2013年12月10日火曜日

ナポリのバロック・オペラ/©

(ナポリのサン・バルトローメオ劇場歌劇団)

南イタリアの中心ナポリは風光明媚。しかし、自然環境は厳しく石灰岩が多い土地は夏は乾燥、飲み水や食料の確保は決して容易ではなかった。地中海の中央に位置するところから、絶えず外国勢力の脅威にもさらされているナポリは十六世紀末から十七世紀はスペインのハプスブルグ家の支配下にあった。

ナポリの支配者はスペイン国王、ナポリを統治したのはスペインから派遺された副王オニャーテ伯爵 。十七世紀半ば、彼は不安定な宮廷を確かなものにし、多くのナポリ市民から信頼を得るために、当時ヴェネツィアで評判となっていたオペラの上演がもっとも有効と考えた。

イタリアだけでなく、ヨーロッパ中の知られ渡ったヴェネツィア・オペラ、オニャーテ伯爵はその上演のために北イタリア巡業中の歌劇団の歌手を集める。そして、彼らのためには宮殿も提供し、フェビ・アルモーニチという歌劇団まで組織した。しかし、宮殿を提供はするが、それ以上の金銭的援助までは伯爵一人ではなかなか手が回らない。劇団の維持と公演には、ナポリ貴族と上流階層の人々が福王と共に支援している。

オニャーテ伯爵の亡き後、この歌劇団は歌劇団自らが伯爵が持つオペラ上演の為の サン・バルトローメオ劇場の賃貸権も得て積極的にオペラの上演を続けるようになる。この劇場はヴェネツィア同様市民に公開された劇場。

最初の公演は1650年のオペラ・シェーニカ「ディドーネ」、翌年は音楽寓話「エジスト」劇、どちらも 作曲はヴェネツィアのカヴァッリの曲、四十年代の始めにヴェネツィア、テアトロ・サン・カシアーノで初演されたものだった。ほとんどヴェネツィア・オペラに依存したナポリのオペラだが、1655年、ナポリの音楽家によるオペラが誕生する。チェスコ・チリルロ作曲の「エレーナの強奪」がサン・バルトローメオ劇場で初演されている。

(ナポリのスカルラッティ)

ナポリのオペラ環境はその始まりからヴェネツィアにとても良く似ている。市民に開放された公開劇場、サン・バルトローメオ劇場を中心に展開されたナポリのオペラの上演はしかし、劇場や歌劇団のみで可能だったわけではない。ヴェネツィアではサン・マルコ寺院の聖歌隊が必要とされたように、ナポリでは王室礼拝堂聖歌隊の協力が不可決だった。

聖なるキリスト教世界とは一線を画したことから始まったオペラとは言え、宗教改革の時代からはもはや遠く隔たった十七世紀後半のナポリ。この都市はもともと熱狂的信仰と高い宗教心に支えられた土地殻でもあり、バロックの持つ恍惚とした感情が礼拝堂とオペラ劇場、どちらにも流れている必要があった。

1675年スペイン、カルロス二世の即位の祝典がナポリでも行われる。その時の王室礼拝堂ではサン・バルトローメオ劇場の歌劇団が聖歌隊としてミサ典礼に参加する一方、宮殿内の祝典では彼らがチェスティのオペラ「ドーリ」を上演している。

1680年には、副王はヴェネツィアのオペラ作曲家ピエートロ・アンドレア・ジアーニを礼拝堂楽長に任命。その後すぐに、ローマで活躍していたシチリア、パレルモ出身のアンドレア・スカルラッティがサン・バルトローメオ劇場に招かれた。

オニャーテ伯爵を継いだ副王デル・カルピオ侯爵はかって教皇庁のスペイン大使。ローマ赴任時代、スカルラッティの評判を良く知っているばかりか当然面識もあり、カルピオ侯爵は副王になると同時に彼をナポリに招いた。

スカルラッティはオペラ作曲家ジアーニ亡き後、礼拝堂楽長にも就任する。礼拝堂楽長スカルラッティはこれ以降、十八世紀に至るナポリオペラの中心人物として活躍する。

海の都市、ヴェネツィアはその特殊性から、多くの孤児を生み出す社会問題を抱えている。ナポリもまた同じ。ヴェネツィアの十六世紀以来の慈善院が十七世紀には音楽教育が中心となり、多くの音楽家を生み出していく。ナポリにも十七世紀後半、四つの音楽学校があった。ここから沢山の歌手そして音楽家が育っていく。

