデザインを読みとるには欠かせない人。この書では度々登場するが、まず建築は「数と比例」 が鍵となっていることに留意しよう。

(現実の背後の想像的世界)

盲目の吟遊詩人ホメーロスがキターラ(竪琴)を奏でながらトロイヤ戦争の叙事詩を歌ったのは紀元前八世紀。アテネのペリクレスとフェイディアスによってパルテノン神殿が作られる三百年も前のことだ。ギリシャの陶器を飾る壷絵が人物像ではなく、幾何学紋様に終始している頃、ホメーロスは吟唱によって英雄たちの世界を詩った。

 

人々は詩を聴くことで「世界」を知ろうとした。世界は絵や文字が「見る」ことによってではなく、言葉あるいは音を「聴く」ことによって理解されたのだ。それは聴覚から生まれる想像世界。世界は音楽から始まったと言って良い。

古代ギリシャの人々にとって耳で聴く想像世界のほうが、目でみる現実世界よりリアリティを持っていた。何故なら、いつも神々と共にある彼らの生活において、山々や木々や川や水や雲の流れ、天変地異、季節の到来、天体の運行など、すべては神々のなせる技。人々はその技を目で見ることより、想像することで理解した。

ギリシャの人々は何故、想像世界に強いリアリティを感じていたのか、そこには古来からの彼ら特有の考え方がある。天体はいつも規則正しく秩序立っている。生きるべき世界もまた同じ、世界は決して混沌としたものではなく、規則正しいある法則が支配している。

人が五感で知る世界はいつも不完全、捕らえどころなくバラバラ。現実の世界は不完全だが、その表面にではな く、背後にある世界には天体と同じ美しい秩序(ハーモニー)があり、そのハーモニーが完全なる世界を支えている。

人間が生きるべき本来の世界とは、自然や動物と共にある目の前の現実ではなく、その背後にある想像世界と考えていたの。

「プラトン主義に特有でおそらく東洋にその例を見ないのは、この転変常なき非現実の感覚界の背後に、二番目の、恒久不変の真理の世界が存在するという確信である」(シンボリック・イメージ・日本語版への序:平凡社)と書いたのはE・H・ゴンブリッジ。

ヨーロッパの音楽・美術・建築を理解する上で欠かせない言葉だ。古代ギリシャにおいては、人間が五感で把握する世界は不完全だが、イディアが人間が生きるべき本来の世界を支えている。

中世においては、唯一の創造主がいて、世界は神により支えられ、理性で理解できる教義により成り立っている。

目には見えないが、世界は秩序だっているのだ、という観念とその事への信頼は、ヨーロッパの芸術を支える土台と言って良い。その土台は古来からの合理主義。「人間が関わる事柄の全ては理論理性で説明がつく」という強い信念が生きるべき「世界」を支えているのだ。

ゴンブリッジが東洋にその例を見ないということもよく理解できる。私たちは合理主義より経験主義「事柄の理解はすべて経験の結果」と考えている。

従って、「理性によって組み立てられた世界」より「経験的現実の世界」が生きるべく総てであって、 感覚界の背後の世界には関心が無い。 仮に「もうひとつの世界」はと問えば、それは夢か彼岸、死後の世界となってしまうのだ。

ゴンブリッジは同じ日本語版への序で次のようなことも付け加えている。「プラトンの学園、つまりアカデミアの入口の上には、幾何学に通ぜざる者ここを潜ることなかれ、という銘文が記されてあったという。それは何故か。奇妙に響くかもしれないが、幾何学上の真理は我々の転変常なき感覚界には適用されないのである」。

幾何学という数と形の学問は「建築」を支える基盤。しかし、その基盤もまた現実ではなく、現実を理性的に認識するための根拠にすぎないと言っている。つまり、確かなことは理性的認識だけなのだ。

人間が描く三角形はいかなる三角形も真実ではないし、また真実である必要もない。現実の紙の上に書かれた直線は、真なる直線であることは決してない。真なる直線とは理性的なあるいは観念的な認識の世界に存在するもの。

プラトン主義は感覚で知る現実の背後に、本来の世界が存在すると考え、真の理性的客観的知識とは、その世界にあるものと考えている。現実的感覚界にあるのは主観的意見に過ぎない、従って、誰もが共有する「合理」は現実の背後の想像世界のみの存在となる。


(天体の音楽と天上の館)

ヨーロッパの人々が信頼する「合理」支える想像世界とは「音楽と建築」が生み出す世界だ。どちらも共に主観的感覚的な存在というより理性的認識媒体。

古代ギリシャから近代の始まりまで、天体は音楽という楽しい観念も持っていた。天体は唯一、感覚的にも 毎日「秩序だって」運行する。それは「合理」の象徴。一方、音楽は感覚的にも美しい。「美しい」ということは「秩序だっている」「調和がとれている」ということを意味する。

つまり、秩序だつ音楽は天体と同じ、目にする天体の運行は音楽と考えたのだ。ハーモニーを持つ天体と音楽は「数」という客観的体系により秩序正しく論理化されている。

さらにまた、「地」はカオスだが、音楽が響く「天」はコスモス(ギリシャ語のkosmosの意味は秩序でもある)。天(宇宙)に響く音楽を地上に引き戻すことでカオスである地上もまた秩序化できる。 音楽が響く天上に建つ館を地上に引き写すことで、地上が秩序づけられる。それが想像世界に建つ「建築」のメッセージ。「建築」を音楽同様、ハーモニーを持つ 「数」という客観的体系で生み出すことにより地上が秩序づけられると考えた。

これがギリシャ神殿が意味する建築世界。ギリシャ人の合理を支えるもの、現実の背後にある確かなもの、それは秩序(ハーモニー)を認識させるコスモス(天=宇宙)であり、天に響く音楽と天上の館がその象徴。そんな宇宙の誕生をヘシオドスは紀元前七世紀の「神統記」の中で宇宙はムネモシュネ(記憶)の娘である九人の「ムーサ=ミューズ」の音楽に満ちたものと見なしている。

「麗しい歌声が疲れも知らず

ムーサたちの口から流れ

彼女たちの百合にも似た歌声が

広がりゆくとき

雷 轟かす父神ゼウスの館は笑いにさんざめき

雪を戴くオリンポスの高嶺と不死の神々の館は木霊を返す」(神統記・廣川洋一訳:岩波文庫)

あるいはまた、ヘンデルの「聖セシリアの日のための頌歌(Ode on St. Cecilia's Day)」は十七世紀の詩人ジョン・ドライデンが不協和な「自然」に響く天上の和音を謡った詩に作曲した。

「和音から、天上の和音から、

この大いなる宇宙は造られた。

「自然」が不協和な原子の山に

埋もれて、顔を

起こすこともできなかったとき

妙なる声が中天より響きわたった、

断て汝、死に果ててはおらぬものよ!

たちまち冷と熱と湿と乾の四気は

それぞれの部署に正しく立ち帰り、

「音楽」の力に服したのだ。

和音から、天上の和音から、

この大いなる宇宙は造られた。

和音から和音へと

すべての音階をめぐって、

その全音域の極まるところ、それが「人間」なのだ。」(ジョン・ドライデン「聖セシリアの日のための歌」:世界文学全集第六十六巻・筑摩書房)さらに、図版はジョージ・フレデリック・ワッツの「希望」。消えてしまった天体の音楽を賢明に蘇らせようとする少女(ミューズ)の姿が、コスモスという想像世界が解体した十八世紀に描かれた。


 (fig4)


(ピタゴラス音階)

世界の美しい秩序の根本にあるのは「数」、和音はそこから得られるものとし、天体は音階(調和)であり「数」であると考えたのはピタゴラス。ギリシャ人にとって科学は実利的なものではなく、審美的あるいは形而上学的営みだ。

ギリシャ科学では宇宙の生成は美しく秩序だったもの、ヘシオドスの宇宙の誕生は詩であるとともに科学でもあった。

その根本となる「数と比例」、紀元前六世紀ピタゴラスは協和音程と数の比例との間に密接な関係があることを発見し合理化した。ピタゴラスは鍛冶屋のハンマーが奏でる様々な音の良く響き合う瞬間があることに気付き、世界の美しい秩序の元にあるものは「数」であり、和音はそこから得られると確信したのだ。

音程とは二つの音の高さの隔たりを言う。一度はユニゾンつまり隔たりがない。ドレミファ・・・ではドとレの隔たりは二度、四度はドとミ、五度はドとファの隔たりを言う。伝説ではピタゴラスはキターラの開放弦を使って、ということになっているが、二点間に単弦を張り、開放弦の音と単弦の中央を押さえた時の音、つまり弦の長さの比が2対1の時、2つの音は互いに良く響きあうことを確かめた。

次に弦の長さを2対3、3対4に分割し弦を弾き、同じく開放弦と良く響き合うことを確認する。弦の長さを2対3に分割して弾くと開放弦とは五度の隔たり音、3対4の分割では四度の隔たり音、どちらもお互い良く響きあう。このことから1対2はオクターブ、2対3は完全五度、3対4は完全四度の音程を持ち、協和音程は「数の比例」と密接な関係にあることを発見している。


