(via Youtube by Giocvanni Palestrina-Missa Papae Marcelli - Kyrie)
2010年11月10日水曜日
ローマのパレストリーナ
(via Youtube by Giocvanni Palestrina-Missa Papae Marcelli - Kyrie)
ア・カペラとカストラート
(via Youtube : Allegri-Miserere)
カストラートの誕生も実はこの頃のこと。礼拝堂の中では、徐々にではあるが、より強く、より幅広い音域を持つ彼らの歌声が重要な役割を占めていきます。カストラートとは声変わりを迎える少年時代に去勢し、青年になっても子ども時代の高音で歌える男性ソプラノ歌手のことです。男性であるが故にその歌声は圧倒的に力強い、そして高音です。様々な音量と音域の歌手の歌声が合唱され、音楽はますますその表現領域を広めていきました。無伴奏の歌曲と女性に頼ることのない高音の歌手の誕生は、やがて始まるオペラの時代の中心的役割を担うもの、後々はカペラで生まれたカストラートが世俗のオペラの大スターとなって行くのです。
システィーナ礼拝堂

ユリウス二世は叔父にならい音楽にも貢献している。
(via YouTube by bacabaca420)
2010年11月6日土曜日
ベルニーニのサン・ピエトロ広場
サン・ピエトロ広場計画の基点となるのはもちろん、その中央に立つ巨大なオベリスク。
扁平な楕円の形状に柱が並べられた列柱廊(コロンナート)、その形態は閉じられていると同時に開かれている。
壁ではなくスクリーンとして作られたことの意味はさらに大きいなことを意味する。
楕円形の列柱廊で囲まれたサン・ピエトロ広場は大ドームと全く同じ寓意を秘めている。
(via YouTube by castrovllllgluseppe)
2010年11月5日金曜日
劇場としてのカンピドリオ広場
計画案は一見、コルシーニャの丘のピエンツァの理想都市を思い起こさせます。台形の広場を囲み、正面に舞台背景のような建築を配しているからです。http://sadohara.blogspot.jp/2012/09/blog-post_28.html
しかし、ピエンツァの計画からすでに八十年余り、アルベルティの理想もミケランジェロの時代に至っては大きく変質しています。ミケランジェロの時代とは美術史でいうマニエリスムの時代です。静縊なウルビーノの理想都市図が現実的なセルリオの都市風景に変容するように、あるいは聖堂のモテトゥスより宮廷での知的なマドリガーレが人気を博す時代です。
十六世紀始めの芸術はルネサンスの持つ等質等方な静的秩序から動的で現実的、感情的経験の対象へと変わっていきました。つまり、広場は最早、かってのように都市の理念を想起させる場ではなく、視覚的世界、舞台背景として作る必要があったのです。そして、ここからがミケランジェロの面目躍如たる計画です。バロック都市あるいは劇場都市ローマを先駆けるこの広場は只眺めるためだけの広場ではありません。そこは動的に体験する場、実感をもってドラマを体験する場としてデザインされているのです。
コルドナータ(階段状の斜路)をゆっくりと登ると、中央のマルクス・アウレリウス像と左右の邸館は舞台上の透視画法を強調するように立ち上がってくるように感じられます。正面は騎馬像の背景としてのパラッツォ・デル・セナトーリオです。かっての元老院、中世には市庁舎として使われたこの建物、ミケランジェロは鐘塔を中央に付け替え、主階玄関テラスへの階段を左右に設置しました。対称形に置かれた階段の側面で囲われた三角形の中央のニッチには、これもまた古代ローマ時代のもの、ミネルヴァ像が据えられています。その左右にはナイルとテヴェレの川の神が座しこの像を守っています。広場の内部に立入ると、ここは屋根のない建築の内部空間の趣きです。ここはまさにドラマの中の古代ローマを体験する場として設えられているのです。
