さすがにの大社、参道も木立もみんな大きい、そしてガラガラだ。
やや急ぎ足で参拝すると、案内書に書かれている、ささやきの小径を歩くことにした。
いや、ささやくわけではない、近道だ。
この道はかっての大社の社守たちが通った社家の街高畑へ通じる林の中の道。
木立が一杯に茂り、やや薄暗く、時たま人慣れしない鹿にも出くわすこの道は、
ささやくどころか、人知らぬ山道のような趣だが、あっという間に高畑の街、そして新薬師寺に到着する。
いそぎ新薬師寺を訪ねようと思ったのは、明日は早々に斑鳩に向かおうと思ったからだ。
この寺の目的は誰もが知る十二神将像。
薬師如来を守護する12の塑像、一大国宝だ。
この像、なかなか東京へはやってこない。
街はずれの小さな寺でしか会えないことが解っているからこそ、
奈良に来た時は毎回、必ず立ち寄ることになる。
そして、今回はなんと言ってもフリーパスを持っての旅。
タクシーでは勿体ないが、ささやきの道を急いでこそ価値があるのだ。
境内には晴れたとはいえ寒い中、何故か、竹を割るおじさん二人。
そして、幼げな山桜と花桃だろう、本堂の両脇、たわわに花を咲かせている。
おじさんたちの作業は程なく解明した。
明日はこの寺の修二会なのだ。
作業の手を休めてくれたのでお話を伺うと、
本堂の前で二月堂と同じように竹の束の火の粉を境内一杯に振りまくと言う。
舞台もないし、小さな境内、見学者は目のあたりに火の粉に襲われ、大変迫力だとおっしゃる。
しかし、今回の予定は、明日は斑鳩泊まり。
ボクの奈良はいつも3月半ば、何回となく二月堂の火祭りは体験しているので興味深いが、残念、一日違いの日程では後の祭りだ(いや前の祭)。
一瞬、変更しようかとも思ったが、今回は塔を見る旅、室生や長谷にもよって見たいので、あきらめた。
本堂に戻ろう、低い基壇に載る入母屋のこの建築は、もとは大伽藍の一画の食堂と言われている。
光明皇后が聖武天皇の病気快癒を願い建てられたと言うこの寺は最近、
お隣の奈良教育大学の構内から発掘された大伽藍の様相をもつ石組みその全容のようだ。
解明は容易でないが、天平に建てられた生き残りのようなこの小さなお堂は、
長きにわたり薬師如来と十二神将を守り続けて来たことだけは確かなのだ。
堂内に入ると面白いもに出くわした、丁度、バサラ大将の脇だから堂内の南東の隅、
20インチぐらいのモニターに新薬師寺の案内映像が放映されている。
イスに腰掛け眺め始めると、タイトルバックの名前の羅列に、なんと友人の名があるではないか。
ややぁ、と思って良く見ると、十二神将のカラーシミュレーション映像、それも大変珍しいすぐれもの。
かっての神将の全像をシミュレーションした映像と目の前にある実物を見比べて検討出来る仕掛けとなっていたのだ。
これぞ、AR の極地、ただただ驚き、堂内に他に見学者がないことを幸いに、映像と画像を見比べ、
時間を1000年前に引き戻し、引き戻るという、今までにない楽しい時間を費やした。
友人の仕事は地図情報や建築情報をコンピューターに克明にインプットし、あらゆる場面にも再現出来る、
日本一のシュミレーション・プレゼンテーション技術者集団のひとり。
ひところ、東京からよく消え、京都の立命館大学に行っている、とは聞いていたが、
彼は新薬師寺でこんな仕事もしていたのだ。
早速、堂内からiPhone でメールを入れる。
返事もリアルタイム。
「新薬師寺ですか、いいですね。十二神将の映像を作ったのはずいぶん前になりますが、
まだ堂内で上映しているようで、うれしく思います。」
土塀の坂道を降りると、志賀直哉旧邸。
ちょっと疲れたので、休ませてもらうつもりで入館した。
もう何回も訪れている住宅だ。
2階の座敷に上がり、床を背に文人になったつもりで坐らせてもらう。
静かな場所、彼はこんな部屋で想を練ったんだ。
建物全体は、今では少なくなった、かっての中産階級の住宅だ。
きをてらうものはどこにもない、当たり前の者が当たり前に設えられ、
それでいて、誰のうちでもない、彼だけの住まい。
すべてが慎ましやかに整えられ、今でも文人が階段を上がってきそうな趣。
もうこんな当たり前の住宅はほとんどなくなってしまった。
どこにいってしまったんだろうか?
高畑の住宅街を降りると、程なく奈良公園。
この街をこんな時間、ひとり散歩していると、こんな空想が広がってくる。
新緑の公園では鹿が草をはみ、周辺の木々は色とりどりの花を咲かせている。
青空には屹立する、古色に輝く五重塔。
「そう、やはり寧楽はアルカディアなんだ!」
アルカディアはイタリアの象徴、黄金郷です。
緑に満たされた草原は色とりどりの花を咲かせる木々に囲まれる。
青空のもと、人の声は天にこだまし、草原では牧人たちが動物と戯れている。
アルカディアの本来はギリシャ神話、パルナソス山麓と言うことだろうが、
この言葉がイメージさせるものはイタリア・トスカーナ、春のフィレンツェ、
そして今、ボクが歩く寧楽なのだ。