(グレゴリウスと聖霊の鳩)
ルネサンスは個人による、想像力に満ちた「作品」が高く評価され、創作者への賞賛は「神」に例えられた時代。優れた「作品」を創造する人が尊ばれることは当たり前のこと、しかし、中世ヨーロッパ社会には「作品」もなければ、「創作者」も存在しない。
五世紀、西方教会(カトリック)の確立に貢献したアウグスティヌスによれば、無から有を創造するのは神のみぞなせる技、「作品」を創造することが可能であったのは「神」だけであって人間ではなかった。
神のみが唯一の創造者であった中世社会、音のシークエンスとしての音楽はとても総合的、かつ大変複雑なもの。そのようなものはとても人間が創りえるものではなく、神のみが生み出しえること。
神の創作物が啓示を受けた人間に与えられ、与えられた人間がただひたすら演奏した結果が音楽。つまり音楽は、人間の「作品」というより、神が創造した自然物の一つと考えられていた。
ドイツの図書館に残された十二世紀の写本の口絵の一枚。精霊の象徴である鳩が聖グレゴリウスの肩の上に止まり、聖歌を啓示している場面が音楽を意味している。中世音楽の世界では音楽を奏でる職人のような演奏者がいても、創作者としての音楽家は存在しなかった。
この考え方は、建築もまた同じ。神が支配する中世社会、そこで大事であったことは、誰が作るどんな「作品」にあるかではなく、社会あるいは集団の為の、ひたすらの演奏あるいは建設にあった。
(fig10)
聖歌は典礼に参加する人々の祈りの声、教会堂建築はそのための舞台。そして、その各々に関わる人々はともに神に仕える聖職者たち。彼らにとって、音楽そして建築は「作品」ではなく、集団としての神への祈り、神への捧げものに他ならない。
(音楽から始まったキリスト教建築)
偶像が拒否されていた初期キリスト教時代、礼拝に参加することが許されたのは、建築や絵画・彫刻ではなく音楽だ。当初の教会は雨風をしのぐ粗末な小屋や、ありきたりの民家さえあれば充分だった。
そこで求められたもの、あるいは許されたもの、それは美しく祭壇を飾る美術品ではなく音楽。ミサ典礼という音楽による行事のみがキリスト教が示す神の国を現出していた。やがて典礼は初期中世の人々の日常生活にしっかりと組み込まれて行く。そして、人々はミサのための恒久施設を必要とするようになり、教会堂建設が始まった。
堅固で永遠の神の国を建築によって視覚化しようとするならば、木造より耐火性、耐久性にすぐれた石で作るのが当然と思う。しかし、アルプスの北の人々は自分たちの持っている技術のみで、木造の教会堂を作りつづける。周辺に石が無いというわけではない。ローマ時代が誇った石の建築は敬虔なキリスト教徒にとっては異教の建築、真似してはならない存在だったからだ。
そんな彼らもやがて、ローマ時代の神殿にあるような重い石のトンネルヴォールト(アーチ型に構築したトンネル状の天井)や交叉ヴォールト(直交する同一形状のトンネルヴォールトの交叉)の教会堂に変えていく。堅固の教会堂でありさえすれば良いのなら壁はともかく、天井は作りやすい木材でも良かっただろうと思うが、彼らは苦労してローマ風に天井を石で覆っていく。
アルプスの北の人々は何故、石にこだわったのか。彼らの石へのこだわりは堅牢・そして耐火ということにあったわけではない。教会の内部空間に響き渡る音の効果にあったのだ。
(fig11)
ヴォールトはその形状から神が住まう天空を象徴してはいるが、教会堂の天井が石であることから生れる反響と残響こそが彼らキリスト教徒にとって最も必要とされたものと想像できる。
内部に生まれ出る豊かな音の響きによって、単旋律の歌声は悪戯に情感を高めることがなく、厳粛な静けさと繊細な均衡を持った気高い旋律に変わっていく。人々は持続的な音に満たされた神の国を求めていた。
カロリング期に入り、様々な地域は見よう見まねで、石造の教会堂をつくり、建築史の中でも多様な様式を持つロマネスク時代を迎える。ロマネスクとはローマ風、アルプスの北の人々は石造建築をロマネスクと呼んでいる。
音楽からはじまったキリスト教的芸術感はやがて建築にも反映された。異教ローマの建築をそのまま引き継ぐのではなく、グレゴリアンチャントの視覚化が教会堂の使命となる。
