2011年4月9日土曜日

ディオニュソス劇場



春どきにこそ、おおディオニュソス
汝の聖なる宮居にきたれ
エリスの市へ 恵み姫たちを供いて
牡牛の足もて 走りきたれ
気貴き牡牛 気貴き牡牛よ
(ディオニュソス祭の賛美歌)

ディオニュソスの祭礼は訪れたばかりの春に始まる。
松明の光に照らされた長い行列が祭神ディオニュッスの神像を劇場に運び込み、オルケストラに安置する。
ディオニュソスは牡牛そのものであることもある。
牡牛は神の原始的な化身です。
アテネの青年に付き添われた牡牛が神苑に入る。
森も野も花盛り、蜜蜂がうなり、小鳥がさえずり、仔羊が跳びはねる時、ダフネの恋が芽生え、ギリシャ中が目覚めるのです。

嵐のような冬が終わり春3月、爽やかな風と抜けるような青空、アテネの人々は日の出とともにアクロポリスの南麓、ディオニュソス劇場に集った。
豊壤の神ディオニュソスの大祭では悲劇の上演がメインイベントなっていた。
当時の上演は競演です。
オリンピック同様、競技会のような形式を持っています。
毎日一人の作家が三編の悲劇と1編の喜劇を、三日に渡り三人の作者の十二編が上演される。
競演は十人の審判員によって審査され、瓶の中に投じられた十票から任意の五票が抜き出され、順位が決定された。
判定そのものは偶然性によるのですから、審査そのものもゲームを楽しむお遊びのような雰囲気。
しかし、選ばれた作品の数々、そのリストは現在でも残されていて、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス、アリストパーネスの幾多の作品が記録されている。
野外劇場は朝はやくから詰めかけた二万人近い観衆で一杯。
普段はあまり外に出ない若い女性たちにとって、劇場は公に男性たちと同席できる格好の機会。
隣邦からの外交使節や観光客はもちろん、子供たちや奴隷たちまで、アテネ中の人々は葡萄酒や無花果、オリーブの実をかじりながら、春の陽や風と共に演技の進行を楽しんだ。

ディオニュソス劇場は紀元前六世紀、アゴラ(広場)でのお祭りをアクロポリスの中腹に移したのが始まりと考えられている。
現在の劇場の場所は以前からディオニュソスに捧げられた地でもあったから、劇場建設にはもっとも意味のある場所でもあったのです。
劇場の形状はギリシャのアッティカで発掘されたトリコスに見られるように、当初は僅かな平坦の地を一様でない斜面が取り囲み、不整形な形状を持っていた。現在のように波紋のような形状に整形し、段状に構成したのは紀元前五世紀末のこと、そしてこの劇場以後、この形状がギリシャ劇場の原形となったのです。

参考/ギリシャ檸檬の森

http://lemonodaso.exblog.jp/8469935/

デロスの祭典


デロスの祭典
 
吟遊詩人の活躍の場は村や町の集会や祭典。
そこではホーメロスのオディッセーに登場するパイエークスびとの宴会のようにいくつかのスポーツ競技と詩の吟唱が行われた。
当時最大の祭典は紀元前8世紀、デロス島。
音楽の神アポロンのもとに沢山の詩人達が集まり、叙事詩のコンテストが行われる。
ホーメロスの活躍期にはまだ現代に見るような神殿は誕生せず、ポリスに匹敵する都市も生まれていない。
ポリスも神殿も無いこの時代ですが詩と音楽に満たされ「前8世紀ルネサンス」と呼ばれている。
前1200年のミケーネ文化の衰退以後、考古学的発見の少ない400年間を暗黒時代と呼んでいるが、その終末の時代は今にみるギリシャ文化の台頭期、ミケーネ時代に流行した英雄祭祀が復活した時代です。
英雄祭祀の復活は人口増により誕生した新しい耕作地の農民たちがアイデンティティの保証を求めたことが原因であろうと考えられている。
そこにはホーメロスの叙事詩の流行が大きく起因したとも考えられる。
15世紀ルネサンスもまた前時代の物質的繁栄を享受し得る新しい価値感を求めた時代。
結果として禁欲的キリスト教に変わるギリシャの神々を復活させている。
二つのルネサンスは共に過去の時代の文化の再生ということより、新しい時代の誕生という面を際立たせており、その文化の体現者としての都市の構成員の誕生という側面を見逃してはならない。
つまり、祭典や生まれつつある都市の広場でホーメロスの叙事詩を聴いた人々は人文主義の花開く15世紀ルネサンス の人々の先駆けでありました。
そして大事なことは、都市をつくり文化を生み出すのは祭典における詩と音楽そして建築です。

祝祭空間、都市と建築の誕生/©




(祝祭空間)

「音楽と建築」の歴史は人類の誕生に始まる。どちらも共に生きる上に不可欠だからだ。音楽と建築は生活の飾りものではない。建築が無くても風雨をしのぐ洞窟があれば、音楽が無くとも音を発っする道具を手にすれば、人間は身を守り、生き延びることは可能であったであろう。しかし、想像力を持った人間が「人間として生きる」ためには、儀式あるいは祭祀は欠くことができない。人間は「音楽と建築」をメディアとして祭祀を掌ることで生きるべく方法を発見してきた。

