2013年5月31日金曜日

獅子の座 平岩弓枝


尊氏・義満の時代はフィレンツェ・ルネサンスに似ている、とかってに思っている。 
旧態となった秩序綱紀の乱れ、戦乱と一揆と下剋上の乱世だが一方、商人・職人が台頭し 、商品貨幣経済が発達する。 
宗教的には一元的に従順であることより、現世肯定や合理主義を認める生き方が模索され、猿楽・茶の湯・作庭が人気となる。 
その世界は幽玄・閑寂を好むと同時に雑学・雑芸にも価値を置きその洗練を目指す。 
レオナルド・ダ・ヴィンチがリラの名手であり、音楽家としてミラノ宮廷に雇われたように、ルネサンスの万能人はみな雑芸多才の大家だった。 佐々木道誉のようにバサラ大名と呼ばれる人々は古典・和学・神道・儒学・和歌・連歌・詩文・山水画をも嗜んでいた。 
御伽草子で知られるように絵草紙の大半がこの時代に作られ、さらに、現在の日本人の生活様式の大半はこの時代に生み出されたとさえ考えられている。 
雑学・雑芸が多彩な社会であったからこそ、建築デザインも際立っていた。
堂塔はもちろんだが、書院造りという宸殿にあっての個人的なスペースが接客スペースとして格式を持ち、今ある名苑の大半とともに現代に遺された。 
まさに、コジモ・デ・メディチを足利尊氏に置き換えれば、その孫のロレンツォは義満であろう。 
そんな見立てを楽しみ、室町の塔の見物したのが、この四月・五月の常楽寺から明王院だった。 
旅行中持ち歩いた文庫は「獅子の座ー足利義満伝」、家に戻り読んだのは「風の群像ー足利尊氏伝」。 
一頻り「塔の旅」の感想をブログにしたので、いま、改めて尊氏・義満の時代を思い描いているのだが、なかなか想像の世界が広がらない。 

当然ながら小説は文化史ではないのだから当たり前だが、辻邦夫が書いた「春の戴冠」からはタップリとフィレンツェ・ルネサンス、ロレンツォをはじめボッティチェリ、ジュリアーノ、フィッチーノそしてサヴォナローラにシモネッタが躍動する世界が想像できたのだが。 
室町時代はまだ見えてこない、考えて見れば勉強不足なのだ。 日本史は中学までだし、吉川英治や司馬遼等で戦国や維新の英雄の物語はともかく、日本文化に関わる物語はほとんど読んでいないからだ。
塔を見ながら考えていたんだ、どんなに時代が貧困でも、こんな美しい建築が造れるんだ。 
同時代は建築に必要な木材は日本中どこでも、もっとも枯渇していた時代。 
そんな時代だが、建築人(中央の宮大工はともかく)、それはまだ職人とは言えない人々が、明から輸入したての大工道具を駆使し、日本中に沢山の堂塔建築を作っていく。(現存する五重塔と三重塔、その大半は室町時代の建立。) 
そして600年あまり後、いろいろあろうが驚くばかり、塔は目の前に生きつづけている。 

「獅子の座」は「風の群像」よりボクの好みだ。 
やはり、権力闘争には違いないが日本国王義満の人となりが面白い。 
乳人の玉子とその夫、後の管領頼之に支えられ着々と獅子の座を目指す。 
そのためには最早、武力ではなく文化サロンがものをいう。 
鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇や北畠親房押さえ、直義とともに幕府を開いた足利尊氏もまた武のみの人ではなかった。 
公家社会と渡り合うためには、当然、和歌に強くなければその権威は保証されない。 
事実、尊氏は直義よりも誰よりも和歌の才を持っていたようだ。 
しかし、義満はその比ではない。 
彼は将軍職には目もくれず、その文化的素養で形式的には自らを天皇や上皇を凌ぐ准三宮に叙し、公家と守護を従え、南北朝を統一し勘合貿易を開いていった。 
彼の文化的素養を開いたのは二条良基。 
幼き時より良基に教えられ、あらゆる公家文化はもちろん、まだ鄙にあった田楽・猿楽の世界をも取り込み、同時代の宴席の中心に据える。
(このあたりは同時代の北イタリアの宮廷とよく似ている、つまり、牧歌劇からオペラの誕生まで、その役割は宮廷生き残りのための文化政策) 御所を越えた室町第(花の御所)の造営により公家社会を、北山第(一部分が金閣)に至っては宗教社会をも義満は眼下に置く。 
そんな義満がその先に目指すものは何だろうか。 
この辺りが「獅子の座」の押さえどころ、ミステリー仕立ての物語はクライマックスを迎える。
 この小説で、はじめて三法院満済を知った。 
三法院跡を若干18才で継ぎ、醍醐寺座主となり、黒衣の宰相と呼ばれ、 義満亡き後、義持、義量、義教の幕政に関わった人だ。 
この人はなんと良基の子であり、良基の命により義満の猶子となり、義満の文化政策に関わっている。いまある三法院は応仁の乱で焼失後秀吉が花見の為に再建したものだが、満済はあの五重塔の下で「満済准后日記」を書いた。 
国語力を鍛え読んでみたいと思っている、もっともっと室町時代を知るために。