身廊のアーケード(アーチの連続)がゆったりとしたリズムを刻む。その上のトリフォリウム(アーチ状の窓)はアーケードの倍音を構成しているかのようだ。
トリフォリウムのアーチから静かに差し込まれた光は身廊の床に反響し柱の旋律に絡まる。重力と空間全体を支える質量を持った石の厚み、その厚みが織り成す柱のリズム、それらはすべて聞く人の内面に響くグレゴリアンチャントの体験とまったく同質のものなのだ。
音楽と建築とのあまりにもぴったりとした照応、この時代はモノフォニーからポリフォニーへの展開の時期でもあったが、その音楽の展開に誘導されるようにロマネスクの空間もまた多種多様な展開を遂げていく。
ロマネスクは建築と音楽の融合の時代。原田玲子さんはグレゴリアンチャントをつぎのように説明している。「グレゴリアンチャントは和声も楽器の伴奏もない単声音楽として生まれたものである。したがって豊かな旋律の構成と表現のためには、リズムがどうしても集中的な要件となってくる。そして、世俗的なものへの志向をできるだけひきとめる厳粛な静けさ、ただ官能的にのみ走る美しさを抑制しようとする繊細な均衡のある調和、いたずらに情感を沸き立たせることのない気高い旋律、これらの特性は、たしかにロマネスクの建築とも見合っているであろう。」( ヨーロッパ芸術文化と音楽:音楽之友社 )
(アルプスの北と南、音との関わりの違い)
アルプスの南、イタリア半島の教会堂は視覚の空間と言える。イタリアの人々は音の反響より、祭壇に向かって集中する視線のパースペクティブこそ教会堂にはもっとも重要なこと考えていた。従って、屋根・天井は石にこだわるわけでなく、木造であることで全く問題はない。
北の人々が好んだ音の反響は後世で言えば和声のことを意味する。 単声歌あるいはユニゾンを音楽とするイタリアの人々と北の人々は和声あるいは音の協和等、音との関わり方が大きく異なっていたのかもしれない。
古代ギリシャの人々にとっての音の調和は継起的なもの、複数の音が同時に鳴る和声とは全く異なるもの。 つまり古代ギリシャの音はイタリア的。何人かの演奏者が同時的に奏でる形態は北の人々が好む石のロマネスク的発想と言って良い。
中世以降、多声音楽を一般化したフランドルのポリフォニーに対し、イタリアでは多声ではあるがポリフォニーよりホモフォニーにこだわり、そのことがオペラの基となるモノディー(単旋律の歌唱声部を低声部と和音の伴奏で支える独唱歌曲)を生み出すきっかけとなる。ロマネスク期のイタリア半島とアルプスの北の人々の音に対する感覚的な隔たりはオペラの誕生とその後の展開にも色濃く反映されている。
(ザンクト・ガレンの理想平面)
七世紀はじめ、一人の修道士は人里離れた谷あい、春になれば豊かに花が咲きそろう地、スイスのシュタイナハ渓谷に住みつくことになった。それはザンクト・ガレン修道院の始まり、やがて、この渓谷と修道院は中世文化の集積地となる。この渓谷が風に乗る様々な種子を集め、花を咲かせつづけたのと同じ様に、ザンクト・ガレン修道院は中世文化の花畑となっていく。
修道院の役割は日常世界から聖なる世界を分離したことにある。人々は聖なるをものを求める道を修道院にまかせることで、俗人は俗人としての生きる道を発見した。ローマ滅亡後の荒廃の中にあって、人々が現実的世界と真正面から対峙出来るようになったのは修道院が存在したからに他ならない。真摯な精神世界を修道院に預けることで初めて、俗人は安心して俗世に目を背けることなく、過酷な農作業や手工業に励むことができたのだ。
しかし、聖なる世界とは言え、修道院は全く俗世と無縁であったわけではない。ザンクト・ガレンのような大きな力と尊敬を得ることができた聖職者たちの集まりは、やがて土地所有者となり、農民を抱え、国王とも交渉し、政治にも関わるようになった。
さらにそこは精神世界、祈祷の場であるばかりでなく、大学、研究所、病院、農業開発センター、そして裁判所としての役割も果たした。修道院は俗世から分離された聖なる世界ではあるが、俗世を生きるための技術センターでもあり文化センターでもあったのだ。
現在のヨーロッパの図書館の大半は修道院付属図書館がきっかけとなっている。ザンクト・ガレンには特に音楽と建築の貴重な資料が数多く残された。中でも重要な資料の一つ、「カロリング朝時代の修道院平面図」がここザンクト・ガレンの図書館に保存されている。この図面は実際の建築計画を記録した最古の図面と目されている。
