2012年9月14日金曜日

アルベルティの理想都市

具体的に都市を計画する、ということはどの地域でもどの時代でもなされている。
碁盤目状の道路割等を導入し、実利的にも観念的にも選択された一地域に、何らかの秩序を導こうという手法は、ヨーロッパ・古代中国、平安京日本もまた同じ。
しかし、アルベルティの「建築論」の特徴は物理的な計画以上に人間が在るべき「理想的(アイデアル)社会」という考えを示したことにある。
そして、つぎにその考えを一つの町の計画に具体的に当てはめていく。
街路、広場、建物という都市の構成要素は機能的であると同時に、都市全体は威厳を持ち、秩序だつように計画する、その為には具体的にどう配置するか。
アルベルティは部分としての個の充実と全体としての集団の秩序だった調和を重視するコンキンニタスという言葉を採用した。
彼は「絵画論」で絵画の技法を実践から論理化を示したように、「建築論」では都市と建築の構成方法を論理化したのだ。

都市のための敷地の選び方、防御のための城砦のかたち、そして人々が秩序だって共存できるための都市の様々な構成要素の配置の仕方。
都市はゾーニングし性格付けられたいくつかの町の集合であり、町の威厳を持たせる為には、道路は広くて真っ直ぐが良いが、もし蛇行しているならば川の流れのように大きく曲がらなければならない。
あるいは建物の高さも統一し、規則正しく並べるべきであり、道路の交差するところには広場や重要な建築を置き、その装飾要素としてアーチを設けるようにと書いている。
川の流れのような道路を作ろうとか、子どもと広場の関係を克明に触れようとするこの書の記述はかなり具体的。
アイデアルな建築論であるがその論述は「家族論」に似て、きわめて人間的。
アルベルティの人となりをも見えてくるので、いささか長いが以下に引用する。

「都市の中に入れば、道は直進せず川の流れのように緩い湾曲を描いて、ここかしこ繰り返し部分的に曲がるのが良い。
というのは、このような道は実際よりも長く見え、大きいという印象を町に与えるが、この点以外に、確かに優美と使用上の便宜および折々の出来事や必要に非常に役に立つからである。
さらに理由をあげれば、湾曲路に沿って歩くと、一歩ごと徐々に新しい建物正面が現れてくること、および家の出現なり遠望は道幅の中央に位置すること、また、ある所では道が広大にすぎ不快なだけでなく、不健康であることを思うと、実に道の空きそのものが効果をもたらすこと、これらの諸点かはいかにも貴重ではないか。」(第四書第五章)
「交差点と広場はただ、広さが違うだけである。
無論ごく小さい広場が交差点である。
プラトーは交差点に余分な空間があるべき、といった。
そこには昼間、子供をつれて子守たちが集まったし、一緒ににもなったのである。
私は実際つぎのように信じる。
自由な外気の中で子供たちは一層強健になったであろう。一方子守たちはすべてのことにも、また自分たち仲間のことにも観察を怠らず、少しでも立派であると賞賛されれば喜んだであろうし、少しでも見劣りし無視されることに、落ちつかぬ思いをしたであろう。
たしかに交差点でも広場でも、装飾に優雅さを増すのは柱廊であろう。
その中で長老たちは<・・・・・・>また腰をおろして、あるいはまどろみ、あるいはお互いの間の用事を心待ちにする。
これに加えて、ゆとりのある戸外で遊び競いあう若者たちも、その場に老人が居合わすことで、若年の傲慢から、行き過ぎや悪ふざけに走らないですむ。」(第八書第六章)
すでに触れたが「建築論」の特徴は理想的社会という観念を示していること。
アルベルティは資本主義の発達は多層階級社会ではなく、人間平等主義に導くものと考えている。
しかし、決して無階層社会が良いと言っているわけではない。
社会はむしろ階級区分を明確にすべきであり、ゾーニングや市壁、さらに建築という都市構造を政治構造と明確に対応させることで、都市と社会の秩序化が計れると考えている。
つまり、彼の考えは悪戯に平等主義を貫く以前に、集団としての社会を如何に秩序づけるかに主眼が置かれているのだ。

