シェーンベルグは「無調」を開いた音楽家、しかし、弦楽六重奏「浄められた夜」等を聴く限り、内面表現の芸術家とも言える。彼は絵画のカンディンスキーとも親しく近代の表現主義運動の人と目されている。
アドルノが評価するのは、シェーンベルグがマニュアルから生み出された「調性音楽」を「無調」に変えたことにある。「調性」を手書きの音とは異なり、外部からの装飾として嫌っていた
シェーンベルグは「
装飾と犯罪」を書いた建築家
ロースとは同じ頃、同じ街ウィーンで同じ空気を共有していたのだ。
ロマン主義者でもあるシェーンベルグ、彼は自分自身が生み出した十二音音列に対してさえ忌避感を示すこともあった。事実、弟子にはその技法を教えようとはせず、授業時間のほとんどはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、等の分析であったという。シェーンベルグが考えていたのは伸び縮みし、呼吸し、主張する音楽であり、図式的でメカニックな音楽ではない。彼にとって音楽は有機的な自然であり、ロマン主義そのものであったと言える。
アドルノの芸術哲学から敷衍すれば、近代音楽は啓蒙主義の同一性のもとにある「
ソナタ形式」から離れ、「無調」をめざすことで、新たな音楽創作の道を開いたのだが、アドルノは 「無調」以降のシェーンベルグ、彼の
十二音音列の持つ機械的な合理性を批判している。しかし、新音楽は「無調」から「十二音音列」へ、さらに「不確定性音楽」へと向かうのだが、それはまたその後のモダン建築と同じように、外部からの「同一性」あるいは「合理性」を徐々に採用していく方向。結果として新音楽の創作もまた不活発な状況に置かれる。
ウンベルト・エーコは「開かれた作品」で「不確定性音楽」について触れている。彼は作者と受容者とのコミュニケーションレヴェルにおける同定の保証、作者から受容者への透明な通路といううロマン主義的な概念を無効なものとした。「単一のシニファインにおける多様なシニフィエ」としてのテクストは、事象レヴェルにおいては完成している「閉ざされた作品」でありながらも、コミュニケーションレヴェルにおいて「未完の作品」である、と書いている。
不確定性音楽において、「その作品がどのように仕上げられうるのか、正確には知らない」というエーコだが、彼は作品において隠れた存在として機能する、そうした未完結性はカオスではなく、諸関係の組織化を可能とする糸口があるのなら、これもまた作品と書いている。完成されていなくとも、作品は作者のもの。エーコの「開かれた作品」を読みながら、現在の音楽と建築の置かれている状況、その困難さを切り開く道に直接触れているような気がする。
エーコは芸術作品にあって「解釈関係」が成熟し「批判的自覚」に到達したのは現代美学に至ってからとし、開かれた作品という概念には歴史的展開と文化的諸要因があると強調する。中世において聖書に書かれている内容を解読するには「寓意解釈作業」が必要とされた。バロックはルネサンスの古典的形式の持つ静的で明確な確定性に対し、動的であり現代的意味での<開かれ>のはっきりした様相を見出すことができる、としている。
ルネサンスは中心軸をめぐって展開され、中心と共謀する相称線と閉じた視点によって限定され、運動というよりむしろ<本質的>永遠性の観念を暗示すべき空間の確定性があるのだが、バロックでは充実と空虚との、明と暗との戯れにおいて、その曲線と折れ線、より多様な角度からの視点によって効果の不確定性へと向かい、空間の漸次的膨張を暗示する。
動きとイリュージュンを追求する結果、バロックの造形群は、一定の特権的な正面視を許容せず、観者が絶えず動いて、あたかも作品が絶えず変貌するかのように、作品を常に新たな相の下に見るよう誘うことになる。
動的なものとしての「開かれた」作品は作者とともに作品の作ることへの誘いによって特徴づけられる。刺激の総体を知覚する行為において受容者が発見し、その発見における展望、趣味、演奏に応じて作品を甦らせる受容者は自由に散策する創造主となるのだ。
作曲家、演奏者、聴衆に作品制作を要請する不確定な作品。しかし、それは創作レベルでは「開かれ」であり、感受レべルでは操作の及ばない「開かれ」ではない。外的な開かれ=内的な開かれ、エーコの「開かれた作品」は感受レベルの持つ能動性、操作の介在しない「内的な開かれ」の方に力点がおかれている。
ヨーロッパ社会における作品と作家の誕生はイタリア・ルネサンス期、中世キリスト教社会から人間中心社会への変容期にあった。そこでは表現メディアとして透視画法とグーテンベルグの印刷術の発見が大きな役割を果たしている。そして現代、我々の情報環境は印刷術から電脳術へと変容しつつある。
印刷術時代を主導するのはブロード・キャスト、つまり作者であるが、電脳術の時代にあってはスキャニング、受容者(リセプター)こそ、その情報環境の主役。エーコの「開かれた作品」への関心が高いのはまさに、この電脳術の時代の表現、作者=受容者の関係を明確にし、新たな作品制作の方法を見いだすことではないだろうか。