(アリストテレスとプラトン)

その後アリストテレスはピタゴラスの考えを強調し「数」をすべての存在の構成要素であるとした。天体は数であり音楽であると紀元前四世紀、彼の「形而上学」で定義づけている。一方、アリストテレスより早くプラトンは「国家」の中で算術と幾何、つまり数と形に関する学問こそ、現実を理性的に認識するための根拠なのだと言っている。

彼らの仕事はヨーロッパにおける合理主義、視覚や経験では捉えられない現実を、理性(ロゴス)と思考によって捉えるものとしたことにあり、その原理は「数」の「美しき秩序=ハーモニー」そして「天体の音楽」にあったと考えられている。

さらに古代ギリシャおいて音楽は現実の響きではなく、世界全体が照らし出される場となるもの、それは官能をくすぐるものではなく、理念に導かれる人工的世界とみなしている。笑いにさんざめく父神ゼウスの館、雷 轟かす雪を戴くオリンポスの高嶺と不死の神々の館、神々が住まう天上の館もまた「数と比例」による人工的世界なのだ。

構成された建築や音楽の中に数比関係が見いだされたからといって、それが感覚的な美しさを証拠だてる根拠はどこにもないが、感覚ではなく合理への信頼、理性的認識としての「音楽と建築」は全く同相にある。ともに「数」から生まれた兄弟。天(コスモス)に鳴り響く天体の音楽と天上の館はギリシャ神殿が石造建築として誕生するまぎわの時代、すでに確固たるイメージを持って地中海世界に広まっていた。



(クレタのクノッソス宮殿)

ミノス時代のクレタが西洋建築の歴史的起源と目されている。ギリシャ本土のミケーネがホメーロスに謡われる遥か昔、紀元前十六世紀にはすでに大宮殿が建設された。クレタ島はギリシャからはエーゲ海を南に越え、アフリカに最も近い島。その位置と形状は東西に細長く、ギリシャと小アジアあるいはアフリカを結ぶ位置にあり、古代から文化と謎につつまれている。

紀元前六千年にはすでに、穀物栽培と土器焼成の技術が当時の先進地小アジアからこの島にもたらされた。紀元前三千年には青銅器文化が導入され、ギリシャ本土よりもいち早く、野生オリーブの栽培果樹化が進み、島全体は農業の生産性は急激に高まっている。この生産性の向上がもたらした経済発展が政治的・社会的変化を生み出し、ギリシャ本土の低迷を尻目にクレタではクノッソスを始めいくつかの壮大な宮殿が造営された。

 (fig5)

しかし、その後のクレタの宮殿は紀元前千四百年を頂点として徐々倒壊してゆく。クレタ島に花咲いたミノス文化の終焉はサントリーニ島の火山噴火を含め度々の大噴火と地震が原因、あるいはギリシャ本土に台頭したミケーネ文化との悲劇的な関わりの結果なのか。クレタの倒壊から三千年余り後の二十世紀始め、アーサー・エヴァンス卿の発掘によりその全貌は徐々に解明されてゆく。

クレタ島の中央部北側の大都市イラクリオンはいつの時代もこの島の中心。この都市から南へ5kmあまり、カイラトス川に近い丘の斜面を利用してクノッソスの宮殿は建設された。後に迷宮(ラビリュントス)と呼ばれるこの宮殿は、その後のギリシャの建築とは異なり、複雑な構成と、形や大きさが不揃いの何百という部屋を持ち、あるいは上に太く下に細い柱や縦横に張り巡らされた通路と階段によって構成されている。しかも幾つかの部屋の壁面は色彩豊かに描かれた草花や海豚や魚、沢山の牛に人間たちが描かれていて、その全体は多くの人々の様々なの想像を掻きたてずにはおかないふしぎな世界となっている。

クノッソスは当時のクレタ全体を支配したミノス王の宮殿。その遺跡全体は150m、南北に長い50m×30m程の中庭を囲んだ三層から四層の複合建築。代々のミノス王とその重臣たちはここを拠点とし、政治を動かし経済活動を行った。宮殿内には大量物資の為の倉庫と数々の美術品のための工房がある。中庭では凄惨な宗教行事まで行われ、その全体は宮殿と呼ぶより政治・宗教・経済が一体となった都市のような様相を示している。


(ミノタウロス神話)

クノッソスの前王アステオーンは子供が無いまま世を去った。人望の無い弟ミノスは王位を継承しようとするが民衆に反対される。ミノスは王国は神々から授かったものと民衆に伝え、その証拠はミノス自らが望めば神はいかなる願いも叶えてくれると豪語する。

ミノスは海神ポセイドンから牡牛を贈られることを祈り叶えられる。その牡牛をポセイドンに捧げると約束し王国を得るが、ミノスは見事な牡牛を惜しみポセイドンには別の牡牛を捧げ、怒りを買ってしまう。ポセイドンは牡牛を凶暴にし、王妃パーシパエーが牡牛に欲情を抱くようにさせてしまった。

ダイダロスはアテネのもっとも優れた工匠、斧や錘、水準器などの発明者。しかし、彼は鋸を発明した弟子ターロスを嫉妬し、崖から突き落としてしまう。有罪となったダイダロスはアテネを追放され、クレタ島にやってくる。

王妃パーシパエーはダイダロスに木製の牡牛をつくらせ、彼女はその中に入りミノスの牡牛と情交を交わす。やがて王妃パーシパエーは身ごもり生まれたのが半人半獣のミノタウロス。

ミノス王はダイダロスに迷宮(ラビリントス)をつくらせ、その奥深くにミノタウロスを閉じ込める。怪物ミノタウロスの食欲を満たしたのは、クレタの占領地アテネから生け贄として送られてくる美しい少年少女たち。

生け贄を救うべく志願したのがアテネ王エーゲウスの息子テーセウス。黒い帆を掲げた船でクレタ島に上陸したテーセウスはたちまちミノス王の娘アリアドネに恋をする。彼は成功したら妻とすると約束したアリアドネの糸玉に助けられ、この迷宮に忍び込み、みごとミノタウロスを討ち果たしクレタ島を脱出した。

迷宮の秘密をもらしたダイダロスはミノス王の怒りを買い、今度はダイダロス自身がイカロスと共にここに閉じ込められてしまう。イカロスはミノス王の女奴隷ナウクラテとダイダロスの間に生まれた息子。ダイダロスは鳥の羽を蝋で張り付けた翼を作っておき、ふたりは無事ミノスの怒りから逃げ出すことに成功する。


 (fig6)

しかし、イカロスは太陽に近付き過ぎたため蝋が溶けだし、イカリア島の近くに墜落する。ダイダロスはシチリア王コーカロスの元に逃げおおせる。ミノス王はシチリアに行き、コーカロスにダイダロスの引き渡しを求める。

しかし、シチリア王は彼の娘たちにミノス王を殺させた。死して冥界に降りたミノス王は冥界を治めるハーデス神のもとの死者を裁く裁判官となり、黄泉の世界の支配者の一人となる。

一方、アリアドネとクレタ島を逃げ出したテーセウスはアテネへの帰還途中ナクソス島に立ち寄る。あろうことかテーセウスは眠っているアリアドネをこの島に置き去りにし、ひとりアテネに帰ってしまった。

アテネの王エーゲウスはテーセウスが戻る時、無事であれば白い帆を張るよう命じていたが、アリアドネを置き去りしたことを悔やみ悲しんでいるのか、テーセウスは父の命令を忘れたまま入港する。船が黒い帆を張っているのを見たエーゲウスは、我が子の死を嘆き海中に身を投じてしまう。

クレタ島のミノス王の神話は尽きないが、オペラの話にも触れてみたい。フィレンツェの最初のオペラがダフネやオルフェオの物語であったように、多くのギリシャ神話がオペラの題材となっている。


(オペラとギリシャ神話)

オペラはフィレンツェのカメラータたちのギリシャ悲劇の再演に始まっている。それが理由と言うわけではないが、その後、モンテヴェルディをはじめとしてリュリにヘンデル、パーセル、グルック、ハイドン、モーツァルトやシュトラウス等々、多くの音楽家がギリシャ神話を題材にたくさんのオペラを書いた。楠見千鶴子さんの「オペラとギリシャ神話」(音楽之友社) 巻末にその全作品がリストアップされているがとても数え切れない。

オペラの作曲には音楽とともに動くドラマが求められる。オペラのためには単純な物語であること、感情の起伏に富み、心の浄化に役立つこと。そして最も重要な事は「ある特定な人物」の喜びや悲しみではなく、あなたでもあり、わたしでもある、特定されない、どこにでもいる総ての人間のドラマがテーマとなっている。誰でもなく、誰でもある、世界中どこにでもいる普遍的人間のもつ運命とその悲しみ、それを豊かな感情を持ち表現するのがオペラだ。

