2010年11月10日水曜日

ローマのパレストリーナ

ルターやカルヴィンの宗教改革に対抗しなければならなかった、16世紀のカトリック・ローマが最も必要としたものは音楽です。プロテスタントは豪華な建築や美術ではなく、聖書の言葉によって民衆の支持を得ていく新しいキリスト教です。そのプロテスタントに対抗する為には、カトリックもまた建築や美術で理念を表現するよりも、具体的・直感的にわかりやすく神の世界を示してくれる音楽を必要としました。サン・ピエトロ大聖堂やサンタ・マリア・マジョーレ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノの礼拝堂、イエズス会のオラトリオ、16世紀ローマの教会は何処もミサ典例や宗教儀式の為に聖歌隊は大活躍だつたと言えましょう。
その聖歌隊で子供の頃から自己の才能を発揮し、生涯に渡ってカトリック・ローマに貢献した音楽家がジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナです。彼はサン・ピエトロ大聖堂の建設が着々と進むなか、ローマにカトリックの音楽的世界を生み出す、まさに、ローマが必要とした時、最も必要とされた音楽家として活躍しました。


(via Youtube by Giocvanni Palestrina-Missa Papae Marcelli - Kyrie)



生まれ故郷パレストリーナの教会の聖歌隊で子供の頃から自己の才能を発揮し、生涯に渡ってカトリック・ローマに貢献した最大の音楽家がジョヴァンニ・ピエル・ルイジ・ダ・パレストリーナ。 彼はサン・ピエトロ大聖堂の建設が着々と進むなか、建設に呼応するかのようにカトリック・ローマ全体を新しい音楽的世界に変えていった音楽家です。
パレストリーナの時代は教会における聖なる音楽だけでなく、宮廷における世俗の音楽も発達した時代。その音楽は17世紀、オペラを生み出すことになりますが、パレストリーナは世俗の音楽には関わることが少なかった、いや、関われなかった音楽家でもあったのです。
何故なら、同時代の画家・音楽家・建築家、誰でもそうでしょうが、彼らはまだ、教会から離れて家族の生活を守ることがほとんど出来なかった時代です。
3人の子供との家庭生活を持つ彼は教皇庁だけでなく諸都市の貴族、宮廷からの招請も少なくはなかったのですが、ローマとその周辺で生涯を送り、教会の音楽を作り続けることになります。
しかし、面白いことに、宮廷の音楽を作ることが少なかったパレストリーナ、彼は宮廷が生み出したオペラの題材にされた唯一の音楽家でもあるのす。1917年、ミュンヘンのプレンツレゲンテン劇場、ハンス・プフィッツナー作曲のオペラ「パレストリーナ」がそれで、ブルーノ・ワルターの指揮で初演されました。

ルターの宗教改革への対抗から開かれたトレント公会議では世俗に傾きすぎた音楽に対し数々の苦情が寄せられていました。世俗の定旋律に基ずくシャンソン風のミサ曲や言葉の理解を不可能にする複雑なポリフォニー、あるいは教会における楽器使用や不作法な歌手たちの振る舞いに対してです。そして多声音楽を廃止し、昔のグレゴリオ聖歌のみで典礼を行うという案が体勢を占めつつあった時、パレストリーナのミサ曲が会議の席上で演奏され、そのすばらしさに感動した人々は、従来通りポリフォニーを典礼の音楽として認めたという伝説がオペラ化されました。
1545年から63年までのトレント公会議、そこでは教会からの悪弊を追放し、カトリック信仰の原点に立ち戻ることが確認されましたが、その席上、卑俗で不純な音楽の排除が決議され、当時、北ヨーロッパで流行していた複雑なポリフォニーに対する批判が強まっていたのです。
しかし、パレストリーナの音楽はフランドルのポリフォニーを基礎としながら、各声部には独立性を与え、異なったリズムと歌詞を与えるもの。このことによりポリフォニーであっても、その宗教音楽が、決して不敬虔でも、歌詞の意味が不明となる音楽でもなく、厳粛さと透明性を保持しているものであることを示していました。真偽のほどは不明ですが、伝説上のミサ曲は「教皇マルチェルスのミサ曲」ということになっています。そして、パレストリーナは教会音楽の救い主として長く伝えられて来たのです。

様式の持つ正当性を自らの演奏で守り抜いた伝説を持つパレストリーナは、バッハ、ヘンデル以前のもっとも人気のある作曲家であり、ルネサンス最大の宗教音楽家と言って良いようです。サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会、サンタ・マリア・マジョーレ教会というサン・ピエトロに並ぶローマ最大の教会の楽長を歴任したパレストリーナは、皇帝マクシミーリアン2世やマントバのゴンザーガ公からの誘いにも一切応じることなく、生涯、ローマの宗教音楽家としての生を全うしました。
百に及ぶミサ曲や四百を数えるモテットと並び、わずかであるが世俗のマドリガーレも作曲しています。当時全盛の世俗の音楽、マドリガーレにも幾多の名曲を残している彼ですが、後に、恋愛詩に作曲したことを恥じ、悔やんでいると告白しています。
しかし、その告白は本意ではなく、彼と家族が安心してローマで生活していく上での方便だと、後世の研究者は指摘する。そんな方便を必要とするパレストリーナのローマは、十七世紀を迎えても、オラトリオにおける音楽劇はともかくとして、オペラはほとんど根付くことはなかったのです。
1594年、パレストリーナが死ぬと、その後の二十年、教皇たちの音楽に対する関心は急激に薄れて行きます。1610年「聖母マリアの夕べを」を教皇パウロ五世に献呈すべくモンティヴェルディがローマにやってくる話は有名ですが、彼は一切のポストも支持も得ることもなくローマを引き上げヴェネチアに向かうことになるのです。