2013年5月28日火曜日

空想の建築ーピラネージから野又穫へー展 町田市立国際版画美術館


「東京都内で二番目の高さになる超高層ビルの建設が進んでいる。地上五十二階、地下五階の虎ノ門ヒルズは建物の地下一階を道路が貫通する珍しい構造だ」と今朝の筆洗。 町田市立国際版画美術館は「ピラネージから野又穫へ」展を観る。 予想していたが野又氏の空想は圧巻だ。 規制を緩和し、空地権をも加算して建築の巨大化・高層化を図っている超都市(ハイパー・ヴィレッジ)東京。 緩和どころか、現在の都市デザインから建蔽率・容積率・高さ制限という 一切の建築規制が除去される事が現代の都市計画家・建築家の夢なのだろうか。 野又氏の大きな「空想の建築」群を観ながらボクはそんなことを考えていた。 作品はとても版画とは思えないほど巨大で色鮮やか。 その画面の中央いっぱいに一塊の空想の建築、それはブリューゲルのバベルの塔か、古代エジプトの大神殿か。
いや、想像が直結するのはピラネージの牢獄だ。 しかし、侏儒ではあったがピラネージには人間が描かれていたが、野又氏のハイパー・ヴィレッジ(超都市)には人間はいない。 彼だけではない、阿部氏のピラミッドにも人間は見えない。 現代の「空想の建築」には人間は登場しない、いや、想像は出来ない、不要なのだろう。 展覧会は画期的、多彩で大いに楽しめた。 題名通り、ピラネージが豊富だが、感激したのはヒュプネロトマキア・ポリフィリの中のプルチノ・デッラ・ミネルバが展示されていたこと。 そうかこの奇書、日本でも金沢工業大学ライブラリーに収蔵されていたのだ。 1499年版と言うことから今日の最古の展示作品ということになる。 そして19世紀初め、フランス革命直後に出版されたルドゥの建築図集。 さらに、ピラネージに多大な影響を与えた17世紀のビビエーナと19世紀のモーツァルト魔笛をテーマとしたカール・フリードリッヒ・シンケルの舞台背景画、どれもこれも一度は現物にお目にかかりたいと思っていた作品ばかりだった。
町田市国際版画美術館もかって、建築仲間と見学したことはあったが、今日はひとり小田急町田駅から歩いて訪れた。 美術館は段丘を降りた樹林の中、こんな素晴らしく天気がよく気持ちの良い日曜日の公園はピクニック気分の若い家族たちで一杯だった。 そもそも、町田駅に降りたのは始めてだ。 駅周辺は賑やかな商店街、古い街の特徴だろう新規のチェーン店より個人商店が元気よく犇めいていて、とても居心地が良い雰囲気だ。 グローバル化されない町には昔からの美味しいランチ屋が必ずあるはず。 ネット・グルメには一切関心ないが、こんな街では探したくなる、自分自身が好む店を。 決して終わりかけた安食堂でもなく、一律でピカピカなハンバーグ店やラーメン屋でもなく、街の住民が毎日でも愛用する、廉価で小綺麗で、メニュウ多彩な小さなレストラン。 早速、みつけた「グリルママ」、美人ママだ! メニューを眺め迷いに迷いまったがメンチカツランチをオーダーする。 するとすぐに、やはりチェーン店では出せない味だ、小さなカップのコンソメスープ、薫りと湯気が同時にやってきた。 そしてほどなく、じゅうージュウと揚げたてフカフカの大きなメンチカツにキャベツとマカロニサラダが載る白いプレート。 そう30年前には、自宅のある市ヶ谷や事務所のあった神宮前にもこんな店、何軒かあったのに。 この日はこんな所にボクの「空想の建築」を見つけたようだ。

2013年5月22日水曜日

明王院


明王院は福山市の南西、国道2号線が芦田川を西に渡るとすぐの左手の山、川沿いの小さな山の中腹に建つ古いお寺だ。 この辺りを草戸千軒という。 そこは芦田川沿いに鎌倉から室町時代にかけ日本には珍しい一大都市(大規模集落)があったところ。 度々の洪水で消滅し、江戸時代の文献にのみに遺された今や幻の場所。
1930年代の川の付け替え工事の際、多量の古銭や中国陶磁器が発掘され、その存在は現実となった。 しかし、川の中州部分が「草戸千軒」と確認されたにとどまり、発掘調査が本格化する以前に遺跡は新しい川の流れの中に水没、幻の町となって消えてしまった。 (復元模型は福山駅前、広島県立歴史博物館)
見学した明王院五重塔は1348年の建立、本堂もまた1321年と書かれているから、まさに南北朝、後醍醐と尊氏の時代。 草戸千軒の家並みが塔の眼下に幾重にも重なり合っていたのではなかろうか。 寺伝では807年空海が開基したと言われるが、石段を登りきった境内は山地の割には広々とし、古刹の院というより、かっては多くの信仰を集めた力のある寺院ではなかったかと思われる。 その塔の美しさは驚くばかりだ。
本瓦葺の五重の屋根は全てが緩やかに大きく羽を広げ、その全体は「あおによし」、複雑にしかし、規則正しく自信ありげに支え持つ赤い組み物と緑の連子が色あせることなく陽に輝いている。 そのイメージは間違いなく幻の町と言われるこの町に住む庶民たちの富と安寧と栄光が作り上げたもの。
そんな建築がいまや忘れられたかのように深く覆われた木々の間から、子供たちが野球やサッカーで走り回る河川敷や整備された芦田川の水の流れを眺めている。 この塔の特徴は五層全てに丹念に回された擬宝珠高欄にある。 水平な高欄の流れを間斗束と三手先が垂直に三拍子を刻む、その上に正確に枝割りされ配られた六連音符のような垂木が天に終わるところで反りの強い軒先となり力強く斜めに切りあがっている。 そして、いつも思うんだ、日本の塔を見ていると音楽が聴こえる。 この塔もまた、ボクの好むハイドンのカルテット、その秩序とメロディーが感覚的に全く同じように感じられる。

2013年5月16日木曜日

風の群像  杉本苑子


「人間のこれがまことの生き方といえるだろうか。」 作者杉本苑子さんは長編小説、それも残りわずかなページ、まるで呆れ果てたように、群像たちのていたらくをまとめて言葉にした。 
この小説は南北朝の王者・覇者・武将たち、そんな群像による非人間的な物語りだ。 
それは中学生時代の社会科での「建武中興と南北朝」とは大きく異なるもの。 
「事実は小説より奇なり」、どちらが事実かは問わない、この小説では大儀も正義もなく、ただ右往左往するまさに「風の群像」が描かれる。
 いや風にも劣る人たちによる、人にあるまじき所行の数々。 
作者は人間のもつ中世的色合いを趣ふかくかたり物語を進めて行く。 

「優しく、つねにお弱く、運命の波に弄ばれ、帝王にあるまじき恥辱や苦しみを味わいつくされた光厳院・・・・」 
「しかし一人、光厳院のみは、いまなお黙々と歩いておられる。勝ち負けを遙かに越えた境地・・・・」 
それは小説の随所に現れる夢窓疎石が示したもの、四大元空にも似た境地。 
「人間はもとより、生きものすべてを形成する四大元素は、死すればもとの空に還る。あの世などなく、後世もない。」 

小説を読みながら、正義もなくポピュリズムに染まった現代の諸将の有り様を書く夕刊に目を通すと、なんとまぁよく似ていることか、と思ってしまう。 
元寇に布陣したことから生まれた鎌倉幕府の経済的失墜。 
救国の恩賞を与えることが出来ない北条氏の不人気、その自滅とも言える幕府に反旗する後醍醐の王政復古、しかし、彼は民に何をもたらしたか、やがて足利氏による幕府と南北朝。 
その権力闘争のどこに、中興があり建武があるのか。 
どの争いをみても、そこには「人が生きるこの世界」という大儀が見あたらない。
あるのは尊氏の骨肉の争いと南北諸将の私利私欲、風が吹き人が変わるが、風のごとくの戦乱のたびに疲弊する民百姓たちの苦しみと悲しみには誰ひとり触れることなく、何一つ変わることはない。

