2010年4月7日水曜日

平城宮旧阯 ・唐招提寺・薬師寺

平城京旧阯

昼近くなって雨脚は小さくなったが、相変わらず、風が強い、そして寒い。 歩けば暖かくなる、とにかく、歩くしかない。 バスを待つのも寒いので風の中、平城京旧阯に向かう。 海竜王寺のある法華寺町の東の隅から一直線の真西に歩くと、 ほどなく視界が開け、遠くに朱塗りの大極殿が見えてくる。 さすが、広い、冷たい風が右から左、北から南へ、人影はまばらだ。 到着した遺構展示館で一休みと思ったが、オープンは24日だそうだ。 しかたなく、再び外に出た。
さぁ、どっちに行こう。 朱塗りの大極殿がある西か、東院庭園がある南か。 結論はやはり先週「大仏開眼」で見た阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇) いや石原さとみ縁の東院庭園へ。 南に下る水溝に沿い、風で桜が舞うが人いない、ただ広いだけの旧阯を歩く。 そして、ふっと考えた。 やはり、ボクは考古学には縁がない。 歴史については人並みの知識はあるつもりだが、 さらに、万葉集に関してもそこそこの関心は持っているはずだが、 この歴史的空間にあって、只只寒いとしか感じないとはなんたることか。 この荒野で途中、溝の中の水を掻い出し、懸命に遺物を探す作業集団の方々にお会いしたが、 一足も立ち止まることなく、東院庭園の入り口となる建物の中に入った。  
出来たばかりの展示館には旧阯の写真と説明パネルと模型。 大いなる関心はただ一つ、当時の建築、その掘ったて柱の地業実物大模型。 直径50センチメートルほどの柱の地中部分だが、 真下には周長を一周り大きくした径の一枚岩。 周辺は30センチぐらいの玉石が一杯に敷き詰められている。 柱の下方に、浮き上がりによるカイサキを防ぐ長さで丸太を突き通し、1本の柱の鉛直荷重を3方に分散して支持している。 さすが、立派だ、半端じゃない。 塔でも触れたが、古代の技術は決して未熟ではない、周到だ。
 さて、次はどこへ、南か、北に戻るか。 ここまで来てしまったのだから、今日はも北の大極殿はあきらめよう。 その先の西大寺から秋篠寺へというコースも考えてはみたが、 伝技芸天立像は幸い一昨年の飛鳥の帰り、 一目お目にかかったのでパスすることにし、南に向かった。 南の大門、朱雀門は立派な門だ。 ここに立つと、まさに旧阯の全貌を手にした気分。 寒さも忘れ、平城京を治める貴族にでもなった積もりで天地を眺めた。 いい気分になっていると、親切なおじさんが話しかけてきた。 淡いグリーンジャンパーを羽織った、旧阯を説明するボランティの方だ。 「いい所ですね。まだ、何もない平城京を見るのは、作る楽しみがあって、 当時の貴族と同じですよ」とこちらが冗談をいうと、 「いや、このままじゃお客さんが来てくれない。 お役所仕事でいつになるか解らないが、出来上がるのは 、私が死んだずっとずっと先であることは間違いないでしょうが」 なかなか、面白い方、いろいろお話を伺ったが、 腹も減ったのでおじさんに近場の旨い食堂を教えてもらい、 門脇の工事現場にある出来立ての事物大遣唐使船を覗かせてもらい、 さよならをした。


