昨夕の論壇時評(東京新聞)は金子勝氏、いつものように判りやすい。
「二大政党への失望感 ポピュリズムの色彩」がその表題。
ポピュリズムは庶民の常識によって権力者の特権を是正するという意味では有効だが、
政治的理念や思想もなく、つねに受けのいい言葉やトピックによって期待と関心を集める政治姿勢と見るならば極めて厄介。
当然、金子氏は後者の懸念からの時評。
世界4月号の松谷満氏(ポピュリズムの台頭とその源泉)や、
後房雄氏の「政権交代以後の混迷する2大政党と首長の反乱」(都市問題3月号)も同じ懸念。
「80年代以降、構造改革や不良債権処理の失敗、規制緩和は新たな産業に結びつかず、
多大な負債と格差を生み出し、二大政党への失望感は多大なものとなった。
つまり、大衆迎合主義(ポピュリズム)が生まれるべく土壌が充分なのだ。
そして今回の未曾有の大苦難。
しかし、ここからはしっかりと踏みとどまなければならない。
語り口・本音、リーダーシップ・実行力という抽象的な言葉に踊らされてはならない。
公共や安心に結びつく具体的な政策がいま必要であり、
多大な被害を公共が支えるとするならば、
単純な減税策はいかなる意味を持つのか、よく考えなければならない。」
と書いている。
思うに、80年代以後のネット社会はボクたちの生活環境を大きく開いた。
しかし、飛び交う情報に一喜一憂、
中身よりも量あるいは密度に迎合する自分が、
今、そこにいるのも事実だ。
「今回の震災は公共や安心回復の社会連帯に目を向ける契機になる」ように、
「生かせなければ、日本社会が経済の低迷と社会不安のただなかに投げ込まれることは必至」
と金子氏は結ぶ。
震災を、そしてまた負のポピュリズムを乗り越えるのは、
情報の海を生きるボクたちの「生き様=ライフスタイル」に懸かっている、
とボクは読み取る事とした。