バルベリーニ劇場の幕開けは1632年の謝肉祭です。
内容はローマのアレッシオが世俗の楽しみを全て捨て、乞食姿となって信仰の道を探す話です。五世紀の聖人アレクシウス伝説に基づいています。1634年制作の版画(図版:西洋の音楽と社会=3p74)をみると、端正な透視画法によるローマの都会風景の中に、姿を隠したアレッシオを探す旅に旅立とうする悲痛な婚約者が歌うシーンが描かれています。
(イーブリンのローマ)
グランド・ツァーのジョン・イーヴリンはヴェネツィアを訪れる前年、1644年ローマに立ち寄った。その時の日記の一部、建築家ベルニ−ニについて次のように書いている。
「わたしがこの都市に到着する少し以前に、彫刻家・建築家・画家・詩人の騎士ベルニーニが、公衆歌劇(パブリック・オペラ)を上演したが、自ら背景を描き、彫刻を刻み、装置を考案し、作曲し、喜劇を書いて、舞台を全部独りで作り上げたのだ。」
イーヴリンが訪れたローマはオペラ好きの教皇ウルバヌス八世が亡くなりオペラはもちろん、絵画や彫刻の裸体表現をも嫌悪したインノケンティウス十世が即位した年のこと。
ベルニーニやプーサン等の絵画・彫刻は退けられ、もはやバルベリーニ宮殿のオペラはまったく鳴りを潜めていた。
実際のベルニーニの多芸多才の活躍はイーヴリンの帰国後に発揮されているのだが、ケンブリッジで学んだイーヴリンにはローマやヴェネツィアのオペラの評判は十分に伝わっていたと考えられる。
新しい芸術表現を嫌っていたはずのインノケンティウス、しかし、彼がベルニーニにナヴォナ広場の「四大河川の泉」の制作を依頼するのはイーヴリンの帰国後から4年後のこと。
サン・ピエトロ広場の計画が現在のように決定されるのも教皇アレクサンデル七世の時代、12年後のことだ。
つまり、イーヴリンの日記はその後のベルニーニの活躍を予見したもの、バロック時代最大の建築家への賛辞となっている。
(クリスティーナ女王の謝肉祭)
べルニーニとオペラを本格的に活気づける出来事は、イギリスのイーヴリンの訪問ではなく、スェーデンの一人の 王女です。
1655年12月、スェーデンの前女王クリスティーナがローマにやってきた。彼女はその18ヶ月程前、カソリック信仰に帰依し、王位を放棄した人、王位放棄してまでのプロテスタントからカソリックへの帰依は、失われつつあるローマの政治的影響力を復活させる画期的の出来事だった。
クリスティーナ女王はローマ教皇庁にとっては大歓迎の人材、女王のローマ訪問はわざわざその年の謝肉祭の季節に合わされ盛大に実施されることとになったのです。
インノケンティウス亡き後、新教皇アレクサンデル七世の教皇庁主任建築家べルニーニは寸暇の暇もなく、クリスティーナ歓迎の準備と様々な飾り物の制作に忙殺される。
クリスティーナのローマ入場は北のポポロ門、そこにはベルニーニによって壮麗な飾り付けが施されている。
王位のない彼女の教皇との謁見は、本来は許されることがないのだが、ベルニーニの特別なデザインによる肘掛け椅子が用意された。
婦人同席による教皇の食事も、儀礼上前例が無かったのだが、クリスティーナ歓迎の宴会では、ここでもベルニーニの弟子たちによる、金箔を振りかけられた砂糖菓子など周到な準備とあらゆる種類の飾りものが並べられることになり実施された。
クリスティーナの歓迎祝典は教皇庁だけではない。
コッレッジョ・ゲルマーニコでは宗教劇「イサーコの犠牲」が上演される。
貴族の宮殿では音楽の伴奏付きのバレェと宴会そして馬上武術試合等々。
中でも最大の呼び物はやはりバルベリーニ宮殿。
ここではジューリオ・ロスピリオージによる二つのオペラ、「禍転じて福となる」と「人間の生あるいは慈悲の勝利」が上演されている。
ウルバヌス八世の他界の後、バルベリーニ家に親しかったロスピリオージもしばらくはスペインでの生活を強いられていたが、インノケンティウス十世の治世も終わり、新しい教皇のもとローマに戻った彼は幾つかのオペラの台本を書いていたのだ。
「女王の謝肉祭」で上演された「人間の生あるいは慈悲の勝利」はカヴァリエーリの「魂と肉体の劇」と似たような主題を持っている。クリスティーナ歓待の為の寓意が込められ教訓的主題を持つこのオペラは、マルコ・マラッツォーリにより作曲されている。
