(音楽のような都市)
ヴェネツィアは長期に渡って共和国であり続けた誇り高き海の貴族の都市。そこはまた中世以来、聖職者の政治的介入を拒んできた土地柄でもある。従って、この都市の建築・美術・音楽は他のイタリアの諸都市と較べ独特なものとなっている。ヴェネツィアでは聖と俗との境界線がゆるやかなのだ。東方の表玄関であったことから異色の世界とも容易に相互交流し、芸術のみならず、風習、人間観、振る舞い等は比較的自由。市民はカトリック・ローマの支配する中世的教会を恐れることなく、何事も活発に発展、展開させてきた。
ヴェネツィアの地形環境は水の上、ラグーンにある。絶えずたゆたう水とともにある教会や家々はいつも通奏低音の流れの上に載る音楽のような都市。そんなヴェネツィアだからであろう、多くの感情を音と言葉に変え、様々な芸術を生み出してきた。従って、いまでも世界中の人々がここを訪れるのは当然のことだ。長い歴史を持つヴェネツィア、その水の流れが音楽に例える通奏低音だとするならば、この都市の建築と美術は豊かな対位法を奏でる様々なメロディーとなっている。
(fig60)
( サッコ・ディ・ローマ )
この都市が特に面白いのは十六世紀後半から十七世紀。ジョルジョーネ、ティッツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ等美術分野では多くの逸材が登場し、様々な建築家が活躍する。パラーディオ、サンソビーノ、サンミッケーリ、さらにローマ育ちのジュリオ・ロマーノなど、彼らはみな十六世紀イタリアを代表する建築家たちだ。
この時代、彼らの活躍がヴェネツィアばかりでなく、北イタリアで目立つのは、ローマ劫略(サッコ・ディ・ローマ)と呼ばれる大事件がきっかけとなっている。1527年5月、神聖ローマ皇帝軍の十日間に及ぶ教皇庁のあるローマに対する略奪、破壊、暴行、殺人。都市ローマの教会やパラッツォのみならず、ルネサンス美術は壊滅的な打撃を受けている。結果、ローマの貴族及び聖職者というパトロンを失った多くの画家・建築家はローマを離れ、ヴェネツィアや北イタリアの諸都市で新しい仕事を見つけていくことになる。
(ヴェネツィアの文化戦略)
フィレンツェのメディチ家の台頭は十五世紀前半。そこには名立たる画家が集まりルネサンス美術の花を咲かせたが、やがてこの都市も共和国からトスカーナ大公国へと変わって行く。イタリア半島全体は従来の中世的自治都市から新しい中央集権的な君主国家へと変貌して行く中、ヴェネツィアだけは君主国にかわることなく、中世以来の共和制を保持しつづける。
資本主義がフランドルに育つばかりか、東方との交易もトルコの台頭で難しくなり、経済的には黄昏期にあるヴェネツィア共和国が共和国としての対面を保つ為には実力者による共存共栄と多民族主義的な風潮を強めざるを得なかった。それがこの時代の政治であり都市経営。そのためには、人と人がより理解し話し合うためのコミュニケーションが最も重要。様々の立場の人々の最も有効なコミュニケーションの為には芸術の持つ力が不可欠、ヴェネツィアではその力が強く求められていたのだ。
ヴェネツィアの都市経営、それは花のフィレンツェが多くの美術と建築を生みだし、ヴィチェンツァがテアトロ・オリンピコを必要とした状況とよく似ている。求められるものは争いではなく、芸術による文化戦略だ。
黄昏のルネサンス期、ヴェネツィア共和国は画家、建築家、音楽家たちの活躍にその存続を賭けていた。文化戦略としてのヴェネツィアの特徴は体質境遇の異なる数多くの画家、建築家、音楽家により様々な作品を生み出し続けたことにある。ヴェネツィアは共和国を存続させるという目的を貫くため、現代に通低する様々な芸術の孵化装置の役割を果たしていたのだ。
