2013年12月24日火曜日

正弦曲線 堀江敏幸

「いまだ出会わぬ出会い、まだ見ぬ出会い、この構図はまさに本との出会いそのものではないだろうか」と書かれた堀江敏幸の「恋の領域」。何年も前に出版され、一度も読むことなく自宅の書棚に置かれ、そのまま忘れさられていた「正弦曲線」がたまたま文庫になり、昨日、駅前の書店で再度購入し、気が付かず読み始めた。そして、「まだ見ぬ出会い」に出会ったようだ。彼の本は本当に素晴らしい。 「正弦曲線」も例によって小説ではない、エッセーだろうか、いや「散文」だ。 しかし、どの掌編も深い、優しい、美しい、静かだ。 堀江敏幸に恋をしているわけではない、「本」に恋をしているのだ。 Google Keepから共有

2013年12月11日水曜日

レオ・ヌッチの「シモン・ボッカネグラ」

今日のyoutubeからのおすすめはシモン・ボッカネグラだった、 大好きな曲だ。
この演目ではいつもはフェイエスコ役を歌う Leo Nucci が今日のシモン、 例によって安定した格調高いバリトンだ。 フェイエスコ役はまだ若いが堂々としたバス歌声Roberto Scandiuzzi 、 この柔らかいバスは貴重だ。
若いアメーリア役のTamar Iveriも初めて聴く。 名前からはイタリア人ではないのだろうか、 しかし、もうたくさんのファンがついていそうだ。
アドルノ役の Francesco Meli はボクも既に知る名テナー、 今日のパルマは2010年、いまや大劇場で引っ張りだこだろう。
このオペラではシモンがラストにマリアと呼び掛ける、 その声はいつも悲痛、ついぐぐぐと来てしまう。

今日の関心は舞台美術にあった。 最近よく見るイタリア・オペラの舞台背景はアルド・ロッシの建築を強くイメージさせるものが多い。
最近のやや抽象化して舞台背景を構成する舞台美術では、 ロッシの描く都市イメージがイタリア人にはピッタリなのかもしれない。
ロッシの建築はイタリア人にとっては、 予想以上にポピュラリティが高いと言えるようだ。 その都市イメージは観光客の多い大都市のローマ、ミラノ、フィレンツェとは異なる、 イタリア特有の歴史的中小都市のイメージ。
テアトロ・レッジョは小都市パルマのオペラ劇場、 都市もオペラも今日のシモンにピッタリだ。

シモン・ボッカネグラの本来の舞台は中世末期のジェノヴァ。 ロッシ風都市の立体書き割りの隙間に投影される電飾絵画、 シンプルだが僅かに猥雑な都市イメージが重なり、納得のできる舞台美術。 このクリップは音楽も舞台も素晴らしい、お勧めだ。 Google Keepから共有

2013年12月7日土曜日

ネトレプコとガランチャの「アンナ・ボレーナ」

最新版全曲オペラのyoutubeアップが最近とても多くなったようだ、おかげで週末は忙しい。arteが2011年4月に収録した「アンナ・ボレーナ」が今朝の「あなたへのおすすめ」で紹介されていたので、早速、聴いてみる。
ウィーンのシュタット・オパーの公演、なんとこの劇場での、このオペラは初演だそうだ。まさか音楽はイタリア・ベルカント、物語はイギリスだから、ということではないだろう。

イギリス・ヘンリー八世の王妃アンナはアンナ・ネトレプコ、次なる王妃ジョヴァンナはエリーナ・ガランチャ、ロシア生まれのソプラノとラトビア生まれのメゾ・ソプラノの共演、待ってましたの公演だ。
指揮はアバドの教え子、スカラ座でファゴットを吹いていたエヴェリーノ・ピド。まさにイタリア・オペラのウィーン占領。

物語はよく知られたヘンリー八世の愛人たち、ブーリン家の姉妹や宮廷女官の話だが、映画とは随分異なっている。
毅然たるブーリン家の妹アンは結婚に際し、国王をカトリックから離反させ(イギリス国教会の始まり)るばかりか、後のエリザベス女王の母となるところが歴史であり映画の見どころ、しかし、ドラマが複雑すぎるとオペラにはなりにくい。
ドニゼッティは王妃アン(ネトレプコ)の斬首までの過程にポイントを置きオペラにしている。女官である継なる王妃ジョヴァンナ(ガランチャ)、初恋の人パーシー卿(フランシスコ・メーリ)との哀切に富む精神的絡まり、理不尽さ諦めが重唱・合唱をバックにきめ細かに表現される。
やはり、これがオペラだ。オペラはトラジェリーだから悲しいのではない、毅然たる人間を音楽にしようとすると、どうしても悲劇になってしまうのだ。 Google Keepから共有

2013年12月3日火曜日

ビッグ・ブラザーとリトル・ピープル

「ジョージ・オーウェルはその小説の中で、未来を全体主義に支配された暗い社会として描いた。人々はビッグ・ブラザーという独裁者によって厳しく管理されている。情報は制限され、歴史は休むことなく書き換えられる。主人公は役所に勤めて、たしか言葉を書き換える部署で仕事をしているんだ。新しい歴史が作られると、古い歴史はすべて廃棄される。それにあわせて言葉も作り替えられ、今ある言葉も意味が変更されていく。歴史はあまりにも頻繁に書き換えられているために、そのうちに何が真実だか誰にもわからなくなってしまう。誰が敵で誰が味方なのかもわからなくなってくる。そんな話しだよ。」(1Q84 BOOK1 p459:村上春樹) 眠れない夜、天吾がふかえりに語るシーンだ。昨今の「都市と建築」のことを考えていて、突然「平家物語」と「ギリヤーク人」に挟まれた、このフレーズを思い出した。インチキな民主主義、歴史は廃棄され、都市も言葉も作り替えられる時代だ。村上春樹は好きな作家だが、やはりこのベストセラーは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」に継ぐ傑作だ。 Google Keepから共有

明暗 夏目漱石

金の貸し借りと三角関係は漱石の定番だが、「明暗」の登場人物はかなり多彩で物語は複雑。 数多いだけではなく、描かれる人物の各々、その内面・外面、心理と行動、すべてがきめ細かく、なんとまぁリアルで凄いと言うのが、昔読み、今に残る記憶だ。 今回もその印象は変わらない。 描かれた東京の時間と空間に関心を持ち、電子版で再読した。 主人公や叔父、叔母たちの家々、仕舞た屋のような木造の病院とその2階の病室、座桟敷の劇場の客席と幕間の食堂、場末の赤提灯とフランス・レストラン、そして迷路のような湯治の温泉旅館。 加えて漱石は毎度のことだが、汽車やチンチン電車の車内シーンが面白い。 そして今回、際立て見えてきたのは、女性たちが何とも活発。 主人公夫人のお延はもちろん、皆が皆、現代のテレビドラマよう、表情豊かで個性的、忙しく激しく動き回る。 ご存じのように、この小説は漱石の最後の長編、新聞連載中に他界したため未完に終わってしまった。 しかし、驚くなかれ結末も読んでしまった。 読み終わり、ちょっと疲れたが、同じタブレット、気になりググってみたら、こんな面白いブログに出くわしたのだ。 驚いた、しかし、充分に納得させる素晴らしい解説。 今回のボクのこの「明暗」の感想を書かせたもの、それはこの結末ブログを紹介したかったから、と白状しておこう。 http://homepage2.nifty.com/LUCKY-DRAGON/kakurega-7meian.htm

2013年12月1日日曜日

印象派を超えて 点描の画家たち


午後から国立新美術館「印象派を超えて 点描の画家たち」を観る。 オランダのクレラー=ミュラー美術館がそのまま六本木に出張して来た展覧会と言って良い。 分かり易く楽しい展覧会だ。 この美術館には印象派とモダニズム、その狭間の時代の作品がコレクションされている。 コレクションは表現以前の技法がテーマ、絵画における光が放つ意味、 分割主義あるいは点描画を積極的に試みた画家たちの作品、世紀末から30年代まで。 絵画もまた絵画の上に築かれる、と言うのが今日の感想。 同時期、音楽も建築も懸命に「新しい世界」を模索していた。 19世紀、額縁の中に収まっていたリアルな風景画の世界は20世紀半ば、 まさに現実、なまの世界にそのまま生きる新たな絵画の道を目指していた。

2013年10月20日日曜日

彼岸過迄 夏目漱石

森本に始まって松本で終わる長話を読んだ。 漱石はたくさん読んだつもりだが、「彼岸過迄」は初めてだ。 内幸町、小川町、矢来町、本郷に住む6人の男の物語。 時間も空間も明確に描かれるこの長編、しかし、映画にはならないだろうな。 画にするのは難しい、どこまでも微妙な男の内面。 そう、やっぱり、漱石は微妙だよ。 絵になる「それから」のほうがボクの好みだが。