このミノタウロス神話からも幾つかのオペラが生まれている。ナクソス島に置いてきぼりされたアリアドネの嘆きはモンテヴェルディとハイドン、そしてR.シュトラウスが作曲している。

モーツァルトの「クレタ島のイドメネオ」は神話を直接オペラ化したものではないが、彼の初期オペラの名作。それは運命としてのポセイドン神との約束、親子にしろ男女にしろ愛ある人間であるならだれもが持つ悲劇をモーツァルトは十八世紀特有の寛恕のオペラとして完成させた。


(迷宮が意味するもの、それは都市と建築)

様々な神話を持つ古代ギリシャ。しかし、建物が中心となる物語はこのミノスの宮殿の他にはない。この神話とそれを育んだクノッソス宮殿、その間には現代の私たちの想像を刺激するどんな事柄が潜んでいるのか。

そもそも何故、クノッソス宮殿が迷宮(ラビリントス)なのか。実際に、この宮殿を見学してみる、あるいは図面からの想像でも良い、歩いてみると決して迷宮ではない。中庭に立てば、ほぼ全貌が掴める。複雑で分かり易いとは言えないが、現代建築に比べても迷宮とはほど遠い。しかし、都市か宮殿か墳墓か、三千年も経過したこの大きな複雑な構造物はその至る所に、様々な物語を秘めていることだけは間違いない。


 (fig7)

ギリシャ先住民の言葉ではラブリュスは双斧を意味する。クノッソスの宮殿には双刃の斧を祭った部屋があり、その部屋をラブリュントスと呼んでいる。双斧は王章でもあり、このことから、この大宮殿全体を迷宮(ラビリントス)と呼ぶようになった。

さらに双斧すなわちラブリュスが権力の象徴以前に、石工の持つ平鎚をも意味するものであるならば、それは石を削り組み合わせ、石造の建築物を生み出すものとなる。つまり双斧で象徴されたラビリントスとは長い年月をかけ人間がもくもくと作り上げた人工的世界そのものを意味している。

そしてもうひとつ、直接神話に結びつく、もっと重要な事柄も想像される。この宮殿はシュリーマンの発掘したギリシャ本土のミケーネの宮殿とは似ていないわけでもない。しかし、クノソッスの豪奢で美しい造りと巨大さを体験すればミケーネは地方植民地の一前進基地に過ぎない。その前進基地がアガメムノンやイピゲニア、トロイ戦争の英雄たちの神話の故郷であるならば、このクレタにダイダロスの建築神話が生まれるのは当然だろう。

神話が示すアテネのテーセウスやダイダロスとクレタのミノス王との確執はエーゲ海の覇権をめぐるアテネとクレタの争いと読み取れる。この神話が後世に覇権を握ったアテネ側に生まれたものであることを考えあわせると、この迷宮神話はギリシャ人が抱いたミケーネ以前の建築あるいは都市の文化への憧れを意味している。

大規模の建築ならすでにエジプトやメソポタミヤでは存在していた。2ヘクタール余りのこの建物を迷宮として神話化させたもの、それはまぎれもなくこの宮殿は、ギリシャの人々にとって、野蛮世界とは隔絶した古代における大都市としてイメージされていたのだ。

ミノア文化を支えたのはクノッソスばかりではない、クレタ島にはいくつかの都市が存在していた。ホメーロスはイーリアスでクレタのことを「民が群がい集う諸都市」と歌っているが、クレタはギリシャ人にとって想像を絶する怪物的な文化を持つ都市であり、その人間的集合もカオス的なものではなく、迷宮的なものとして理解していたと考えられる。


(ダイダロスとデミウルゴス)

ミノスの迷宮が都市であり、その神話が古代における都市のイメージを直接的に表わしているとするならば、ここで立ち戻らなければならないのは「ミノタウロス」は何を意味するのか。

都市には魔物が棲むという想像は現代社会でも通用する事柄だが、ミノタウロスはもっと深読みする必要がある。建築家ダイダロスによって作られた迷宮の奥処に幽閉された半人半獣のミノタウロス、彼は建築によって調伏されるべく不定形なもの、無秩序なもの、カオス(混沌)としてイメージされるのだ。


 (fig8)

この神話は建築の有様を示す原神話であり、ダイダロスは半人半獣のミノタウロスという両義的なカオス(混沌)を幽閉する迷宮を「数と幾何学」によって作った。「建築」はカオスを綴じ込めることがその役割、その観念はプラトンのティマイオスが支えてくれる。

不可視な世界にあるイディアと私たちの目に見える世界のモノとの媒介者の役割を担ったのがデミウルゴス。彼は決して無やみやたらにモノを生成するのではなく、「宇宙は混沌を秩序づけることによって生成される」という原理に基づいて、不可視のイディアをモデルとし、様々なモノを生み出している。

つまり、プラトンのデミウルゴスと神話のダイダロスは同相にある。そして、クノッソスの迷宮はダイダロスとデミウルゴスの建築意志の原神話、「数と幾何学」という秩序によって不定形なカオスを調伏する人、それが建築家であることが説明される。



(オルフェオと音楽神話=音楽的調和は社会的調和を生み出す)

カオスを調伏するミノスの迷宮が建築の原神話であるならば、野卑な獣たちをおとなしくさせ、無生物である雲や小川をも音楽に巻き込む竪琴名手オルフェオは、音楽の創生神話だ。音楽的調和は社会的調和を導く、音楽と建築は共に「数と幾何学の子供」、つまり動物的人間が住むカオスのような自然世界を「数と幾何学」によって秩序だったコスモスとしての人間的世界に転換する、これが古代ギリシャがイメージした音楽と建築の役割だ。

高山と峡谷により隔絶されたニンフと牧人が住まうのどかな理想郷。オルフェオはテッサリアの谷間、アルカディアに住んでいる。彼はアポロンと九人のミューズ(知的活動を司る女神)の中の一人、カリオペとの間に生まれた音楽の神。オルフェオは毎日、金の竪琴を弾く。その音と彼の歌によって鳥や獣だけでなく、木々も頭をたれ耳をすました。空に漂う雲も、小川のせせらぎも、彼の歌に合わせ流れたという。

オルフェオには最愛の妻エウリディーチェがいる。ある日、彼女は川岸を散歩して、あやまって草の中の毒蛇を踏みつけてしまった。毒蛇は怒り、エウリディーチェに噛みつく。やがて、彼女はオルフェオとの別れをおしみつつ、草の上に顔をうずめ息たえた。エウリディーチェを失ったオルフェオは、悲しみのあまり竪琴も手にせず歌うことも止めてしまう。いつもの川岸に座り、ただただ涙を流すばかりの毎日。

ある日、彼はエウリディーチェを取り戻そうと心に決める。エウリディーチェを探しに出かけたオルフェオは、やがて大きな黒い門の前に出た。そこには頭が三つの化け物のような大きな犬が番をしている。闇の中の六つの火のような眼と歯をむき出しにして。すさまじい声で吠える化け物の前に立ち、オルフェオは金の竪琴を肩から降ろし、静かに弾きはじめる。すると犬はだんだんとおとなしくなり、足下で眠り始める。もう一度オルフェオが歌を歌うと、門はひとりでに開きはじめた。

死の国に着いたオルフェオは宮殿の門に立つ。そこにはいかめしい番兵、しかし、彼もまた竪琴の音を聴くとおとなしくオルフェオを見送った。広間にはハデス王、生きたままこの国にやって来たオルフェオを烈火のごとく怒鳴りつけるが、オルフェオはだまって竪琴を取り、えもいえぬ音を響かせ静かな美しい歌を聞かせた。

王の怒りはおさまり「美しい音楽を聞き、こんなにいい気持ちになったのは生まれて初めてじゃ。死してもいないのに、こんな寂しく、悲しい国にやって来たのだから、そなたにはなにか願いがあるのであろう。どんな願いか申しなさい、ひとつだけは叶えよう。」オルフェオはエウリディーチェを地上に戻してくれるようにお願いした。

死したエウリディーチェを再びこの世に返す願いに、さすがに王は渋る。しかし、あんな美しい音楽を奏でるものの願い聞き届けてやろうと、エウリディーチェを黄泉の国から地上に戻すことを許した。ただし、二人が地上に戻るまで、どんなことがあっても、後からついてくるエウリディーチェを振り返ってはならぬぞと、オルフェオに王は約束させた。

何度もエウリデーチェを見たいと思ったオルフェオだが、必死に我慢して道を進む。しかし、地上に戻る寸前、ついに辛抱しきれずエウリディーチェをわずかひと目と振り向いてしまう。 そこにはなつかしい妻の声が聞こえただけで、すべては霧の中に消えて行く。


 (fig9)