人間の社会生活の基盤の一つとして秩序を重視する観念は、ギリシャ・ローマ以来ヨーロッパ社会の伝統である。十五・六世紀、絶対的キリストへの信頼が揺らいだ中にあってはますます厳格な階層構造こそ、社会的秩序を維持する正当なシステムとみなしていた。
ここからは余談だが、オペラもまた厳格な社会構造を維持しようとする意識が生み出したものと考えるべきであろう。
何故なら、ルネサンス期は厳格な社会階層に応じ、人々の生き方が別々であり、その別々の生き方に合わせて、いくつもの音楽が存在していたのが当時の実状。
そのような中、貴族館での教養主義的な試みの結果のみがオペラを生み出したのであって、当時の教会音楽あるいは流行していた闇雲な世俗音楽からは生まれ得ることはなかったからだ。
オペラの誕生は「瓢箪から駒」と言われる所以もこの当たりだが、しかし、ひとたび誕生してみると、その新しい音楽形式は、今度は別々の階層で別々に生きてきた様々の音楽をオペラ自身の中に積極的に取り込んでいく。そして、十八世紀末の社会変革(アンシャンレジーム)、それは旧態の社会構造を徹底的に破壊した出来事だが、その時代のオペラは、今度は全ての階層の音楽がその音楽形式の中ではすべてがきちんと秩序づけられていく。
十七世紀の誕生から十八世紀末の変革の時代まで、その歴史はまさにオペラこそ、この大きな社会変革を準備して来たものに思えてくる。
秩序感覚とその後の社会変革、アルベルティを深読みすれば、オペラこそがヨーロッパのその後の社会を先取ったものと思えてならない。

話が外れたが、アルベルティに戻ると、「建築論」で論じられた「人間にとっての理想的な都市」、それは十六世紀のトマス・モアのユートピアとは異なるものと理解できる。
この「建築論」は現実の教会や社会への不満から生まれた夢でも願望でも非現実でもない。
アルベルティは「観念による理想都市」を現実世界に構築しようとしている、そしてその役割を担うのが建築なのだ。
このアイデアルな世界がその後のオペラと都市を育むのであって、トマス・モアのユートピアからはオペラは決して生まれない。
アルベルティの十五世紀はしかし、まだ新しい都市を作る経済的余裕はなかった。
さらに、一つの都市建設を一人の建築家に任せることが出来るような絶対的権力者も存在しない。
アルベルティの理想都市は都市の一部分、あるいは絵画やルネサンス劇の背景画としてしか残されることはなかった。

アルベルティの家族論・絵画論・建築論

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Leon_Battista_Alberti_1.jpg

ブルネレスキの透視画法の発見を理論化したのはレオン・バッティスタ・アルベルティ。それは今でいう光学理論(perspective)への貢献でもあったのだが、むしろアルバルティの業績は実践的な絵画技法を開示したことにある。その理論は彼の「絵画論」の中に表され、1435年ブルネレスキに献呈された。

ブルネレスキは金銀細工師として職人社会の徒弟として修行を重ね彫刻家兼建築家として大成したが、アルベルティはパドヴァ大学で学んだ人文学者。没落したといえもとはフィレンツェの有数な貴族であった父を持つ彼は、ジュノバで生まれ、ヴェネツィアで育ち、パドヴァで人文主義を、ボローニャで法律を学んでいる。
彼はまた乗馬の達人、機知に富んだ会話の名手、劇も作り作曲もし、物理と数学を学び、法律にも通じ、法王や君主たちの良き相談相手でもあり、まさにルネサンスが生んだ新しいタイプの人。
建築家、芸術家でもなければ職人でもない、ディレッタント・タイプの最初の建築家と言って良い。

 アルベルティはローマ教皇庁からの依頼で1430年頃フィレンツェ近郊の修道院院長の代理を勤める。マサッチョやドナテルロとも親しくなるのはこの頃のこと、花の聖母大聖堂のクーポラの建設も真っ最中、ブルネレスキは造営局の古い工匠たちと戦っていた頃だ。
アルベルティは書いている。
「ここに、かくも壮大な、天にも聳え、その影でトスカナの人たちすべてを覆うほどの広さをもち、飛梁も大量の木材も付加せずに造られた、確固たる技量による構造の建造物を目のあたりにしても、どうしようもなく愚鈍でこの上なく嫉妬深い輩は建築家ピッポを讃えなかった。仮に私がもちろんとした評価を下すとすれば、当代にあって彼が信じられぬほどの職能の持ち主であるのに同時代の人々の無理解にさらされているように、古代人の評でも彼は理解も認められもしなかった。」(ルネサンスの文化史p257)

