インド夜想曲 アントニオ・タブッキ
休日の図書館、開架書架の本の背表紙をぶらぶら眺めていて見つけた「インド夜想曲」アントニオ・タブッキ。
須賀さんの訳だというので、手に取り立ったまま読み始める。
アンソロジーのような構成、短時間で立ち読みできそうと思ったが、いやぁ、まったく違った、中身が濃い。
カウンターで借りだし、自宅に持ち帰った。
気楽な旅行記ではない、映画にでもすれば一級のロードムービー。
「僕」は飛行機でボンベイに降り立ち、凶暴なタクシーに乗ったイタリア人。
蒸発したポルトガル人の友を探しにボンベイ、マドラス、ゴアを旅する物語。
なぜ、ボンベイからか、この街のスラムに住む売春婦から友人が病気、という手紙を貰ったから。
貧民窟の売春宿で女が語る恋物語を聞き、明くる日はおぞましい夜の病院を訪ね、やけに理屈っぽい医者とゴキブリで真っ黒な廊下を歩き、100人も入る飛行機の格納庫のような病室で友人を探す。
細々書き出したら切りがない、どの行も真実味と実在感の強い環境と人物描写、しかし、物語はなぜか宙に浮いていてとらえどころがない。
気がついてみると残り数ページ。
「僕」は旧ノヴァ・ゴアの海沿いの最高級ホテルのテラスで「わたしはクリスティーヌ」と言う初対面の女性とロブスターを食べながらのスポーティなおしゃべり。
「僕は一冊の本を書いている、中身はというと、本のなかで僕はインドで失踪した人間なんだ」。
「こう言えるかも知れない。もうひとりの人間が僕を探している。だけど、僕は絶対に見つかりたくない。その男がインドに到着したときから、僕はそのことをよく知っていて、毎日そいつを追跡した、・・・・」。
ドラマの進行はすべて経験と実感、場所も時間も空気の臭いもリアリズムそのもの、しかし、その中身は実態が掴めない。
物語を外から眺め、内から壊す、あるいは裏返しなんだろうか。
写真家のクリスティーヌとの別れ、「僕」の言葉。
「ほんとうです。あなたの写真に似たようなことかも知れない。引き伸ばすと、コンテクストが本物でなくなる。なにごとも距離をおいて見なくてはいけない。アンソロジーにはご用心。」
いやぁ、うますぎ、これがイタリア。
コンテクストはすべて、切れば生々しい血が吹き出すような生肉体感覚、その経験と行動には偽りはない、すべてが実在感あるリアリティに支えられている。
しかし、表現されているものは反転に次ぐ反転、宙ぶらりん、逆さま、虚構のみの想像的世界しか見えない。
15世紀の透視画法はとっくに解体されているが、イタリア人タブッキはだまし絵の技法を今に伝えるマニエリスムの画家かもしれない。