マルクス・アウレリウスを起点とした正面の舞台構成を都市ローマを守護する祭壇とするならば、広場はちょうどその聖堂の身廊の役割を担っているように見えてきます。左右の邸館のファサードを飾る大きなピラスター(壁柱)、基壇に載り厚いコーニスを支えるコリントの柱頭を持つこのジャイアント・オーダーが聖堂の身廊を構成する列柱となっています。その背後が小さな円柱が立ちならぶ側廊なのです。大きなピラスターの両脇に建つ小さな一層分の円柱が側廊部分列柱を構成している。つまり、この内部空間あるいはドラマの空間は、別の見方では、カソリック聖堂を見慣れた人であるならば、ここは聖堂の内部空間の構成と全く同じでもあることがわかります。
一方、広場を囲む左右の邸館は建物というより舞台を構成するスクリーンに過ぎません。ミケランジェロはこの一枚のスクリーンに異なる尺度のピラスターと円柱を組み合わせることで、小さな広場を一幅の絵であることより、動き回ることで具体的に体験できる古代神殿あるいは中世聖堂という演劇的世界としてデザインしているのです。
空間のドラマとみなしうるカンピドリオの広場では床面の模様は特に重要な意味を持っています。ピエンツァの広場と同様、透視画法としては逆台形、遠方の風景を近寄せる効果を持つ平面形状ですが、この広場の床面のデザインはピエンツァのような単純な透視画法としての距離、後退を表現するものではありません。
左右の列柱が都市の内部空間としてのドラマを表現しているように、楕円形と放射状の石貼りで構成された床面はルネサンスの静縊や安定性とは全く異なる意味と体験を我々に準備しています。正方形でも正円でもない床面は完全であることより不完全、静止することより動くことを要求しています。楕円形はその空間に中心性は与えますが、それと同時に長軸の強さをも強調します。
コルドナータを登り、楕円の長軸の一端にたどり着いた我々は祭壇に向かう身廊を進むことを強要されるのです。しかし、その中央には騎馬像ですから放射状の床石に促され回り込まなければなりません。そして、我々は楕円の単軸の一端に立たされることになります。そこから眺められるこの騎馬像はまさにジャイアント・オーダーを背景とし、古代ローマの都市を凱旋するマルクス・アウレリウスそのものの現実の姿に立ち会わされます。
再び正面に目を転じ、祭壇に赴きますと、そこは聖堂であるならば十字交差部分、空間は左右一気に解放されます。この開放はコルドナータと直行する新たな軸を生み出しているわけですが、正面右手は公園に続くギャラリーへ、左手はサンタ・マリア・イン・アラコエリ教会に向かう階段となり開かれています。この軸に平行するパラッツォ・デル・セナトーリオの階段を昇ると、この建物の玄関ポーチ、爽やかな風が感じられる空間です。振り返り見おろせば広場と騎馬像、それを取り巻く多くの人々、上げた視線のかなたは一望のもとのローマ、そこに広がるのは現実の都市ローマのドームと瓦屋根の建築群。マルクス・アウレリウス右手を挙げ、この幻想と現実にある永遠の都市ローマを賞賛しています。そして再び床面に目を凝らしてみましょう。この騎馬像を頂点とし床面は突然、円形の凸状の形態を描き盛り上がってくるではありませんか。それはまさに地球の曲面のように見えます。つまり、ここで意味するものは世界の頂(カプート・ムンディ)に立つマルクス・アウレリウス帝に他なりません。ルネサンスから隔たったとはいえミケランジェロもまた穏やかな安定した理想都市をイメージしているのです。しかし、その方法は絵画ではなくドラマとして。ミケランジェロは我々を客席ではなく舞台の上に立たせ、理想都市ローマを実感させるべく、この広場をデザインしたのです。
カンピドリオ広場の持つメッセージ
ローマに七つの丘があり、カピトリーノの丘はその中央に位置します。古代ローマ時代、この丘は幾つかの神殿がたてられた聖地、中世にあっては教皇庁にも対抗出来る都市国家ローマの政庁舎が建つところ。長きにわたってのローマの中心、文字通り「すべての道はローマに通じる」、そのローマの終着点です。ミケランジェロはこの時期、教皇の私邸パラッツォ・ファルネーゼ(現在のフランス大使館)の建設にも忙殺されていましたが、カール五世の凱旋により、急遽、カピトリーノの丘、カンピドリオ広場の整備に取り掛かることになりました。(ファルネーゼ宮殿は十九世紀末に作られたプッチーニのオペラ・トスカの舞台として知られています。守旧派警視総監スカルピオ男爵の拠点、アリア「歌に生き、愛に生き」を歌うトスカが男爵を刺殺するクライマックスの舞台が、この時代、ミケランジェロによって建設が進められていた。)