(fig12)
ザンクト・ガレンの平面図を眺めると、全体は四つの区域に分離されている。聖堂と回廊周辺のスペースは厳しい戒律に従って聖務日課が実施される区域。修道院全体の物理的中心であるばかりでなく、修道士たちの精神上にも中心となるところだ。
二つ目は世俗に開放され、俗社会との交流の為のスペース。修道院長の居館や訪ねてきた外来者の為の宿泊所が用意され、修道院長とくつろぎながらの食事も可能となる。
三つ目は、厳格な聖務に従ってまでは生活出来ない人々のためのスペース。病いを得た修道士やまだ正式に修道士とは認められない修練士のための生活の場が準備されていた。
そして最後は、修道院生活を手助けする手工業者たちの居住スペース。ここには家畜小屋もあれば穀物倉庫に醸造室、菜園に果樹園、薬草園、そして墓地まで配置されている。
図面はまさに聖と俗がせめぎあう都市のような姿、そこには修道院の理想形が描かれている。神と人間との共生を、より現実的に具体的に果たそうとした人々が書き記した貴重な記録。
分析に因れば、各々の建物やスペースはすべて、聖別の意味に叶った比例数値に従って配置されているとのこと。ザンクト・ガレンの設計図は聖俗のせめぎ合いを的確に処理しつつ、かつ三位一体の持つ宗教的象徴性を備えた図形詩として構成されているのだ。作品がない時代とは言え、ザンクト・ガレンでは単なる実用を超え、修道生活の思想にまで踏み込んだ人間による理想平面が描かれていた。
(ネウマ符)
音として奏でられれば、すぐに消えてしまう音楽だが、音のシークエンスを歴史に残すためには記譜することが必要となる。ヨーロッパ音楽の記譜もまたザンクト・ガレン修道院が始まり。 修道院の理想平面図が作られたと同じ頃、それはちょうどカロリング朝フランク王カール大帝の時代(八世紀)。大帝のヨーロッパ進出に合わせ、グレゴリア聖歌は様々の地域に拡がって行く。そして、その拡がりの為のメディアとして、聖歌の中の歌詞だけを記した沢山の写本が作られた。
やがて十世紀、今度は歌詞だけの写本ではなく、楽譜付きの聖歌集が登場する。それはちょうど、聖歌の多声化(ポリフォニー)への試みが始まるのと同時期のこと。多声化への試みと楽譜付きの聖歌集もまたザンクト・ガレンが始まり。最初の理想的平面図が描かれた修道院は西ヨーロッパ最古の楽譜に関わった場所でもあったのだ。
修道士たちは毎日、夜明けから深夜に至るまで1日に8回の聖務日課(定時化された勤行)とミサ典礼(最後の晩餐を再現した典礼)を行う。その内容は聖書朗読と祈り、そして聖歌の朗唱。歌を伴わない祈りはない。福音書朗読もまた、ある特定の音の高さを持って歌われるのが一般的。従って、教会堂はいつも音楽に満たされ、聖歌集は写本の中に継続的に記録されて行く。
典礼のための福音書や聖歌集は教会では最も重要なものの一つとなるのは当然のこと。それは聖具であり神への捧げものであったからだ。しかし、その大事な聖具である写本の中に、九世紀になると、朗読する為の記号が書きこまれるようになる。ネウマという折れ釘のような記号、これが音符の始まり。ネウマ符の登場は各地でバラバラであった典礼を統一したい、という動きがその根拠となっている。
しかし、もっとも重要なことは符の登場によって、口で伝え、耳のみで受け継がれてきた聖歌の旋律は、楽譜として記載され伝承されることが可能となったことだ。当初は伝承の方法を統一し簡略化することだけが役割であったネウマ符は、やがて音楽そのものを大きく変えていく。
(トロープス)
音符の登場は楽譜の誕生を意味する。それは音楽にとって全く新たな道を開いた。ヨーロッパ音楽の展開に不可決な大きな二つの道、人間による作曲と秩序ある多声音楽の誕生だ。
聖歌集は写本であっても聖具。聖職者といえども勝手に手を入れることは許されない。しかし、ネウマ符が書き込まれた写本には、新たな歌詞や旋律を挿入することが許された。
挿入部分はトロープスと呼ばれる装飾部分。このトロープスが神からの授かりものであった音楽を人間的思考の結果としての音楽に導く、つまり作曲の始まりとなる。
