2013年8月8日木曜日

マントヴァのパラッツォ・テ

パラッツォ・テは、正方形の四辺を中庭を取り囲むかたちで巡らされた一階建ての低い建物で、当初は中庭には迷路の植え込みが作られていたが、いまはない。

東側は大きく開かれていて広い庭につながり、その先端にエセードラと呼ばれる半円形の列柱アーチが設けられて外部 との境界となっている(図4)。

館内には二十数室の部屋があり、その各所にジューリオが大勢の弟子を動員して描いたフレスコ壁画およびストゥッコ装飾(1526~34頃)がある。

主要なものだけについて説明すると、西側の現在の入り口を入って左に進むと、北側部分にまず「オヴィーディオの間」があり、オウィディウスの 『変身物語』に取材した主題が扱われている。 

ついで「ムーサの柱廊」には音楽や詩の寓意像とともに「オルフェウスとエウリュディケ」の場面が描かれている。 

 その先の「馬の間」は謁見やパーティーに使われた大きな部屋である。擬似的に描かれた柱間にはギリシアの神々が表されているが、ここに入ってすぐ目に付くのは壁の前面に立つかのように描かれている優美な四頭の馬の姿である。

実はこの館の建てられた場所はもともと放牧場であって、ゴンザーガ家が飼育した馬はヨーロッパの各宮廷から引く手あまたであり、その後のイギリスのサラブレッドの源流となったといわれている。

ゴンザーガ家に仕えたザニーノ・オットレンゴという名の獣医が著した『馬の疾患』という本(マントヴァ、ダルコ財団蔵)もあり、馬に関してはマントヴァは抜きん出ていたようだ。

ここに描かれた四頭は、「バッターリア」「ダーリオ」「モレル・ファヴォリート」「グロリオーゾ」という名前まで記されていて、自慢の名馬だったのだろう。 

 北東の隅の「プシュケの間」は1530年にカール5世を迎えて晩餐会が催された部屋である。天井周辺にはアプレイウスの『黄金のロバ』に由来するアモルとプシュケの交歓の図が繰り返して描かれ、西側の壁は「粗野な宴会」、南側の壁は「高貴な宴会」という二つの饗宴図で占められ、そこにはメルクリウス、ホライ、ウェヌス、マルス、バッコス、ポリフェモスなどを含め、多くの男女の神々がほとんど全裸で登場する。別の一隅にはあからさまに勃起したゼウスがオリンピアスに挑む図などもあり、これはヘレニズム美術に原型があるとはいえ、あまりいただけない。

なおプシュケはイザベッラ・ボスケットの、クピドがフェデリーコの、ウェヌスがその関係に反対する母親イザベッラ・デステの寓意であるとする意見もある。いずれにせよ、この部屋の主題はエロスの饗宴であり、氾濫のイメージである。

 いくつかの部屋を省略して東南の角に進むと、絵画的には最も興味深い「巨人の間」がある。

主題はヘシオドスやオウィディウスに由来し、天井の雲に現れたゼウスが雷光を放って巨人族を打ちのめすさまが四周いっぱいに描かれている。

崩れ落ちる石塊に挟まれて大仰にあわてふためく巨人たちの姿は、あまりにも非現実的とはいえ、強烈な迫力がある。

この部分は1531年から34年に制作されたのだが、最初に手がけられた西側の部屋で見たような淫靡な逸楽のイメージはここでは姿を消しているのに気づく。

それというのも、フェデリーコはすでに正式な結婚もして公の称号をもち、加えて1532年にカール5世をここで再び迎えることになるという事情があり、いまや肩で風を切るような権勢の象徴がこの主題に託されているということができよう。

 ジューリオ・ロマーノはその後、ゴンザーガの本邸であるパラッツォ・ドゥカーレのいくつかの部屋にもギリシア神話にまつわる壁画をかいた。

ところでジューリオのこうした絵画表現をマニエリズモ様式と呼ぶ。

日本語でマンネリズムというと独創性に欠ける二番煎じという意味合いがあって芳しくないが、美術史学ではもう少し積極的な意義が与えられていて、すなわちラファエッロを一つの頂点とみなし、画家はもはや自然から直接学ぶことをやめ、完成した造型言語(マニエーラ)を駆使して新しい絵画世界の構築を企てた様式という評価がなされている。

ルネサンスは秋を迎えた。ジューリオはローマにおいて、まさに成立しつつあったマニエリズモを経験し、マントヴァでその成果をいっぱいに実らせたのだった。