2013年8月30日金曜日

建築が生み出す想像世界

吟遊詩人ホーメロスは英雄たちの世界を語った。「イーリアス」と「オデッセア」。現在の私たちにとって、この二つの物語は叙事詩、文学として残された。しかし、当時の人々にとって叙事詩は文字を「読む」文学ではなく、歌を「聴く」音楽だ。竪琴を持った詩人が語る言葉に耳を傾けるよって生み出された世界。耳で聴き、音を楽しむことから生まれた「想像的世界」です。

古代社会においては、「想像的世界」は現在の私たちの予想をはるかに超えた、リアリティ−を持っている。何故なら天変地異、季節の到来、天体の運行、それらはすべて神々のなせる技、人々は人力に勝る神の力を「耳で聴くこと」によって想像し、決して見ることの出来ない不可思議な世界を、「想像すること」によってのみ理解し把握した。

現在では、「世界は見ること・眺めること」により理解される。しかし、それはルネサンス以降のこと。15世紀の透視画法の発見が、「聴くこと」より、「見ること」の重視へと導いた。

流動的で不確かな日常世界は信頼するに足る世界ではなく、その背後に横たわる確固とした世界こそ生きるべき世界と考えていた人々にとって、絵画によって生み出される「想像的世界」は、現実世界以上に生きるに足る世界。

ダヴィンチをはじめ巨匠たちが描いたたくさんの絵画、それは見ることによって生まれる「想像的世界」だが、現代人の教養としての、あるいは茶の間の楽しみとしての絵画とは大きく異なる。ルネサンスの人々にとって、絵画的世界は現実以上に、生きるべきリアリティを持った世界だったのです。

音楽を聴き、絵画を眺め、小説を読む楽しみは、日常的世界とは異なる別種の世界を想像すること。建築を体験することもまた同じ。この世に存在しない宗教的世界、決して目にすることはできない世界の形を建築は建築自身により、そのカタチ(構造)を分かり易く説明し、人々にいま生きている世界はこんな世界とイメージさせる。つまり、建築は世界模型(世界モデル)であり世界書物、それが建築の役割です。

建築が生み出す想像的世界、それは耳をそばだてたり、眺めさえすれば良いのではなく、体験することが必要。建築物の内外を体験し動き回るにことよって、はじめて個々人の内部に、その建築が生み出す世界が、建築が発する意味の世界が立ち上がってくる。

現代建築ではデザインから生み出された居住感(安全、便利、快適)が重要視されていて、その建物が持つ「意味」という側面が見失われている。従って、建築についての話は快適な環境を作るための技術が問題。しかし、建築だけではなく、様々な分野のデザインが歴史的に果たしてきた役割を考えてみると、それは人間と人間、人間と世界との関係をいかに構築するかということにある。建築デザインもまた、この関係の構築に関わった。

建築はシェルターであり安全・便利・快適の為の装置であるばかりではなく、人々が建築を媒体とすることで、個々人の外側と様々な情報をやりとりしているという側面、つまり建築は情報媒体(メディア)という側面を忘れるわけにはいかない。

人間の外部にあって、刺激や誘導によって、人間を操作しようという装置ではなく、主体としての人間の内実に意味やイメージを発生させる装置。人間が人間として、より多くの人と共に、幸せな人生を送る、というデザインの本来の目的に対し、建築が果たさなければならない役割、そこでは個人が気持ちが良いか、居心地が良いかということより、集団にとって「意味」があるか否かのほうがはるかに重要だったのです。

