2013年12月10日火曜日

バロック・ローマのオペラと劇場/©


( カヴァリエーリの 「チェフアロの強奪 」)

1600年10月のフィレンツェ・ピッティ宮殿でのオペラ「エウリディーチェ」の上演はトスカーナ大公の娘マリアとフランス王アンリ四世の結婚式だった。その祝宴のメインイベントは実は「エウリディーチェ」ではなく、ヴェッキオ宮殿で上演された 「チェフアロの強奪」だったのだ。

ピッティ宮殿は私宅であり、メディチ家の本来の居城はヴェッキオ宮殿。当然、祝宴はヴェッキオ宮殿で行われており、音楽家でありローマの貴族、エミーリオ・デ・カヴァリエーリが作曲した。

しかし、この上演は舞台や衣装が完全に仕上がっていないこともあって「エウリディーチェ」ほどの評判を得ることが出来なかった。結果、カヴァリエーリはフィレンツェを即座に立ち去りローマに戻ってしまう。

この時代のローマとフィレンツェ・メディチ家との関係はきわめて深かった。大公となったフェルディナンドは即位と同時に父親が重用したバルディ伯をローマに追いやり、代わりにローマの聖十字架信徒会の聖歌隊長であり、ローマの貴族であったカヴァリエーリをフィレンツェの芸術監督の地位に置いていた。

(キエーザ・ヌオーボの「オラトリオ」)

フィレンツェでの実験であったモノディー様式の音楽劇も早くからローマには伝わっていたと考えられる。実は、「エウリディーチェ」の上演以前、ローマでもモノディー様式の音楽劇が上演されているのだ。

1600年2月、サンタ・マリア・イン・ヴァリデッラ教会での「魂と肉体の劇」の上演。作曲者はフィレンツェでは水が合わず逃げ帰えることになるカヴァリエーリ。

この教会は今ではキエーザ・ヌオーボの名で知られる教会。反宗教改革の騎士フィリッポ・ネーリの意向で再建が開始され、ちょうど「魂と肉体の劇」の上演の一年前、1599年に献堂されている。

 (fig92)

現在、ルーベンスの壁画やネーリの礼拝堂で有名なキエーザ・ヌオーボだが、「魂と肉体の劇」は「十字架に掛けられた人の祈祷室」という名の祈祷室(オラトリオ)での上演だった。

オラトリオ会の聖人であり、音楽家でもあったネーリーとローマの貴族カヴァリエーリはもともと親しい間柄。献堂されたばかりのオラトリオでの十六世紀末の謝肉祭、この音楽劇の上演はこの教会にとっていかに大事であったか想像できる。

「魂と肉体の劇」がオペラであるかどうか音楽学者にとっては意見が別れるところ。舞台も衣装もないオラトリオでの上演だが「エウリディーチェ」よりも八ヶ月も前であったと言う事実は大変興味深い。この時の楽譜や台本は出版された音楽劇としては最も早い作品でもあり、現在に残されている。

(言葉の意味が伝わる音楽劇)

「魂と肉体の劇」は フランドルのポリフォニーがベースではあるが、各声部やリズムに独立性を与えたことから明快に歌詞の意味が聞き取れる。

パレストリーナの音楽は世俗の人々の反宗教改革運動を推進したオラトリオ会やイエズス会の音楽に大きな影響を与えていた。 「魂と肉体の劇」はまさにパレストリーニの音楽を引き継ぐもの。 ラテン語ではなく、イタリア語での礼拝を行ったことからフィリッポ・ネーリーのオラトリオ(祈祷所)はラテン語を理解できない多くの人々を引きつけていた。

この祈祷所において信徒たちが参加し、歌える簡素なシラビック・スタイル(一音節一音)の音楽はとても重要であり、「魂と肉体の劇」の音楽はそのような流れを汲むものだったのだ。

音楽劇の内容はアニマ(魂)とコルボ(肉体)がヴィタ・ムンダナ(地上の生活)の誘惑と天国の契約との間で引き裂かれという寓意劇。舞踏や合唱が取り入れられた牧歌劇のようでもあり、最終的には天国での祝福を得るという宗教道徳劇。祈祷所の音楽劇は教会の中とは言え、多くの人々が楽しめるものであり、後々のオペラの展開にとっても重要なものとなっていく。

(コッレッジョの学生たちのオペラ)