以上が、山村静さんのギリシャ神話(教養文庫)から要約させていただいたオルフェオとエウリディーチェの物語。フィレンツェのピッティ宮殿でのオペラの誕生となる「エウリディーチェ」を始めとしてモンテヴェルディの「オルフェオ」、十八世紀にはグッルクの「エウリディーチェとオルフェオ」と、この物語はオペラ史の底流、ターニングポイントにもなりたびたび登場する。

さらに、そのテーマを愛と救済の物語と敷衍させれば、モーツアルトの「魔笛」、ベートゥヴェンの「フィデリオ」もまた同じ、詩と音楽による劇という世界では、このテーマは決して消えることなく、現代に引き継がれている。「オルフェオ」はなぜオペラの底流なのか、なぜ音楽家を引きつけるのか。そこには音楽神オルフェオが社会的調和を生み出すばかりでなく、音楽家の持つ知的関心、つまり音楽家自身が発する「言葉の世界」が深く秘められている。


(オルフェオ・音楽の持つ力)

音楽家の持つ知的関心とは「時代」を生きる音楽家自身の姿のことだ。オルフェオのテーマは失われたアルカディアの牧歌的幸せを「音楽の力」によって再生しようとするもの。この場合の音楽とはアポロンでありオルフェオという神のことを言う。

ルネサンス期、フィレンツェのオルフェオは中世キリスト教世界に変わる新しい時代をイメージさせる象徴。それは従来の聖職者ではなく人文主義者(ユマニスト)としてのオルフェオを意味し、時代を再生する神。十六世紀末のマントヴァのオルフェオは聖職者でも人文主義者でもない。同時代に誕生しつつあった画家や建築家、「作家」としての音楽家の姿を表している。モンテヴェルディは「音楽の力」を発見し、音楽家としての自信と気概を、オルフェオに置き換え示しているのだ。

グルックのオルフェオはオペラを改革せざるを得ないグルック自身の姿。十八世紀のオルフェオは理知的で啓蒙的な愛ある人間そのもの。グルックは神話から逸脱し、人間オルフェオの愛の賛歌としてオペラを作曲した。



2011年10月10日月曜日

ルネサンスの祝祭

ルネサンスの祝祭もまた音楽と建築に支えられている。祝祭を必要としたのは君主。君主の正当性を人々に知らしめるため、そのイメージの強調が絶えず求められるのは中世と変わらない。 しかし、この時代、君主の正当性と権威の強調に役立つモノ、それは最早、宗教的権威のみが総てではない。絶対化された宗教とは距離を保ち、いかにその権威を強調するかがルネサンスの祝祭の特徴。 前時代、教会の中で一体化していた音楽と建築は教会から離れ「作品」として分離し、宮廷や邸宅、庭園や都市という世俗の空間の隅々へと広がって行く。この時代の音楽と建築は神による典礼の時代を人間中心の祝祭の時代へと変容して行った。 周辺列強の侵出によりイタリア半島は共和制から君主制へ移行していかざるを得なくなる。市民・商人の間から抜きん出て登場したメディチ家のような新興君主は、その存続と正当性の維持のため、従来とは異なる手法を必要とする。 宗教的権威と距離をおいての君主制の強調、それは古代社会の寓意(アレゴリー)を利用し、神話的な劇的情景の創出することだった。新興君主は古代の神々に直接連なる家系であり、その威光と正当性を保持していることを示そうとする。祝祭を象徴的な寓意(アレゴリー)による視覚像の集合とし、そのイメージによって君主の権威を意識づける。それが手法であり、祝祭の役割。 祝祭を支えるの古代、中世と同じように音楽だが、その視覚的世界を演出する建築家は音楽家以上に重要な役割を果たすようになる。宗教的または職能的ギルドによる制作の規模も大きくなった演劇やページェント、その実際的な担い手が専業化しつつある中、ルネサンスにおける祝祭全体をプロデュースし、仕切っていくのは今や建築家の役割となっていたのだ。 彼らは当然、美術ばかりでなく、音楽も一体化させ、イメージの強調のための劇的情景を都市の隅々に生み出していく。ルネサンスの祝祭は視覚中心の一大ページェント。さらにまた、君主たるもの、その地位を確保し、存続するためには宮廷における祝宴が不可決。 アレゴリーによる劇的情景の創出は都市における祝祭以上に、広間における祝宴が有利だった。神話的情景は都市広場より宮廷の広間のほうが、より凝縮され繰り返され有効であったと同時に、そのテーマそのものも、街中の一般市民より宮廷内の貴族あるいは文化的エリートのほうが理解しやすかったのだ。 スペイン、フランス、神聖ローマ帝国という三大勢力の覇権争いに翻弄されるイタリア諸都市の君主たち、彼らは生き残りの道を画策し、政略的結婚の祝宴や外交上の祝祭を盛んに催す必要があった。都市の広場での祝祭は君主館の広間や中庭にまで持ち込まれ、そこには仮設舞台も設置される。 十七世紀に入ると、仮設舞台は常設化され、劇場は君主たちの権勢を誇示する為の不可欠の場となる。そして豪奢を極めた宮廷劇場が建てられた。 古代社会のあるいは神話的世界のアレゴリーで満たされる劇場空間は透視画法により生み出されたアルカディア、君主や貴族たちもニンフやパンと共に踊り舞う空間なのだ。祝宴を開き、政略的結婚をことほぎ、外交交渉を重ねる宮廷劇場は娯楽の場ではあるが、そこはまたイタリア半島に分立した諸都市にとっては生き残りを賭た重要な政治的装置となっていたのです。

2011年10月5日水曜日

ゴシック建築と多声音楽




( パリ・ノートルダム大聖堂)

パリ・ノートルダム大聖堂は司教のモーリス・ド・シェリーが1163年に旧来の諸堂を廃し着工、二十年後に内陣が完成、やがて次の司教ユード・ド・シェリーに引継がれる。十三世紀に入りようやっと西正面、そして薔薇窓が徐々に完成して行くという長期の建設。 この大聖堂は人々にどのような意味やメッセージを発信し続けていたのか。それは人生における誕生から臨終まで、この建築は「人はいかに生きるか、いかに神とともにあるか」を伝えるもの。

建築に施されたメッセージはアレゴリー(寓意)化されている。具体的な言葉でなくシンボル(象徴)となる装飾を読みとり、解釈する事によって、人々は集団として生きる現実世界と個々人の持つ内面的・想像世界とを行ったり来たりして読み取る。

現実と観念という二つの世界にある絵画や彫像そして建築、この大聖堂の持つ壮大な視覚的デザインはゴシックと呼ばれる。語源はイタリア語のゴティコ、古典古代とは異なる野蛮な様式という意味を含めイタリアの知識人が呼んだことに始まる十二世紀フランスの宗教デザインの様式だ。アルプスの北、同時代の精神世界のすべてを表現している様式だ。

音楽と建築はメディア、しかし、大聖堂の個々の装飾的象徴が描くメッセージの解釈は他書に譲り、(十九世紀末ユイスマンスは「大伽藍」を著し、シャルトル大聖堂のメッセージを小説化している)ここでは大聖堂の建設の時代の「音楽と建築」の意味に触れてみたい。

(都市の時代に対応した神の姿)

天にも届くゴシック建築と華やかな綾織りのような音楽を生み出す世界。光に満たされた大聖堂とその誕生に呼応し立ち上げって来る複雑な音の絡まり、多声音楽の世界は何を意味していたか。外から差し込むステンドグラスの光によって華麗に装われた建築は、その空間に見合う多彩な音楽空間を必要とした。あるいは複雑華麗な音楽は多彩な色光が輝く巨大な建築空間を必要とした。次第に雄大な姿を現してくる大聖堂の工事と並行するように、様々なロマネスクの修道院の中で展開されてきたオルガヌムは、二声楽曲から三声、四声楽曲へと広がってゆき、 やがて壮大な多声音楽となり、この新しい大空間いっぱいに鳴り響いていく。

新しい世界の始まりはまずは建築だった。それはパリの大聖堂の建設とノートルダム楽派の多声音楽が始まる二十六年前のサン・ドニ大聖堂の建設にある。十二世紀初頭、二人の聖職者の論争がこの時代の音楽と建築に託された意味に触れている。

パリ近郊サン・ドニの修道院長シェジェールは荒れ放題の修道院の再建に当たって「より高価な、最も高価なものは皆、まず第一にミサ正餐に用いられなければならない」と語っている。ここでいう最も高価なもの、それはガラスのこと、彼は高価なステンドグラスを多用することで、光に満ちた聖堂を作ろうとした。その為には出来るだけ壁体を取り除き、透き通った建築物にすることによって神の国という観念の世界を地上に実在化しようと計ったのだ。

サン・ドニの再建の中世、西ヨーロッパは農業技術の革新による人口増加、その結果としての都市の成立を迎えている。人間と人間、人間と自然、人間と世界の関係は大きく揺れ動いていた。

