2012年12月20日木曜日

李陵 中島敦


李陵が面白い。 匈奴と戦った漢の武帝の時代の司馬遷、蘇武、李陵という3人の逸材の話だ。 中島敦の小説、青空文庫45ページ足らずだが、出来の良い映画1本しっかり見たという気分。 古くさい文体が紀元前一世紀の男臭さい武人にはピッタリ。

2012年12月15日土曜日

加賀藩下屋敷と石神井川

師走の休日、15人ほどの建築仲間は午後0:30、JR板橋駅に集まった。 池袋から一駅だが、ボク自身ははじめて降りた駅、小さな改札口を出ると雨脚は強まってきた。 ここのところ天気予報は時間単位でもよく当たる。 
時間通り集まった仲間たち、再会の挨拶もそこそこに年末飾りの提灯で埋められた駅前広場を通りぬけ、まずは近藤勇の墓を参る。 友人が準備した今日の街歩きメモ「北区に残る戦争遺跡を訪ね 地域遺産の保存と活用を考える」のトップに新選組の祭祀を目的とする最初期の供養塔として貴重とある。 
今日のテーマは東京の城北地域の景観と歴史、その主役は加賀前田藩下屋敷と石神井川。 武蔵境で玉川上水から分水され開削された千川上水は城北地域の尾根を進み、板橋駅あたりから北は石神井川、南は妙正寺川へと流れていく。 
今は暗渠のため見えないが、埼京線に並行し北に向かい、中山道(国道17号)を越えると程なく石神井川。 暗渠となった千川上水が石神井川に流れ込む放水口、その周辺がかっての加賀藩下屋敷の21万坪。 その後、明治新政府は3万坪の敷地に陸軍の西洋式火薬製造所や石神井川を動力とした火薬製造を行ったことから、この地には旧陸軍省の主要施設の幾つかが作られることになった。
 はじめて歩いた石神井川、葉も落ちた桜の木の大木が並び、技術的処理で清流化した水にはマルマル太った鴨が群れていた。(旨そうな=笑い) 冷たい雨が降る初冬の街歩きだが、まだまだ知らない都心の景勝地。 それほど寒くはない午後の気の置けない仲間たちとの散歩は何とも楽しい。
 夜間人口が最も高い地域の割には高層マンションはなく、その分、コンビニよりも小さな商店が軒並み健在。 戦争遺産の建物と環境も区民センターや東京一の図書館や公園に転用され、なんとも心豊かな半日。 街歩き後の忘年会のことを知らず、今日は家族との夕食の約束を守るため、ボクだけ友人たちと別れた。 十条駅で電車を待つと、これもまた時間通り、冷たい雨はピタリと止んでいた。

2012年11月26日月曜日

藝大のハイドン・シリーズ 

1999年からの芸大ハイドン・シリーズは今年で終わり、11月30日のチェンバーオーケストラのシンフォニー「奇跡」で幕を閉じるようです。毎年楽しませていただいたハイドンファンにとっては寂しいかぎりです。しかし、最終曲がシンフォニー第96番とは面白い。ハイドンは30年も仕えたエステルハージを離れ、初めてのロンドン。そこではこの曲が初演され大喝采。初演時にシャンデリアが落下する事故が起こるが、幸い観客にけが人が出ず、奇跡と名付けられたという逸話まで生まれた。ロンドンで奇跡を演奏したハイドンは再びオーストリアにもどっている。つまり芸大のハイドンも一旦ロンドン・セットで幕を閉じ、再び遠からず復活させるつもりのようだ。

今日は最終回の初日、全曲カルテットのプログラム。芸大卒業生のセノーテ・カルテットとウィーンで学び活躍しているポーランド出身の若手男性アポロン・ミューザゲート・カルテットの競演。なんとも贅沢な演奏会でした。さらに贅沢だったのは、オーストリアの歴史と美学の研究者ハーラルト・ハースルマイア氏のお話が聞けたこと。彼はハイドンによる古典主義の始まりについて簡明に話された。プロテスタント・ドイツと異なるカソリック・ハプスブルグの啓蒙時代にあっていかにハイドンの音楽が重要であったかと言う内容。修辞学から音楽の言語へ、一方的な宇宙の秩序原理から離れ、いかに現実を捉え人間の判断・言葉として世界を切り開くか。意訳すれば韻文の時代から散文の時代への狭間としてのハイドン音楽の役割。それはボクの大学での講義テーマ、16世紀イタリアの建築の役割に共通する内容だった。思い返せば、11月は毎年ハイドンの月。この月だけはオペラやカンタータより、カルテットやシンフォニーのソナタを聞く機会が多かった気がする。原因はこの芸大のハイドン・シリーズにあったのかもしれない。今年も30日と1日は津田ホール、ハイドンはまだまだ続く。

2012年11月12日月曜日

アイロンと朝の詩人 堀江敏幸


「雪あかり日記」と「せせらぎ日記」を書いた建築家谷口吉郎の建築作品、馬籠の「藤村記念堂」のことを作家堀江敏幸が「ほの明るさの記」と題したアンソロジーにまとめ「アイロンと朝の詩人」に載せている。 

建築は戦後まもない頃の貧しい寒村、その地の出身者のために、この地に住まう村人の手で、まるで中世の僧院を建てるがごとく建設されている。 美濃と木曾の境にある馬籠は藤村の誕生の地、美濃に生まれた堀江はこどもの頃、なに知ることなくこの建築に触れている。そしてその時の印象を以下のように書いている。 

「四角い敷地の一片だけに伸びた、かろうじて通路とは呼ぶことができてもそれ以上はどのような用途があるのかまことに曖昧な、小屋でも家でもないその空間が、ほんのちょっと怖かったのだ。気味が悪かった、と言ってもいい。どこへ通じているのか、わくわくすると同時に、足をすくませるなにかがそこにはあった。庭と呼びうる内側はあるのに、その表がない。閉じる装置はあるのに、まんなかがぼっこりと口を開けていてほの明るく、ほんとうの闇が降ってこない。それでいながら、なぜか本質的な暗さが偏在し、同時にその暗さを砕く明るさもあるといったぐあいなのだ。」「ほの明るさの記」からの引用。

 実は先々月の末、40年ぶりにこの建築を訪ねたので、その建築経験を一文の感想としてブログにしたいと思っていた。 
しかし、どうしてもこの「ほの明るさの記」が頭をよぎる。 当たり前といえば当たり前、若くして数々の文学賞を取っている名文家の力。 
しかし、建築の持つ面白さ、美しさはこのような想像力を掻き立てる文章でいつも読んでみたい思っている。 
さらにまた引用だが、堀江氏はこの建築について、いや建築の持つ本来の意味について以下のように書いている。 
「多くの評者が指摘するとおり、なにもなくなった地点から空間をたちあげて、建物ではなく「場」の形成をもくろむ試みとも解釈しうるものだった。」

2012年10月24日水曜日

最終目的地 ピーター・キャメロン

物語はユルス・グントの「ゴンドラ」に始まりホフマン物語の「舟歌」に終わる。 といっても、舞台はイタリアのヴェネツィアではない、オチョス・リオスだ。 オチョス・リオスは八本の川という意味だが、それは地名ではなく、ユルスの自殺で残された妻(キャロライン)とユルスの愛人(アーデン)と愛人の娘(ポーシャ)の3人が住まう、古めかしい塔のある屋敷の名前。 近くにはユルスの兄アダムと彼の愛人ピート(映画では日本人真田広之が演じる、原作はタイ人)が住まう、製粉所を改装した石造りの丸い建物があるが、周辺は樹林と畑と湿地と小さな湖だけ、他には人家はひとつも無い。 「最終目的地」の舞台は、南米のウルグァイの辺境の小世界。 その小世界にイラン生まれのオマー・ラザキがやってくる。 オマーはアメリカ コロラド大学の文学研究生、彼は「ゴンドラ」の作家であるユルス・グントの伝記を書き、ガールフレンドとの同居を続けるための奨学金が欲しかった。 伝記を書き奨学金を得るためには、残された家族であるユルスの兄や妻や愛人の執筆をする許可と取材が必要となる。 彼は恋人、アメリカ人ディアドラ・マッカーサーに励まされ、大学のあるカンザスから遥々とウルグァイの辺境を訪ねる。 アダムとユルスの母はかなり裕福なユダヤ人一族の娘、ナチスに追われた家族はドイツを逃げ、このウルガイのオチョス・リオスに屋敷を構える。 アダムとユルス兄弟もオチョス・リオスに住み続けるが、やがて、両親を失う。 作家である弟ユルスはフランス生まれのキョロライン(映画ではロシア生まれ)と結婚するが、カナダ生まれのアーデンとの間に娘ポーシャを得る。何故、出生をことごとくメモするかというと、辺境のオチョス・リオスに居住する多民族家族の物語でもあるからだ。 しかし、ユルスは「ゴンドラ」に続く二冊目を書き終えたのか、終えなかったのか、彼は新たな出版を待たず、理由不明のまま自殺してしまう。 ユルスの書いた「ゴンドラ」はナチスに追われたユダヤ人家族の物語、イラク人の文学生オマーはその執筆者に関心を寄せ伝記を書こうとしているのだが、どうやらユルスの二作目は「ゴンドラ」以降のオチョス・リオスに今を生きるアダム、キャロライン、アーデン、ポーシャ、ピートの物語のようだ。複雑な家族像の現在を描いたユルスは何故、死ななければならなかったのか、その疑問は映画はもちろん、小説でもミステリアスのまま終わっている。 兄のアダムはかってはシュトゥットガルトのオペラ座の支配人、多くの人とかかわり華やかに生きていた。そんな、アダムはピートを愛人とし、この辺境に共に住んでいる。 アダムが語る愛人ピートはバンコックの売春婦の息子。 17歳の時、あるドイツ人の男がシュトゥットガルトに連れて来る、そこでアダムと出会う。 ピートはその時、劇場の大道具係だった。 なんとも複雑な人間関係、映画を見るだけでは、とても読み取れそうもない。 ナチに追われたグント家族、と言ってもバラバラな5人だが、彼らが住まうウルグァイの辺境は題名通り「最終目的地」なのだろうか。 小説ではオチョス・リオスは塔のある屋敷、製粉所は丸い建物だが、映画(監督はジェームス・アイヴォリー)ではその外観は判然としない。 しかし、小説では説明出来ない住人たちの個々の部屋のインテリアが映画ではかなり個性的、克明に描かれる。 そのインテリアは全くバラバラ、個々の雰囲気は緻密に彼ら一人一人の自意識を象徴しているかのように設えられていて、とても興味深い。 事実、この物語は感情を理知的に洒脱な言葉で語る、自意識の強い個性的な人たちによる会話劇。 理知的であるがためその言葉は時に鋭く、相手を傷つける。 しかし彼らの言葉には悪意はない。 みなやさしい、そして哀しい小世界の住人たちの独り言。 ボクはいま何を書いているのだろう、舞台と人間関係を読まされだけでは、ちっとも面白くはない。 しかし、人間関係以上にさらに複雑なこのドラマの中身を書いても意味がない。 意味がないどころか、このドラマにはドラマチックな場面などどこにもない。 ゴンドラも宝石の密輸もどうでもいいんだ。 でも、面白い、関係も舞台もその目的地も。 映画も小説もすべてがミステリアスだ。 一級の文芸ドラマとはいつもこういう世界。 なんとなく、昔の村上春樹の小説にも似ている。 語られる全体は個性的な個々人の様々な場所でのドラマだが、本当に面白いドラマにはその背後にもう一つのドラマが隠されている。 そのドラマは読み手のドラマだが、書き手はそのドラマを目的地を示さず、ナビゲーションする。 だからこそ「最終目的地」。 いや、 オチョス・リオスは人生の始まりかもしれない。 「永遠に生きたいとは思わないが、しばらく生きる分には人生は悪くない」、 あるいは「うわべは優雅で理知的だが裏にはディケンズの屋敷が隠されている」。 小説で読む老獪なアダムの言葉は記憶に残っていたが、同じ言葉を映画で語るシーンのアンソニー・ホプキンス(アダム)には唸ってしまった。 読んでから見るを立て前としているので、映画の上映を知り、あわてて読んだこの物語、最近になく、とてつもなく面白かった。 そして、映画を観た、もっともっと面白かった。 だからこそ、一昨日読み終わり、今晩はシネマート新宿。 そして今、記憶がさめぬ間にブログにしている。 当然のこと小説には書かれてはいるが、映画では省かれている部分は沢山ある。 興味深いのはオマーとアーデンのふたりが、昔、グント家の両親がヴェネツィアから持ち込んだゴンドラを見に行くシーン。 このドラマの主要な変局点であるだけに言葉と映像はことごとく一致しない。 小説家は言葉として粋を凝らし、映画作家は映画としての絵に悉くこだわったからだ。 もっとも感心したのはラストのオペラのシーン、小説では誰もが知るホフマン物語の舟歌、 しかし、いくらテーマが「ゴンドラ」でも、この哀切な二重唱を映画で聴かせてしまったら、映画は隠喩も引用もないベタで平凡な喜劇で終わってしまう。 さすが「日の名残り」のジェームス・アイヴォリー、「舟歌」に代わり、なんとモーツァルトの「バスティアンとバスティエンヌ」をラストに持ってきた。 当然ながら、小説の文章がそのまますべて映画になるはずはない。 同時に、文章以上に映像で語れることも少なくない。 前述した部分は主に小説に書かれていた事柄だが、小説では無理だが、映画なら自在に持ち込める音や音楽の数々がとても意味深い。 アイヴォリー監督が巧妙に使った音楽を、気がつくところ、その曲名を列記しておこう。 グルックのオルフェオとエウリディーチェ、「エウリディーチェを失って」 レハールのメリー・ウィドウ、「ヴィリアの歌」 プーランクの「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」 蛇足だが、 小説のなかのラストシーン、それは、ホフマン物語の舟歌。 ニクラウスとジュリエッタの二重唱を記しておこう。 いや、蛇足ではない、 原作者ピーター・キャメロンのThe City of Your Final Destination、 それはやはり、ヴェネツィアの「ゴンドラ」のことかもしれない。 時は去り、二度と戻らず。 燃え上がるそよ風よ、 私達を愛撫しておくれ、 私達に口づけをしておくれ! ああ!美しい夜、おお恋の夜、 おお、美しい恋の夜よ!