ア・カペラとカストラート

故郷のパレストリーナの街の司教がローマ教皇に選出されたことから、若くしてシスティーナ礼拝堂の聖歌隊員に抜擢されたパレストリーナですが、教皇亡き後は当然解雇され不遇の身となります。しかし、40代後半、彼は実力でカペラ・ジュリアの楽長の座を勝ち取り、教皇庁に復帰するのです。パレストリーナの活躍によって、ジュリアやシスティーナの礼拝堂がローマ音楽の中心となっていく頃、ア・カペラが育ちます。ア・カペラとは「楽器などの演奏が無く、無伴奏」でという意味で使われる音楽用語ですが、本来は「礼拝堂風に」と訳されます。つまり、ア・カペラのカペラは礼拝堂、システィーナ礼拝堂を意味しているのです。

この礼拝堂で演奏される曲は全て無伴奏で演奏されるのが習慣でした、記録によればオルガン伴奏さえなかったのです。従って、仮に外では楽器伴奏付きの曲であったとしても、ここでは一切の楽器伴奏は許されませんでした。従って、ア・カペラは礼拝堂風に、つまり楽器伴奏なしの歌曲ということになったのです。
この礼拝堂の秘曲と言われるミゼレーレを、十四歳のモーツアルトが聴いた逸話が残されています。ミゼレーレは十七世紀の作曲家グレゴリオ・アレグリの作曲ですが、モーツアルトはこの曲を一度聴いただけで宿に帰り、秘曲を全て間違いなく楽譜に書き移したという神童逸話です。パレストリーナが活躍し、モーツアルトが秘曲を聴いたシスティーナ礼拝堂。しかし、現在ではバチカン美術館の中心と位置つけられ、音楽の為の空間というよりミケランジェロの美術館として有名です。毎日、ミケランジェロを一目見ようと、沢山の人々が押し寄せる現在の礼拝堂ですが、ここは様々な音楽と音楽家が活躍し、対抗宗教改革の中心となった場所、バチカンの浮沈を担う場所でもあったのです。


(via Youtube : Allegri-Miserere)

カストラートの誕生も実はこの頃のこと。礼拝堂の中では、徐々にではあるが、より強く、より幅広い音域を持つ彼らの歌声が重要な役割を占めていきます。カストラートとは声変わりを迎える少年時代に去勢し、青年になっても子ども時代の高音で歌える男性ソプラノ歌手のことです。男性であるが故にその歌声は圧倒的に力強い、そして高音です。様々な音量と音域の歌手の歌声が合唱され、音楽はますますその表現領域を広めていきました。無伴奏の歌曲と女性に頼ることのない高音の歌手の誕生は、やがて始まるオペラの時代の中心的役割を担うもの、後々はカペラで生まれたカストラートが世俗のオペラの大スターとなって行くのです。

システィーナ礼拝堂の音楽はオラトリオ会やイエズス会の音楽とも巧みに連携していきます。オラトリオとは対抗宗教改革の機運の中、より多くの人々、一般の人々が、ラテン語ではなく日常語で、気楽に神に接することが可能な場、祈祷所を意味しています。そこでの音楽は宗教的ラウダが中心。ラウダとは中世以来、イタリアの俗語によって歌われた民衆の中の宗教歌謡です。一般家庭での祈りの際、あるいは巡礼、行列の際に歌われた民衆的な音楽のことです。
民衆が中心となった祈祷所(オラトリオ)に多くの人々を集めたオラトリオ会やイエズス会は十七世紀にはいると、このラウダと礼拝堂の音楽、そしてフィレンツェのモノディを組み入れて、教会の中のオペラとも言えるオラトリオを生みだしました。さらにまた、この二つの会は音楽の教育機関となるコレッジョを運営し、やがて多くのオペラ歌手を誕生させて行きます、つまり、近代の音楽のすべてはこの時代の礼拝堂と祈祷所が担っていたと考えて良いのではないでしょうか。

システィーナ礼拝堂


大聖堂の建設はカトリックの復興を内外に示す格好の舞台ではあるが、その姿が実際に都市ローマを凌駕するようになるのは17世紀を迎えてからのこと。
それはちょうどオペラの誕生に似て、16世紀という丸々の一世紀が、生まれ出る為の準備の時間、大半が大建築構築の為の基礎工事に費やされていた。
一方、アルプスの北の人々の間に広がりつつあるローマ・カトリック批判に対抗するためには、16世紀の始め、ユリウス二世は敬虔なカトリック信仰の持つ真の意味を、早急に説明する必要があった。
大聖堂の完成を待つまでもなく、至急にローマ・カトリックのメッセージを示すもの、それがミケランジェロやラファエロの壁画・天井画であったのです。
システィーナ礼拝堂が全世界に示さなければならないメッセージとは、それは「最後の審判図」や「天地創造図」という旧約聖書に記される「神と人間との契約の物語」、ローマ・カトリックは初源に立ち戻り、神と人間との関係という最も重要なメッセージを発信しなければならなかった。

システィーナ礼拝堂は先の教皇シストゥス四世によって造営されている。
長さ40.93m、幅13.41m、旧約聖書に記されたソロモンの寺院と全く同規模、同型のプランによって作られていたパラフィナ礼拝堂を、この教皇は改築整備し、自分自身の名シクストゥスを冠し、1483年に最初の礼拝を行った。

シクストゥス四世はニコラウス五世やピウス二世に続く人文主義教皇として知られている。
彼はトルコへの対策や教皇領の安定、無法な貴族の横行に対し精力的に関わると同時に、文学や芸術のパトロンとしての役割もニコラウス五世にならい充分に発揮した。
ニコラウス五世が創設したバチカン図書館を一般の学者に解放したのも、この教皇だが、彼の最大の業績はカッペラ・グランデと呼ばれた聖歌隊に25名も歌手を雇い、教皇の聖歌隊、カッペラ・システィーナ(システィーナ礼拝堂聖歌隊)として組織し直したことにある。