2013年9月29日日曜日

whatがない風景世界

TVこころ旅、火野さんがはぁはぁいいながら走る自転車の旅。 日常感覚で同行している楽しみがあり、好きな番組。 今日は久しぶり、札幌を視ている。 気がついたことがある、批判ではない感想だ。 今日も走るところ老人ばかり。 整備された道路は何処もコンビ二とコンビニエンスな建築群、あまりにも均一すぎる街風景。 これは北海道のことだけではない、旅人の見る日本の風景だ。 視聴者の手紙一つ一つはそれぞれ個性的、しかし、走る空間は田園に出ても疾走するトラックのタイアの音だけ。 人間ひとりひとりはみんな異なるのに、人間をとりまく風景はどこも変わらない。
小説家白石一文の「火口のふたり」のなかにはこんな一節がある。 「こうやって土地の外面が画一化されていけば、地域性などというものはいずれ霧散霧消していくだろう。こんな風景で育った子供たちが故郷に愛着を持つはずもない。コンビニが三軒しかない街で成長した若者は、いずれコンビニが百軒ある街へと出ていくだけの話だ。」(p120)
えっ、これが小学校。 余所でもよく見る、ああ勘違いの建築だ。 個性的?だれの個性?均一?何故均一? 白いカラスを描いてもデザインとは言わない。 デザインとはどんな(what)カラスを描くかが仕事なのだ。 どう描いたかは技術。そう、デザインとはhow toではなくwhatのこと。 しばらくは我々の周辺、whatのない風景世界が続くのだろうか。 Google Keepから共有

2013年8月17日土曜日

緑園都市

相模鉄道の新線開発にともない、横浜市泉区に誕生した新興住宅地です。 緑園都市と名付けられた駅、その駅前の一つの街区の設計を平均年齢30歳のチームが担当した。 彼らがこの街を設計する上で大事にした基本的な考えかたは、「ひとつ、またひとつと建築が建ちならんで成長するように、ここでも、ひとつひとつの建築を積みあげて街をつくろう」というもの。 つまり街を一つのビルディングにするのではなく、沢山の建築が寄せ集まったようにしようとしたのです。 この様な大きな街全体を設計するときは、まず全体の構想を先につくり、その構想に基づいて一つ一つの建築をコントロールするというのが一般的な方法ですが、ここでは個々の建築はそれぞれの都合に合わせ自由な形で作られている。 しかしそれだけだとまとまりが悪く、バラバラになってしまいますので、ルールが作られた。 それぞれの建築の中には、隣あう建築や敷地と繋がる通路を設けましょうというルール。 外側の公道だけではなく、建築内にうねうねと続く路地のような自由通路を作ることにより、様々な形の寄せ集めのような街全体にまとまりを与え、一体感を持たせようと意図したのです。 通路のあちこちには小さな広場が作られる。 人々がすれ違がったり、留まったり、立ち話をすることで、顔み知りになりコミュニケーションが生れることを期待しているのです。 この街を見るとまず、全体がグレーで、その素材はコンクリートブロックと銀色メッキされた鉄板やスティールパイプで統一されていることに気がつく。 ここにも設計上の重要な意図がある。 一つの建築ではなく、沢山の建築が寄せ集まったような全体を作ろうとしているのだが、部分部分の建築はそれぞれが勝手に自己主張するのではなく、一つ一つの建築の持つ形が、大きな全体の為の、部品であったり、場面となってくれることが、もくろまれているのです。 設計された建物全体が街であるとか、建築であるとかということより、すべてが人間が織りなす場面の連続体として見えるようにしたい。 設計チームは建築よりも、人と人が織りなす様々な場面が、より良く見えるように、全体をグレーのトーンで仕上げている。

2013年8月16日金曜日

慶應義塾湘南藤沢キャンパス

日本に、学校という制度が取り入れられた明治時代、その建築を作る上で指導的役割を果たしたのはミッションスクール、ヨーロッパの中世の教会のようなイメージです。 そして「蔦のからまるチャペル」が定番化し、どちらかという重々しい建築が大学のキャンパスを構成してきた。 1992年に完成した慶應義塾湘南藤沢キャンパスは、従来のキャンパスデザインの流れと全く異なる意図で作られている。 ここでは配列も形態も、すべてが自由に、軽やかであるようにと考えらた。 今にも飛びたつ飛行機の翼のような屋根、景観を緩やかな円弧で切りとるアルミのパンチングメタル。 軽やかで、ダイナミックに。 それは最新の学問を追求する場の躍動感そのものを創り出している。

2013年8月13日火曜日

神奈川県立近代美術館・図書館・音楽堂

神奈川県立近代美術館
戦後のうつろな時代に失った文化を取り戻すための拠点となることを目的として、昭和26年、1951年開館した。 歴史と伝統に覆われた鶴岡八幡宮の境内に、忽然と浮かび上がるように建築された、真っ白な立方体の建築。 その姿は当時の人々の誰の目にも、古い伝統社会を飛び立って屹立しようとする、新しい文化そのものと見えたでありましょう。 しかも、その構成は内と外の境界を越えて、縦横に展開する見事なピロティ空間(柱だけで構成され る一階部分)によって、自然との一体感、環境との調和がもたらされている。
工業生産力の回復がまだ遠い、戦後間もない建設事情の中にあって、数少ない工業生産品であったアルミニウム材と漆喰や大谷石という伝統的建築材とのアンサンブル、この建築は自然環境のみならず、新旧という時代をも調和させようと意図されている。 自然環境という空間的広がり、時代という時間的流れ、そのどちらに対しても、おこたりなく配慮する日本文化の持つ力、そのような力の表現こそ、この建築が示す最も重要な意図であったと考えられる。

神奈川県立図書館・音楽堂
近代美術館に続いて、1954年に、横浜の紅葉ケ丘に、神奈川県立図書館・音楽堂が建設された。 当時、イギリスの戦災復興のシンボルとしてロンドンに建設された、ロイヤル・フェスティバル・ホールが、その手本となっている。 与えられた敷地の特性を上手に活かして、ふたつの建物は、前後にずらして配置され、その間をブリッジでつなぐ構成によって、音楽堂の前に広い前庭を、図書館の後ろには、静かな庭が生みだされている。 建物全体は、大きなガラスのサッシ、コンクリート製のパネル、陶器製の穴あきブロックといった、新しい工業化製品を用いて、明るく透明感あふれる表情に、統一された。
図書館は、建物の中央に書庫をまとめることによって、回りに明るく開放的な閲覧室を設る。 ことに、北側の閲覧室は、吹きぬけの大らかな空間になっていて、緑豊かな庭に面した、静かな心地好い、読書環境。
音楽堂は、日本でははじめての音楽専用のホールとして計画されたものであり、音響実験を繰かえし行いながら、手づくりに近い設計によって、あたかも楽器のような精巧な木材によるホールとして完成した。 竣工当時、その音の響きの良さは、東洋一とも言われ、多くの外国人の音楽家たちにも絶賛された。 現在でも多くの音楽家に高い評価を受けているこのホールの周囲は、図書館同様、余分な壁を配することなく、構造を素直に表すことによって、外と一体となった開放的な明るいロビー空間が作りだされた。
この二つの建物に、現在でもどこかすがすがしい雰囲気が感じられるのは、おそらく、厳しい戦後復興の時代に、新しい工業技術を用いて、戦前の重苦しさとは異なる、明るく親しみやすい建築を作りあげようとした、設計者の願いが、そのまま表現されたからに他ならない。

2013年7月11日木曜日

なだいなださんを偲ぶ会

6月6日にまた大事な方が亡くなられた。
今日は午後から自由学園明日館での偲ぶ会に参加させていただいた。
なださんの市ヶ谷時代、奥様とご一緒に路地裏を散歩されるお二人によくお会いした。
そのころは我が家の息子たちはまだ学齢前、いつも飄々と冗談を言われる彼は、鎌倉に移られた後もずっと、我が家全員がファンだった。
著作はほぼ総て書棚に収まり、講演会も出来うる限り参加させていただいた。

今日はお別れ会。
彼のご友人の多分野多彩な方々が、エっと思うお話、なるほどなぁというお話、やっぱりなぁというお話、今や寂しくもあり、悲しくもある。
しかし、なださんを良く知る方々、みなさんエスプリ・ユーモアを忘れることなく、今日と同じ場所で撮影されたピンク色のシャツ姿のなださんの遺影とともに、会場をほのぼのとした笑にも包んでくれた。
偲ぶ会には違いないが、今日もなださんの会。
彼が身まかる五日前の講演会での「常識」についての映像が会場に流され、慰められているのか、励まされているのか。
彼はまだ健在、にこやかに、健やかに、「偏見と常識」について話された。
献花のあとの明日館からの帰りの路地はさすがに寂しい、ただただご冥福を祈るしか術はないのだから。

2013年6月28日金曜日

カーセンの「ホフマン物語」

演出がロバート・カーセンと言うことなので見逃せない、と思いつつギリギリ、最終日にようやっと間に合った。いつものメトではなく今日はパリ・バスティーユのライブヴューイング、映画館も東劇ではなく日比谷みゆき座。
演目はさすがパリでのオペラは、フランス人オッフェンバックの「ホフマン物語」。メト版は大のお気に入りだが、パリ版はさすがに華麗、そして目玉はなんと言ってもロバート・カーセン、4時間近い長丁場も演出家の魔術に翻弄されつづけた。
プロローグとエピソードに挟まれた3幕、一幕毎3人の女性、それはホフマンが愛する歌姫ステラの三つの分身の象徴。
19世紀ドイツの詩人ホフマンは悪魔のリンドルフに三つの恋を壊され絶望の谷に突き落とされる。
しかし、決してホフマンから離れることのないミューズの変身ニクラウスによって「人は愛によって大きくなり、涙によっていっそう成長する」と励まされ、光りの世界に導かれる。
このオペラでのボクのお気に入りはミューズのニクラウスだが、今日のカーセンの演出では主役は悪魔のリンドルフだ。
その思い付きはプロローグでステラが歌っている(はず)モーツァルトのドン・ジョヴァンニのドンナ・アンナにあるとカーセンはインタビューで答えている。