音楽と建築は動物とは異なる人間が生きるためのメディア。儀式のために用意されたものが一本の柱だけ、演じられたものが完全八度という二音だけの歌声であっても、「動物とは異なる」生き方を問題とした時、人間は日常空間とは異なる別種の時間と空間 、特別な空間を必要とした。その特別な空間を祝祭空間と呼んでいる。

集団として生きる人間は祝祭空間を生みだし、弛緩した日常を活気づけ、荒れ狂う自然を静穏化し、やせ細った農地を若返らせてきた。祝祭空間は一時的なものだが、コミュニケーションや交歓の場としても集団で生きる人々にとっては不可欠だった。音楽と建築は日常空間を特別な空間に変容し、晴れやかな祝祭空間を生み出すメディア(媒体)としての役割りを果たして来た。

(現実世界と想像世界)

「私たちはいま、どこに住んでいるのか」という問は哲学的過ぎるかもしれない。しかし、人間が人間として、生きていく為には避けては通れない問題だ。私たちは目の前にある現実世界が、全ての人々が生きる唯一の世界と思いがちだが、その世界は個々人各々が別々に持つ異なるフィルターを通して眺めている世界に他ならない。その世界があなたと共に生きる「唯一共通する世界」であるという保証はどこにもない。物理科学の恩恵によって、太陽系の第三惑星・地球という丸い星の上に住んでいる、と安心しきっている現代人はともかく、昔の人々は共に生きる世界を実感したいと考えた。

祝祭空間の最大の役割はこの「共に生きる唯一つの世界」の実感にある。生きのびるための知識や情報も重要だが、あなたと私は今どこにいるのか、どんな世界に住んでいるのか、そのことを明らかにしたい、と考えることは想像力を持った人間にとっては当然の事。集団として生きる人間は実在の世界ではなく想像世界に唯一の生きるべき世界を見いだしてきた。

その想像世界を世界観(コスモロジー)と呼んでいる。その世界を目に見えるものとし、実感できるものとしたのが祝祭空間。音楽と建築は「私たちの世界はこんなところ」という場としてデザインされたのが祝祭空間です。

どの文明の祝祭にはコミュニティの活性化と日常生活の解放が仕込まれている。日々の労働で疲弊した肉体と弛緩した精神の再活性化を計るのが大きな役割。さらに祝祭は、若者たちが明日を共にする伴侶と出会う貴重な場、集団で生きる人間が、人間として生きるための情報交換の場でもあった。長老たちが知る「狩りの方法と季節」、若者たちが新しく見つけた「漁の場所や時刻」、新旧様々な情報を伝達し交換する、それもまた祝祭空間。

(祝祭はまた情報空間)

人間は頭脳を持ち、生きる糧とそれを得るための情報、あるいは人間として生きていくための様々な知識をその中に収納している。しかし、その情報は仲間たちと共有してはじめて有効に機能する。人間はいつの時代も頭脳以外の外部記憶装置を必要としてきた。祝祭は生きるためには不可決な外部記憶装置でもあったのだ。

新旧の大事な情報を記憶し、いつでも自由に取り出すことができるアクセスフリーの情報空間。それもまた祝祭の大きな役割。祝祭は人間と人間、人間と世界(神)、人間とモノとが共存し、情報や意識、イメージが交換(歓)される人間にとって欠かすことのできないマルチメディア空間と言って良い。そして、その空間を生み出し、情報を蓄え、記憶し、伝達するメディア(媒体)となったのもまた音楽と建築。音楽と建築は世界のカタチ、世界模型を示す媒体であると同時に、アクセスフリーのマルチメディアな情報装置。その情報空間はやがて都市を生み出し、劇場を生み出し、オペラを生み出していく。

(建築の誕生)

発生期の建築は祝祭という一時的なパフォーマンスのための装置だった。しかし、その装置がテンポラリーではなく、恒久化された時、それは「建築」の誕生だが、人間世界はドラスティックに変化する。人間が自然空間の中に祝祭に関わらず「特別な場所」を築くことで、人間社会にモニュメントとランドマークが生み出されたからだ。

この時、造られたという「この時」という「時」が定まれば、「この時」を手がかりに「あの時」という他のあらゆる「時」が説明可能となる。この場所に造られた、が決まれば「この場所」を中心として「あの場所」の位置も明確にできる。海の波のような混沌とした日常の時間と空間は「この時」と「この場所」が手がかりとし記憶され、説明され、分節され、秩序づけられた。

自然世界の一部は「建築」によって「人間のための空間」に変容したのだ。建築の誕生による秩序化された「特別の空間」の発見は、動物とは異なる、「大地からの飛翔」した人間的生き方を自覚させる。

人間は祝祭空間という時空に関わらなくとも「この時」「この場所」に「建築」を造ることにより、混沌としたあるがままの自然空間とは異なる、人間として生きる特別な空間、文化的な空間を生み出すことが可能となった。

(集落から訣別し、都市が誕生)

祝祭空間は日常空間の中に現出した気晴らしや楽しみの場でもあるが、より良く生きようとする人間にとっての情報交換の場、交流の場、そして何よりも集団としての人間の文化的資質の備わった場。つまり祝祭空間とは「都市」そのものを意味している。

