(ウルビーノの「理想都市図」)
アルベルティの「建築論」に示されるアイデアルな都市はウルビーノの「理想都市図」として描かれ、現在に残されている。円形の神殿を中央に配置した広場、その周囲は「建築論」にあるように同じ高さの建築群で囲まれている。この板絵の最も重要な特徴は正確な一点透視で構成された透視画法にある。
ブルネレスキが発見した神の支配を受けない、人間中心の理想的な空間。特定な性格や好みも持たない等質で等方、平準で均質な空間、その中に配置される新しい建築群、それらの建築は全て、当時の都市を構成していたキリスト教教会の形式、ゴシック建築とは異なり、柱とアーキトレーブ(三層の柱上帯の最下部)による古代建築。ルネサンスの理想都市、そのイメージはどこまでも穏やかで静かな佇まい。透視画法は人文主義者の抱いた「理想的な都市観」を表現するのに最も適していた。
(fig27)
透視画法の中に建築がシンボル配置された絵画空間は現在のような額縁のなかの非実在的なイリュージュナルな世界とは明らかに異なっている。画面は確かに都市風景だが、そこには人間が描かれず、透視画法の空間のみが強調されている。そう、ブルネレスキの二つの聖堂と全く同様、観察者はその空間に入り込み、そこでイメージされる世界を実感し、体験しなければならない。
その世界はもはや現実ではなく、現実を超えた観念の世界。現実以上に信頼できる確固とした空間。サモシの言う「哲学者の偏見」から解放された世界だ。
ウルビーノ公に招かれたアルベルティが公の画家・建築家であったルチャーノ・ラウラーナやピエロ・デラ・フランチェスカと協力して生み出したものと考えられるこの理想都市像は、その情景から斬新で調和のとれたまさにルネサンスの理想がそのままシンボル化され表現されている。
アルベルティの仕事はフィレンツェのほかフェラーラ、ウルビーノ、マントバ、リミニでも展開されている。十五世紀イタリアを動かしていたのはミラノ、フィレンツェ、ナポリ、ヴェネツィア、そして教皇領という五つの勢力だが、アルベルティが招かれた小都市はエステ家、モンテフェルトロ家、ゴンザーガ家、マラテスタ家という一族による支配。小都市である公国は共和国とは異なり唯一の貴族、つまり君主の力により繁栄していた。
しかし、どの一族も強国の覇権を交わし、生き残る為には、戦争に変わる外交と、その威信を示すための文化政策が不可欠だった。
アルベルティはそんな君主がもっとも必要とする人材。文化政策とは公国は軍事力のみならず文化的資質を内外に示すことにあった。その中心は古典文化を広め、透視画法利用により新たな理想世界の表象を描きだすこと。その為の見識と手法を示した「絵画論」「建築論」はギリシャ・ローマの悲劇・喜劇、あるいはヴィトリヴィウスの建築書同様、君主にとって欠かすことが出来ないものとなっていた。
後のフィレンツェがオペラを生み出すのもまた同じ理由、共和国はトスカーナ公国に代わりハプスブルグ支配から免れる生き残りの為の文化政策が十六世紀末オペラを生み出している。十五世紀のアルベルティは孤軍奮闘、イタリア中の僭主・貴族に招かれ、きわめて多彩、驚くべく広範囲の都市と建築に関わっていくことになる。
(ウルビーノ公女のサロン)
ウルビーノはマールケ州、アドリア海に近い山間の小都市。十五世紀半ば、教皇庁の総司令官であった傭兵隊長フェデリーゴ・ダ・モンテスフェルトロにより絵画と建築に満たされたルネサンス都市として変貌した。
フェデリーコは軍人ではあるが、信心深く、教養も高い、文化政策にも優れた名君として有名。彼に招かれた芸術家たちとの関わりのなかから生まれた作品、それは「理想都市図」だけではない。