働く人、戦う人、祈る人と身分(農民・貴族・僧侶)も住処も明解に分離していた社会は変わる。人々は集中して住まい、モノや人が集まる都市が作られ、商人や手工業者という新しい身分をも生み出た。水陸の区別を問わない交通網の整備、貨幣整備によるモノの流通の活発化は人々のライフスタイルを全く新しい世界に誘導しつつあったのだ。 そのような時代にもっとも必要とされたもの、それは個々人の富ということより、集団による華やかな正餐、その正餐を讃える豊かな音と光だ。

 (fig15)

ステンドグラスも新時代の技術と嗜好の産物だが、この変化の時代、シュジェールを含め聖職者たちはより直接的、危急なテーマを抱えていた。それは都市の時代に対応した神の姿、新時代のライフスタイルの精神的基盤となる天上界のイメージをこの地上にどのように実在化させるかにあった。 

(ベルナールとシェジュール)

新しい時代における建築への論争はへまずシトー修道会から始まった。 それはクリュニー修道院に対する痛烈な告発。修道院制度の改革を推進していたシトー会のベルナールは壮大華美に転じたクリュニー修道院総本山を「途方もない高さ、節度を知らない長大さ、あり余る横幅、贅沢な装飾、そして奇妙な彫像、そういったものは、礼拝者の視線を釘付けにし、かつ、かれらの信仰を阻害する・・・」。 ベルナールは時代とともに歩み寄ってきた修道院の世俗化に対し、清貧の理想、初源的で純粋な倫理の追求を広言する。

これに反論するのが前述のシェジュールの言葉。彼は次のようにつづける、これからのサン・ドニを再建するにあたっての新たな建築の正当化言説と言えるものだ。

「誹謗者たちは、聖徒のような精神、汚れのない心、信仰深い意志があれば、ミサ正餐には十分であるはずであると反駁する。わたし自身もそういったものが最も重要であるとはっきり確信できる。しかし私たちは、それらに加えて、外面の装飾を通しても、また言いかえれば、あらゆる内面の清浄さと同時に、あらゆる外面の壮麗さをもって、神に敬意を払わなければならない」。 

(ゴシック建築のメッセージ)

質素と豪奢、ベルナールとシュジェールの主張は相反してはいるようだ。しかし、よく考えれば二人はともに新しい時代への共通のメッセージを主張している。「 教会は超世俗的な空間でなければならない」。

超世俗的であることの実現は個々人の持つ豪華絢爛を遙かに越え、集団としての人間が神の国の実在に立ち会うことだ。ゴシックの世界はその後の歴史には二度と現れることのない集団による「超越的世界」を希求していた。

十ニ世紀初頭は西ヨーロッパの都市の時代の幕開け。古くから都市国家であったイタリア半島とは異なり、アルプスの北は初めて「都市」を実現する。多くのモノと情報に囲まれ、世俗的富を謳歌することがはじめて可能となった時代。そんな時代の到来であったからこそ、神はより高く、より超越的であることが求められた。さらに神は絶対者としての峻厳であることより、愛に満ちた<美しき神>であること。絶対者キリストから聖母マリア(ノートルダム)への信仰へと向かっていたのだ。 

  (fig16)

世俗を超越する、より高き天上界のイメージ、峻厳厳格なキリストから慈愛に満ちた聖母マリアへの信仰。 このことが新しい時代を迎えたシェルジュールたち聖職者たちが実在化しようとしたメッセージ。 その為に重い壁体をリブヴォールトやフライングバットレスという透明感のある構造体に変え、ステンドグラスから差し込む光りにより、新しい神の国の創出をめざしたのだ。





 




   




2011年10月4日火曜日

インド夜想曲 アントニオ・タブッキ

インド夜想曲 アントニオ・タブッキ
休日の図書館、開架書架の本の背表紙をぶらぶら眺めていて見つけた「インド夜想曲」アントニオ・タブッキ。
須賀さんの訳だというので、手に取り立ったまま読み始める。
アンソロジーのような構成、短時間で立ち読みできそうと思ったが、いやぁ、まったく違った、中身が濃い。
カウンターで借りだし、自宅に持ち帰った。
気楽な旅行記ではない、映画にでもすれば一級のロードムービー。
「僕」は飛行機でボンベイに降り立ち、凶暴なタクシーに乗ったイタリア人。
蒸発したポルトガル人の友を探しにボンベイ、マドラス、ゴアを旅する物語。
なぜ、ボンベイからか、この街のスラムに住む売春婦から友人が病気、という手紙を貰ったから。
貧民窟の売春宿で女が語る恋物語を聞き、明くる日はおぞましい夜の病院を訪ね、やけに理屈っぽい医者とゴキブリで真っ黒な廊下を歩き、100人も入る飛行機の格納庫のような病室で友人を探す。
細々書き出したら切りがない、どの行も真実味と実在感の強い環境と人物描写、しかし、物語はなぜか宙に浮いていてとらえどころがない。
気がついてみると残り数ページ。
「僕」は旧ノヴァ・ゴアの海沿いの最高級ホテルのテラスで「わたしはクリスティーヌ」と言う初対面の女性とロブスターを食べながらのスポーティなおしゃべり。
「僕は一冊の本を書いている、中身はというと、本のなかで僕はインドで失踪した人間なんだ」。
「こう言えるかも知れない。もうひとりの人間が僕を探している。だけど、僕は絶対に見つかりたくない。その男がインドに到着したときから、僕はそのことをよく知っていて、毎日そいつを追跡した、・・・・」。
ドラマの進行はすべて経験と実感、場所も時間も空気の臭いもリアリズムそのもの、しかし、その中身は実態が掴めない。
物語を外から眺め、内から壊す、あるいは裏返しなんだろうか。
写真家のクリスティーヌとの別れ、「僕」の言葉。
「ほんとうです。あなたの写真に似たようなことかも知れない。引き伸ばすと、コンテクストが本物でなくなる。なにごとも距離をおいて見なくてはいけない。アンソロジーにはご用心。」
いやぁ、うますぎ、これがイタリア。
コンテクストはすべて、切れば生々しい血が吹き出すような生肉体感覚、その経験と行動には偽りはない、すべてが実在感あるリアリティに支えられている。
しかし、表現されているものは反転に次ぐ反転、宙ぶらりん、逆さま、虚構のみの想像的世界しか見えない。
15世紀の透視画法はとっくに解体されているが、イタリア人タブッキはだまし絵の技法を今に伝えるマニエリスムの画家かもしれない。

2011年9月29日木曜日

古代ローマの劇場©


(二層の舞台を持つプリエネ劇場)

ギリシャ劇場の初期の形態を残し、そのまま現在まで保存されたのはエピダウロス劇場だけとなってしまった。紀元前二世紀を迎えると劇場は大きく変化する。

ソポクレスの悲劇が示すように劇場は祭礼の場というより、人間的ドラマの世界。劇場建築は本来の宗教的な意味合いから世俗的なものに変わりつつあった。演劇の内容も演技の場もオルケストラから遊離する傾向を持ち始め、劇の演じられる舞台が一段と高い場所に設えられることになる。

小アジアやエーゲ海の島々とギリシャ本土にはエピダウロス同様ヘレニズム時代に沢山の劇場が作られたが、それらの劇場にはやがて新しい要請に応じて手が加えられて行く。

まず、かってのスケーネは楽屋というより舞台背景(ローマ劇場でいうスカエナ)となり、演技の場はその前だけではなく、その二層にまで拡張される。そして上の舞台の背景もしっかりとしたスケーネが建てられた。そのような劇場の好例が現在のトルコに現存する。

小アジアのギリシャ植民地プリエネの劇場は新しい上部スケーネが、紀元前二百年頃木造から石造に造り変られたが、この劇場もエピダウロスと同じ、元来のギリシャ劇場の形態で作られていた。

演技の中心がオルケストラからその背後の高い舞台に移るにまかせ、多くの劇場は舞台回りが改築され、スケーネは著しく変化した。しかし、優れた音響を保ち、美しい自然環境に囲まれたギリシャ劇場本来が持つデザインはどこも損なわれていない。

半円を観客となる人々が、残りの半円を自然(神)が取り巻き、自然と人間が融合した建築空間。その空間は、劇の内容と劇場の持つ意味が日に日に世俗化の方向に向かうものではあっても、古代ギリシャの人々にとっては満天の空のもと、神々と合い和し、交遊する最も重要な場として位置付けられていたのだ。


(都市の中の劇場、オランジュ劇場)

ローマ時代を迎え、演劇はますます盛んになる。一つにはギリシャ劇が流行する以前からすでにイタリア半島では演劇の伝統があり、中世のコメディア・デルラルテに引き継がれる大衆娯楽は盛んであったからと考えられている。

植民地によっては剱闘士の闘技以上に人気の高かったギリシャ劇、その上演は宗教的意味合いからはますます離れ、世俗化して行く。ローマの人々がより身近な場所で、より身近な時に、観劇を楽しみたいと考えた結果であろう。