2012年10月12日金曜日

オペラ・パレスの「ピーター・グライムズ」

ここのところお気に入りのオペラと言えば、シモン・ボッカネグラとオテロだが、今日、4年ぶりに「ピーター・グライムズ」を聴いて、改めて魅せられた。
初めて聴き、その音楽と内容の深さに圧倒され、一度は劇場で聴いてみたいと思い、この春、チケットを手に入れ待ちに待っていた。

初台の舞台は大拍手、大満足の3時間、なんと言っても音楽が素晴らしい。 オペラだから音楽なのは当たり前、しかし、器楽演奏は決して歌曲のための伴奏では終わらない。
このオペラでは歌手以上に雄弁。 このドラマの持つ意味深い低流に深く深くわけいっていく。
それはドラマの空間を生み出し、観客の心情を鼓舞する。 さらにその心情を代弁し、舞台上のドラマに観客自身が参加しているかのような体験を生み出して行く。

こんなオペラはほとんど経験ない、20世紀イギリスのベンジャミン・ブリテンの作曲、まさに、現代の魔術、最高傑作と言って良いのだろう。
すでにその間奏曲とパッサカリアは管弦楽曲としても有名、独立してコンサートホールでも演奏されるがやはりオペラの中の音楽だ。
その音楽は耳で聴く音楽ではない、意味にわけいる音楽。

ピーター・グライムズのドラマは意味深い、その心情はとてつもなく複雑だ。
孤立した男の児童虐待の物語ではなく、少年愛の物語でもない。
無慈悲な運命や社会の犠牲者の話でもなければ、孤立を愛する生きざまでもない。
舞台となる海の寒村オールドバラはブリテンの故郷でもあるようだが、神のいない海と陸、あるいは形骸化した神のもとの人間たち、個(=海)と集団(=陸あるいは村)をどう生きるかがテーマなのだ。

ドラマの中では海の寒村であるだけに、動物化した集団の持つ言葉が恐ろしい。 その武器となる「噂」が巧みに音楽化され、終始このオペラの通奏低音となっている。
もっとも、当のブリテン自身はこのオペラは単純なもので、「社会がより残忍になれば、人もまたより残忍になる」と語っているに過ぎない。

今日の初台に戻ろう。 例によって上階第一列中央、オペラグラスでの観劇だが、舞台構成は抜群だ。
二枚のスクリーン、その変化が生み出す光と情景、音楽同様、観客の心情を誘導する巧みな手法。 モノトーンに終始するドラマのづくりではライテイングこそ舞台の主役にちがいない。

演奏の話はすでにした、音の多彩さはボクの好み。 その表現も多様だが、決して突っ走らない、折り目正しい演奏にはこのオペラの主役である合唱と共に大拍手だ。
もちろん、演ずる歌手や少年にも拍手喝采。 しかし、高音が美しい主役のふたり、スチュアート・スケルトンとスーザン・グリットン、このオペラではもっと野性味がある方がボクの好みだ。

2012年10月7日日曜日

カルミナ・ブラーナ

めぐろパーシモンで「カルミナ・ブラーナ」を聴く。 7月にこのホールでロッシーニの「ミサ・ソレネッレ」を聴かせていただいた。 今回はロッシーニに次ぐカール・オルフ。 素晴らしい演奏でした。 いや、凄かった、美しかった、面白かった、形容詞が見つかりません。 今日はパーシモン開館10周年の記念コンサートです。 そのために沢山の応募者を集めてのカルミナ・ブラーナ合唱団。 とても素人集団とは思えないアンサンブル、加えてひばり児童合唱団、 聴かせていただき、こんな素晴らしいホールと演奏を持つ「めぐろ」、 ほんとうに凄いなと思いました。 いつもの1200席の会場を200席減らし、拡大した舞台には200人を超す合唱団と100人近い演奏者、会場はそれだけで圧倒されます。 そして、カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」の壮大な面白さ、 それは簡単には説明できません、まぁ聴いてみて下さい。 楽曲の多彩さ、パッカーション主導による現代的なリズム感の面白さ。 古い世俗的な詩を判りやすく、興味深い物語にした面白さ。 ・・・・・・ 9月に入り、連続してキープしていおいたガラ・コンサートのチケット。 所用が重なり三回も反古にしてしまったが、 今日はようやっと、本当に満足できる演奏に出会えました。 目黒区の皆さん、芸大OBの皆さん、児童合唱団の皆さん、ありがとう。

2012年9月30日日曜日

バレエに生きる、パリ・オペラ座のふたり

ル・シネマの「パリ・オペラ座のふたり」を観る。 バレエを薦めてくれる人がいて、この2・3年、TVではよく観るようになった。 中でもルグリの「ドン・キホーテ」は印象的。 長らく、彼のyoutubeのクリップを楽しんだが、今はすべて削除されている。 そんな印象からこの映画はマークしていた。そして、雨の降る前に渋谷に向かう。 台風17号接近、館内は10人足らず、しかし、内容は期待通り、充分に楽しんだ。 映像はまず19世紀パリ大改造の目ダマとなった建築「オペラ座」。 今ではその設計者の名前からガルニエ座と呼ばれているが、 パリ・オペラ座の内部外部が克明に映し出される。 この建築の建設時はオペラが中心、しかしやがて、バレエの殿堂に変わる。 その建設と変遷はガルニエの師匠であるデュクをコンペで破る事から始まる「建築物語」として面白いが、今日のブログのテーマではない。 ドガが通いつめた「踊り子」の舞台だったとだけ言っておこう。 映画はこのガルニエ座で60年間踊り続けたギレーヌ・ステマーとピエール・ラコットの豪華で華麗なふたりの人生。 ただただうっとりするような音楽とダンサーたちが次々と舞う夢のような世界。 そんな世界が延々と今もまだ続いている。 思うに、都市も建築も美術も音楽もオペラも、この100年間に大きく変わった。 しかし、古典バレエを追求し続けるふたりのバレエ、それは今も生き、今後もきっと生き続けるだろう。 そして、疑問は何故?現代バレエも楽しいが、何故、まだ古典が生きているのか? 見終わった渋谷の雨と風と人ごみの中、ボケボケの脳内には何故何故何故ばかりが響き続ける。

2012年9月29日土曜日

藝大の「ドン・ジョヴァンニ」


ドン・ジョヴァンニ 芸大奏楽堂
ダンテの地獄の門に始まり、門に終わる今日のドン・ジョヴァンニ。
充分に楽しみました。
 上手を軸に20度に振られた門とスロープによる舞台構成は終始代わらないが、額縁の中の額縁を生かした舞台はシンプルだがメリハリがあり躍動的。 
内容はいつもと変わらない、勧善懲悪だが、歌い手たちの爽やかな響きは若々しくて気持ちがよい。 
レポレロ(清水那由太)の声も身体も太いバリトンと可愛らしいツェルリーナ(藤井冴)の響きと仕草はボクの好み、拍手拍手だ。
一言加えれば、第一幕は圧倒的素晴らしい、しかし、二幕は聴く側のボク自身が少しだれた。
何故だろう。

公演とは一切関係はないが、ボクのお気に入り、ドン・ジョヴァンニのセレナーデ、最近見つけたレミーの窓辺においで、Youtubeへリンクです。

2012年9月15日土曜日

ラファエロのアテネの学堂

ローマのバチカンの署名の間に「アテネの学堂」と呼ばれる壁画がある、盛期ルネサンスの名作。

ラファエロ・サンティは1510年、ユリウス二世の命によりこの絵を完成させた。

大きな半円形の画面のなかに、古代的建物を背景とした哲学者、科学者というギリシャの賢人たちの群像。その絵画の中に描かれた人々は現実のルネサンスの賢人たち。

古代の哲人の衣をまとい光の中を悠然と歩く画面の中の彼らの姿から、ルネサンスの人々の持つ理想的人間像が劇場的感覚をもって迫ってくる。

舞台背景となるのは厳正な左右対称、壁龕には神話的人物の彫刻像、ヴォールト天井は角型のピラスター(半柱)で支えられ、高貴な輝きに充ち、ゆるぎない安定感を放っている、屋根のない古代建築。

この絵画はルネサンスの舞台構成とまったく同質です。

透視画法の画面の中のシンボルは、この場合画面を彩る様々な人物だが、序列なく等質・等方に配置され、空間には入れ子あるいは代替可能の原則が貫かれている。

舞台とは変幻自在性を持った仮構による虚構の場、その中の役者は一時的な役割を演じるシンボルにすぎない。

「アテネの学堂」はまさに透視画法により構成された、ルネサンスの賢人たちが演じる舞台空間なのです。 

透視画法による序列なく等質・等方に配置されたシンボルの空間は、観客にとっては自由に想像的(イマージナル)に関われる虚構の世界、しかし、この想像的自由な虚構の場であることがとても重要。

やがて見るバロックの舞台空間、そこでの透視画法は観客の想像的自由を生み出す装置ではなく、特定の人間の操作による幻想的(イリュージュナル)な空間に変容する。

オペラはこのイリュージュナルな空間が基盤となって生み出された作品的世界と言えます。

しかし、「アテネの学堂」は幻想ではなく想像的世界。幻想的に透視画法を操作したのは権力の顕現をもくろむバロックの君主たち、彼らが必要とする恣意的な空間がやがてオペラを生み出して行く。

 話を「アテネの学堂」に戻そう。画面の中央はプラトンとアリストテラス。左側を歩くプラトンは「ティマイオス」を小脇に抱え、右手で天を差し、イデアの在り方を示す。

「エティカ」を持つアリストテラス、天と地の間に右掌を広げ、イデアはそれ自身だけでは存在せず、個々の事物の姿となって存在することを示している。

そして演じるのは、レオナルド・ダヴィンチがプラトン、ニコマコス倫理学書を持つアリストテレスは不明だが、前方中央の階段下で書き物をするヘラクレイトスはミケランジェロ。

上手(右)床の上の黒板にコンパスをあてるのはブラマンテが演じるユークリッド、その他ソクラテス、ピュタゴラス、ディオゲネス、ゾロアスター、プトレマイオス、アルキメデス、エピクロス、パルメニデス、アルキピアデスと各々が様々なポーズを取っての総勢53人もの人物、右袖の柱の陰からわずかに顔を出すラファエロ自身も登場する。 絵画は虚構の空間による一遍のドラマ。

建築の壁面にあって空間の形成に参加していた絵画は、建築とは無関係に、建築の壁面に関わることなく、一個の独立した存在として、自らのうちに独自の空間を形成し始めた。

それは絵画の自立、と同時に建築の解体。絵画のみで世界を表現することが可能となった。透視画法によるアナザーワールドの発見により建築は従来の役割を終え、新しい役割を課せられるようになる。

空間が絵画で表現できるのなら、建築は実用的な箱、つまり、近代建築の始まり。

建築は表現の場から実体的空間としての役割を重視しなければならなくなったのです。

しかし、建築家はすべて実体に関わる技術者のみの道を歩めば良い、という訳ではない。

世界を生み出す役割とそのコンセプトを表現する役割は画家の役割だが、画家と同時に建築家自身も新たなテーマを発見し、自らがその問題に答えていく、という役割も浮上した。

神に変わり人間自らが問題を発見し、その問題に答えていく、という近代建築の持つプログレマティズムは、透視画法の開いた新たな使命、生まれたばかりの建築家が果たなければらない重要な役割となった。 

透視画法が生み出すアナザーワールドは近代の建築家を誕生させ、その彼に新たな役割を課す一方、画家と彫刻家の役割をもまた明確にした。

透視画法は彫刻によらなくとも三次元の像を作り出すことも可能となった。

従って、彫刻家の仕事は立体を作り出すこと、画家の仕事は空間全体を描きだすこと。

画家は人物像の周りに、建築を描くことで空間を生み出すことが役割。

一方、画家は空間を生み出すと共に、部屋を取り囲む建築の持つ壁体をも解体する、そしてついには、平な天井にドーム天井を描くことで、重たい危険なドームを実際に作ることなくして、天上の世界を表現した。

