1965年、19世紀末以降の現代建築が沈みつつあるこの年、アドルノはドイツ工作連盟大会に呼ばれ講演した。「今日の機能主義」はその時の記録であり、内容はロースの装飾批判と機能主義をテーマにアドルノ自身の美学と音楽を関連させ講演している。1921年ジョルジュ・クレ出版社からの「虚空へ向かって語る」がロース自身が語った闘いの記録であったとするならば、アドルノのこの講演は、その後のモダニズム建築の低迷を論じ、建物とは異なる建築の自律その内実に関わり呻吟している。この講演から早くも50年余り、それは丁度、ロースからは100年と言うことになるが、建築が相変わらず「虚空へ向けて」であることは全く変わらない、現代建築はどこへ行くのであろうか。
装飾批判とは装飾が持つ機能的、象徴的な意味を失い、ただ腐敗的組織、有毒なものとして存在するものを批判するもの。必要なものと余計なるものとの差異は作品に内在するものであって、かたちとして表れているかどうかの問題につきるものではないとアドルノは言う。つまりロースが主張した無装飾でザッハリッヒカイトな建築を良しとしているわけではないのだ。
ロースの言う建築の自律は非装飾とは直結しない、アドルノは言う。モダニズムを自律的芸術の時代とするなら、現代の音楽と建築は今、危機的状況にあると言える。アドルノはその状態を素材自体からは何ら意味あるものを引き出すことが出来ないことにあるとしているのだ。
機能と装飾
装飾批判とは、アドルノはそれはロースの選択ではなく、歴史的必然であったとしている。
純粋に表現と構造から組織だてられた音楽においては、建築においてと同じようにそうした装飾は容赦なく淘汰された。共に凋落したロマン主義的虚構性と無力であることを知りながらなお魔力を発揮させたいという願う装飾に対し、新しい芸術家は敵対したのだ。それがアーノルト・シェーンベルク、カール・クラウス、アドルフ・ロースに他ならない。
機能主義の問題と実用的な機能の問題とは別の問題であって、本来、目的に拘束されない純粋芸術と使用目的が決まっている芸術(建築)はロースが主張するようには極端に相反するものではない。必要なものか余計なものかの差異は作品に内在するものであって、ただ作品のかたちとして表れているかどうかの問題に尽きるものではないとアドルノは言う。
皮肉にもロースが評価するシェーンベルクの室内交響曲第一番は装飾的な性格を持つテーマが現れている。そこでは装飾は主要な楽想であって、新音楽における極端な構成主義的傾向の中で、むしろカノンの多様な対位法的展開のモデルとなっている。つまり、ここにある装飾的なカノンは余計なものではなく、作品に内在するもの。カノンを装飾・無装飾と安易に決めつけるのではなく、その音楽の内実に沿った楽想であるか否かがアドルノにとって問題なのだ。
全ての芸術が自律的なものとなりおおせたとしても、装飾的要素を完全に放棄することはできない。何故なら芸術自体がすでに実生活からすれば一つの装飾なのだから。そして、アドルノはロースのザッハリッヒカイトとならざるを得ないモダニズム建築は、素材とフォルムに対する内部的想像力を通じて、貧弱な合目的的建築を乗り越えなければならないと鼓舞している。
建築家の想像力、素材とフォルム
もう少し、講演の中身に踏み込んでみよう。始まりはロースの装飾批判における矛盾の指摘。想像力は実用の世界では無用というロース。しかし、想像力についてのベンヤミンの見解は「細々とした細部においてその間を補いつなげる作業」と言うことだ。造形に関わる創造的な仕事での想像力とは、むやみやたらに創意を膨らませる慾求、無からの創造の欲求とは異なるとアドルノは言う。彼の美学からは想像力とは、素材とフォルムに働きかけ、多くのものを引き出すことにあるのだ。
素材とフォルムに関わるのが自律した芸術の想像力。ロースが存在すると信じた自律的な芸術には想像力はない。素材とフォルムに関わるのが自律した芸術の想像力。自律的な芸術はそれをつくった芸術家による付加的な創意、素材とフォルムに本来以上の力を発揮させるもの、それは無限に小さく極限値である。他方、想像力という概念を素材あるいは目的への適合性の先取りという点に狭めて考えれば、今まで考えてきた想像力の概念とは相反する。素材とフォルムに関わる想像力とはこれに働きかけ、これより多くのものを引き出すことである、とアドルのは言う。
フォルムも素材も自然の所与のものではない。それには歴史と、歴史を通して精神もまた蓄積されている。素材とフォルムとがものの言語で語りかける沈黙の問いに、想像力は一歩一歩答えていく。そして、目的と内在するフォルムの法則が一体となり作品をつくりだす。目的と空間と素材は相互に内的に関わり合いを持っている。ひとへに全体の機能との関連の中でのみトーンは意味を有する。それなしではトーンは単なるフィジカルなものにすぎない。そこからは潜在した美の構造を引き出し得ることはない。ここでいうトーンはアドルノの音楽的発想、フィジカルな機能を超える建築はここからトーンを如何なるカタチ(意味ある言葉)にするかが問題なのだ。
目的と空間
建築の内部についてはどうかというと、内部空間の感覚は抽象的なもの、それ自体ではない。建築空間は目的と内的に関わりを持ちながら、その質を獲得する。建築においては内部空間が合目的性を乗り越えた時点において、それは同時に目的に内在する。目的と空間が一体となっているかどうかが、偉大な建築であるか否かを判断する中心的基準となる。