ブルネレスキによる花の聖母大聖堂のクーポラはアルベルティに新時代を感じさせる大きなの感動を与えた。その感動がブルネレスキが発見した透視画法の理論的基礎の明確化に駆り立て、「絵画論」を、それもラテン語で書かせることに繋がった。  

アルベルティは沢山の本を書く。
没落したとはいえ、アルベルティ家はイタリアでも屈指の家系、そんな一族がどのように生きるべきか、彼は20代に「家族論」をまとめている。
老いた父と兄弟、さらにアルベルティ家の叔父・従兄弟たちとの長い真摯な議論の経過を事細かに気負うことなく記録した「家族論」は最近になって読んだのだが、大きな驚きだった。
レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロは有名だが、レオン・バッティスタ・アルベルティこそルネサンスの代表する真の万能人と言うべきだ。
「家族論」はどんな苦難に会おうとも、新しい時代をいかに生きるかを自分自身の家族のために書いている。内容は当然、後世の個人主義とは異なり真の集団としての人間の生き方、それも決して抽象に陥ることなく、判りやすく、具体的に書かている。
そんなアルベルティが40代にまとめたのが「建築論」。
それは文字通り都市と建築についての論だが、後に触れる「オルフェオの世界」の為のもっとも貴重な論考書と言って良い。

 
アルベルティの時代、社会秩序の確立には、法の執行や行政での実現以上に、実体としての都市や建築がきわめて有効に機能すると考えらていた。建築することは社会秩序を構築することを意味しいていたのだ。人々は法律の文章ではなく都市を作り、そのあり様を眺めることで、共に生きる人間の在るべき秩序を理解した。
つまり、都市とはもともと文化的基盤の上に建つものだが、アルベルティの「建築論」は同時代の文化的指導者、都市経営に関わる支配者、諸侯、君主さらに教皇にとっての座右の書と位置づけられていた。
事実、この書は時の教皇ニコラウス五世に献呈されている。そして、教皇は、この書に基づきローマ再建する最初の教皇として画策する。

一方、この書を読んだ各都市の諸侯、君主たち、彼らは実際上の都市建設にまでは及べ無いとき、この書に基づき都市図を制作し、その支配化の都市の理想化を表明した。
著名な画家・建築家たちによって描かれた数々のルネサンスの都市図、それは間違っても今で言う眺めるだけの美しい風景画ではなく、都市の支配者が示したい法律書、アイデアル(理想的)な都市建設のメッセージとして読まなければならない。  

アルベルティの「建築論」(1452年)はローマ時代の建築家「ヴィトルヴィウスの建築書」がモデルとなっている。
ヴィトルヴィウスは紀元前一世紀の建築家。彼は建築のみならず、音楽、天文学、機械、土木、都市計画というあらゆる分野を網羅した最先端の技術を「十書」としてまとめ、時のローマ皇帝アウグストゥスに捧げた。
この「建築書」はアラビヤを経由しザンクト・ガレン修道院に納められ、14世紀になって発見される。
その発見は時宜を得たもの、新時代をイメージするイタリアの研究者たちにその書の評判は一気に伝わり、やがて、ルネサンスの人文主義者たちの必読の書として、都市や建築はもちろん、音楽や天文学、数学とあらゆる分野に波及していく。

アルベルティは1432年、最初にローマを訪れた時「都市ローマ記」を書く、しかし、この時はまだ、ヴィトルヴィウスの研究の成果が表れていない。彼自身の「建築論」の執筆は1443年頃、アルベルティはこの「建築書」と実際のローマの遺跡を相合わせ研究し、両者の関係から都市のあるべき姿、彼の「建築論」の構想を整えていく。

マントヴァのアルベルティ/©

(アルベルティのマントヴァの二つの聖堂)

ウルビーノ公に数々の助言を与えていたアルベルティ、彼は同時期、理想都市の一部をマントヴァ公ルドヴィーコ・ゴンザーガのもとで実現する。「道路の交差するところには広場や重要な建築を置き、その装飾要素としてアーチを設けるように」と「建築論」に書いたように、マントヴァの中心に二つのユニークな聖堂を建築する。

ひとつは円形の神殿とはいかなかったが、円形と同じコンセプトを持つ、ギリシャ十字の平面形、サン・セバスティアーノ聖堂、もうひとつは大きな都市の凱旋門のようなアーチを持ったサン・タンドレア聖堂。どちらも古代ローマのイメージが聖堂のファサード(正面の外観)に色濃く反映されている。