 モーツァルトのドン・ジョヴァンニはでは2人の女性(ドン・ジョヴァンニはすでに1003人の女性をモノにしているが)を手込めにしわがものにする、しかし、最後のツェルリーナでは庶民の力に翻弄され失敗に終わり、終幕で地獄に落ちる。
一方、ホフマンは3つの恋に失敗するが終幕(エピローグ)ではミューズに救われる。

どちらも「悪魔」がテーマだが、ドン・ジョヴァンニでは「悪魔」は内にあり、ホフマンでは外(リンドルフ)にあるとカーセンは想像しこのオペラを作っている。
さらに、オリンピアはツェルリーナ、アントニアはドンナ・アンナ、ジュリエッタはドン・エルヴィーラと見立て、可愛い操り人形のオリンピアと清純可憐なアントニア、男の魂を影として虜にする高級娼婦ジュリエッタは男が愛する女性の中の三つの部分の象徴というのが一般的解釈だが、カーセン曰わく、それは部分ではなく女性の持つ年代の違いだそうだ。
こんな見立てはドン・エルヴィーラ好みのボクには許せないが、モーツァルトだってびっくりだろう。

彼の演出上の想像はドラマの中身だけでは終わらない。その舞台構成にはもっと目を見張った。
3人の女性が三幕ともに持つ大きな扇は何を意味するのか。
さらにオリンピアとアントニアの幕では広場に立つ首の無いナイトの立像。
まぁ、幕ごとの様々のシーン、悉く登場するアトリビュートが気になってしょうがないのだが、驚かされるのは、舞台の上に舞台が登場することだ。

アントニアの幕では舞台上にオーケストラピットとプロセニアム(額縁)アーチ付き舞台が載る、ジュリエッタの幕では額縁舞台と桟敷席が舞台上に設えられている。
アントニアの幕はまだ判る、ピットでタクトを振るミラクル(実は悪魔のリンドルフ)の幻想操作に殺される舞台上の薄倖の若きソプラノ歌手。

そのシーンを観客席の我々はオーケストラピットの指揮者(トマーシュ・ネトピル)共々見せられるのだ。
映画を観るボクはその観客席を含めた世界を日比谷みゆき座の額縁の外から見ている。
まぁ、ややこしいが映画なんていつもそんなもの。
しかし、オペラ座の舞台上に載せられた観客席には大いに驚いた。

揺れるバルカロール(舟唄)に恍惚とする舞台上の観客は鏡に捕らえられた我が身自身の姿ではないか。
それもかっての新宿のキャバクラまがいのあられもない姿。
そう言えば、娼婦ジュリエッタが求めたもの、それは鏡の中に閉じこめられたホフマンの影だった。


映画が終わり、映像が消え、明るくなって気がついた。
カーセンやったな、あれはフランス革命期の建築家クロード・ニコラ・ルドゥの「ブザンソン劇場」ではないか。

ルドゥのスケッチは目の中の劇場、15世紀以来の視覚主義への警鐘、目の病、コスモロジー喪失の象徴だ。
そう言えばロバート・カーセン、タイトロールのステファノ・セッコを捕まえて「君は若い頃のピカソそっくりだ」なんてからかっていた。
ピカソだけではないが、20世紀のキュビズムや無調音楽はみな目の病からの脱出、プロセ二アムアーチを解体し、ルドゥに習い新しい秩序(美学)を造りだそうとする運動だ。

カーセンは21世紀になっても、未だ18世紀を乗り越えられない秩序の崩壊を、19世紀のホフマンに歌わせたに違いない。

2013年6月3日月曜日

「貴婦人と一角獣」タピスリー展 

先週の版画に引き続き、今週はタピスリーの展覧会、クリュニーの「貴婦人と一角獣」を見る。 謎多き中世の作品の現物を、そのまま生で見学できるチャンスなどそう多くはない。 仮にパリにいたとしても、ルドゥやシンケルやポリフォリそして一角獣の織物など、そう簡単に一気にお目にかかれるものではない。 
土曜日の午後、当然ながら会場は一杯だ。 見るべきものは六枚の壁掛け織物だけ、というのにこの混雑、それは土曜日だからという理由だけではなさそうだ。 
多分、すでにこの作品については並々ならぬ知識をお持ちの方々が、この大きな織物に描かれた謎解きに加わるべく訪れたのだろうと予測できる。 
かく言うボクは織物のこと全く知らない、描かれた図柄も全く解らない。 そもそも中世の作品的世界は「言葉の世界」だ。 作家の主義主観、その内面が作品として表現されるのは18世紀半ば以降のこと。
 中世となると絵画はもちろん、版画や織物となればなお一層、超実用的な「書物」に他ならない。 
従って、その作品を享受したいと思うなら、それはただ闇雲に好きだ嫌いだ、美しいとか、気持ちが悪いとか言っても始まらない。 かってな自己解説ではなく、それ相応の知識を持ち、じっくりと読み解き理解しようとするのが中世作品の観賞の方法だろう。
 しかし、19世紀半ばフランスの中央、リムーザンのブーサック城で発見された全長22Mに及ぶ巨大なタピスリー、それをどう解釈し、どう読みとるか、現在のフランスでもこの作品についてはまだ喧々囂々らしい。
 だからこそ「貴婦人と一角獣」はジョルジュ・サンドを筆頭に多くの作家の様々な想像の対象となるばかりか、その想像が小説として読まれ、結果、作品はますます名声を高めることになり、多くの人々の関心の対象となっている。 
と考えると、この展覧会が人気となるのは当たり前だ、 誰も解説できないのだから、どう想像し、どう読みとろうが鑑賞者の自由なのだ。 つまり、この作品は現代絵画同様、最早、作り手のものではない。 自由に想像し、自由に読みとり、自由に解釈する鑑賞者一人一人のもの。

 天井が高く、中世の宮殿の広間のように設えられた展覧会場の四周には六枚のタピスリーが「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」という順で、時計回り、左から右へと展示されている。 
最も大きい六枚目のタピスリーは唯一作品の中に書かれた文字列から「我が唯一の望み」と会場では解説されていた。 あとは、グルグルぐるぐる自由勝手な想像の世界だ。
 おおやはり「味覚」は大きいな、何故「視覚」には侍女がいない。 貴婦人の膝に手を置き、手鏡に写る自分自身をうっとり見ているのはナルシスの様な一角獣ではないか。 縦長なタペストリーが何故「聴覚」か、しかし、 獅子や一角獣も正面を向き、 図柄的にはこのタペストリーがもっとも多彩でバランスがよい。 
一方、「触覚」「味覚」「嗅覚」にいた猿がここで居なくなるのは何故か。 そうか、「視覚」にもいない、やはり、見ざる、言わざる、聴かざるか、そんなバカな。 

冗談はともかく見ているときりがない。 そして一つだけ面白いことに気がついた。 このタペスリーに描かれた貴婦人の表情はかなり入念に描かれ豊かだ。 それも織物表現で感じたこと、であるとすると、もともとの原画ではそうとう細かく描かれていたに違いない。
 六枚全部、その各々に画かれている小さな動物や千花文様、その表現はかなり類型的で雑だ。 しかし、貴婦人と侍女と獅子と一角獣はその表情ばかりでなく着ている衣類やマントに毛並みまで、どれも入念に細かく織り込まれ表現されている。 
とすると、その制作時代や画家が誰か、あるいは注文主も解き明かされているようだが、もはや中世の名も無き職人芸の世界ではなく、特別の人による特別な作品、そして特別にタピスリー化された貴重品。 
当然、織り手は一人ではない、しかし、特別な織り手が一人だけ居るようだ。 なるほど、クリュニーに展示されるはずだ、「貴婦人と一角獣」はもっとたくさん制作されたのではないか、しかし、発見されたのは、あるいは残されたのはこの一点。 

図柄の解釈はますます人気になるだろう、貴重であればあるほど、様々な想像を呼び、様々に解釈されるだろうから。 しかし、特別な作り手が尊ばれる時代、それは作家の誕生であって最早、中世ではない。 そう、芸術家による芸術作品の誕生だ。