クライマックスとなった終幕のシーンでは、サン・タンジェロ城を取り囲んだローマの町並みを背景に、祝典の主人役マッフェオ・バルベリーニによって、女王クリスティナとローマを讃える盛大な花火が打ち上げられ、その壮大な花火は版画によって後々の世までもつたえられることとなった。(図版;西洋の音楽と社会ー3P81)
(クリスティーヌが庇護した音楽家)
活発で機知に富み因習に拘束されないクリスティーナは、その後、四人の教皇の治世の間、ローマの芸術の庇護者の立場を取り続ける。
彼女の貢献はオペラが最大であろうが、いくつかのオラトリオへに対しても財政的な援助も行い、さらに当時まだ若いがすでに才覚を表していた二人の音楽家に大規模な作品を依頼している。
アレッサンドロ・スカルラッティとアルカンジェロ・コレッリです。
クリスティーナ自身の音楽監督にも任命されたスカルラッティは1683年にナポリに去るまでの間、「顔のとり違え」というオペラを含み、彼女のためにオペラ、オラトリオ、カンタータと沢山の曲を作曲する。
この頃、オラトリオもまたローマ以外の様々なイタリアの都市に拡がっていく。
その特徴は通奏低音の伴奏の上に載ったアリアにある。
スカルラッティと彼の音楽はクリスティーナによって育てられたと言っても過言ではない。
クリスティーナはテレベ川に近い道ぞいに邸館を一つ借り受け「王妃のサロン」と呼ばれる集会を開催した。
当初、非公式であったサロンだが1674年にはアッカデミア・レアーレ(王立協会)と称され教皇庁からも公認されるようにもなる。
そこには音楽家や文学者ばかりでなく考古学者、天文学者、古典学者も集まった。
著名な学者の講義、論文発表、ゼミナール、そして様々な新しい音楽。器楽の演奏に始まり、声楽の演奏で閉じるというこのサロンは定期的に開催され、ローマ最大のサロンとなっていく。
その集会ではカンタータにコンチェルト・グロッソやトリオ・ソナタというまだ発展途中の音楽の形式も沢山試みられ、厳しくその質が吟味されている。
スカルラッティやコレッリの新曲はこのサロンで披露され、主催者クリスティーナ女王に献呈される、つまり、アッカデミア・レアーレは二人の音楽家を育てる格好の場となっていたのです。
(クリスティーナと教皇クレメンス九世)
莫大な財産を持っていたクリスティーナだが、彼女のオペラへの関わりは三十年代のバルベリーニ家とは異なっていた。ウルバヌス八世時代のバルベリーニ宮殿のオペラは貴族や高位聖職者たちの独占的な楽しみの場だった。しかし、ヴェネツィアではすでにオペラはビジネスとなっている。
巡業オペラ団がイタリア中に広まりつつある六十年代、ヴェネツィア・オペラはローマの人々にとって大きな関心の的となっていた。世俗のオペラとその為の公共劇場はすでに教皇庁のお膝元においても、充分に採算の取れる事業と考えられていたのだ。
1671年、クリスティーナは教皇クレメンス九世の許しを得て、ローマで最初の公共劇場テアトロ・トル・ディ・ノーナを建設した。クレメンス九世について先に触れておこう。この教皇、実はオペラのリブレット作家のジューリオ・ロスピリオージのことだ。バルベリーニ家の人々と共にローマのオペラを生み出した功労者、「アレッシオ聖人伝」のリブレット作者、その人。ウルバヌス八世亡き後、彼自身もスペインでの亡命生活を余儀なくされたが、1666年アレクサンデル七世の後継者として教皇に選ばれた。
ローマはオペラの発展にとって最も大事な時期に、最も相応しい人を教皇に選出した。聖なる世界の中心に立つ教皇庁ローマが世俗性の強いヴェネツィア・オペラの継続的公演を許すことなど、この教皇以外に考えられない。事実、後の教皇の中には寛容な人がいないわけではなかったが、多くの教皇はオペラの公演に対しては厳しく取り締まっている。つまり、ローマの公共劇場の建設はクリスティーナ女王と教皇クレメンス九世という同時代の希有な二人によって実現された歴史的事件であったのだ。
(オペラ劇場のプロトタイプ、テアトロ・トル・ディ・ノーナ)
(fig106)
テアトロ・トル・ディ・ノーナの設計はヴェネツィアのテアトロ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロの建築家カルロ・フォンターナ。彼は十年ほどベルニーニのもとで修行し、やがて彫刻家、建築のデザイナーとして頭角を表し、劇場建築も手がけるようになる。