テンポラリーであり、 日常空間から分離されていた祝祭空間が音楽と建築により恒久化された時、それが都市の誕生だ。「都市」は日常的な集落の中に生み出されたマルチメディアな「特別な空間」に他ならない。

集団で生きる人間が経済的利便を合目的化し「集落」が誕生する。その集落の洗練が都市の誕生と考えられるが、それは誤り。人間がただ生き残る上での利便や必要のために集つまって住まうのであるならば、集落としては拡大されるが、都市は必要ではない。

人間が人間として生きていくために最も必要とするもの、それは食料や衣類ではなく共に生きる人間なのだ。人間と人間の関係(社交)を生み出す場、その場こそ祝祭であり都市。従って、都市は自然と一体化した集落からは決別したものを意味する。

都市は祝祭という非日常的な空間、混沌的自然空間から飛翔した人間的秩序空間。集落の延長ではなく集落との断絶こそその基盤。都市はその発生から、その空間に含みもつ「文化的資質」こそ、なくてはならないものと考えなければならない。


2011年4月6日水曜日

イタリアはそれでも原発を作らなかった


From Evernote:
イタリアはそれでも原発は作らなかった。
イタリアはそれでも原発を作らなかった。かって以下のような論評でイタリア経済が紹介された。「原発なき先進国イタリアの悩み」。しかし、今再び、この論評を読む必要がある。8年前の自分自身を知るために、人間中心社会を取り戻すために。

http://www.iti.or.jp/flash47.htm

2003年7月25日
原発なき先進国イタリアの悩み
(財)国際貿易投資研究所
欧州研究会委員
(元北海学園北見大学教授)
長手 喜典
去る6月末から7月初めにかけて、イタリアの主要誌紙には、"Blackout"という英字が踊ったが、 かつて(1977年7月)のニューヨークの大停電を思わせるタイトルに目をひかれた。
実際には、ローマで一時間とか一時間半程度の停電、ボローニャあたりでは皆無、 ミラノでもそう大きな被害は伝えられていない。 しかし、なかには、冷凍庫のものがとけだしたり、エレベーターに閉じこめられて、大騒ぎした市民も出た。 これは、普通の年ならまだ電力に余裕のある6月に、イタリア半島が何百年ぶりとも言われる猛暑に襲われたため、 電力需要が急増し、最大供給能力 5万5,250メガワットの限界まで需要が近づいたためである。
イタリアでは、国民投票の結果、1988年末をもって原発は中止されており、 その後、15年近く慢性的な電力不足を抱えながら、フランス、スイス、スロベニアなどアルプスの向こうの隣国からの輸入で、 かろうじて電力需要をまかなってきた。

表1 イタリアのエネルギー源
公称発電能力(Mw)国産供給能力(Mw)
水力 
火力 
地熱 
風力 20,439
55,100
665
74613,450
34,750
550
200
合計76,95048,950

最大供給能力
国産供給能力
最大輸入量55,250 Mw
48,950 Mw
6,300 Mw
最大需要電力
(2002.12.2現在)52,950 Mw
限界供給可能量2,660 Mw
(出所:2003年6月28日 La Repubblica)
イタリアは原発先進国フランスが主要輸入相手国で、同国に輸出余力がない場合は致命的事態となる。 今回も予定されていたフランスからの買電800メ ガワットをカットされたのが、直接的原因と言われる。
もちろん、この辺の危機的意識がイタリアにないわけではない。 主要紙の論調なども、イタリア半島は電力マーケットという観点からすると、 EU市場から切り離されており、安全保障上はまさに孤島並と警鐘を鳴らしている。 欧州も大陸諸国は火力か水力か地熱か風力か、さらには原子力かと各国の自由な選択に任せているが、 イタリアには原子力という選択肢がない(表2参照)。 せいぜい議論されているのは、イタリア南部に大規模な火力発電所を建設するという、 まだ具体化されていない計画があるだけだ。

表2 種類別電力生産と電力消費(%)

(出所:2003年7月10日 Le'spresso)

もう一つの問題は、イタリアの発電所は稼働停止状態のところが多い点である。 最近のL'espresso誌によると、発電能力のうち30%は休止しているし、 本格稼働は16ステーション中、わずか3ステーションとみられている。 また、ほとんどの施設がコスト高に陥っており、発電コストが優良と目されるのは、 ポルト・トッレ(サルジニア島)とブリンディジ(南伊プーリア州)だけと指摘している。
ENEL(イタリア電力公社)のパオロ・スカトローニ社長は、12カ月以内に、 1,200メガワットを再稼働し、また、2年以内に1,600メガワットを 追加できると明言、 さらに、2004年中には、新たに5,000メガワットの供給を約束しているが、需要側は従来の実績から、 それをそのままには受け取っていない。
そして、常にイタリア電力業界に潜在しているのは、原子力発電回帰へのノスタルジーである。 保守系の現ベルルスコーニ政権と、かつて、「オリーブの木」を率いた現EU委員長プローディとの間の原子力に対する考え方は、 明らかに相違している。原発の是非を蒸し返すことは、あたかもわが国の憲法9条をめぐる与野党の対立のように、 聖域を前にして足踏みしているようにも見える。 いずれにせよ、冷夏と原発再開のニュースで、電力不足がやや遠のいた感のあるわが国ではあるが、 先進国の中で東の日本と西のイタリアは、電力不足を抱える、まさに、列島と半島の2国であろう。