美しい中庭を持つウルビーノ公館と図書館は今に残され、この山間の小都市はルネサンスの華と言われている。その息子、グイドバルド公の時代、その宮廷は大国の狭間で揺れに揺れるが、バルダッサーレ・カスティリオーネがこの宮廷を舞台に「宮廷人」を書いたことは有名。ウルビーノはまずはアルベルティの「理想都市」、そしてカスティリオーネの「宮廷人」を生み出したルネサンスの華の都市と言える。
グイドバルドは父のように才能豊かでもなければ心身が壮健でもない。国事の全ては妻である、エリザベッタ・ゴンザーガが仕切ることになる。彼女はマントヴァ公フェデリーコ一世の娘、イザベラ・デステとは義妹という間柄。イザベラほどではなかったが、彼女もまた美人で教養も深く、趣味も多彩。マントヴァ時代に人文主義の教育も受け、数カ国語が話せるばかりか、美術を解し音楽も興じ、ルネサンスの才女の一人として小国の文化政策に貢献する。昼は病弱なウルビーノ公を助け政務に励み、夜はサロンを主宰する。公館の広間は夜遅くまで、詩人、画家、建築家、音楽家との歓談が続いていた。
(カスティリオーネの宮廷人 )
(fig28)
エリザベッタのウルビーノはイタリア中の知識人にとっても最も魅力ある場所。そこにはいつも物憂げな貴公子の姿だが公妃のお気に入りであり、当時最も洗練された社交人、カスティリオーネが中心的役割を果たしていた。十五世紀後半に生まれた彼はアルベルティとは丁度一世代異なっている。残念ながら、二人がこの宮廷で会い見合うことはなかったが、歴史家が描く二人の相貌はとてもよく似ている。共に見識ある青年貴族の常として馬術、弓術、剣術をたしなみ、リュートやヴィオールを演奏し、作曲もするが、舞踊にも長じる。
その優雅な身のこなしは女性を魅了し、軽快な話術を巧みとした。カスティリオーネにとって、フェデリーゴとアルベルティ以来のウルビーノ宮廷の持つ瀟洒で軽快な雰囲気は最も好ましい世界であった。後にその体験からカスティリオーネは「宮廷人」を書く、結果、彼はイタリア中に知れ渡り、ローマ、マドリッドという当代一級の宮廷にも招かれる。
(ウルビーノのラファエロ)
カスティリオーネと同時期、ローマで活躍したラファエロは彼より五歳若く、ウルビーノ宮廷画家ジョヴァンニ・デ・サンティの子として生まれ、十四歳までこの山間の都市ウルビーノで生活した。父ジョヴァンニは傑出した才能の持ち主ではなかったが、文筆に長け、フェデリーゴの政治力、軍事力、文化的業績を賛美する記録を数多く残す。
ラファエロはそんな父に連れられるまま幾度も公館を訪れている。利発で見目麗しい彼は父の自慢であると同時に、宮廷でも人気があった。この時、当然、カスティリオーネとも面識が生まれている。ラファエロはローマ時代の彼の自画像をルーブル美術館に残している。
この時代、最も人気の高かった画家はミケランジェロでも、レオナルドでもない、ラファエロだ。彼を仕事から引き離すことが出来たのは女性の魅力だけ、と言われるほどラファエロと女性との関係は喧しい。美青年で、粋で、気前が良かった彼のもとへは女性はいつでも、いくらでも集まってきた。
そんな彼が当時の大天才たちよりも人気が高かったのは、ラファエロの方が生き方においても、芸術においても、その時代の気分と理想をよりよく代弁していたからに他ならない。十五世紀末の持つ反キリスト教的理想世界、そのイメージは一世紀あとのオペラに注がれるものだが、それはこの時代ラファエロのみが表現できたことかもしれない。
オペラ揺藍の場所こそ優雅なウルビーノ宮廷。フェデリーゴ・ダ・モンテスフェルトロ、アルベルティ、カスティリオーネそしてラファエロ、彼らはもちろんオペラにはなんの関わりもない。しかし、トリッチーノ(二本の塔)を持つこの宮殿を舞台とするならば、彼らの多彩で優雅な生き方はその後、万人があこがれるオペラそのものと思えてならない。好ましい環境と優雅で多彩な役者に恵まれたウルビーノもまたオペラ発祥の地と呼んで良いのではないだろうか。