2013年8月21日水曜日

冬の日誌 ポール・オースター



読み終わりのページ数もあと僅か、語り手は突然、オースターの無音楽ダンスパフォーマンスでの体験に触れる。体験とはオースターをどこか未踏の地に連れて行くもの。1978年12月、オースターはマンハッタンの高校の体育館でのダンスパフォーマンスによって、どん底の執筆生活から救われたとある。
さらに語り手は、ブルックリン橋からオースターが眺める建築の美しさに触れている。オースターは1980年来ブルックリンに住むようになり、繰り返し繰り返しこの橋からマンハッタンを眺めてきたが、その風景から消えてしまったツインタワーについて、語り手は次のように語っている。
「タワーがなくなった現在、横断するたびに死者のことを君は考えずにいられない。自宅最上階の娘の寝室の窓からツインタワーが燃えるのを見たこと、攻撃のあと三日間近所の街路に降った煙と灰のこと、・・・。あれ以来九年半、依然として週に二、三度橋を渡りつづけているものの、その移動はもはや同じではない。死者はいまもそこにいて、タワーもまだそこにある。記憶の中で死者たちは息づき、空にぽっかり空いた穴としてタワーはいまもそこにあるのだ。」
そして語り手は64歳になったオースターに対し「君は人生の冬に入ったのだ。」と語り、ページを閉じる。
いやぁ、なんとも素晴らしい日誌だ。オースターが書いた自伝ではなく、第三者である語り手が書いたプロジェクト報告なのだ。
淡々とリズムを刻み、のんびりと端正に、人と時間の世界を歩み続けるオースターを語り手は丁寧にかたっていく。
オースターは2001年に「ナショナル・ストリー・プロジェクト」を纏めたが、「冬の日誌」はオースター自身を、オースターだけをテーマとしたストーリー・プロジェクトと言えるようだ。完成が2011年と言うことは、オースターは丁度10年間、今度は自分自身をプロジェクト化し、この「冬の日誌」を書き終えたのだ。
いや、まだ終わってはいない、訳者柴田氏はあとがきに書いている。「ある身体の物語」たる本書が刊行される翌月には、「ある精神の物語」である「内面からの報告書」の訳書も刊行される。」そうか、プロジェクトはまだ終わっていない、明日にでも神保町に出かけプロジェクト報告を手に入れよう。

2013年8月17日土曜日

緑園都市

相模鉄道の新線開発にともない、横浜市泉区に誕生した新興住宅地です。 緑園都市と名付けられた駅、その駅前の一つの街区の設計を平均年齢30歳のチームが担当した。 彼らがこの街を設計する上で大事にした基本的な考えかたは、「ひとつ、またひとつと建築が建ちならんで成長するように、ここでも、ひとつひとつの建築を積みあげて街をつくろう」というもの。 つまり街を一つのビルディングにするのではなく、沢山の建築が寄せ集まったようにしようとしたのです。 この様な大きな街全体を設計するときは、まず全体の構想を先につくり、その構想に基づいて一つ一つの建築をコントロールするというのが一般的な方法ですが、ここでは個々の建築はそれぞれの都合に合わせ自由な形で作られている。 しかしそれだけだとまとまりが悪く、バラバラになってしまいますので、ルールが作られた。 それぞれの建築の中には、隣あう建築や敷地と繋がる通路を設けましょうというルール。 外側の公道だけではなく、建築内にうねうねと続く路地のような自由通路を作ることにより、様々な形の寄せ集めのような街全体にまとまりを与え、一体感を持たせようと意図したのです。 通路のあちこちには小さな広場が作られる。 人々がすれ違がったり、留まったり、立ち話をすることで、顔み知りになりコミュニケーションが生れることを期待しているのです。 この街を見るとまず、全体がグレーで、その素材はコンクリートブロックと銀色メッキされた鉄板やスティールパイプで統一されていることに気がつく。 ここにも設計上の重要な意図がある。 一つの建築ではなく、沢山の建築が寄せ集まったような全体を作ろうとしているのだが、部分部分の建築はそれぞれが勝手に自己主張するのではなく、一つ一つの建築の持つ形が、大きな全体の為の、部品であったり、場面となってくれることが、もくろまれているのです。 設計された建物全体が街であるとか、建築であるとかということより、すべてが人間が織りなす場面の連続体として見えるようにしたい。 設計チームは建築よりも、人と人が織りなす様々な場面が、より良く見えるように、全体をグレーのトーンで仕上げている。