2003年11月21日
原発なき先進国イタリアの悩み(その2)
(財)国際貿易投資研究所
欧州研究会委員
(元北海学園北見大学教授)
長手 喜典

フラッシュ47(7月25日付)に、同上のタイトルの一文が掲載されてから約2ヵ月後、 去る9月28日の朝まだき、イタリアでは再び大停電が発生した。 ローマで発刊されているラ・レップブリカ紙などは、この大停電はベルルスコーニ率いる中道右派政権のもと、 急速に傾きだした国の前途(欧州主要国中、直近のGDP伸び率は最も低い)を暗示しており、 2年数カ月前に同政権が公約した経済回復はおろか、再び始まったイタリア経済衰退の予兆であると手きびしい。
他紙の論調もおしなべて国の危機管理を鋭く追求しているものが多く、短期間に2度も発生し、 しかも、1回目に比べ被害がサルデーニャ島を除く全土に及んだことでさすが、 のんびりしたラテン気質のイタリア人にも大きな打撃を与えたようだ。

被害概況

首都ローマでは、9月28日はちょうど白夜祭(La festa della nottebianca)で町中に繰り出した150万人の若者達で、 中心街は夜明けまでにぎわっていた。しかし、皮肉にも白夜の最中の午前3時半に突然ブラックアウトし、 それから夜明けまでの数時間、家に帰りそびれた50万人は、真っ暗闇の白夜を路上で過ごさざるを得なかった。 だが、待ちかねた朝はおろか、昼も過ぎ、夕方の5時になってやっと電気が戻る有様で、 13時間半の大停電は、戦後最長という不名誉な記録を残した。
イタリア20州中、前述のサルデーニャ州は、島全体をカバーする独自の発電、配電網を持っていたため難を免れたが、 他の19州にはすべて被害が及んだ。午前3時30分から午後10時26分まで19時間の停電を続けたシチリア州が最悪で、 日頃、カオスを代表するような町、ナポリを州都とするカンパーニャ州が、昼過ぎの13時30分には通電、 最短の10時間で回復したのもお手柄であった。
全体として、ミラノ、トリーノなどを中心とする北部は相対的に停電時間は短く、 南部が明け方から夜まで電気なしの一日を強いられた。そんな中にあっても例外はあるもので、 イタリア北東部のトリエステ市だけは、あかあかと電気がともっていた。理由は報じられていない。
計算根拠は明らかではないが、冷蔵庫の中の物が融け出したり、牛乳がいたんだりの食品の被害が、 一家庭当たり平均20ユーロ、一般商店の被害総額はおよそ1億ユーロとConfucommercio(イタリア商業連盟)は発表している。 いずれ、さまざまの電力消費者からの被害請求が起こるだろうが、電力会社や行政がこれにどう応え得るか頭の痛いところだ。

大停電は何故起きたのか?

隣国スイスのドイツ語圏の山中で、折からの嵐により古い大きなモミの樹が倒れて高圧電線に接触した。 それが災難の始まりであったと言う。が、燃え上がった木は雨が消火して、山火事などに至らなかったのは幸いであった。 しかし、問題は国境のこちら側、イタリア・アルプスの山系には、数多くの水力発電所があり、どうしてすぐ補完的対応ができなかったのか。 レップブリカ紙の説明によると、事故の起こった真夜中は、電力コストの最も安い時間帯で、 イタリアは外国からの買電にもっぱらこの時間帯を利用していた。したがって、イタリア側からの供給は休止中、 ぐっすりとした眠りから覚めるには、時間がかかるというわけである。
だが、自然の災害を責めても仕方のないことで、これら緊急事態に備えたしっかりしたディストリビューション・システムが、 日頃から確立されていなかったのが、今回の問題と衆目は一致している。
いずれにせよ、戦後、イタリアの危機の中でも、今回のような出来事は初めてである。 「カオス」という数学理論の中では、日本で蝶の羽根が一振りされると、世界のどこかで台風やハリケーンが起こるという。 スイスで一本の樹木が倒れたというあり得る小さな出来事が、シチリアの島全体に圧倒的な暗闇をもたらした。
このような思いもかけない関連性の中で生きている現代工業化社会は、IT革命でさらにその相互緊密性を増しており、 このままでは、人間レベルの対応が後手に回って、取り返しのつかないところに来ているのだ。 次項にあげたような出来事は、対岸の火事ではなく、現代文明社会にいつ起こってもおかしくない現実である。