ローマ劇場は、ギリシャのような街はずれの山の中腹ではなく、多くの人々が生活する街の中に移動した。ローマ人は植民地とした都市の街なかには必ず円形の闘技場と劇場を作っている。闘技場と劇場、どちらの建築も辺境に生きる人々にとっては不可欠な娯楽の場であったからだ。

一方、ローマは屈指の技術大国でもあった。とくに土木・建設技術の発達は目覚ましく、劇場の建設という大工事においても、もはや自然地形を利用するという方法ではなく、平らな用地に石や煉瓦を用い、大きな観客席を建てることが可能となっていた。


 (fig74)

都市の広場の一角に作られたローマ劇場の遺構の一つがプロバンスのオランジュ劇場。オペラ・ノルマやアーイーダ等の公演で現代のオペラファンを熱狂させるこの野外劇場は、広場と背中合わせに一体化して作られた典型的なローマ劇場。

眺めの良い自然空間と一体化したギリシャ劇場は神殿や聖域の一部であり、その建築は宗教施設の一つとみなされるが、世俗の街なかに建つローマ劇場は祭式とは無縁の非宗教的建築。

しかし、その上演は相変わらず、宗教的な行事に合わされるばかりか、劇場を宗教から全く切り離して建設しようとは考えてはいなかった。ローマ劇場は聖地を離れた劇場ではあるが、ギリシャ時代に習って劇場は劇場自身によって、そこが聖地であり、祝祭の場であることを示そうとデザインされていたのだ。


(ヴィトルヴィウスの世界劇場)

古代劇場は劇場のデザインみずからが、その場所は聖地であり、世界の中心、宇宙の原点となる場所というメッセージを発している。紀元前一世紀のローマの建築家ヴィトルヴィウスは劇場建築の作り方について次のように述べている。

「劇場そのものの形は次のように造られるべきである。低面の周に予定されている大きさの円周線がコムパスを中心に置いて引かれ、その中に円の縁に触れる四つの等辺三角形が等間隔に描かれる。これによってはまた天空十二座の星学においても音楽から借りた諸星の関係が割り付けられる。」(ヴィトルヴィウス建築書:東海大学出版)

ヴィトルヴィウスの記述から、ローマ劇場は天体あるいは宇宙の構造がそのまま劇場の平面として構成されていることが解る。劇場はドラマによって世界を描き出す以前に、その全体の物理的配置によって世界を、あるいは宇宙の形を表現しているのだ。

宇宙あるいは天空と十二の星座についての説明はヴィトルヴィウスにとっては十書の建築書の中の一書の全てをあてて説明しなければならないほど重要な記述。何故なら自然万物の総体としての宇宙、星郡と星の軌道とで形成された天空の説明は自然そのものを形づくる神の御心を語ることでもあったからだ。

ヴィトルヴィウスの建築書はギリシャ劇場とローマ劇場の間の幾つかの違いに触れている。円形のオルケストラを低面とし、背後にスケーネ(背景)が建ち、その中間を舞台とする構成はギリシャもローマも同じ。ヴィトルヴィウスは八項目にわたってローマ劇場の作り方を記述した後で以下のように述べている。

「ギリシャ劇場ではすべてがこれと同じ手法でつくられるべきでない。というのは、まず底の円において、ラテン劇場で四つの正三角形の稜(十二の星座)が円周線に接しているように、ギリシャ劇場では三つの正方形の稜が円周線に接し、そしてその正方形の一辺はスカエナに最も近く、それが円弧を切り取り、その線上にプロースカエニウムの縁が指定されるからである」。(前掲ヴィトルヴィウスの建築書)

正円に内接する正方形によって描かれたギリシャ劇場に対し、正三角形によって生まれるローマ劇場、オルケストラの直径が小さくなったのが最大の特徴。さらにその三角形の一辺をスカエナの壁面に一致させることで、舞台部分の間口は広がり、奥行きが圧倒的に深くなった。

ローマ時代、かっての宗教色をおびた内容から世俗的なものに大きく変わった劇の上演では、儀式的であることよりドラマの進行が重要となり、観客の視線はオルケストラではなく舞台の上に集中することが要求される。やがて、演じられる場はオルケストラから遊離し、一段と高い場に移された。

舞台背景となるスカエナの壁面は観客席と同じ高さに作られ、その両端が観客席と接するようになると、劇場は一気に外部の世界とは遮断され閉鎖性をおびてくる。

さらに、ローマ劇場は観客を強い陽射から守るため、バラリウムというテント状の屋根にも覆われる。劇場建築はここに至り自然世界、神の世界とはまったく分離したドラマのための別世界としてつくられるようになった。つまり、古代ローマでは劇場も劇の内容もすでに現代に近いものとなっていたのだ。

白日の天空の下、大自然に囲まれていたギリシャ劇場とは異なり街なかに建つローマ劇場だが、後々の人はこの劇場を「世界劇場」と名付けている。ギリシャでは世界の中心、聖地の証であった劇場は、ローマでは劇場自身がそこは聖地であり、世界の中心であることを示さなければならなかった。

世界の中心をメッセージする劇場、ローマ劇場は世界のカタチを示す装置、世界模型としてデザインされている。その為にヴィトルヴィウスが拘ったのが前術の正円に内接する正方形ということだ。(実際のローマ劇場は四つの正三角形、それはオルケストラを小さくし舞台間口を拡げるためのヴィトルヴィウスの工夫でもある)。

劇場の平面形状は正円と正方形の組み合わせ。正円はマクロコスモス(世界・宇宙)、正方形はミクロコスモス(人間)と意味づけられる。ミクロコスモスである人間(正方形)はマクロコスモス(円)のもとで様々な所行、生き様、己れの生き方、役割を演じる。

それは人間が神あるいは自然と一体となって生きてきた時代の人間的世界そのものの姿。共に生きる人間の世界を実体化し、人間が人間として生きるに足る場を象徴した劇場空間。建築家は劇場をミクロ(人間)とマクロ(天体)、二つのコスモスが相重なり合った空間としてデザインすることで、その空間を世界の似姿、世界模型と意味づけてきた。


(リビアのサブラータ劇場)

現在に残された、保存状態の良いローマ劇場の一つがリビアのサブラータ劇場。紀元二百年頃の建築、この地つまりリビアというアフリカ出身の皇帝セプティミウス・セウェルスによって建てられている。

この劇場の興味深いところは三階建てのスカエナ・フロンス(スカエナの正面の壁、ドラマの背景ともなる)にある。その壁面は列柱の組み合わせ、上階に行くほど短くなる円柱で飾られ、全体は直線ではなく小さく波打っている。壁面の両端には階段が付き上段の舞台に連絡している。


 (fig75)

この舞台では俳優たちは上と下各々で演技することが出来、サブラータ劇場では複雑な劇の展開が十分に可能となった。

舞台をよく見ると、列柱が四本と二本、交互に繰り返えされ、四本は台座を共有しニッチ(壁龕)を作っている。このニッチに挟まれた二本一対の丸柱はポーチのように入口を構成し、その数は正面と左右、三箇所。

このスカエナ・フロンスは何を意味するのだろうか。全体の印象は後のルネサンスの理想都市をイメージさせる。アーチではないが三箇所の入口ポーチを持つ立体的背景は近代劇場の原型となったテアトロ・オリンピコにそのまま引き継がれている。

ヴィトルヴィウスの建築書には三つの背景画の説明はあるが、この三つの入口については何も触れていない。しかし、今に残るローマ劇場として有名なプロヴァンスのオランジュ劇場の スカナエ・フロンス もまた三つの扉。この劇場の中央の扉を現在「王の扉」と呼んでいる。中央と左右の扉の使い分けで登場人物のヒエラルキーを観客に伝えていたのだろうか。


(古代劇場の固定背景が意味するもの)

興味はむしろ、スカエナ・フロンスが何故、劇の内容以前に設置され、劇の進行に関わらず固定化されているかにある。舞台背景はドラマの進行に合わせ、逐次変化するのが常識となっている現代のオペラや演劇の上演とは異なり、この固定化されたサブラータ劇場のフロンス・スカエナはどんな意味を持っていたのか。

「舞台に普遍的な背景とはっきり区別された特定の背景が使われるようになった頃には、劇中人物も強い個性を身につけていた。」(個人空間の誕生:せりか書房)と述べるイーフー・トゥアンによれば、ローマ時代からルネサンスまでの劇での登場人物は特定の人物を演じるのではなく寓意あるいは普遍的な「人間」、つまり神話や聖書の中の人物を演じる。そのようなドラマでの舞台背景はいつも固定的なものとなる。

固定的な背景は特定な場所を表現するものではなく、普遍的な場あるいは観念的な世界(コスモス、世界劇場あるいは理想郷)を示すもの、中世においては聖書に登場する天国とか地獄というような場の雰囲気を示すものに他ならない。舞台における登場人物は個性を持った個人ではなく、寓意を込められた象徴的人物。そしてドラマの場は普遍的・理念的世界。