イエズス会ではアゴシティーノ・アガッツァーリ作曲のオペラ「エウメリオ」が上演されている。1606年の謝肉祭、コッレッジョ (ローマのイエズス会の教育機関、反宗教改革には音楽による布教が有効) の学生たちによるこの作品の上演もまた牧歌劇と寓意劇の混合となっている。地上と天国の争いは最終的には人格化されたアポロンによって天国の力が勝利するという物語。

イエズス会のコッレッジョの学生であったステファーノ・ランディ、彼は後にローマの音楽家の最高峰、システィーナ礼拝堂の聖歌隊長に任命されるが、まだ若かった1619年、オペラ「オルフェオの死」を作曲している。

ローマ最初のギリシャ神話素材の音楽劇であるこの物語はフィレンツェとは異なり地上に戻ったオルフェオに重きが置かれていて、場面ごとの舞台効果や大規模なポリフォニックな合唱に特徴がある。全体としてはフィレンツェ同様、叙唱とアリオーソの連なる。

しかし、アリア風の歌も数多く登場し、その後のオペラを先取る音楽だ。牧歌的悲喜劇と名付けられ出版されたオペラだが、残念ながら、上演された形跡はない。宮廷を持たないローマでは、さらに十年あまり後のバルベリーニ一家の時代までは、豪華な舞台や劇場もなく、オペラは単なる個人的な娯楽の一つにすぎなかったのだ。

(バルベリーニ劇場のオペラ)
マッフェオ・バルベリーニは裕福なフィレンツェの市民の息子でした。風采があり豊かな教養を持ち、学者であり、詩人でもあった彼は1623年、五十五歳で教皇の座につき、ウルバヌス八世を名乗ります。
建築をこよなく愛したこの教皇は在任中の二十年余り、いつもジャン・ロレンツォ・ベルニーニを手元に置き、ローマの新しい都市イメージの生成を要請します。
詩人でもあり音楽好きでもあったウルバヌスの周辺にはベルニーニだけではなく、音楽家たちも絶えず控え、学者や文学者も加わり活発なサロンが展開されていました。
そのようなサロンの中の有力な一人がピストイヤ出身のジューリオ・ロスピリオージ。彼は同時代の最大のオペラ・リブレット作者であり、後に枢機卿から教皇にまで上り詰めたクレメンス九世です。
ウルバヌス八世には三人の甥がいました。フランチェスコとアントーニオは枢機卿、まん中のタッディオはローマの旧家コロンナ家の娘と結婚し、ローマ総督となった人。バルバリーニ家出身のウルバヌスは聖俗両面を一族の力で支配し、多くの芸術家、知識人を従え、バチカンとバルベニーニ宮殿はまさに宮廷の趣であったのです。

聖アレッシオ from kthyk on Vimeo.


バルベリーニ劇場の幕開けは1632年の謝肉祭です。
新婚間もないタッデオ夫婦と二人の枢機卿が住むバルベリーニ宮殿、この宮殿には三千人の収容能力を持つ劇場が設えられました。しかし、実際の観客は数百人、ここはまだ市民のための劇場ではなく、当時のローマの特権的な聴衆の為に作られた劇場であったのです。
柿落としでの上演はオペラ「アレッシオ聖人伝」。作曲は例の「オルフェオの死」を作ったステーファノ・ランディ、リブレット作家はジューリオ・ロスピリオージです。
二人はイエズス会セミナリオで教育を受けた間柄、「アレッシオ聖人伝」は題名からも判るとおり、イエズス会の持つ中世的宗教劇となっています。
しかし、このオペラには古典的悲劇と喜劇、牧歌劇とインテルメディオ、と同時代のすべての劇スタイルが一体化されていたと言えるようです。

「アレッシオ聖人伝」を有名にしている理由の一つは、史上初めて高声部が最も優位となったオペラであることにあります。主役のアレッシオはソプラノ・カストラートが演じています。
他のキャストもまた、全て教皇の聖歌隊の歌手たち。ローマの貴族であるがアレッシオは世俗を退け、深く宗教に帰依する人、そんな人間であるアレッシオは、この世の人とは思えない聖人の声である必要があったのです。そのためには、男性でもなければ女性でもないカストラートの声はピッタリであったいえましょう。