2013年5月31日金曜日

獅子の座 平岩弓枝


尊氏・義満の時代はフィレンツェ・ルネサンスに似ている、とかってに思っている。 
旧態となった秩序綱紀の乱れ、戦乱と一揆と下剋上の乱世だが一方、商人・職人が台頭し 、商品貨幣経済が発達する。 
宗教的には一元的に従順であることより、現世肯定や合理主義を認める生き方が模索され、猿楽・茶の湯・作庭が人気となる。 
その世界は幽玄・閑寂を好むと同時に雑学・雑芸にも価値を置きその洗練を目指す。 
レオナルド・ダ・ヴィンチがリラの名手であり、音楽家としてミラノ宮廷に雇われたように、ルネサンスの万能人はみな雑芸多才の大家だった。 佐々木道誉のようにバサラ大名と呼ばれる人々は古典・和学・神道・儒学・和歌・連歌・詩文・山水画をも嗜んでいた。 
御伽草子で知られるように絵草紙の大半がこの時代に作られ、さらに、現在の日本人の生活様式の大半はこの時代に生み出されたとさえ考えられている。 
雑学・雑芸が多彩な社会であったからこそ、建築デザインも際立っていた。
堂塔はもちろんだが、書院造りという宸殿にあっての個人的なスペースが接客スペースとして格式を持ち、今ある名苑の大半とともに現代に遺された。 
まさに、コジモ・デ・メディチを足利尊氏に置き換えれば、その孫のロレンツォは義満であろう。 
そんな見立てを楽しみ、室町の塔の見物したのが、この四月・五月の常楽寺から明王院だった。 
旅行中持ち歩いた文庫は「獅子の座ー足利義満伝」、家に戻り読んだのは「風の群像ー足利尊氏伝」。 
一頻り「塔の旅」の感想をブログにしたので、いま、改めて尊氏・義満の時代を思い描いているのだが、なかなか想像の世界が広がらない。 

当然ながら小説は文化史ではないのだから当たり前だが、辻邦夫が書いた「春の戴冠」からはタップリとフィレンツェ・ルネサンス、ロレンツォをはじめボッティチェリ、ジュリアーノ、フィッチーノそしてサヴォナローラにシモネッタが躍動する世界が想像できたのだが。 
室町時代はまだ見えてこない、考えて見れば勉強不足なのだ。 日本史は中学までだし、吉川英治や司馬遼等で戦国や維新の英雄の物語はともかく、日本文化に関わる物語はほとんど読んでいないからだ。
塔を見ながら考えていたんだ、どんなに時代が貧困でも、こんな美しい建築が造れるんだ。 
同時代は建築に必要な木材は日本中どこでも、もっとも枯渇していた時代。 
そんな時代だが、建築人(中央の宮大工はともかく)、それはまだ職人とは言えない人々が、明から輸入したての大工道具を駆使し、日本中に沢山の堂塔建築を作っていく。(現存する五重塔と三重塔、その大半は室町時代の建立。) 
そして600年あまり後、いろいろあろうが驚くばかり、塔は目の前に生きつづけている。 

「獅子の座」は「風の群像」よりボクの好みだ。 
やはり、権力闘争には違いないが日本国王義満の人となりが面白い。 
乳人の玉子とその夫、後の管領頼之に支えられ着々と獅子の座を目指す。 
そのためには最早、武力ではなく文化サロンがものをいう。 
鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇や北畠親房押さえ、直義とともに幕府を開いた足利尊氏もまた武のみの人ではなかった。 
公家社会と渡り合うためには、当然、和歌に強くなければその権威は保証されない。 
事実、尊氏は直義よりも誰よりも和歌の才を持っていたようだ。 
しかし、義満はその比ではない。 
彼は将軍職には目もくれず、その文化的素養で形式的には自らを天皇や上皇を凌ぐ准三宮に叙し、公家と守護を従え、南北朝を統一し勘合貿易を開いていった。 
彼の文化的素養を開いたのは二条良基。 
幼き時より良基に教えられ、あらゆる公家文化はもちろん、まだ鄙にあった田楽・猿楽の世界をも取り込み、同時代の宴席の中心に据える。
(このあたりは同時代の北イタリアの宮廷とよく似ている、つまり、牧歌劇からオペラの誕生まで、その役割は宮廷生き残りのための文化政策) 御所を越えた室町第(花の御所)の造営により公家社会を、北山第(一部分が金閣)に至っては宗教社会をも義満は眼下に置く。 
そんな義満がその先に目指すものは何だろうか。 
この辺りが「獅子の座」の押さえどころ、ミステリー仕立ての物語はクライマックスを迎える。
 この小説で、はじめて三法院満済を知った。 
三法院跡を若干18才で継ぎ、醍醐寺座主となり、黒衣の宰相と呼ばれ、 義満亡き後、義持、義量、義教の幕政に関わった人だ。 
この人はなんと良基の子であり、良基の命により義満の猶子となり、義満の文化政策に関わっている。いまある三法院は応仁の乱で焼失後秀吉が花見の為に再建したものだが、満済はあの五重塔の下で「満済准后日記」を書いた。 
国語力を鍛え読んでみたいと思っている、もっともっと室町時代を知るために。

2013年5月28日火曜日

空想の建築ーピラネージから野又穫へー展 町田市立国際版画美術館


「東京都内で二番目の高さになる超高層ビルの建設が進んでいる。地上五十二階、地下五階の虎ノ門ヒルズは建物の地下一階を道路が貫通する珍しい構造だ」と今朝の筆洗。 町田市立国際版画美術館は「ピラネージから野又穫へ」展を観る。 予想していたが野又氏の空想は圧巻だ。 規制を緩和し、空地権をも加算して建築の巨大化・高層化を図っている超都市(ハイパー・ヴィレッジ)東京。 緩和どころか、現在の都市デザインから建蔽率・容積率・高さ制限という 一切の建築規制が除去される事が現代の都市計画家・建築家の夢なのだろうか。 野又氏の大きな「空想の建築」群を観ながらボクはそんなことを考えていた。 作品はとても版画とは思えないほど巨大で色鮮やか。 その画面の中央いっぱいに一塊の空想の建築、それはブリューゲルのバベルの塔か、古代エジプトの大神殿か。
いや、想像が直結するのはピラネージの牢獄だ。 しかし、侏儒ではあったがピラネージには人間が描かれていたが、野又氏のハイパー・ヴィレッジ(超都市)には人間はいない。 彼だけではない、阿部氏のピラミッドにも人間は見えない。 現代の「空想の建築」には人間は登場しない、いや、想像は出来ない、不要なのだろう。 展覧会は画期的、多彩で大いに楽しめた。 題名通り、ピラネージが豊富だが、感激したのはヒュプネロトマキア・ポリフィリの中のプルチノ・デッラ・ミネルバが展示されていたこと。 そうかこの奇書、日本でも金沢工業大学ライブラリーに収蔵されていたのだ。 1499年版と言うことから今日の最古の展示作品ということになる。 そして19世紀初め、フランス革命直後に出版されたルドゥの建築図集。 さらに、ピラネージに多大な影響を与えた17世紀のビビエーナと19世紀のモーツァルト魔笛をテーマとしたカール・フリードリッヒ・シンケルの舞台背景画、どれもこれも一度は現物にお目にかかりたいと思っていた作品ばかりだった。
町田市国際版画美術館もかって、建築仲間と見学したことはあったが、今日はひとり小田急町田駅から歩いて訪れた。 美術館は段丘を降りた樹林の中、こんな素晴らしく天気がよく気持ちの良い日曜日の公園はピクニック気分の若い家族たちで一杯だった。 そもそも、町田駅に降りたのは始めてだ。 駅周辺は賑やかな商店街、古い街の特徴だろう新規のチェーン店より個人商店が元気よく犇めいていて、とても居心地が良い雰囲気だ。 グローバル化されない町には昔からの美味しいランチ屋が必ずあるはず。 ネット・グルメには一切関心ないが、こんな街では探したくなる、自分自身が好む店を。 決して終わりかけた安食堂でもなく、一律でピカピカなハンバーグ店やラーメン屋でもなく、街の住民が毎日でも愛用する、廉価で小綺麗で、メニュウ多彩な小さなレストラン。 早速、みつけた「グリルママ」、美人ママだ! メニューを眺め迷いに迷いまったがメンチカツランチをオーダーする。 するとすぐに、やはりチェーン店では出せない味だ、小さなカップのコンソメスープ、薫りと湯気が同時にやってきた。 そしてほどなく、じゅうージュウと揚げたてフカフカの大きなメンチカツにキャベツとマカロニサラダが載る白いプレート。 そう30年前には、自宅のある市ヶ谷や事務所のあった神宮前にもこんな店、何軒かあったのに。 この日はこんな所にボクの「空想の建築」を見つけたようだ。

2013年5月22日水曜日

明王院


明王院は福山市の南西、国道2号線が芦田川を西に渡るとすぐの左手の山、川沿いの小さな山の中腹に建つ古いお寺だ。 この辺りを草戸千軒という。 そこは芦田川沿いに鎌倉から室町時代にかけ日本には珍しい一大都市(大規模集落)があったところ。 度々の洪水で消滅し、江戸時代の文献にのみに遺された今や幻の場所。
1930年代の川の付け替え工事の際、多量の古銭や中国陶磁器が発掘され、その存在は現実となった。 しかし、川の中州部分が「草戸千軒」と確認されたにとどまり、発掘調査が本格化する以前に遺跡は新しい川の流れの中に水没、幻の町となって消えてしまった。 (復元模型は福山駅前、広島県立歴史博物館)
見学した明王院五重塔は1348年の建立、本堂もまた1321年と書かれているから、まさに南北朝、後醍醐と尊氏の時代。 草戸千軒の家並みが塔の眼下に幾重にも重なり合っていたのではなかろうか。 寺伝では807年空海が開基したと言われるが、石段を登りきった境内は山地の割には広々とし、古刹の院というより、かっては多くの信仰を集めた力のある寺院ではなかったかと思われる。 その塔の美しさは驚くばかりだ。
本瓦葺の五重の屋根は全てが緩やかに大きく羽を広げ、その全体は「あおによし」、複雑にしかし、規則正しく自信ありげに支え持つ赤い組み物と緑の連子が色あせることなく陽に輝いている。 そのイメージは間違いなく幻の町と言われるこの町に住む庶民たちの富と安寧と栄光が作り上げたもの。
そんな建築がいまや忘れられたかのように深く覆われた木々の間から、子供たちが野球やサッカーで走り回る河川敷や整備された芦田川の水の流れを眺めている。 この塔の特徴は五層全てに丹念に回された擬宝珠高欄にある。 水平な高欄の流れを間斗束と三手先が垂直に三拍子を刻む、その上に正確に枝割りされ配られた六連音符のような垂木が天に終わるところで反りの強い軒先となり力強く斜めに切りあがっている。 そして、いつも思うんだ、日本の塔を見ていると音楽が聴こえる。 この塔もまた、ボクの好むハイドンのカルテット、その秩序とメロディーが感覚的に全く同じように感じられる。