 (fig30)

サン・セバスティアーノのアイディアは古代ローマの廟墓や初期キリスト教の殉教者記念堂から引き継いだものであって、ビザンチン様式(東ローマ帝国の様式)の平面形の復活でもある。アルベルティはファサードに古代建築のオーダーを直接壁面に取り込んだ。彫りの深いペディメント(古代神殿の正面の壁の三角形部分)や極端な厚みを持ったエンターブラチャー(三層の柱上帯)、しかもそのエンタブラチャーは中央で分断されペディメントと一体化し、堂々としたアーチを構成する。

サン・タンドレア聖堂はサン・ロレンツォ聖堂と同じように、従来からのラテン十字の平面形。しかし、その内部空間は主廊が側廊を持つこともなくそのまま聖堂の内部を縦貫している。主廊の両サイドの壁面側は幅の広い祭室とサービス用の小さなスペースが繰り返す形で連なる。中央の主廊、壁面側の祭室、どちらも天井には大きなトンネルヴォールトが架せられていて、そこはまるで古代のバシリカか、大浴場のように見えてくる。つまりアルベルティは壮大なローマの大空間を取り込んでマントヴァの聖堂全体を支配しているのだ。

 (fig31)

ファサードもまたはローマ時代の凱旋門そのものの形態。入り口部分前面のナルテックと称するところ。そこは教会における玄関ポーチのような場所だが、この部分の天井も内部の祭室と全く同様、両袖に幅の狭い壁を従え、大きなトンネルボールが架けられていて、その頂部はエンタブラチャに接する。正面から見ると壁面全体が一段と大きなアーチによってくり貫かれ、それはまさに都市の門、ローマ時代の凱旋門が聖堂のファサードとなって登場した。

アルベルティはマントヴァ以前、すでに、リミニでとてもユニークな聖堂の建築に関わった。それはキリスト教聖堂をリミニ公シジスモンドのための記念建築物に改装しようという仕事、テンピオ・マラスティアーノの建設だ。

異教であるはずのローマの神殿のデザインをキリスト教聖堂に持ち込んだり、あるいはその逆であったり、アルベルティの建築は従来のキリスト教建築のセオリーに縛られることがなく、余りにも斬新にして大胆な展開。ブルネレスキ同様、まさに初期ルネサンスの典型、古典復興の精神を文字通り目に見える形で表現しているのだ。

2012年5月30日水曜日

秩父セメント工場 谷口吉郎

子供の頃、父親の写生旅行の共をしよく出かけていたので、この地の特徴ある二本煙突は懐かしい。 しかし、この工場がかの谷口吉郎氏の設計であることを知ったのは建築学生になってからのこと。 その後建築設計を仕事としたが、工場内に入り詳しく見学するのは今回が初めてだ。 武甲山での石灰岩の採掘はともかく、この工場でのセメント原料の生産はすでに最盛期は終えている。 幸い、ドコモモ(近代建築遺産)20選に選ばれたことでもあり、工場は60年あまりほとんどその形を変えていない。 その全体は巨大でありメカニカル、日常的なオフィスビルやマンション建築と比べれば、ものづくりの機能がそのまま露出しドラマティックであり、スペクタクルな魅力が一杯。
工業時代の日本を象徴する建築、しかし、その姿は何とも優しく女性的でもあり、決して冷たくない。 屋根は山並みをなぞるかのような曲線、外壁は錆色のスティールと石綿スレートの組み合わせによる繊細な格子模様を描いている。 操業は一部リサイクル燃料製造を取り入れはじめたことでもありまだまだ続く。 山での採掘から製品の生産まで、全てを操業のままの世界遺産として推薦される日も遠くはない。 とすれば、設計者谷口さんが描いていた、「中庭に緑の芝生をつくり、花壇には四季の花を咲かせて・・・・気持ちのいい生産環境」が実現され、多くの観光客を楽しませるに違いない。