バロック都市ローマの計画は平坦な主要街路の結節点に噴水とオベリスクを持った広場を置き、その広場を多焦点化することで、視覚的にも観念的にもわかり易い都市構成を目指しますが、カンピドリオ広場は街路の結節点ではなく、また、丘の上の広場です。平坦な結節点でのオベリスクは視覚的にも意味的にも広場の性格を演出する上で極めて有効な装置となりますが、丘の上で高すぎて役にたちません。カンピドリオ広場の演出においてはミケランジェロはオベリスクではなく、マルクス・アウレリウス帝の騎馬像を設置しました。中世の時代、古代ローマの遺物はすべて異教に属するものとみなされ、大半は破壊されましたが、この像は誤解により破壊を免れました。ラテラノ大聖堂の一隅にあり魔除けのごとく思われていたこの騎馬像は当初、コンスタンチヌス大帝の像であると見なされていたからです。コンスタンチヌスは四世紀始めにキリスト教寛容令を発布した、カソリックにとっては意味深い重要な皇帝です。その皇帝の像が古代ローマの聖地に建つことは、カソリックが古代ローマをも凌駕し、世界の冠たることを示す絶好の情景でもあると考えられました。
ミケランジェロはまず、騎馬像の広場への移動を監督し、台座の制作をおこないました。しかし、設置の際には既に、この像はコンスタンテイヌスではなくマルクス・アウレリウスであることは判っていたようです。彫刻家であるミケランジェロからみれば、騎馬像はかけがえのない美術品です。彼が生み出しつつあるカンピドリオの広場を象徴する、欠くことの出来ない芸術作品とみなしていました。彫刻像はもともと建築物の付属品、その一部とされるか、精々一隅に置かれるのが通例です。しかし、ミケランジェロはこの騎馬像を広場の中央に設置したのです。このことだけで、すでにカピトリーノの丘は重要なメッセージを発揮し始めました。フラミア街道、ノメンタナ街道、アッピア街道という、かってのローマ帝国の隅々からの全ての道の終着点の丘の上に建つマルクス・アウレリウス騎馬像、それは「すべての道はローマに通じる」ことを文字通り示すことであり、多くの人々にこの場所こそ再び古代ローマのカプート・ムンディ(世界の中心)であることを示し始めたのです。カンピドリオ広場はコンスタンティヌス像による、カソリック・ローマの象徴以上に、広場の中央に建つアウレリウス騎馬像によって、北の国々に対し古代ローマ帝国をも想起させ、カンピドリオ広場が世界の中心であることを示しました。
マルクス・アウレリウス像はローマの中心からサン・ピエトロ大聖堂に至る主要街路パーパレ通りからの軸線と対峙する位置関係にあります。ミケランジェロは広場に立つ騎馬像の眼下からこの街路に対し一直線、幅が広くゆったりとしたコルドナータ(階段状の斜路)を計画しています。このコルドナータによって古代ローマの象徴マルクス・アウレリウスはカトリック・ローマの首府とも関連づけられ、古代からカソリックへと続く不滅の都市ローマをつよく意識づけることが目論まれていました。皇帝カール五世凱旋の際、ミケランジェロに可能であったことは、この騎馬像の設置と仮設の記念門のいくつかを、アッピア街道から続く街路のそこここに設置したことに過ぎません。しかし、この時のミケランジェロの構想によるカンピドリオ広場は、その後、本質的な変更は一切なく、100年余りのちの1655年に完成します。広場の計画でミケランジェロは決して難しいことをしたわけではありません。既存の二つの建物に外被を纏わせ、十三世紀の教会サンタ・マリア・イン・アラコエリの壁面を隠すように第三の建物を建てただけです。広場の大きさも、偶角をなす建物配置もミケランジェロは元々の形状に従っただけなのです。パーパレ通りから別れた街路を通しコルドナータを見上げると左右の手すり頂部には一対の像が立ちます。劇場のプロセニアムアーチのように舞台の両脇に古代ローマの聖なる双生児、カストルとポリュデウケスの像。この一対の像は1560年、この丘の近くで発掘されています。16・7世紀、ローマ建設の時代はまた発掘の時代でもあったからです。
