2014年1月20日月曜日

劇場都市ローマの広場と建築/©


(パレルモ、都市が劇場)

劇場の中に都市を再現したのはテアトロ・オリンピコ、それに対しパレルモでは1623年、都市がその内部に劇場を再現した。

建築家ジュリオ・ラッソによって作られたクアットロ・カンティ。ここでは都市なかの十字路に建つ四つの建築の全てが45度に隅切りされ、道路と建物で八角形の広場が生み出される。テアトロ・デル・ソーレ(太陽の広場)と言われるこの広場、パレルモ市民に愛されるばかりか、今や世界中の観光客が訪れている。


 (fig86)

面白いことに、広場の中央に立ち止まりどの建物を見ても、その両側はあたかも舞台の奥へと向かう通路として構成されているのだ。それはテアトロ・オリンピコの舞台を眺める印象とそっくり。テアトロ・オリンピコでは正面に大きな道路、左右の建物の両脇にも各々通路が走り、舞台は三本の道路で構成される広場となっている。しかし、この広場での背後は客席、それも舞台とは切り離された客席。広場を囲む建物の上階の窓窓窓がその桟敷席。

テアトロ・デル・ソーレでは背後も舞台なのだ。四面どこも舞台となる広場、つまり、観客のつもりで広場に入ると、人々はすでに舞台に参加させられている演技者となる。テアトロ・デル・ソーレは都市を再現した劇場ではなく、都市そのものが劇場となっている。

シチリアの首都パレルモはイタリアでは早くからスペインの支配下にあったところ、十六世紀の反宗教改革の渦中、スペインの教会の力が圧倒的に強く、都市全体はローマ以上にバロック的雰囲気に満ちみちていた。従ってここでは、祝祭の為の装置が都市を飾るのではなく、都市そのものが始めから祝祭の舞台となるよう必要があった。

美術史におけるバロックという観点からみると、その様式を生み出す主導的要因は、宗教的危機に直面したカトリックということになる。それはプロテスタントに対抗し、民衆にとって判りやすい宗教体験を生み出すための様式ということ。

知的観照ではなく、理屈ぬきの全身感覚によって信仰を体現させるための様式がバロックの本来的な意味。そして、民衆の感情を高揚させ、その熱情を共通の信仰へと収斂させる最も有効な場は祝祭だった。

バロックの祝祭は、中世のアプリオリの宗教体験とは異なり、主催者である教会あるいは君主は民衆の参加を強く必要としていた。パレルモのクアットロ・カンティはそのような祝祭ための、宗教的プロセッション(行列)そして各種パレードにとって有効な全員参加の野外劇場と言える。

さらにまた、広場を構成する十字路は十字架として意味づけられている。十字路を持った都市広場はそのまま反宗教改革のイメージを象徴的に顕現したカトリック世界のための大劇場としてデザインされた。

サンタ・ロザーリはパレルモ市の守護聖女。毎年七月の半ばに祭礼が行われるが、1686年の大祭の記録では巨大な機械仕掛けのトロイの馬が進むと、その後は長い騎馬の行列、さらに四頭の熊と四頭のライオン、四頭の象が引く凱旋の山車が続いたと記録されている。

山車の上の台は大きな黄金の貝殻の形、その上には黄金の鷲が羽を広げ、さらに高いところには聖女ロザーリが勝利の旗を手にしている。貝殻の上や鷲の背にも聖歌隊や演奏者が乗り、彼らは上からヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカというネームプレートを、さらに下にはヨーロッパとイタリアの主要都市名を記したプレートを持つ。

つまり、パレルモのこの祝祭には世界全体をコード化しようとするカトリックの主催者の意図が明確に表現されるているのです。

祭りのメイン・イヴェントは仕掛け花火。市の中心の広場には堡塁も壁も橋も鉄の門を持った複雑な精緻なトロイの町の模型が作られている。その町の内部には劇場、王宮、回廊、さらにドーム屋根の神殿が建てられ、ドームの頂にはトロイの町の紋章の鷲が据え付けられている。

この模型のトロイの町は民衆の期待通り、一瞬に火を吹き、最後は、全体が大掛かりな花火に包まれる。夜が深け暗くなると、トロイの馬から武装した兵士たちが松明を掲げて現れ、宮殿と神殿を囲む城壁に火をかける。ここが焼け落ちるとやがて火は宮殿にそして神殿、ドームを駆け登り、上の鷲へと燃え移っていく。

最後は大きな火薬がはねる音と共にトロイ陥落の仕掛け花火。全てが終わり、町は灰燼に帰し、残骸と化した建物だけが煙を残すこととなる。


( クアットロ・カンティのデザイン )

クアットロ・カンティの広場を構成する四つの建物の偶部はわずかな凹面状のカーブで作られている。その各々の足下には噴水が設けられていて、四つはそれぞれに春夏秋冬を表現している。

三層に構成される建物の上層二層はすべてニッチ(壁龕)が穿かれていて、そのニッチから四人のスペイン人と四人の守護聖人たちが広場を見つめる。広場は明らかに都市に不随する機能的な場というより、明確なコスモロジーに縁取られた物語の世界。

この広場に隣接したもう一つの広場、パラッツォ・プレトーリア、ここには大きな円形の噴水が作られている。噴水は元々、イスラム建築の中庭部分に設けられ楽園を作る装置。都市なかに設けられるのは十七世紀になってからのこと。パラッツォ・プレトーリアの噴水は十六世紀半ば、フィレンツェのヴィッラから持ち込まれたいわれている。

中庭やヴィラという個人的世界を構成していた噴水が、集団的な場である町の中にまで持ち込まれたのは多分パレルモが最初だろう。長らくアラブ世界からの支配も受けたこの都市のこと、町中にはイスラム的迷路もそこここ見られる。パレルモは劇場都市である以前にすでに楽園としてイメージされていた都市だったのだ。


(劇場都市ローマ)

アルベルティとニコラウス五世がイメージした神聖都市ローマ。そのシンボルであったサン・ピエトロ大聖堂のクーポラが燦然と輝き、さらに後述するシクストゥス五世の都市改造による新街路に荘麗な宮殿が建られ馬車や人が行きかうようになると、ローマは今までの人々が全く経験したことのない、新たな都市イメージを発揮し始める。

そこは文字通りカソリック世界の中心。さらにまた、大航海による地理上の発見や科学的天文学による新たな宇宙像を含み、ローマは拡大されつつある世界の中心と位置づけられた。その姿は古代世界におけるカプート・ムンディ(ラテン語で世界の首都の意)を思い起こさせるもの。バロック都市ローマは世界の首府であることを誰の目にも見える形で実現したのだ。

バロック都市ローマを特徴づけるもの、それはすでにパレルモで実現されたことだが、都市を劇場として再構成したことにある。現在ある主要なローマの広場や聖堂や宮殿、都市を構成する全ての要素は劇場空間を生み出す装置としてデザインされた。

ルネサンス・イタリアが神の世界と調和した新しい人間世界をイメージし続けたとするならば、バロック・イタリアはそれを目に見える形で具体的に実現した。それも単に理想像としての世界ではなく、より現実的、具体的、感情的に、祝祭感覚に溢れ、透視画法化された視覚的世界、舞台背景として作られた。

バロック時代は都市を劇場としてデザインする。都市は世界における人間的状況が視覚的に展開される場、ローマはまさに舞台上に展開されるオペラのような世界として捉えられた。