シクストゥス四世はユリウス二世にとっては叔父に当たる人。
甥であるユリウスはこの教皇によって枢機卿に抜擢され、やがて自分自身も教皇となる道が開かれた。従って、叔父の創設したこの礼拝堂こそユリウス二世にとって、全ての要であった。

その内部装飾を仕上げることはシクストゥスを継承する彼自身の存在の証でもある。さらにまた、彼は13世紀以来のローマ法王選挙秘密会議であるコンクラーベをここで実施するばかりか、教皇自身の為の公式の礼拝の場所をこの礼拝堂に位置付けた。つまり、システィーナ礼拝堂はユリウス二世によって教皇庁で最も重要な建築として位置づけられたのだ。

ユリウス二世は叔父にならい音楽にも貢献している。
1513年創設されたカッペラ・ジューリア(ユリウス)は大聖堂の聖歌隊。
ユリウスは教皇の私的聖歌隊であるシスティーナ礼拝堂聖歌隊に対し、もう一つ大聖堂の聖歌隊をも組織した。このことから音楽家の立場は、教皇や君主という個人に雇われる仕事ではなく、大聖堂という公的な場に職を得ることとなる。

後に、この公的な聖歌隊がモデルとなり、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーナ教会やサンタ・マリア・マジョ−レ教会にもカッペラが創設され、数多くの音楽家たちの活躍が公的にも社会的にも多くの人々国々に知られ音楽家の立場は画家に劣らぬものとなる。
音楽家の社会的立場作りにも貢献したユリウス二世だが、時はまさにフランドルに代わりイタリアの音楽家が盛んに力を発揮した時期でもあった。
16世紀初めのこの教皇は、武器を持つことが好きで、戦う教皇と見なされていが、音楽と建築をこよなく愛した人でもあったでもあったのです。




(via YouTube by bacabaca420)

2010年11月6日土曜日

ベルニーニのサン・ピエトロ広場



世界でもっとも劇的な公共広場と言えばサン・ピエトロ広場。
その壮大な形態は、この場所こそ全人類が出会う場所、と位置づけたカソリック・ローマの強いメッセージです。
宗教改革に揺れるヨーロッパに対し、いや世界中の人々に対し、改めてローマは世界の中心であることを示さなければならない時の最も重要な建築。
デザイナーはジャン・ロレンツォ・ベルニーニ。

この広場にネロ帝のオベリクスがフォンタナによって設置されてから70年後の1657年、ようよっと最終案が決定し工事が始まった。
設計を依頼したのはトスカーナ地方の高名な銀行家の子孫、キージ家出身の教皇アレキサンデル七世。
この教皇の治世の12年は、後に「大いなる造営家」と記録されるほど数々の絵画・建築が制作された時代でもあった。

サン・ピエトロ広場計画の基点となるのはもちろん、その中央に立つ巨大なオベリスク。
ベルニーニはこのモノリスの持つ意味、焦点として全て意識や視線を集めずにはおかない強力な集中力にまず着目する。
そして、この一点が全ての世界と繋がるように計画する。
結果、ベルニーニは壁ではなく柱によって広場を囲う案をつくり、建設に着手することになる。

扁平な楕円の形状に柱が並べられた列柱廊(コロンナート)、その形態は閉じられていると同時に開かれている。
「聖ペテロの教会が、その他のほとんどの教会の母であるように、この広場は、カトリック信者たちを迎えるために、あたかも母が両腕を差し出しているように見せる列柱を備えていなくてはならない。それによって信者たちは信仰を確認し、異端の信者たちはこの教会に再び統合され、異教徒の者たちは真実の信仰に教化されるのである。」
(図説世界建築史ー11p35)とベルニーニは語っている。

母の両腕によって囲まれるこの広場は閉じている以上に、開かれていることが大事であって、ベルニーニはこの腕を壁ではなくスクリーンのようにつくることで、広場を全人類が出会うところ、そして、広場からのメッセージが世界全体に放射されるようにと計画したのだ。

壁ではなくスクリーンとして作られたことの意味はさらに大きいなことを意味する。
完結した形態ではなく、背後の世界との相互作用が可能なコロンナート、それは街と広場が分離されるが、しかし同時に結びつけられていることをも意味している。
中世ヨーロッパから遠く隔たったバロック・ローマ、そこは最早、教皇や貴族のローマではある以上に一般の人々の為のローマである必要があったのです。
壁ではなく透過性を持ったコロンナートによって生み出された広場、そこではすべての身分も消滅し、貴賎の別無く、調和して暮らす場であることを意味づけてもいる。

さらに方形の形状を持つオベリスクは世界全体から集まる意識を大聖堂に向かう方向へと統一する役割を持っている。
広場の中央のオベリスクは求心化作用と目標に向かう方向性を指し示す作用を合わせ持っていることが極めて重要。
ベルニーニの当初の計画では大聖堂のファサードの前面に一対の鐘塔が建つことになっていた。
この鐘塔は広場から聖堂の内部空間へ、大ドームに至る為の門の役割を果たすべく計画された。
この門を通過した世界からの意識は聖者の体内と見なしうる大身廊、さらに大ドームが屹立し、聖者の墓が埋められた交差部まで至ると、そこからはオベリスクや広場の列柱が指し示すように垂直に天への方向へと意識が広がるようイメージされ計画された。

楕円形の列柱廊で囲まれたサン・ピエトロ広場は大ドームと全く同じ寓意を秘めている。
オベリスクが立ち、屋根のないこの大広場はまた大ドームで覆われた聖ペトロが眠るマルテリウム(殉教者記念堂)そのものの姿でもある。
つまり、広場は屋根のないマルテリウムと見なされているのだ。