2013年5月16日木曜日

風の群像  杉本苑子


「人間のこれがまことの生き方といえるだろうか。」 作者杉本苑子さんは長編小説、それも残りわずかなページ、まるで呆れ果てたように、群像たちのていたらくをまとめて言葉にした。 
この小説は南北朝の王者・覇者・武将たち、そんな群像による非人間的な物語りだ。 
それは中学生時代の社会科での「建武中興と南北朝」とは大きく異なるもの。 
「事実は小説より奇なり」、どちらが事実かは問わない、この小説では大儀も正義もなく、ただ右往左往するまさに「風の群像」が描かれる。
 いや風にも劣る人たちによる、人にあるまじき所行の数々。 
作者は人間のもつ中世的色合いを趣ふかくかたり物語を進めて行く。 

「優しく、つねにお弱く、運命の波に弄ばれ、帝王にあるまじき恥辱や苦しみを味わいつくされた光厳院・・・・」 
「しかし一人、光厳院のみは、いまなお黙々と歩いておられる。勝ち負けを遙かに越えた境地・・・・」 
それは小説の随所に現れる夢窓疎石が示したもの、四大元空にも似た境地。 
「人間はもとより、生きものすべてを形成する四大元素は、死すればもとの空に還る。あの世などなく、後世もない。」 

小説を読みながら、正義もなくポピュリズムに染まった現代の諸将の有り様を書く夕刊に目を通すと、なんとまぁよく似ていることか、と思ってしまう。 
元寇に布陣したことから生まれた鎌倉幕府の経済的失墜。 
救国の恩賞を与えることが出来ない北条氏の不人気、その自滅とも言える幕府に反旗する後醍醐の王政復古、しかし、彼は民に何をもたらしたか、やがて足利氏による幕府と南北朝。 
その権力闘争のどこに、中興があり建武があるのか。 
どの争いをみても、そこには「人が生きるこの世界」という大儀が見あたらない。
あるのは尊氏の骨肉の争いと南北諸将の私利私欲、風が吹き人が変わるが、風のごとくの戦乱のたびに疲弊する民百姓たちの苦しみと悲しみには誰ひとり触れることなく、何一つ変わることはない。

「風の群像」を読んだのは、その前に「獅子の座」を読んだからだ。 
探してみたら、思ったより少なかったのが「室町時代」を題材とした小説。 
近江に行き、幾つかの室町の塔を見学し、イタリアで言えばルネサンスの始まり、同時期日本でもこんなに美しい、それもどちらかと言えば眺めるだけの「無用不用」の建築がこんなにも沢山造られ、遺されていたことに驚く。 
そしてこの時代をもっと知りたいと思い、小説を探していた。 
「獅子の座」についてはまた日を改めよう。 
尊氏、親房の死後、義詮の子義満は何を目指したか。 
そこには観阿弥・世阿弥も登場する。 
さらに、北山金閣が造られ、小説には登場しないがあの常楽寺の塔も造られるのだ。 
それは丁度、フィレンツェのサンタマリア・デル・フィオーレの建設時期、ブルネレスキとギルヴェルティは洗礼堂の扉のデザインで透視画法を駆使しその技量を競っていた時。 
イタリアの都市はどこもまた戦乱につぐ戦乱。 
そして、世阿弥の能が生まれ、同時にオペラが誕生した。