他山の石

ミラノの北60キロ、深夜のマルペンサ空港へ着陸態勢に入ったアリタリア機のパイロットは、 眼下の大地が忽然として消えてしまい、思わずわが目をこすった。これでは砂漠に着陸せよと言うに等しい。 迷わず機種をミラノ市郊外のリナーテ空港へと向ける。 9分後、下界に見える筈のミラノの燈火は、どちらを向いても見あたらず、ラゴスのような真っ暗な町に、 自動車のヘッドライトの動きが、僅かに散見されるだけだ。なにしろ夜中の3時過ぎである。 しかし、幸い滑走路には自家発電の誘導灯が灯っており、パイロットはほっと胸をなでおろす。
ローマの終着駅は、この夜、若者達の野営地(ビバーク)のための格好の場所と変わり、 1万2,000人の人々が国鉄と地下鉄双方の構内にあふれかえった。 終着駅というかっての名画では、構内の引き込み線に止まっている無人の車両の中で、アメリカへ帰る年上の恋人を追って、 イタリア青年の恋心が綿々と語られるが、今回の白夜の夜には、どんなロミオとジュリエットが、真っ暗な終着駅から生まれたろうか。
イタリア南部の小さな町の小さな病院には、自家発電の設備はなかった。深夜にかつぎ込まれた交通事故の被害者は、 オペの最中に今度は大停電による生命にかかわる被害者となった。 そこはランプや懐中電灯をともした何世紀も前の手術場に逆戻りしたが、なんとか患者の一命はとりとめられたと報じている。
こんなことを紹介しだしたら切りはないが、ローマだけで、深夜のエレベータの中に閉じこめられ、 呼べど叫べど答えのない恐怖の中に過ごした人が、120人もいたという事実が、大停電の怖さを如実に物語っている。

イタリアの電力消費量の推移

(出所:2003年9月29日 La Pepubblica)

イタリアの特殊性と世界の大停電

通常の電力危機は、おおむね電力消費量の最大期、夏期に先進国を見舞う。前回のイタリアもそうであった。 ただ、今回は秋、しかも、最も電力消費が下降する真夜中に起こった。 これはイタリアが総需要の16.6%も輸入電力に依存しているからであるが(フラッシュ47参照)、 通常なら国内発電による供給不足分-15.9%を十分上回る買電で、 理論的には足りている計算である(2003.9.29 レップブリカ紙)。
しかし、16本の隣接する諸国からの送電ケーブルは、そのうちの1本の通電時間帯の事故で、 家庭用も産業用も一緒くたの大停電を引き起こし、人口5,700万人、世界第7位の工業国を一夜にして、第三世界以下の状況下においた。
大停電ではアメリカもあまり自慢できない。 2000年と2001年の夏、カルフォルニアで、2003年8月14日東部(ニューヨーク、デトロイト、クリーブランド等)と続いている。 一方、欧州では2003年8月28日にロンドンで、続いて、9月23日にはデンマークでも発生、大停電の皮肉なボルテージは上がってきている。

世界の大停電リスト
米国5大停電(1965、77、96、01年。2003年8月14日には北西部の5,000万人が被害を受けた)
英国2003年8月28日に34分間の停電、列車、地下鉄が止まり、15万人が被害を受けた。
仏いつも12月に大停電発生。1978年は電線故障、99年は嵐の中、360万人が暗闇で数時間を過ごした。
カナダ1998年1月、300万人が1週間以上明かりなしの状態。どしゃぶりの雨の中、電線が凍結したため。
インド2001年1月、インド北部の2億人以上の住民が、ウッター・プラデシュ州の発電所の機能不全で暗黒の世界に。
ナイジェリア2001年6月、約5,000万人が送電停止の状況下におかれた。国の東部地域で高圧線用の鉄塔が損壊したためという。
(出所:2003年9月29日付 La Repubburica より作成)
イタリア電力問題の変遷

第2次世界大戦後のイタリア電力業界の動きの中で、以下のような、大きく5回の転換点が認められる。

戦後:電力業界は10社あまりの私企業が支配していたが、そのうち最大手がエジソン社であった。
国営化:1962年、2位から7位までの電力会社を吸収合併して、国営のENEL(イタリア電力公社)が誕生した。
原発推進:国は原子力発電の強化を目指し、既設4施設の完成・増強をはかる議会決定を1973年12月に行った。
原発廃止:1987年、レフェレンダム(国民投票)により、カオルソ、トリノ、ラティーナ、モンタルトの全原子力発電所を閉鎖した(注)。
電力自由化:1999年4月、ENELの独占状態を止め、電力の生産、輸入、販売のすべてを自由化することを決定、現在に至る。
イタリアの電力業界は60年代から80年代の半ばまで、国営化ならびに原発を推進していた時期には、電力危機とは無縁であった。 しかし、1987年の原発廃止後、エネルギー産業に群がる利権目的のビジネスや政界へのロビー活動などが、 エネルギー分野の健全な育成発展を妨げたと言われる。第2次世界大戦後のイタリア電力業界は、私企業による一種の地域独占が形成された。 すなわち、北部ではミラノで最初の施設を建設したのは、Edison社であり、ベネト州とエミリア・ロマーニャ州の一部にはSade社、 ピエモンテ州にはSip社、トスカーナ、ラツイオ、サルデーニャ州にはCentrale社、南部とシチリアにはSme社が立地した。
戦後、イタリア産業の復興は、これらのエネルギー企業の飛躍に負うところ大であり、 10年足らずで国の産業は金の卵を生む鶏へと成長した。その間、60年代の中道左派政権は烈しい政策論争を経て、 遂に、62年に電力の国有化に踏み切る。すなわち、1、500社以上の民間企業が、新生ENELという国営企業に一本化された。 経済ブームにあと押しされたり、石油危機に足をすくわれたりしながらも、1960年と84年の24年間にエネルギー生産は10倍に拡大した。
その間、1973年に最初の方向転換がなされる。ENELによる原発2基の建設で、さらに、2基が追加される。 しかし、14年後の1987年、イタリアの民意はすべての原発廃止を選択する。このような政策のぶれの中で、 1999年には37年間続いた国有化の歴史は幕を閉じ、再び民営化が動き出したが、 ENELの68%の株式はいまだ国が所有しているのが現状である。