唐招提寺

二条通まで下り、ロードサイドでボランティアのおじさんに教えてもらった、 餃子付き肉そばを注文する。 いやぁ、さすがだ、広い店内は一杯。 それも、通りかかりのドライバーはもちろん、 ご近所の老夫婦、それと、学齢前の子どもたちとそのお母さん集団。 黒いTシャツの若い店員がきびきび働く、その光景は間違いなく、 何処にでもあるファミレス・ラーメン店。 しかし、奈良から大阪に抜ける主要幹線道路とは言え、新旧入り交じった住宅地のど真ん中。 その客層のバラエティはさすが1000年の街、奈良だけの光景かもしれない。 二条通から住宅街を三条に降りる。 条間の距離は京都に比べれば半分ほどだろうか。 さらに尼ケ辻から古びた国道を進むと程なく唐招提寺右の道路看板。 天気もよくなり、奈良観光では外せない名所寺院の一つ。 秋篠川を渡ると、門前は観光バスのラッシュだった。 しかし、幸い、集団客は一気に引き上げる雰囲気、 ここはのんびりやり過ごそうと、門前の茶店に入る。
赤い毛氈を敷いた小さな式台と4人テーブルが一つ。 客はいないが、店番のおばあさんがTVを見ている。 毛氈に坐りわらび餅を注文すると、 おばあさんは、TVの内容が気になるらしいが、腰を上げ藍染めの暖簾の中に入って行った。 どうやら、このおばあさんだけが一人で賄っている店。 店番ではない、店のオーナー店長ということだ。 この季節のわらび餅だが、関西らしい、不規則だがもちもちの蕨の固まりに、 これでもかっと、おもうほど目一杯にきな粉がかかっている。 けっして、甘すぎず、口に入れると柔らかいが多少の歯ごたえ、 かすかな土臭い香りが広がってくる。 「この周辺もずいぶん家が建ちましたねぇ」 見ていたTVが若い人の歌番組に変わり、おばあさん手持ち無沙汰のようなので、声を掛けた。 「昔は田圃ばかりで、日照り続きの時は大変でしたよ。 でもここは秋篠川が整備され心配が無くなりましたなぁ。 秋篠川は郡山で佐保川と一緒になり、大和川に流れ込む私たちには大事な川。 しかし、整備された途端、今度は一気に田圃が無くなり、住宅ばかりなりましたなぁ。」 のんびり茶をすするボクに対し、急ぎ客ではないと知り、おばあさんは、いろいろ話してくれる。 「最初は、近鉄が通る線路むこうは全部田圃でした。 最初はなんとかいう小さな大阪の不動産屋さんがが土地を買ったんですわ。 気がつくと、小さな家がぎっしり。 そうしたら、今度は出来たばかりの用水から田圃に水が回らなくなり、 住宅の下水がどうのこうで難儀ばかりでしたな。 今じゃもうご覧の通り、この辺は住宅ばかりですよ。」
店を出て山門を覗くと、見学者がまばらになっていた。 雨も風も治まり、いつもの長閑な大和の古寺見物だ。 正面は整然とした金堂の佇み。 著名な文学者ではなくとも、両側の植え込みのパースペクティブに強調された、 大らかな屋根とそれを支える列柱のバランスには感嘆する。 これが古代8世紀、天平人のセンスなんですね。 この寺の特徴は立派な鴟尾を戴く屋根やふっくらとした大きな柱のゆったりとした柱間隔だけではなく、 その間の田の字形の白い小壁にある。 2段組み斗キョウを額縁とするこの小壁と屋根と柱、 この三つどもえのバランスがこの金堂の独特の風格の源となっている。  
今回の奈良紀行でこの寺が外せないのは理由がある。 平安・鎌倉・江戸・明治と過去4回の大修理はともかくとして、 1995年の阪神大震災を経験して以来の、 2000年から10年間かかっての大修理がつい先日終わったばかりだからだ。 完成した金堂は大瓦が新しすぎ、ややウスペラな感じは免れないが、 これでまた100年、200年、周辺の田圃が住宅に変わったように、 住宅が無味乾燥なコンクリートのビル群に変わったとしても、 どこまでもこのバランスと風格を保ち続けるだろう。
 もちろん、この寺の目玉は金堂だけではない。 金堂の後ろの講堂は平城京にあった東朝集殿を改装移築したもの。 柔らかな入母屋屋根の佇まいは、一目でこれは寺ではなく、宮廷だと気がつかせてくれる。 かの鑑真和上の像を拝観するのは御影堂。 ここには東山魁夷のふすま絵があるのだが、今日は残念、公開日ではない。 東京の博物館での記憶を頼りに、外からの一礼のみで引き上げた。
この寺の紹介はこのブログのテーマではない。 さらに関心ある人は次のリンクを。http://www.toshodaiji.jp/ 

今回の関心は塔、ということは再三書いた。 しかし、ここには立派な木造の塔はない。 代わりにと言ってはなんだが、木立に囲まれた境内の一画に面白い塔がある。 戒壇とその最上段の宝塔だ。 仏教教典や受戒の仕組みの知識はないが、江戸時代に作られた、その造型には興味がそそられる。 簡素で粛然とした方形の石敷の床、その中央は三段の石組みの戒壇、そして白い球形の宝冠が毅然と載る。 この空間、雰囲気はなんだろう。 インドでもない、中国でもない、天平でも、日本でもない、つまり日常知る世界ではないのだ。 人間の理念だけの風景はかくも冷たく硬質。 雨に濡れ、晴れた光で見るこの宝塔は何を伝えようとしているのだろうか。


薬師寺

唐招提寺の次は当然、薬師寺だ。 例によって秋篠川と近鉄の中間に伸びる一本道を南に向かう。 路地の両側、最近だろう、茶店やみやげもの店が軒を連ねている。 曇り空だが、目の前はもう薬師寺の塔。 なんとも優美、リズミカルな六つの屋根の重なりはいつ見ても心を踊らせる。 しかし、薬師寺の楽しみは今日はここまで。 雨風に叩かれた一日とはいえ、今は絶好の観光シーズン。 周辺の駐車場は何処も満員。 タクシーやドライブで見学する客も大勢だが、大型バスから次々とはきだされる修学旅行生と老若男女のツアー客。 とても、のんびり見学出来る状況ではない。 とわいえ、ここまで来て、ただただ帰るというのでは格好良すぎる、白鳳伽藍や東院堂、宝物殿、玄奘院伽藍のセット券を買い、南門ではなく、北の興楽門から入場した。  
まずは塔が見たかった。 急ぎ足、集団がいなくなるのを幸いに東西の塔を眺める。やはり、文句無し、新築の金堂ともども西塔の朱の輝きは曇り空でも圧巻だ。 こうなると見慣れた国宝の東塔や東院堂がやや寂しげに感じられる。しかし、次の集団が押し掛ける前、眺めていて、ふと考えた。 この塔はもちろん最高の塔だが、でも、何故か、遠くから眺めることの方につよく惹かれる。 そうか、塔は遠くから見るべき建築かもしれない。
近くから見るのは木組み、ディテールの面白さ。 今日のような春の昼下がりは、やはり、田園の遥か遠くから臨む塔の姿が、本来のデザインであったかもしれない。
そうと気がつくと、もう写真はいらない。 東院堂の聖観音立像は今日はレプリカのはずだ。 ホンモノは昨日、博物館で閉館時間で追い出されるまで眺めて来たのだから。 それと金堂の薬師如来と二つの名菩薩。 その国宝としての価値の保存に入念なのは当然かもしれない。 しかし、本来の丸柱に防火シャッターの額縁をむき出しに取り付ける無神経さにはもはや言葉がない。 日本人は何故、見える見せ方、その空間全体への配慮を怠るのだろう。 これでは国宝の仏様がかわいそう。 そう、ここは博物館というニュートラルな空間ではない。 長きにわたり、多くの人々が大事にして来た仏であり仏の場、一期一会の建築空間ではなかったのか。