(サン・マルコ寺院の音響と音環境)
十一世紀末献堂のサン・マルコ寺院はヴェネツィアの都市の中心であるばかりか、音楽文化の中心でもあった。巨大なウェディングケーキのような五つのクーポラの内部は濁りのない反響音を響かせる素晴らしい音響空間でもあったからだ。アルプスの北ではあまり見ることのないギリシャ十字の平面形を持つサン・マルコ寺院は東方の影響をまともに受けたビザンチン様式の建築だ。
(fig61)
その特異な建築空間は祭壇に向かう両翼の袖廊の各々に、オルガンと聖歌隊を向かい合わせて置くことを可能にした。このことから、この寺院では二つの合唱隊が相呼応したり(交唱)、応答する(応答唱)極めてドラマティックな音楽(複合唱)を古くから響かせていた。
ヴェネツィア音楽にとって、この複合唱は最も重要、そして、もう一つ重要だった事柄がある。それはサン・マルコはドゥーモ(大聖堂)ではなくバシリカ(寺院)であるということ。
ヴェネツィアはローマの代理人である大司教の権限が及ばない都市なのだ。従って、サン・マルコは共和国市民全員のための教会であって、カトリック・ローマの支配にある司教座聖堂ではない。ヴェネツィア総督の個人的な礼拝堂であり市民のための教会であることから大聖堂ではなく寺院と呼ばれている。
ヴェネツィア共和国は代々聖職者がいたずらに政治に介入することを拒んできた伝統を持っている。結果、サン・マルコ寺院の音楽は聖と俗との境界線はゆるやかで、様々な音楽が容易に相互浸透しやすい環境を作ってきた。
聖と俗との境界線のゆるい音楽環境、それは当時のフィレンツェやローマでは決して生み出せるものではなかった。サン・マルコ寺院の持つ特殊な音環境と音楽環境、この二つが相合わさり、ヴェネツィアは時代を超える新しい音楽を生み出して行く。
(イタリア人の音楽家)
十六世紀イタリアは、絶対君主国化したフランスやスペイン・オーストリアそして教皇庁ローマという、いくつかの勢力の覇権の調整地として翻弄された。このような背景から来る民族主義的な風潮だろうか、サン・マルコ寺院は1568年、フランドル人音楽家を押し退け、生粋のイタリア人ツァルリーノを楽長の任につかせた。
ツァルリーノはその後のバロック音楽の基礎を築いた重要な音楽家。彼は就任早々、サン・マルコ寺院の音楽的空間特性に合わせ、二人のオルガニストと二組三十人に及ぶ聖歌隊を編成する。さらに、世俗音楽の勇であり、従来は教会に入ることの許されなかった、優れたコルネット奏者を含め、二十人の常任の楽器奏者も雇い入れ、典礼音楽の演奏形態を全く新たなものとして確立していく。
聖歌隊による合唱を器楽アンサンブルが支えていくという新しい演奏形態は、ここサン・マルコ寺院の空間特性無くして生まれ得ないもの。ミサ曲の中に器楽が参入するということは、当時ローマで流行していたア・カペラ(楽器の伴奏を伴わない合唱曲)とは異なり、壮大な音楽空間を生み出した。
それは教皇庁の権限が及ばないことから生まれる自由であり、生み出された音楽的経験なのだ。その音響空間は後のオペラの誕生を導くイタリア人好みのものでもあり、ヴェネツィアはヴェネツィアの音楽、いやその後のイタリア音楽そのものを発見する。
(ホモフォニーとダイナミックなソナタ)
フランドルやフランスの人たちが好む複雑なポリフォニーとは異なり、朗々とした和声の響きを持つホモフォニー。それはオペラを生み出す為には不可欠な音響空間。イタリア人音楽家ツェルリアーノを楽長に迎えた後、サン・マルコ寺院の音楽はその音楽的空間特性とイタリア人好みの音響特性を生かし大きく発展する。
楽長ツァルリーノを支えたのはアンドレア・ガブリエリとその甥のジョバンニ・ガブリエリ。この二人もまたイタリア人。各々第一、第二のオルガニストとして器楽楽長の役割を担当。