政府・産業界と民意の対立

現中道右派政権と産業界は公然と原発再開の必要性を訴えている。だから、今度のような出来事は、起こるべくして起こった。 つまり、ベルルスコーニ首相はあえて放置しているという、うがった見方まで出てくるが、真偽のほどは分からない、 ジャーナリスティックな見方であろう。Confindustria(イタリア経団連)のアントニオ・ダマート会長は、 「過去20年間の政策の誤りのつけが、いま露呈している。電力不足を解決するには、原子力発電を再開し、 石炭による火力発電も再考すべし」と、産業界を代表して発言している。イタリア産業は欧州の競争相手国に比べ、 40%コスト高の電力料を支払い、家庭用電気やガスでも20%は高くついている。 このような劣悪な競争条件では、イタリア産業の再生などおぼつかないというのが、産業界の本音だ。 ENELのパオロ・スカローニ社長は、すべては電力のディストリビューションの問題に帰結するとしながらも、 過度の外国依存を是正しなければ、抜本的な解決はないと断言する。 前回はフランスでの落雷、今回はスイスの立木の倒木などと、自然災害を言う前に、イタリア電力消費の17%という、 欧州でも最大の輸入依存率を引き下げることが肝要だと主張している。 ちなみに、欧州第2の電力輸入国、スペインにしても、その依存率は3%と低い。
また、イタリア電力の50%を生産し、消費電力の38%を取り扱う前記ENELのスカローニ社長は、 結論として新しい発電施設(火力であれ原発であれ)の建設や立地に地元が反対すれば、問題は先送りされるだけ、 地域住民の理解と協力がなにより大切と力説している。

今後の課題

エネルギー問題のエキスパートたちの意見も、「イタリア最大の誤りは原発廃止にある。 当時は総選挙への対策のため、選挙民への配慮が優先して、反対論の口を封じてしまった」と指摘している。 他国の先例をあげれば、英国国鉄の鉄道網が、民営化後にかえって劣化したこと、カルフォルニアでは電力供給者間の競争が、 停電騒ぎに結びついたこともある。これら僅かの例からも、民営化を呪文のように唱えることが、 産業の活性化や再生に必ずしも繋がらないことを知らされる。 施策に民意をどう盛り込めるか、イタリアはまさに難問を突きつけられている。
前イタリア産業大臣、アルベルト・クロ氏は新聞のインタビューに答えて、次のように述べている。 在来型の発電施設でも、プラント建設・稼働までに最低2年位かかる。原発の場合は10年はかかるかも知れない。 電力自由化後の4年余りを総括すれば、電力業界にとりネガティブであったと判断せざるを得ない。 電気料は30%上がり、電力は先細り傾向を辿っている。次のブラックアウトを避けるには、電力需用者である企業が、 自前で準備するのが、当面の解決策であると。
最後にEU(欧州連合)レベルの問題に簡単に触れる。イタリア出身のマリオ・モンティ州委員は、 EUの電力産業単一市場化が完全に実現すれば、今回のようなブラックアウトは回避できるし、 少なくとも大きな助けとなろうと発言している(2003年10月7日ラ・レップブリカ紙)。
今回、イタリアが直面した問題をきっかけに、エネルギー生産に伴う重大な欠陥として、 各国間の送電の流動性に大きな不備のあったことに気づかされた。 エネルギー・システムの安全の問題は、EUでも大きなテーマの一つである。 議長国イタリアは自国民に対してはもとより、スイスを含む欧州市民の前にも、今度の事件を総点検して、 その実体を明らかにする必要があろう。そして、電力の安定供給、国の危機管理のために、 内外の生産拠点からの電力の、機に応ずる集約化や多角化を再構築することが、喫緊の課題である。