王室礼拝堂と歌劇団の一体化、音楽学校からの優れた人材の供給、そしてスカルラッティの才能。オペラの為の環境は十七世紀後半のナポリにはすべてが整った。そして十八世紀、ナポリのオペラは後にナポリ派と呼ばれるほどの力量を持ち、ヴェネツィアに代わりヨーロッパ中で活躍するようになる。

(スカルラッティのイタリア風序曲)

十七世紀のナポリのオペラはまだヴェネツィアの延長。モンティヴェルディの後継、ピエル・フランチェスカ・カヴァルリとマルク・アントーニオ・チェスティのオペラがそのままナポリで展開される。

カヴァルリはまず序曲の形式を変えてゆく。モンテヴェルディの「オルフェオ」の幕開けはトッカータと呼ばれる数小節だけの器楽曲だが観客の注意を促す役割しか持っていない。カヴァルリのオペラ「ジャゾーネ」では、序曲には「プロローグ前のシンフォニア」という題がつき、緩やかで荘重な導入部と、オペラのテーマを引き出し発展させるかのような急速な部分の二部によって構成されている。

急速な部分が付け加えられた序曲はもはや、単に始まりの合図を示すだけではない。十八世紀、スカルラッティはこれを急緩急の三つの部分へと発展させ、楽器編成も弦楽器にオーボエやホルンも加えたオーケストラで演奏する。このスカルラッティの序曲はイタリア風序曲と呼ばれる。当時すでに広まっていたもう一つの序曲、ジャン・バティスト・リュリによって形式化されたフランス風序曲と好対照となっている。

一般に当時のオペラの序曲はシンフォニアと呼ばれ後のシンフォニーの原形となっている。フランス風序曲はポリフォニーで書かれた貴族好みの形式、優雅な緩急緩のオーケストラ曲であった。スカルラッティの序曲は誰にでも判りやすいホモフォニックなスタイル。軽快に始まるオーケストラはやがてロココの華麗な様式を生み、古典主義音楽へ向かうもの。スカルラッティの序曲は十八世紀後半の交響曲の先駆けとなるもの。モーツアルトのシンフォニーまではもはや、そう遠くはないのだ。

(バロックの華・アリア)

カヴァルリの「ジャゾーネ」は沢山のアリアを持っているオペラだ。アリアはもともとレチタティーボが高潮した時の表現力豊かなアリオーソが発展したもの。従って、オペラそのものの流れからは、本来、切り離すことが出来なかった。

しかし、カヴァルリを継ぐヴェネツィア・オペラ最大の作曲家チェスティはアリアをレチタティーボとは明確に分離し、オペラの流れを制止させるかのような、独自の時間を生み出すようになる。そして、音楽的興味がより強く聴衆の趣味をそそり、求めに応じる抒情的な歌に向かっていく。

オーストリア皇帝レオポルト一世とスペインのマルゲリータ皇女の結婚式が1667年ウィーンで挙行された。その時上演されたオペラはチェスティの「金の林檎」。このオペラは競争相手ヴェルサイユのルイ十四世に対抗して、ハプスブルグ家が示すことができる、華美の限りを尽くしたもの。それはまさに、ヴェネツィア・オペラの集大成と言えるものだった。

プロローグから五幕六十六景、場面の転換は二十四回、その中には精巧な機械仕掛けも持ち込まれている。各幕にはバレェとコーラスも挿入され、オーケストラの構成も大掛かり、楽器総数は三十を超えていた。こんな大掛かりで長大なオペラでは、アリアは一層明確な輪郭を持ったものでなければならない。その輪郭とは歌手の持つ声の技術によって生まれるもの。アリアは後々の「歌手のオペラ」の道を指し示していた。

百年前のフィレンツェのカメラータたちの考えは、音楽を犠牲にしても、詩的価値を重んじようするもの。モンテヴェルディは音楽とテキストを同列に扱い、両者の平衡と統一を保っていくが、十七世紀半ば過ぎ、チェスティのオペラは劇的な表現よりも、大掛かりな視覚的世界を統一する新しい楽曲の形式に向かっていく。そして、作曲家はリブレット作家の上に立ち、名歌手が劇場全体を支配する時代となる。