第一オルガニストであるアンドレアは、テアトロ・オリンピコの柿落としの演目「オイディプス」の作曲者でもある。彼はサン・マルコ寺院での十六声部からなる壮大なミサ曲を天正の遣欧使節の訪問を祝う典礼のために作曲した。
さらに、ジョバンニにいたってはもっと重要な活躍、「強と弱のソナタ」という楽曲を作曲した。この作品は楽器による複合唱。現在にいたる、当時の最もダイナミックな音楽だ。
サン・マルコ寺院では古くから歌われていた人の声による複合唱、その方法を器楽に応用することで、新たに生み出された初めての壮大な器楽曲となった。題名が示す通り楽譜には強弱の指示が書き込まれ、従来の宗教音楽にはなかった音楽全体にダイナミックな動きがも持ち込まれる。
サン・マルコ寺院の内部のそこここに配置された金管楽器の響きは、やがて新しい器楽合奏の形態となって確立され、ついには寺院全体に響きわたる音楽は教会における典礼の役割から独立し、近代音楽の基礎となるバロックへの道を歩んで行く。
(パラーディオとモンテヴェルディ)
ヴェネツィアの経験で多くの人が語る思い出はサン・マルコから見た夕景にある。グランド・カナルを赤く染め、対岸に建つ美しい教会のシルエットとともに消えて行く一日、それはイタリアの旅の忘れえぬ光景の一つ。ヴェネツィアの印象、サン・マルコの対岸に建つサン・ジョルジョ・マジョーレの音楽と建築に触れてみたい。
(fig62)
建築家パラーディオと音楽家モンテヴェルディ、時代は些か異なるが二人は面白い、いや後世の音楽と建築にとって貴重な照応を示している。その照応はこのサン・ジョルジョ・マジョーレにおける「音楽と建築」の有り様を二つの面から説明しているのだ。
モンテヴェルディは十六世紀後半、マントヴァ公ヴィンチェンツォの宮廷ヴィオール奏者になった。ヴィチェンツァのパラーディオが没して十年あとのこと。近代劇場の原点となったテアトロ・オリンピコの建築家とヴェネツィアを沸かした初期オペラの音楽家、粉屋の息子と医者の息子である各々は共に生まれながらの道とは全く異なる世界でその才能を開花させていく。
二十三才でヴィオール奏者となったクレモナ出身の医者の息子はマントヴァの宮廷で沢山のマドリガーレ(多声の世俗歌曲)を作曲する。パドヴァの粉屋の息子も二十三才で石工の親方となり、やがてヴィチェンツァの人文学者のもとで建築家として成長し、ヴィッラとパラッツォを数多く作っていく。
後のヨーロッパ社会に貢献することとなる「音楽と建築」はともに世俗に生まれた庶民の息子たちによる世俗の作品であったことがまず第一の照応と言っておこう。
(fig63)
(世俗に生きる音楽家と建築家)
オペラ・オルフェオの成功で名をあげたモンテヴェルディだが、彼はマントヴァ宮廷楽長の職に不満と不安を持っていた。浪費家の侯爵ヴィンチェンツォはモンテヴェルディの業績に見合う給料を支払う意志も能力もなかったからだ。ヴィオール奏者から頭角を現したモンテヴェルディはマントヴァで宮廷の為の音楽を作ることがあっても、教会音楽を作るチャンスはほとんどなかった。
そんな彼が1610年に「聖母マリアの晩課」を作曲する。複雑多彩、壮大なミサ曲であると同時に、情感豊かで官能的な独唱曲も持つこの曲はバッハのロ短調とともに宗教音楽の傑作と見なされている。しかし、この曲は浪費家ヴィンチェンツォの宮廷を離れ、サン・ピエトロ大聖堂あるいはミラノ大聖堂の楽長就任を目論んだモンテヴェルディの就職活動の為のものだった。音楽家モンテヴェルディが安心して家族と共に生きる為にはパレストリーナ同様、聖職を得なければならなかったのだ。