(注)イタリア原発問題は、拙著「イタリア経済の再発見」東洋書店に詳しい。 

2011年3月31日木曜日

ポピュリズムそして震災を超えるもの

昨夕の論壇時評(東京新聞)は金子勝氏、いつものように判りやすい。 
「二大政党への失望感 ポピュリズムの色彩」がその表題。 
ポピュリズムは庶民の常識によって権力者の特権を是正するという意味では有効だが、 
政治的理念や思想もなく、つねに受けのいい言葉やトピックによって期待と関心を集める政治姿勢と見るならば極めて厄介。 
当然、金子氏は後者の懸念からの時評。 
世界4月号の松谷満氏(ポピュリズムの台頭とその源泉)や、 
後房雄氏の「政権交代以後の混迷する2大政党と首長の反乱」(都市問題3月号)も同じ懸念。 
「80年代以降、構造改革や不良債権処理の失敗、規制緩和は新たな産業に結びつかず、 
多大な負債と格差を生み出し、二大政党への失望感は多大なものとなった。 
つまり、大衆迎合主義(ポピュリズム)が生まれるべく土壌が充分なのだ。 
そして今回の未曾有の大苦難。 
しかし、ここからはしっかりと踏みとどまなければならない。 
語り口・本音、リーダーシップ・実行力という抽象的な言葉に踊らされてはならない。 
公共や安心に結びつく具体的な政策がいま必要であり、 
多大な被害を公共が支えるとするならば、 
単純な減税策はいかなる意味を持つのか、よく考えなければならない。」 
と書いている。 
思うに、80年代以後のネット社会はボクたちの生活環境を大きく開いた。 
しかし、飛び交う情報に一喜一憂、 
中身よりも量あるいは密度に迎合する自分が、 
今、そこにいるのも事実だ。 
「今回の震災は公共や安心回復の社会連帯に目を向ける契機になる」ように、 
「生かせなければ、日本社会が経済の低迷と社会不安のただなかに投げ込まれることは必至」 
と金子氏は結ぶ。 
震災を、そしてまた負のポピュリズムを乗り越えるのは、 
情報の海を生きるボクたちの「生き様=ライフスタイル」に懸かっている、 
とボクは読み取る事とした。 

2011年3月28日月曜日

崩壊したシステム、機能するのは人の自主的な動き

この大震災のなか新聞とネットから情報を読むだけのボクだが、昨日はある会合に参加した。 
帰ってきて朝刊を読むと、二人の論者がまったく同じような事を書いていた。 
簡単に言えば、 
「今、システムは崩壊したが、人間の力が活動している」ということ。 
その実感は一人の論者の言葉では、 
たまたま滞在中のフランスで各国数々の新聞を読んだが、驚くべく日本人、人々の冷静な行動、支え合うとする人々の意思、自己犠牲的な労働、他者のため頑張りつづける人々の努力、支え合い結び合う人間たちの働き、ということばが並んでいたそうだ。 
そして、論者がいうシステムとは、電気システム、エネルギー供給のシステム、情報通信システム、医療システム、年金・社会保障システム・企業システム・市場システム・教育システム。 
つまり、この大震災にかかわらず、この数年におこっている事のすべて、そのシステムが今、崩壊したととらえている。 
システムはすべて想定の範囲内で維持可能なように設計されているものだが、想定は単なる人間の思い込みにすぎないと書き、 
その思い込みが壊れた時、 
機能するのは人の自主的な動き、 
その動きを論者はフランスで読んだ、新聞で実感したのだろう。 
そして、結んでいる。 
システムから脱却し、人間の結びつきが基盤となるような社会創成が始まった。 
昨日読んだ新聞は今、手元にないので、論者の名前、その内容は正確ではない。 
夕食もそこそこ就寝してしまったので、今、外出中、iPhoneのメモだが、アップする事にした。

2011年3月26日土曜日

いよいよボクたちは放射能とともに生活しなければならなくなった。

大震災から10日あまり、復興活動は日に日に活発化しているようですが、
まだまだ終息していない原発からは多大な放射性物質が漏れ続けています。

この汚染とどう関わればよいか。

これは厄介な長い戦いになりそうです。

まずは乳児と幼児を守る事、そして若年層は積極的に防備しなければならない。

いまさらながら、事故当初のヨーロッパの人々のどよめきが理解できました。

「ドイツやフランス人なら国内脱出を画策するよ!」という記事を読んだのは確か3月13日。

チェルノブイリの体験から多くを学んだヨーロッパの人々、一方、われわれはまだ何も知らないのではないか。

今(3月26日午後1時00分)から「放射性物質汚染とどう関わればよいか。」をネットから調べてみることにしました。

*日常生活と放射線大震災から10日あまり、復興活動は日に日に活発化しているようですが、

まだまだ終息していない原発からは多大な放射性物質が漏れ続けています。

この汚染とどう関わればよいか。

これは厄介な長い戦いになりそうです。

まずは乳児と幼児を守る事、そして若年層は積極的に防備しなければならない。

いまさらながら、事故当初のヨーロッパの人々のどよめきが理解できました。

「ドイツやフランス人なら国内脱出を画策するよ!」という記事を読んだのは確か3月13日。

チェルノブイリの体験から多くを学んだヨーロッパの人々、一方、われわれはまだ何も知らないのではないか。

今(3月26日午後1時00分)から「放射性物質汚染とどう関わればよいか。」をネットから調べてみることにしました。

*日常生活と放射線
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*原子力安全研究グループ/3月25日
福島県内各地方環境放射能測定値

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*全国の放射能/情報元は文部科学省/都道府県別放射能水準調査結果
全国の放射能・全国の水道の放射能・全国の雨の放射能・東京都の水道(速報版)
http://atmc.jp/

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*小出裕章さん『隠される原子力』via YouTube


*環境研ミニ百科/33号半減期について

http://www.ies.or.jp/japanese/mini/mini_hyakka/33/mini33.html

皆さん、「半減期」という言葉をお聞きになったことがありますか?私の手許にある国語辞典には、「半減」という言葉の解説は載っていましたが、「半減期」は載っていませんでした。この言葉が学術用語だからでしょう。ちなみに「半減」とは半分に減ることです。「期」は期間(時間)ですから、「半減期」とは半分に減るまでに要する時間です。いったい何が半分に減るのでしょうか?