内容はローマのアレッシオが世俗の楽しみを全て捨て、乞食姿となって信仰の道を探す話です。五世紀の聖人アレクシウス伝説に基づいています。1634年制作の版画(図版:西洋の音楽と社会=3p74)をみると、端正な透視画法によるローマの都会風景の中に、姿を隠したアレッシオを探す旅に旅立とうする悲痛な婚約者が歌うシーンが描かれています。
この舞台背景の制作はジャン・ロレンツォ・ベルニーニ。新装なったバルベリーニ宮殿の設計者が劇場はもちろん舞台背景を手がけるのは当然のことでありました。バルベリーニ劇場とその宮殿は宮廷のような世界とはいえ、ここはどこまでも教皇ローマ・カソリックのお膝元です。
フィレンツェやマントヴァ宮廷のようにあからさまに異教であるアルカデイアをテーマとすることは出来ません。台本を書いたロスピリオージにとっては、オペラの持つ世俗的楽しみを、いかに正当化するかが問題でした。その為には「アレッシオ聖人伝」という道徳的な教えをもった聖人伝説は、もっとも都合のよい題材でもあったのです。

(ローマの世俗オペラ、二つ)

ローマでも世俗的なオペラがないわけではなかったが、舞台や劇場では上演されることのない、単なる個人的な娯楽にすぎなかった。

そんな作品の中ではロマン・ロランが十七世紀前半のもっとも美しい抒情的なドラマと評した「ガラテアの女」が有名。1639年、カストラートのロレート・ヴィットーリが作詞作曲した作品と言われている。

ギリシャ神話の海のニンフの物語。イタリア最後の牧歌劇と目される作品で、ローマでは上演されなかったが、やがて1644年ナポリで初演され、多くの人に知られるものとなった。

ローマでもっとも大掛かりの世俗オペラは「魔法にかけられた宮殿」。1642年、バルベリーニ宮殿に住む枢機卿アントーニオがパトロンとなって上演された。バルベリーニ家お抱えの音楽家ルイージ・ロッシの作曲、ロスピリオージのリブレットによるこのオペラ、七組もの恋人たちが巻き込まれる誤解と混乱のドラマ。

魔術に彩られての悲劇と喜劇の連続は、そのまま後のヴェネツィア・オペラに引き継がれるもの。このオペラの上演はウルバヌス八世在位のローマであるからこそ許されたことであって、新たな教皇が支配する後々のローマでは決して生まれることはなかった出来事なのです。

(ローマのオペラのパリ亡命)

寛容なバルベリーニ家のウルバヌス八世が1644年没するとローマの世俗音楽は一気に停滞する。次に即位した パンフィーリ家のインノケンティウス十世は音楽には無関心の人。世俗に走りすぎる前教皇の施策にはいつも苦々しく思っていた。

新教皇が実権を握るとウルバヌス八世の甥、アントーニオ・バルベリーニ枢機卿は当然居る場所が無くなる。彼は政変に敗れ、財産没収のまま、パリに亡命せざるを得なかった。やがて、バルベリーニ劇場は打ち捨てられ、ロスピリオージはスペインへと旅立って行く。

しかし、バルベリーニ家の音楽家たち、ルイジ・ロッシもまたフランス宰相ジュール・マゼランの好意によりパリに招かれる。ローマ・バルベリーニ劇場のオペラはそっくりパリに亡命した。

ルイジ・ロッシが1647年3月、パレロワイヤルで「オルフェオ」を上演する。フランチェスコ・ブーティによる台本は最早、フィレンツェのオルフェオに見るヒューマニストの理想からは程遠いもの。しかし、その音楽は極めて多彩。フランス人好みのバレーも入り、様々な情景が入れ替わり立ちかわり変化する。

ヴェネツィア生まれの機械仕掛けの中、後の定番ダカーポ・アリアも数多く挿入される。音楽の神オルフェオはついにパリにおいても、その力を宮廷の人々に披露することとなったのだ。



(イーブリンのローマ)

グランド・ツァーのジョン・イーヴリンはヴェネツィアを訪れる前年、1644年ローマに立ち寄った。その時の日記の一部、建築家ベルニ−ニについて次のように書いている。

「わたしがこの都市に到着する少し以前に、彫刻家・建築家・画家・詩人の騎士ベルニーニが、公衆歌劇(パブリック・オペラ)を上演したが、自ら背景を描き、彫刻を刻み、装置を考案し、作曲し、喜劇を書いて、舞台を全部独りで作り上げたのだ。」