当初トロープスは神の栄光を人為的に隠喩したもの。したがって、それはまだ作曲とは言えず、礼拝における歌唱の道具にすぎない。道具であるが故にトロープスは当初、記譜することや音楽的に意味があることではなく、ネウマ符により美しく飾られた図版、神への捧げ物の一つとみなされていた。
捧げ物、美術品であったとしても、ザンクト・ガレンの写本の中のトロープスは確実に音楽を変えて行く。ネウマ符で旋律が記号化され、装飾部分が加味されたことにより、単旋律の音の流れは幾条もの重なりをもった複雑な音楽に変わって行った。トロープスは神の啓示であった音楽を、人間が創作可能な音楽への道、作曲の道を確実に示していた。
(作曲という思考の空間)
鳴り響いた音が次々に消えていく音楽の世界では、建築とは異なり、全体を一瞬に見渡すことはできない。常に演奏している一部分だけが存在し、音楽の全体は終わった後の余音に過ぎないのだから。しかし、楽譜に書き留めることで音楽は始まりから終わりまでという時間の中に、ある区切りを獲得し、全体を見渡すことが可能となった。つまり、楽譜の誕生により音楽は建築と同じように「空間性」を獲得し、「思考の空間」となったのだ。
水のように切れ間なく流れる音楽の世界は、ネウマ符という記号に書き記るされれば、全体は形を持った一個の独立した作品となる。楽譜の誕生は作品の始まり。作品の始まりは生み出す作家の誕生をも意味する。ここに来て初めて音楽は、神の創造から人間による創作物として道を歩むことになる。
音を記録するだけの方法なら、世界中どこにも存在する、しかし、ネウマが開いたもう一つの大きな道はポリフォニックな音の広がりを生み出し、音楽の形そのものを変えたことにある。
ポリフォニックな音の広がりを生み出す多声への道は体験や偶然から生まれたものではなく、楽譜の上の思考の結果と言える。教会堂での音の重なりや広がりの体験は多声へのきっかけではあるが、単旋律歌声であった音楽がネウマ符によって記録され初めて多声への道が開かれたのだ。
多声もまた経験ではなく、思考空間での創作にほかならない。そこから生まれ出た音の広がりは、現在に至るヨーロッパ独自のオーケストラ音楽の原点。ネウマによる記譜から始まる楽譜の誕生はヨーロッパ音楽を思考の空間へと導き、多声への道、そして作曲の道を開いた。
楽譜の成立は、聖なるものを讃えるための音楽が、聖なるものを表現し、聖なる力を広める役割へと転化した。ザンクト・ガレン修道院はこの転化を促す最初の場所であり、人間による作品の誕生の地と位置づけて良い。
(典礼と聖歌の統一)
聖グレゴリウスが受けた啓示はグレゴリウス聖歌としてまとめられた。しかし、これは一つの説にすぎない。聖グレゴリウスが即位した六世紀のローマは都市としてはまだ貧弱。疫病、飢饉、テヴェレ川の洪水にさらされていた。グレゴリウス一世は少しでもこの混乱に秩序をもたらすべく、教会と典礼の整備を積極的に行った。しかし、実際に聖歌がまとまりつつあったのは八世紀になってからのこと。それも地域ごとに異なった別々の典礼の中での出来事に過ぎない。
現在の統一されたグレゴリウス聖歌の誕生はさらに五百年もあと。各地の修道院に散在していた何百という聖歌の写本は、グレゴリウスが定めた典礼との関わりから一つ聖歌としてのまとまりを示していく。
(ル・トロネ修道院)
グレゴリウス聖歌を早くから典礼に用いその統一に貢献した重要な修道院がプロヴァンスにある。西ローマ帝国崩壊後の八世紀から十二世紀。この時代はヨーロッパ社会が安定に向かいつつあり、典礼の統一の時代は沢山の修道院や巡礼者教会堂の建設の時期でもあった。
その教会堂の設計と建設に関わる人は教会堂の重い石のドームを支える力の流れを読み取る人。その人はまた神の国の顕現に関わる音の流れを読み取る人でもあった。つまり、教会堂の建設者は堂内に響く音楽に携わる人、ともに聖職者であり修道士、全く同じ人であったかもしれない。
極めて厳格な戒律を持っていることで知られるシトー修道会。この修道会は南フランスのプロバンスに十二世紀の始め小さな僧院、ル・トロネ修道院を建設した。
(fig13)
人里離れた谷間に建つこの僧院は、現在は使われなくなって久しいが、国有化による修復と保存の効により八百年前の姿を現在に残している。ゆるぎない石組と単純な形態の組み合わせは多くの人々を魅了し、シトー派三姉妹のひとつと唱われている建築。