2012年5月18日金曜日

ピラネージ

西洋美術館のユベール・ロベール展はこの20日で終わりのようだ。 
まだ寒かった3月の始め、芸大の帰りにたまたま寄ったのが最初だが、その後、気になり併設のピラネージ「牢獄」展を含め結局、3回も見学してしまった。 
もっとも、3回も観たとは言え、気になることが解決したわけではない。 
この時代の絵画や建築の特徴、カプリッチ(気まぐれ)、その真意はどこにあるのか。 
ピラネージの「幻想の牢獄」から始まり、ユベール・ロベールの古代憧憬画。 
ブーレ、ルドゥ、ルクーの「幻想の建築」をみると、同世紀の後半、建築にもカプリッチは引き継がれた。 
共通しているのはルネサンスからバロックの統一的透視画法は歪められ、スケールは巨大化し、人間は朱儒となり矮小化されて描かれていること。 
ピラネージの版画の持つ現実と虚構が一体となった作品群。 
それはグランドツァー客向けの土産物として出版され、北ヨーロッパの多くの人が共有した理想都市でありアルカディア。 
しかし、その最初の出版は「幻想の牢獄」に表現されたサディスティックな静寂世界、そこはもう人間の共生の場としての建築の意味とはほど遠く、孤独な個人的な世界だ。 
その後、パリよりローマを訪れ、古代憧憬として描かれたユベール・ロベールのサンギーヌによるスケッチ。 
それはピクチャレスな風景画ということだろうが、もはや神話も建築的カノン(規範)も失ったバラバラな人間社会にすぎない。 
描かれた世界はアルカディア・ローマだがすでにリアリティを失った幻想舞台と言えるのではないだろうか。 

18世紀後半、ルドゥは牢獄ではなく理想世界を描いている。
「ショウの製塩工場」や「ブザンソン劇場」は彼の師匠ブレに始まる球体や立体をテーマとした一連の新古典主義的建築に関わるもの、しかし、そこもまた巨大な人間不在なカプリッチであることは代わらない。 
そして見えてくる、この一連のカプリッチは現代の建築世界そのもの。 
意味もないバラバラな世界、美しいかもしれないが、感情を持った生の人間が不在の個人的世界。 
もっとも、18世紀のカプリッチは多くの観客を惹き付けたが、現代建築の100年後の廃墟がこの展覧会のように後世の人々に憧憬されるという保証はどこにもないのだが。 
つまり、ここには近代の始まりと現代の終焉、そのすべて展示されているような気がしてならない。

今回の展覧会には登場しないが、ヴェネツィアの風景を28枚の連作に仕上げたカナレット、さらにティエポロの版画集「空想のたわむれ」もまた同時代の作品。 
そんな一連の版画集を観ながら思うことは「夢と現実が入り交じった世界」とは何か、それは現代建築そのものに酷似しているが、その始まりは18世紀のオペラの舞台の中に描かれていた世界ではなかったか。
18世紀の劇場建築家はパルマのビビエーナ一族だが、同時代フェルディナン・ビビエーナは「市民建築」の中で、舞台装飾の一部として牢獄の光景を版画で表している。 
ピラネージの牢獄は間違いなくこの劇場装飾を引き継ぐもの。 
ピラネージのエッチングは全て、グランドツァー客が持ち帰る土産物として制作されている。 
同時代のプルチナーニやビビエーナのオペラ舞台画は宮廷の権威の印、その記録として残されていた。 

しかし、これらの先駆はすべて舞台の中の幻想世界であったことに留意しなければならない。 
その世界はフィクションだが意味のある世界、物語としての人間世界がプロセニアム・アーチの中に完結している。 
さらに、その世界はあくまでもフィクションであり、虚構の世界であることを少なくとも観客は理解していた。 
気になることはこの辺り。 
夢と現実をプロセニアム・アーチで切り分ける手法を失った現代の我々は日常的人間世界をオペラの世界と混同視していないか。 
オペラの中に描かれた文学と音楽と建築の世界、それはあくまでアーチの中の別世界、虚構の世界であるからこそ、虚構と幻想、巨大スケールとバラバラな空間を物語として眺め、古代を憧憬出来たのだ。
20世紀以来、プロセニアムアーチは存在せず、虚構と現実の額縁を失い、個人主義的欲望の中に人間的感情を求めている。 
そして本来、虚構であった建築は虚構であることを止め、合理的経済の道具と化す。 
21世紀、帝国化したグローバリゼンションの中、建築は虚構化した巨大スケールが前提となり、朱儒たる人間を阻害する。 
しかし、アーチを失った我々は虚構と現実の区別もつかず、その場限りの日常世界に一喜一憂している。

2012年3月24日土曜日

長期微量被爆はどれぐらい危険か/2011年4〜5月の日経から

長期微量被曝はどれくらい危険か/2011年4〜5月の日経から
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110428/219677/?P=3