劇場は二つのコスモス(人間と天体)が重なりあった象徴的空間。そのコスモスに於けるドラマは、寓意を担った登場人物が個人としてではなく集団的意味を表現する場として意味づけられている。つまり演劇空間は象徴的人物によって演技される集団的な場、それが「世界劇場」を意味する所以でもあるのです。

象徴的な演劇空間を現代的なドラマの空間に変容したのはシェークスピア。十六世紀エリザベス朝演劇の劇場がローマ同様コスモスの象徴性で満たされていたのに対し、シェークスピアの登場人物は生き生きとし、生々しい存在感を持つようになる。その理由は登場人物が抽象的な場ではなく、特定の場所に強く結びつけドラマ化されているからだ。

同時代の他の作家と異なりシェークスピアは主役たちに個性を持たせるためには、舞台背景は特定な場所(例えばヴェローナのジュリエットの家のバルコニー)をイメージさせる装置であることが不可欠だった。

シェークスピアの場所に対する感受性は、時代を先取りしている。やがて、西洋社会で自意識が成長するにつれ、場所や景観が個人の性格を明らかにするというシェークスピア的見方が多くの人々に共有され、舞台背景は場面ごとに変化しなければならなくなる。

このような舞台背景の写実主義への変化は、現実世界と劇場における自己の観念の掘り下げに平行している。舞台がコスモス全体(世界劇場)であった頃は、演じられる役は必然的に寓意的な人物や、紋切り型の人物であり、万人ということさえあった。

しかし、自己は集団としての存在であることから徐々に個人的な存在としての意味を持ち始める十六世紀以降、劇中人物は強い個性を身につけ、舞台背景は普遍的な場ではなく、特定な場所を表現するものが求められるようになるのだ。この事は日本の能と歌舞伎の舞台背景の違いにも表れている。つまり、劇場は「祝祭」あるいは「世界劇場」であることより、「見る・見られる」関係を重視するニュートラルな場としてデザインされるようになるのだ。

シェークスピアは先取りしたのではなく、むしろ、時代の要請に応えていたと言って良い。このような観点からローマ劇場の典型であるサブラータ劇場の舞台はまだ特定の場所ではなく、世界劇場という普遍的理念の場。そこは神がつくる天国や地獄であり、人間の観念が生み出す理想都市であったといことに留意する必要がある。

テアトロ・オリンピコのデザイン・コンセプトはルネサンスの「都市の広場」であり、ローマ時代の「世界劇場」という二つの普遍的理念の場が「重ね合わされ」表現されていたのだ。しかし、シェークスピアと同時代の近代劇場の誕生としては何とも時代遅れのデザインであったと言っても良いのかもしれない。

ローマの演劇がどんなに宗教性から離れ、上下に設えられた舞台のあらゆる場所を所狭と使用するリアル化したドラマであっても、それはまだシェークスピアの生き生きとした登場人物による演劇とは程遠いものだった。そこはある種の神話あるいは象徴劇を演じる場であるからこそ、背景は固定的なものでなければならなかったのだ。

ここで重要なことは、シェークスピアが先取りした、集団的空間とその意味を表現していた劇と劇場が個人的世界に還元される近代劇に変容する変局点は、舞台が固定的な背景から特定な場を表現する可動背景に変わる時にあるということだ。

すでに見たようにテアトロ・オリンピコ、そして後に見るようにオペラ、二つは共にこの変局点に誕生している。オペラは古代と近代の「狭間」あるいはその「重ね合わせ」により誕生する。オペラの持つ面白さは同時期の音楽と絵画を「重ね合わせ」ているばかりでなく、各々の時代が持つ空間的、集団的意味をも重層化しているところにあると言って良いのだ。


(教会は劇場)

ローマ文化を徹底的に埋葬してしまったキリスト教時代、この時代は祝祭の為の劇場は存在せず、必要とされてもいない。教会が祝祭空間であり、劇場そして音楽の空間だったからだ。カトリックと異なり十六世紀からのプロテスタント教会では音楽より聖書の中の言葉と説教が重視されるが、ここもまた、もとはと言えば歌と音楽の為の空間。

神への祈りとは、恋人への想いの表現に似て、なんらかのワクワク感を伴い吟じられるもの、そこでは日常的言語とは異なり感情が優先する。賛美歌は神に捧げる「愛の歌」と言って良い。教会のミサはもともと音楽と全く同質の体験なのだ。

宗教儀式はキリスト教文化圏だけでなく古代オリエント社会から日本まで、どこの文化圏でも音楽が中心だった。

劇場のない中世だが、教会での式典や野外での祝祭は中世の生活においても欠かすことの出来ない非日常的空間の現出装置となっていた。

中世劇には教会の典礼劇と地方回りの旅芸人によって演じられるローマ劇の二つがある。後者は教会からは迫害されてはいたが、イタリア半島ではローマ時代のテレンティウスのような喜劇を無言劇として、言葉のない身振りだけで演じることで人気を得ていた。

教会の中の宗教劇は九世紀にはすでに東方の教会(ビザンチン)で始まっている。それは信者の教化に役立つもの、西方教会(カトリック)でも十二世紀にはいると活発になる。一般的には日常の礼拝が劇へと発展し典礼劇として形を整えていく。

朝の単純な賛歌斉唱が神と英雄の物語へと発展し、復活祭の入祭唱へのトロープス(聖歌に新たに挿入される旋律または歌詞)が天使とマリアの交唱の形を取ることによって典礼劇がはじまった。

キリスト教会の中で演じられる劇と音楽の題材は聖書の中の物語、キリストの降誕と昇天、あるいは復活の話が中心となる。上演は教会の中の身廊と側廊を区切る柱間の一つ一つが、特定な場所を示した舞台とみなすことによって成り立っていた。教会では、演技の為の舞台は大道具によって作られる装置ではなく、人々の想像力によって生み出されるものだったのだ。

ギリシャ以来の象徴劇が基本となっている典礼劇では、当然のこと、舞台背景は逐次変化する必要はなく、もし特定の場を必要としても、そこはすでに神の国、物語を支える具体的な背景は教会全体が担っていた。

そして時には演じられていたものがそのままモチーフとなり、舞台を拡大し、大勢の参加が可能となる教会の前庭や戸外へと舞台を移して行くこともある。劇の主催者である教会は専用劇場を必要とすることなく、大小のドラマを教会の内外を使い分けることで巧みに挙行しつづけていた。


(都市は劇場)

中世は都市建設の時代。大聖堂のあるところ、どこも都市の広場が作られており、その広場は市民の為のもう一つの劇場となっていた。 都市の時代を迎えたヨーロッパ社会、祝祭をプロデュースしたのは教会だけではない。支配者となった君主や貴族たち、かれらはその権力と都市の維持や近隣都市との外交のため様々な祝祭を必要とした。

街路では外国からの賓客や花嫁を迎える行列、広場ではパリオ(競馬)や馬上槍試合。その祝祭の中で視覚的にも聴覚的にも、もっとも的確に異質な空間を生み出していたのはやはり音楽を伴った劇だった。

ここでの劇は教会と同じくキリストの物語。しかし君主の主催となれば、物語は世俗の見世物との組み合わせとなり複雑化する。当然、多少の舞台背景や仕掛けが必要となり、それらは全て、牧師と市民やクラフト・ギルド(同業者組合)の人々の共同作業となっている。

都市は全市民で劇の準備に取り掛かかる。彼らは20日からひと月、時には数ケ月もかけ準備をし、祝祭が始まると延々と数日間も続く野外劇を楽しんだ。

何処の祝祭も始まりはパレード。信徒団体や職人たちのギルド、商人たちの組合、その代表者たちは旗を掲げ、徒弟や見習いを引きつれて参加する。そして佳境は演劇。市民たちは建物の窓から身をのりだし、あるいは仮設の足場に鈴なりになり、なかには動きまわる演技者とともに走り回りながら見物した。

演技を正面だけから眺めるという形式はオペラ発展以降の事。仮設に作られた舞台や客席がまったく無かったわけではないが、大騒ぎの広場全体が舞台であり観客席。

中世劇の上演では役者と観客をはっきり分ける手だてはほとんどない。役者は演技が終われば即座に観客となる。あるいは隣の観客が突然、マリア様に変身し、演技が終わればまた観客に逆戻り。次の場面ではいままで演じていた役者が今度は見物するため、足場によじ登らなければならなかった。

中世社会、日常の都市空間では貧者と富者がいつでも隣り合って住まい、肩を寄せあって生活している。広場での劇の上演もこの姿に似て、役者と観客は未分化のまま。全員参加のディオニュソスの祭礼と同様、中世の祝祭空間もまた見る人見られ人に二分されることがない。従って、中世と言われる時代の五百年間、劇場建築は全く必要とされることはなかったのです。