このようにベルニーニの計画で重要なことは、形態は幾何学ではあるが、観念だけで終わるものではないということ。
表現されるものは行動と体験によってのみ理解されうる、劇場的世界となっていることが求められていたのです。


(via YouTube by castrovllllgluseppe)

2010年11月5日金曜日

劇場としてのカンピドリオ広場

計画案は一見、コルシーニャの丘のピエンツァの理想都市を思い起こさせます。台形の広場を囲み、正面に舞台背景のような建築を配しているからです。http://sadohara.blogspot.jp/2012/09/blog-post_28.html

しかし、ピエンツァの計画からすでに八十年余り、アルベルティの理想もミケランジェロの時代に至っては大きく変質しています。ミケランジェロの時代とは美術史でいうマニエリスムの時代です。静縊なウルビーノの理想都市図が現実的なセルリオの都市風景に変容するように、あるいは聖堂のモテトゥスより宮廷での知的なマドリガーレが人気を博す時代です。

十六世紀始めの芸術はルネサンスの持つ等質等方な静的秩序から動的で現実的、感情的経験の対象へと変わっていきました。つまり、広場は最早、かってのように都市の理念を想起させる場ではなく、視覚的世界、舞台背景として作る必要があったのです。そして、ここからがミケランジェロの面目躍如たる計画です。バロック都市あるいは劇場都市ローマを先駆けるこの広場は只眺めるためだけの広場ではありません。そこは動的に体験する場、実感をもってドラマを体験する場としてデザインされているのです。

コルドナータ(階段状の斜路)をゆっくりと登ると、中央のマルクス・アウレリウス像と左右の邸館は舞台上の透視画法を強調するように立ち上がってくるように感じられます。正面は騎馬像の背景としてのパラッツォ・デル・セナトーリオです。かっての元老院、中世には市庁舎として使われたこの建物、ミケランジェロは鐘塔を中央に付け替え、主階玄関テラスへの階段を左右に設置しました。対称形に置かれた階段の側面で囲われた三角形の中央のニッチには、これもまた古代ローマ時代のもの、ミネルヴァ像が据えられています。その左右にはナイルとテヴェレの川の神が座しこの像を守っています。広場の内部に立入ると、ここは屋根のない建築の内部空間の趣きです。ここはまさにドラマの中の古代ローマを体験する場として設えられているのです。

マルクス・アウレリウスを起点とした正面の舞台構成を都市ローマを守護する祭壇とするならば、広場はちょうどその聖堂の身廊の役割を担っているように見えてきます。左右の邸館のファサードを飾る大きなピラスター(壁柱)、基壇に載り厚いコーニスを支えるコリントの柱頭を持つこのジャイアント・オーダーが聖堂の身廊を構成する列柱となっています。その背後が小さな円柱が立ちならぶ側廊なのです。大きなピラスターの両脇に建つ小さな一層分の円柱が側廊部分列柱を構成している。つまり、この内部空間あるいはドラマの空間は、別の見方では、カソリック聖堂を見慣れた人であるならば、ここは聖堂の内部空間の構成と全く同じでもあることがわかります。

一方、広場を囲む左右の邸館は建物というより舞台を構成するスクリーンに過ぎません。ミケランジェロはこの一枚のスクリーンに異なる尺度のピラスターと円柱を組み合わせることで、小さな広場を一幅の絵であることより、動き回ることで具体的に体験できる古代神殿あるいは中世聖堂という演劇的世界としてデザインしているのです。

空間のドラマとみなしうるカンピドリオの広場では床面の模様は特に重要な意味を持っています。ピエンツァの広場と同様、透視画法としては逆台形、遠方の風景を近寄せる効果を持つ平面形状ですが、この広場の床面のデザインはピエンツァのような単純な透視画法としての距離、後退を表現するものではありません。

左右の列柱が都市の内部空間としてのドラマを表現しているように、楕円形と放射状の石貼りで構成された床面はルネサンスの静縊や安定性とは全く異なる意味と体験を我々に準備しています。正方形でも正円でもない床面は完全であることより不完全、静止することより動くことを要求しています。楕円形はその空間に中心性は与えますが、それと同時に長軸の強さをも強調します。

コルドナータを登り、楕円の長軸の一端にたどり着いた我々は祭壇に向かう身廊を進むことを強要されるのです。しかし、その中央には騎馬像ですから放射状の床石に促され回り込まなければなりません。そして、我々は楕円の単軸の一端に立たされることになります。そこから眺められるこの騎馬像はまさにジャイアント・オーダーを背景とし、古代ローマの都市を凱旋するマルクス・アウレリウスそのものの現実の姿に立ち会わされます。

再び正面に目を転じ、祭壇に赴きますと、そこは聖堂であるならば十字交差部分、空間は左右一気に解放されます。この開放はコルドナータと直行する新たな軸を生み出しているわけですが、正面右手は公園に続くギャラリーへ、左手はサンタ・マリア・イン・アラコエリ教会に向かう階段となり開かれています。この軸に平行するパラッツォ・デル・セナトーリオの階段を昇ると、この建物の玄関ポーチ、爽やかな風が感じられる空間です。振り返り見おろせば広場と騎馬像、それを取り巻く多くの人々、上げた視線のかなたは一望のもとのローマ、そこに広がるのは現実の都市ローマのドームと瓦屋根の建築群。マルクス・アウレリウス右手を挙げ、この幻想と現実にある永遠の都市ローマを賞賛しています。そして再び床面に目を凝らしてみましょう。この騎馬像を頂点とし床面は突然、円形の凸状の形態を描き盛り上がってくるではありませんか。それはまさに地球の曲面のように見えます。つまり、ここで意味するものは世界の頂(カプート・ムンディ)に立つマルクス・アウレリウス帝に他なりません。ルネサンスから隔たったとはいえミケランジェロもまた穏やかな安定した理想都市をイメージしているのです。しかし、その方法は絵画ではなくドラマとして。ミケランジェロは我々を客席ではなく舞台の上に立たせ、理想都市ローマを実感させるべく、この広場をデザインしたのです。