イーヴリンが訪れたローマはオペラ好きの教皇ウルバヌス八世が亡くなりオペラはもちろん、絵画や彫刻の裸体表現をも嫌悪したインノケンティウス十世が即位した年のこと。
ベルニーニやプーサン等の絵画・彫刻は退けられ、もはやバルベリーニ宮殿のオペラはまったく鳴りを潜めていた。
実際のベルニーニの多芸多才の活躍はイーヴリンの帰国後に発揮されているのだが、ケンブリッジで学んだイーヴリンにはローマやヴェネツィアのオペラの評判は十分に伝わっていたと考えられる。
新しい芸術表現を嫌っていたはずのインノケンティウス、しかし、彼がベルニーニにナヴォナ広場の「四大河川の泉」の制作を依頼するのはイーヴリンの帰国後から4年後のこと。
サン・ピエトロ広場の計画が現在のように決定されるのも教皇アレクサンデル七世の時代、12年後のことだ。
つまり、イーヴリンの日記はその後のベルニーニの活躍を予見したもの、バロック時代最大の建築家への賛辞となっている。


(クリスティーナ女王の謝肉祭)

べルニーニとオペラを本格的に活気づける出来事は、イギリスのイーヴリンの訪問ではなく、スェーデンの一人の 王女です。
1655年12月、スェーデンの前女王クリスティーナがローマにやってきた。彼女はその18ヶ月程前、カソリック信仰に帰依し、王位を放棄した人、王位放棄してまでのプロテスタントからカソリックへの帰依は、失われつつあるローマの政治的影響力を復活させる画期的の出来事だった。
クリスティーナ女王はローマ教皇庁にとっては大歓迎の人材、女王のローマ訪問はわざわざその年の謝肉祭の季節に合わされ盛大に実施されることとになったのです。

インノケンティウス亡き後、新教皇アレクサンデル七世の教皇庁主任建築家べルニーニは寸暇の暇もなく、クリスティーナ歓迎の準備と様々な飾り物の制作に忙殺される。
クリスティーナのローマ入場は北のポポロ門、そこにはベルニーニによって壮麗な飾り付けが施されている。
王位のない彼女の教皇との謁見は、本来は許されることがないのだが、ベルニーニの特別なデザインによる肘掛け椅子が用意された。
婦人同席による教皇の食事も、儀礼上前例が無かったのだが、クリスティーナ歓迎の宴会では、ここでもベルニーニの弟子たちによる、金箔を振りかけられた砂糖菓子など周到な準備とあらゆる種類の飾りものが並べられることになり実施された。

クリスティーナの歓迎祝典は教皇庁だけではない。
コッレッジョ・ゲルマーニコでは宗教劇「イサーコの犠牲」が上演される。
貴族の宮殿では音楽の伴奏付きのバレェと宴会そして馬上武術試合等々。
中でも最大の呼び物はやはりバルベリーニ宮殿。
ここではジューリオ・ロスピリオージによる二つのオペラ、「禍転じて福となる」と「人間の生あるいは慈悲の勝利」が上演されている。
ウルバヌス八世の他界の後、バルベリーニ家に親しかったロスピリオージもしばらくはスペインでの生活を強いられていたが、インノケンティウス十世の治世も終わり、新しい教皇のもとローマに戻った彼は幾つかのオペラの台本を書いていたのだ。

「女王の謝肉祭」で上演された「人間の生あるいは慈悲の勝利」はカヴァリエーリの「魂と肉体の劇」と似たような主題を持っている。クリスティーナ歓待の為の寓意が込められ教訓的主題を持つこのオペラは、マルコ・マラッツォーリにより作曲されている。
クライマックスとなった終幕のシーンでは、サン・タンジェロ城を取り囲んだローマの町並みを背景に、祝典の主人役マッフェオ・バルベリーニによって、女王クリスティナとローマを讃える盛大な花火が打ち上げられ、その壮大な花火は版画によって後々の世までもつたえられることとなった。(図版;西洋の音楽と社会ー3P81)

(クリスティーヌが庇護した音楽家)