2013年5月11日土曜日

西明寺、金剛輪寺、三井寺


西明寺の塔
長命寺で苦戦した昨日は結局、京都には戻らず宿にバッグだけ残してキャンセル、近江八幡から彦根に向かった。 そして、朝一番、河瀬に戻り、タクシーで西明寺に到着。 参道は山の下の平地からだが、迂回路ではそこからの石段は登り切りタクシーを降りればもう二天門の上、塔と本堂のある山中の境内だ。 なんとも贅沢な寺参り、早朝の鈴鹿の山裾というが西明寺は嘘のように近かかった。 しかし、境内に入り気になったのはコンプレッサーを使っての機械掃除、その騒がしさと激しい土埃、昨日とは打って変わってのすべての印象、深山の古刹を訪れたという趣はどこにもない。 新緑や秋の紅葉の人気が高い山の中の寺院はどこも同じだろう、かってのような庭箒を持って境内を掃き清めるという姿はなくなったのかもしれない。 枝折り戸のような板戸を開けると 木々で囲まれた小さな平地、 左手山側には大きな本堂、 目の前は三重塔、 右手は二天門でその外は急な石段が駆け下りているようだ。
西明寺もまた天台宗、延暦寺に関わる寺。 834年仁明天皇の勅願により創建されたが平安時代から天台密教の修験道場として栄えたとある。 その全盛期には300を数える僧坊を持ち、山上から平地まで17もの堂塔を持った一大寺院であったようだ。 しかし、1571年信長に抵抗したため、丹羽長秀によって悉くを焼かれた。 兵火を免れたのは今目の前にしている本堂と三重塔と二天門のみ。 幸い、家光から朱印状を与えられたことから復興が進められ、今日の秋春多くの参拝客を集める寺院として今日に残された。 二天門は墨書きにより1407年とされているが、本堂・三重塔はその建設年は明確ではない。 案内書には本堂は長寿寺と同じ鎌倉前期、三重塔は奈良の百済寺と同じ鎌倉後期とある。 確かに、かって訪れた百済寺の三重塔は本瓦葺、ここ西明寺の三重塔は檜皮葺、その違いはあるが大きさも同じぐらいとてもよく似ている。 室町と言われるが宝厳寺(八坂の塔)もまた同じ、相輪が高く、塔身が細く、逓減にリズムがありバランスもよい。 鎌倉時代の塔は室町に比べ軒の出が広いわりに塔身が狭いのだが、この塔は小さな平地に見合うよう二重、三重の高さも抑えられていて、檜皮の屋根が大きく羽を広げているように感じられる。
ひとしきり塔を眺めた後、本堂に目を移すと、塔とは不釣り合いなほど大きな建築であることに気がつく。 長寿寺と同時代ということだが、西明寺は梁間七間、桁行き七間。 小さな敷地に小振りな塔、しかし、本堂は大きい、なるほど平安以来修行の道場としては栄えに栄えたのだろう。 入母屋檜皮葺、向拝をもつこの本堂はむしろ、その印象は常楽寺に近いが、同時代の五間で寄せ棟の長寿寺と同様、この本堂は泰然とした和様式(古来からの神社に似ている)の建築であることには変わらない。 堂内に入るとご本尊の薬師如来ということだがそれは秘仏。 外陣そして内陣、長寿寺では叶わなかった天台密教特有の正方形平面の中の二つの世界を体験する。 しかし、驚いたのは空間体験よりあまりにもたくさんの仏像群。 薄暗い七間四方の堂内だが、そこはまるで博物館の趣、説明を読めば 国宝ばかりだ。 人もいない堂内に、踏み込むごとに明かりが自動的に着き、菩薩や神将如来の数々を次々に照らしていく。 そして、その数の多さに驚き、何故、という疑問が浮かぶと、幸い住職のような方が近寄ってきてくれた。 聞いてみると、理由は明解。 この沢山の国宝、それはみな、もともと信長に焼かれた西明寺の子院や寺域の堂の仏様たちだといことだ。 焼き討ちの際、300もの僧坊に住まう僧たちが仏や宝珠を隠し、自らが寺を焼き、もうすでに全域に火が回ったと偽り、この沢山の国宝と山上の本堂、三重塔を守ったのだ。 そんな、話のあと彼は、三重塔の初層の中も今日は見学可能、素晴らしい極彩色の世界を是非見ていくようにと誘ってくれた。
入って見るとなるほどびっくり。 観光客では塔の中に入れることは滅多にない。 今回、醍醐寺は叶わなかったし、一昨年の奈良高取の壷坂寺以来の体験だ。 もともと塔は仏舎利を祀るお墓。(卒塔婆あるいはストゥーパ)。 塔そのものが参拝の対象であって、塔の中に仏像を据え、そこを荘厳の場に変えたのは後世の姿と言われる。 扉があり連子窓も付き、高欄も設置され、塔は当然、塔内の階段を登り、遠くを眺めるものと思われるが、日本の塔は眺められる対象であって、眺めるための高楼ではない。 しかし、中国や韓国では塔内の各層にも、仏像や教典が収められていたし、望楼の役割も果たしていた。 どうやら、木造の塔に拘った日本だけが特殊であったようだ。 ちょっと調べてみると、日本の塔の起源はどこまでもストゥーパ(墓)。 心柱に支えられた相輪がその姿であって、層の重なりは墓の為の基壇にほかならない。 墓であるかぎり、石組みや甎で固められた基壇の上に相輪が立つ中国や韓国の塔が本来の姿だが、木造が得意の日本では、石の基壇は一段だけで、その上に木造が五段、三段とのるというユニークな建築となっている。 つまり、五重や三重は基壇であって空間ではないのだ。 だからこそ拝むものであって、登り入り込むものではない。 さらにまた塔は現在の超高層とは異なり、基壇である木造の層による構成。 木造塔では長い四本柱は不可能かつ不必要であって、運動会の組体操や積み木のように、初重の天井上に二層の土台を水平に載せ、その上にまた柱を立て二重、そして三重と段々に重ねていくとい方法がとられている。 塔の中央に立つ長い心柱は基段の中にあって地下の舎利と相輪を繋ぐもの、塔の重量を支えるものではない。 だからこそ、構造的には地震時の倒壊を防ぐ振り子として機能するものとみなされた。 心柱は相輪を支える心棒であり振り子、であるなら地上から立ち上がる必要もやがてなくなり、初重の天井に立てられたり、上層から吊り下げられのは当然で、平安時代にはすでに 始まっていた。 初重に心柱が無くなれば、塔内中央に仏像を祀り荘厳するのは当然だろう。 窓もない塔内だが入り口に踏み込みの為の広縁が回れば、そこはもう立派な礼拝堂。 一人静かにこの世とは異なる別世界を体験する格好な空間に変容する。 説明をお聞きすると塔内は法華経曼荼羅の世界ということだ。 中央には大日如来座像、四天柱には脇侍となる三十二尊像(1本の柱に八体の像)。 天蓋をなす折り上げ天井は極楽世界を象徴する極彩色の菊模様。 三間四方を組む十二本の構造柱には竜が絡まり、その間の壁は東西の扉を除き法華経の教典が絵として描かれている。 醍醐寺も同じだが塔の初重を荘厳する極彩色の世界は密教では特別な意味があるという。 曼荼羅のなかに放たれる色彩は目で見るだけでなく、芳香をかぎ音楽を聴くことで心身清浄となると考えられている。 寺を早朝に訪れるということはとても良いことかもしれない。 他に参拝者もいないことが幸いし、事前に申し込むこともなく、堂内を自由に明解な説明でゆっくり拝観させていただいた。
金剛輪寺の塔
一人旅ではいつも、タクシーを使うことを極力避けているので、西明寺からは歩きと決めていた。 見学後、二天門をくぐるとさすがに山寺、その石段は昨日ほどではないが結構きつい、とは言え今は下りのみ、気軽にタクシーで乗り付けてしまい何となく申し訳なかったという想いがよぎる。 一人歩くこの参道は平安以来の多くの僧たちが毎日毎日、上り下りした日常の路。 木々に囲まれ、鳥の声を聴き、風を感じると、大いなる歴史の中に佇んだ気分、とても気持ちが良い。 空には雲一つなく、鳥を真似て口笛ふき、のんびりと山をおりた。 やがて山門というところだが、まだ参道、しかし、なんと無粋なこと。 目の前はコンクリートの固まり、 異次元を感じさせる名神高速道の柱脚が塔のようにそそり立っている。 中世の歴史を壊したのは、決して信長ではない、現代の我々だ。 歴史には目もくれず、実際の景観を見ることも無く、白地図の上に直線を引くだけの都市計画家。 彼らの行為は造っているのだろうか、壊しているのだろうか、なんとも悔しいし、恥ずかしい。 国道に出ると右手に大きな駐車場を抱えた観光バスの休憩所、そば道場という看板。 駐車場には大型バスと数台の乗用車、店内はまだ午前中だが結構な人。 狂騒を避け、隅にある大きなテーブルの端に座を占め、天ぷらそばをすすった。
金剛輪寺まではそう遠くない、日本中どこでもある国道だが、そんなにクルマが多いわけではない。 春いっぱい、のどかな田園の風景だ。 高速道路と平行する国道を10分も歩くと浄心寺という看板。 国道と名神高速ともここで別れ、柱脚をくぐれば人さまが住まう小さな集落。 クルマだけの国道を歩き、ちょっと後悔もした。 ここは現代都市だ一人とはいえ歩くなんてとんでもない、そば道場でタクシーを呼ぶべきだったのだと。 しかし、人里にはいるとてきめんに気分が変わる、あぁ、良かったと。 うれしくもあり、旅気分も絶好調、人もなく車もない田園の山道を飽きることなく歩き続けた。 そば道場からは30,40分も歩いたのだろうか、一本道だから迷うことはないが、やがて、地図通り県道に下り金剛輪寺(松尾寺)惣門についた。 門をくぐり石段を登ると左手に愛荘町立歴史文化博物館。 寺をイメージした建物ということのようだが、よくわからないデザインだ。 急ぐことももないので休憩がてら博物館を見学した。 博物館を出て緩やかな参道を登ると左手に本坊明寿院の門、中にはいると例によって石の多い庭園だ。 桃山から江戸にかけての庭園だそうだが、明寿院を取り囲む形で細々と作られている。 庭園の東側、一段高くなったところに護摩堂と水雲閣が建つ、江戸時代の建築で檜皮で葺かれた宝形の屋根を持つ建築。 此処には平安時代の大黒様、それは今風の大黒とは異なり、打ち出の小槌ではなく宝棒、袋ではなく鎧を着た憤怒相の怖い大黒様が控えていた。
さらにだらだらと参道を行く。 左右はかって100を越す僧坊があったところ、その石垣が本来の寺の趣を感じさせ、またまた中世に入り込んだ気分。 すでに書いたことだが、西明寺の二天門下の寺域もまた同じ、やはり、寺参りはタクシーではなく、テクシーがピッタリ。 僧坊が建ち多くの僧たちが生活した賑わいを木々にまとう鳥たちの鳴き声に見立て楽しんでみた。 ここを抜ければ目的の金剛輪寺の塔も、もうわずか、山寺らしい急な石段をのぼり切ると二天門に立つ。 室町後期造営、左右に増長天と持国天が安置されている入母屋檜皮葺の立派な門だ。 さらに、金剛輪寺と書かれた堂々たる提灯と大きな草鞋、そして門の中には本堂らしきものが目の前に建つ。 その全体の風格と優美さは小癪な桃山ではとても足元にも及ばない。 視覚的には、木組みもまた一段としっかりし、室町独自の優雅さと重々しさが感じられる。 案内書には勅願は奈良時代の聖武天皇、湖東と呼ばれるこの地域全体に勢力を持っていた依智秦氏の創建とある。 つまり別名松尾寺、金剛輪寺はこの地の主のような寺域で、その後は近江源氏佐々木氏の厚い崇敬から沢山の僧坊を持ったようだ。 そういえば、よく見なかったがさっきの博物館、やたらに 依智秦氏の文字が踊っていた。 この周辺、平地は広く水も豊か、その主たちに多くの実りをもたらし続けたのだろう。