アドルノの言う機能主義はある特定の目的がいかにして空間となり得るか、いかなるフォルム、如何なる素材において可能か、と問うている。建築における想像力とは、目的を通して空間をイメージし表現する能力のこと、目的を空間たらしめる能力であり、目的にしたがってフォルムを形成する能力を意味しているのだ。
空間と空間の感覚とは、想像力が合目的性のなかに沈殿してしまったような貧弱な合目的的なものより、より豊かなものになり得る。想像力は自らの存在の拠りどころとなっている内在する目的との関連というものを吹き飛ばしてしまう。空間の感覚とは、抽象的な空間のイメージと相違して、視覚的な分野においては、音楽的なものに対応するに相違ないとアドルノは言う。音楽的なもの、音楽性とは抽象的な時間観念に帰するものではない。したがってメトロノームが音楽を生み出すのではない。
空間的イマジネーションというものは音楽家が楽譜を読むのと同じで、図面を読む建築家には不可欠な資質と言える。しかし、空間感覚はより以上のものを要求している、その空間から人が何かを想起してくれ、と。その何かとはその空間の中に身をおいて、その空間に無関係ではない何か、勝手気ままなもんではない特定の何か、それを想起しなければならない。
空間と機能
建築家が空間を形成するフォルムの構成に比して、はるかに大きく目的というものが、空間の内容の役割を担っている。建築とは、そのフォルムの構成と機能という両極が相互に、より内的に結びつけばつくほど、より高い質を獲得するのではあるまいか。
しかしながら、人間のための機能とは、人体によって規定された人間にとっての機能のことではない。その機能とは社会的に見た人間一般を対象としている。したがって、知性によってのみ、ものごとを把握する知的性格を機能的建築は持つものだ。それは人間の潜在能力であって、非常に進歩的意識を有するものだが、内面まで無力とされる人間の中では簡単に押しつぶされてしまうたぐいのもの。
ヒューマンな建築とは、人間を実際より美化するものなのだ。建築はイデオロギーを歴史に刻むことなく、単に「用」に奉仕するや否や、今ここで要求される用とは矛盾することになる。100年前、ロースが書いたように、建築はいまだ虚空に向かって語りかけているようで、人々からなんの反応もなく理解されていない。
そこには社会的対立に要因があるわけで、人類の生産力を想像もつかないほど発展させた同じ社会が、人類の生産力を上位の生産関係に縛りつけていること、人間である生産力が人間をその生産関係の尺度にしたがって歪めている、という事実が、建築への無理解を深めている、とアドルノは言う。社会のこうした根本的な矛盾が建築において現象しているのだ。建築は消費者とおなじで、建築は自身からその矛盾を取り除くことは殆ど不可能。
生身の人間の正当でない要求の中にさえも、何がしかの自由がある。生身の人間にとって、正統とされる建築は必然的に敵対するものと思われる。それは経済理論が、かって抽象的な交換価値に対して使用価値と名付けたものに他ならない。なぜならばそうした建築は、現実のあるがままの人間が欲し、また必要とさえするものを、充足させることはしないからである。
どうやら、ここらあたりがこの講演のポイントのようだ。商品の持つ交換価値と使用価値、アドルノはその二重性を彼の美学の中で鋭く考察しているが、それは別掲ブログで取り上げたい。
芸術の自律と技術
芸術は、完全に芸術たり得るには、自己固有のフォルムの法則に従って、自律的に作品として結晶せねばならない、とアドルノは言う。これこそが芸術の真のありようだが、そうでない場合、芸術は否定した当のものに従属することとなってしまう。芸術は、自己の中に自らが抵抗するものを内包している。芸術が固有の魔術的なそして神話的な始原とのつながりを断ち切ろうとすればするほど、芸術はそうした技術への適応には危険性が増す、芸術はこれに抗する確固たる術を有してはいないからだ。
人間は本来自分のためにある技術に追従するのではなく、技術が人間に従わなければならない。しかし今の時代では、人々は技術にどっぷり浸り、自分達のより良き部分を技術に遺伝として伝えた後、抜け殻のように取り残されてしまったかのようだ。人々の固有な意識は技術を前にして物質化されており、だからこそこの技術について物質化という点から批判する必要がある。技術は人々のために存在するのだ、と言った至極当然の言は、今や時代に取り残された陳腐なイディオロギーなのだろうか。
都市計画の問題
機能主義の問題は有用性への従属なのかという問題がある。不必要なものは捨て去られるので問題ないが、その機能主義の展開を見ると、それに内在する美的な不十分さが明らかになってきた。単に有用であることだけでは、あまり役にはたたず、世界を荒廃させる手段になるし、慰めのない絶望的な世界とする手段となってしまう。ものごとの核心に迫るには、そのザッハリヒカイトをものから離れて問題点を抽出する思考が必要とされる。
専門家は自分の仕事が社会においてどのような位置にあるのか、またいたるところで遭遇するであろう社会的障害について、自己の芸術家としての立場から説明しなければならない。このことは都市計画の問題において深刻かつあからさまだ。都市計画はカオスに陥るか、そして生産的な建築物の出現を阻む危険性を孕んでいるのだから。
建築は今まで断罪された美的省察をあらためて必要とする。芸術における有用性と有用でないことの概念や、自律的芸術と目的に拘束された芸術とに区分することが議論の対象となっていることが事実とすれば、美学は実際的必要性を持っている。今日、美に深さ以外の尺度はない。美とは力の平行四辺形の合力としてあるか、あるいはそんな美は全然存在しないのか、そのどちらかなのである。