緑に埋もれるル・トロネは、青空を突き刺すような鋭角的な塔が極めて印象的。近代の美術史家、建築家に人気があるのは当然のこと、その全体は驚くほど簡素、平滑。しかし、厚みのある壁面による造形の組み合わせ、光と影が折りなす清楚な空間は建築のみが可能な静かな対位法を今に奏でている。
この僧院の建設状況はフェルナン・プイヨンの小説「粗い石」の中に克明に描かれた。工事監督であった修道士ギョームの日記という形をとった、機械力を持たない建設者たちの困難につぐ困難の記録。典礼の統一と教会堂の建設の記録。しかし、描かれるものは決して中世という時代のみに帰結するものではない。秩序を求めて止まない人たちであるが故に生まれてくる彼らの葛藤、あるいは自然的秩序との関連から派生する美への洞察となっている。
「粗い石」は建築の物語というよりは人間の物語。秩序と信仰に関わる人々の熱い言葉だ。「鋳型が石であり、うち出されるものが空気と光である。双方は互いに相手なしではすまされず、私たちはそれをいっしょに想像してみなくてはいけない。庭を散策する途中で、私たちはこの雰囲気が液体の水晶のように流れるのを見るだろう。それが歩廊を浸し満たして、穹りゅう(ヴォールト)の頂にまで至り、屋根組みの棟に達するまでのあらゆる形と同化しながら、ついに空に向かって消えていくのを見るだろう。」(粗い石:文和書房)
今や人が消え、取り残された僧院だが、ここではかって、聖歌の旋律が堂内に響き、音楽と建築はいつも一体化していたのだ。何故なら、怪奇幻想ユーモアと様々な表象を持つロマネスク彫刻によって彩られるのが流行であったこの僧院の建設期にあって、ここでは視覚による一切の象徴表現を退け、空気と光のみによる神域表現に終始した。
プイヨンが書く「水晶のような流れ」、それはグレゴリオ聖歌の持つ正確なリズム、繊細な均衡、気高い旋律と全く呼応している。建設に関わる修道士の省察はそのまま聖歌に満たされた神の国の現出となっている。
(クリュニー修道院の柱頭の楽音)
キリスト教絶対の中世ヨーロッパ社会を精神的にも物質的にもリードしたのは教皇を擁したローマと思われるが、むしろその役割は担ったのはヨーロッパ各地にある修道会だった。ル・トロネのシトー会と並んで同時代、もっとも権勢を誇った修道会はクリュニー。
四代の大修道院長の力により隆盛したこの修道会はブルゴーニュを拠点とし、ローマ教皇には直属しつつも、神聖ローマ帝国、フランス王国のどちらにも属さない、修道院国家のような体裁をもって君臨していた。
クリュニー修道院は三回に渡る大工事によって着々と拡大され、ザンクト・ガレンの理想平面を踏襲した建築群は残されていれば、現在に至る建築史を変えたかもしれないと言われている。しかし、修道院は十八世紀末のフランス革命によってことごとく破壊されてしまった。
シトー会とはあらゆる面で対極的にあった修道会だが、クリュニーもまた音楽にとってきわめて重要。ネウマ符による沢山の写譜が行われたこの修道院はザンクト・ガレンに並ぶもう一つの音楽の中心地。聖務日課やミサ典礼の拡大にあわせ、様々な音楽上の工夫がなされ、その後の多声音楽の基礎が作られたのはここクリュニーといわれる。
今日の私たちが耳にする聖歌、それはアルプス以北のクリュニー支配下の地域で歌われていたものが主流となり、今に引き継がれている。グレゴリア聖歌はクリュニーの典礼改革の大きな柱として位置づけられ、この修道会により積極的に多くの地域に伝承され、その結果として楽譜として定着し、今日の私たちが耳にするものとして残されることとなった。
クリュニー修道会の役割はザンクト・ガレンのユートピアとは異なり、心の救済を使命としていた。勤労に奉仕し清貧に生きることが重要だったのではなく、不安な時代、遁世思想に裏付けられ、貧民救済と典礼を重視し、多くの人の心をキリスト教世界に直接結びつけることを役割としていた。ここでは、自給自足の原則を破り、修道士は農耕や肉体労働を避け、専ら祈りを中心とした修道生活を理想としていた。従って、クリュニーでは礼拝が大きな意味を持ち、そのための音楽と建築空間が特に必要とされたのだ。