カンピドリオ広場の持つメッセージ

ローマで最初に舞台背景のような都市装置を導入したのはミケランジェロです。その都市装置とはバロック広場の先駆けとなるカンピドリオ広場。1537年、ミケランジェロは彫刻でも、建築でもない、広場のデザインの仕事に取りかかります。サン・ピエトロ大聖堂の再建がようやっと軌道に乗った頃のこと。ファルネーゼ家出身のパウロ三世はカピトリーノの丘の整備をミケランジェロに命じました。パウロ三世は久しぶりに登場したローマ出身の教皇です。子どもの頃からのローマを知るこの教皇にとって、サッコ・ディ・ローマ(1527年)の惨状は耐え難いものと想像出来ます。そこにきて、チェニジアにおけるオスマン・トルコ壊滅に成功したドイツ皇帝カール五世(イスパニア王カルロス一世)がなんとローマに凱旋してくるというのです。カール五世こそローマを壊滅に追いやった張本人。パウロ三世は何が何でも不死鳥のように再生した聖なる都市ローマの姿をカールに示さなければなりません。かっては百万人もの人々が溢れかえっていた大都市ですが、この時のローマ人口は僅か三万人と言われています。ローマは至るところ古代の円柱や煉瓦の残骸が転がり、壮大なモニュメント、パンテオンやコロセウムのみがそそり立つ、荒野のような状況だったのです。そんな壊滅的なローマの再建、少なくともカルロスが凱旋する道筋だけは整備したい、それがパウロ三世の想いであり、ミケランジェロへの命令であったのです。
ローマに七つの丘があり、カピトリーノの丘はその中央に位置します。古代ローマ時代、この丘は幾つかの神殿がたてられた聖地、中世にあっては教皇庁にも対抗出来る都市国家ローマの政庁舎が建つところ。長きにわたってのローマの中心、文字通り「すべての道はローマに通じる」、そのローマの終着点です。ミケランジェロはこの時期、教皇の私邸パラッツォ・ファルネーゼ(現在のフランス大使館)の建設にも忙殺されていましたが、カール五世の凱旋により、急遽、カピトリーノの丘、カンピドリオ広場の整備に取り掛かることになりました。(ファルネーゼ宮殿は十九世紀末に作られたプッチーニのオペラ・トスカの舞台として知られています。守旧派警視総監スカルピオ男爵の拠点、アリア「歌に生き、愛に生き」を歌うトスカが男爵を刺殺するクライマックスの舞台が、この時代、ミケランジェロによって建設が進められていた。)
バロック都市ローマの計画は平坦な主要街路の結節点に噴水とオベリスクを持った広場を置き、その広場を多焦点化することで、視覚的にも観念的にもわかり易い都市構成を目指しますが、カンピドリオ広場は街路の結節点ではなく、また、丘の上の広場です。平坦な結節点でのオベリスクは視覚的にも意味的にも広場の性格を演出する上で極めて有効な装置となりますが、丘の上で高すぎて役にたちません。カンピドリオ広場の演出においてはミケランジェロはオベリスクではなく、マルクス・アウレリウス帝の騎馬像を設置しました。中世の時代、古代ローマの遺物はすべて異教に属するものとみなされ、大半は破壊されましたが、この像は誤解により破壊を免れました。ラテラノ大聖堂の一隅にあり魔除けのごとく思われていたこの騎馬像は当初、コンスタンチヌス大帝の像であると見なされていたからです。コンスタンチヌスは四世紀始めにキリスト教寛容令を発布した、カソリックにとっては意味深い重要な皇帝です。その皇帝の像が古代ローマの聖地に建つことは、カソリックが古代ローマをも凌駕し、世界の冠たることを示す絶好の情景でもあると考えられました。
ミケランジェロはまず、騎馬像の広場への移動を監督し、台座の制作をおこないました。しかし、設置の際には既に、この像はコンスタンテイヌスではなくマルクス・アウレリウスであることは判っていたようです。彫刻家であるミケランジェロからみれば、騎馬像はかけがえのない美術品です。彼が生み出しつつあるカンピドリオの広場を象徴する、欠くことの出来ない芸術作品とみなしていました。彫刻像はもともと建築物の付属品、その一部とされるか、精々一隅に置かれるのが通例です。しかし、ミケランジェロはこの騎馬像を広場の中央に設置したのです。このことだけで、すでにカピトリーノの丘は重要なメッセージを発揮し始めました。フラミア街道、ノメンタナ街道、アッピア街道という、かってのローマ帝国の隅々からの全ての道の終着点の丘の上に建つマルクス・アウレリウス騎馬像、それは「すべての道はローマに通じる」ことを文字通り示すことであり、多くの人々にこの場所こそ再び古代ローマのカプート・ムンディ(世界の中心)であることを示し始めたのです。カンピドリオ広場はコンスタンティヌス像による、カソリック・ローマの象徴以上に、広場の中央に建つアウレリウス騎馬像によって、北の国々に対し古代ローマ帝国をも想起させ、カンピドリオ広場が世界の中心であることを示しました。
マルクス・アウレリウス像はローマの中心からサン・ピエトロ大聖堂に至る主要街路パーパレ通りからの軸線と対峙する位置関係にあります。ミケランジェロは広場に立つ騎馬像の眼下からこの街路に対し一直線、幅が広くゆったりとしたコルドナータ(階段状の斜路)を計画しています。このコルドナータによって古代ローマの象徴マルクス・アウレリウスはカトリック・ローマの首府とも関連づけられ、古代からカソリックへと続く不滅の都市ローマをつよく意識づけることが目論まれていました。皇帝カール五世凱旋の際、ミケランジェロに可能であったことは、この騎馬像の設置と仮設の記念門のいくつかを、アッピア街道から続く街路のそこここに設置したことに過ぎません。しかし、この時のミケランジェロの構想によるカンピドリオ広場は、その後、本質的な変更は一切なく、100年余りのちの1655年に完成します。広場の計画でミケランジェロは決して難しいことをしたわけではありません。既存の二つの建物に外被を纏わせ、十三世紀の教会サンタ・マリア・イン・アラコエリの壁面を隠すように第三の建物を建てただけです。広場の大きさも、偶角をなす建物配置もミケランジェロは元々の形状に従っただけなのです。パーパレ通りから別れた街路を通しコルドナータを見上げると左右の手すり頂部には一対の像が立ちます。劇場のプロセニアムアーチのように舞台の両脇に古代ローマの聖なる双生児、カストルとポリュデウケスの像。この一対の像は1560年、この丘の近くで発掘されています。16・7世紀、ローマ建設の時代はまた発掘の時代でもあったからです。