2013年8月16日金曜日

慶應義塾湘南藤沢キャンパス

日本に、学校という制度が取り入れられた明治時代、その建築を作る上で指導的役割を果たしたのはミッションスクール、ヨーロッパの中世の教会のようなイメージです。 そして「蔦のからまるチャペル」が定番化し、どちらかという重々しい建築が大学のキャンパスを構成してきた。 1992年に完成した慶應義塾湘南藤沢キャンパスは、従来のキャンパスデザインの流れと全く異なる意図で作られている。 ここでは配列も形態も、すべてが自由に、軽やかであるようにと考えらた。 今にも飛びたつ飛行機の翼のような屋根、景観を緩やかな円弧で切りとるアルミのパンチングメタル。 軽やかで、ダイナミックに。 それは最新の学問を追求する場の躍動感そのものを創り出している。

2013年8月13日火曜日

神奈川県立近代美術館・図書館・音楽堂

神奈川県立近代美術館
戦後のうつろな時代に失った文化を取り戻すための拠点となることを目的として、昭和26年、1951年開館した。 歴史と伝統に覆われた鶴岡八幡宮の境内に、忽然と浮かび上がるように建築された、真っ白な立方体の建築。 その姿は当時の人々の誰の目にも、古い伝統社会を飛び立って屹立しようとする、新しい文化そのものと見えたでありましょう。 しかも、その構成は内と外の境界を越えて、縦横に展開する見事なピロティ空間(柱だけで構成され る一階部分)によって、自然との一体感、環境との調和がもたらされている。
工業生産力の回復がまだ遠い、戦後間もない建設事情の中にあって、数少ない工業生産品であったアルミニウム材と漆喰や大谷石という伝統的建築材とのアンサンブル、この建築は自然環境のみならず、新旧という時代をも調和させようと意図されている。 自然環境という空間的広がり、時代という時間的流れ、そのどちらに対しても、おこたりなく配慮する日本文化の持つ力、そのような力の表現こそ、この建築が示す最も重要な意図であったと考えられる。

神奈川県立図書館・音楽堂
近代美術館に続いて、1954年に、横浜の紅葉ケ丘に、神奈川県立図書館・音楽堂が建設された。 当時、イギリスの戦災復興のシンボルとしてロンドンに建設された、ロイヤル・フェスティバル・ホールが、その手本となっている。 与えられた敷地の特性を上手に活かして、ふたつの建物は、前後にずらして配置され、その間をブリッジでつなぐ構成によって、音楽堂の前に広い前庭を、図書館の後ろには、静かな庭が生みだされている。 建物全体は、大きなガラスのサッシ、コンクリート製のパネル、陶器製の穴あきブロックといった、新しい工業化製品を用いて、明るく透明感あふれる表情に、統一された。
図書館は、建物の中央に書庫をまとめることによって、回りに明るく開放的な閲覧室を設る。 ことに、北側の閲覧室は、吹きぬけの大らかな空間になっていて、緑豊かな庭に面した、静かな心地好い、読書環境。
音楽堂は、日本でははじめての音楽専用のホールとして計画されたものであり、音響実験を繰かえし行いながら、手づくりに近い設計によって、あたかも楽器のような精巧な木材によるホールとして完成した。 竣工当時、その音の響きの良さは、東洋一とも言われ、多くの外国人の音楽家たちにも絶賛された。 現在でも多くの音楽家に高い評価を受けているこのホールの周囲は、図書館同様、余分な壁を配することなく、構造を素直に表すことによって、外と一体となった開放的な明るいロビー空間が作りだされた。
この二つの建物に、現在でもどこかすがすがしい雰囲気が感じられるのは、おそらく、厳しい戦後復興の時代に、新しい工業技術を用いて、戦前の重苦しさとは異なる、明るく親しみやすい建築を作りあげようとした、設計者の願いが、そのまま表現されたからに他ならない。

2013年8月8日木曜日

マントヴァのパラッツォ・テ

パラッツォ・テは、正方形の四辺を中庭を取り囲むかたちで巡らされた一階建ての低い建物で、当初は中庭には迷路の植え込みが作られていたが、いまはない。

東側は大きく開かれていて広い庭につながり、その先端にエセードラと呼ばれる半円形の列柱アーチが設けられて外部 との境界となっている(図4)。

館内には二十数室の部屋があり、その各所にジューリオが大勢の弟子を動員して描いたフレスコ壁画およびストゥッコ装飾(1526~34頃)がある。

主要なものだけについて説明すると、西側の現在の入り口を入って左に進むと、北側部分にまず「オヴィーディオの間」があり、オウィディウスの 『変身物語』に取材した主題が扱われている。 