クリュニー修道院付属教堂を作ったのはグンゾという元々は音楽家として知られた聖職者。元々はというのは変な言い方だが、音楽の研究者が重視した人であって、グンゾがまた建築の設計者でもあったことはあまり知られていない。音楽家が建築家であったことは当時としてはむしろ当然のこと。フランス革命によって壊滅されたが、グンゾは画期的な建築を生み出した。それはル・トロネに続く、もうひとつの音楽と建築の一体化を生み出している。
ギリシャ以来、音楽と建築を支えるもの、それはどちらも「数」が生み出す秩序。聖アウグスティヌスは、ピタゴラス音階が示す比例原理は建築を含め視覚芸術すべてに当てはまるものであり、この音楽から導かれた数が宇宙の秩序、そしてすべての安定の根源であるとみなしている。
ザンクト・ガレンの理想平面が一つの図形詩を描いていたように、グンゾの建築もまた聖アウグスティヌスの言う比例原理に従っていたことを明らかにしたのは現代のアメリカの建築研究者、ケニス・コナント。彼はグンゾの建築を忠実な復元図として作成し、建築のみならず、彫刻さえも、その構造と構成において音楽に導かれた幾何学によって作くられていたことを証明している。
クリュニーの修道士たちがいかに楽音に関心を寄せていたか、その証拠が今に残されている。彼らは旧修道院の内陣の柱頭彫刻にグレゴリアン聖歌の八つの楽音を用いる、という大変興味深い試みを行った。それもアーモンド型のメダイヨンの中という、ロマネスク彫刻のセオリーから外れた特殊な空間の中において。ここで言うセオリーから外れたということは、柱と一体となった彫刻ではなく、メダイヨンによって縁取られ、分離された空間の中の彫刻だから。
リュートを弾き、シンバルや鈴を鳴らす人々とともにあるこの内陣は、中世の人々にとっては天国そのものに置き換えられていた。八つの楽音を象徴する彫刻は、訪れる人に対しいつでも、耳には聞こえないが、聖歌の響きを奏でていたのだ。
その柱頭彫刻の幾つかは現在、オシエ美術館に残されている。キリスト教にとって最も重要な第三音、「プサルテリウムを弾く男」は何処にも傷を受けることなく健在。第三音はキリストを受難へと押しやり、復活をなすことの象徴と言われる。数にこだわった音楽と建築、フランス革命により壊滅させられたとは言え、その最も重要な第三音の彫刻のみが残されていたことは何を意味するのか。どこか謎めいたメッセージと思えてならない。
(fig14)
( パリ・ノートルダム大聖堂)
パリ・ノートルダム大聖堂は司教のモーリス・ド・シェリーが1163年に旧来の諸堂を廃し着工、二十年後に内陣が完成、やがて次の司教ユード・ド・シェリーに引継がれる。十三世紀に入りようやっと西正面、そして薔薇窓が徐々に完成して行くという長期の建設。 この大聖堂は人々にどのような意味やメッセージを発信し続けていたのか。それは人生における誕生から臨終まで、この建築は「人はいかに生きるか、いかに神とともにあるか」を伝えるもの。
建築に施されたメッセージはアレゴリー(寓意)化されている。具体的な言葉でなくシンボル(象徴)となる装飾を読みとり、解釈する事によって、人々は集団として生きる現実世界と個々人の持つ内面的・想像世界とを行ったり来たりして読み取る。
現実と観念という二つの世界にある絵画や彫像そして建築、この大聖堂の持つ壮大な視覚的デザインはゴシックと呼ばれる。語源はイタリア語のゴティコ、古典古代とは異なる野蛮な様式という意味を含めイタリアの知識人が呼んだことに始まる十二世紀フランスの宗教デザインの様式だ。アルプスの北、同時代の精神世界のすべてを表現している様式だ。
音楽と建築はメディア、しかし、大聖堂の個々の装飾的象徴が描くメッセージの解釈は他書に譲り、(十九世紀末ユイスマンスは「大伽藍」を著し、シャルトル大聖堂のメッセージを小説化している)ここでは大聖堂の建設の時代の「音楽と建築」の意味に触れてみたい。
(都市の時代に対応した神の姿)
天にも届くゴシック建築と華やかな綾織りのような音楽を生み出す世界。光に満たされた大聖堂とその誕生に呼応し立ち上げって来る複雑な音の絡まり、多声音楽の世界は何を意味していたか。外から差し込むステンドグラスの光によって華麗に装われた建築は、その空間に見合う多彩な音楽空間を必要とした。あるいは複雑華麗な音楽は多彩な色光が輝く巨大な建築空間を必要とした。次第に雄大な姿を現してくる大聖堂の工事と並行するように、様々なロマネスクの修道院の中で展開されてきたオルガヌムは、二声楽曲から三声、四声楽曲へと広がってゆき、 やがて壮大な多声音楽となり、この新しい大空間いっぱいに鳴り響いていく。