「風の群像」を読んだのは、その前に「獅子の座」を読んだからだ。 
探してみたら、思ったより少なかったのが「室町時代」を題材とした小説。 
近江に行き、幾つかの室町の塔を見学し、イタリアで言えばルネサンスの始まり、同時期日本でもこんなに美しい、それもどちらかと言えば眺めるだけの「無用不用」の建築がこんなにも沢山造られ、遺されていたことに驚く。 
そしてこの時代をもっと知りたいと思い、小説を探していた。 
「獅子の座」についてはまた日を改めよう。 
尊氏、親房の死後、義詮の子義満は何を目指したか。 
そこには観阿弥・世阿弥も登場する。 
さらに、北山金閣が造られ、小説には登場しないがあの常楽寺の塔も造られるのだ。 
それは丁度、フィレンツェのサンタマリア・デル・フィオーレの建設時期、ブルネレスキとギルヴェルティは洗礼堂の扉のデザインで透視画法を駆使しその技量を競っていた時。 
イタリアの都市はどこもまた戦乱につぐ戦乱。 
そして、世阿弥の能が生まれ、同時にオペラが誕生した。

2013年5月11日土曜日

摠見寺の塔


今日は東京に戻らなければならない、と言っても、7時からの芸大の演奏会に間に合えばよいのだが。
京都駅からは新幹線には乗らずJR快速で近江八幡へ、そして乗り換え隣の安土で下りた。
初めての安土だが、信長に関心があったわけではない、信長が奪ったものを見たかったからだ。
旅行に出て解ったことだが、あの石部の長寿寺の三重塔はなんと信長によってこの安土に移築されていた(1576年)。
駅から安土山、捜見寺までは歩いてもそう遠くなさそうだが、タクシーに乗った。
町を抜けるとすぐに城址公園、安土城への大手道を右に見ると百々橋の袂、クルマを下りると小さな摠見寺の石碑、ここが摠見寺と安土城下を繋ぐ参道口。
見上げると今日もまた急な階段が深い山林を駆け上がっている。
段を登ると鉄線の柵に遮られた。
柵は右手の大手道からの山道に平行して設置されているようで、左手の急な石段にあわせ登っている。
目の前の錆びた鉄網部分には 汚れたベニア板の看板が吊るされていて、そこには「ここからではなく、大手道にお回り下さい」と書かれていた。
「いえ、安土城址ではなく摠見寺の塔を見たいのです。」
左手の石段に沿い見上げると鉄線柵の脇に小さな空き地が見える、どうやらそこは隣の神社に繋がっているようだ。
道路に戻り、左手の神社の境内へ、さらに人影もないので社殿脇の枝折り戸を開け入り込むと、10メートルほど先にさっき見た鉄線柵が続いていた。
しかし幸い、ここの鉄線柵の一部分は人が入れるように曲げられていて、どうやらここから三重塔への参道を登れそうだ。
急いで戻り、タクシー君には30分で戻ると言い置き、デジカメだけを手にし、再び神社の境内に駆け上がった。

10段も登ればもう深い山の中。
今日もまた一段と急な石段、その石段の所々は崩れていて人の気配は疎か、長い間、人が登ったという形跡さえ感じられない。
そして、町並みや田園ではどこも雲一つない晴天だったはずだが、この山道では轟々と風が鳴っている。
いささか心細いし、心苦しいが引き返す訳には行かない。
よしと奮起し、またまた大変な山登りに挑戦した。
風が泣こうが、鳥が鳴こうが、キツかろうが、長閑であろうが、壊されなかった塔を見たいなら、ただ黙々と登るしかないではないか。
先日の長命寺は800段あまり、とすると此処は500段ぐらいだっただろうか。
ようやっと仁王門が見えてきた、しかしまだ、門までは100段はある。
一休みし周りを見渡すが深い木々の中、相変わらず風だけが轟々と鳴っている。
仁王門もまた長寿寺のものらしい、三井寺にあった常楽寺の仁王門同様、ここも二層部分に高欄が廻る楼門の形式。
この山道には相応しくない 入母屋・本瓦葺の門の両脇にはなんと大きな金剛二力士が左右に安置されていた。(その像には応仁元年(1467年)の墨書があると説明されている。)
さて、仁王門を潜ってもまだ三重塔は遙か上の樹林の中のよう、姿も見えず、もう一頑張りの100段あまりを必死に駈け登るしかない。

樹林を抜けると嘘のように風音が消えた。
右手に塔をやり過ごし、一気に石段を登りきると、左手に琵琶湖の広がりも見える小さな広場に出た。
ここからの眺めは流石に快適だ。
手前は西の湖、そして家並みの向こうに広い湖が続いている。
そう、ここでもまた塔を振り返ることもなく、ただ強い風に体を預け、汗を拭きしばらく眺望を楽しんだ。

しかし、此処は頂上ではない。
湖と反対側、右手の山側に目を向けると、日に照らされた尾根道がさらに高みへと登っている。
そして尾根の先の頂上がどうやら安土城天守閣の跡地のようだ。
なるほど、すごいところにすごい城を造った。
いつか読んだ「火天の城」を思い出し、あの書では吹き抜けを持った円形に近い多角形の楼閣造りの困難さばかりが気になり読んでいたが、そもそもあんな城をこんな場所に造ろうとすることこそ狂っている、と思わずにはいられなかった。

そして、いま立っているところが摠見寺本堂跡。
安土城は焼かれたが、本堂もまた今は跡かたもない。
ここかしこに基礎石だけが残されている広場を見て、 「それはないよ信長君、こんな吹き晒しの狭い場所、落ち着いて経を読むところではないだろうが」。
ここもまた戦いの為の櫓か望楼こそ望ましい。
信長は高いところの建設が好みのようだ、現代のドバイの超高層好みの社長のように。
摠見寺本堂がどんな形であったかは案内書に書かれていないが、「摠見寺は嘉永7年(1854年)火災のため、本堂を含む大半の伽藍を焼失。その後、仮本堂が大手道横の 徳川家康邸跡に移され現在に至っている。」と説明されている。
どうやら、焼かれたのは天守閣とは同時期ではなかったようだが、この本堂もまた城が焼かれるように消えている。
しかし、この火災で三重塔と仁王門が残されたのは幸いだった。
焼けた本堂の下の樹林の中、三重塔も仁王門も木々に守られ類焼を免れたに違いない。

本堂跡地から観る三重塔は何とも小さい。
高さは19.7m、本瓦葺、1454年に長寿寺に建立され、1576年信長によってこの地に移築された。
仁王門の金剛二力士が1467年の隅書き、門も塔も室町中期、信長好みはどの辺りにあるのだろうか。
本堂のある場所からは見下ろすことになるこの塔は小さいがこの場所には相応しい。
軒の出も小振りで逓減も少ないが、初層の中備えに蛙股を設置するなど優雅な造りで、樹林の中にすっぽり納まる姿からなんとなく室生寺の五重塔を思い出させる。