(図版いくつか)つまり、画家は実際の建築を超え、自由に建築空間を想像することが出来たのです。

2012年9月14日金曜日

アルベルティの理想都市

具体的に都市を計画する、ということはどの地域でもどの時代でもなされている。
碁盤目状の道路割等を導入し、実利的にも観念的にも選択された一地域に、何らかの秩序を導こうという手法は、ヨーロッパ・古代中国、平安京日本もまた同じ。
しかし、アルベルティの「建築論」の特徴は物理的な計画以上に人間が在るべき「理想的(アイデアル)社会」という考えを示したことにある。
そして、つぎにその考えを一つの町の計画に具体的に当てはめていく。
街路、広場、建物という都市の構成要素は機能的であると同時に、都市全体は威厳を持ち、秩序だつように計画する、その為には具体的にどう配置するか。
アルベルティは部分としての個の充実と全体としての集団の秩序だった調和を重視するコンキンニタスという言葉を採用した。
彼は「絵画論」で絵画の技法を実践から論理化を示したように、「建築論」では都市と建築の構成方法を論理化したのだ。

都市のための敷地の選び方、防御のための城砦のかたち、そして人々が秩序だって共存できるための都市の様々な構成要素の配置の仕方。
都市はゾーニングし性格付けられたいくつかの町の集合であり、町の威厳を持たせる為には、道路は広くて真っ直ぐが良いが、もし蛇行しているならば川の流れのように大きく曲がらなければならない。
あるいは建物の高さも統一し、規則正しく並べるべきであり、道路の交差するところには広場や重要な建築を置き、その装飾要素としてアーチを設けるようにと書いている。
川の流れのような道路を作ろうとか、子どもと広場の関係を克明に触れようとするこの書の記述はかなり具体的。
アイデアルな建築論であるがその論述は「家族論」に似て、きわめて人間的。
アルベルティの人となりをも見えてくるので、いささか長いが以下に引用する。

「都市の中に入れば、道は直進せず川の流れのように緩い湾曲を描いて、ここかしこ繰り返し部分的に曲がるのが良い。
というのは、このような道は実際よりも長く見え、大きいという印象を町に与えるが、この点以外に、確かに優美と使用上の便宜および折々の出来事や必要に非常に役に立つからである。
さらに理由をあげれば、湾曲路に沿って歩くと、一歩ごと徐々に新しい建物正面が現れてくること、および家の出現なり遠望は道幅の中央に位置すること、また、ある所では道が広大にすぎ不快なだけでなく、不健康であることを思うと、実に道の空きそのものが効果をもたらすこと、これらの諸点かはいかにも貴重ではないか。」(第四書第五章)
「交差点と広場はただ、広さが違うだけである。
無論ごく小さい広場が交差点である。
プラトーは交差点に余分な空間があるべき、といった。
そこには昼間、子供をつれて子守たちが集まったし、一緒ににもなったのである。
私は実際つぎのように信じる。
自由な外気の中で子供たちは一層強健になったであろう。一方子守たちはすべてのことにも、また自分たち仲間のことにも観察を怠らず、少しでも立派であると賞賛されれば喜んだであろうし、少しでも見劣りし無視されることに、落ちつかぬ思いをしたであろう。
たしかに交差点でも広場でも、装飾に優雅さを増すのは柱廊であろう。
その中で長老たちは<・・・・・・>また腰をおろして、あるいはまどろみ、あるいはお互いの間の用事を心待ちにする。
これに加えて、ゆとりのある戸外で遊び競いあう若者たちも、その場に老人が居合わすことで、若年の傲慢から、行き過ぎや悪ふざけに走らないですむ。」(第八書第六章)
すでに触れたが「建築論」の特徴は理想的社会という観念を示していること。
アルベルティは資本主義の発達は多層階級社会ではなく、人間平等主義に導くものと考えている。
しかし、決して無階層社会が良いと言っているわけではない。
社会はむしろ階級区分を明確にすべきであり、ゾーニングや市壁、さらに建築という都市構造を政治構造と明確に対応させることで、都市と社会の秩序化が計れると考えている。
つまり、彼の考えは悪戯に平等主義を貫く以前に、集団としての社会を如何に秩序づけるかに主眼が置かれているのだ。

人間の社会生活の基盤の一つとして秩序を重視する観念は、ギリシャ・ローマ以来ヨーロッパ社会の伝統である。十五・六世紀、絶対的キリストへの信頼が揺らいだ中にあってはますます厳格な階層構造こそ、社会的秩序を維持する正当なシステムとみなしていた。
ここからは余談だが、オペラもまた厳格な社会構造を維持しようとする意識が生み出したものと考えるべきであろう。
何故なら、ルネサンス期は厳格な社会階層に応じ、人々の生き方が別々であり、その別々の生き方に合わせて、いくつもの音楽が存在していたのが当時の実状。
そのような中、貴族館での教養主義的な試みの結果のみがオペラを生み出したのであって、当時の教会音楽あるいは流行していた闇雲な世俗音楽からは生まれ得ることはなかったからだ。
オペラの誕生は「瓢箪から駒」と言われる所以もこの当たりだが、しかし、ひとたび誕生してみると、その新しい音楽形式は、今度は別々の階層で別々に生きてきた様々の音楽をオペラ自身の中に積極的に取り込んでいく。そして、十八世紀末の社会変革(アンシャンレジーム)、それは旧態の社会構造を徹底的に破壊した出来事だが、その時代のオペラは、今度は全ての階層の音楽がその音楽形式の中ではすべてがきちんと秩序づけられていく。
十七世紀の誕生から十八世紀末の変革の時代まで、その歴史はまさにオペラこそ、この大きな社会変革を準備して来たものに思えてくる。
秩序感覚とその後の社会変革、アルベルティを深読みすれば、オペラこそがヨーロッパのその後の社会を先取ったものと思えてならない。

話が外れたが、アルベルティに戻ると、「建築論」で論じられた「人間にとっての理想的な都市」、それは十六世紀のトマス・モアのユートピアとは異なるものと理解できる。
この「建築論」は現実の教会や社会への不満から生まれた夢でも願望でも非現実でもない。
アルベルティは「観念による理想都市」を現実世界に構築しようとしている、そしてその役割を担うのが建築なのだ。
このアイデアルな世界がその後のオペラと都市を育むのであって、トマス・モアのユートピアからはオペラは決して生まれない。
アルベルティの十五世紀はしかし、まだ新しい都市を作る経済的余裕はなかった。
さらに、一つの都市建設を一人の建築家に任せることが出来るような絶対的権力者も存在しない。
アルベルティの理想都市は都市の一部分、あるいは絵画やルネサンス劇の背景画としてしか残されることはなかった。

アルベルティの家族論・絵画論・建築論

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Leon_Battista_Alberti_1.jpg

ブルネレスキの透視画法の発見を理論化したのはレオン・バッティスタ・アルベルティ。それは今でいう光学理論(perspective)への貢献でもあったのだが、むしろアルバルティの業績は実践的な絵画技法を開示したことにある。その理論は彼の「絵画論」の中に表され、1435年ブルネレスキに献呈された。

ブルネレスキは金銀細工師として職人社会の徒弟として修行を重ね彫刻家兼建築家として大成したが、アルベルティはパドヴァ大学で学んだ人文学者。没落したといえもとはフィレンツェの有数な貴族であった父を持つ彼は、ジュノバで生まれ、ヴェネツィアで育ち、パドヴァで人文主義を、ボローニャで法律を学んでいる。
彼はまた乗馬の達人、機知に富んだ会話の名手、劇も作り作曲もし、物理と数学を学び、法律にも通じ、法王や君主たちの良き相談相手でもあり、まさにルネサンスが生んだ新しいタイプの人。
建築家、芸術家でもなければ職人でもない、ディレッタント・タイプの最初の建築家と言って良い。

 アルベルティはローマ教皇庁からの依頼で1430年頃フィレンツェ近郊の修道院院長の代理を勤める。マサッチョやドナテルロとも親しくなるのはこの頃のこと、花の聖母大聖堂のクーポラの建設も真っ最中、ブルネレスキは造営局の古い工匠たちと戦っていた頃だ。
アルベルティは書いている。
「ここに、かくも壮大な、天にも聳え、その影でトスカナの人たちすべてを覆うほどの広さをもち、飛梁も大量の木材も付加せずに造られた、確固たる技量による構造の建造物を目のあたりにしても、どうしようもなく愚鈍でこの上なく嫉妬深い輩は建築家ピッポを讃えなかった。仮に私がもちろんとした評価を下すとすれば、当代にあって彼が信じられぬほどの職能の持ち主であるのに同時代の人々の無理解にさらされているように、古代人の評でも彼は理解も認められもしなかった。」(ルネサンスの文化史p257)

ブルネレスキによる花の聖母大聖堂のクーポラはアルベルティに新時代を感じさせる大きなの感動を与えた。その感動がブルネレスキが発見した透視画法の理論的基礎の明確化に駆り立て、「絵画論」を、それもラテン語で書かせることに繋がった。  

アルベルティは沢山の本を書く。
没落したとはいえ、アルベルティ家はイタリアでも屈指の家系、そんな一族がどのように生きるべきか、彼は20代に「家族論」をまとめている。
老いた父と兄弟、さらにアルベルティ家の叔父・従兄弟たちとの長い真摯な議論の経過を事細かに気負うことなく記録した「家族論」は最近になって読んだのだが、大きな驚きだった。
レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロは有名だが、レオン・バッティスタ・アルベルティこそルネサンスの代表する真の万能人と言うべきだ。
「家族論」はどんな苦難に会おうとも、新しい時代をいかに生きるかを自分自身の家族のために書いている。内容は当然、後世の個人主義とは異なり真の集団としての人間の生き方、それも決して抽象に陥ることなく、判りやすく、具体的に書かている。
そんなアルベルティが40代にまとめたのが「建築論」。
それは文字通り都市と建築についての論だが、後に触れる「オルフェオの世界」の為のもっとも貴重な論考書と言って良い。

 
アルベルティの時代、社会秩序の確立には、法の執行や行政での実現以上に、実体としての都市や建築がきわめて有効に機能すると考えらていた。建築することは社会秩序を構築することを意味しいていたのだ。人々は法律の文章ではなく都市を作り、そのあり様を眺めることで、共に生きる人間の在るべき秩序を理解した。
つまり、都市とはもともと文化的基盤の上に建つものだが、アルベルティの「建築論」は同時代の文化的指導者、都市経営に関わる支配者、諸侯、君主さらに教皇にとっての座右の書と位置づけられていた。
事実、この書は時の教皇ニコラウス五世に献呈されている。そして、教皇は、この書に基づきローマ再建する最初の教皇として画策する。

一方、この書を読んだ各都市の諸侯、君主たち、彼らは実際上の都市建設にまでは及べ無いとき、この書に基づき都市図を制作し、その支配化の都市の理想化を表明した。
著名な画家・建築家たちによって描かれた数々のルネサンスの都市図、それは間違っても今で言う眺めるだけの美しい風景画ではなく、都市の支配者が示したい法律書、アイデアル(理想的)な都市建設のメッセージとして読まなければならない。  

アルベルティの「建築論」(1452年)はローマ時代の建築家「ヴィトルヴィウスの建築書」がモデルとなっている。
ヴィトルヴィウスは紀元前一世紀の建築家。彼は建築のみならず、音楽、天文学、機械、土木、都市計画というあらゆる分野を網羅した最先端の技術を「十書」としてまとめ、時のローマ皇帝アウグストゥスに捧げた。
この「建築書」はアラビヤを経由しザンクト・ガレン修道院に納められ、14世紀になって発見される。
その発見は時宜を得たもの、新時代をイメージするイタリアの研究者たちにその書の評判は一気に伝わり、やがて、ルネサンスの人文主義者たちの必読の書として、都市や建築はもちろん、音楽や天文学、数学とあらゆる分野に波及していく。

アルベルティは1432年、最初にローマを訪れた時「都市ローマ記」を書く、しかし、この時はまだ、ヴィトルヴィウスの研究の成果が表れていない。彼自身の「建築論」の執筆は1443年頃、アルベルティはこの「建築書」と実際のローマの遺跡を相合わせ研究し、両者の関係から都市のあるべき姿、彼の「建築論」の構想を整えていく。

マントヴァのアルベルティ

(アルベルティのマントヴァの二つの聖堂)

ウルビーノ公に数々の助言を与えていたアルベルティ、彼は同時期、理想都市の一部をマントヴァ公ルドヴィーコ・ゴンザーガのもとで実現する。「道路の交差するところには広場や重要な建築を置き、その装飾要素としてアーチを設けるように」と「建築論」に書いたように、マントヴァの中心に二つのユニークな聖堂を建築する。

ひとつは円形の神殿とはいかなかったが、円形と同じコンセプトを持つ、ギリシャ十字の平面形、サン・セバスティアーノ聖堂、もうひとつは大きな都市の凱旋門のようなアーチを持ったサン・タンドレア聖堂。どちらも古代ローマのイメージが聖堂のファサード(正面の外観)に色濃く反映されている。

 (fig30)

サン・セバスティアーノのアイディアは古代ローマの廟墓や初期キリスト教の殉教者記念堂から引き継いだものであって、ビザンチン様式(東ローマ帝国の様式)の平面形の復活でもある。アルベルティはファサードに古代建築のオーダーを直接壁面に取り込んだ。彫りの深いペディメント(古代神殿の正面の壁の三角形部分)や極端な厚みを持ったエンターブラチャー(三層の柱上帯)、しかもそのエンタブラチャーは中央で分断されペディメントと一体化し、堂々としたアーチを構成する。