ここに示される最も重要なことは、生きて行く上での世界の楽しさ。それを支えるものは中世のようなあるはずの「神の世界」ではなく、全てを人間が構想し組み立てた構築的世界であったこと。

祝祭的演劇性に満たされる劇場都市、そこはバロックのあらゆる生活様式を育む場ではあるが、そんな都市を生み出すものは教皇庁のメセージそしてプロパガンダであったこともまた事実。劇場都市ローマはカトリック・ローマの要請により建築家たちが生み出すドラマだったのだ。


(二人のシクストゥス教皇)

十五世紀のはじめ衰退しつつあったカトリック・ローマの再生に力を注いだ教皇シクストゥス四世はシスティーナ礼拝堂の造営者として名を残している。旧約聖書に記されたソロモン寺院と同規模・同型のこの礼拝堂はミケランジェロの壁画・天井画で有名であり、現在のコンクラーベの会場でもある。

さらに、この教皇はバチカン図書館を一般の学者に解放するばかりかルネサンス音楽の中心的役割を果たすカッペラ・システィーナ(システィーナ礼拝堂聖歌隊)の創設者としても知られている。彼はまさに現在に至るローマ教皇庁(バチカン)の基礎を作った人、そんな彼と同じ名を持つ教皇が百年余り後に再び登場する。

反宗教改革の機運も定着し、カトリック・ローマの信仰への信頼が民衆のものとなりつつあった十六世紀半、ミラノ大司教、カルロ・ボッロメーロ枢機教改めシクストゥス五世。彼はまず先代に引きつぎ音楽に力を注ぎ、ローマの世俗の音楽家集団にも永続的な地位を与え、教会の聖歌隊とは異なるヴェルトォーザ・コンパーニャを創立する。

聖俗どちらに属す音楽家であったとしても、彼らはもはや人に使われるだけの使用人ではなく、音楽そのもの仕える人としての道を開いたのだ。さらに、教皇の座にあったのは僅かに五年だが、この教皇の業績は音楽だけではなく現代都市ローマにとってはすこぶる多大なものを残していった。


(巡礼の都市ローマ)

教皇シクストォウス五世は就任と同時にかねてより準備していたローマの都市改造を実施している。聖地ローマはたくさんの巡礼者のための都市。キリストの為のサン・ジョヴァンンニ・イン・ラテラノ教会、聖母マリアの為のサンタ・マリア・マジョーレ教会、そして聖ペトロの殉教の地に立つカトリックの大本山、サン・ピエトロ大聖堂。中世に持っていた力を失ったとはいえローマはキリスト教の一大聖地であることにはかわりはない、ここには古代ローマの遺跡を凌駕する大小様々、重要な寺院が立ち並んでいるのだ。

1527年のサッコ・デ・ローマで壊滅したこの都市の再生の糸口を、この教皇は幾多の寺院の修復と寺院と寺院を連結する見通しの良い広い道路網の建設に賭ける。彼の都市デザインは一大巡礼地としてのローマの再生、ヨーロッパ中の人々が安心して聖地ローマを訪ねることが出来る神聖都市の建設を目指した。

その改造プランとは古代ローマ以来の水道の整備とテレベ川に幾つかの橋を新設し、ローマ中の寺院を連結する新しい道路を建設しようとするもの。1585年、教皇シクストゥス五世は建築家ドメニコ・フオンターナに建設を託す。

任されたフオンターナは次のように書いている。「わが聖なる父は、この都市のひとつのはずれから他のはずれへと、こうした道路を敷設した。そして必然的に交わることになる丘や谷に留意することなく、こちらでは削平し、あちらでは埋め立てて、教皇は丘や谷をなだらかな平原にし、もっとも美しい土地にしたのであった。この都市の最も低いところの光景が、様々な眺望で展開するのである。かくして、宗教的な目的を越えて、こうした美しさは肉体的な感覚の牧場となっている。」(建築全史:アムリタ書房)

フォンターナが書くこの一筋の街路は実現されている。ローマの北、その玄関口となるポポロ広場からトリニタ・ディ・モンティ教会を通りピンチョやクィリナリスの丘を削りサンタ・マリア・マジョーレ教会からローマの南東の隅、サンタ・クローチェ聖堂に至るかってフェリーチェ街道と言われた道路のこと。

現在は自動車交通の基幹道路、深夜まで止むことのないエンジン音とヘッドライトの交錯に明け暮れている。しかし、かっては緑なす田園の散策路、見渡せば遠く市壁を越え遥か彼方まで、街路は地平線を越えるかのように続いていたのだ。


(フィレンツェは一つの焦点、ローマは多焦点)

フィレンツェにおける透視画法の発見と大クーポラの完成。ブルネレスキのルネサンス都市フィレンツェにおける偉大なる貢献は、大クーポラの完成により透視画法上の唯一の焦点の存在をトスカーナ全域に示した。都市外の城壁の彼方から見通すことの出来る大クーポラは市内のみならず、遥かに広がる田園地帯全域を同一の都市秩序のもとに配列し直おすことに成功している。

シクストゥスの貢献はこの唯一の焦点を多焦点に拡張している。ローマに散在する幾つかの有名寺院を焦点とし、その寺院を幅広で見通しのよい直線道路で相互に連結する計画手法。

この手法は遥かに大きいシステムを秘めていた。多焦点を連結し、都市を秩序づけるシステムは都市内では実感を持って具体的に体験できるだけでなく、都市の外にあっては、同じシステムが延長されれば、全世界がすべて同一システムによって秩序付けられることをイメージさせたと言って良い。

シクストゥス五世の都市システムはローマを世界の首都としてイメージさせたのだ。それも観念としてではなく実在の世界都市を。

ルネサンスとバロックを隔てるものは何か。それは唯心、有限的な秩序感を持つ前者に対し、後者は多元的、多焦点を持ち無限をも秩序化するもの。バロックはまさにルネサンスの変奏。ブルネレスキの唯一の焦点の発見であった透視画法はその変奏として多焦点化することでローマは再び世界の中心に位置づけられた。そして、バロック都市ローマが造られて行く。


(多焦点に建つオベリスク)

多焦点とその連結というバロックの都市システムを生み出したシクストゥス五世、彼にとって重要なことはローマをイメージとしてではなく、実際に訪れ体験した時、そのローマがまさに実感としてのカープト・ムンディ(世界の首府・頂点)であること。

ローマを観念ではなく現実として全く新しい都市とするもの、それは主要な教会堂を結ぶ幅広の直線道路の建設だけではない。結節点となる広場に物語を与え、その場所に特別のイメージを持たせる。その為にはオベリスクの建設が必要不可決だった。

 (fig87)

直線道路だけの体験では場所の持つイメージは喚起できない。道路にリズムと変化、あるいは道ゆく人にある種の抑制を与える結節点。そこには由緒ある教会堂が必要だが、サンタ・マリア・マジョーレのような大きな建築物では、そこを焦点として意識づけるアクセントとしてはいささか大きすぎる。大きな建築が立つ広場には細く鋭い垂直に立つ目印こそ望ましい。シクストゥスはこのことに気づき、数々のオベリスク(建物や地域を象徴する記念碑)をローマ中の主要な広場に建設した。

広場や大きな教会堂の前に垂直に立つオベリスクは「多焦点とそれを結ぶ直線道路」という二次平面上に展開されたバロックの都市システムを三次元の空間へと拡張したことを意味している。

従来の城壁内の一点を核としていた都市概念を無限の彼方まで包括することを可能としたバロックのシステムは、オベリスクによって平面だけではなく、立体的にも展開された。オベリスクの建設はバロック都市をイメージとしての平面から具体的、現実的な立体へ、生身の人間が生きる実在的な空間へと変容したのだ。