しかし、大手道から天守に行く観光客は沢山いても、わざわざこの塔を見に来る客はいまはほとんどいない。
だからとは言いたくないがその優雅さは、すでにこの塔のここ彼処での傷みとともにあり、どうにも寂しげに感じられてならない。
まぁ、余分な感傷はここまでとして、タクシーは待たせたまま、急いで参道を駆け下りた。

追。
帰宅し「火天の城」のページを繰ってみた。
「天正10年(1582年)の元旦、安土城は人であふれかえっていた。ようやく城のすべてができあがったので、信長は一族連枝衆、大名、旗本ばかりでなく、侍以外の人間にも城内の見物を許したのである。正月の賀に浮かれた人々が諸国から押し寄せ、列をなして城内に吸い込まれた。人の波は、西南の百々橋から摠見寺へと急な石段を登った。仁王門をくぐり、三重塔を眺めれば、そこは城というより、寺院そのものだ」(火天の城・山本兼一、文春文庫p377)
この日の参道とは全く異なる印象だ。
当然ながら天正10年の人並みは平成25年ではほど遠いが、あの山道の急峻さは天正も今も変わらない。 

西明寺、金剛輪寺、三井寺


西明寺の塔
長命寺で苦戦した昨日は結局、京都には戻らず宿にバッグだけ残してキャンセル、近江八幡から彦根に向かった。 そして、朝一番、河瀬に戻り、タクシーで西明寺に到着。 参道は山の下の平地からだが、迂回路ではそこからの石段は登り切りタクシーを降りればもう二天門の上、塔と本堂のある山中の境内だ。 なんとも贅沢な寺参り、早朝の鈴鹿の山裾というが西明寺は嘘のように近かかった。 しかし、境内に入り気になったのはコンプレッサーを使っての機械掃除、その騒がしさと激しい土埃、昨日とは打って変わってのすべての印象、深山の古刹を訪れたという趣はどこにもない。 新緑や秋の紅葉の人気が高い山の中の寺院はどこも同じだろう、かってのような庭箒を持って境内を掃き清めるという姿はなくなったのかもしれない。 枝折り戸のような板戸を開けると 木々で囲まれた小さな平地、 左手山側には大きな本堂、 目の前は三重塔、 右手は二天門でその外は急な石段が駆け下りているようだ。
西明寺もまた天台宗、延暦寺に関わる寺。 834年仁明天皇の勅願により創建されたが平安時代から天台密教の修験道場として栄えたとある。 その全盛期には300を数える僧坊を持ち、山上から平地まで17もの堂塔を持った一大寺院であったようだ。 しかし、1571年信長に抵抗したため、丹羽長秀によって悉くを焼かれた。 兵火を免れたのは今目の前にしている本堂と三重塔と二天門のみ。 幸い、家光から朱印状を与えられたことから復興が進められ、今日の秋春多くの参拝客を集める寺院として今日に残された。 二天門は墨書きにより1407年とされているが、本堂・三重塔はその建設年は明確ではない。 案内書には本堂は長寿寺と同じ鎌倉前期、三重塔は奈良の百済寺と同じ鎌倉後期とある。 確かに、かって訪れた百済寺の三重塔は本瓦葺、ここ西明寺の三重塔は檜皮葺、その違いはあるが大きさも同じぐらいとてもよく似ている。 室町と言われるが宝厳寺(八坂の塔)もまた同じ、相輪が高く、塔身が細く、逓減にリズムがありバランスもよい。 鎌倉時代の塔は室町に比べ軒の出が広いわりに塔身が狭いのだが、この塔は小さな平地に見合うよう二重、三重の高さも抑えられていて、檜皮の屋根が大きく羽を広げているように感じられる。
ひとしきり塔を眺めた後、本堂に目を移すと、塔とは不釣り合いなほど大きな建築であることに気がつく。 長寿寺と同時代ということだが、西明寺は梁間七間、桁行き七間。 小さな敷地に小振りな塔、しかし、本堂は大きい、なるほど平安以来修行の道場としては栄えに栄えたのだろう。 入母屋檜皮葺、向拝をもつこの本堂はむしろ、その印象は常楽寺に近いが、同時代の五間で寄せ棟の長寿寺と同様、この本堂は泰然とした和様式(古来からの神社に似ている)の建築であることには変わらない。 堂内に入るとご本尊の薬師如来ということだがそれは秘仏。 外陣そして内陣、長寿寺では叶わなかった天台密教特有の正方形平面の中の二つの世界を体験する。 しかし、驚いたのは空間体験よりあまりにもたくさんの仏像群。 薄暗い七間四方の堂内だが、そこはまるで博物館の趣、説明を読めば 国宝ばかりだ。 人もいない堂内に、踏み込むごとに明かりが自動的に着き、菩薩や神将如来の数々を次々に照らしていく。 そして、その数の多さに驚き、何故、という疑問が浮かぶと、幸い住職のような方が近寄ってきてくれた。 聞いてみると、理由は明解。 この沢山の国宝、それはみな、もともと信長に焼かれた西明寺の子院や寺域の堂の仏様たちだといことだ。 焼き討ちの際、300もの僧坊に住まう僧たちが仏や宝珠を隠し、自らが寺を焼き、もうすでに全域に火が回ったと偽り、この沢山の国宝と山上の本堂、三重塔を守ったのだ。 そんな、話のあと彼は、三重塔の初層の中も今日は見学可能、素晴らしい極彩色の世界を是非見ていくようにと誘ってくれた。
