奈良町は猿沢池と鷺池の間の南の地域と聞いている。
なんのことはない、昨日の高畑からの帰り、奈良公園に出なければ、そのままこの街をぶらついていたはず。
しかし、晴れた朝の街は気持ちよい。
まずは元興寺に行ってみた。
門は閉まっているので外から屋根を見学。
街中にしては寄せ棟の大きな本堂だ、もとは僧坊であったらしい。
奈良時代の建物を鎌倉時代、古材利用で大仏様で建て替えたとある。
次は十輪院、この界隈は寺ばかり、どれをどう見たら良いかさっぱりなので、
横町をまがり、連司格子の家々を眺め、寺の案内板と大きな屋根だけが頼りに歩き回った。
十輪院は鎌倉中期の建築らしいが残念ながら屋根が低い(?)のでよく見えない。
そして次は福智院、ここもまた鎌倉時代ということでよってみたが、門は当然閉じたまま。
大通りに出ると今朝もまた待っていたようにバスが来る。 ホテルの戻るとレストランはガラガラ、大急ぎで食事を、チェックアウトし、駅に向かった。
大通りに出ると今朝もまた待っていたようにバスが来る。 ホテルの戻るとレストランはガラガラ、大急ぎで食事を、チェックアウトし、駅に向かった。
とんとんとんだがここに来てさぁ困った。
毎時33分が斑鳩行きのバスのはず、しかし、8時の次は10時、9時台はなし。
それはない、団体客の為に1時間ずらしはしたが、まさか、昼近くに法隆寺についてどうしようというのか。
これでは、昨日の薬師寺同様、観光ラッシュは免れない。
結局、近鉄で郡山に向かった。
今日はどうせ、法隆寺泊まり、見学は夕方だけでもいいではないか。
そう決めれば、話は早い、いや身体は早い。
10時には郡山城の桜のど真ん中に立っていた。
朝から良く晴れ、ここの桜も満開。
内堀を挟んで両側とも文字通り春を桜花している。
しかし、面白いところに行き着いた。
天守閣跡なのになにもない、桜は乏しく人はいない。
城は神社と近代の学校に乗っ取られ、ここの城跡はわずかな櫓と堀ということだろうか。
良く見ると柳沢文庫とある、立派な玄関だ。
天守閣ではないが、この建物こそこの城跡のシンボルだ。
知らなかったが柳沢家は吉保以降この城の主ではないか。
戦国時代以降、入れ替わり立ち替わりの城攻めの街、郡山は徳川家が五代将軍となりようやっと戦火も消え、
かの天下の側用人が城持ちとなり、この地に根を下ろしたのだ。
だからこそ、柳沢神社と柳沢文庫はまさにこの城の本丸、乗っ取られたなど街の人に聴こえたらお小言戴くこと間違いなし。
時間はあるんだ、立派な玄関で靴を脱ぎ、館内を見学させていただく。
展示資料を見て歩くが、ボクの関心は城下町の変遷。
城の外形は昔のままだ、その周辺を近鉄が走る。
しかし、町並みは今と昔、面影なし、全く異っている。
城とお堀と神社と文庫、これだけが昔に通低する残された道ということだろうか。
郡山バスセンターに戻ると、法隆寺行きのバスはともかく、慈光院までならすぐ来ると言う。
何年ぶりだろう慈光院、よって見よう。
この寺はかって本堂が完成したとき見学させていただいた。
友人がここの住職と親しかったからだ。片桐石州斎が1663年、京都大徳寺から和尚を迎え建立したもの。
周辺は今や住宅地だが、郡山の街が一望出来る絶好の場所に建っている。
前回の拝観で寺や茶室の経緯、さらに、本堂普請の苦労話をいろいろ伺った。
記憶しているのは、建物の新築はすべて施主(旦那)次第とおはなし。
ここの住職は普請にあたって、木材から敷瓦、漆塗料に襖紙、
その調達はご自身で丁寧に吟味し、調達していた。
そして、選んだ職人たちと納得がゆくまで相談し、仕事を完成させている。
いまでは、考えられないことだが、これが従来からある日本人の普請方法。
まぁ、旦那仕事ということだが。
どんな建物をどのような形でどのような材料を使いどう普請するか。
それは工務店や職人、まして建築家の仕事ではなく、住まい手自分自身の仕事であったということなんだ。
素材や材料に対する関心は普請だけではない、ライフスタイルに関わるもの全てだ。
茶室や庭や精進料理の素材も、すべて自分の脚で集め、キープしておく。
その為の裏庭、資材置き場や倉庫、そこそこの家はどこもみな持っていたはず。
いい例は、何処でも良い、ちょっと古い寺や神社の縁の下を覗いてみると良い、
そこには、修理の為の古材、木材や瓦が沢山ストックされているはず。チェックしていたおいた時間、バス停に戻ると、ようやっと法隆寺行きのバスが来た。
境内はここも人はいない。寺守の方だろうか、鎌倉の古寺同様入り口らしき小屋でチケットを求める。
境内に立つとそこはもう三重塔。美しい塔です、胴がくびれ翼を大きく開いた、間違いなく天平以前の塔。法起寺は戦火は免れているが、平安・鎌倉と衰退に次ぐ衰退。当然あったであろう、中門も金堂も講堂も廻廊、いまはもう何もない。いまある講堂は江戸時代の再建、この三重塔だけが以前の姿を現代に引き継いでいる。しかし、この塔だけでも訪れる価値は充分、隣の法輪寺の塔とともに是非、立ち寄るといい。
斑鳩巡りの欠かせぬスポットとなっている。マニアと書いたがこの妙見堂は享保年代の星曼荼羅。
法輪寺の中興の祖といわれる宝祐が近くの妙見山にあった奥の院妙見堂をこの地に移し、
星の王である妙見菩薩を治め、この寺域を文字通り北極星を中心とした星曼荼羅で再建した。三間の小さなお堂は南面を除く東西北と天井はすべて壁画、知識のないボクが見ても、そう神将像のユニークさは興味深い。この寺に立ち寄った本来の目的はここもまた奈良時代の三重塔。創建は聖徳太子の快癒を祈願した山背大兄王で622年、飛鳥の末期。しかし、この寺の再建を宝祐が発起した時のこっていたのは三重塔だけ。その塔も1944年落雷により焼失、1975年、幸田文氏の尽力と設計竹島卓一、
宮大工西岡常一棟梁により再建された。そしてこの塔も間違いなく奈良時代のデザイン。薬師寺同様、木部の朱と漆喰壁の白の対比は鮮やか、隅部の斗キョウは簡素で力強い。