「聖母マリアの晩課」の作曲はマントヴァのサンタ・バーバラ礼拝堂でなされ、初演はアルベルティの名作サンタンドレア教会。この事実だけでも建築を知る人にとっては興味津々のミサ曲。しかし、パレストリーナ亡き後の教皇庁は音楽的関心が乏しく、モンテヴェルディは演奏どころか面会すら許されず追い返された。それから三年後、ようやっとヴェネツィアで念願適い、聖職の座を手に入れたモンテヴェルディはその就任の日、この曲を朗々とサン・マルコ寺院の大空間に響かせた。
(サン・ジョルジョ・マッジョーレと聖母マリアの晩課)
そしてここからが音楽家と建築家の二つ目の照応。モンテヴェルディがミサ曲「聖母マリアの晩課」を作曲した年はパラーディオの最大の仕事であるサン・ジョルジョ・マジョーレ修道院教会堂の工事がようやっと完成しつつある頃だった。サン・マルコの対岸に建つこの修道院とパラーディオとの関わりはモンテヴェルディがサン・マルコ寺院聖歌隊楽長に就任する五十年も前だ。
パラーディオは五十一歳になって初めてこの修道院の食堂を設計する。建築家になってもほとんど教会建築に関わることのなかったパラーディオ、彼は食堂の設計の成果からようやっと修道院教会堂の計画案の競作に参加することが許される。自立した生活を維持する為には建築家もまた同じ、 教会堂の建築家にならなければならない。余談だが、モーツアルトのお祖父さんもまた教会堂の建築家となり、一家を支えることができた。
今あるサン・ジョルジョ・マジョーレは1567年からパラーディオ制作の模型に基づき工事が始められたもの。すでにパラーディオは亡くなっていたが、モンテヴェルディの就任と時同じくして完成しつつあったのだ。そして面白いことに、教会の設計のチャンスがほとんどなかった建築家にとってのもっとも記念すべき教会堂は、教会音楽を作ることがほとんどなかったモンテヴェルディの楽長就任のための審査会場となった。
(fig64)
白光に覆われ陰影に富む完成したばかりの教会堂の中に降り注ぐ陽光と壮麗なモンテヴェルディの「聖母マリアの晩課」の合唱との協和。それはパラーディオには思い及ばぬことであると同時に、現在の私たちでさえ今や体験することは難しい。ただただ想像するばかりの世界だ。
(異教の二つの神殿を重ね合わせた教会建築)
この教会堂が世俗の建築家の作品であり、その教会堂での音楽が世俗の音楽家の作品ということだけが二つ目の照応ではない。その「音楽と建築」はどちらの構成にもよく似た、際だった特徴を持っている。その構成とは「重ね合わせ」と言う手法、二人の「音楽と建築」はどちらも「重ね合わせ」によって生み出された作品と言える。
言葉だけではうまく説明出来ないが、まずは、サン・ジュルジョ・マジョーレのファサードは二つの古代神殿を一つに「重ね合わせ」た構成となっているということを確認していただきたい。それも、キリスト教にとっては異教であるはずの古代神殿のファサードが二つ重なりあい、教会堂の正面が形づくられている。
(fig65)
背の高い身廊とそれを支える低い側廊を持つ教会建築では、その高さの異なる形態を一つの建築としてどう纏めるかが建築家の手腕の発揮どころ。パラーディオはその正面を二つの神殿の「重ね合わせ」で解決している。さらに重要なことは教会の内部空間もまた「重ね合わせ」となっていること。
ファサードだけではなく、「重ね合わせ」が内部空間にも及び、身廊と側廊という二つの部分を意識的に区分けしてデザインされた教会の例はこの教会以外ほとんどない。パラーディオ独自の方法と言っても良いだろう。ここもまた写真を見るしか方法はないのだが、サン・ジュルジョ・マジョーレの身廊の柱脚はファサードの注脚がそのまま内部空間でも使われ、身廊では背の高い柱脚が目立つばかりのデザインだ。
