2010年10月15日金曜日

ニコラウス五世のローマ再建

ディレッタント建築家であったアルベルティ、彼のユニークな聖堂のその後の直接的影響を見つけ出すことは難しい。建築家であるというより文学者に近いアルベルティは数多くの計画案は作ったが、実際の建築の指揮を執ることが少なかったことが関係している。アルベルティは実際の建築より彼自身の「建築論」によって後世に大きな影響を及ぼしたのだ。
ここからはアルベルテイと関わった二人の教皇について話を進める。「建築論」に基づき現実の都市の再建を実施した十五世紀のローマ教皇、 ニコラウス五世とピウス二世。アルベルティのパドヴァの学生時代の友人がローマ教皇になった。
ニコラウス五世(1417年〜1431年)、最初の人文主義の教皇と呼ばれている。ヴァティカン図書館を創設したことからもわかることだが、書籍や建築の持つ意味を知っているこの教皇にとっては、動揺を重ね弱体化した法王庁の権威を再び確固たるものにするために、ローマの都市整備を行い、秩序を取り戻すことが使命となっていた。

アビニオンの幽囚(1309年)以来、百年に渡る長きの間、教皇が不在であったローマは荒廃に荒廃を重ね、猫と盗賊の町となっていた。「年輪を重ねた威厳を備えてはいるが、灰色の髪を振り乱し、引き裂かれた服を身に着けた婦人がいる。その顔は蒼白で、苦渋に満ちている」(建築全史p854)と、荒廃した十五世紀の都市ローマは老婦人に見立てられ、ペトラルカによって歌われた。

ニコラウス五世のローマ再建の使命にはアルベルティの協力が不可決であった。1452年にニコラウス五世に献呈された「建築論」は理想都市ローマの手引きともなるもの。二人は、すでに多くの人が目を向けはじめていた古代ローマのモニュメントと教会を結びつけ、文化の最先端を示すローマをイメージさせるような、理想的な神の都の計画に取り組んだ。その計画には三つの局面がある。一つは古い教会の増改築とローマ全体の要塞化。二つめは図書館や古代風劇場、さらにフィレンツェで始められた整形庭園の設置すること。第三はサン・ピエトロ大聖堂とローマ時代のハドリアヌスの廟墓を要塞化し、その周辺のボルゴ地区と呼ばれる中世以来の集落を教皇庁のお膝もとに相応しい地区として再開発することにあった。

やがて、廟墓は城塞化されサンタンジェロ城に、パンテオンは教会に、カンピドリオは支庁舎に変わっていくが、ニコラウス五世時代の教皇庁は政治力も経済力もまだまだ不十分。ルネサンス最初の理想都市ローマはその計画をほとんど実施することなくこの教皇の死によって中座した。
しかし、この基本案が、その後のローマ都市改造に関わる多くの教皇と建築家たちに、大きな影響を及ぼしたことは事実。ニコラウス五世から二百年、ローマは着々と整備され、やがて十七世紀半ば、バロック都市ローマとしての完成する。そしてさらに二百年、その後バロック都市ローマに様々な歴史と人間文化が重層され、現在この都市は世界に比類ない世界都市として多くの人々に愛されている。その全ての原点は、この教皇とアルベルティの建築論が基礎となったのです。

ブルネレスキにブラマンテにミケランジェロ、彫刻家兼建築家としてルネサンスを飾る有名建築家の数は限りない、しかし、アルベルティのように現在にまで、その影響を及ぼし続けた建築家は少ない。ディレタント建築家という存在は勿論のこと、実作の少ないアルベルティ、現在ではなじみ薄の存在となってしまった。しかし、彼の果たした意義と役割の大きさを省みると、ルネサンスという特定の時代のみが必要とした建築家では決してなかった。カステリョーネが「宮廷人」に描いたような、貴紳ある宮廷人としての素養と責務に溢れ、果てしない論理とイメージを持ち続けた建築家はアルベルティの他にいなかったこともまた事実なのだ。