2010年10月17日日曜日

シクストゥス五世の都市計画

反宗教改革の機運も定着し、ローマ・カトリック信仰への信頼が民衆のものとなりつつあった十六世紀後半、再びシクストゥスを名のる教皇が誕生します。
教皇シクストゥス五世です、彼は就任と同時にかねてより準備していたローマの都市改造を実施しました。
聖地ローマは聖ペトロの殉教の地であるばかりか多くの教会を持つ巡礼者のための都市でもあります。
キリスト教の本体であるキリストのためのサン・ジョヴァンンニ・イン・ラテラノ教会、キリストの母、聖母マリアを祭るサンタ・マリア・マジョーレ教会、15世紀ローマには古代ローマの遺跡のみならず、大小様々な重要な寺院が立ち並んでいたのです。
従って、中世に持っていた力を失ったとはいえ、ローマはサンピエトロ大聖堂だけではなく、多くの巡礼者が訪れるキリスト教の一大聖地であることにはかわりはありません。
そのローマは1527年、ドイツのカルロス五世の劫略によって壊滅状況となり、一時は三万人程度の市民が住まうだけの廃墟のようなローマに変わり果ててしまいます。
即位した教皇シクストォウス五世は就任するや否や、そんなローマの再生を、ヨーロッパ中の人々が安心して聖地を訪れることが可能な神聖都市の建設を目指したのです。

一大巡礼地としてのローマの再生は幾多の寺院の修復と寺院と寺院を連結する見通しの良い広い道路網の建設にありました。
さらに、改造プランのポイントは古代ローマ以来の水道の整備とテレベ川に幾つかの橋を新設し、ローマ中の寺院の連結です。
1585年、教皇シクストゥス五世は建築家ドメニコ・フオンターナに建設を依頼します。
委託を受けたフオンタナは後に次のように書いています。
「わが聖なる父は、この都市のひとつのはずれから他のはずれへと、こうした道路を敷設した。そして必然的に交わることになる丘や谷に留意することなく、こちらでは削平し、あちらでは埋め立てて、教皇は丘や谷をなだらかな平原にし、もっとも美しい土地にしたのであった。この都市の最も低いところの光景が、様々な眺望で展開するのである。かくして、宗教的な目的を越えて、こうした美しさは肉体的な感覚の牧場となっている。」

フォンターナが書くこの一筋の街路は現在、実現されています。
ローマの北、その玄関口となるポポロ広場からトリニタ・ディ・モンティ教会を通りピンチョやクィリナリスの丘を削りサンタ・マリア・マジョーレ教会からローマの南東の隅、サンタ・クローチェ聖堂に至るかってフェリーチェ街道と言われた道路です。
現在は自動車交通の基幹道路、深夜まで止むことのないエンジン音とヘッドライトの交錯に明け暮れていますが、かっては緑なす田園の散策路、見渡せば遠く市壁を越え遥か彼方まで、街路は地平線を越えるかのように続いていたのです。(この新設街路の中央にバルベリーニ宮殿が建ちます。)


(viia YouTube by Roma piazza Barberini)

フィレンツェにおける透視画法の発見と大クーポラの完成。ブルネレスキのルネサンス都市フィレンツェにおける偉大なる貢献は、大クーポラの完成により透視画法上の唯一の焦点の存在をトスカーナ全域に示したことにありました。
都市外の城壁の彼方から見通すことの出来る大クーポラは市内のみならず、遥かに広がる田園地帯全域を同一の都市秩序のもとに配列し直おすことに成功したのです。
シクストゥスのローマへの貢献はフィレンツェにおける唯一の焦点を多焦点に拡張したことにあります。
ローマに散在する幾つかの有名寺院を焦点とし、その寺院を幅広で見通しのよい直線道路で相互に連結するという計画手法。
しかし、この手法は遥かに大きいシステムを秘めていました。
多焦点を連結し、都市を秩序づけるシステムは都市内にあっては実感を持って具体的に体験できるだけでなく、都市の外にあっては、同じシステムが延長されれば、全世界がすべて同一システムによって秩序付けられるということをイメージさせるものでもあったのです。
つまり、シクストゥスの都市システムはローマを世界の首都としてイメージさせました。
それも観念としてではなく実在として世界都市を。
ルネサンスとバロックを隔てるもの。
それは唯心、有限的な秩序感を持つ前者に対し、後者は多元的、多焦点を持ち無限をも秩序化するものとして理解されました。
バロックはまさにルネサンスの変奏です。
ブルネレスキの唯一の焦点の発見であった透視画法は、その変奏として多焦点化することによりローマは再び世界の中心に位置づけられるようになりました。
そして、ここに後の時代の都市計画手法としても援用が続く、バロック都市ローマが誕生することになりました。