新しい世界の始まりはまずは建築だった。それはパリの大聖堂の建設とノートルダム楽派の多声音楽が始まる二十六年前のサン・ドニ大聖堂の建設にある。十二世紀初頭、二人の聖職者の論争がこの時代の音楽と建築に託された意味に触れている。
パリ近郊サン・ドニの修道院長シェジェールは荒れ放題の修道院の再建に当たって「より高価な、最も高価なものは皆、まず第一にミサ正餐に用いられなければならない」と語っている。ここでいう最も高価なもの、それはガラスのこと、彼は高価なステンドグラスを多用することで、光に満ちた聖堂を作ろうとした。その為には出来るだけ壁体を取り除き、透き通った建築物にすることによって神の国という観念の世界を地上に実在化しようと計ったのだ。
サン・ドニの再建の中世、西ヨーロッパは農業技術の革新による人口増加、その結果としての都市の成立を迎えている。人間と人間、人間と自然、人間と世界の関係は大きく揺れ動いていた。
働く人、戦う人、祈る人と身分(農民・貴族・僧侶)も住処も明解に分離していた社会は変わる。人々は集中して住まい、モノや人が集まる都市が作られ、商人や手工業者という新しい身分をも生み出た。水陸の区別を問わない交通網の整備、貨幣整備によるモノの流通の活発化は人々のライフスタイルを全く新しい世界に誘導しつつあったのだ。 そのような時代にもっとも必要とされたもの、それは個々人の富ということより、集団による華やかな正餐、その正餐を讃える豊かな音と光だ。
(fig15)
ステンドグラスも新時代の技術と嗜好の産物だが、この変化の時代、シュジェールを含め聖職者たちはより直接的、危急なテーマを抱えていた。それは都市の時代に対応した神の姿、新時代のライフスタイルの精神的基盤となる天上界のイメージをこの地上にどのように実在化させるかにあった。
(ベルナールとシェジュール)
新しい時代における建築への論争はへまずシトー修道会から始まった。 それはクリュニー修道院に対する痛烈な告発。修道院制度の改革を推進していたシトー会のベルナールは壮大華美に転じたクリュニー修道院総本山を「途方もない高さ、節度を知らない長大さ、あり余る横幅、贅沢な装飾、そして奇妙な彫像、そういったものは、礼拝者の視線を釘付けにし、かつ、かれらの信仰を阻害する・・・」。 ベルナールは時代とともに歩み寄ってきた修道院の世俗化に対し、清貧の理想、初源的で純粋な倫理の追求を広言する。
これに反論するのが前述のシェジュールの言葉。彼は次のようにつづける、これからのサン・ドニを再建するにあたっての新たな建築の正当化言説と言えるものだ。
「誹謗者たちは、聖徒のような精神、汚れのない心、信仰深い意志があれば、ミサ正餐には十分であるはずであると反駁する。わたし自身もそういったものが最も重要であるとはっきり確信できる。しかし私たちは、それらに加えて、外面の装飾を通しても、また言いかえれば、あらゆる内面の清浄さと同時に、あらゆる外面の壮麗さをもって、神に敬意を払わなければならない」。
(ゴシック建築のメッセージ)
質素と豪奢、ベルナールとシュジェールの主張は相反してはいるようだ。しかし、よく考えれば二人はともに新しい時代への共通のメッセージを主張している。「 教会は超世俗的な空間でなければならない」。
超世俗的であることの実現は個々人の持つ豪華絢爛を遙かに越え、集団としての人間が神の国の実在に立ち会うことだ。ゴシックの世界はその後の歴史には二度と現れることのない集団による「超越的世界」を希求していた。
十ニ世紀初頭は西ヨーロッパの都市の時代の幕開け。古くから都市国家であったイタリア半島とは異なり、アルプスの北は初めて「都市」を実現する。多くのモノと情報に囲まれ、世俗的富を謳歌することがはじめて可能となった時代。そんな時代の到来であったからこそ、神はより高く、より超越的であることが求められた。さらに神は絶対者としての峻厳であることより、愛に満ちた<美しき神>であること。絶対者キリストから聖母マリア(ノートルダム)への信仰へと向かっていたのだ。