サン・タンドレア聖堂はサン・ロレンツォ聖堂と同じように、従来からのラテン十字の平面形。しかし、その内部空間は主廊が側廊を持つこともなくそのまま聖堂の内部を縦貫している。主廊の両サイドの壁面側は幅の広い祭室とサービス用の小さなスペースが繰り返す形で連なる。中央の主廊、壁面側の祭室、どちらも天井には大きなトンネルヴォールトが架せられていて、そこはまるで古代のバシリカか、大浴場のように見えてくる。つまりアルベルティは壮大なローマの大空間を取り込んでマントヴァの聖堂全体を支配しているのだ。

 (fig31)

ファサードもまたはローマ時代の凱旋門そのものの形態。入り口部分前面のナルテックと称するところ。そこは教会における玄関ポーチのような場所だが、この部分の天井も内部の祭室と全く同様、両袖に幅の狭い壁を従え、大きなトンネルボールが架けられていて、その頂部はエンタブラチャに接する。正面から見ると壁面全体が一段と大きなアーチによってくり貫かれ、それはまさに都市の門、ローマ時代の凱旋門が聖堂のファサードとなって登場した。

アルベルティはマントヴァ以前、すでに、リミニでとてもユニークな聖堂の建築に関わった。それはキリスト教聖堂をリミニ公シジスモンドのための記念建築物に改装しようという仕事、テンピオ・マラスティアーノの建設だ。

異教であるはずのローマの神殿のデザインをキリスト教聖堂に持ち込んだり、あるいはその逆であったり、アルベルティの建築は従来のキリスト教建築のセオリーに縛られることがなく、余りにも斬新にして大胆な展開。ブルネレスキ同様、まさに初期ルネサンスの典型、古典復興の精神を文字通り目に見える形で表現しているのだ。

2012年9月9日日曜日

ノイズ ジャック・アタリ

建築史を検討するとき、自流のポイントは<想像的・聴覚的・視覚的>に建築デザインを読み取る、という点にある。そんな観点から、世界を捉える方法として、見取れられことより、聞こえてくるものとする、アタリのこの書は発行当初から気になっていた。
「音楽は予言的であるが故に、来るべき時代を告知する。」なんとも魅力的な書き出しだ。神保町の東京堂の書棚から即レジに運び読みだしたのが盆の頃。一心に読み続け月末には読了したが、残念ながらお手上げ状態。ボクの力では半分も理解できていない。とはいえ、悪戦苦闘の結果である、書き込まれた付箋代わりの赤線がほぼ全頁に渡って引かれている。一呼吸おいた週末、このままでは放っておけないので、気になった付箋部分だけでも後日の為のメモとしてブログに残すことにした。 

章立てはこの書の前書き的な概説部分「聴く」から始まり「供える」「演奏する」「反復する」「作曲する」と続く。音楽の理論書ではないので、この分類は音楽を直接的に説明するものではなく、むしろ時系列あるいは歴史的分類と言えるようだ。しかし、音楽史ではなく経済史いや情報史でもなく。>沈黙>騒音>音楽>騒音>沈黙>という音楽的世界の消費と需要と生産、その昨日・今日・明日。 何を書いているのだろう。

充分に読み取れていないとは言え、飽きずに読み通したのだから面白かったのだ、それも後半になればなるほど、特に「反復する」のあたりは真っ赤っか。話はブリューゲルの「謝肉祭と四旬節の戦い」から始まるが、ここもまた絵画の直接的な話ではなく「ブリューゲルは西洋絵画ではじめてわれわれに<<世界>>を見せるだけでなく、聞かせてくれた」。確かに論は全て個人主義と祝祭・謝肉祭に帰結する、そして彼は「作曲」という未来社会を凝視する。

2012年9月6日木曜日

火口のふたり  白石一文 

観ても面白いと思う映画に出会うことなく、新聞やTVはネガティブなニュースばかり、当面は逃げる訳ではないが、気楽な小説が一番と、昨日の帰り道、駅前の書店で久しぶり月刊「文藝」最新刊を買った。白石一文の長編「火口のふたり」を読んでみたいと思ったからだ。
最近、読むことは少ないがかっての文庫、現実から逃避しない主人公たちにほっとしたのを思い出したから。しかし、昨晩一気読みしてみて、今回の小説はボクの好みではない。内容がセックス描写だったからではない、近未来への不安が、どうして彼ら二人のセックス、あるいは宙ぶらりんの世界と繋がるのかが良くわからなかった。まぁ、直子という女性、彼女のあっけからんとした楽天主義は嫌いじゃないが。

なんでこんなブログを書こうと思ったか。今、夕刊を見てビックリしたからだ。 "富士マグマ 震災で圧力 「宝永」直前より強い力" 小説家ってすごいね、その情報収集と想像力。
「火口のふたり」は来年つまり震災から3年後の話しだが、白石一文はいつも「現実から逃避しない」だけに恐ろしい。 いや、恐ろしいのではない、悲しいのだ。
悲しいのは作者ではない、主人公の賢だ。災害に直面し、進路も失い、母港に寄港したような40代の賢。寄港地であるから安らぎはあるが、そこは人間的にも景観的にも、今の日本、どこもそうなってしまったフラットな死の町。

救われるのは原発汚染に影響されていない場所であったこと、そこには幼なじみの直子がいた。 
性と精神がテーマなら恋愛小説、性には生殖と快楽または欲望があり、前者は自然、後者は精神。快楽だけを問題にし、結果が不問なら、それは精神的だがポルノグラフィー。
(川本三郎、吉行淳之介の「暗室」の解説からの意訳)
しかし、道徳や規範への小心的な対応だけでは新しい恋愛も詩も夢も生まれることはない。小説はタブーを越えどんな精神を生み出したか。この小説には自然があり精神があり恋愛がある。しかし、この小説はどこまでも悲しい。

2012年8月29日水曜日

「情熱と憂愁」展


白金の松岡美術館、今日が最終日というチケットをもらっていたので、「情熱と憂愁」を観る。
いいモノは逃さず観ると決めているが、この美術館はノーマークだった。
自然教育園裏の住宅地、目黒駅から10分余りの散歩はかなり暑かった。
しかし、いい美術館だ。
白井せい一の松濤美術館はお気に入りだが、隈研吾のこの美術館も見学者のことをよく考えている上手な設計だ。
1・2階とも大小いくつかの展示室はすべて中央ホールからアプローチするように作られている。
様々な作品的世界を徘徊する見学者にとって、とてもわかり易い空間構成。
都市もそうだが、レジビリティの優れた空間は見学者、体験者に親しみと安心を与え、快適な空間感覚をイメージさせる。

今日の展示はシャガール、ピカソ、モディリアーニ、藤田嗣治、ルオー、ローランサン、ユトリロという松岡翁の自信のコレクションの展示。
ボク自身はユトリロの母ヴァラドンの作品を初めて体験し感激した。
ベル・エポックといわれるこの時代は音楽家のサティも含め興味ある画家・音楽家たちが皆、自由闊達に我が道を目指していた。
そんな彼らのすべてが恋人にしたとは言わないが、親しくなったのがヴァラドン。
しかし、彼女はいつも寂しかった。
彼女の心情が今日の「コンピェーニュ近くの古びた製粉所」から生々しく伝わってくる。
決して傑作ではない。
小さな小屋の脇の物干しの白い洗濯物を丁寧に描く心情、いくつかの本を読んでいるだけに、この絵を観て素直に納得させられた。

今日の初めての松岡美術館見学でもっとも関心を持ったのは、実は二階の企画展ではなく、一階の常設展。
エトルリア、オリエント、クメール、インド、中国そしてヘンリー・ムアやジャコメッティの彫刻群だ。
この美術館の目玉は松岡翁お気に入りの陶磁器類だろうが、ボクにとってはたくましいガンダーラの彫刻群は見慣れていないだけに目を見張ってしまった。
また来よう、秋になれば庭園美術館も近いのでいい散歩コースだ。

2012年8月18日土曜日

バーン・ジョーンズ展 


日本で初めての個展と聞いて驚いた。彼はロセッティの友人、単にラファエル前派の画家と思っていたが些か間違っていたようだ。
突然、出かけた真夏の展覧会、驟雨に見舞われての午前中早々の入場だが、小さな会場はすでに満員、しかし、良かった。
明日が最終日、そのことだけが混んでる理由では無さそう、観客は皆、いつになく楽しんでいる。
連れ立った人々はひそひそ語らう、やはり、物語のある絵画の魅力だろう、感覚だけではなく、絵画から読み取る物語が多くの人々の会話を誘う。

ラファエロ前派は「主題としては中世の伝説や文学、さらに同時代の文学を題材とする」とあるが、バーン・ジョーンズはそれを超えている。
彼はオックスフォードに学び、ラスキンの指導を受け、モリスと親しかった。
ラスキンの指導はもとよりモリスと親しかったことが重要だろう。
彼は単に中世主義の画家ではなく、近代の画家。
モリスのクラフト運動と呼応する近代のライフスタイル提案に深く関わっている。
それを知ったのは今日の展覧会、圧倒的に多かったケルムスコット叢書。
展示ではジョンーズの挿絵はもとよりその叢書の美しさに驚いた。

ロンドン西郊ハムスミスに設立した私家版印刷工房は次世代を生きる人々に格好のライフスタイルの手引書。
いち早く産業革命に成功した最初の近代市民。
しかし、市民は旧態の貴族とは異なり、あるいは貴族以上に叢書を手引きとして新たな「人間としての生き方」を模索したに違いない。
ちょうど15世紀に誕生した都市市民がキリスト教中世から離れて人間主義を模索し、透視画法の中の理想都市やアルカディアを必要としたように。

今日の展示でもっとも関心を持ったのは「眠り姫」のコーナー。
静かな永遠の眠りの世界。
それは近代の始まりの情景とは大いに異なるもの。
真夏の休日、三菱1号館をさまようボクには、近代の終わりを感じさせる現代社会そのものの姿のように思えてならなかった。
バーンズの絵の表現するある種の憂鬱さは100年先を見据えていたのだろうか。

2012年7月13日金曜日

ミサ・ソレンネッレ 

先日の紀尾井ホールで紹介された今晩のコンサートはロッシーニの「ミサ・ソレンネッレ」。
オペラの作曲家ロッシーニが晩年書いた素晴らしいミサ曲の話は、かってこの作曲家に詳しい友人が教えてくれたが、全曲聴いてビックリ、こんな多彩なミサ曲は初めてだ。
日本語では「小荘厳ミサ曲」となっているが、どこが小か。
キリエからアニュス・ディまで14曲80分の大曲、小とは演奏がピアノ2台にハルモニウムというインドで生まれたオルガンだけの楽器編成だからということらしい。
ピアノが主導するので当然、教会用ではなく、オペラ同様今日のめぐろのような大ホールのために作られた曲。

今晩はコーラス・アーツ・ソサイアティ創立20周年記念演奏、男女1対2の構成の120人余りの合唱にソプラノ、アルト、テノール、バスの4人。
そして、ピアノとリードオルガン、1台づつ、まさにオペラ好きが楽しめる宗教曲演奏会と言えそうだ。
1曲めのキリエはピアノとオルガンの慎ましい合奏から、その始まりの軽やかさはいつものロッシーニの序曲。
そう、全曲聴いての感想だが、ミサとは神を崇め、神に祈ること、したがって、歌詞にもともと特別の意味があるわけではない。
つまりミサはラブソング、筋書きは聴き手が各々勝手に想像し、生み出す自由オペラと考えてよいのではないか。
(もっとも歴史から言えば、世俗に生まれたオペラは聖なる宗教的世界とは相入れないものだが)

貴重な演奏会、記憶のあるうち、聴き取った曲想だけを書き残して置こう。 
ピアノとオルガンの軽やかな絡まりから始まる第1曲のキリエは間違いなくロッシーニオペラの序曲。
2曲・3曲、グローリア・グラチウスと自己紹介のような合唱曲が続き、4曲目はドミネ・デウス。
この曲だけはyoutubeのパバロッティでよく聴いていた。
今日の歌い手、小貫岩夫氏もリズミカルで明るく楽しい。
5曲めのクイ・トリスはソプラノとアルト、宗教曲が持つ清潔感溢れる女声2重唱。
6曲目のサンクトスはバス、ドミネ・デウス同様にリズミカル、その低音は前曲2重唱を引き立てる。
バスは小松英典氏。
次の7曲めが前半の締めのようだ。
クム・サンクト・スピリトウは女声合唱を柔らかく男声合唱が包み込み、終曲のように優しく音が消えていく。