入って見るとなるほどびっくり。 観光客では塔の中に入れることは滅多にない。 今回、醍醐寺は叶わなかったし、一昨年の奈良高取の壷坂寺以来の体験だ。 もともと塔は仏舎利を祀るお墓。(卒塔婆あるいはストゥーパ)。 塔そのものが参拝の対象であって、塔の中に仏像を据え、そこを荘厳の場に変えたのは後世の姿と言われる。 扉があり連子窓も付き、高欄も設置され、塔は当然、塔内の階段を登り、遠くを眺めるものと思われるが、日本の塔は眺められる対象であって、眺めるための高楼ではない。 しかし、中国や韓国では塔内の各層にも、仏像や教典が収められていたし、望楼の役割も果たしていた。 どうやら、木造の塔に拘った日本だけが特殊であったようだ。 ちょっと調べてみると、日本の塔の起源はどこまでもストゥーパ(墓)。 心柱に支えられた相輪がその姿であって、層の重なりは墓の為の基壇にほかならない。 墓であるかぎり、石組みや甎で固められた基壇の上に相輪が立つ中国や韓国の塔が本来の姿だが、木造が得意の日本では、石の基壇は一段だけで、その上に木造が五段、三段とのるというユニークな建築となっている。 つまり、五重や三重は基壇であって空間ではないのだ。 だからこそ拝むものであって、登り入り込むものではない。 さらにまた塔は現在の超高層とは異なり、基壇である木造の層による構成。 木造塔では長い四本柱は不可能かつ不必要であって、運動会の組体操や積み木のように、初重の天井上に二層の土台を水平に載せ、その上にまた柱を立て二重、そして三重と段々に重ねていくとい方法がとられている。 塔の中央に立つ長い心柱は基段の中にあって地下の舎利と相輪を繋ぐもの、塔の重量を支えるものではない。 だからこそ、構造的には地震時の倒壊を防ぐ振り子として機能するものとみなされた。 心柱は相輪を支える心棒であり振り子、であるなら地上から立ち上がる必要もやがてなくなり、初重の天井に立てられたり、上層から吊り下げられのは当然で、平安時代にはすでに 始まっていた。 初重に心柱が無くなれば、塔内中央に仏像を祀り荘厳するのは当然だろう。 窓もない塔内だが入り口に踏み込みの為の広縁が回れば、そこはもう立派な礼拝堂。 一人静かにこの世とは異なる別世界を体験する格好な空間に変容する。 説明をお聞きすると塔内は法華経曼荼羅の世界ということだ。 中央には大日如来座像、四天柱には脇侍となる三十二尊像(1本の柱に八体の像)。 天蓋をなす折り上げ天井は極楽世界を象徴する極彩色の菊模様。 三間四方を組む十二本の構造柱には竜が絡まり、その間の壁は東西の扉を除き法華経の教典が絵として描かれている。 醍醐寺も同じだが塔の初重を荘厳する極彩色の世界は密教では特別な意味があるという。 曼荼羅のなかに放たれる色彩は目で見るだけでなく、芳香をかぎ音楽を聴くことで心身清浄となると考えられている。 寺を早朝に訪れるということはとても良いことかもしれない。 他に参拝者もいないことが幸いし、事前に申し込むこともなく、堂内を自由に明解な説明でゆっくり拝観させていただいた。
金剛輪寺の塔
一人旅ではいつも、タクシーを使うことを極力避けているので、西明寺からは歩きと決めていた。 見学後、二天門をくぐるとさすがに山寺、その石段は昨日ほどではないが結構きつい、とは言え今は下りのみ、気軽にタクシーで乗り付けてしまい何となく申し訳なかったという想いがよぎる。 一人歩くこの参道は平安以来の多くの僧たちが毎日毎日、上り下りした日常の路。 木々に囲まれ、鳥の声を聴き、風を感じると、大いなる歴史の中に佇んだ気分、とても気持ちが良い。 空には雲一つなく、鳥を真似て口笛ふき、のんびりと山をおりた。 やがて山門というところだが、まだ参道、しかし、なんと無粋なこと。 目の前はコンクリートの固まり、 異次元を感じさせる名神高速道の柱脚が塔のようにそそり立っている。 中世の歴史を壊したのは、決して信長ではない、現代の我々だ。 歴史には目もくれず、実際の景観を見ることも無く、白地図の上に直線を引くだけの都市計画家。 彼らの行為は造っているのだろうか、壊しているのだろうか、なんとも悔しいし、恥ずかしい。 国道に出ると右手に大きな駐車場を抱えた観光バスの休憩所、そば道場という看板。 駐車場には大型バスと数台の乗用車、店内はまだ午前中だが結構な人。 狂騒を避け、隅にある大きなテーブルの端に座を占め、天ぷらそばをすすった。
金剛輪寺まではそう遠くない、日本中どこでもある国道だが、そんなにクルマが多いわけではない。 春いっぱい、のどかな田園の風景だ。 高速道路と平行する国道を10分も歩くと浄心寺という看板。 国道と名神高速ともここで別れ、柱脚をくぐれば人さまが住まう小さな集落。 クルマだけの国道を歩き、ちょっと後悔もした。 ここは現代都市だ一人とはいえ歩くなんてとんでもない、そば道場でタクシーを呼ぶべきだったのだと。 しかし、人里にはいるとてきめんに気分が変わる、あぁ、良かったと。 うれしくもあり、旅気分も絶好調、人もなく車もない田園の山道を飽きることなく歩き続けた。 そば道場からは30,40分も歩いたのだろうか、一本道だから迷うことはないが、やがて、地図通り県道に下り金剛輪寺(松尾寺)惣門についた。 門をくぐり石段を登ると左手に愛荘町立歴史文化博物館。 寺をイメージした建物ということのようだが、よくわからないデザインだ。 急ぐことももないので休憩がてら博物館を見学した。 博物館を出て緩やかな参道を登ると左手に本坊明寿院の門、中にはいると例によって石の多い庭園だ。 桃山から江戸にかけての庭園だそうだが、明寿院を取り囲む形で細々と作られている。 庭園の東側、一段高くなったところに護摩堂と水雲閣が建つ、江戸時代の建築で檜皮で葺かれた宝形の屋根を持つ建築。 此処には平安時代の大黒様、それは今風の大黒とは異なり、打ち出の小槌ではなく宝棒、袋ではなく鎧を着た憤怒相の怖い大黒様が控えていた。