2010年11月4日木曜日
コルソ流し、ノッリのローマ地図
十八世紀に作られた有名な地図があります、ノッリのローマ地図(1748年:図版)。
ネガフィルムの黒色部分を構成するかのようにビッシリと建ち並ぶ住宅やパラッツォ(宮殿)に聖堂、その中を貫き、広がりを持つ白色部分が街路であり、教会の内部空間となっています。
貧富貴顕に関わらず、全ての人々の生活と精神を支えるのがこの白色部分であり、庶民のための都市空間、公共の空間なのです。
つまり、ローマでは聖堂は全ての人々に開放された場所、ノッリの地図で見る限り、光が降り注ぐドーム屋根のもとの内部空間は都市の広場とまったく同じ意味と役割を持っていて、どちらも、誰もが自由に使える広場であり都市のリビングルームであることを示している。
十七世紀、改善されたとはいえ、ローマのパラッツォ(宮殿)での生活は決して快適ではない。
夏の暑さは貴族も庶民も全く同じです。
特に石づくりのパラッツォの中は、とても耐えきれるものではなかった。
従って、多くのパラッツォの住人は暑い一日が終わりかける頃、馬車を繰り出し夕涼みに出掛けるのが習慣となる。
出掛ける先はフウラミア通り、ポポロ広場の双子の聖堂を門とした中央の街路。
整備されたばかりのこの街路には涼やかな風が吹き通る。
そこには、すでに貴婦人たちの馬車が連らなっている。
彼女たちもまた夕涼み?。
若き貴族の殿方たちもまたパラッツォにいては体験できない風を求め、ゆっくりと街路を馬車で流していく。
それはオペラ劇場の桟敷席を訪ね歩く光景そのまま。
街路は次々にならぶ留め置かれた馬車で埋まり、それはまるでオペラ劇場の桟敷席。
馬車はご婦人方各々の部屋のように連なっている。
そして、夕涼みで馬車を流す若殿たちはその部屋(桟敷席)を一つ一つ訪ね歩く、愛らしき未来の伯爵夫人を見つけるために。
コルソは道筋を意味する。
夕方の道筋を馬車で流すことの流行は、そのまま「コルソ流し」として定着した。
そしていつか、ローマのメインストリートはコルソと呼ばれるようになり、フウラミア通りは現在のコルソ通りと名前を変えることになったのだ。
つまり、街路はローマという大建築の廊下であり応接間、あるいはまた前奏曲が鳴り響く桟敷席を持ったオペラ劇場となっていたと言えるようです。
ポポロ広場の双子の聖堂
ローマの玄関口であるこの広場が17世紀のバロック・ローマの都市整備の起点となるのは当然で、そのデザインは早くから多くの関心を呼んでいる。
かって、シクストゥス五世がこの広場にオベリクスを置いたのは単にローマの玄関口であったからだけではない。こここそ、彼が意図するバロック都市が成りたつためのプロトタイプと位置づけられていたからだ。
リぺッタ通り、フラミア(コルソ)通り、パルヴィーノ通りという三つの主要街路がちょうど鳥の嘴のような形を持ち、このポポロのオベリスクを起点としローマの街奥深くへ踏み込んでいるはよく知られている。
左右どちらも全く同じ形に見える二つの聖堂だが、実はその建築は微妙に異なってい。
ここで大事なことは、建築の結果が都市の形態を作るのではなく、都市が建築を生み出しているということ。
(via YouTube by AdinaAmironesei)
2010年11月3日水曜日
シクストゥス五世のバロック・ローマ
多焦点とその連結というバロックの都市システムを生み出したシクストゥス五世、彼にとって重要なことはローマをイメージとしてではなく、実際に訪れ体験した時、そのローマがまさに実感としてのカープト・ムンディ(世界の首府・頂点)であること。
ローマを観念ではなく現実として全く新しい都市とするもの、それは主要な教会堂を結ぶ幅広の直線道路の建設だけではなく、結節点となる広場に物語を与え、その場所に特別のイメージを持たせること。
その為にはオベリスクが必要不可決です。
直線道路だけの体験では場所の持つイメージは喚起できない。
道路にリズムと変化、あるいは道ゆく人にある種の抑制を与える結節点、そこには由緒ある教会堂が必要ですが、サンタ・マリア・マジョーレのような大きな建築物では、そこを焦点として意識づけるアクセントとしてはいささか大きすぎます。