(フォンタナのオベリスク設置工事)

オベリスクの発明は古代エジプト。原始の丘に登る太陽の象徴として作られたオベリスクはその後、古代ローマに略奪され、円形競技場やその他の公共的な場所を飾るエキゾティックなトロフィーとして利用された。

かって皇帝ネロの戦車競技場にあったオベリスクはちょうどバティカン、サン・ピエトロの南側、サン・タンドレーア礼拝堂に隣接して建っていた。そのオベリスクを大聖堂の正面に移動したいと考えたのはニコラウス五世が最初と目されている。

しかし24m、五百トンにも及ぶモノリス(一本の石)を移しかえるのは至難の技。このオベリスクは自分自身の重さだけですでに地表深く沈んでいた。ミケランジェロは早々に不可能といい、ヨーロッパ中から何百と寄せられた案の中にも妙案は見つからない。家屋が密集した地区を通過させる手段もまた皆無だ。

シクストゥスの命をうけたドメニコ・フォンタナ、彼は決して自信があったわけではないが、建築家の使命を掛け、この大事業を成功させると宣言してしまった。

クリストファー・ヒバートはこの日の作業を次のように記している。「1586年4月30日2時に作業が開始された。見物できる窓や屋上は残らず成り行きを見守る顔で満ち溢れていた。下方では総勢八百人のサン・ピエトロ大聖堂の労働者たちが、夜明けにミサに列席したのち、ロープや巻き上げ機の傍らで、フォンタナが一段高くなった檀上に立って穴からオベリスクを持ち上げる合図をするのを、立ったまま待ち受けていた。オベリスクは藁の蓆と鉄の帯金を巻いた厚板で保護されて、揺るぎない姿を見せ、また群衆の中の幾人かが述べたように、頑丈な支柱と横桁で組まれたピラミッド型の桁組の中で、微動だにしないかのように建っていた。その時片手を上げ、喇叭が鳴り響いて、労働者たちと百四十頭の荷馬車馬が全力をふり絞ってロープを引っぱると、巻き上げ機がキーキーと軋りながら動き出し、見物人たちの拍手とサン・タンジェロ城の大砲の轟音と鐘の響きの中で、巨大な方尖柱は地面からゆっくりと持ち上がった。その後水平に地面のころの上に横たえられた。オベリスクが持ち上げられるのを見物したよりもさらに大勢の人々が、十字架称賛の祝日(9月14日)に再び真っ直ぐに建られるのを見物するために、サン・ピエトロ広場に集まった。しかし彼らは固唾をのみながら無言のまま集まった。教皇が、少しでも作業を危険に晒すような音を立てる者は即刻処刑すると命じており、命令に恐るべき権威を付与するために広場に絞首台が組み立てられたからである。それでもオベリスクが持ち上げられ、一瞬地響きを立てて再び地面に落ちてしまうかと思われた瞬間、ある男が大声のジェノヴァ方言で叫んだ。「ロープに水を」。それはボルディゲーラからきた水夫で、ロープが摩擦熱で焦げてしまう寸前であるのを見てとったのである。教皇の命令に対するこの男の勇敢な違反は報われて、聖下にお願いがあれば申すようにと求められた。この男は生まれ故郷の都市ジェノヴァが今後毎年枝の主日(復活祭直前の日曜日)にサン・ピエトロ大聖堂のための棕櫚の献上を許されるように願ったと伝えられる。この願いは喜んで聞き届けられ、何世紀もの間守られた。」(ローマ ある都市の伝記:朝日新聞社)

翌年にはシクストゥス計画の最も重要な街路、フェリーチェ街道の中央、サンタ・マリア・マジョーレ広場にアウグストゥス廟墓からのオベリスクが建られた。さらに翌年にはサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノの広場にも、そしてまたその翌年、バロック都市ローマの玄関口ポポロ広場には、紀元前10年ラメセス二世の時代のヘリオポリスの太陽の神殿のオベリスクが据えられた。

同時期はまさにサン・ピエトロの大クーポラの完成間際。どのオベリスクもその頂部には大クーポラ同様球形の地球が載せられ、十字架が加えられた。エジプトの太陽崇拝を土台として、カトリック・ローマはキリスト教における世界制覇を天高く意味づけていて行ったのです。


(ミケランジェロのカンピドリオ広場)

ローマで最初に舞台背景のような都市装置を導入したのはミケランジェロ。それはサン・ピエトロ大聖堂の再建計画がようやっと始まった頃のこと。フォンタナのオベリスクの50年も前だ。

ミケランジェロはユリウス二世によってシスティーナ礼拝堂の天井と壁に釘づけにされていたが、1537年、ファルネーゼ家出身のパウロ三世の命によりカピトリーノの丘の整備に取り掛かかる。

パウロ三世は久しぶりに登場したローマ出身の教皇。この教皇にとって、サッコ・デ・ローマでの惨状は一段と耐え難いものだった。そこにきて、チェニジアにおけるオスマン・トルコ壊滅に成功した神聖ローマ皇帝カール五世(スペイン王カルロス一世)がローマに凱旋してくることになる。

かっては百万人もの人々が溢れかえっていた大都市だが、この時の人口は僅か三万人と言われている。古代の壮大なモニュメント、パンテオンやコロセウムのみがそそり建つだけの、荒野のようなローマ。都市の至るところ古代の円柱や煉瓦の残骸が転がっていた。

カピトリーノの丘はかっての元老院があったところ、古代ローマは七つの丘の都市と言われるが、政庁のあったこの丘が古代都市の中心でもあったのだ。

ミケランジェロはこの時期、教皇の私邸パラッツォ・ファルネーゼ(現在のフランス大使館)の建設にも忙殺されていたが、急遽、教皇の命によりカピトリーノの丘、カンピドリオ広場の整備に取り掛かる。

パラッツォ・ファルネーゼは十九世紀末に作られたプッチーニのオペラ・トスカの舞台として知られている。守旧派警視総監スカルピオ男爵の拠点。アリア「歌に生き、愛に生き」を歌うトスカが男爵を刺すクライマックスの舞台が、この時代、ミケランジェロによって建設が進められていた。


  (fig88)

カンピドリオ広場は後のシクストゥス五世が重視した街路の結節点ではなく、街中のそれも丘の上に位置する広場。結節点でのオベリスクは視覚的にも意味的にも広場の性格を演出する上で極めて有効な装置となるが、ここでは役には立たない。

丘の上の広場の演出においてはミケランジェロはオベリスクではなく、マルクス・アウレリウス帝の騎馬像を設置した。ラテラノ大聖堂の一隅にあり魔除けのごとく思われていたこの騎馬像を、彼自身が広場への移動を監督し、台座の制作をおこなっている。

この騎馬像は当初は、四世紀始めにキリスト教寛容令を発布したコンスタンチヌス大帝、と目されていた。中世の時代に、古代ローマの遺物はすべて異教に属するものとみなされ、大半は破壊されてしまったが、この像は誤解により破壊を免れたのだ。

しかし、設置の際には既に、騎馬像はコンスタンテイヌスではなくマルクス・アウレリウスであることは判っていた。ミケランジェロにとって、この像はすでに知るかけがえのない美術品。彼が生み出しつつあるカンピドリオの広場には欠くことができない優れた作品であった。