さらにだらだらと参道を行く。 左右はかって100を越す僧坊があったところ、その石垣が本来の寺の趣を感じさせ、またまた中世に入り込んだ気分。 すでに書いたことだが、西明寺の二天門下の寺域もまた同じ、やはり、寺参りはタクシーではなく、テクシーがピッタリ。 僧坊が建ち多くの僧たちが生活した賑わいを木々にまとう鳥たちの鳴き声に見立て楽しんでみた。 ここを抜ければ目的の金剛輪寺の塔も、もうわずか、山寺らしい急な石段をのぼり切ると二天門に立つ。 室町後期造営、左右に増長天と持国天が安置されている入母屋檜皮葺の立派な門だ。 さらに、金剛輪寺と書かれた堂々たる提灯と大きな草鞋、そして門の中には本堂らしきものが目の前に建つ。 その全体の風格と優美さは小癪な桃山ではとても足元にも及ばない。 視覚的には、木組みもまた一段としっかりし、室町独自の優雅さと重々しさが感じられる。 案内書には勅願は奈良時代の聖武天皇、湖東と呼ばれるこの地域全体に勢力を持っていた依智秦氏の創建とある。 つまり別名松尾寺、金剛輪寺はこの地の主のような寺域で、その後は近江源氏佐々木氏の厚い崇敬から沢山の僧坊を持ったようだ。 そういえば、よく見なかったがさっきの博物館、やたらに 依智秦氏の文字が踊っていた。 この周辺、平地は広く水も豊か、その主たちに多くの実りをもたらし続けたのだろう。
金剛輪寺もまた西明寺と同じく延暦寺に関わる天台密教の修業の地、近江の天台宗の寺はどこもだが、応仁の乱や信長の侵攻で大半の僧坊を失い、寺僧の計らいで二天門と塔と本堂を守っている。 おかげで、昭和や平成では決して生み出せない、あるいは守ることすら出来ない室町時代の風格と勢力を今に残してくれているのだ。 二天門をくぐるともう目の前は桁行き七間という大きな本堂、ここもまた小さな敷地に大きな本堂だ。 三重塔もまたかなり大きい。 本堂も室町前期の建立とあるが、金剛輪寺の塔はすでに立ち寄った常楽寺、長寿寺、長命寺、西明寺をも凌駕し、そそり立っている。 この塔は長らく荒廃し、無惨な姿であったとある、しかし、1978年に解体・復元が完了した。 その際、残されていたのは初重のみであったので、その他の部分の復元は近隣諸塔を参考にし、かつ本堂の規模に合わせ再建された。 西明寺でも感じたが、今回の近江の塔巡りは全く時期を得た旅と言って良い。 どこの寺々も周到に整備修復され、屋根を葺き替えも完了、古い建築物ではあるがみな健全に保守されている。 そして、その工事直後にボクは出向いたようだ。 そんな思いを持ちながら、出かける前に読んだ「五重の塔のはなし」という本を思い出した。 そこには驚くことに、平成は前代未聞の五重塔建設のブームであると書かれていた。 著者自身も、なぜ建設ブームかは解らないようだが、平成に入り全国に32基もの木造の五重塔が新設されたと書かれていた。 近江の塔のありがたい保全も、理由はともかく、その流れの一貫だろうか。 いづれにしろ、価値あるものが保存され、多くの人々の賞賛されつつ、時代を超えてゆこうとするのは素晴らしいことだ。
金剛輪寺の三重塔を再建するにあたって近隣の諸塔を調査し、それを参考とし建設したと案内書にあったので、東京に帰り、早速、建築学会に出かけた。 すぐに「 昭和58年刊金剛輪寺三重塔修理工事報告書」なるものが見つかった。 そこには近江の諸塔だけでなく、寺々の本堂もまた調査し、その採寸データも克明に記録されていた。 そして、もっとも貴重なコメント「 鎌倉時代は五間堂が標準、南北朝に入り七間堂へ移行する際、西明寺は旧堂を利用、金剛輪寺は新しく建て替えた。境内の広さからすると五間堂が好ましい」を読み、なるほどと思う同時にびっくりした。 西明寺で特に感じたことだが、金剛輪寺もまた、小さな敷地に小さな三重の塔と大きな本堂。 この不釣り合いの理由が、この書の濱田正士氏の報告で明確過ぎるほど明確だ。 近江の寺の大半はみな比叡山延暦寺に関わる天台密教の修行の場ということは何回も触れたが、その寺々はどこもみな大変な数の僧坊を持ち沢山の修行僧を抱えていた。 その僧坊の跡を歩いてみて気がつくことだが、その勢力の増長により五間堂の本堂はどこの寺も七間堂に増築せざるを得なかっことがよく解る。 だからこそ、信長はその一大勢力を削ぐべく、近江の寺を徹底的に焼き尽くさざるを得なかったのだろう。 しかし、さらに500年を経過した今、本堂と塔のみ残された近江の寺々を見学し、歴史は決して言葉でのみ残されるのではなく、建築の姿によっても語りうるということを改めて知った。 そして大事なことは、その規模、プロポーションのチグハグさは間違ってもデザインの不備にあったのではなく、歴史の言葉だったということだ。 今も昔も、秩序のない、不釣り合いな建築を最初からデザインすることなどあるはずは無い。 もっとも、デザイン力の無い人がデザインすれば、あるいは、敷地も見ずに白紙の画面に絵を書き始めるなら話は別だが。 そうなると、デザインは歴史の言葉どころか、喜劇いや悲劇だが。 どちらにしろ、建築は人に理解され無かろうが、気づか無かろうが、いつも何らかな言葉を語っている。 そして、ボクの塔を巡る旅いつも、その塔が語る言葉を聞き、鳥や風とともにある塔の音楽を聴く旅であると思っている。
三井寺の塔
前回の大津の園城寺はたしか建築仲間との光浄院・勧学院の客殿見学だった。 ともに園城寺の子院、17世紀はじめに再建された、典型的な桃山時代の書院造りの建築だ。 客殿の南に広がる伸びやかな庭園、敷き詰められた畳座敷の広がり、狩野派の障壁画、そして贅を尽くした床・棚・付書院の連続に目を奪われたのを覚えている。 しかし、今日は塔の見学。 三条京阪から浜大津で乗り換え石坂線で三井寺駅へ。 朝早く京の街を散歩してからだが、電車に乗ってからは30分ぐらいだろうか。 小さな駅を降り、琵琶湖疎水沿いを歩いた。 明治時代の京都の近代文明の証もいまはもう忘れられた小さな流れ。 趣もない家々に囲まれてはいるが、その一徹な護岸に導かれる澄んだ水の流れはどこか毅然としている。