2010年11月4日木曜日

コルソ流し、ノッリのローマ地図

十八世紀に作られた有名な地図があります、ノッリのローマ地図(1748年:図版)。
ネガフィルムの黒色部分を構成するかのようにビッシリと建ち並ぶ住宅やパラッツォ(宮殿)に聖堂、その中を貫き、広がりを持つ白色部分が街路であり、教会の内部空間となっています。
貧富貴顕に関わらず、全ての人々の生活と精神を支えるのがこの白色部分であり、庶民のための都市空間、公共の空間なのです。
つまり、ローマでは聖堂は全ての人々に開放された場所、ノッリの地図で見る限り、光が降り注ぐドーム屋根のもとの内部空間は都市の広場とまったく同じ意味と役割を持っていて、どちらも、誰もが自由に使える広場であり都市のリビングルームであることを示している。

十七世紀、改善されたとはいえ、ローマのパラッツォ(宮殿)での生活は決して快適ではない。
夏の暑さは貴族も庶民も全く同じです。
特に石づくりのパラッツォの中は、とても耐えきれるものではなかった。
従って、多くのパラッツォの住人は暑い一日が終わりかける頃、馬車を繰り出し夕涼みに出掛けるのが習慣となる。
出掛ける先はフウラミア通り、ポポロ広場の双子の聖堂を門とした中央の街路。
整備されたばかりのこの街路には涼やかな風が吹き通る。
そこには、すでに貴婦人たちの馬車が連らなっている。
彼女たちもまた夕涼み?。
若き貴族の殿方たちもまたパラッツォにいては体験できない風を求め、ゆっくりと街路を馬車で流していく。
それはオペラ劇場の桟敷席を訪ね歩く光景そのまま。
街路は次々にならぶ留め置かれた馬車で埋まり、それはまるでオペラ劇場の桟敷席。
馬車はご婦人方各々の部屋のように連なっている。
そして、夕涼みで馬車を流す若殿たちはその部屋(桟敷席)を一つ一つ訪ね歩く、愛らしき未来の伯爵夫人を見つけるために。

コルソは道筋を意味する。
夕方の道筋を馬車で流すことの流行は、そのまま「コルソ流し」として定着した。
そしていつか、ローマのメインストリートはコルソと呼ばれるようになり、フウラミア通りは現在のコルソ通りと名前を変えることになったのだ。
つまり、街路はローマという大建築の廊下であり応接間、あるいはまた前奏曲が鳴り響く桟敷席を持ったオペラ劇場となっていたと言えるようです。

ポポロ広場の双子の聖堂

 

 ローマの北の門、ポポロはフラミア街道から訪れる人々の為の玄関。
フランスやドイツから訪れる人々の到着点。
その門を入ると不正形なポポロ広場、幾世紀にも渡って神聖都市ローマの表玄関としての役割を果たしてきたところです。
そんな重要な広場ですから、オベリスクが立つのは最も早く、シクストゥス五世が最初に設置した四本の中の一本がここポポロ広場です。

紀元10年、ローマ皇帝アウグスティヌスがエジプトから持ち帰った、古代ローマにとっては最も重要なヘリオポリスのオベリクスが1589年、この場所に立てられた。
しかし、ローマの表玄関であるならまず必要だったものはオベリスクよりも噴水。
広場では眺めるということより、のどを潤し、汗を拭う場であることがまず求められる。
ヨーロッパから到着した人々はようやっとここで長い旅の終わりを実感する。
従って、ここの噴水は最も貴重、ローマ最初の公共噴水として1573年、教皇グレゴリウス十三世によって作られた。

ローマの玄関口であるこの広場が17世紀のバロック・ローマの都市整備の起点となるのは当然で、そのデザインは早くから多くの関心を呼んでいる。
それを最も特徴あるものにしたのは当時の著名な建築家カルロ・ライナルディ。
彼はオベリスクと噴水を持つこの広場にさらにユニークな二つの教会を作ることで特徴づける。
特徴を生み出すのは双子の聖堂、その建設は1662年に始まった。

かって、シクストゥス五世がこの広場にオベリクスを置いたのは単にローマの玄関口であったからだけではない。こここそ、彼が意図するバロック都市が成りたつためのプロトタイプと位置づけられていたからだ。
ポポロは多焦点ネットワークの為の主要な結節点としてデザインされている。
重要な場所に向かっての集中と、そこから他へ散っていく放射状街路の基点となるところをいかにデザインするか、それは視線を重視するバロック都市の基本的考え方を意味する。
シクストゥスはこことサンタ・マリア・マジョーレの広場を主要な焦点と位置づけ、重要なオベリスクを設置した。