しかし、アリアの隆盛はフィレンツェ・オペラの当然の帰結であったのかもしれない。それはルネサンスからバロックへという、人間のが生む必然の流れ。アリアはギリシャ語のアエロ(空気)に由来し、様相、風態、形相を意味する。つまり、典型的なまたは個性的な相貌を持つ旋律にこの言葉が用いられた。従って、バッハのG線上のアリアのように、歌曲以外にも使われることもある。

元来、レチタティーヴォと一体であり、その中で劇的なシチュエーションが急速に展開し、一定の情感が押さえがたく高まった時、そのシチュエーションの音楽的捌け口がアリア。オペラの中のアリアは際立った感情表現のために用意されたものと言える。

人間の理性の表現がルネサンスのテーマでありバロックはその変奏であるとするならば、同じテーマを感情領域で展開する芸術形式こそオペラの役割。この観点に立てばオペラこそバロックの典型であり、その中のアリアはまさにバロックの華と言えよう。

(スカルラッティのカンタータ)

スカルラッティのローマ時代のアリアはまだ通奏低音だけの伴奏だった。アリアの前後にリトルネッロと呼ばれる数小節のオーケストラが入るだけにすぎない。アリア全体が切れ目なくオーケストラによって伴奏されるようになるのは十八世紀のナポリからのこと。

1707年、スカルラッティはヴェネツィアの劇場のために「ミトリダーテ・エウパトーレ」をナポリで作曲する。そこでは、アリアはオーケストラと結びつき雄大な表現を見せるようになった。

ナポリ・オペラを作り上げ、十八世紀イタリア音楽を切り開いた人として知られるスカルラッティだが、彼はむしろカンタータのスタイルを確立した人としても重要。レチタティーヴォとアリオーソ、アリアからなり、独唱、重唱、合唱によるカンタータはオペラと並ぶバロック時代の重要な楽曲の一つ。宮廷や貴族館のサロンで演奏されることの多いカンタータは華やかな名人芸により洗練された細やかな表現力が必要とされた。

カンタータは音楽的教養を持つ貴族的ディレッタントに好まれたもので、スカルラッティは八百にも及ぶ作品を仕えていた諸侯のために作曲している。カンタータにおけるアリアの特徴は各々の曲の規模は小さいが、和声は複雑で微妙な色彩を持っていることにある。

貴族的な優雅さを持ち、決して過度に陥ることなく、独唱者の技量によってドラマティックに歌われることがこの音楽形式では必要であった。蛇足かも知れないが、カンタータの器楽曲版がソナタ。ここでもまた、モーツアルトの時代はすぐ間近なのだ。

( リブレット作家、ピエートロ・メタスタージオ )

ナポリ最大の作曲家をスカルラッティとするならば、最大のリブレット作家はピエートロ・メタスタージオだ。メタスタージオは十七世紀流行の荒唐無稽な神々の話とは異なり、歴史的実在の中の理想的人間をオペラにしている。そのようなオペラをオペラ・セリアと呼んでいる。そこには機械仕掛けの神々の出現もなければ、大げさな感情表現もない。フィレンツェのオルフェオに戻るかのような台本改革だった。

メタスタージオのオペラでは主役となる歌手の表現がポイントとなる。明確な性格を持った人物が場面に相応しい情緒を示し、聴衆に向かって朗々と自身の持つ思想を伝えなければならない。そのようなことが可能なのはアリアのみ。メタスタージオのオペラではアリアこそオペラの中心。つまり、オペラ・セリアという形式は十八世紀のアリアが最も効果的に使われたスタイルと言って良いだろう。

メタスタジオの傑作の一つが1740年の「毅然たるアッティリョ」。カルタゴの捕虜となった主人公アッティリョはローマに戻り、カルタゴの利益のためローマの元老院を説く約束で自由の身となる。しかし、ローマでの説得は効を奏さず、家族、友人の願いも振り切り、決然と捕虜の運命に戻るべく船出する、という物語。

(オペラ・セリアと様々なアリア)