大きな建築が立つ広場には細く鋭い垂直に立つ目印こそ重要。
シクストゥスはこのことに気づき、数々のオベリスクをローマ中の主要な広場に建設しました。
広場や大きな教会堂の前に垂直立つオベリスクは「多焦点とそれを結ぶ直線道路」という二次平面上に展開されたバロックの都市システムを三次元の空間へと拡張したことを意味しています。
従来の城壁内の一点を核としていた都市概念を無限の彼方まで包括することを可能としたバロックのシステムは、オベリスクによって平面だけではなく、立体的にも展開されたのです。
つまりオベリスクの建設はバロック都市をイメージとしての平面から具体的、現実的な立体へ、生身の人間が生きる実在的な空間へと変容したのです。
オベリスクの発明は古代エジプトです。
原始の丘に登る太陽の象徴として作られた直線的な塔はその後、古代ローマに略奪され、円形競技場やその他の公共的な場所を飾るエキゾティックなトロフィーとして利用されました。
かって皇帝ネロの戦車競技場にあったオベリスク、それはちょうどバティカンのサン・ピエトロの南側、サン・タンドレーア礼拝堂に隣接して立っていました。
そのオベリスクを大聖堂の正面に移動したいと考えたのはルネサンスのヒューマニスト法王と呼ばれたバチカンの再生者、ニコラウス五世が最初です。
しかし24m、500tにも及ぶモノリス(一本の石)を移しかえるのは至難の技。
このオベリスクは自分自身の重さだけで、すでに地表深く沈んでいました。
ミケランジェロは不可能といい、ヨーロッパ中から何百と寄せられた案の中にもこのオベリスクを移動する妙案は見つかりません。
家屋が密集した地区を通過させる手段もまた皆無です。
しかし、法王シクストゥス5世の命をうけたドメニコ・フォンタナ、彼は決して自信があったわけではないが、建築家の使命を掛け、この大事業を成功させると宣言してしまいたした。
「ある都市の伝記」を書いたクリストファー・ヒバートはこの日の作業を次のように記しています。
「1586年4月30日、2時に作業が開始された。見物できる窓や屋上は残らず成り行きを見守る顔で満ち溢れていた。下方では総勢八百人のサン・ピエトロ大聖堂の労働者たちが、夜明けにミサに列席したのち、ロープや巻き上げ機の傍らで、フォンタナが一段高くなった檀上に立って穴からオベリスクを持ち上げる合図をするのを、立ったまま待ち受けていた。オベリスクは藁の蓆と鉄の帯金を巻いた厚板で保護されて、揺るぎない姿を見せ、また群衆の中の幾人かが述べたように、頑丈な支柱と横桁で組まれたピラミッド型の桁組の中で、微動だにしないかのように建っていた。その時が片手を上げ、喇叭が鳴り響いて、労働者たちと百四十頭の荷馬車馬が全力をふり絞ってロープを引っぱると、巻き上げ機がキーキーと軋りながら動き出し、見物人たちの拍手とサン・タンジェロ城の大砲の轟音と鐘の響きの中で、巨大な方尖柱は地面からゆっくりと持ち上がった。その後水平に地面のころの上に横たえられた。オベリスクが持ち上げられるのを見物したよりもさらに大勢の人々が、十字架称賛の祝日(9月14日)に再び真っ直ぐに建られるのを見物するために、サン・ピエトロ広場に集まった。しかし彼らは固唾をのみながら無言のまま集まった。教皇が、少しでも作業を危険に晒すような音を立てる者は即刻処刑すると命じており、命令に恐るべき権威を付与するために広場に絞首台が組み立てられたからである。それでもオベリスクが持ち上げられ、一瞬地響きを立てて再び地面に落ちてしまうかと思われた瞬間、ある男が大声のジェノヴァ方言で叫んだ。「ロープに水を」。それはボルディゲーラからきた水夫で、ロープが摩擦熱で焦げてしまう寸前であるのを見てとったのである。教皇の命令に対するこの男の勇敢な違反は報われて、聖下にお願いがあれば申すようにと求められた。この男は生まれ故郷の都市ジェノヴァが今後毎年枝の主日(復活祭直前の日曜日)にサン・ピエトロ大聖堂のための棕櫚の献上を許されるように願ったと伝えられる。この願いは喜んで聞き届けられ、何世紀もの間守られた。」(p252)