音楽の印象は男声が女声を包むように聴こえるが、配置は40人余りの男性を80人近い女声が囲んでいる、そう、空間配置と音楽の印象は逆のように感じられて面白い。
8曲目クレードはピアノだけの間奏曲的イメージ。
しかしイメージは次の9曲目のクルチフィクススで明快な形になり、ピアノ、オルガン、ソプラノによる不思議なアンサンブルが豊かになり響く。
そして10曲目のエット・レゾレクシット、合唱、ピアノ、オルガンに4人の重唱、神への祈りは、階段を駆けあがるように高まっていく。
11曲はプレリュード、ここでは多彩なピアノ独奏が高まりの中、朗々と歌う。
ロッシーニの時代はピアノの完成期、静かなモノローグのような音の連なりが印象的で美しい。
ピアノは竹村美和子さん。
12曲目のサンクトゥスはオルガンが印象的。
演奏は茂木裕子さん。
前曲との音の対比が何とも面白い。
13曲目はソプラノ独唱、オー・サルータリス・オスティア。
まさにシェーナ・カヴァティーナ・カバレッタで構成されるオペラ終幕のアリアそのもの。
ソプラノは釜洞祐子さん。
そして終曲のアニュス・デイはアルトがリード役。
歌は城守香さん。ボクの好みの音質、今日は終始素晴らしかった。
ピアノー>アルトー>合唱と曲は幾度となく回転し、繰り返される。
その中、よく響くアルトが全体を盛り上げ、息が詰まるような高まりの中、全曲は終焉する。
そして、大きく深呼吸、気がついたとき、ホールにはすでに大きな拍手が鳴り響いていた。

2012年7月9日月曜日

皮膚/表象としての建築/ファシズム

今年の表象文化論学会賞を受賞した「イタリア・ファシズムの芸術政治」「都市の解剖」の著者鯖江秀樹さん、小沢京子さん、そして東大の田中純氏、京大の多賀茂氏によるパネル・ディスカッションの情報をネットで見つけ参加した。前書は1900年代初期、後書は1700年代中期の芸術と政治と文化をテーマとしたもの。ボク自身最近、興味を持っている近世イタリアのカプリッチョというべき芸術現象に言及した二人の著書はすでに買い求めていたことでもあり、この会の日時はしっかりメモっておいた。しかし、相変わらずの積読のままでは意味が無いのだが、表象文化論というこれまた聞き慣れない学会の存在も気になり、休日の午後、駒場キャンパスに出かけた。たまたま、グランドでは東大と九大のラグビーの試合。早く着いたので時間待ち、両校の熱い戦いを眺めていて気がついたらもう2時。あわてて会場である教室に入ると、小さな教室はほぼ満員。ここもすでに若い熱気に満ちていた。 ディスカスは田中氏と多賀氏が著作の内容に対し用意した質問をし、それに対し受賞者である若き二人が回答をするという形式。田中氏の質問は「イタリア・ファシズムの芸術政治」の「の」の意味するものは何か等、同時代の芸術/文化の根本に触れたもの。それはファシズムの運動から体制への変化という時期を美術・建築側としてどう捉えるか、というボク自身の関心と一致する。ファシズムをいかに拒否するかは学んだが、そのファシズムの中に近代建築は生まれてきたという事実、そして安易に拒否するのではなく克服すべきものは何か、つまり、芸術/政治、芸術政治をどう捉えるかと言う事柄に繋がっている。多賀氏の質問はユートピアと対立するフーコのいうヘテロトピアは18世紀の建築のカプリッチョとどう関わるかというもの。質問の記述はボクのメモ筆記、田中氏、多賀氏の本来の質問内容とは異なっていたかもしれない。さらに、この学会のポイントは「作品はいかに語られるか」であって、建築そのものに対する論や批評がテーマではない。加えて、鯖江氏の研究は主に絵画作品としての表象、小沢氏もピラネージ、ルドゥ、ルクーの紙上の建築が分析対象、従って二人の回答はボクが求めたい内容とはかけ離れているのは致しかたないこと。ともあれ、とても有意義だった。「建築以前の建築のディスクリプションの存在」「模倣をどう使うのか、古典主義美学と近代美学の違い」「文化財と野蛮」「建築と暴力」そして「皮膚としてのファシズム」等々メモ帳に沢山おみやげをいただいた2時間だった。

2012年7月8日日曜日

テオ・アンゲロプロス アレクサンダー大王

観たい映画が見つからないとブログに書いたら「ルアーブルの靴磨きは面白かった」というメールを貰った。昨日も夜更かし、起床が遅く朝食も取らず出かけたのだが、エレベーターを降りたのが12時30分近く。チケットを買おうとしたら、「ユーロスペースは三階、ここはオーディトリウム渋谷です」と言われた。エッと思って壁面を見ると「テオ・アンゲロプロス追悼週間」(http://a-shibuya.jp/archives/3300)の張り紙、そして、この二階では「アレグサンダー大王」がすぐにも始まることが判った。(http://leporello.exblog.jp/17961354/)観たいと思ってはいたが、叶わなかった映画が突然始まる、さぁどうしよう。結局「ルアーブルの靴磨き」は明日以降とし、チケットを買い二階の客席へ。 「アレグサンダー大王」は予告編もなく、すぐに始まった。なんか、何も準備もないままアンゲロプロスの世界に飛び込んでしまったようだ。何となく落ち着かない、空腹でもあったが、直ぐに気がつく、間違いなくアンゲロプロスだ。彼はこの1月交通事故で他界。しかし、1980年ヴェネツィア映画祭グランプリの作品は生きている。映像は変質し、音響は歪んではいるが、いつも通り完璧な構図の静止画のような長回しに環境音が響く。始まりは20世紀の始まりのシーン、アテネのイギリス大使館での年越しパーティーから。パーティーから抜け出した若き貴族たちはスニオン岬のポセイドン神殿へ馬車を連ねる。ボクも知るこの岬の朝日夕日は絶景だ。貴族たちがやってくるのは、この神殿の柱間から登る初日を愛でるバイロンの詩を吟じるため。(http://sadohara.blogspot.jp/2012/01/blog-post.html)一方、アテネの監獄を脱走するアレクサンダーを名乗る囚人とその仲間、そう異民族の侵略から古代ギリシャを救った伝説の大王の登場だ。ドラマはポセイドン神殿でアレクサンダー一味がイギリス貴族を誘拐し、いよいよ佳境となる。一味は誘拐した貴族を連れて彼の娘と孫が住む村へ、そこはイギリス利権の有力鉱山開発地。村は一人のリーダーの指導でのどかに生きる共産村(アルカディア)。しかし、今イギリスの利権の元破壊されようとしている。この場所、この村がこの映画の舞台。渓流となる川が流れるが荒涼とした岩ばかりの寒村。石組の家々は朝日、夕日の輝き、雨と雪に埋まりどこまでも美しい。スニオン岬のあるアッティカ半島ではなさそうだ、どこだろう、アテネからも遠い北ギリシャのどこかだろう。アンゲロプロスのロケ地はみな美しく印象的。調べてみたが判らない。映画はギリシャ悲劇。いやこのアルカディアで展開されるから喜劇。悲劇・喜劇と言うよりむしろ神話劇。「権力」と「財産」という20世紀の神々に翻弄されるギリシャの人々、グローバリズム・ユーロに翻弄される20世紀ギリシャ。いや、「空腹」という神に4時過ぎまで釘付けにされたボク自身の悲劇だ。

2012年7月7日土曜日

ヴィラ・ロトンダとアテネの学堂

(ヴィッラ・ロトンダとアテネの学堂)

「パラーディオはラファエロが古代ギリシャを描いた絵に表明した理想に相通じるものを現実に作り出そうとした」(都市と建築:東京大学出版)と北欧の現代建築家ラスムッセンは書いている。パラーディオのヴィラ・ロトンダとラファエロの描く「アテネの学堂」はドーム広場を中心とし、その前後に同型の広間を配置している。大きさと構造、その空間構成は全く同相にあると指摘しているのだ。

「アテネの学堂」と「ヴィラ・ロトンダ」の違いは、絵画にあっては全体が一目で見渡せるが、建築においてはその歩みによってしか体験できないことの違いだけ。ブルネレスキのサン・ロレンツォ聖堂は建築体験は絵画を眺めることと同質であると示していたが、ラスムッセンは逆に絵画を眺めることは建築体験と同質と言っている。つまり、「アテネの学堂」という絵画の中に「ヴィラ・ロトンダ」の建築体験が描かれているのだ。

前述したが、絵画と建築の違いは種類の違いではなく手段の違いだ。一見、当たり前の話のようだが、重要な指摘。このことは、ルネサンスの透視画法は等質・等方な空間の中にシンボルを配置することから生まれる、全く新たなイマージナルな空間、ということに立ち戻らなければ理解出来ない。

手段は異なるが、建築も絵画も透視画法の空間にシンボルを配置することから生まれる虚構の空間に他ならない。

立ち戻れば、ルネサンスの画家や彫刻家を夢中にさせた透視画法の空間は神の絶対的支配を逃れた人間中心の空間。その空間の発見によって、絵画はシンボルを配置することで、実際の建築以前に空間を体験させることが可能となった。絵画は建築同様空間を生み出す。あるいは絵画は建築することなく建築を生み出す。

ラスムッセンはラファエロの絵画空間からパラーディオの建築空間が読み取れると書き、ブルネレスキは建築空間を透視画法の絵画として作った。理解を複雑にしているのは、我々はルネサンスの透視画法の空間を理解せず、ルネサンス以降の舞台背景を含め、絵画的なイリュージュナル(幻想的)な空間のみを透視画法の空間あるいは絵画空間とみなしていることにあるのだ。

(想像的空間と幻想的空間)

イマージナルな空間とイリュージュナルな空間、どちらも虚構の空間であることは変わらない。しかし、前者は想像的自由な空間、後者は人為的に生み出された幻想的な空間だ。後者だけを絵画空間とする現代人はルネサンスの絵画と建築は表現手段が違うだけで、全く同相にあることを理解しない。

透視画法の空間はブルネレスキからベルニーニに至る二百年の間に大きく変わる。それはルネサンスとバロック、美術史を理解する主要テーマだが、ここでは前述したイマージナルな空間がイリュージュナルな空間へと変容していく。つまり、ルネサンス絵画とバロック絵画、その二つの空間は全く違うもの、と考えれば容易にラスムッセンの説明が理解できるだろう。

中世における絶対的神の世界の揉縛から逃れ、人間中心の世界を標榜したルネッサンス人の賛歌である「アテネの学堂」がヴィラ・ロトンダの直接のモデルであったかどうかは「建築四書」からはうかがえない。しかし、署名の間を飾る「アテネの学堂」が円形に縁取られたプロセニアム・アーチ(舞台に設置された額縁)の中の演劇的構成を持っているように、ヴィラ・ロトンダもまた劇場のような敷地環境の中にあって、舞台背景となるように設計されたことだけは間違いない。

(アルカディアとしてのヴィッラ)

当時の建築家の仕事は音楽家同様大半は教会にあった。しかし、パラーディオには教会の仕事は少なく、ヴィッラとパラッツォという住宅ばかりだ。パラーディオが世俗の建築家、最初の住宅建築家といわれる所以はこのあたりにある。

ではパラーディオは田園に建つ住宅をどのように「建築」にしたのか。パラーディオのヴィッラはあるがままの自然、民家や農家の持つ田園的風景をメタフィジカルな理念の世界に、現実の背後にある秩序だった理性的な世界に変容している。そのために用いられたテーマは「アルカディア」。

「アルカディア」は貴族たちの社交には欠くことの出来ない文化装置でもあった。パラーディオは建築だけではなく田園環境も一体化し、全体をウェルギリウスやサッフォーが描いた古典主義的な田園風景、「建築」をアルカディアとして描くことで、現実の風景をメタフィジカルな理念の世界に変容している。だからこそ、彼のヴィッラは「建築」であって、単なる自然あるいは田園に建つ民家や住居ではないのだ。


時雨の記  中里 恒子

渋谷で3時間半の長時間映画を観て帰宅、夕刊を見るとTVで「時雨の記」の放映。もういない友人だが昔、二人だけで飲んでいた時、彼は突然この映画の話をした。10年後、友人はこの世を去った。

そしてさらに10年、文庫は買っていたが本は読んでいなかった。たった今、この映画を見終わって、初めて気がついた。あの時何故、彼が突然「時雨の記」の話をしたのか。
そういえば彼は柔道が強かった。高校時代からともに京都が好きで、一緒によく嵯峨野・大原を歩き回った。
彼は「明月記」が好きだった。ボクは張り合って「山家集」だった。
大学時代、竹(尺八)を修行した彼は夏休みは南禅寺で合宿、建築に進んだボクは西ノ京・斑鳩・飛鳥を歩いていた。しかし、彼が何故あの時「時雨の記」だったのか。

あの頃、彼は・・・・・湖が望める山の一角に土地を買い、ここにセカンドハウス建てるから設計しろ、といった意味も氷解した。それはサイレント・キラーを恐れていたかもしれないが(彼も心臓が弱かった)、そのことでない。
彼にはうらやましい、美しい中学時代からの友達がいた。高校時代の文化祭ではよく一緒に遊んだが、彼女は体が弱く、病院に閉じこめられ、卒業と同時に二人は別れた。
ボクが知るのはそこまでだったが、彼女は元気になったのだろう。何も聞いていない。
そして彼はガンで死んだ。気が利かないボクは何も知らず、何も聞かないまま、セカンドハウスのスケッチだけが残っている。

2012年7月5日木曜日

楊家将  北方謙三

ここのところ観たい映画が見つからない、その代わりということになるが、よく本を読むようになった、かって、宮城谷昌光の「重耳」から始まる古代中国の歴史物語や司馬遼は出張の時の必需品だった。行き帰りの新幹線やエアーの機内、製図台につながれるまでの寸暇の時間、持ち込んだ文庫本を読み飛ばしていた。
今のメトロで毎日見るスマホファンの光景と全く同じだ。どうやら、ボク自身は最近、スマホやパソコン遊びに飽きたのだろう。と気がついたら、文庫の読み飛ばしの癖が復活した。
今読んでいたのは北方謙三、「楊家将」「新楊家将」の全四冊はとても面白い。 三国志、水滸伝はすでに読んでいる。しかし、あのハードボイルド作家が三国志を越える物語を書いていたとは知らなかった。