アリアは単に劇的でありさえすれば良いのではなく、高度な技術を用いて、様々な表情を持った感情表現を行なわなければならない。その微妙な感情の機微を的確に表現するために、十八世紀オペラでは八種類ものアリアのタイプが用意された。優しい情緒を歌いあげるアリア・カンタービレや、威厳と品位の表現に適すアリア・ポルタメント等はその典型。

1740年フランス人シャルル・ド・ブロッセは次のように書いている。「イタリア人たちは、非常に活気のある、かがやかしい音と和声にみちた、はなばなしい声のためのアリアをもっている。その他にも、快いひびきと魅惑的な旋律をもつ、デリケートなやわらかい声のためのアリアがあり、もっと別の種類には、熱情的で思わず人の胸をうち、感動の自然な発露の抑揚をそのままに、深い感情にみちていて、舞台効果を高めたり、俳優の長所を最大限に発揮させるアリアがある。いきいきしたアリアは、さまざまな出来事を絵画的にえがき、嵐、台風、激流、狩人に追われて逃げまどう獅子、トランペットの音に耳をそばだてる馬、夜のしじまの恐怖など、すべて音楽にとってふさわしい音や姿をえがくのに用いられるが、悲劇的場面には用いられない。この種類の大がかりな効果をめざすアリアには、たいがいオーボエ、トランペット、ホルンなどの管楽器が助奏につき、とくに海上の嵐をあらわすアリアの場合などには、なかなかいい効果を持っている。」(グラウトのオペラ史:音楽之友社)

(楽譜を残さないオペラの作曲)

多種多様、高度に体系化されたアリアを持つ十八世紀のナポリのオペラ、その作品量は膨大だが、現在の我々はそのほとんどを耳にすることが出来ない。

ナポリのオペラの特徴は貴族的というより民衆好み、単純で分かりやすいことにある。さらに、音の組み合わせが軽快で伸びやかな旋律と装飾音に恵まれている。しかし、近代の批評家たちはナポリのオペラを一様に非難している。その矢面に立たされているのがメタスタージオ。

彼のドラマはマンネリで技巧的、優美ではあるが、力が乏しいと見なしている。「彼の描く人物は古代のローマ人よりもむしろ十八世紀の宮廷人に近く、感傷的な愛情はあらゆる場面にみちみちていて、寛仁大度な潜主というタイプも、またかという感じがする」(オペラ史 :音楽之友社 )と書くグラウトだが、彼は「もしわれわれが当時の劇の一般的な習慣を受け入れるつもりになれば、メタスタージオの作品は今日でも十分に楽しめる。」 とも書いている。

グラウトの言う当時の劇の一般的慣習とは、それは十八世紀のオペラは今日に見るような真面目な劇作品というより、気楽な娯楽であったことを意味する。それは劇場はオペラを観るためだけの場所ではなく、社交の場でもあったからだ。

この時代のオペラの上演は夜八時か九時に始まり真夜中までであるのが一般的。地位や財産のある人は桟敷を買い占め、友達同士が集まる社交の場として利用している。そこではオペラを楽しむ以前に桟敷にいることが大事であり、始めの二度三度は通しで聴くこともあるだろうが、その後はお気に入りの歌手のアリアに耳を傾けるだけのオペラ鑑賞。

居心地の良い家具をしつらえられ、自宅のサロンのような桟敷席はカード遊びやチェスを楽しむ場となっていたのだ。

桟敷席の意味が変わると、上演作品はなじみ深いリブレットが何度も繰り返されることほうが好まれた。もっとも音楽を楽しみたいという観客は当然、シーズン毎に新しいオペラであることも望んでいるのだが。

一方、当時の演奏は即興的な色彩が強く、楽譜は今日の楽譜とは異なり、作曲者のメモ程度の役割にすぎなかった。音楽を完全に仕上げるのは演奏者の仕事なのだ。さらに、著作権のない時代、人気のあるアリアとは言え大半は写本、楽譜が印刷されることはほとんどなかった。模倣も多く、出版すれば作曲者の収入はそれだけで終わってしまうからだ。

つまり、現代から見ると印刷されたオペラは少なく、写本の大半も失われていて、当時のオペラを上演したくとも、事実上不可能な状況。従って、十八世紀前半のオペラはスカルラッティやベルゴジーレ、チマローザにパイジェロという僅かの音楽家のオペラの全曲を現在、ようやっと耳にする程度となっている。