長期微量被曝はどれくらい危険か
正しく怖がる放射能【4】
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5月に入りました。福島第一原発の状態はいずれも予断は許さないものの、一定の安定をみており、メディアの関心も事故直後とは様変わりしてきました。

この連載の内容を基に書籍を編むという相談を版元としているのですが、3月4月時点の記載をそのまま活字にしても、多くの方に長期的に役立つ情報になるとは限りません。最初から「想定の範囲内」ではありましたが、実際にメディアの空気感や日経ビジネスオンラインにいただくコメントや、ツイッターでのやり取りなどを通じて、皮膚感覚の変化を感じています。

長期的に続くことがほぼ分かっている問題として、前回は原子炉の冷却の問題を扱いましたが、今回は「微量被曝」について考えたいと思います。

最初に結論を言いますと、微量被曝について不用意に確定的なことを言うと、多くの場合、ウソになってしまう、ということです。

なぜか? それは、人によって放射線への感受性に個体差が大きくあるからです。例えばたばこで考えてみましょう。ストラヴィンスキーという作曲家はヘビースモーカーでしたが88歳の長寿を保ちました。一方、私の父もハイライトを1日2箱くらい吸う喫煙者でしたが46歳で亡くなりました。父の場合はシベリア抑留中に罹患した結核・脊椎カリエスなど、若い時に手ひどく健康を痛めつけられたことが深く関係していますが、そんなことも含めて「個体差」に違いありません。

今のはたばこの例でしたが、同じ放射線量を浴びても、深刻な病気を引き起こすか、そうでないかは個体差が大きく、あらゆる長期的な見通しは確率的にしか言うことができません。

確定的影響と確率的影響

幾度も記していますが、被曝の影響は2つの異なる種類に分けられます。1つは被曝後直ちに現れる急性障害で、「確定的影響」と呼ばれます。

確定的影響は被曝量によっていろいろ異なり、また個体差もありますが

*目の水晶体:総線量2シーベルト程度で混濁、5シーベルトで白内障

*骨髄:高感受性で総計0.5~1シーベルトで白血病などの懸念
(ただし強い再生能力があるので、自己脊髄造血肝細胞保存療法などが有効となる)

*腎臓:低感受性。1カ月以上にわたって20シーベルト以上被曝しても耐えた例がある

*卵巣:総線量3シーベルト以上で不妊の原因に

*睾丸:1回0.1シーベルトの被曝で一時的不妊。総線量2シーベルト以上で永久不妊
といった具合で、一つひとつ症状を見ると、恐ろしいものだと改めて思います。

期間はさまざまとして、浴びた総量で大まかに考えて0.1シーベルト(100ミリシーベルト)から1シーベルト(1000ミリシーベルト)に達すると、健康への影響が懸念され、1~3シーベルト(1000ミリ~3000ミリシーベルト)の被曝量は直ちに適切な治療が必要、3シーベルト以上の被曝量は生命に危険があると考え、正しく恐れることが必要だと思います。

低線量被曝と晩発的影響

今挙げた、被曝直後から現れる急性の症状、つまり、より少線量の被曝による、確定的な症状以外の影響は、すぐには目に見えないので「晩発的影響」と呼ばれています。

同じ線量を被曝しても、発症する人もいれば、そうでない人もいる。そこで「確率的影響」とも呼ばれます。あくまで目安にしか過ぎませんが、一定以上の線量被曝すると、数年程度の間に癌が発生する可能性が指摘されています。

臓器によって放射線への耐性、感受性が違っており、

総線量0.3シーベルト→乳癌など

総線量0.4~0.5シーベルト→白血病、リンパ組織系の癌

総線量0.6シーベルト→すい臓癌など

総線量0.7シーベルト→肺癌など

総線量0.9シーベルト→胃癌、骨癌など

総線量1シーベルト→甲状腺癌
などとなっています。

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しきい値説と比例説

さて、この晩発的影響について

「一定以下の線量なら、被曝による影響はない」と考えるのを「しきい値説」と呼び、
「どんなに少量の被曝でも健康に影響がある」と考えるのを「比例説」と呼ぶようです。

どちらが正しいのか――。という議論がお医者からメディアまで、いろいろあるようで、私もツイッター上で「どちらが正しいのですか」と質問を受けるのですが、私の判断は、この問い自体が無意味で、考慮に値しない「偽問題」だと思っています。