解説によると「楊家将」は中国では三国志、水滸伝と並ぶ人気の物語。日本ではほとんど知られていなかったが、中国人が彼の「楊家将」を読み中国の「楊家将演義」より面白いと絶賛したとのこと。
確かに面白い。すべては英雄の物語だが、吉川英治の三国志や水滸伝は上に立つ人間の思惑と孔明たち軍師の謀の面白さ、宮城谷の「重耳」「介子推」「楽毅」は君主に使えるが、多くの部下を従える男たちの人間的格闘の物語。 
しかし、「楊家将」も確かに英雄だが、戦いばかりの物語。とまぁ、最初は思っていた。ところがだ、ボクの知る北方謙三は「眠りなき夜」「友よ、静かに冥れ」日本では得難いハードボイルド作家。

4冊目の「新楊家将の下」にはいるともう間違いなく彼の本領発揮。タイトルも「血涙」だ。石幻果、休哥と英雄であった父を失った楊家の兄弟姉妹たち、そこはもうメロメロにボイルドされた世界、北方ならではのエンターテイメントが展開される。彼もまた三国志や水滸伝も書いている。 どうやら当分、パソコン遊びには戻れそうにない。「必要としなければ必要なし」(あたりまえか?!)今度はじめて知ったが、中国の歴史物語は春秋戦国ばかりではない、楊家将の時代、10世紀の遼・宋の時代も目が離せない。

2012年7月4日水曜日

時は老いをいそぐ アントニオ・タブッキ

時は老いをいそぐ アントニオ・タブッキ
アントニオ・タブッキの「インド夜想曲」を読んだのは昨年の10月、その後、思い出し図書館で「時は老いをいそぐ」の貸し出し手続きを取ると、なんと6人待ちと言われた。買えば、とも考えたが、まぁ急ぐ理由もないので、とお願いした。
そんなタブッキがこの月初め、ようやっとやって来た、すっかり忘れていた今になって。長らく待たされたのには理由があるようだ。
あのころ、タブッキが亡くなり、一気に関心が高まったのだろう。
しかし、借りだした本は以外に綺麗、多くの人に借り出された割には栞紐も使われておらず頁を繰ったあとも薄い。
どうでもよいことだが、読みだしてみると「インド夜想曲」同様とても読みやすい。
読み終わるのは明け方になったが、たった一日の一気読みで読了した。
綺麗な原因はこの辺りだろうか。
イタリアの現代文学といえばイタロ・カルヴィーノが有名だ。
彼の「蜘蛛の巣小道」は内容の割には明るくユーモラスで清々しかった。
そんな経験から「まっぷたつ男爵」「見えない都市」等はボクのお気に入りは多い。
もう一人は誰もがよく知るエーコ。
映画にもなった「薔薇の名前」はともかく、「フーコの振り子」「前日島」と評判になった作品はすべて積読状態、10年以上もボクの書棚の肥やしとなっている。
そんな経験からタブッキにはなかなか手が出なかった。
たまたま、須賀敦子訳が目に入り読み始めてみたら、これはいい。
その感想はすでにブログに書いた。それは今思うと彼が亡くなる5ヶ月前のこと。
「時は老いをいそぐ」は2009年の出版、(日本では2012年3月)タブッキが67歳の時の作品。
詩人でもある彼は自らの記憶と感情をわかりやすい言葉で素直に綴っている短編集。
全体はまるでバルトークの音楽のよう。
実際にその音楽が登場する「将軍たちの再会」はこの書の中央、使われた形跡のない栞紐が掛かった頁に書かれていた。
読書中のボクにとっても、インド夜想曲に引き継きタブッキの物語の全体が音楽となって歌われ、もっとも豊かに響いていた時間、もっとも印象深い掌編だ。
そう、9つの短編集はまた前作同様、今度も音楽なのだ。
思い出してみるとカズオ・イシグロの短編集「夜想曲」も音楽だった。
どうやら最近のボクの好みは明白、堀江敏幸、カズオ・イシグロ、アントニオ・タブッキ、表現と内容は全く異なる3人だが、その印象は皆、音楽のようなアンソロジーといえそうだ。
「時を老いをいそぐ」とはクリティアスのエピグラムだそうだ。
「影を追いかければ、時は老いをいそぐ」、追いかければ失うという繰り返しの中にしか「時」は貌をあらわさない。
しかし、その「時」をいやはっきり「記憶」と言っていいのではないかと思うが、内在化した感情は影を追うことで初めて本来の貌を描くのではなかろうか。
ボクはタブッキの短編をそう読んでみた。
9編はすべてイタリアからは東方の物語。
ザンクト・ガレンからはじまり、ブカレスト、ブダベスト、ワルシャワ、テル・アヴィブ、クロアチア、イラクリオン・・・・。大好きな映画監督ギリシャのアンゲロプロスに似て東方は静かな弦楽カルテットがふさわしい。
先ほどこの書をブックポストに返したが、この書の中の印象的ないくつかのフレーズをメモっておいたので、このブログに残しておきたい。

「無から、その感情がやってきたのは無からだ、それは自分の記憶と同じ、ほんとうの記憶ではなく人から聞いた記憶と同じで、まだ感情といえるほどのものではなく、むしろ感情の動き、実際には感情の動きですらなく、幼いころから耳にしてきた他人の記憶をたよりに想像で作り上げたイメージでしかないのだったが」

「遊びはいいことだなんて決していわなかった。遊びはすごくいいことだと言っていた。カラーの本を買ってくれないが、とてもカラフルな本を買ってくれるのだ。そして空が真っ青の日となれば散歩に行くのが当たり前だった。」

「ポタ、ポト、ポッタン、ポットン、ポタ、ポト、ポッタン、ポットン。音は頭骸骨の中まで届いたが響くことはなかった。脳にぶつかってはくるが、こだましないのだ。一つ一つがそっくりで、ピチョンとはじけて消えて次のピチョンのためにすぐに場所を空けるているとき、一見前のピチョンと同じ音だが、実は違う音色をしているみたいだ、ちょうど湖の岸に雨が降りはじめたときに耳を傾ける雨粒一つ一つに様々な音の種類があることに気がつくように。・・・」

「もしもホメロスがオデュッセウスに出会っていたりしたら、さぞつまらない男に見えたにちがいない。・・・」

「風に恋したわたし、ひとりの女の風に、女が風であるならば、わたしはたたずむ、かぜとともに。男は地面に滑り降りて仰向けに壁によりかかると、上をみつめた。空の碧が一角にのぞいた隙間を埋めていた。男は口を開けると、その碧を水根で呑み込むみたいにしてから、両手で抱きかかえるようにして胸に引き寄せた。口からは歌声が。風が風を運び去り、風が風を運び去り、その足の運びの速さに、娘と話すことさえかなわなかった、スカート上を巻き上げるようにして、風が娘を抱きしめる」このフレイズはこの書のffフォルテです。
フェスティバルはタブッキがカンヌ映画祭の審査員をつとめた経験からということだが、ちょっと毛色が異なり人を喰った物語。「今夜眠らずのいればいつもと違った魚が釣れる」

「その記憶はあくまでもおまえの記憶だし、おまえの記憶でしかあり得ない。他人に語り伝えたからと言って、おまえの記憶が他人の記憶になることはない。思い出を語ることはできても、その思い出を他人に移すことはできない。・・・」

「夢というのは、人生にあったことではなくて、人生にあったことを体験するなかで感じたものを表しているのだから。・・・それは感情というものが説明し得ないものだからだ。説明を可能にするためには、感情は意識に変化する必要がある、・・・・感情を意識に変えるのに夢は都合のよい環境ではない。」

と、まぁ切りがなくなってきた。
いま、アマゾンからの写真をリンクしたが、やはり、手元の書棚にこの書キープすことにし、ぽちっておいた。
よく見ると表紙のもなかなか良いではないか、画像はマグナムからだろう、三人の群れない男の貌が何ともかっこ良い、いや、右はじはもっと美しい、そう、群れない馬だ!

モーツァルトの弦楽アンサンブル 


紀国坂の紀尾井ホール。カザルスホールなき後、ここは貴重な室内楽の殿堂。このホールがある限りボクの身体から音楽が消えることはない。外壕散歩コースの途中にあるこのホール、奏楽堂以上に近いこともあり、演奏会のあるなしに関わらず時々訪れる。しかし、外観はともかくインテリアは正直のところボクの好みではない。ホールの形状はハイドンのエステルハーザ以来のシューボックス。ウィーンの楽友協会がその象徴だが、そのスタイルは音楽だけでなく、洗練された社交が貴族のサロンから市民世界に広がるきざはしとなった形状。そのインテリアは繊細な弦の響きを隅々に浸透たせるためだけにあるのではなく、様々な形式を複合化させ、建築が語るオブリージが体現できるようにデザインされている。紀尾井ホールのインテリアはそのウィーンをそのまま移入しようと心がけようとしたものであることはよく判る、しかし、似てはいるが形式がない。木製の壁面、その凹凸は音を聞かせるのは最適かもしれないが、形が生み出すアンサンブルは理解不能な装飾ばかり、ボクにはノイズとしか見えないのだ。

今日のブログはインテリア批判が目的ではない、アンサンブルofトウキョウを楽しんだからだ。先日の芸大のチェンバーの教師クラスがこのアンサンブルのメンバー。プログラムはモーツァルトばかりという豪華版。なぜ豪華かというと、弦が四つにピアノ、クラリネット、オーボエ、ファゴット、ホルン、その独奏者による「弦楽四重奏17番kv458」「ピアノと管楽のための五重奏kv452」「クラリネット五重奏kv581」。ケッへル番号から判るようにモーツアルトの最盛期のハイドンセットと発達しつつあった管のみの絡まりで構成された実験的成果、そして、最晩年の五重奏曲。一度にこの三曲、この殿堂でのいいとこ取りのモーツァルトはなんとも贅沢。外は放射能汚染や政治・経済不安等々イヤなことばかりの時代だが、ホールの中はモーツアルトのアルカディア。一瞬の至福の時間を体現した後、真っ暗な外壕の木々の中を帰宅したが、200年あまり前のモーツアルトの時代はもっともっと大きな社会不安に見回れていたことを思い出した。

2012年6月30日土曜日

藝大のチャンバーオーケストラ

弦を聴きたいと思い、すぐに思いだし手配したのが今日のコンサート、芸大チャンバーオーケストラ第19回定期演奏会。
すでにブログには書いたが、上野の山の端、藝大とは背中合わせの場所にボクの通った高校、都立上野高校がある。
おかげで芸大や文化会館の演奏会はもっとも身近、下校後度々気軽に聴きに行くことができた。 そんな経験から上野での演奏会はいつも親近感がある、芸大のチャンバーオーケストラもすでに何回か聴いている。
学生のオーケストラだが、いつも質の高い演奏を続けている。
今日のプログラム解説で初めて知ったがこのオーケストラの創業は2003年。
芸大教授ゲルハルト・ボッセ氏の指導と指揮で毎年2回演奏会が開かれていた。

先生はドイツバロックから古典派、ロマン派が得意だったという。ボクが通い、聴かせていただいたのもハイドンが多かった。
そんなボッセ先生は本年2月1日亡くなられた。残念ながら、今日はいつもの指揮者である先生は登場しない。
演奏する学生のみのアンサンブルだが、ほとんど学生はもはや先生の指導も直接は受けていないと書かれていた。
すばらしい演奏会でした。
午後3時からの演奏会だが、終始音楽を楽しむ喜びと緊張感ある合奏、会場は弦楽好きの観客で満員。
ボクは幸い5列目中央、プログラムはJ.Sバッハとメンデルスゾーン、スークです。

演奏が始まってまだ30分、2曲目のバッハ、2つのバイオリンのための協奏曲、その第2楽章の二人の旋律が呼応し合うと突然、涙が溢れ、膝が震えはじめた。
こんな経験、しばらく忘れていた、そう、ボクの身体に音楽が戻ってきたようだ。
1曲目のブランデンブルク協奏曲第3番は誰もが知る名曲。
バイオリン、ビオラ、チェロが三人づつにコンバスとチェンバロ構成だが、その第2楽章は各々の弦が転調しながら掛け合うという展開。
演奏者は目で合図し呼応、わずかに微笑む。練習を重ねた喜びを充分に楽しんでいるかのような演奏は見ていても楽しく、この曲の持つリズムや速度を一層華やかにし、若々しい。 後半のメンデルスゾーン「弦楽のための交響曲第9番」スーク「弦楽のためのセレナード」も文句なし。2曲とも作曲者自身の10代の作品。もちろんボクにとって初めて聴く曲。前者は音楽がドラマ、後者はドラマが音楽というのがボクの感想。