2011年9月9日金曜日

シューベルトのミニョンの歌

シューベルトの歌曲への関心はゲーテの詩との関わりにある。 
特にウイルヘルム・マイスターの「ミニョンと竪琴弾き」の歌が大好きだ。
 シューベルトがゲーテの詩に初めて曲をつけたのは17歳(1814年)の時が最初、糸を紡ぐグレートヒェン/D118。 
モーツァルトとは40年の隔たりはあるが共に天才であることには変わらない。
ミニョンと竪琴弾きの歌を作曲するのは19歳。 
それから5年後の24歳・25歳であの素晴らしい一連の歌を完成させている。 (D726・727・478・479・480)。
 彼は晩年、思い出したように、ミニョンに関わって行く。 (彼の死は31歳1828年11月) それは、死の病を控えた29歳のとき。
 彼はヴィルヘルム・マイスターからもっとも有名な4曲、D877
1.ただ憧れを知る人だけが(D481)
2.私に話させないで(D726)
3.この装いでゆかせて下さい(D469,D727)
4.ただ憧れを知る人だけが)を完成させた。
 こんなことをネットで調べてみたのは、全く知らなかったD727を、今日youtubeで見つけ初めて聞いて驚いたからだ。 
ヴィルヘルム・マイスターの中のミニョンのイメージがそのまま、それも、ごくごく単純なメロディで描かれていたからだ。 
シューベルトの作曲家スタートは実質17歳、そして晩年を迎える29歳で再びミニョンに関わっていく。
ゲーテのミニョンを知る人は何となくなんとなく納得するのではないだろうか。
しかし、聞いてほしい、彼が最も幸せであったであろう25歳、1816年につくられたのがこのミニョンなのだ。
 http://youtu.be/6FhyDkwumA8 
Youtube映像の歌手はChrista Ludwig.

2011年9月3日土曜日

アルス・ノヴァと透視画法が開いた世界

 




ヨーロッパでは古代から合理主義への信頼が高い。それは「全ての事柄は理論理性で説明がつく」と硬く信じているからだ。ギリシャのイディアや中世の神に対する信頼は彼らの理性への信頼が生み出したもの。合理主義では現実的経験より、理性による思考が重視されている。逆に、現実的世界への信頼が高い場合はその思考は経験主義となる。「事柄の理解は全て経験の結果」という考え方であり、理性より経験が先行する我々東洋人は世界の有り様をこのように考えてきた。 

人間の五感は不完全なものであり、そこでの経験は信頼できるものではない、と考えるヨーロッパの人々にとって、現実世界はどこまでも不確かなもの。むしろその背後にこそ確かな世界があり、その世界だけが信頼するに足るもの。だからこそ芸術は模倣(ミメーシス)であり現実とはみなしていない。 つまり、合理主義とは現実にではなく、現実の背後に存在するものへの信頼が、ヨーロッパの人々が考える世界の有り様だったのだ。

このような観点から見れば、世界は「あるがまま」のモノではなく、このように見える「はず」のモノに他ならない。中世の教会の中の絵画や音楽には、この「はず」の世界が表現されている。中世絵画では現実世界をそのままリアルに描くのではなく、現実の背後の世界を理性的思考あるいは想像の結果として、観念的に描くことが必要だった。「あるはずの世界」を「あるがままの世界」に変えたのは透視画法。透視画法の発見は「人間の視野を哲学者の偏見からの解放」であったと書いたのはゲーザ・サモシ(時間と空間の誕生:青土社)。しかし、今やこの偏見の方が貴重かもしれない。何故なら、あるがままの世界を「あるがまま」見ようとしなかった古代そして中世という時代の音楽と建築、そこには我々が読み取れない、音楽・建築・絵画があったからだ。

十五世紀のブルネレスキの発明、アルベルティの理論化でルネサンスの画家たちを魅了した透視画法は世界を観念ではなく、実際に見ることが出来るモノとして描く方法を開いてきた。しかし、透視画法の発見以前に「あるはずの世界」を「あるがままの世界」に変えたのは 中世音楽における アルス・ノヴァ。 (アルスとは技法のことであり、ウーススが意味する習慣とは異なる)それは観念や理念先行であった世界を実在の道に導いた音楽運動でもある。アルス・ノヴァはキリスト教会がもつ原則や正当性という理論に従わざるを得なかった音楽を、新鮮な現実の世界の響きへと開いていった。

 十四世紀、アルスの開発により、自由なリズムを表記する試みが活発化し、音楽のスタイルは大きく変化していく。その先駆けは 1322年頃の音楽の理論書、フィリップ・ド・ヴィトリの「アルス・ノヴァ」(新技法)の登場にある。ヴィトリは詩人であり、数学者、音楽の理論家であり作曲家。ペトラルカの友人でもあった彼はまさにルネサンス人の先駆けと考えられる人。この理論書によって、音符の持つ時間の長さが多様化されたことが重要。多様化とは、本来は一対三という完全分割しか許されていないキリスト教音楽の記譜法に、一対二という不完全分割をも認められるようにしたことにある。

今までは、教会が持つ正当性により三拍子系のリズムでしか表記できなかった音楽が、二拍子系でも表現が可能となった。 教会の中では「三位一体」という理念から、許されなかった二拍子系のリズムの応用がアルス・ノヴァという運動により、論理的に許されることになる。二拍子系のリズムとは、人間のあるがままの歩行のリズムである。結果、音楽はやがて、現在の我々にとっても聞きやすい、滑らかで自由なリズムと旋律の道を開いていくことが可能となった。

 時代が代わり十五世紀になると、イタリアでは新しい価値観とキリストに変わる新しい神が求められた。そんな彼らが新たな「人間と世界、人間と人間」の関係の構築に役立てようと生み出したモノ、それがアルス・ノヴァと透視画法なのだ。二つは新しい生き方、新しい神に関わるためのメディアと言える。 そのメディアに期待された役割は神の啓示による中世的「あるはずの世界」をルネサンス的現実、人間が眺める「あるがままの世界」に変容することにあった。

超越的な神が君臨する中世キリスト教社会とは異なる、現実的、快楽的、人間的社会を賛美する神を描くこと。 透視画法の役割は、神の介入無くしても存在しうる、秩序ある統一世界を生み出すことにあった。画面の中に描かれる平行線は全て一点(焦点)に集まる。この一点を中心として描かれた世界には秩序ある統一が存在するとみなし、建築家や画家たちは、哲学者のイディアや神学者の神に関わらなくとも「生きるに足る確かな世界」を描けることを発見したのだ。 

ラファエロやレオナルド・ダ・ヴィンチの描く世界は美しい絵画である以前にまず「あるがままという理念」として見なければならない。 ルネサンスの人々を魅了した透視画法は神に変わる秩序を人間によって生み出し得ることを可能とした。その世界は神のいる世界ではなく、神のいる世界を眺めた世界。そしてルネサンス以降「音楽と建築」は「神話」や「聖書」に変わる「風景の世界」に関わることで、新たなデザインの道を開いていく。

2011年8月26日金曜日

作曲という創作空間



鳴り響いた音が次々に消えていく音楽の世界では、建築とは異なり、全体を一瞬に見渡すことはできない。常に演奏している一部分だけが存在し、音楽の全体は終わった後の余音に過ぎないからだ。しかし、楽譜に書き留めることで音楽は、始まりから終わりまでという時間の中に、ある区切りを獲得し、全体を見渡すことが可能となった。つまり、楽譜の誕生により音楽は建築と同じように「空間性」を獲得し、「思考の空間」となったのだ。
水のように切れ間なく流れる音楽の世界は、ネウマ譜という記号に書き記るされることで全体は形を持った一個の独立した作品となる。楽譜の誕生は作品の始まりだった。作品の始まりは生み出す作家の誕生をも意味する。ここに来て音楽は、神の創造から人間による創作物として道を歩むことになる。

音を記録するだけの方法なら、世界中どこにも存在する。しかし、ネウマが開いたもう一つの大きな道はポリフォニックな音の広がりを生み出し、音楽が表現できるそのものの世界を変えたことにある。ポリフォニックな音の広がりという多声への道は、体験や偶然から生まれるものではなく、楽譜の上の思考の結果に他ならない。
教会堂での音の重なりや広がりの体験は多声へのきっかけではあるが、単旋律歌声であった音楽がネウマ譜によって記録され、初めて多声音楽という新しい大きな道が開かれた。そして大事なことは、多声もまた経験の結果ではなく、思考空間での創作によって生み出されるものであったことだ。生み出された音の広がりは、現在に至るヨーロッパ独自の音楽、作曲家によるクラシック・オーケストラの原点となる。

ネウマによる記譜から始まる楽譜の誕生は、ヨーロッパ音楽を思考の空間へと導き、多声への道、そして作曲の道を開き大きな人間の文化として花開いていく。楽譜の成立は、聖なるものを讃えるための音楽が、聖なるものを表現し、聖なる力を広める役割へと転化したのだ。ネウマ譜が生まれたザンクト・ガレン修道院は、この転化を促す最初の場所であり、人間による作品の誕生の最初の地と位置づけられる。