活発で機知に富み因習に拘束されないクリスティーナは、その後、四人の教皇の治世の間、ローマの芸術の庇護者の立場を取り続ける。

彼女の貢献はオペラが最大であろうが、いくつかのオラトリオへに対しても財政的な援助も行い、さらに当時まだ若いがすでに才覚を表していた二人の音楽家に大規模な作品を依頼している。
アレッサンドロ・スカルラッティとアルカンジェロ・コレッリです。

クリスティーナ自身の音楽監督にも任命されたスカルラッティは1683年にナポリに去るまでの間、「顔のとり違え」というオペラを含み、彼女のためにオペラ、オラトリオ、カンタータと沢山の曲を作曲する。

この頃、オラトリオもまたローマ以外の様々なイタリアの都市に拡がっていく。
その特徴は通奏低音の伴奏の上に載ったアリアにある。
スカルラッティと彼の音楽はクリスティーナによって育てられたと言っても過言ではない。

クリスティーナはテレベ川に近い道ぞいに邸館を一つ借り受け「王妃のサロン」と呼ばれる集会を開催した。
当初、非公式であったサロンだが1674年にはアッカデミア・レアーレ(王立協会)と称され教皇庁からも公認されるようにもなる。
そこには音楽家や文学者ばかりでなく考古学者、天文学者、古典学者も集まった。
著名な学者の講義、論文発表、ゼミナール、そして様々な新しい音楽。器楽の演奏に始まり、声楽の演奏で閉じるというこのサロンは定期的に開催され、ローマ最大のサロンとなっていく。
その集会ではカンタータにコンチェルト・グロッソやトリオ・ソナタというまだ発展途中の音楽の形式も沢山試みられ、厳しくその質が吟味されている。
スカルラッティやコレッリの新曲はこのサロンで披露され、主催者クリスティーナ女王に献呈される、つまり、アッカデミア・レアーレは二人の音楽家を育てる格好の場となっていたのです。

(クリスティーナと教皇クレメンス九世)

莫大な財産を持っていたクリスティーナだが、彼女のオペラへの関わりは三十年代のバルベリーニ家とは異なっていた。ウルバヌス八世時代のバルベリーニ宮殿のオペラは貴族や高位聖職者たちの独占的な楽しみの場だった。しかし、ヴェネツィアではすでにオペラはビジネスとなっている。

巡業オペラ団がイタリア中に広まりつつある六十年代、ヴェネツィア・オペラはローマの人々にとって大きな関心の的となっていた。世俗のオペラとその為の公共劇場はすでに教皇庁のお膝元においても、充分に採算の取れる事業と考えられていたのだ。


1671年、クリスティーナは教皇クレメンス九世の許しを得て、ローマで最初の公共劇場テアトロ・トル・ディ・ノーナを建設した。クレメンス九世について先に触れておこう。この教皇、実はオペラのリブレット作家のジューリオ・ロスピリオージのことだ。バルベリーニ家の人々と共にローマのオペラを生み出した功労者、「アレッシオ聖人伝」のリブレット作者、その人。ウルバヌス八世亡き後、彼自身もスペインでの亡命生活を余儀なくされたが、1666年アレクサンデル七世の後継者として教皇に選ばれた。

ローマはオペラの発展にとって最も大事な時期に、最も相応しい人を教皇に選出した。聖なる世界の中心に立つ教皇庁ローマが世俗性の強いヴェネツィア・オペラの継続的公演を許すことなど、この教皇以外に考えられない。事実、後の教皇の中には寛容な人がいないわけではなかったが、多くの教皇はオペラの公演に対しては厳しく取り締まっている。つまり、ローマの公共劇場の建設はクリスティーナ女王と教皇クレメンス九世という同時代の希有な二人によって実現された歴史的事件であったのだ。


(オペラ劇場のプロトタイプ、テアトロ・トル・ディ・ノーナ)

 (fig106)

テアトロ・トル・ディ・ノーナの設計はヴェネツィアのテアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロの建築家カルロ・フォンターナ。彼は十年ほどベルニーニのもとで修行し、やがて彫刻家、建築のデザイナーとして頭角を表し、劇場建築も手がけるようになる。

残された図面によるとテアトロ・トル・ディ・ノーナは当初U字形ではなく、楕円の平面型を持っていた。実際の建設とは異なるが、この時の平面計画が後のオペラ劇場のプロトタイプとなって行く。