学術用語でよく使われる「半減期」は、物理学的半減期と生物学的半減期です。単に半減期といえば、物理学的半減期を指すことが多いように思います。
物理学的半減期は、ある放射性核種の数が半分に減るのに要する時間のことであり、生物学的半減期は、いったん生体内に取り込まれた物質が、排泄作用等により、体内から失われ、半分に減るまでに要する時間です。

図1 放射能の減り方

ここでは物理学的半減期に焦点を合わせて、お話しすることにします。

今からざっと40年程前、アメリカと旧ソ連が、競い合って大気圏内で原爆実験(核実験)を繰り返していた頃のお話です。大気圏内で核実験を行ったのは、上の2国だけではありません。中国、フランス、イギリス、インドなども行いました。新聞紙上には、連日のように「雨の中にストロンチウム-90、セシウム-137、ヨウ素-131が検出された」という記事がおどっていました。10年程前(1986年4月26日)には、チェルノブイリの原子炉事故がありました。数多くの放射性核種が環境中に放出されましたが、代表的な放射性核種はヨウ素-131、ストロンチウム-90、セシウム-137などでしょう。ここではストロンチウム-90(半減期28.8年)を例にとり、お話を続けます。ストロンチウム-90は変身してイットリウム-90に変わります。イットリウム-90は、更に変身してジルコニウム-90になり安定します。変身するときに放射線を出します。 変身しないときには放射線を出しません。世の中には、放射性核種は絶えず放射線を出し続ける性質を持っていると考えている人がいます。ひとつひとつの放射性の原子は1回だけ変身し、その時放射線を出すのです。常に出し続けているように見えるのは、数多くの放射性の原子が集まっているからです。  今ストロンチウム-90という原子1個をとり出せたとします。目の前のストロンチウム-90原子1個が、いつ変身するか、それは誰にもわかりません。どのストロンチウム-90の原子をとってきても同じことで、いつ変身するかわからないのです。ただ、数十万、数百万、数千万、いやそれ以上の数のストロンチウム-90原子が集まった集団について観察すると、その丁度半分がイットリウム-90に変身するのに28.8年かかります。更に残ったストロンチウム-90の半分がイットリウム-90に変身するのに28.8年かかりそのまた半分が・・・・・・という具合にくり返されるのです。とすると、ストロンチウム-90原子の中には、すぐ変身するものと、なかなか変身しないものがあるということになります。事実、その通りなのです。従って、ストロンチウム-90の物理学的半減期が28.8年であるというのは、何十万、何百万、何千万、それ以上のストロンチウム-90の集団について観察されることです。またその半減の仕方には特徴があり、時間が2倍、3倍・・・・とふえるに伴い、変身する数も2倍3倍・・・・になるような直線的(比例的)な減り方ではなく、図1に示したような減り方を示します。この減り方はどの放射性核種でも同じです。  半減期が比較的に短い放射性核種(例えばヨウ素-131、半減期8日)と、長い放射性核種(例えばセシウム-137、半減期30年)が同数(例えば10万個ずつ)あったとします。スタートしてから8日たった時点で比較すると、ヨウ素-131の方は5万個がキセノンに変身しています。変身する時に放射線を出しますので、8日間に5万個分の放射線が放出されたことになります。

核 種

半減期

核 種

半減期

クリプトン90

32.3秒

水素3

12.3年

キセノン138

14.1分

ストロンチウム90

28.8年

フッ素18

109.8分

セシウム137

30.0年

ヨウ素131

8.04日

ラジウム226

1600年

ポロニウム210

138.4日

プルトニウム239

2.4万年

コバルト60

5.27年

ウラン238

45億年

半減期の例

一方セシウム-137の方は、半減期が30年ですから、8日間ではほんのわずか(50個)しか変身しません。従ってそれに伴って放出される放射線の数も極めて少ないことになります。
このことからもわかるように、単に半減期が長いからといって危険度が高いとは言えません。危険の度合いは、生物体内に取り込まれ易いかどうか、どの部分にたまり易いのか、どれ位生物体内にとどまっているのか(生物学的半減期、前出)、どんな種類の放射線を出すのか、などの情報を総合して判断されるものです。 
(大桃 洋一郎)

*3月24日午後1時00分更新

昨日見た、ユーストリームです。

いよいよ、ボクたちは多大な放射性物質とともに生活しなければならなくなったようです。

お二人のお話に全て同意している訳はありません。

しかし、多くの方がご覧になったほうが良いと思います。

六ヶ所村の3000トンには驚きとともに、恐怖しています。

緊急報告「福島原発で何が起きているのか」

*放射線医学総合研究所

www.nirs.go.jp/rd/faq/index.shtml

*緊急被爆医療Q&A

www.nirs.go.jp/hibaku/qa/index.htm
http://www.ustream.tv/recorded/13509353