よく目を開いて見直してみましょう。「しきい値説」は「総被曝量がある一定以上の線量に達すると、かならず癌が発生する」と言っているわけではありません。

「総被曝量が一定値以上になると、癌の発生する確率が高くなる…、かも」という、疫学的な統計の話であって、実際には被曝状況の差や個体差など、臨床統計に表れない部分のブラックボックスでいくらでも左右されるものに過ぎません。要するに「確率的」にしか予測がつかない。

ここで「分からないもの」は「ない」と言いたい、という、大本営発表的な思惑(「ただちに健康に影響があるというわけではない」)が介在するから、そこから先で、意味のない日常日本語によるやり取りがなされるのだと私はみています。

また逆に「比例説」を誤解してそちらに傾きすぎるのも愚かしい。

「どんなに微量でも癌になる」などと恐れるのは変で、比例説も「被曝線量が少しずつでもアップしてゆけば、その分、癌になる『可能性』が高くなる」という、当たり前のことを言っているに過ぎません。自然界には最初から微量の放射線が存在して私たちは生まれる前から常時被曝し続けていることには幾度も触れました。それに神経質になっても仕方がない。

比例説が言っているのは「たとえ1円ずつでも貯金してゆけば、必ず残高は増えて行く」という内容以上のものではない。だからといって1日1円ずつためて1年で1万円になることも絶対にない。

浴びたら浴びた分だけ発癌「リスク」が上がりますよ、という話をしているのであって、考えるべきは要するに被曝の「頻度」と「総量」、そこから先は状況と個体差次第、という部分は、何一つ変化しません。

私も登録している医用のメーリングリストで、比例説を取り違えて「どんなに微量でも発癌」のように取ったメールを送ってきたのがいました。東京大学の学部学生です。風評被害とは違いますが、そんな情報でも「東大生が」と反応する人があり、訂正を送っておきました。物事は慎重確実に考えたいものです。

転ばぬ先の杖、被曝はせぬに越したことなし

被曝の話では、しばしば医用のX線が引き合いに出されます。胸の写真を撮ればその分「外部」被曝します。当然、ごく少しですが、発癌などのリスクは上昇します。が、それと同時に、その検査をすることで、肺癌などの早期発見が可能になれば、治癒の可能性が大幅に高まって、結果的にメリットのほうが大きい。検査というのはそういう性質をもっています。

小さなリスクとより大きなリスクのトレードオフ。そういう大人の分別を持ちましょう。

「絶対安全って言えるんですか。え? どうなんですか!!!」

と詰め寄るようなことをしても、確率的な対象に誰も不用意なことは言えないし、それを何か煮え切らない態度のように誤解する浅いジャーナリズムも目にするわけですが、何一つ役に立っていません。

報道なのだったら、売ることではなく社会の役に立つことを考え、実行しましょう。この2カ月ほどで、日本の報道に対する私の考え方はかなり大きく変わりました。きちんとした情報を選んで検討しないと時間の無駄になります。

>>次ページ国際放射線防護委員会の見積もりの式

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長期微量被曝はどれくらい危険か
正しく怖がる放射能【4】
伊東 乾  【プロフィール】


短期間に一定以上の頻度で被曝すれば、少しであっても確実に「リスク」つまり病気になる可能性、危険性は上がる、そう考えることにする、という、これは正しく怖がるための知恵なのです。転ばぬ先の杖、と言いますね。身を守るための知恵を言っているのであって、それを文字面でああだこうだ言う以前に、しっかり判断、沈着に行動するか、しないか、で結果が変わってきます。要するに「しきい値説」も「比例説」も疫学統計を解釈する学説に過ぎず、どちらがより妥当であろうと、私達の被曝予防は慎重であるに越したことはない、この1点に髪の毛ほどの揺るぎもないものと思う次第です。

国際放射線防護委員会の見積もりの式

低線量被曝について、国際放射線防護委員会(ICRP)の見積もりの式をご紹介しておきましょう。

癌死亡推定人数 = 0.05×総被曝線量×被曝人数

例えば、毎時10マイクロシーベルトでこれからの1年間、人口10万人の都市が被曝し続けるなら、

0. 05×0.00001×24(時間)×365(日)×100000(人)
=438(人)