本来、彫刻像は建築物の付属品、その一部とされるか、精々一隅に置かれるのが通例だ、しかし、ミケランジェロはなんと広場の中央にどうどうと設置している。


(カンピドリオ広場のメッセージ)

マルクス・アウレリウス像を広場の真ん中に設置したことですでにカピトリーノの丘は重要なメッセージを発揮した。フラミア街道、ノメンタナ街道、アッピア街道という、かってのローマ帝国の隅々からの全ての道の終着点の丘(カピトリーノの丘)の上に建つマルクス・アウレリウス。そのことだけで、多くの人々にこの場所が古代ローマのカプート・ムンディ(世界の中心)であることを示していたのだから。

マルクス・アウレリウス像はローマの中心からサン・ピエトロ大聖堂に至る主要街路パーパレ通りからの軸線と対峙する位置にある。ミケランジェロは広場に立つ騎馬像の眼下からこの街路に対し一直線、幅が広くゆったりとしたコルドナータ(階段状の斜路)を計画した。このコルドナータによってミケランジェロは古代ローマの象徴マルクス・アウレリウスが据えられたこの広場は間違いなく古代ローマを引継ぐカトリック・ローマの首府であることをメッセージした。


 (fig89)


(劇場空間としてのカンピドリオ広場)

皇帝カール五世の凱旋の際、ミケランジェロに可能であったことは、この騎馬像の設置と仮設の記念門のいくつかを、アッピア街道から続く街路のそこここに設置したことに過ぎなかった。しかし、この時のミケランジェロの構想によるカンピドリオ広場は、百年余りのち、本質的な変更は一切なく、1655年に完成されている。

広場の計画ではミケランジェロは決して難しいことをしたわけではない。既存の二つの建物に外被を纏わせ、十三世紀の教会サンタ・マリア・イン・アラコエリの壁面を隠すように第三の建物を建てただけ。広場の大きさも、偶角をなす建物配置もミケランジェロは元々の形状に従っただけだ。


 (fig90)

計画案はコルシーニャの丘のピエンツァの理想都市を思い起こさせる。台形の広場を囲み、正面に舞台背景のような建築を配しているからだ。しかし、ピエンツァの計画からすでに八十年余り、アルベルティの理想もミケランジェロの時代に至っては大きく変質している。

ミケランジェロの時代とは美術史でいうマニエリスムの時代。静縊なウルビーノの理想都市図が現実的なセルリオの都市風景に変容するように、あるいは聖堂のモテトゥスより宮廷での知的なマドリガーレが人気を博す時代だ。

十六世紀始めの芸術はルネサンスの持つ等質等方な静的秩序から動的で現実的、感情的経験の対象へと変わって行く。広場はもはや、かっての都市の理念を想起させる場ではなく、視覚的世界、舞台背景として作る必要があったのです。


(カンピドリオ広場の体験)

パーパレ通りから別れた街路を通しコルドナータを見上げると左右の手すり頂部には一対の像が立つ。劇場のプロセ二アム・アーチ(額縁)のように舞台の両脇に古代ローマの聖なる双生児、カストルとポリュデウケスの像。この一対の像はこの丘の近くで発掘されたもの。ローマ建設の時代はまた発掘の時代でもあったのだ。

ゆっくりと登ると、中央のマルクス・アウレリウス像と左右の邸館は舞台上の透視画法を強調するように立ち上がってくる。正面は騎馬像の背景としてのパラッツォ・デル・セナトーリオ。かっての元老院、中世には市庁舎として使われたこの建物、ミケランジェロは鐘塔を中央に付け替え、主階玄関テラスへの階段を左右に設置した。

対称形に置かれた階段の側面で囲われた三角形の中央のニッチには、これもまた古代ローマ時代のもの、ミネルヴァ像が据えられる。その左右にはナイルとテヴェレの川の神が座し、この像を守る。広場の内部に立入ると、ここはまさに屋根のない建築の内部空間の趣き、ドラマの中の古代ローマ体験の場となっている。

マルクス・アウレリウスを起点とした正面の舞台構成を都市ローマを守護する祭壇とするならば、広場はちょうどその聖堂の身廊の役割を担っているようにも見えてくる。

左右の邸館のファサードを飾る大きなピラスター(壁に付けられた柱)、基壇に載り厚いコーニス(柱上帯)を支えるコリントの柱頭を持つこのジャイアント・オーダー(建物全体二層分を占める大きな古代風の柱)が身廊を構成する列柱となる。

大小の柱を同時に見ると、身廊の背後には小さな円柱が立ちならぶ側廊があるかのように見えてくる。大きなピラスターの両脇に建つ小さな一層分の円柱がまさに教会の側廊部分の列柱を構成しているかのようだ。


 (fig91)

広場を屋根のある内部空間として見れば、そこは見慣れた何処にでもある聖堂の空間構成と全く同じものとして体験できる。広場を囲む左右の邸館は建物というより舞台を構成するスクリーンとして見ればよい。

ミケランジェロはこの一枚のスクリーンに異なる尺度のピラスターと円柱を組み合わせることで、小さな広場を一幅の絵であることより、動き回ることで具体的に体験できる演劇的世界としてデザインしている。

空間のドラマとみなしうるカンピドリオの広場では床面の模様は特に重要な意味を持っている。ピエンツァの広場と同様、透視画法としては逆台形、遠方の風景を近寄せる効果を持つ平面形状だが、この広場の床面のデザインはピエンツァのような単純な透視画法としての距離、建物の後退を表現するものではない。

左右の列柱が都市の内部空間としてのドラマを表現しているように、楕円形と放射状の石貼りで構成された床面はルネサンスの静縊や安定性とは全く異なる意味と体験を与えてくれる。

正方形でも正円でもない床面は完全であることより不完全、静止することより動くことを要求している。楕円形はその空間に中心性は与えるが、それと同時に長軸の強さをも強調し動きを促す。コルドナータを登り楕円の長軸の一端にたどり着いた我々は祭壇に向かう身廊を進むことを強要されるのだ。

中央には騎馬像、放射状の床石に促され回り込んだ我々は楕円の単軸の一端に立たされる。そこから眺められるこの騎馬像はまさにジャイアント・オーダーを背景とし、古代ローマの都市を凱旋するマルクス・アウレリウスそのものの姿。

再び正面に目を転じ祭壇に赴くと、そこは聖堂であるならば十字交差部分、空間は左右一気に解放される。コルドナータと直行する新たな軸を生み出しているわけだが、正面右手は公園に続くギャラリーへ、左手はサンタ・マリア・イン・アラコエリ教会に向かう階段となり開かれる。

この軸に平行するパラッツォ・デル・セナトーリオの階段を昇るとはじめてこの建物の玄関にたどり着く。

振り返り見おろせば広場と騎馬像、そしてそれを取り巻く多くの人々、上げた視線のかなたは一望のもとのローマ、そこに広がるのはドームと瓦屋根の建築群。

マルクス・アウレリウス右手を挙げ永遠の都市ローマを賞賛している。そして再び床面に目を凝らすと、この騎馬像を頂点とし床面は突然、円形の凸状の形態を描き盛り上がってくるようにみえるではないか。

それはまさに地球の曲面。つまり、世界の頂(カプート・ムンディ)に立つマルクス・アウレリウス帝。ルネサンスから隔たったとはいえミケランジェロもまた穏やかな安定した理想都市をイメージしている。しかし、その方法は絵画ではなくドラマとして。ミケランジェロは我々を客席ではなく、舞台の上に立たせてしまうのだ。



(ローマの表玄関、ポポロ広場)