リぺッタ通り、フラミア(コルソ)通り、パルヴィーノ通りという三つの主要街路がちょうど鳥の嘴のような形を持ち、このポポロのオベリスクを起点としローマの街奥深くへ踏み込んでいるはよく知られている。
しかし、この嘴の位置に双子の聖堂がこの三つの街路に挟まれる二つの用地に配置されていることは都市デザインの上では極めて重要。
左右に並びたつ聖堂は入口の門の役割が課せられデザインされているのだ。
真ん中を走るフラミア通り、この街路はローマの心臓部、カンピドリオに至る最も主要な街路だが、双子の聖堂はこの街路のゲートとなるような形で建設されている。
ドーム屋根をもった瓜二つの聖堂はどちらもライナルディのデザイン。
二つは一つ、カトリック・ローマの凱旋門と見なされているのだ。

左右どちらも全く同じ形に見える二つの聖堂だが、実はその建築は微妙に異なってい。
平面図を見ると、広場から見て左のサンタ・マリア・イン・モンテ・サントは楕円形、右のサンタ・マリア・デイ・ミラコリは円形の聖堂。
なぜ異なる形状を持ったのか。
それは広場から見ての正面の部分の敷地の幅は左側が狭く右側が広かったことが原因。
同じ形状の聖堂を前面の建築線を揃えたまま建築すると、敷地幅の狭い左側の聖堂は右に比べドームの直径が小さくなってしまう。
ライナルディはサンタ・マリア・デイ・モンティを楕円でつくり直径の位置を後退させることで、広場から見て二つの聖堂が同じ大きさの聖堂として並び立つように調整しているのだ。
フラミア通りの入口に建つの門の役割を担う為には、ポポロ広場の二つの聖堂は、お互いが左右対象の形態をとらせることが重要なことだった。

ここで大事なことは、建築の結果が都市の形態を作るのではなく、都市が建築を生み出しているということ。
都市空間が建築のデザインを、この場合は都市が聖堂の形を決定しているのだ。
バロック建築はその建築自身の内部空間も意味深いものがあるが、むしろ都市を演出する装置としてデザインされていることが重要なこと。
この時代は、建築の外部空間が都市なのではなく、都市は建築による内部空間であり、建築を作ることは、都市をデザインすることであったのです。




(via YouTube by AdinaAmironesei)

2010年11月3日水曜日

シクストゥス五世のバロック・ローマ

多焦点とその連結というバロックの都市システムを生み出したシクストゥス五世、彼にとって重要なことはローマをイメージとしてではなく、実際に訪れ体験した時、そのローマがまさに実感としてのカープト・ムンディ(世界の首府・頂点)であること。
ローマを観念ではなく現実として全く新しい都市とするもの、それは主要な教会堂を結ぶ幅広の直線道路の建設だけではなく、結節点となる広場に物語を与え、その場所に特別のイメージを持たせること。
その為にはオベリスクが必要不可決です。

直線道路だけの体験では場所の持つイメージは喚起できない。
道路にリズムと変化、あるいは道ゆく人にある種の抑制を与える結節点、そこには由緒ある教会堂が必要ですが、サンタ・マリア・マジョーレのような大きな建築物では、そこを焦点として意識づけるアクセントとしてはいささか大きすぎます。
大きな建築が立つ広場には細く鋭い垂直に立つ目印こそ重要。
シクストゥスはこのことに気づき、数々のオベリスクをローマ中の主要な広場に建設しました。

広場や大きな教会堂の前に垂直立つオベリスクは「多焦点とそれを結ぶ直線道路」という二次平面上に展開されたバロックの都市システムを三次元の空間へと拡張したことを意味しています。
従来の城壁内の一点を核としていた都市概念を無限の彼方まで包括することを可能としたバロックのシステムは、オベリスクによって平面だけではなく、立体的にも展開されたのです。
つまりオベリスクの建設はバロック都市をイメージとしての平面から具体的、現実的な立体へ、生身の人間が生きる実在的な空間へと変容したのです。

オベリスクの発明は古代エジプトです。
原始の丘に登る太陽の象徴として作られた直線的な塔はその後、古代ローマに略奪され、円形競技場やその他の公共的な場所を飾るエキゾティックなトロフィーとして利用されました。
かって皇帝ネロの戦車競技場にあったオベリスク、それはちょうどバティカンのサン・ピエトロの南側、サン・タンドレーア礼拝堂に隣接して立っていました。
そのオベリスクを大聖堂の正面に移動したいと考えたのはルネサンスのヒューマニスト法王と呼ばれたバチカンの再生者、ニコラウス五世が最初です。
しかし24m、500tにも及ぶモノリス(一本の石)を移しかえるのは至難の技。
このオベリスクは自分自身の重さだけで、すでに地表深く沈んでいました。
ミケランジェロは不可能といい、ヨーロッパ中から何百と寄せられた案の中にもこのオベリスクを移動する妙案は見つかりません。
家屋が密集した地区を通過させる手段もまた皆無です。
しかし、法王シクストゥス5世の命をうけたドメニコ・フォンタナ、彼は決して自信があったわけではないが、建築家の使命を掛け、この大事業を成功させると宣言してしまいたした。