金剛輪寺もまた西明寺と同じく延暦寺に関わる天台密教の修業の地、近江の天台宗の寺はどこもだが、応仁の乱や信長の侵攻で大半の僧坊を失い、寺僧の計らいで二天門と塔と本堂を守っている。 おかげで、昭和や平成では決して生み出せない、あるいは守ることすら出来ない室町時代の風格と勢力を今に残してくれているのだ。 二天門をくぐるともう目の前は桁行き七間という大きな本堂、ここもまた小さな敷地に大きな本堂だ。 三重塔もまたかなり大きい。 本堂も室町前期の建立とあるが、金剛輪寺の塔はすでに立ち寄った常楽寺、長寿寺、長命寺、西明寺をも凌駕し、そそり立っている。 この塔は長らく荒廃し、無惨な姿であったとある、しかし、1978年に解体・復元が完了した。 その際、残されていたのは初重のみであったので、その他の部分の復元は近隣諸塔を参考にし、かつ本堂の規模に合わせ再建された。 西明寺でも感じたが、今回の近江の塔巡りは全く時期を得た旅と言って良い。 どこの寺々も周到に整備修復され、屋根を葺き替えも完了、古い建築物ではあるがみな健全に保守されている。 そして、その工事直後にボクは出向いたようだ。 そんな思いを持ちながら、出かける前に読んだ「五重の塔のはなし」という本を思い出した。 そこには驚くことに、平成は前代未聞の五重塔建設のブームであると書かれていた。 著者自身も、なぜ建設ブームかは解らないようだが、平成に入り全国に32基もの木造の五重塔が新設されたと書かれていた。 近江の塔のありがたい保全も、理由はともかく、その流れの一貫だろうか。 いづれにしろ、価値あるものが保存され、多くの人々の賞賛されつつ、時代を超えてゆこうとするのは素晴らしいことだ。
金剛輪寺の三重塔を再建するにあたって近隣の諸塔を調査し、それを参考とし建設したと案内書にあったので、東京に帰り、早速、建築学会に出かけた。 すぐに「 昭和58年刊金剛輪寺三重塔修理工事報告書」なるものが見つかった。 そこには近江の諸塔だけでなく、寺々の本堂もまた調査し、その採寸データも克明に記録されていた。 そして、もっとも貴重なコメント「 鎌倉時代は五間堂が標準、南北朝に入り七間堂へ移行する際、西明寺は旧堂を利用、金剛輪寺は新しく建て替えた。境内の広さからすると五間堂が好ましい」を読み、なるほどと思う同時にびっくりした。 西明寺で特に感じたことだが、金剛輪寺もまた、小さな敷地に小さな三重の塔と大きな本堂。 この不釣り合いの理由が、この書の濱田正士氏の報告で明確過ぎるほど明確だ。 近江の寺の大半はみな比叡山延暦寺に関わる天台密教の修行の場ということは何回も触れたが、その寺々はどこもみな大変な数の僧坊を持ち沢山の修行僧を抱えていた。 その僧坊の跡を歩いてみて気がつくことだが、その勢力の増長により五間堂の本堂はどこの寺も七間堂に増築せざるを得なかっことがよく解る。 だからこそ、信長はその一大勢力を削ぐべく、近江の寺を徹底的に焼き尽くさざるを得なかったのだろう。 しかし、さらに500年を経過した今、本堂と塔のみ残された近江の寺々を見学し、歴史は決して言葉でのみ残されるのではなく、建築の姿によっても語りうるということを改めて知った。 そして大事なことは、その規模、プロポーションのチグハグさは間違ってもデザインの不備にあったのではなく、歴史の言葉だったということだ。 今も昔も、秩序のない、不釣り合いな建築を最初からデザインすることなどあるはずは無い。 もっとも、デザイン力の無い人がデザインすれば、あるいは、敷地も見ずに白紙の画面に絵を書き始めるなら話は別だが。 そうなると、デザインは歴史の言葉どころか、喜劇いや悲劇だが。 どちらにしろ、建築は人に理解され無かろうが、気づか無かろうが、いつも何らかな言葉を語っている。 そして、ボクの塔を巡る旅いつも、その塔が語る言葉を聞き、鳥や風とともにある塔の音楽を聴く旅であると思っている。
三井寺の塔
前回の大津の園城寺はたしか建築仲間との光浄院・勧学院の客殿見学だった。 ともに園城寺の子院、17世紀はじめに再建された、典型的な桃山時代の書院造りの建築だ。 客殿の南に広がる伸びやかな庭園、敷き詰められた畳座敷の広がり、狩野派の障壁画、そして贅を尽くした床・棚・付書院の連続に目を奪われたのを覚えている。 しかし、今日は塔の見学。 三条京阪から浜大津で乗り換え石坂線で三井寺駅へ。 朝早く京の街を散歩してからだが、電車に乗ってからは30分ぐらいだろうか。 小さな駅を降り、琵琶湖疎水沿いを歩いた。 明治時代の京都の近代文明の証もいまはもう忘れられた小さな流れ。 趣もない家々に囲まれてはいるが、その一徹な護岸に導かれる澄んだ水の流れはどこか毅然としている。
橋を二つばかりやり過ごすと疎水の右手の山が園城寺の寺域、三井寺だ。 門を入ると案内人に呼び止められ、小さな紙の案内図に赤の色鉛筆で見学ルートを示された。 そう、逆コースからの入山者、広い境内をつつがなく回るにはこの色鉛筆説明は有効だった。 まずは見学者のいない参道を観音堂へ、大きな立木に覆われた緩い登りの道。 広い階段を登ると観音堂、振り返ると大きな立木越しに広い琵琶湖とその沿岸の大津の町が広がっている。 一頻り琵琶湖にへばりつく大津の町を眺めると参道に戻り、 お目当ての塔を目指した。 毘沙門堂から勧学院脇の階段を登り唐院の境内に立つと目の前は三重塔。
園城寺は天台寺門宗の総本山。 三井寺という別称は天智・天武・持統天皇の産湯に用いられたとされる泉があり「御井の寺」と呼ばれたことにあるようだ。 壬申の乱(672年)に破れた大友皇子の子が父の霊をともらい寺を創建、天武天皇から「園城」とい勅額を贈られたことがはじまる。 衰退していた大友氏の氏寺を再興したのは延暦寺の円珍、彼は859年、園城寺初代長吏となりこの寺を天台別院とした。 しかし、その後延暦寺は円任派と円珍派の対立が始まる。 やがて円珍派は993年叡山をおりて園城寺に入ることになる。 その後も二派の対立は終わることなく、延暦寺は山門派、園城寺は寺門派とよばれ抗争を継続する。 対立の中、園城寺は延暦寺山門派の焼き討ちに会う、さらに源平の争乱にも巻き込まれ衰退する。 しかし、園城寺は多くの高僧を輩出し、力は東大寺・興福寺・延暦寺に劣らず日本四箇大寺の一つと目され続けた。 建築的な意味では園城寺に大打撃を与えたのは秀吉だ。 理由不明だが秀吉は1595年けっしょ令なる意味不明の命令書でこの寺の堂宇は強制的に取り払った。 その時の園城寺金堂は、今に残り延暦寺西塔の釈迦堂となっている。 そして現在の金堂はなんと1599年北政所の建立、桃山時代の名建築として今日に残されている。 信長や秀吉が壊すと家康が再建、これは近江の寺のパターンかもしれないが、前回見学した二つの客殿ともども、現在の諸堂は秀吉のけっしょ令の後、北の政所、秀頼、家康によって再建または移築されたものといえるようだ。
そんなテーマパークのようなこの寺にとって特に面白いのは三重塔と仁王門だろう。 三重塔はもともと大和吉野の比蘇寺もので1392年の建立、その塔をなんと秀吉によって伏見城に移築された。 そして後、伏見城の塔は家康によってこの園城寺に1601年に移築されたのだ。 塔にとってはなんとも迷惑千万、秀吉君忘れ物だよとばかりに、家康はここ園城寺のもっとも重要な境内、円珍の霊廟である唐院の北に伏見城に運ばれた比蘇寺の三重塔を再建した。 家康君のおかげで、近江の塔を巡っているボクにとって、今回は吉野のまで足を延ばすことなく、もう一つの室町の塔を見学することができたということになる。 今ある園城寺のこの塔は広々とした唐院境内にある。 狭い山寺の境内に建つ塔ばかり見てきたのでなんとも大らかだ。 本瓦葺で高さ24.7mの塔は今回の一連の三重塔の中では最高の高さを持つ。 しかし、さすが広い境内に置かれた塔をみていると決して大きくは感じない。 印象としては常楽寺の塔と全く変わらない。
本瓦葺きであり、高さも同程度、時代的にもほとんど同じ、わずかに違うところはと考えると、ボクにはやはり常楽寺の塔の方が一枚上かなと思えてくる。 違いはどこにあるか、大きく異なるのは中備えとしての間斗束の扱いにある。 常楽寺は二層は三間すべてに、三層にもは中央には間斗束がある。 しかし、二層は同じだが園城寺の三層には間斗束がない。 多分、塔身幅の逓減がきつく、三層には中央とはいえ束を置く余裕はなかったのだろう。 本瓦葺きでも軒を深く見せ塔身を狭くするのは全体の姿として重要だが、細部デザインである斗供の大きさまでかっての比蘇寺では、その比率に従い小さくする事はできなかったのではなかろうか。 すでに触れたが、常楽寺は枝割の完成期、それは垂木の位置の問題だけではない、部材の大きさにも関わることであるはず。 あてずっぽうの推測だが、三層部分の斗供の部材寸法を常楽寺のように調整できなければ、比蘇寺においてはその塔身幅から間斗束を置くことは難しい。
歴史上の武将たちに楯突くつもりは毛頭ないのだが、もう一つ面白いのが、園城寺の表門である仁王門の移築。 この門は立派だ、今の園城寺いや三井寺にこそ相応しい。 しかし、この門はかって常楽寺にあった仁王門、1452年に建立された門だが、秀吉亡き後園城寺の再建を図る家康が1601年にここに移築している。 すでに書いたが常楽寺は甲良郡石部にあるいまや慎ましい、しかし、観光地ではないがすばらしい寺だ。 だからこそ、今回の近江の塔巡りでは最初に訪ねようとマークしていたのだが、この二層の二天門、その大らかさとバランスの良さ、あの塔を持つ常楽寺こそ相応しいと改めて感じた。 ボクの好む日本建築の大らかさは、斑鳩以降は鎌倉末期から室町初期がもっとも表現しえていると思っている。 古代とは異なり、自由に大材を使う事は出来なくなった反面、道具の進化で様々な工夫が可能になった。 その証拠となるものが枝割の工夫とバランスの完成。 それへの切磋琢磨が同時代の建築家たち、匠たちの生き様だ。 と、同時にボクにとってもう一つ、この園城寺の塔と門を見て気が付いたことがある。 それは信長、秀吉、家康がどんな関心を建築に対し持っていたかを考えてみること。 どうせ当てずっぽうだ、考えてみるだけでも面白い。 次回は思いつきだけでもまとめてみたい。