ポポロ門はフラミア街道から訪れる人々の為のローマの北の門。その門を入ると不正形なポポロ広場、ここは幾世紀にも渡って神聖都市ローマの表玄関としての役割を果たしてきた。

そんな重要な広場でもあったからオベリスクが立つのも早い。シクストゥス五世が最初に設置した四本の内の一本、ローマの最初の皇帝アウグスティヌスがエジプトから持ち帰ったヘリオポリスのオベリクスが1589年にこの場所に立てられた。

ポポロ広場は都市の玄関口である為、まず必要だったものはオベリスクよりも噴水であったかもしれない。ここの噴水はローマ最初の公共噴水、1573年教皇グレゴリウス十三世によって作られている。劇場都市の整備はまず水道、そしてオベリスクだ。

シクストゥス五世が早々に、この広場にオベリクスを置いたのは単にローマの玄関口であったからだけではない。こここそ彼が意図するバロック都市の成立のためのプロトタイプだからだ。ポポロ広場は多焦点ネットワークの為の出発点、主要な結節点と位置づけられる。

重要な場所に向かっての集中と、そこから他へ散っていく放射状街路の基点となるところ。シクストゥスはこことサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂の広場を主要な焦点と位置づけ重要なオベリスクを設置している。


(都市が要請するデザイン、双子の聖堂)

バロック・ローマの基点となるよう早くから都市整備が重ねられてきたポポロ広場を、さらに特徴あるものにしたのは建築家カルロ・ライナルディという建築家。オベリスクと噴水を持つポポロ広場にユニークな教会、双子の聖堂の建てられた、十七世紀半ばのことだ。

リぺッタ通り、フラミア(コルソ)通り、パルヴィーノ通りという三つの主要街路がポポロを出発点としてローマの街奥深くへ踏み込んでいくが、ユニークな双子の聖堂はこの三つの街路に挟まれる二つの用地に配置されている。


 (fig93)

並び立つ双子の聖堂には入口門の役割が課せられていた。真ん中を走るフラミア通り、この街路はローマの心臓部、カンピドリオに至る最も主要なもの、双子の聖堂はこの街路のゲートであり、ローマの凱旋門として建設されているのだ。

ドーム屋根をもった瓜二つの聖堂はどちらもライナルディのデザイン。左右全く同じ形に見える聖堂だが、実はその建築は微妙に異なっている。平面図を見ると広場から見て左のサンタ・マリア・イン・モンテ・サントは楕円形、右のサンタ・マリア・デイ・ミラコリは円形の聖堂。

なぜ双子なのに異なる形状を持ったのか。それは広場から見ての正面の部分の敷地の幅、左側が狭く右側が広いことが説明となる。同じ形状の聖堂を前面の建築線を揃えたまま建築すると敷地幅の狭い左側の聖堂は右に比べドームの直径が小さくなってしまう。ライナルディはサンタ・マリア・デイ・モンティを楕円でつくり直径の位置を後退させることで、広場から見て二つが同じ大きさの聖堂となるように調整している。

フラミア通りの入口に建つの凱旋門となる為には、ポポロ広場の二つの聖堂はお互いが左右対象の形態をとらなければならない。ここで大事なことは、建築の結果が都市の形態を作るのではなく、都市が建築を生み出す、建築の形態を決定するのは都市であるということだ。

都市空間が建築のデザインを、この場合は聖堂の形を決定していることが重要だ。バロック建築はその建築自身の内部空間も意味深いが、都市を演出する装置としてデザインされなければならない。この時代は、建築の外部空間が都市なのではなく、都市もまた建築によるの内部空間としてデザインされているのです。


(ノッリのローマ地図)

十八世紀に作られた有名な地図がある、ノッリのローマ地図。ネガフィルムの黒色部分を構成するのがビッシリと建ち並ぶ住宅やパラッツォ(宮殿)、その中を貫き、広がりを持つ白色部分が街路であり、聖堂の内部空間を意味する。


 (fig94)

貧富貴顕に関わらず、全ての人々の精神と生活を支えるのがこの白色部分であり、庶民のための都市空間、公共の空間なのだ。

この地図で見る限り、光が降り注ぐドーム屋根のもとの聖堂の内部空間は都市の広場とまったく同じ意味を持っている。ローマでは、都市広場は聖堂の内部空間と全く同じもの、どちらも、誰もが自由に使える公共の為の広場と位置づけられている。


(コルソ流し)

ノッリのローマ地図ではひときわ目立つ白い直線 、それは フウラミア通り。 十七世紀、改善されたとはいえ都市の宮殿(パラッツォ)での生活は快適ではない。ローマの夏の暑さは貴族も庶民も同じ。石づくりの宮殿の中はとても耐えきれるものではなかった。宮殿の住人は暑い一日が終わりかける頃、馬車を繰り出し夕涼みに出掛ける。出掛ける先はフウラミア通り、ポポロ広場の二つの聖堂を門とした中央の街路だ。

整備されたばかりのこの街路には涼やかな風が吹き通る。そこには、すでに貴婦人たちの馬車が連らなっている。彼女たちもまた夕涼み。若き貴族の若殿たちもまた宮殿には無い風を求め、ゆっくりと街路を馬車で流していく。

それは丁度、オペラ劇場の桟敷席を訪ね歩く光景に似ている。街路はご夫人方の部屋のように設えられた馬車で埋まり、男たちはその部屋(桟敷席)を一つ一つ訪ね歩いていく。そう、恋人となる人をさがして。

コルソは道筋を意味する。夕方の道筋を馬車で流すことの流行はそのまま「コルソ流し」として定着した。そしていつか、ローマのメインストリートはコルソと呼ばれるようになり、フウラミア通りは現在のコルソ通りと名前を変えた。つまり、街路はローマという大建築の廊下であり応接間、あるいはまた前奏曲が鳴り響く桟敷席を持ったオペラ劇場となっていた。


 (fig95)


(シクストゥス通りのバルベリーニ宮殿)

十六世紀末のシクストゥス五世のバロック都市計画、やがてその事業には有数な貴族たちも参画し、パラッツォ(宮殿)やヴィッラ(別荘)という壮麗な建築群と、豪華な彫刻と噴水に飾られた幾多の広場が建設された。

ローマはヨーロッパ中の貴族のための、一大外交都市としての役割を担うようになる。外交都市に書かせぬものは音楽と美術。十七世紀ローマは多くの芸術家たちが集い、制作し、発表する一大ショールームのような役割を果たしていた。

シクストゥスが計画し、記録に残された街路が建設当時のフェリーチェ街道であり、その街道の一部が、開設者シクストゥスの名をそのまま残し、現在システィナ通りと呼ばれている。スペイン広場とサンタ・マリア・マジョーレ教会をつなぐ現代都市ローマにとっても最も主要な通りの一つだが、その通りの中央にバルベニーニ宮殿が建つ。

バロックの天才ベルニーニの設計による広場と建築。トリトーネの泉を持つバルベリーニ広場を従えたこのパラッツォ(宮殿)は、十七世紀半ば富と名声をほしいままにし、ローマの音楽と建築活動の中心的役割を果たし、さらにオペラの発展には多大な貢献をしたバルベリーニ家の拠点となっていた。


(教皇ウルバヌス八世のサロンの芸術家)

マッフェオ・バルベリーニは裕福なフィレンツェの市民の息子だった。風采があり豊かな教養を持ち、学者であり、詩人でもあった彼は1623年、五十五歳で教皇の座につき、ウルバヌス八世を名乗った。