「ある都市の伝記」を書いたクリストファー・ヒバートはこの日の作業を次のように記しています。
「1586年4月30日、2時に作業が開始された。見物できる窓や屋上は残らず成り行きを見守る顔で満ち溢れていた。下方では総勢八百人のサン・ピエトロ大聖堂の労働者たちが、夜明けにミサに列席したのち、ロープや巻き上げ機の傍らで、フォンタナが一段高くなった檀上に立って穴からオベリスクを持ち上げる合図をするのを、立ったまま待ち受けていた。オベリスクは藁の蓆と鉄の帯金を巻いた厚板で保護されて、揺るぎない姿を見せ、また群衆の中の幾人かが述べたように、頑丈な支柱と横桁で組まれたピラミッド型の桁組の中で、微動だにしないかのように建っていた。その時が片手を上げ、喇叭が鳴り響いて、労働者たちと百四十頭の荷馬車馬が全力をふり絞ってロープを引っぱると、巻き上げ機がキーキーと軋りながら動き出し、見物人たちの拍手とサン・タンジェロ城の大砲の轟音と鐘の響きの中で、巨大な方尖柱は地面からゆっくりと持ち上がった。その後水平に地面のころの上に横たえられた。オベリスクが持ち上げられるのを見物したよりもさらに大勢の人々が、十字架称賛の祝日(9月14日)に再び真っ直ぐに建られるのを見物するために、サン・ピエトロ広場に集まった。しかし彼らは固唾をのみながら無言のまま集まった。教皇が、少しでも作業を危険に晒すような音を立てる者は即刻処刑すると命じており、命令に恐るべき権威を付与するために広場に絞首台が組み立てられたからである。それでもオベリスクが持ち上げられ、一瞬地響きを立てて再び地面に落ちてしまうかと思われた瞬間、ある男が大声のジェノヴァ方言で叫んだ。「ロープに水を」。それはボルディゲーラからきた水夫で、ロープが摩擦熱で焦げてしまう寸前であるのを見てとったのである。教皇の命令に対するこの男の勇敢な違反は報われて、聖下にお願いがあれば申すようにと求められた。この男は生まれ故郷の都市ジェノヴァが今後毎年枝の主日(復活祭直前の日曜日)にサン・ピエトロ大聖堂のための棕櫚の献上を許されるように願ったと伝えられる。この願いは喜んで聞き届けられ、何世紀もの間守られた。」(p252)

翌年にはシクストゥス計画の最も重要な街路、フェリーチェ街道の中央、サンタ・マリア・マジョーレ広場にアウグストゥス廟墓からのオベリスクが建られました。
さらに翌年にはサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノの広場にも、そしてまたその翌年、1589年、バロック都市ローマの玄関口ポポロ広場には、紀元前十年ラメセス二世の時代のヘリオポリスの太陽の神殿のオベリスクが据えられたのです。
同時期はまさにサン・ピエトロの大クーポラの完成間際。
どのオベリスクもその頂部には大クーポラ同様球形の地球が載せられ、十字架が加えられています。
それは、エジプトの太陽崇拝を土台としてのことですが、カトリック・ローマのキリスト教における世界制覇の実現を、天高く表明しているのです。

2010年11月1日月曜日

ミケランジェロ(サン・ピエトロ大聖堂の計画案)

現在のサン・ピエトロ大聖堂の最終案はミケランジェロの計画。ローマに呼び出され、ユリウス二世に託された彼の仕事はシスティーナ礼拝堂の天井画と壁画の制作だった。ブラマンテやラファエロが進めているサン・ピエトロ大聖堂の計画は当時のローマ最大の関心事、ミケランジェロとて当然、気にはなっていたであろうが、彼にその任が与えられることも、また彼がそれに関わる為の時間もなかった。
ユリウス2世が他界しブラマンテ、ラファエロが没した後、計画はメディチ家のレオ10世によってアントニオ・サンガロに任された。しかし、その時すでにカール5世のドイツとの関係は著しく悪く、資金も集まらないまま計画は遅々として進まない。そして、1527年、サッコ・デ・ローマ。大聖堂の建設はおろかローマはわずか3日間で壊滅してしまった。
ミケランジェロがサン・ピエトロ大聖堂の建設に乗り出すのは1546年、晩年も晩年七十二歳の時のこと。彼は36年以降カンピドリオの広場の建設をパウロス三世から任されローマにいたが、前任の教皇庁主任建築家アントニーオ・サンガロが亡くなると、いよいよサンピエトロ大聖堂の建設に携わることになった。

「ブラマンテが、古代以来の名のある人物と同じく、建築に熟達していたことは、何人も否定できない。彼はサン・ピエトロの最初の計画を立てたが、それは乱雑なものではなく、明快で、単純で、輝かしいもので、宮殿のどの部分にも損傷を与えないようなやり方で分離独立しているデザインである。それは美しいデザインだと評価されてきたが、いま見ても明らかに美しい。それゆえ、サンガロが言ったように、ブラマンテの指図から離れた者は誰でも、真実からも離れてしまうのだ」。
サンガロの案を「まるで牛の放牧地だ」と非難するミケランジェロはブラマンテに立ち戻り集中式平面で設計する。すでに完成した柱の一部を取り壊すことまでした彼の最大の成果は、遅れていた工事を迅速に捗らせたことにある。
ミケランジェロはブラマンテの素案では構造的に実現不可能なドームを可能な形で具体的に示し、それに基づいた規模の設定と支柱の工事を行い、彼自身が没する1564年までには、そのドームの建設の直前のところまで工事を進行させた。

大ドームを実現するために、全体の面積を小さくし、支柱をとてつもなく大きくした結果、ブラマンテの意図した、小さな自立した空間が次々と連なり、大空間に集結するというイメージは完全に消えてしまった。従って、図面で比べれてみれば、空隙部分より柱となる支持部分のほうが圧倒的に多くなったかのような内部空間ではあるが、大聖堂は老年のミケランジェロの理屈よりも実践の力によって見事、実現されることとなった。

注目しなければならないのはドームの形態。ブラマンテは当然、聖堂だから、内外とも正半球によって計画した。
失敗の許されない大聖堂の大ドームの建設、全体の規模まで縮小してまでのチャレンジでしたが、さすがのミケランジェロも正半球ドームでの実現は不可能であったのです。
したがって、ここはフィレンツェのドーム同様、自重に耐える紡錘形となったが、その内部天井は正確な正半球形態で見事完成されている。主任建築家ミケランジェロの深い坤吟がここに表れていることを見逃してはならない。