楕円形は馬蹄形ないし卵形あるいはベル型へと形を変え、六段の重層した桟敷席を持った十八世紀の典型的なオペラ劇場へと発展する。ローマ最大のオペラ劇場テアトロ・アルジャンティーナやトリノの宮廷劇場テアトロ・レジオ等、名だたるオペラ劇場は全てこの劇場がモデルとなって建設された。

(十八世紀の劇場の音響理論)

テアトロ・トル・ディ・ノーナがその後のプロトタイプとなったのは理論家・建築家たちがこのプランをオペラ上演にとっての理想的な音響空間と見なしていたからに他ならない。

楕円形平面の劇場は焦点が一つではなく二つ、全体形状が凸型ではなく、凹面であるため、音を拡散させることなく保存し集中させるので、弱音も良く聴こえるというのが当時の音響的判断だ。

しかし、現在の考え方では、微細な音を明瞭で聞き取りやすくするためには、音が重ならないように凸面で反響させ拡散させなければならない。つまり、彼らは現在とは正反対の理論を信望していたのだ。

現在とは異なるが、当時最も新しい音響理論を発表したのはピエール・ハットやアタナシアス・キルヒャー。ハットは1774年、「劇場建築試論」の中で楕円形の講堂は楕円の一方の焦点に集まった反射音がもう一つの焦点にも音を集中させて音の<柱>を作り出すから、音を強めるという点で大いに有用だと主張している。また、楕円が劇場本来の形と考えられたのは、人間の声は方向性を持ち、音波が楕円体で伝搬すると考えていたからだ。

凹面形状の持つ音響上の欠点は、現在では誰もが知るところだが、十八世紀のオペラ劇場のこのような欠点は実際上大きな問題とはならなかった。それは何故だろうか。十八世紀のオペラ劇場は隔て壁で仕切られた桟敷席が壁面一杯に並ぶ観客席、それも必要以上に飾りたてられ、吸音性の高いカーテンや内装材で囲まれていた。僅かな反射面部分もレリーフ状の装飾が施され、音は十分に吸音され微細に多方向に反響する。つまり劇場全体が凹面形を持つ欠点はさしたる問題を生じさせることもなく、むしろ多孔質な形状を持つ桟敷席やその内装材が理想的な吸音と微細な反響をもたらしていたのだ。

(社交空間としてのオペラ劇場)

フォンターナがテアトロ・トル・ディ・ノーナを楕円形で設計した真意は音響上の配慮ではなく視覚上の理由だった。ヴェネツィア以来すでにプロセニアム・アーチで舞台の両袖を区切るのは常識化している。テアトロ・ファルネーゼ等の宮廷劇場では、終幕のバレーに参加する観客たちには不興ではあったが、舞台上のスペクタクルを演出する舞台装置家にとってはアーチはもはや、不可決な装置なのだ。くわえて演技はプロセニアム・アーチの後ろと限定され、奥行きの深い客席からは眺める舞台上の虚構の世界は透視画法により強調され、ますますリアリティあるドラマチックな世界となっていく。

しかし、U字形の形態を楕円形にすることの説明はまだ不十分。お金を払って劇場にやって来る観客にとって、劇場は観劇だけが目的ではない。劇場は見るばかりか、見られる空間でなければならない。つまり社交の空間。舞台を眺めると同時に、他の観客から注目される場所でなければならなかった。

U字形の形態を楕円形にすることにより、観客は舞台だけでなく観客席をも同時に見渡すことが可能となる。フォンターナは劇場空間のすべての視覚を有効に統一するため楕円形プランを採用したのです。

劇場は古来より観劇だけが目的ではない。舞台を眺めるだけが目的なら、全ての座席はまっすぐに舞台を向くのが合理的、それが現代の劇場の形態。しかし、フォンターナは観客席を楕円形にすることで、舞台が見やすい劇場であると同時に、ギリシャ以来の劇場の本来の目的、演者・観客が一体となった全員参加の祝祭の場であることも意図していたのだ。

祝祭を起源とした二千年余りの劇場の歴史。その歴史の中にあって十七世紀のフォンターナはまさに古代と現代という中間に立つ両義的な劇場の型を示したと言える。透視画法の強調という個人に帰着する視覚の重視の劇場と全員参加の祝祭を支える集団の場としての劇場。テアトロ・トルディノーナの楕円形はこの両義的意味の結果であり、その形態はその後十八世紀、十九世紀と引き継がれ、個人と集団を支える市民社会の社交空間へと発展していった。