 (fig96)

建築をこよなく愛したこの教皇は在任中の二十年余り、いつもジャン・ロレンツォ・ベルニーニを手元に置き、ローマの新しい都市イメージの生成をこの天才に任せた。詩人でもあり音楽好きのウルバヌスの周辺には何人かの音楽家が絶えず控え、学者や文学者も加わり活発なサロンが展開されている。

そのようなサロンの中の有力な一人がピストイヤ出身のジューリオ・ロスピリオージ。彼は同時代の最大のオペラ・リブレット作者であり、後に枢機卿から教皇にまで上り詰めたクレメンス九世。

ウルバヌス八世には三人の甥がいる。フランチェスコとアントーニオは枢機卿、まん中のタッディオはローマの旧家コロンナ家の娘と結婚し、ローマ総督となった人。バルバリーニ家出身のウルバヌスは聖俗両面を一族の力で支配し、多くの芸術家、知識人を従え、バチカンとバルベニーニ宮殿はまさに宮廷のような趣だった。


( バルベリーニ宮殿の建築家 )

ウルバヌス八世は即位するとすぐにバルベリーニ宮殿の建設に着手する。設計は教皇庁の主任建築家カルロ・マデルノ。シクストゥスの都市改造の建築家ドメニコ・フォンタナ の甥に当たる彼はミケランジェロに引き続きサン・ピエトロ大聖堂の建設を任された。

カルロ・マデルノ は高さに比し幅が広すぎると非難された現在のサン・ピエトロ大聖堂のファサードの設計者でもある。ウルバヌスが即位したこの時期がいよいよニコラウス五世以来の懸案の大聖堂の竣工の時。1626年11月18日サン・ピエトロ大聖堂はウルバヌス八世によって歴史的献堂式を迎えることとなった。

バルベリーニ宮殿の建設の委託を受けたマデルノだが、彼はウフィッツ美術館に保存されている一枚の図面を残したまま1629年他界する。そして引き継いだのはジャン・ロレンツォ・ベルニーニだった。


 (fig97)

工事はすでに始まっていたが、マデルノの仕事場で石工として働いていたフランチェスコ・ボッロミーニと共に宮殿建設の指揮を執る。バロック時代を代表する二人の建築家があいまみえたこの建築、そのデザインは当時のローマの宮殿建築としては革新的なデザインとなる。

マデルノの設計は中庭を中央に配し、四周をブロックで囲うという典型的なルネサンススタイル。しかし、実施された建築は中庭は廃棄され、現在に見るH型の平面形を持っている。


(バロック宮殿のデザイン)

ルネサンスのパラッツォの特徴は中央にオープンな中庭を確保し、外周を比例的配列で構成された堅い閉鎖的なブロックで囲うという形態が一般的。しかし、このパラッツォは中庭はなく、前面は都市的状況を引き寄せるかのように凹型の列柱エントランスを持ち、後方はまだ庭園として整備されていない自然環境に対応したデザインとなった。

ベルニーニの果たした革新とは、静的な形態を持ち、閉じられた求心的なルネサンスの宮殿を動的で開かれたバロックの宮殿に変容したことにある。動的な建築ではあっても、部分部分がバラバラになったわけではない、一つ一つの空間は中央の主軸を中心にしっかりと対称的に構成されている。


 (fig98)

ルネサンス以来のシステムへ向かう強い計画性は厳然と全体を支配しているのだ。一方、得られた空間は都市や自然環境と対応し、実用性を確保、エントランスに示されるように奥行き感が強調され、全体は開かれかつ動きを持ったダイナミックな印象を与える宮殿となっている。

中世の城郭からルネサンスの宮殿への変化、そこでは戦いの為の建築から交渉の場としての建築の時代への変化が端的に反映されていた。しかし、中世・ルネサンスどちらもともに、まだ厳しいその形態は権力の象徴や防御の姿勢をそのまま表現していた。

バルベリーニ宮殿はこの動的で開かれた形態を強調することで、新しい時代の建築であることを示していたのだ。この変化はやがて、宮廷オペラを市民のオペラへと開いていく流れにも符号する。建築と音楽はルネサンスからバロックへと、その新しい表現手法を探しつつあったのです。


(バルベリーニ宮殿のオペラ)

バルベリーニ劇場の幕開けは1632年の謝肉祭。新婚間もないタッデオ夫婦と二人の枢機卿が住むバルベリーニ宮殿のサロン。この宮殿には三千人の収容能力を持つ劇場が設えられた。しかし、実際の観客は数百人程度、ここはまだ市民のための劇場ではなく、当時のローマの特権的な聴衆の為に作られた劇場だった。

柿落としでの上演はオペラ「アレッシオ聖人伝」。作曲は「オルフェオの死」を作ったステーファノ・ランディ、リブレット作家はジューリオ・ロスピリオージ。二人はイエズス会セミナリオで教育を受けた間柄、「アレッシオ聖人伝」は題名からも判るとおり、イエズス会の持つ中世的宗教劇となっている。しかし、このオペラには古典的悲劇と喜劇、牧歌劇とインテルメディオ、と同時代のすべての劇スタイルが一体化されている。

「アレッシオ聖人伝」を有名にしている一つは、史上初めて高声部が最も優位となったオペラであることだ。主役のアレッシオはソプラノ・カストラートが演じている。他のキャストもまた、全て教皇の聖歌隊の歌手たち。

ローマの貴族であるがアレッシオは世俗を退け、深く宗教に帰依する人、そんな人間であるアレッシオは、この世の人とは思えない聖人の声である必要があった。そのためには、男性でもなければ女性でもないカストラートの声はピッタリと言える。

内容はローマのアレッシオが世俗の楽しみを全て捨て、乞食姿となって信仰の道を探す話。五世紀の聖人アレクシウス伝説に基づいている。1634年制作の版画をみると、端正な透視画法によるローマの都会風景の中に、姿を隠したアレッシオを探す旅に旅立とうする悲痛な婚約者が歌うシーンが描かれている。この舞台背景の制作はジャン・ロレンツォ・ベルニーニ。新装なったバルベリーニ宮殿のデザイナーが劇場はもちろん舞台背景を手がけるのは当然のことであったのです。

バルベリーニ劇場とその宮殿は宮廷のような世界とはいえ、ここはどこまでも教皇ローマ・カソリックのお膝元。フィレンツェやマントヴァ宮廷のようにあからさまに異教であるアルカデイアをテーマとすることは出来ない。台本を書いたロスピリオージにとっては、オペラの持つ世俗的楽しみを、いかに正当化するかが問題だった。その為には「アレッシオ聖人伝」という道徳的な教えをもった聖人伝説は、もっとも都合のよい題材でもあったのです。


(ローマの世俗オペラ、二つ)

ローマでも世俗的なオペラがないわけではなかったが、舞台や劇場では上演されることのない、単なる個人的な娯楽にすぎなかった。

そんな作品の中ではロマン・ロランが十七世紀前半のもっとも美しい抒情的なドラマと評した「ガラテアの女」が有名。1639年、カストラートのロレート・ヴィットーリが作詞作曲した作品と言われている。

ギリシャ神話の海のニンフの物語。イタリア最後の牧歌劇と目される作品で、ローマでは上演されなかったが、やがて1644年ナポリで初演され、多くの人に知られるものとなった。