ついで「ムーサの柱廊」には音楽や詩の寓意像とともに「オルフェウスとエウリュディケ」の場面が描かれている。 

 その先の「馬の間」は謁見やパーティーに使われた大きな部屋である。擬似的に描かれた柱間にはギリシアの神々が表されているが、ここに入ってすぐ目に付くのは壁の前面に立つかのように描かれている優美な四頭の馬の姿である。

実はこの館の建てられた場所はもともと放牧場であって、ゴンザーガ家が飼育した馬はヨーロッパの各宮廷から引く手あまたであり、その後のイギリスのサラブレッドの源流となったといわれている。

ゴンザーガ家に仕えたザニーノ・オットレンゴという名の獣医が著した『馬の疾患』という本(マントヴァ、ダルコ財団蔵)もあり、馬に関してはマントヴァは抜きん出ていたようだ。

ここに描かれた四頭は、「バッターリア」「ダーリオ」「モレル・ファヴォリート」「グロリオーゾ」という名前まで記されていて、自慢の名馬だったのだろう。 

 北東の隅の「プシュケの間」は1530年にカール5世を迎えて晩餐会が催された部屋である。天井周辺にはアプレイウスの『黄金のロバ』に由来するアモルとプシュケの交歓の図が繰り返して描かれ、西側の壁は「粗野な宴会」、南側の壁は「高貴な宴会」という二つの饗宴図で占められ、そこにはメルクリウス、ホライ、ウェヌス、マルス、バッコス、ポリフェモスなどを含め、多くの男女の神々がほとんど全裸で登場する。別の一隅にはあからさまに勃起したゼウスがオリンピアスに挑む図などもあり、これはヘレニズム美術に原型があるとはいえ、あまりいただけない。

なおプシュケはイザベッラ・ボスケットの、クピドがフェデリーコの、ウェヌスがその関係に反対する母親イザベッラ・デステの寓意であるとする意見もある。いずれにせよ、この部屋の主題はエロスの饗宴であり、氾濫のイメージである。

 いくつかの部屋を省略して東南の角に進むと、絵画的には最も興味深い「巨人の間」がある。

主題はヘシオドスやオウィディウスに由来し、天井の雲に現れたゼウスが雷光を放って巨人族を打ちのめすさまが四周いっぱいに描かれている。

崩れ落ちる石塊に挟まれて大仰にあわてふためく巨人たちの姿は、あまりにも非現実的とはいえ、強烈な迫力がある。

この部分は1531年から34年に制作されたのだが、最初に手がけられた西側の部屋で見たような淫靡な逸楽のイメージはここでは姿を消しているのに気づく。

それというのも、フェデリーコはすでに正式な結婚もして公の称号をもち、加えて1532年にカール5世をここで再び迎えることになるという事情があり、いまや肩で風を切るような権勢の象徴がこの主題に託されているということができよう。

 ジューリオ・ロマーノはその後、ゴンザーガの本邸であるパラッツォ・ドゥカーレのいくつかの部屋にもギリシア神話にまつわる壁画をかいた。

ところでジューリオのこうした絵画表現をマニエリズモ様式と呼ぶ。

日本語でマンネリズムというと独創性に欠ける二番煎じという意味合いがあって芳しくないが、美術史学ではもう少し積極的な意義が与えられていて、すなわちラファエッロを一つの頂点とみなし、画家はもはや自然から直接学ぶことをやめ、完成した造型言語(マニエーラ)を駆使して新しい絵画世界の構築を企てた様式という評価がなされている。

ルネサンスは秋を迎えた。ジューリオはローマにおいて、まさに成立しつつあったマニエリズモを経験し、マントヴァでその成果をいっぱいに実らせたのだった。