残された図面によるとテアトロ・トル・ディ・ノーナは当初U字形ではなく、楕円の平面型を持っていた。実際の建設とは異なるが、この時の平面計画が後のオペラ劇場のプロトタイプとなって行く。
楕円形は馬蹄形ないし卵形あるいはベル型へと形を変え、六段の重層した桟敷席を持った十八世紀の典型的なオペラ劇場へと発展する。ローマ最大のオペラ劇場テアトロ・アルジャンティーナやトリノの宮廷劇場テアトロ・レジオ等、名だたるオペラ劇場は全てこの劇場がモデルとなって建設された。
(十八世紀の劇場の音響理論)
テアトロ・トル・ディ・ノーナがその後のプロトタイプとなったのは理論家・建築家たちがこのプランをオペラ上演にとっての理想的な音響空間と見なしていたからに他ならない。
楕円形平面の劇場は焦点が一つではなく二つ、全体形状が凸型ではなく、凹面であるため、音を拡散させることなく保存し集中させるので、弱音も良く聴こえるというのが当時の音響的判断だ。
しかし、現在の考え方では、微細な音を明瞭で聞き取りやすくするためには、音が重ならないように凸面で反響させ拡散させなければならない。つまり、彼らは現在とは正反対の理論を信望していたのだ。
現在とは異なるが、当時最も新しい音響理論を発表したのはピエール・ハットやアタナシアス・キルヒャー。ハットは1774年、「劇場建築試論」の中で楕円形の講堂は楕円の一方の焦点に集まった反射音がもう一つの焦点にも音を集中させて音の<柱>を作り出すから、音を強めるという点で大いに有用だと主張している。また、楕円が劇場本来の形と考えられたのは、人間の声は方向性を持ち、音波が楕円体で伝搬すると考えていたからだ。
凹面形状の持つ音響上の欠点は、現在では誰もが知るところだが、十八世紀のオペラ劇場のこのような欠点は実際上大きな問題とはならなかった。それは何故だろうか。十八世紀のオペラ劇場は隔て壁で仕切られた桟敷席が壁面一杯に並ぶ観客席、それも必要以上に飾りたてられ、吸音性の高いカーテンや内装材で囲まれていた。僅かな反射面部分もレリーフ状の装飾が施され、音は十分に吸音され微細に多方向に反響する。つまり劇場全体が凹面形を持つ欠点はさしたる問題を生じさせることもなく、むしろ多孔質な形状を持つ桟敷席やその内装材が理想的な吸音と微細な反響をもたらしていたのだ。
(社交空間としてのオペラ劇場)
フォンターナがテアトロ・トル・ディ・ノーナを楕円形で設計した真意は音響上の配慮ではなく視覚上の理由だった。ヴェネツィア以来すでにプロセニアム・アーチで舞台の両袖を区切るのは常識化している。テアトロ・ファルネーゼ等の宮廷劇場では、終幕のバレーに参加する観客たちには不興ではあったが、舞台上のスペクタクルを演出する舞台装置家にとってはアーチはもはや、不可決な装置なのだ。くわえて演技はプロセニアム・アーチの後ろと限定され、奥行きの深い客席からは眺める舞台上の虚構の世界は透視画法により強調され、ますますリアリティあるドラマチックな世界となっていく。
しかし、U字形の形態を楕円形にすることの説明はまだ不十分。お金を払って劇場にやって来る観客にとって、劇場は観劇だけが目的ではない。劇場は見るばかりか、見られる空間でなければならない。つまり社交の空間。舞台を眺めると同時に、他の観客から注目される場所でなければならなかった。
U字形の形態を楕円形にすることにより、観客は舞台だけでなく観客席をも同時に見渡すことが可能となる。フォンターナは劇場空間のすべての視覚を有効に統一するため楕円形プランを採用したのです。
劇場は古来より観劇だけが目的ではない。舞台を眺めるだけが目的なら、全ての座席はまっすぐに舞台を向くのが合理的、それが現代の劇場の形態。しかし、フォンターナは観客席を楕円形にすることで、舞台が見やすい劇場であると同時に、ギリシャ以来の劇場の本来の目的、演者・観客が一体となった全員参加の祝祭の場であることも意図していたのだ。
祝祭を起源とした二千年余りの劇場の歴史。その歴史の中にあって十七世紀のフォンターナはまさに古代と現代という中間に立つ両義的な劇場の型を示したと言える。透視画法の強調という個人に帰着する視覚の重視の劇場と全員参加の祝祭を支える集団の場としての劇場。テアトロ・トルディノーナの楕円形はこの両義的意味の結果であり、その形態はその後十八世紀、十九世紀と引き継がれ、個人と集団を支える市民社会の社交空間へと発展していった。