ローマでもっとも大掛かりの世俗オペラは「魔法にかけられた宮殿」。1642年、バルベリーニ宮殿に住む枢機卿アントーニオがパトロンとなって上演された。バルベリーニ家お抱えの音楽家ルイージ・ロッシの作曲、ロスピリオージのリブレットによるこのオペラ、七組もの恋人たちが巻き込まれる誤解と混乱のドラマ。

魔術に彩られての悲劇と喜劇の連続は、そのまま後のヴェネツィア・オペラに引き継がれるもの。このオペラの上演はウルバヌス八世在位のローマであるからこそ許されたことであって、新たな教皇が支配する後々のローマでは決して生まれることはなかった出来事なのです。


(ローマのオペラのパリ亡命)

寛容なバルベリーニ家のウルバヌス八世が1644年没するとローマの世俗音楽は一気に停滞する。次に即位した パンフィーリ家のインノケンティウス十世は音楽には無関心の人。世俗に走りすぎる前教皇の施策にはいつも苦々しく思っていた。

新教皇が実権を握るとウルバヌス八世の甥、アントーニオ・バルベリーニ枢機卿は当然居る場所が無くなる。彼は政変に敗れ、財産没収のまま、パリに亡命せざるを得なかった。やがて、バルベリーニ劇場は打ち捨てられ、ロスピリオージはスペインへと旅立って行く。

しかし、バルベリーニ家の音楽家たち、ルイジ・ロッシもまたフランス宰相ジュール・マゼランの好意によりパリに招かれる。ローマ・バルベリーニ劇場のオペラはそっくりパリに亡命した。

ルイジ・ロッシが1647年3月、パレロワイヤルで「オルフェオ」を上演する。フランチェスコ・ブーティによる台本は最早、フィレンツェのオルフェオに見るヒューマニストの理想からは程遠いもの。しかし、その音楽は極めて多彩。フランス人好みのバレーも入り、様々な情景が入れ替わり立ちかわり変化する。

ヴェネツィア生まれの機械仕掛けの中、後の定番ダカーポ・アリアも数多く挿入される。音楽の神オルフェオはついにパリにおいても、その力を宮廷の人々に披露することとなったのだ。


(テヴェレ川に近いナヴォナ広場)

ベルニーニの傑作「四大河の泉」を中央に配すナヴォナ広場はバロックローマの都市計画の中では特異な性格を持っている。その特異さの一面は広場なのに幅広い街路のような形態にある。

この広場は古代ローマ、紀元一世紀のドミティアヌス帝の時代の競技場。剣闘士たちにより戦車競争が行われていたその場所が、幅広い街路のような広場となって今に残された。

中世の時代、廃墟となった古代ローマの競技場、その周辺には沢山の家々が建られたが、競技場部分だけはそのまま空き地として使われ、やがて庶民の為の広場となる。

テヴェレ川に近く、水もあるこの当たり一体は荒廃したローマにあっては人が住み着くには最も都合が良い場所。ルネサンス期には庶民の住宅が密集する。広場は彼らにとって格好の息抜き場であり水浴び場であった。

人口密集地であるところから、ここでは水道整備が早く、ポポロと同時期、細長い矩形の南北の隅に、二つの噴水が設置された。グレゴリウス十三世による水道の整備は1573年のこと、ベルニーニの噴水の八十年も前のことだ。


(人そして水が留まるナヴォナ広場)

特異な性格のもう一面、それはバロックの数ある広場の中では珍しく、主要街路とは一切の関わり持たない、結節点としては程遠い形状となっている。そして、周辺は無数に張り巡らされた水路のような幅狭い不規則な街路がひしめく。


 (fig99)

ノッリの地図で見ると形状といい状況はまさに、ナヴォナ広場そのものが貯水層のようだ。張り巡らされた無数の狹路が連結され、幾筋かの街路となって貯水層のような広場へと流れ込む。水の流れはそのまま人の流れに重なり、ここは終着点をイメージさせる。そして人々は、もはやどこにも出掛ける必要もなく、只々のんびりと滞留する。

古代ローマに起源を持ち、中世そしてルネサンスと延々と引き継がれ、現在に至るこの広場には二千年の時間と世界中の人々が集約される。市が立ち、祝祭の舞台、真夏の暑い日の夕涼みの語らい、疲れた旅人が屯いまた一人憩う処。1651年には「四大河の泉」が完成し、密集した街の中に、一際大きな水音をたてるこの広場は、庶民のそして世界中の人々のための溜まり場、サロンとなっている。

人と時間を留め置く貯水槽はまた、引き延ばされた街路でもあるこの広場の中央に立ち、周囲を眺めると、周辺の家々の窓の連なりは、まるでオペラ劇場の桟敷席の連続のように見える。しかも桟敷席を構成する家々は、姿、色、形が一体となり連続した一枚の壁のように連なっている。この広場はまさに長方形の大きな舞台なのだ。古代ローマの競技場であったナヴォナ広場はベルニーニの傑作を待つまでもなく、華やかな劇場空間であったのです。


(ボッロミーニのサンタニェーゼ教会)

一様に連続した壁の連なりの中にあって、ナヴォナ広場を特徴づけ、魅力あるものに変えているのはサンタニェーゼ教会。「教会堂の存在が、その他の家屋群そして同じ基本的主題を基礎したうえにより単純な変奏曲を奏でさせているからであり、そのようにして家屋群は単独では獲得できない意味を得ている。」(図説世界建築史:本の友社)と書くノルベルク・シュルツはフランチェスコ・ボロミーニ設計のサンタニェーゼ教会を家屋の連続が生み出す主題に対する重要な変奏部分と捉えている。


 (fig100)

中央に建つ教会が周囲の家々と色彩的にも形状的にも一体となりつつある、しかし、際だった形態の変化により周囲の空間にアクセントを与え魅力あるものに変えているのだ。

サンタニェーゼ教会はパンフィーリ家出身の教皇インノケンティウス十世の宮殿に隣接し、この家の古い祈祷所を改築したもの。インノケンティウス十世はオペラ好きのバルベリーニ家を政変で退け、フランスに追いやった教皇。ウルバヌス八世に重用されたベルニーニもまた、この教皇には疎んじられ、彼に替わりボッロミーニが教皇庁の主任建築家となり、この教会の設計を担当することとなった。


(広場が要請するサンタニェーゼのデザイン )

ウルバヌス八世のバルベリーニ家はローマの東方に拠点を置き、フェリーチェ街周辺に広場や宮殿を作った。インノケンティウス十世のパンフィーリ家はテヴェレ川に近い、ここナヴォナが拠点。新教皇は前任者に対抗するかのように、この広場に宮殿と教会そして広場の整備を行っている。

つまり、都市の整備は教皇たちのステータスシンボルだった。ここに限らずローマ中の主要な建築物、あるいは街路も広場も、みな歴代の教皇たちが描いた地上の楽園であったのだ。

ボッロミーニのサンタニェーゼ教会はバロック都市と建築のありようを的確に示している教会。ポポロ広場の双子の聖堂同様、ここでも建築は都市の要請によってデザインが決められている。

この教会もまた広場を活気づけるために計画されているのだ。しかし、ボッロミーニはただ、広場の要請にのみ答えたわけでははない。むしろ、彼は建築と広場の関係を積極的に追求し、二つを同時に作り替えてしまったと言って良い。

サンタニェーゼ教会の特徴は広場に対し凹型のファサードを示したことにある。これにより広場の空間が教会の内部へと導かれ、貫入するように見えてくる。一方、刳り抜かれたファサードにより教会の上方のドーム屋根がますます広場の前面へと踊り出る。


 (fig101)