内部空間では身廊・側廊全ての柱は同じ高さの脚台の上に載るのが一般的。しかし、ここでは身廊と側廊の注脚がその高さを変えることで、外観のファサード同様、内部空間もまた、二つの建築の「重ね合わせ」、つまり、空間と空間が「重ね合わせ」られ作られている。パラーディオは神殿の円柱を教会の正面を飾る単なる記号として用いたのではなく、古代神殿という建築空間そのものを二つ嵌め込むように「重ね合わせ」ることで、内部空間もまた二つの神殿であることを明確に意識づけ、デザインしている。
(聖なる世界と世俗の官能的ラブソングを重ね合わたミサ曲)
モンテヴェルディもまた、「聖母マリアの晩課」を「重ね合わせ」の手法で作っている。現代のイギリスの音楽家エリオット・ガーディナーが指揮したこの曲のDVDの解説には以下のようなことが書かれていた。
「聖母マリアの晩課は最初の五曲と最後の二曲は聖母に捧げられた聖歌であり、その他はソロの歌曲を含んだ小曲によって構成されている。その全体は荘重な宗教的大曲。しかし魅惑的官能的なラブソング集でもある。特に独唱モテット「私は色が黒くても」は旧約の中の雅歌を典拠としてはいるが、それは世俗の官能的快楽がテーマとなり奏でられている。」ガーディナーはこのことを指し、「聖母マリアの晩課」は世俗の世界と宗教的聖なる世界とが巧みに重層化された音楽と呼んでいる。
(世俗的観劇空間となった修道院教会)
サン・ジョルジョ・マジョーレは古代の異教の二つの神殿を重層化することで、十六世紀のキリスト教教会をデザインしたが、この教会はさらにまた世俗世界と宗教的聖なる世界を巧みに重層化している。前掲書、福田晴虔氏の「パッラーディオ」を読むと、サン・ジョルジョ・マジョーレは修道士のための教会ではあるが、その空間構成からは会堂は修道士達のためというよりもむしろ、一般会衆という世俗世界の人々のための建築と言える。
(fig66)
その解説を以下に簡約する。「この教会の内部空間は互いに独立した三つの部分の集合。バシリカ風の会堂と四柱の間のような完結性を持った祭壇(内陣)と劇場風の聖歌隊席という三つの部分。修道院教会は本来、修道士達の日々の勤行や修道会の催すミサのための施設。従って、そこは一般会衆のためと言うより修道士達が特権的に占有する場という性格を持っているはず。修道僧達の修行の場である聖歌隊席は大祭壇に最も近くそれがよく見える場が与えられ、一般会衆はその背後の、大祭壇からははるか遠くに追いやられるのが通例となる。しかし、この教会の空間構成では修道士達の場所である聖歌隊席は背後に押し留まり、中央に配された四柱の間である祭壇(内陣)が一般会衆のために開かれている。つまり、サン・ジョルジョ・マジョーレの教会は修道士が集まる聖歌隊席が舞台であり、それに対峙する会堂はまるで劇場の観客席のような構成となっている。」(パッラーディオ:鹿島出版会)
サン・ジョルジョ・マジョーレは聖なる世界と世俗の世界の音楽と建築が「重ね合わせ」により協和され、照応した世界なのだ。聖職者の一般信者に対する優越的な扱いが反省され、大祭壇が一般信者に開かれるようになるのは、実際は二十世紀の第二ヴァチカン公会議以降のことらしい。
パラーディオは四百年も前に現代の教会建築の在り方を先取っていた。そしてモンテヴェルディもまた楽想を「重ね合わせ」ることで、新しい教会音楽の形式を切り開いていた。さらに付け加えるならば、この二人に見られる「聖と世俗」の「重ね合わせ」をテーマとした「音楽と建築」の展開は、後のオペラとオペラ劇場そのものの経験を先取っている。むしろ、この建築家と音楽家によって、かっての宗教的祝祭空間の中の「音楽と建築」は世俗的観劇空間としてのオペラの世界を開いて行く。