橋を二つばかりやり過ごすと疎水の右手の山が園城寺の寺域、三井寺だ。 門を入ると案内人に呼び止められ、小さな紙の案内図に赤の色鉛筆で見学ルートを示された。 そう、逆コースからの入山者、広い境内をつつがなく回るにはこの色鉛筆説明は有効だった。 まずは見学者のいない参道を観音堂へ、大きな立木に覆われた緩い登りの道。 広い階段を登ると観音堂、振り返ると大きな立木越しに広い琵琶湖とその沿岸の大津の町が広がっている。 一頻り琵琶湖にへばりつく大津の町を眺めると参道に戻り、 お目当ての塔を目指した。 毘沙門堂から勧学院脇の階段を登り唐院の境内に立つと目の前は三重塔。
園城寺は天台寺門宗の総本山。 三井寺という別称は天智・天武・持統天皇の産湯に用いられたとされる泉があり「御井の寺」と呼ばれたことにあるようだ。 壬申の乱(672年)に破れた大友皇子の子が父の霊をともらい寺を創建、天武天皇から「園城」とい勅額を贈られたことがはじまる。 衰退していた大友氏の氏寺を再興したのは延暦寺の円珍、彼は859年、園城寺初代長吏となりこの寺を天台別院とした。 しかし、その後延暦寺は円任派と円珍派の対立が始まる。 やがて円珍派は993年叡山をおりて園城寺に入ることになる。 その後も二派の対立は終わることなく、延暦寺は山門派、園城寺は寺門派とよばれ抗争を継続する。 対立の中、園城寺は延暦寺山門派の焼き討ちに会う、さらに源平の争乱にも巻き込まれ衰退する。 しかし、園城寺は多くの高僧を輩出し、力は東大寺・興福寺・延暦寺に劣らず日本四箇大寺の一つと目され続けた。 建築的な意味では園城寺に大打撃を与えたのは秀吉だ。 理由不明だが秀吉は1595年けっしょ令なる意味不明の命令書でこの寺の堂宇は強制的に取り払った。 その時の園城寺金堂は、今に残り延暦寺西塔の釈迦堂となっている。 そして現在の金堂はなんと1599年北政所の建立、桃山時代の名建築として今日に残されている。 信長や秀吉が壊すと家康が再建、これは近江の寺のパターンかもしれないが、前回見学した二つの客殿ともども、現在の諸堂は秀吉のけっしょ令の後、北の政所、秀頼、家康によって再建または移築されたものといえるようだ。
そんなテーマパークのようなこの寺にとって特に面白いのは三重塔と仁王門だろう。 三重塔はもともと大和吉野の比蘇寺もので1392年の建立、その塔をなんと秀吉によって伏見城に移築された。 そして後、伏見城の塔は家康によってこの園城寺に1601年に移築されたのだ。 塔にとってはなんとも迷惑千万、秀吉君忘れ物だよとばかりに、家康はここ園城寺のもっとも重要な境内、円珍の霊廟である唐院の北に伏見城に運ばれた比蘇寺の三重塔を再建した。 家康君のおかげで、近江の塔を巡っているボクにとって、今回は吉野のまで足を延ばすことなく、もう一つの室町の塔を見学することができたということになる。 今ある園城寺のこの塔は広々とした唐院境内にある。 狭い山寺の境内に建つ塔ばかり見てきたのでなんとも大らかだ。 本瓦葺で高さ24.7mの塔は今回の一連の三重塔の中では最高の高さを持つ。 しかし、さすが広い境内に置かれた塔をみていると決して大きくは感じない。 印象としては常楽寺の塔と全く変わらない。
本瓦葺きであり、高さも同程度、時代的にもほとんど同じ、わずかに違うところはと考えると、ボクにはやはり常楽寺の塔の方が一枚上かなと思えてくる。 違いはどこにあるか、大きく異なるのは中備えとしての間斗束の扱いにある。 常楽寺は二層は三間すべてに、三層にもは中央には間斗束がある。 しかし、二層は同じだが園城寺の三層には間斗束がない。 多分、塔身幅の逓減がきつく、三層には中央とはいえ束を置く余裕はなかったのだろう。 本瓦葺きでも軒を深く見せ塔身を狭くするのは全体の姿として重要だが、細部デザインである斗供の大きさまでかっての比蘇寺では、その比率に従い小さくする事はできなかったのではなかろうか。 すでに触れたが、常楽寺は枝割の完成期、それは垂木の位置の問題だけではない、部材の大きさにも関わることであるはず。 あてずっぽうの推測だが、三層部分の斗供の部材寸法を常楽寺のように調整できなければ、比蘇寺においてはその塔身幅から間斗束を置くことは難しい。
歴史上の武将たちに楯突くつもりは毛頭ないのだが、もう一つ面白いのが、園城寺の表門である仁王門の移築。 この門は立派だ、今の園城寺いや三井寺にこそ相応しい。 しかし、この門はかって常楽寺にあった仁王門、1452年に建立された門だが、秀吉亡き後園城寺の再建を図る家康が1601年にここに移築している。 すでに書いたが常楽寺は甲良郡石部にあるいまや慎ましい、しかし、観光地ではないがすばらしい寺だ。 だからこそ、今回の近江の塔巡りでは最初に訪ねようとマークしていたのだが、この二層の二天門、その大らかさとバランスの良さ、あの塔を持つ常楽寺こそ相応しいと改めて感じた。 ボクの好む日本建築の大らかさは、斑鳩以降は鎌倉末期から室町初期がもっとも表現しえていると思っている。 古代とは異なり、自由に大材を使う事は出来なくなった反面、道具の進化で様々な工夫が可能になった。 その証拠となるものが枝割の工夫とバランスの完成。 それへの切磋琢磨が同時代の建築家たち、匠たちの生き様だ。 と、同時にボクにとってもう一つ、この園城寺の塔と門を見て気が付いたことがある。 それは信長、秀吉、家康がどんな関心を建築に対し持っていたかを考えてみること。 どうせ当てずっぽうだ、考えてみるだけでも面白い。 次回は思いつきだけでもまとめてみたい。