翌年にはシクストゥス計画の最も重要な街路、フェリーチェ街道の中央、サンタ・マリア・マジョーレ広場にアウグストゥス廟墓からのオベリスクが建られました。
さらに翌年にはサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノの広場にも、そしてまたその翌年、1589年、バロック都市ローマの玄関口ポポロ広場には、紀元前十年ラメセス二世の時代のヘリオポリスの太陽の神殿のオベリスクが据えられたのです。
同時期はまさにサン・ピエトロの大クーポラの完成間際。
どのオベリスクもその頂部には大クーポラ同様球形の地球が載せられ、十字架が加えられています。
それは、エジプトの太陽崇拝を土台としてのことですが、カトリック・ローマのキリスト教における世界制覇の実現を、天高く表明しているのです。
2010年11月1日月曜日
ミケランジェロ(サン・ピエトロ大聖堂の計画案)
現在のサン・ピエトロ大聖堂の最終案はミケランジェロの計画。ローマに呼び出され、ユリウス二世に託された彼の仕事はシスティーナ礼拝堂の天井画と壁画の制作だった。ブラマンテやラファエロが進めているサン・ピエトロ大聖堂の計画は当時のローマ最大の関心事、ミケランジェロとて当然、気にはなっていたであろうが、彼にその任が与えられることも、また彼がそれに関わる為の時間もなかった。
ユリウス2世が他界しブラマンテ、ラファエロが没した後、計画はメディチ家のレオ10世によってアントニオ・サンガロに任された。しかし、その時すでにカール5世のドイツとの関係は著しく悪く、資金も集まらないまま計画は遅々として進まない。そして、1527年、サッコ・デ・ローマ。大聖堂の建設はおろかローマはわずか3日間で壊滅してしまった。
ミケランジェロがサン・ピエトロ大聖堂の建設に乗り出すのは1546年、晩年も晩年七十二歳の時のこと。彼は36年以降カンピドリオの広場の建設をパウロス三世から任されローマにいたが、前任の教皇庁主任建築家アントニーオ・サンガロが亡くなると、いよいよサンピエトロ大聖堂の建設に携わることになった。
「ブラマンテが、古代以来の名のある人物と同じく、建築に熟達していたことは、何人も否定できない。彼はサン・ピエトロの最初の計画を立てたが、それは乱雑なものではなく、明快で、単純で、輝かしいもので、宮殿のどの部分にも損傷を与えないようなやり方で分離独立しているデザインである。それは美しいデザインだと評価されてきたが、いま見ても明らかに美しい。それゆえ、サンガロが言ったように、ブラマンテの指図から離れた者は誰でも、真実からも離れてしまうのだ」。
サンガロの案を「まるで牛の放牧地だ」と非難するミケランジェロはブラマンテに立ち戻り集中式平面で設計する。すでに完成した柱の一部を取り壊すことまでした彼の最大の成果は、遅れていた工事を迅速に捗らせたことにある。
ミケランジェロはブラマンテの素案では構造的に実現不可能なドームを可能な形で具体的に示し、それに基づいた規模の設定と支柱の工事を行い、彼自身が没する1564年までには、そのドームの建設の直前のところまで工事を進行させた。
大ドームを実現するために、全体の面積を小さくし、支柱をとてつもなく大きくした結果、ブラマンテの意図した、小さな自立した空間が次々と連なり、大空間に集結するというイメージは完全に消えてしまった。従って、図面で比べれてみれば、空隙部分より柱となる支持部分のほうが圧倒的に多くなったかのような内部空間ではあるが、大聖堂は老年のミケランジェロの理屈よりも実践の力によって見事、実現されることとなった。
注目しなければならないのはドームの形態。ブラマンテは当然、聖堂だから、内外とも正半球によって計画した。
失敗の許されない大聖堂の大ドームの建設、全体の規模まで縮小してまでのチャレンジでしたが、さすがのミケランジェロも正半球ドームでの実現は不可能であったのです。
したがって、ここはフィレンツェのドーム同様、自重に耐える紡錘形となったが、その内部天井は正確な正半球形態で見事完成されている。主任建築家ミケランジェロの深い坤吟がここに表れていることを見逃してはならない。