つまり広場と建築はお互いの空間を相互に取り込もうとすると同時に、ドーム屋根と「四大河川の泉」のオベリスクは共に際立った量塊となって空間の中で合い対峙し、広場を活気づけている。

バロックの都市と建築が成しえたこと、それは主題と変奏が折りなす中、空間と量塊あるいは内部と外部が鬩ぎあうドラマでありオペラであると言えるのです。


(ベルニーニの「四大河川の噴水」)

ナヴォナ広場には南北に三つの噴水が連なっている。ヴィッラの庭園の装置であった噴水が都市を飾るようになったのは十六世紀後半のこと。グレゴリウス十三世はポポロやパンテオンの広場、そしてここナヴォナにも二つの噴水を設置した。

そして三つ目が広場の中央、サンタニェーゼ教会に対峙する「四大河川の噴水」。この噴水はインノケンティウス十世の命によりベルニーニが作ることになった。

政敵ウルバヌス八世が寵愛したベルニーニを遠ざけていた教皇だが、バルベリーニ広場のトリトーネの噴水やスペイン広場のバルカッチャの噴水のデザインで評判を得ていたベルニーニを無視することが出来なかったのだ。

すでにデザインにかかっていたボッロミーニだが、決定的なアイディアに欠け、教皇への提案が遅れていた。その間、ベルニーニはすかさず噴水の模型を教皇に見せることに成功する。「彼の作品を採用するのに抵抗するただ一つの方法は、それを見ないことだを。」(ローマ ある都市の伝記:朝日新聞社)と教皇にいわしめ、ベルニーニの噴水が誕生することとなった。

作品がすでに完成し、教皇がそれを見に来た時のエピソードをベルニーニの息子は日記に残している。「何時になれば水がほとばしるのを目にすることは可能であるか」。ベルニーニは答える。「いまだ時を要します。万事を整えますには大変な時間が要りましょう。しかしながら他ならぬ教皇猊下のためですから、速やかに最善を尽くしましょう。」 (ベルニーニ:東京書籍) 実際は極秘の合図でひとつで大量の水が噴水に流れ込むよう、あらかじめ手筈は整えられていた。

教皇が立ち去ろうと最寄りの出口に差し掛かった時、水のざわめきと大量の水が噴水に流れ込む大音響が轟いた。教皇はその驚異の有様に呆然とされた。以来、ベルニーニはこの教皇にも深い愛顧を受けることとなるのだ。


( 「四大河川の噴水」のメッセージ )

ベルニーニの噴水は文字通り世界の四大河川がテーマとなっている。ヨーロッパのドナウ、アフリカのナイル、アジアのガンジス、そしてアメリカのラプラタ。世界は四つの地域によって構成され、その隅々にまで流れる全ての水がこのナヴォナに集結する、という筋書きだ。


 (fig102)

だとすれば、この噴水の見どころは全ての水が集まっては消えていく排水孔にある。ベルニーニは水を飲み込む巨大な海蛇にその役割を与えている。水の中にある大きな口を開けている海蛇を見逃してはならない。

四大河川の流れが集結するここナヴォナは教会の権力が世界の隅々まで浸透していることを意味するが、広場自体もまた三つの噴水によって四つのゾーンに分節されていることで、教会権力が四大陸で構成される世界全体を支配していることを象徴している。

インノケンティウス十世は自身の出身であるパンフィーリ家の宮殿と教会が建つこのナヴォナ広場を四大陸に見立て、その河川の集結を中央の噴水で示すことによって、彼自身が世界の中心にあると言っているのです。


(ベルニーニのサン・ピエトロ広場)

世界でもっとも劇的な公共広場と言えばサン・ピエトロ広場。その壮大な形態とメッセージは全人類が出会う場所と位置づけられデザインされている。デザイナーはジャン・ロレンツォ・ベルニーニ。フォンタナによってネロ帝のオベリクス建設されてから七十年後の1657年、ようよっと最終案が決定し工事が始まった。

設計を依頼したのはトスカーナ地方の高名な銀行家の子孫、キージ家出身の教皇アレキサンデル七世。この教皇の治世の十二年は、後に「大いなる造営家」と記録されるほど数々の絵画・建築が制作された時代だ。

ベルニーニは七十年間に八代の教皇の元で仕事をしているが、彼にとって五代目にあたるこのバチカンの主はまた前教皇以上にベルニーニを重用した。すでに六十代後半のベルニーニだが、彼はアレキサンデルの求めに応じ、様々なの仕事に精力的に取り組み続ける。

サン・ピエトロ広場計画の基点となるのはもちろん、その中央に立つ巨大なオベリスクだ。ベルニーニはこのモノリスの持つ意味、焦点として全て意識や視線を集めずにはおかない強力な集中力にまず着目する。そして、この一点が全ての世界と繋がるように計る。結果、ベルニーニは壁ではなく柱によって広場を囲う案をつくり、建設に着手する。


 (fig103)

扁平な楕円の形状に柱が並べられた列柱廊(コロンナート)、その形態は閉じられていると同時に開かれている。「聖ペテロの教会がその他のほとんどの教会の母であるように、この広場は、カトリック信者たちを迎えるために、あたかも母が両腕を差し出しているように見せる列柱を備えていなくてはならぬ。それによって信者たちは信仰を確認し、異端の信者たちはこの教会に再び統合され、異教徒の者たちは真実の信仰に教化されるのである。」(図説世界建築史:本の友社)とベルニーニは語っている。


(スクリーンとしてのコロンナート)

母の両腕によって囲まれるこの広場は、閉じている以上に開かれていることが大事であって、ベルニーニはこの腕を壁ではなくスクリーンのようにつくることで、広場を全人類が出会うところ、あるいは、広場からのメッセージが世界全体に放射されるようにと計画した。

壁ではなくスクリーンとして作られたことの意味はさらに大きい。完結した形態ではなく背後の世界との相互作用が可能な列柱廊、それは街と広場が分離されるが、しかし同時に結びつけられていることも意味しているのだ。

中世ヨーロッパから遠く隔たったバロック・ローマ、そこは最早、教皇や貴族のローマではある以上に、一般の人々の為のローマでなければならない。壁ではなく透過性を持った列柱廊によって生み出された広場、そこではすべての身分は消滅し、貴賎の別無く、調和して暮らす場であることが意味づけられている。

方形の形状を持つオベリスクは世界全体から集まる意識を大聖堂に向かう方向へと統一する役割を持っている。広場の中央のオベリスクは求心化作用と同時に目標に向かう方向性を指し示す作用を持っている。

ベルニーニの当初の計画では大聖堂のファサードの前面に一対の鐘塔が建つことになっていた。この鐘塔は広場から聖堂の内部空間へ、大ドームに至る為の門の役割が課せられた。この門を通過した世界からの意識は聖者の体内と見なしうる大身廊、さらに大ドームが屹立し、聖者の墓が埋められた交差部まで至ると、そこからはオベリスクや広場の列柱が指し示すように垂直に天への方向へと意識が広がるのだ。

楕円形の列柱廊で囲まれたサン・ピエトロ広場は大ドームと全く同じ寓意を秘めている。つまりオベリスクが立ち屋根のないこの大広場はまた大ドームで覆われた聖ペトロが眠るマルテリウム(殉教者記念堂)そのものの姿なのだ。広場は屋根のないルテリウム。

ベルニーニの計画で重要なことは、幾何学を用いるが観念で終わるものではないということ。表現されるものは行動と体験によってのみ理解されうる劇場的世界となっていることなのです。