2013年5月10日金曜日

常楽寺、長寿寺、長命寺


常楽寺の塔
京都から連絡よく草津で乗り換えれば40分足らずで石部。 駅前からタクシーで10分(コミュニティバスは1時間に1本)も走れば常楽寺に着く。 観光コースにない塔のある街は人も車もなく、桜と新緑だけ。 携帯電話で連絡すると、住職が降りてきて門を開けてくれた。
管理人でもある彼はたった一人で塔を守っている。おかげで余分な草木は伐採され、遊歩道も整備されているので山中だが存分に散策見学が楽しめた。 常楽寺も歴史は古い、東大寺を建立した良弁が菩薩として祀られていて、和銅年間(708年から715年)に創建されたようだ。 しかし、1360年に落雷で堂塔を失う。幸い、天台宗延暦寺にも関わるこの寺はすぐにも本堂は再建され(勧進状)、1400年(瓦銘)には本瓦葺の三重塔も再建された。 この塔は見逃せない、今回、最初に訪れようと決めていたのはこの寺だ。
その理由は枝割にある。 枝割とはルネサンス建築にある、比例によるデザイン手法と考えて良い。 日本建築でも同様で、建築の細部を設計する際、全体と関連を明確にし、バランスをとり部材の大きさや間隔を決めている。 いつの場合でも建築のプロポーションは柱間と呼ぶ柱と柱の間隔、その本数による全体の大きさ、そして建築の高さ、柱の太さ等で建築の美しさは決まる。 それは音楽と同様、建築はまさに数学の子どもだからだ。 木造の堂塔の建築となれば、美しく見せるためには、斗キョウの幅や垂木の成に本数や間隔という、細部まで入念にバランスをとるのは当然だ。 しかし、その手法化の読みとりとなると容易ではない。 枝割法は簡単に言えば、垂木間の距離と垂木幅と成の関係を同一比で連続させるものと言って良い。 上層に行けば柱間も本数も変わるが、枝割だけは完全に守られる。
1400年の常楽寺の三重塔はこの枝割が完全に整った最古の例と考えられている。 今回、事前に連絡もせず訪れたにも関わらず、携帯電話だけで開門していただき、さらに、高低の変化の激しい境内を十分に管理され、存分に塔の細部を見学できるよう図られた、和尚さんにはただただ感謝感謝だった。 なるほど、決して大きくはないが堂々とした美しい塔だ。 それを的確に写し撮るにはもう一つ能力が必要だが、新緑の中、下から上から、真正面から、近づき、遠のき振りかえる。 マークしていた帰りのバス時刻を大幅にやり過ごし、ひとり、歩き続けた。
長寿寺
石部の常楽寺の東、田園の間道1キロ余り歩くと長寿寺に着く。 間道から山側へ右へ入ると程なく山門。 山門の両側はモミジの新緑、木の間越しの右手は学校のグランドのようだ。 新緑の中の一直線の参道を進むと、決して大きくないが泰然とした本堂が見えてくる。 この寺にも三重塔はあったはずだが、いまはない。
残されているの本堂と入り口の山門だけ。 どうやら塔を奪ったのは戦争でも雷でもなく信長のようだ。 比叡山延暦寺を焼いた織田信長、近江には延暦寺に関わる寺が多いだけに、その堂塔は悉く彼に焼かれている。 しかし、どう言うわけか、この寺の三重塔だけは安土城の築城にあわせ、その城内に移築されたとある。 本堂の左側の1mほどの高台には小さな神社の社が建つが、その更に左奥が長寿寺の塔の跡地のようだ。 礎石は残されたと案内書には書かれているが、目に見えたのは、およそ10m四方の水たまりだけのうら寂しい情景。
鎌倉初期の建造と言われる本堂は寄棟檜皮葺の屋根を正面に向け、単純だが古色蒼然とした風格ある建築だった。 深い向拝の奥の左右の連子窓がとても端正にリズムを刻み、完成された和様式の美しさを放っている。 持参した案内書にはこんな解説が書かれている。 「方五間の穏やかな外観は中世の古刹の威風。外陣と内陣の天井がそれぞれ独立し、古代密教系仏堂が持つ礼堂と正堂の仏堂構成。それは二つの建築の併置だが、ここでは計画的に一つの空間を、単に区切ることではなく、天井や床の構成によって互いに異質な独立した世界を作り上げている。つまり、一つの建築の中を立体的な結界により二つの世界に分離し、その二つの世界を一つの建築として連結している。」 先の常楽寺同様この寺も事前に連絡して訪れた訳ではない。 当然、本堂の入り口の桟唐戸は固く閉じられている。 携帯電話で呼び出してみたが、どこからも、どなたさまも現れる気配はない。 四周をめぐり、5間四方の正方形平面の外周を巡り、その内部の二つの世界は想像の目のみの確認で立ち去ることとなった。
長命寺の塔
ヴォーリーズの建築見学で近江八幡は何回か訪れたが、琵琶湖際に建つこの寺を見学するのは初めてだ。 近江の塔を見て回る、というのが今回の目論見だが、この寺を何時にするか決めかねていた。 石部の常楽寺・長寿寺が思いの外、効率よく見学できたので同じ日の午後、草津から近江八幡まで足を延ばすことにした。 天気も良いし、バス待ちの時間での遅めの腹ごしらえも無事完了。 長命寺港行きのバスはたった一人の乗客を乗せ快調に出発した。 終点は小さなバスターミナル、目の前は雲一つない静かな湖辺。 さて参道は、と探し回ると売店のおじさんが教えてくれた。 「この階段の上だよ!」
えっ、この階段! いや、見上げても、見上げても石段ばかり。 石段と言うより、自然石の山道だ、歩きにくいし、歩幅もきつそう。 左脇にある神社前の車道を横睨みしつつ、言われるまま、山道の石段を登り始めた。 いやぁ、きついの何の、5分も登れば汗びっしょり。 樹林の中、日差しはないが風もない、ひとしきり登れば息が切れ、膝ががくがく。 そして、思わず立ち止まり、上方に目を向ける。 荒れた自然石の石段はまだまだ彼方上方へ、見下ろせば、登ってきたはずの山道は、はるか下方へと続いている。 そう、5回いや10回ほど足が止まっただろうか、息切れも当然だが、足元のふらつきが恐ろしい。 こんなはずではない、そんなにひ弱なはずはない、と言い聞かせながら必死に登る。 30分か1時間か、時間間隔は定かではない。 半日がかりの地獄のような気がしたが、もうだめと思った頃、樹林の中、山門らしきものが見えてきた。 山門をくぐってもまだ堂宇は見えてこない、そしてまたまた延々と感じる自然石の山道が続く。 登り切ると正面は舞台の上の本堂らしき建築。 そして、右手に三重塔、やっとの思いの到着だ。 眺める力もなく、左手の最後の数段を上り、ただただ目の前の石のベンチに腰を下ろした。 呆然と前方を眺めると木の間から白い湖。 風らしきものも感じるがたどり着いた伽藍配置や本堂、塔には目もくれずペットボトルにかじりついた。 ふっと思い出した、駅前のほんのひとときのバス待ちの時。 あの時は、こんな突然の山登りの意識も気配もなく、何気なく自動販売機にコインを落とし、小さなボトルをバックに入れていた。 いまや、このボトルこそ命づな、長命寺なんて名ばかりで、この山のどこにそんな、命を長らえる仕掛けを持っているというのか。 命綱を一気に飲み干し、ようやっと、白い湖から目を離し、左脇の堂宇を眺める。
近江の寺は天台宗が多い。 みな、叡山の延暦寺に関わるそうだ。 しかし、いわれは様々で、この寺は武内宿禰がこの地のヤナギの巨木に寿命長遠の願いを彫ったことに始まる。 これを知った聖徳太子がその木をで仏像を彫り、それを安置し長命寺を創建したという。 なるほど、やはりここは長命を願うところ、確かに、山門を潜るまで何回も殺されたような気がする。 願うも願わざるも、ここにいて湖を眺めていられるのは長命だからこその結果ではないか。 冗談はさておき、ひとごこちして周辺の堂宇を見学する。 目的は塔だ、三重、三間、柿葺きの小さな塔が左手の目の前にある。 漆ではないだろうが、くすんだ赤に塗られたずんぐりむっくりした室町の塔、擬宝珠の銘からは1597年 、秀吉の時代の建設。 そうか、なるほど、信長に従い秀吉も近江の寺はたくさん焼いただろうが、天下一になり、今度は長命を願いこの塔を再建したということか。 そんなことはどこにも書いていない、まぁ、ゲスの勘ぐりだが、塔はその後のメンテナンスも行き届いていて、傷みはどこにもみあたらない。 石段の上に建つから初重には広縁がない古代の造りかと思ったが、そんなことはない、奈良・平安とはことなり後世の塔、基段に載る形式ではなく品のいい高欄付きの広縁に腹石が隠されていた。 見上げると垂木等の部材は小さめだが、枝割のバランスも過不足ない。 全体は厳めしさもなく柔らかで、しかも泰然としている。 長命を願う塔には相応しい、清々しい美しさが感じられた。
蛇足だが、書き足しておこう。 茶店のおやじに言われまま、必死の思いで部活の体力作りのような階段を登ってきたが、なんのことはない、観光バスやタクシーなら、山門脇まで登れるようだ。 そこには大きくはないが立派な駐車場がある。 登り口にあった神社脇の車道はやっぱり、観光客用の参道、大型バスのための道路だった。 そうだろう、秋の紅葉を愛でる人々、そして長寿を願う現代の老若男女、この迂回路が無ければそう簡単には御利益に到達できない。