2013年5月10日金曜日

常楽寺、長寿寺、長命寺


常楽寺の塔
京都から連絡よく草津で乗り換えれば40分足らずで石部。 駅前からタクシーで10分(コミュニティバスは1時間に1本)も走れば常楽寺に着く。 観光コースにない塔のある街は人も車もなく、桜と新緑だけ。 携帯電話で連絡すると、住職が降りてきて門を開けてくれた。
管理人でもある彼はたった一人で塔を守っている。おかげで余分な草木は伐採され、遊歩道も整備されているので山中だが存分に散策見学が楽しめた。 常楽寺も歴史は古い、東大寺を建立した良弁が菩薩として祀られていて、和銅年間(708年から715年)に創建されたようだ。 しかし、1360年に落雷で堂塔を失う。幸い、天台宗延暦寺にも関わるこの寺はすぐにも本堂は再建され(勧進状)、1400年(瓦銘)には本瓦葺の三重塔も再建された。 この塔は見逃せない、今回、最初に訪れようと決めていたのはこの寺だ。
その理由は枝割にある。 枝割とはルネサンス建築にある、比例によるデザイン手法と考えて良い。 日本建築でも同様で、建築の細部を設計する際、全体と関連を明確にし、バランスをとり部材の大きさや間隔を決めている。 いつの場合でも建築のプロポーションは柱間と呼ぶ柱と柱の間隔、その本数による全体の大きさ、そして建築の高さ、柱の太さ等で建築の美しさは決まる。 それは音楽と同様、建築はまさに数学の子どもだからだ。 木造の堂塔の建築となれば、美しく見せるためには、斗キョウの幅や垂木の成に本数や間隔という、細部まで入念にバランスをとるのは当然だ。 しかし、その手法化の読みとりとなると容易ではない。 枝割法は簡単に言えば、垂木間の距離と垂木幅と成の関係を同一比で連続させるものと言って良い。 上層に行けば柱間も本数も変わるが、枝割だけは完全に守られる。
1400年の常楽寺の三重塔はこの枝割が完全に整った最古の例と考えられている。 今回、事前に連絡もせず訪れたにも関わらず、携帯電話だけで開門していただき、さらに、高低の変化の激しい境内を十分に管理され、存分に塔の細部を見学できるよう図られた、和尚さんにはただただ感謝感謝だった。 なるほど、決して大きくはないが堂々とした美しい塔だ。 それを的確に写し撮るにはもう一つ能力が必要だが、新緑の中、下から上から、真正面から、近づき、遠のき振りかえる。 マークしていた帰りのバス時刻を大幅にやり過ごし、ひとり、歩き続けた。
長寿寺
石部の常楽寺の東、田園の間道1キロ余り歩くと長寿寺に着く。 間道から山側へ右へ入ると程なく山門。 山門の両側はモミジの新緑、木の間越しの右手は学校のグランドのようだ。 新緑の中の一直線の参道を進むと、決して大きくないが泰然とした本堂が見えてくる。 この寺にも三重塔はあったはずだが、いまはない。
残されているの本堂と入り口の山門だけ。 どうやら塔を奪ったのは戦争でも雷でもなく信長のようだ。 比叡山延暦寺を焼いた織田信長、近江には延暦寺に関わる寺が多いだけに、その堂塔は悉く彼に焼かれている。 しかし、どう言うわけか、この寺の三重塔だけは安土城の築城にあわせ、その城内に移築されたとある。 本堂の左側の1mほどの高台には小さな神社の社が建つが、その更に左奥が長寿寺の塔の跡地のようだ。 礎石は残されたと案内書には書かれているが、目に見えたのは、およそ10m四方の水たまりだけのうら寂しい情景。
鎌倉初期の建造と言われる本堂は寄棟檜皮葺の屋根を正面に向け、単純だが古色蒼然とした風格ある建築だった。 深い向拝の奥の左右の連子窓がとても端正にリズムを刻み、完成された和様式の美しさを放っている。 持参した案内書にはこんな解説が書かれている。 「方五間の穏やかな外観は中世の古刹の威風。外陣と内陣の天井がそれぞれ独立し、古代密教系仏堂が持つ礼堂と正堂の仏堂構成。それは二つの建築の併置だが、ここでは計画的に一つの空間を、単に区切ることではなく、天井や床の構成によって互いに異質な独立した世界を作り上げている。つまり、一つの建築の中を立体的な結界により二つの世界に分離し、その二つの世界を一つの建築として連結している。」 先の常楽寺同様この寺も事前に連絡して訪れた訳ではない。 当然、本堂の入り口の桟唐戸は固く閉じられている。 携帯電話で呼び出してみたが、どこからも、どなたさまも現れる気配はない。 四周をめぐり、5間四方の正方形平面の外周を巡り、その内部の二つの世界は想像の目のみの確認で立ち去ることとなった。
長命寺の塔
ヴォーリーズの建築見学で近江八幡は何回か訪れたが、琵琶湖際に建つこの寺を見学するのは初めてだ。 近江の塔を見て回る、というのが今回の目論見だが、この寺を何時にするか決めかねていた。 石部の常楽寺・長寿寺が思いの外、効率よく見学できたので同じ日の午後、草津から近江八幡まで足を延ばすことにした。 天気も良いし、バス待ちの時間での遅めの腹ごしらえも無事完了。 長命寺港行きのバスはたった一人の乗客を乗せ快調に出発した。 終点は小さなバスターミナル、目の前は雲一つない静かな湖辺。 さて参道は、と探し回ると売店のおじさんが教えてくれた。 「この階段の上だよ!」
えっ、この階段! いや、見上げても、見上げても石段ばかり。 石段と言うより、自然石の山道だ、歩きにくいし、歩幅もきつそう。 左脇にある神社前の車道を横睨みしつつ、言われるまま、山道の石段を登り始めた。 いやぁ、きついの何の、5分も登れば汗びっしょり。 樹林の中、日差しはないが風もない、ひとしきり登れば息が切れ、膝ががくがく。 そして、思わず立ち止まり、上方に目を向ける。 荒れた自然石の石段はまだまだ彼方上方へ、見下ろせば、登ってきたはずの山道は、はるか下方へと続いている。 そう、5回いや10回ほど足が止まっただろうか、息切れも当然だが、足元のふらつきが恐ろしい。 こんなはずではない、そんなにひ弱なはずはない、と言い聞かせながら必死に登る。 30分か1時間か、時間間隔は定かではない。 半日がかりの地獄のような気がしたが、もうだめと思った頃、樹林の中、山門らしきものが見えてきた。 山門をくぐってもまだ堂宇は見えてこない、そしてまたまた延々と感じる自然石の山道が続く。 登り切ると正面は舞台の上の本堂らしき建築。 そして、右手に三重塔、やっとの思いの到着だ。 眺める力もなく、左手の最後の数段を上り、ただただ目の前の石のベンチに腰を下ろした。 呆然と前方を眺めると木の間から白い湖。 風らしきものも感じるがたどり着いた伽藍配置や本堂、塔には目もくれずペットボトルにかじりついた。 ふっと思い出した、駅前のほんのひとときのバス待ちの時。 あの時は、こんな突然の山登りの意識も気配もなく、何気なく自動販売機にコインを落とし、小さなボトルをバックに入れていた。 いまや、このボトルこそ命づな、長命寺なんて名ばかりで、この山のどこにそんな、命を長らえる仕掛けを持っているというのか。 命綱を一気に飲み干し、ようやっと、白い湖から目を離し、左脇の堂宇を眺める。
近江の寺は天台宗が多い。 みな、叡山の延暦寺に関わるそうだ。 しかし、いわれは様々で、この寺は武内宿禰がこの地のヤナギの巨木に寿命長遠の願いを彫ったことに始まる。 これを知った聖徳太子がその木をで仏像を彫り、それを安置し長命寺を創建したという。 なるほど、やはりここは長命を願うところ、確かに、山門を潜るまで何回も殺されたような気がする。 願うも願わざるも、ここにいて湖を眺めていられるのは長命だからこその結果ではないか。 冗談はさておき、ひとごこちして周辺の堂宇を見学する。 目的は塔だ、三重、三間、柿葺きの小さな塔が左手の目の前にある。 漆ではないだろうが、くすんだ赤に塗られたずんぐりむっくりした室町の塔、擬宝珠の銘からは1597年 、秀吉の時代の建設。 そうか、なるほど、信長に従い秀吉も近江の寺はたくさん焼いただろうが、天下一になり、今度は長命を願いこの塔を再建したということか。 そんなことはどこにも書いていない、まぁ、ゲスの勘ぐりだが、塔はその後のメンテナンスも行き届いていて、傷みはどこにもみあたらない。 石段の上に建つから初重には広縁がない古代の造りかと思ったが、そんなことはない、奈良・平安とはことなり後世の塔、基段に載る形式ではなく品のいい高欄付きの広縁に腹石が隠されていた。 見上げると垂木等の部材は小さめだが、枝割のバランスも過不足ない。 全体は厳めしさもなく柔らかで、しかも泰然としている。 長命を願う塔には相応しい、清々しい美しさが感じられた。
蛇足だが、書き足しておこう。 茶店のおやじに言われまま、必死の思いで部活の体力作りのような階段を登ってきたが、なんのことはない、観光バスやタクシーなら、山門脇まで登れるようだ。 そこには大きくはないが立派な駐車場がある。 登り口にあった神社脇の車道はやっぱり、観光客用の参道、大型バスのための道路だった。 そうだろう、秋の紅葉を愛でる人々、そして長寿を願う現代の老若男女、この迂回路が無ければそう簡単には御利益に到達できない。