(fig16)
世俗を超越する、より高き天上界のイメージ、峻厳厳格なキリストから慈愛に満ちた聖母マリアへの信仰。 このことが新しい時代を迎えたシェルジュールたち聖職者たちが実在化しようとしたメッセージ。 その為に重い壁体をリブヴォールトやフライングバットレスという透明感のある構造体に変え、ステンドグラスから差し込む光りにより、新しい神の国の創出をめざしたのだ。
(時間を記述すること、計量的時間)
西ヨーロッパの主流となる科学的思考の始まりは中世になりギリシャの哲学や科学を知るようになってからのこと。ギリシャの思考が広まったのは西暦八百年から千二百頃に栄えたイスラム文明によるところが大きいと言われている。アラブ人やペルシャ人がギリシャ人の哲学、数学、科学を見いだし、その価値を認め、写本を保存し、翻訳し、注釈を加え、さらに自分たちの重要な発見を加えていった。
アリストテレスやユークリッドやアルキメデスを知ったのはザンクト・ガレンにおけるイスラム文明の接触を通じてのこと。十二世紀、ザンクト・ガレンに始まった研究活動は三・四世紀後にはギリシャの学問を完全消化吸収し、新たな科学的合理思考を形成する。その典型がコペルニクスやケプラーの開いた世界。しかし、彼らの考え方とてギリシャ流の思考の枠内、つまり依然として、静止した絵のような空間にかかわる概念に支配されていて、時間的変化、空間上の位置変化、天体の運動に関する記述という問題には全く踏み込んではいない。
運動を数学的に記述する方法をつかんだのはガリレオ・ガリレイ。彼は時間を記述し計量化することで物体の自由落下の法則を発見した。
運動を記述するには移動距離、速度、速度の変化が必要だが、彼は速度や速度の変化は経過した時間との関係で表されるということに気がついた。さらに時間の経過は環境にあるナニモノにも左右されない独立したもの(計量的時間)と考えた。時間は運動によって記述されるのではなく、その流れを一様とし、数学的に独立した変数としたことで計量化が出来、運動を記述することが可能となったのだ。
(多声音楽と計量的時間)
自分自身の主観的時間「経験」「自分が感じる時間」は計量的時間とは食い違うが、この「計量的時間」という抽象的な構造物は、実は十三世紀の初め パリ・のノートル・ダム大聖堂の多声音楽と記譜法の理論において最初に現れている。
多声という楽曲は二つ以上の旋律を持っている。音の高低が異なる男女が一オクターブあるいは五度ずれて歌うのは良くあることだ。しかし異なる旋律を意識的に構造化し同時に歌ったり演奏したりという音楽を作ったのはヨーロッパの十一世紀以降が初めてだ。多声の変遷は平行多声、自由多声という展開にはじまる。十二世紀リモージュにある修道院サン・マルシアルでは旋律が全く別であっても、同時に発声される音の長さは両方の声部とも同じという規則がなくなって行く。
このことから定旋律に対して付け加えられる第二の旋律はより自由に歌うことが可能となった。そのかわり、定旋律を歌う人は第二旋律を歌う人が独立したパートを歌い終わるまで自分の音を引き伸ばし、待たなければならないのだが。
パリのノートル・ダム大聖堂では、それはちょうどこの大聖堂が建築中でもあったのだが、同時に進行する三つから四つの声部を持つ多声曲が作曲された。
何故、そんな複雑な時間の構造体の記譜が可能となったのか。それは各旋律の時間的あり方が同じ時間の単位で調整されていたからだ。ガリレイの言う「計量的時間」についての概念なくしても、各声部は声部ごとのまとまりが与えられ、全体としては一つの記号体系を創りだすことが可能となった。
このノートル・ダムの体系をリズミック・モードという。時間の持続の標準を短い音に決め、その二倍長い音、三倍長い音を表す型をあらかじめ決めておき、その型をギリシャの韻にちなみ、「長短格」「長短短格」というようにモード設定し、その繰り返しを表記、調整し作曲していった。
この時間の構造体は科学でも哲学でもない。当時まだ大聖堂を創る建築家の名前は記録されなかった時代、この表記法を編み出したノートル・ダム大聖堂のレオナンとペロタンは歴史上最初の作曲家として賞賛されている。