シエーナの南方50kmのコルシニャーノの丘、理想都市に相応しい聖堂と宮殿の建設というピウスニ世の夢。わずか5年という短期間ではあったがため、実現されたのは都市全体の一部に過ぎないが、丘を貫く都市の街路とその中央に位置する広場と四つの建築は現在に残され、町の名もコルシニャーノからピウスにちなみピエンツァと改名された。ピエンツァはワインの町。周辺はなだらかな丘陵地帯、丘の上から眺めると美しいトスカーナの自然はまるで大河のうねりのような景観となって迫ってくる。ここはアルカディアあるいはウェルギリウスのゲオルギガ(農耕詩)のような世界。
コルシニャーノの丘を東西に貫く、大きな円弧を描くような街路が走っている。その街路の中央、南側の一角に広場が作られた。正面に司教座教会、左手東側が司教の宮殿、右手がパラッツォ・ピコリーニ、教皇の宮殿です。 特徴的なのは、広場が台形の形で作られていること。街路から眺めると奥の教会側が広くなり、東西ともに正面の教会と宮殿の間からは遠くアミアータ山が望まれる。手前に狭く、後方に広い広場の形態は後のミケランジェロのカンピドリオの広場と同様、正面の建物を舞台背景のように見せる効果がある。透視画法の逆視覚利用により司教座教会をより近くに、より大きく見せる結果となっているのだが、ピウスの広場の台形化の目論見は、教会より背後の自然風景にあるようだ。
中世以来、都市の広場は内部空間、天井のない宮殿のようなもの、従って自然空間の入る余地なく計画されるのが一般的。しかし、教皇にとっての関心は、ここではむしろ背後の山々、日本的借景の手法を使って自然空間を広場の中に取り込もうとしている。現代では許され、賛美される目論見であろうが、結果からみると当時は、この後方を開いた広場づくりは、本来の都市広場の持つ意味を知らない人の計画とみなされた。それは、ミケランジェロを先取った逆透視画法利用というより、広場の公共性を無視し、私的関心である自然のみの関係を重視した結果の広場づくりであったから。
自然との関係を重視するピウス二世の目論見は司教座教会の中にも明確に記される。もともとの教会はロマネスク時代のサンタ・マリア教会。小さな広場を持ち、街路に沿った東西方向に建てられていたが、より大きい広場を確保する必要もあり、新しい教会は南北を軸とし南側の崖ぎりぎりまで、なるべく奥まってに建て替えられた。宗教的理由で決められた伝統的な東西軸をあえて南北軸に変えてまで確保したいものは何か。それは彼の回想緑に書かれていることなのだが、教会のアプスからの山々の眺望と輝く太陽の光だった。
現代の建築の施主に似て、ピウスのこだわりは徹底している、しかし、それは当時のフランス・ゴシックとは異なるルネサンス期イタリアの教会の考え方とは鋭く対立するものだった。アルベルティは「建築論」第七書第十二章で以下のように書いている。
「神殿においては窓の開口は控えめに、高い位置になければならない。窓の外は何も見えず、宗教儀式をとり行う人や祈る人たちが、神聖なものから木を逸らさないためである。畏敬の念は陰に刺激され、その気持ちは心中に尊厳の気を高め、また多くの場合暗黒は崇高さを増す。さらに加えて、神殿の中に必要とされる灯は、それ以上に宗教的教化や装飾を神聖にするものはないのであるが、光が多すぎては灯の力を失う。」(アルベルティの建築論p619)
一見、人文主義者が好む古代風のファサードを持つこの司教座教会だが、基本原理に対する真の認識と理解を持つ人々にとっては、その外観のペディメントやアーチ、あるいは円柱も彫像のための半円形のニッチも全て単なる装飾にすぎないようだ。建築的、構築的使用方法をわきまえず、単に古代モチーフで装飾した外観はもちろん、意味内容を無くした内観を持つこの建築は当時の識者にとって、決して評判はよくない。人文主義者とは言え、ピウスは建築的人間と言うより文学的人間だったのだ。
建築家が追い求めた基本原理と鋭く対立してまで、施主であるピウスが徹底して追い求めたもの、それはどこまでも自然や眺望そして居心地の良い光であった。古典的モチーフを装飾としてしか使用しない現在では、簡単に容認されかつ賛美されるかもしれない。しかし、ピウスの建築に対する批判は、ピウスの持つ私的な喜びは、公共的相貌には適しないというのが、その根拠となっている。
公共的相貌という視点では広場の右手、ピッコロリーニ宮殿はどう理解すべきであろうか。都市の基本的構成要素であるパラッツォの外観は広場や都市のデザインに帰すべきもので、私的領域は中庭内で処理するというのが当時の原則。さらにその外観は三層の積み重ねで構成し、階を切り分ける力強いコーニスの水平線が都市にパースペクティブを与える同時に、建築を壮大に見せかつ、都市の建築を一体的に連結すると考えられている。その観点から見る限り、この小さすぎる広場に作られたこの三層のパラッツォはなんとも不適格だ。フィレンツェのアルベルティのルーチェライ宮殿を酷似させたが故に、かえってその特徴ある外観も意味を失い、公共的役割はおろか、古典の理想とも程遠い、単なる私的遊興物となってしまった。 アルベルティは建築書第四書に次のように書く。
「都市は領地の中央に位置すべきである。そこから自領境界まで見通し、攻撃される弱点を判断し、必要に応じ、機を失することなく便宜の措置をとる必要がある。またそこから農業管理人と農夫とは度々仕事に出てゆき、耕地からは車に満載した重い果実や収穫を持ち帰ることが出来る。・・・・また山上に都市を置くとき、創設者たちはおそらく、そこが他より防御しやすいと判断したと思う。しかし、水に困る。平地では河と水の便では勝るであろう。しかし同様に、空気は重苦しいことが予想され、夏は蒸されるようであり、冬は厳しく凍りつき、さらに殺到する敵に対して堅固さでは劣る。海岸は・・・・すなわち、君がどこに都市を置こうと、その利点のすべてを確保し、欠点をなくすように企画せねばならない。そして山では平坦な部分を、平地では丘の部分を獲得して、そこに都市を設けたい。」(アルベルティの建築論p101)
そしてまたアルベルティの言う湾曲した道路もこのコルシニャーノの丘を貫いている。アルベルティの理想都市は全てこのピエンツァにあてはまるのだ。彼の論調はいくぶん仰々しいかもしれないが、中世的ものすべて退けているわけでない、と同時に理想論だけから都市を見ているわけではない。
一方、ピエンツァもまた、いささか健全とは言い難い広場と建築群が建設されたとは言え、そこは決して従来の絵画的・有機的な中世の趣が失われた訳ではもなければ、ルネサンス的趣きも醸成した。従って、ここもまた「建築論」という台本に基づく「オペラ」の上演。この都市の建設はピウスの死により未完のまま終結する。そして、再び以前の寂れるままの町に戻った。しかし結果的には、そこは以前と同様今日に至るまで、農民たちの拠り所であり集散地に他ならない。それが為、数世紀にわたる時代の変革にはさらされることなく、ピウスの理想都市は今日まで保持され続けた。惜しむらくは建築家ベルナルド・ロッセリーノ、彼はピウスの死により職を失うばかりか、シエナの人々からは多大な費用を使ったということで非難され、ピウスの後を追うように、同年の1464年失意の内に世を去った。