終始、緩急緩と変化する中、バイオリン、ビオラ、チェロ、コンバスはその役割を決して失うことなく、質の高い合奏を聴かせてくれた。
蛇足だが、最近の演奏会の出演者は女性が多い。
最近は文学・美術、建築と芸術に関わる素晴らしい若い人は圧倒的に女性が多いように感じらる。理由を詮索してもしょうがないが、こんな質の高い演奏会のチケットがわずか1500円。学生の演奏会だからと言ってしまえばそれまでだが、一般の商業的演奏会との相違をいろいろと考えると、なんか寂しいものが見えてくる。今日は指揮者のいない合奏だが、バイオリン、ビオラ、チェロの男子学生3人がしっかりリーダーシップを発揮していた。その緊張感は客席から見ていてもよくわかる。
オペラ研修も全く同じ、練習に練習を重ねた成果、なんとか、明日以降もあり余る彼ら彼女らの力を充分に発揮できる機会を願うばかりだ。

2012年6月25日月曜日

かもめ食堂

昨晩、夜遅くpcを開けると、 全く思い掛けない人のメールがあった。 昔、フラレタ女性からだ、それも海の外から。 内容はともかく、いろいろなことを考えていた。 今日になって、こんなブログを思いだした。 彼女とは全く関係のない話しだが。
BSプレミアム「かもめ食堂」を観た。 つゆ空の毎日だが、昨晩もまた80年代(製作は2006年)の気持ちの良い、清々しい風、最近、あまり観ることのないさわやかファンタジーを見た。 決して群れない女性たちの群かたの記、作者は群ようこさん。 (ボクのだじゃれ、群ようこさんの群は旦那の群一郎さんから) マリネッコにイッタラにフリッツハンセン。 家具・インテリア好きならご存じだろう、モダンでスマート、清潔な、白夜の街ヘルシンキ。 「いやなことは、いや」「べたつかない」「ひきづらない」ボクが好むタイプの女性たちの日常だ。 しかし、「かもめ」にくるまでの彼女たち、決して軽くはなかったようだ。 太りすぎた猫を預けられたような毎日(?)から解放され、いまは淡々と水にまかせ、風を浴び、陽に輝く。 ガッチャマンはちょっと思い出したが、ムーミンとスナフキンがいとこ同士であったことは知らなかった。 おまじないのコピ・ルアッククとウォッカのようなコスケンコルヴァはTVを観ながらメモしたが、幻のコーヒーとシナモンロールの香りは残念ながら画面の中だけ、茶の間では味わえない。 素晴らしい映画です、お勧めします。

2012年6月21日木曜日

ラフマニノフの序奏と12の変奏 


芸大定期を聴く、ラフマニノフのピアノコンチェルトとシンフォニー。
重くて暗いロシアの管弦楽曲はボクの体質にあわない。
叙情的なメロディーも甘すぎる、まとわりつかれるような感覚が、帝政ロシアの建築に似て好みではない。
しかし、ラフマニノフは気に入った。パガニーニの主題による狂詩曲は1934年に作曲された曲ということだが、新しくて古いのだ。
前半のコンチェルト「序奏と24の変奏」、リズムも音色も先入観を持っていたロシアとは全く違っていた。

今日の芸大、尾高氏による定期演奏だが、幸いまだチケットあると知り、曲目も確認せず急遽出かけることにした。先週同様、すっぽりと身体を弦の空間に浸しておきたかったから。
 会場はいつものように大学構内奏楽堂、明るくニート、椅子も改善され音楽を聴くには絶好だ。江口氏のピアノは緩急、強弱、高低、この曲のスピード感ある多彩な音の変化を息を飲むような感覚で紡いでいく。
後半の交響曲第2番も素晴らしい。解説では「息の長いフレーズはときに壮大な叙事詩のようでもあり、移りゆく景色に目をやるように叙情的でもある」、全くその通り。4楽章の交響曲としてはたっぷり一時間、まさに朗々としたロシア音楽そのもの。
しかし、CDを聴き飽き、すっぽり音楽のお風呂の中に浸っていたいボクにとっては望むとおりの気分の良さ。
時々、映画音楽のようなメロディーが流れる。そう、考えてみると、ラフマニノフはオペラのプッチーニに似ているかもしれない。
音楽は判りやすい、聴く人の思いはどうであろう、すっかり乗せられる。終わってみると、涙を流した後のカタルシス、いや風呂上がりのさっぱり気分だ。

2012年6月18日月曜日

劇場を必要とした建築家

 劇場を必要としたのは音楽家ではありません。演劇関係者でもなく建築家だったのです。都市広場の一隅、聖なる山の裾野、いつの時代も演劇に必要なのは舞台であって、劇場ではありません。仮設的に作られた野外の演劇の為の空間を劇場という建築の形式に変えたのは建築家であり、建築家に架せられた社会的使命です。建築家は演技によって世界が演じられる以前に、劇場という物理的架構によって世界を表現しなければならなかったからです。
 
しかし、オペラの誕生の経緯や見ると、むしろオペラの方がすでに存在している劇場の形式にあわせ、その形式を整えていったことが解ります。さらにまた、19世紀のワーグナーを除いて、オペラの形式が劇場の形式を決定したということはほとんどなく、むしろオペラが劇場の形式に大きな影響を受け、その仕組みと形を変えていったと考えられます。17世紀初頭、フィレンツェのメディチ館の広間でのカメラータたちの試みは、透視図法に彩られたバロック劇場を得ることによって、視覚による知的興味と聴覚による感覚的喜びを相い和した画期的な芸術様式として花開くこととなったのです。
 

2012年6月15日金曜日

ゲーテのテアトロ・オリンピコ

 

 イタリア紀行のゲーテがヴィチェンツァに到着するや否やテアトロ・オリンピコを訪れたことは既に触れたが、彼はその時の体験を次のように書いている。
「・・・それゆえ私はパラーディオを評して言う、彼は真に内面的にしてかつ内部から偉大性を発揮した人物であったと。この人が近代のすべての建築家と同じく征服しなければならなかった最高の困難は、市民的建築術における柱列の適正なる応用である。なぜなら円柱と囲壁とを結合することは、なんといっても矛盾であるからである。しかるに彼はどんなにこの両者をうまく調和せしめたか、また彼はどんなにその作品の現前の姿によって人を讃歎せしめ、彼が単に巧みに説伏しているのだということを忘れさせているか。実際彼の設計の中にある神的なものが存している。それは虚実皮膜の間から第三の物を造り出し、それの仮の存在を持ってわれわれを魅了し去る大詩人の通力と全く同じ物だ。」
(イタリア紀行:相良守峯訳:岩浪文庫p74)

合理主義的利便だけでは到達できない建築の価値、建築の持つ詩的側面である「虚構として建築」の価値を、ゲーテの目は明確に見据えて記述している。そしてその手法は矛盾である柱列と囲壁の巧みな説伏にあると書いている。
ローマ建築の手法は日常的利便に供する空間を壁により生みだし、その壁にギリシャ的な柱列空間を巧みに付加することで、建築の目的である用と美を生み出そうとするものだが、イタリア・ルネサンスの建築家たちの関心もまた同じ手法にある。

16世紀パラーディオの時代には、神殿や教会という聖なる建築のためばかりではなく、住宅や市民会館という世俗の建築に対して、この手法をいかに反映させるかがデザインの課題。従って、ゲーテが言う円柱と囲壁とを結合することの矛盾、それは相異なる二つの構築的要素で一つの建築を作ることの矛盾ということなのだが、それはローマ建築以来の手法であって、パラーディオの建築にのみ帰する表現手法ではないことは、今の我々ならすぐに判る。
しかし、ゲーテはその巧みな使い手である建築家を虚実皮膜の間から第三の物を造り出す、大詩人であると絶賛しているだ。

ゲーテはこの紀行の後、1795年に建築の虚構について触れた「建築術」を書いているが、そのテーマとなる「虚構としての建築」の着想はこのテアトロ・オリンピコから得たと考えて間違いない。
パラーディオの手法は「柱列と囲壁」という構築的要素のだけでなく、「光や色彩」さらに非古典的モチーフも同等の建築的要素として取り上げられ、巧みに建築の中に折り込んでいくところにある。
それは大詩人であるゲーテが言う「大詩人の通力」なのです。

16世紀のパラーディオはまさに大詩人と呼んで間違いない建築家。そんな、ゲーテは面白いことに、「イタリア紀行」を読む限りフィレンツェは素通りしている。ブルネレスキやアルベルティのルネサンス初期の建築には全く触れていないのだ。
ゲーテは決してフィレンツェの二人の偉大な建築家を無視したわけではないのだろうが。しかし、15世紀はまだ古典・古代を想像していた時代。18世紀のゲーテの時代にはルネサンス以来のローマの遺跡の発掘が完了し、古代ローマそのものが遺物や文献をもって最も研究されている。
ルネサンス初期の建築はゲーテにとって古典世界とは異なるもの、ゲーテのイメージする古典世界はこのパラーディオの建築から始まると考えていたのではないだろうか。
だからこそ、彼はイタリアに、あるいはヴィチェンツァに到着するや否やこのテアトロ・オリンピコを訪れたのだ。



(via YouTube by Teatro Olimpico - Vicenza Italy - fotografie di Paola Furlan)

2012年6月10日日曜日

ゲーテとパッラーディオのアルカディア

ヴィルヘルム・マイスターに登場するミニョン。彼女はヴィルヘルムをアルカディアに誘う。ゲーテはイタリアに出掛ける前年、彼自身のはやる気持ちを、イタリアへのあこがれを、ミニョンに託しこの歌を作っている。

物語の中でのミニョンは演劇修業中のヴィルヘルムの旅の共をする不思議な魅力と悲しみを持つ女の子。彼女はギリシャ神話の妖精ニンフのように、そこここにと現れ、物語の進行に関わっていく。ミニョンと共に旅する竪琴弾きは人間の認識を超える不可解な力の象徴。それは演劇修行中の主人公ヴィルヘルムとはある種の対旋律の関係にある。その旋律は読み手の心のうちそとを限りなく震わしていく。

物語はヴィルヘルムという定旋律にミニョンと老竪琴弾きの三つの旋律が絡まり、ミニョンの歌にある「丸き柱は屋根をささえ、広間は輝き、小さき部屋はほのかに光るかの家」で終曲する。

その家は北イタリアの小都市ヴィチェンツァ近郊に現存する。宇津井恵正氏は「ゲーテの視覚の世界」の「演劇空間としてのあの家と過去の広間」の章でヴィチェンツァのロトンダがミニョンの「かの家」であることを論証された。

その全体はアルカディアの神殿の趣、建物の名はロトンダ。ロトンダとは円形平面の部屋を持つ建築のこと。ドーム状の天井や屋根を持ち、その形状は宇宙観が表現されると共に、人間の生死とも関連し墳墓や神殿にも用いられた。

通称ロトンダだが正確にはヴィッラ・ロトンダあるいはヴィラ・アルメリコと呼ばれた。十六世紀半ば、この小都市の建築家アンドレ・パラーディオにより建築されている。

 (fig52)

澄んだ青空と柔らかい風に包まれ、ロトンダはまるで現実的な時間の流れを突然止めてしまうかのように建ち、あたりの空間全体は絵画的であり、まさに舞台のなかのアルカディアような世界が展開されている。

ゲーテは次のように書く。「私は町から三十分かかる気持ちのよい丘のうえの金殿玉楼、通称ロトンダを訪れた。上から光線を採った丸い広間を中に囲む方形の建物である。四方いずれからでも、大階段を昇れば、常に六本のコリント式円柱によって作られた玄関に達する。」(イタリア紀行・上:岩波文庫)

(建築四書の中のヴィッラ・ロトンダ)

ヴィラ・ロトンダを設計したパラーディオにはアルベルティの「建築論」に倣った自著がある、「建築四書」。名前からもわかるようにアルベルティ同様、古代ローマの建築家ヴィトルヴィウスの「建築十書」をモデルとし、この書を後世に残した。

建築四書は「イタリア紀行」のゲーテにとっても有効な参考書であったに違いない。ゲーテがミニョンにこの館を歌わせたのは、イタリア旅行の出発の前年こと。長編小説「修業時代」以前の「演劇的使命」の中、彼はイタリアを訪れる前に何度もこの「四書」を開き、図版を眺め想像を膨らまし、ミニョンに「かの家」を歌わせたのだ。

 (fig53)

「四書」の中でパラーディオはヴィラ・ロトンダをヴィッラの項ではなく「都市住宅」の項に掲載している。「この建物は町ほど近く、ほとんど町のなかにあるといってよいほどなので、私は、これをヴィッラ建築のなかに入れることが適切とは思われなかった。敷地は、考えるかぎり美しく、快適なところである。というのは、きわめて登りやすい小さな丘の上にあり、一方の側は、船が通えるバッキリオーネ川によってうるおされ、他の側は、きわめて美しい丘陵地で取り囲まれて、まるでおおきな劇場のような形になっており、また、一面耕されていて、きわめて良質の果物と、きわめてみごとなブドウの樹で充満している。それゆえ、ある方向では視界が限られ、ある方向では、より遠くまで見え、また他の方位では地平線まで見渡せるという、きわめて美しい眺望をあらゆる側から楽しめるので、四方の正面のすべてにロッジアが作られている。」(パラーディオ「建築四書」注解:中央公論美術出版)

ヴィラ・ロトンダの建築的特徴はその完璧な形態にある。中央の広間は正円、広間を囲む四つの正方形の内部空間、その外側は四面均等にイオニア式(ゲーテはコンリント式円柱と書いている)の六本の列柱が立つギリシャ神殿風のロッジアだ。ロッジアとは列柱を持つ屋根が架けられているが、外部に開放されているポーチやギャラリーのこと。

