アリストテレスやユークリッドやアルキメデスを知ったのはザンクト・ガレンにおけるイスラム文明の接触を通じてのこと。十二世紀、ザンクト・ガレンに始まった研究活動は三・四世紀後にはギリシャの学問を完全消化吸収し、新たな科学的合理思考を形成する。その典型がコペルニクスやケプラーの開いた世界。
しかし、彼らの考え方とてギリシャ流の思考の枠内、つまり依然として、静止した絵のような空間にかかわる概念に支配されていて、時間的変化、空間上の位置変化、天体の運動に関する記述という問題には全く踏み込んではいない。
運動を数学的に記述する方法をつかんだのはガリレオ・ガリレイ。彼は時間を記述し計量化することで物体の自由落下の法則を発見した。
運動を記述するには移動距離、速度、速度の変化が必要だが、彼は速度や速度の変化は経過した時間との関係で表されるということに気がついた。さらに時間の経過は環境にあるナニモノにも左右されない独立したもの(計量的時間)と考えた。
時間は運動によって記述されるのではなく、その流れを一様とし、数学的に独立した変数としたことで計量化が出来、運動を記述することが可能となったのだ。
自分自身の主観的時間「経験」「自分が感じる時間」は計量的時間とは食い違うが、この「計量的時間」という抽象的な構造物は、実は十三世紀の初め パリ・のノートル・ダム大聖堂の多声音楽と記譜法の理論において最初に現れている。
多声という楽曲は二つ以上の旋律を持っている。音の高低が異なる男女が一オクターブあるいは五度ずれて歌うのは良くあることだ。しかし異なる旋律を意識的に構造化し同時に歌ったり演奏したりという音楽を作ったのはヨーロッパの十一世紀以降が初めてだ。多声の変遷は平行多声、自由多声という展開にはじまる。十二世紀リモージュにある修道院サン・マルシアルでは旋律が全く別であっても、同時に発声される音の長さは両方の声部とも同じという規則がなくなって行く。
このことから定旋律に対して付け加えられる第二の旋律はより自由に歌うことが可能となった。そのかわり、定旋律を歌う人は第二旋律を歌う人が独立したパートを歌い終わるまで自分の音を引き伸ばし、待たなければならないのだが。
パリのノートル・ダム大聖堂では、それはちょうどこの大聖堂が建築中でもあったのだが、同時に進行する三つから四つの声部を持つ多声曲が作曲された。 何故、そんな複雑な時間の構造体の記譜が可能となったのか。それは各旋律の時間的あり方が同じ時間の単位で調整されていたからだ。ガリレイの言う「計量的時間」についての概念なくしても、各声部は声部ごとのまとまりが与えられ、全体としては一つの記号体系を創りだすことが可能となった。