四面のロッジアにはどの面もまた均等に、幅一杯の階段が設置されている。中央の円形広間の中心に点を取れば、建築の全ての部分はこの点による点対象として配置される。四面の同一性を強調し、どの方向にも特定な優越性を与えない透視画法の持つ等質・等法の空間的秩序がこの建築では明解に表現されている。

それは百年前のフィレンツェの二つの聖堂やウルビーノの理想都市図と全く同じ体験だ。そして、この中心点にはアルカディアの牧神パンの顔が雨水抜きの穴飾りとしてはめ込まれている。

円形広間の中心点の床から牧神パンが見上げる天井は球形のドーム。この地点に立ち四方を眺めれば、どの視線も広間をこえ、ロッジアをこえ、九月の晴れ渡ったヴェネトの田園をこえ、無限の彼方まで突き抜けていく。まさに自分自身はアルカディアの中心に立っているのだ。

 (fig54)

この建築の建主は「四書」によれば聖職者パオーロ・アルメーリコ、ピウス四世と五世の司法官をつとめ、その功によりローマ市民権者たることを許されたとある。しかし、行状は決してよろしくなく、ヴェネツィアの牢獄に監禁されたこともあるようで、建物は未完のまま、オドリコ・カプラに売却されていたので、ゲーテが訪れた時のロトンダは「ヴィラ・カプラ」と呼ばれていた。

「内部は住めば住むこともできるが、住み心地がよいとは言えない。」さすがのゲーテもあこがれの「ミニョンの館」について「イタリア紀行」でこんな辛辣な書き方をしている。

特異な建築形態を持つ住宅であるが故、ということなのだろうか、その運命は過酷だった。ゲーテがロトンダを訪れてまもなくカプラ家も血統が絶え、幽霊屋敷の異名を与えられた時代もあったようだ。しかし、この建築は無事、今に遺され、その独特の形態は単に明快な美しさだけでなく、「建築」について考える様々なテーマを投げかけている。

(ヴィッラとパラッツォ)

古来そして現在でも、イタリア建築の中のヴィッラは緑豊かな自然風景を長閑な人間的風景に変える空間装置。特に、ヴェネトやトスカーナを旅するとき、田園風景はヴィラが垣間見えることによって一気に好ましさが強調され、忘れがたい景観となって記憶される。

ローマの時代から郊外所有地に建つ住居がヴィッラだが、都市のなかのパラッツォ(宮殿あるいは邸館、公的な空間、都市住宅)に対する田園の住居、それは私的な空間と意識され本来の集団的意味を持つ「建築」とはいささか異なるものと考えられていた。

ヨーロッパにおける「建築」の役割、それは過去に祝祭が持っていた役割を引き継いでいる。「建築」は労働や日常生活の場と言うより、集団としての人間の儀式・祭礼・社交の場。つまり、「建築」は祝祭そして都市を生み出す装置なのだ。従って「建築」は人間が自然や日常から離れた「特別な空間」であり、田園の民家や住居とまったく異なるものと考えられている。

2012年6月9日土曜日

カルテット・アルモニコのクラリネット五重奏 

カルテット・アルモニコを津田ホールで聴く。
クラリネットの亀井氏との協奏。
聴きながら耳が、いや身体が戻って来た、と感じビックリした。
弦の音はほとんど聴いていなかったようだ、長い間。
ウェーバーとモーツアルトの五重奏と現代音楽のプログラムだが、 最初の弦の響きであぁーと思った。
やはり、コンサートに足を運ばなければ、身体から音楽が消えてしまう。

iTunesやYoutubeが悪い訳ではない、安くて便利しかしそこまで、 という当たり前のことに改めて気がつかされた。
良く聴くモーツアルトはゆったりと端正に四つの弦が水面のたゆたうクラリネットに絡まり大満足。
初めて聴くウェーバーは「魔弾の射手」や「オベロン」で知られるようにやはりドラマティック。
メランコリックな第二楽章はボクの好み。 ソナタ形式特有の主題と変奏がリズムをかえイメージを変え、 劇的とも言える五重奏の楽しみを味あわせる。
中間の「第一バルド」、演奏後作曲者西村氏が舞台に立たれたが、ボクはまだ現代曲を聴く耳を持っていない。
形式が見えない曲想はその音の連なりが悪い訳ではないが、押しつけられた音楽というイメージが先に立ち楽しめない。 しかし、多くの観客、、沢山の拍手。 やはり、もっともっと、コンサートに足を運ぶ必要があるようだ。

2012年6月8日金曜日

パッラーディオの建築四書

(建築四書の中のヴィッラ・ロトンダ)

ヴィッラ・ロトンダを設計したパラーディオにはアルベルティの「建築論」に倣った自著がある、「建築四書」。名前からもわかるようにアルベルティ同様、古代ローマの建築家ヴィトルヴィウスの「建築十書」をモデルとし、この書を後世に残した。

建築四書は「イタリア紀行」のゲーテにとっても有効な参考書であったに違いない。ゲーテがミニョンにこの館を歌わせたのは、イタリア旅行の出発の前年こと。長編小説「修業時代」以前の「演劇的使命」の中、彼はイタリアを訪れる前に何度もこの「四書」を開き、図版を眺め想像を膨らまし、ミニョンに「かの家」を歌わせたのだ。

 (fig53)

「四書」の中でパラーディオはヴィッラ・ロトンダをヴィッラの項ではなく「都市住宅」の項に掲載している。「この建物は町ほど近く、ほとんど町のなかにあるといってよいほどなので、私は、これをヴィッラ建築のなかに入れることが適切とは思われなかった。敷地は、考えるかぎり美しく、快適なところである。というのは、きわめて登りやすい小さな丘の上にあり、一方の側は、船が通えるバッキリオーネ川によってうるおされ、他の側は、きわめて美しい丘陵地で取り囲まれて、まるでおおきな劇場のような形になっており、また、一面耕されていて、きわめて良質の果物と、きわめてみごとなブドウの樹で充満している。それゆえ、ある方向では視界が限られ、ある方向では、より遠くまで見え、また他の方位では地平線まで見渡せるという、きわめて美しい眺望をあらゆる側から楽しめるので、四方の正面のすべてにロッジアが作られている。」(パラーディオ「建築四書」注解:中央公論美術出版)

ヴィッラ・ロトンダの建築的特徴はその完璧な形態にある。中央の広間は正円、広間を囲む四つの正方形の内部空間、その外側は四面均等にイオニア式(ゲーテはコンリント式円柱と書いている)の六本の列柱が立つギリシャ神殿風のロッジアだ。ロッジアとは列柱を持つ屋根が架けられているが、外部に開放されているポーチやギャラリーのこと。

四面のロッジアにはどの面もまた均等に、幅一杯の階段が設置されている。中央の円形広間の中心に点を取れば、建築の全ての部分はこの点による点対象として配置される。四面の同一性を強調し、どの方向にも特定な優越性を与えない透視画法の持つ等質・等法の空間的秩序がこの建築では明解に表現されている。

それは百年前のフィレンツェの二つの聖堂やウルビーノの理想都市図と全く同じ体験だ。そして、この中心点にはアルカディアの牧神パンの顔が雨水抜きの穴飾りとしてはめ込まれている。

円形広間の中心点の床から牧神パンが見上げる天井は球形のドーム。この地点に立ち四方を眺めれば、どの視線も広間をこえ、ロッジアをこえ、九月の晴れ渡ったヴェネトの田園をこえ、無限の彼方まで突き抜けていく。まさに自分自身はアルカディアの中心に立っているのだ。

 (fig54)

この建築の建主は「四書」によれば聖職者パオーロ・アルメーリコ、ピウス四世と五世の司法官をつとめ、その功によりローマ市民権者たることを許されたとある。しかし、行状は決してよろしくなく、ヴェネツィアの牢獄に監禁されたこともあるようで、建物は未完のまま、オドリコ・カプラに売却されていたので、ゲーテが訪れた時のロトンダは「ヴィッラ・カプラ」と呼ばれていた。

「内部は住めば住むこともできるが、住み心地がよいとは言えない。」さすがのゲーテもあこがれの「ミニョンの館」について「イタリア紀行」でこんな辛辣な書き方をしている。

特異な建築形態を持つ住宅であるが故、ということなのだろうか、その運命は過酷だった。ゲーテがロトンダを訪れてまもなくカプラ家も血統が絶え、幽霊屋敷の異名を与えられた時代もあったようだ。しかし、この建築は無事、今に遺され、その独特の形態は単に明快な美しさだけでなく、「建築」について考える様々なテーマを投げかけている。

(ヴィッラとパラッツォ)

古来そして現在でも、イタリア建築の中のヴィッラは緑豊かな自然風景を長閑な人間的風景に変える空間装置。特に、ヴェネトやトスカーナを旅するとき、田園風景はヴィッラが垣間見えることによって一気に好ましさが強調され、忘れがたい景観となって記憶される。

ローマの時代から郊外所有地に建つ住居がヴィッラだが、都市のなかのパラッツォ(宮殿あるいは邸館、公的な空間、都市住宅)に対する田園の住居、それは私的な空間と意識され本来の集団的意味を持つ「建築」とはいささか異なるものと考えられていた。

ヨーロッパにおける「建築」の役割、それは過去に祝祭が持っていた役割を引き継いでいる。「建築」は労働や日常生活の場と言うより、集団としての人間の儀式・祭礼・社交の場。つまり、「建築」は祝祭そして都市を生み出す装置なのだ。従って「建築」は人間が自然や日常から離れた「特別な空間」であり、田園の民家や住居とまったく異なるものと考えられている。

(都市と田園)

ヨーロッパの古来の「都市」と「田園」に少し触れてみたい。「都市」とは本来、集落から訣別した「特別な空間」を意味している。そこは利便や効率のための場所であることより、動物とは異なる人間が「人間として生きる特別な場所」、つまり、日常とは異なる「ハレ」の場所、社交の場のことなのだ。

そのような都市に建つ建築は文化的内実が備わってこそ「建築」であって、単に機能や利便に供するのみならば、それは日常的な集落の延長、住居であっても「建築」ではない。これは建物の上下の問題ではなく、我々とは異なる考え方の問題。

従って、パラーディオが「四書」で強調している、都市的な生活の場であるヴィッラ・ロトンダは田園にあっても文化的世界であることが求められ、社交に供する劇場的環境に建つ作品的世界、虚構の世界でなければならなかった。

ピエンツァのピッコロリーニ宮殿を自然に放ち、私的空間化したピウス二世への批判も同じような考え方が背後にあり、私的で個人的な趣味は「建築」ではないと見なされたのだ。

パラーディオの時代は黄昏のルネサンス期、アルベルティやピウスの時代から百年も経過し、建築の考え方も変わっては来ている。しかし、彼は現代の我々のように施主の希望や使い勝手に合わせ、ただ闇雲にヴィッラを作った訳ではない。その観点から見るとパラーディオのヴィッラはとても興味深い。本来「建築」の範疇には入らないヴィッラを集団的意味を持つ「建築」としてデザインしなければならなかったのだから。

十六世紀半ばから後半は美術史でいうマニエリスム期、パラーディオは過渡期の建築家であることは確かだ。しかし、彼はギリシャ以来の本来の「建築」からも決して逸脱することのない、まさに最後のルネサンスの建築家と言って良い。

遅れてきたルネサンス人パラーディオはヴェネトに沢山のヴィッラとパラッツォを造っていく。彼の「建築」は初期ルネサンス同様、透視画法の持つ等質・等方、何者にも序列化されないイマージナルな秩序空間として組み立てられていることを決して見逃してはならない。


2012年6月7日木曜日

サロメ 


初台の中劇場で「サロメ」を観る。
世紀末オスカー・ワイルドの戯曲はリヒャルト・シュトラウスのオペラで度々観るが、現代演劇は全く初めてだ。
だからここでは形容詞だけの感想は書きたくない。
ただ、とても良かったと言っておこう。

最近のボクの関心は18世紀だが、ここのところまた19世紀末が気になってしょうがない。
オスカー・ワイルドとクリムトはどちらにしても外せない。
やはり、いいよねあの時代、こんな戯曲、こんな音楽が作られた時代だ。
ミッドナイト・イン・パリのアドリアナにウディ・アレンが「20年代よりベル・エポックが好き」と言わせたのもとても良くわかる。
サガンが書いた「ブラームスはお好き」の中身とも共通している。

カノンが壊れ全てが抽象的・平面的にしか捉えられなくなった近代、そのつかの間のアールヌーボ。
まさに市民の文化、オネスティ(真正さ)を探していた時代。
貴族サロンの文化から市民の都市の文化を模索した時代。
しかし、それもつかの間1914年の世界大戦で全てが消えた。
市民もオペラも戯曲も建築も。
今日の舞台で感心したのは天井に隠された鏡面(虚像)だ。

そこに写り込む「赤い海に正方形の白いテーブル、そこに横たわる官能的サロメ」は演出家亜門氏が「やった」と言いたいアイディアではないか。
赤・白・黒も判りやすいがボクにはもう一つ白いミースのバルセロナ・チェァにはやられたと思った。
ネタバレではなく勝手な妄想だが、白いテーブルとチェアはグローバリズム(帝国)の赤い海に浮かぶアーキペラゴ(群島)に思えてならない。