10万人当たり438人、つまり0.44%弱の人が、この被曝に起因する癌で亡くなる可能性がある、という見積もりです。

あるいは、毎時0.1マイクロシーベルトで1年間、人口1000万人の年が被曝したとすれば、

0.05×0.0000001×24(時間)×365(日)×10000000(人)
=438(人)

1000万人あたり438人、つまり0.004%程度の人が、この被曝に起因する癌で亡くなる、やはり可能性がある、という以上のことを、この式は言っていません。

また、この式の適用範囲は明らかに「低線量」かつ「一定以上の人数」に対する、あくまで見積もりであって、仮に1人の人が毎時1シーベルトで24時間浴びるとすれば、

0.05×1×24(時間)×1(日)=1.2(人)

という変な答えが出てしまいます。現実には致死量の被曝があれば1人確実に亡くなるという確定的な結果があるわけで、大人数に対する微量被曝の中長期的効果の参考に、やはり転ばぬ先の杖として、正しく怖がる参考にするのが重要でしょう。

トイレットペーパーでも9割除去

空気中に放射性の塵が舞っているような状況では、マスクの着用をお勧めします。

手元に国際原子力機関(IAEA)の資料があり、「木綿のハンカチーフ1枚で口を覆うと、放射性微粒子を28%除去できる」というデータがあります。さらに、

8つ折にすると除去効率は89%
16折にすると除去効率は94%

というデータもありました。また、水に濡らすと1枚でも64%の除去効率になったケースがあるそうです。

もっと興味深いのは、トイレットペーパーです。ハンカチより脆そうに見えますが、実は目が詰まっており

3つ折のトイレットペーパーでの除去効率は91%

という数字が出ています。無論、きちんと口や鼻にあてがってやる必要がありますが、こんな方法でもずいぶん、自分の身を守る工夫はできるわけです。

正しく怖がることと表裏して、身の回りの小さなことから、正しく防御する工夫を身につけることも大切と思います。

しきい値説と比例説
さて、この晩発的影響について

「一定以下の線量なら、被曝による影響はない」と考えるのを「しきい値説」と呼び、
「どんなに少量の被曝でも健康に影響がある」と考えるのを「比例説」と呼ぶようです。

どちらが正しいのか――。という議論がお医者からメディアまで、いろいろあるようで、私もツイッター上で「どちらが正しいのですか」と質問を受けるのですが、私の判断は、この問い自体が無意味で、考慮に値しない「偽問題」だと思っています。

よく目を開いて見直してみましょう。「しきい値説」は「総被曝量がある一定以上の線量に達すると、かならず癌が発生する」と言っているわけではありません。

「総被曝量が一定値以上になると、癌の発生する確率が高くなる…、かも」という、疫学的な統計の話であって、実際には被曝状況の差や個体差など、臨床統計に表れない部分のブラックボックスでいくらでも左右されるものに過ぎません。要するに「確率的」にしか予測がつかない。

ここで「分からないもの」は「ない」と言いたい、という、大本営発表的な思惑(「ただちに健康に影響があるというわけではない」)が介在するから、そこから先で、意味のない日常日本語によるやり取りがなされるのだと私はみています。

また逆に「比例説」を誤解してそちらに傾きすぎるのも愚かしい。

「どんなに微量でも癌になる」などと恐れるのは変で、比例説も「被曝線量が少しずつでもアップしてゆけば、その分、癌になる『可能性』が高くなる」という、当たり前のことを言っているに過ぎません。自然界には最初から微量の放射線が存在して私たちは生まれる前から常時被曝し続けていることには幾度も触れました。それに神経質になっても仕方がない。

比例説が言っているのは「たとえ1円ずつでも貯金してゆけば、必ず残高は増えて行く」という内容以上のものではない。だからといって1日1円ずつためて1年で1万円になることも絶対にない。

浴びたら浴びた分だけ発癌「リスク」が上がりますよ、という話をしているのであって、考えるべきは要するに被曝の「頻度」と「総量」、そこから先は状況と個体差次第、という部分は、何一つ変化しません。

私も登録している医用のメーリングリストで、比例説を取り違えて「どんなに微量でも発癌」のように取ったメールを送ってきたのがいました。東京大学の学部学生です。風評被害とは違いますが、そんな情報でも「東大生が」と反応する人があり、訂正を送っておきました。物事は慎重確実に考えたいものです。

転ばぬ先の杖、被曝はせぬに越したことなし
被曝の話では、しばしば医用のX線が引き合いに出されます。胸の写真を撮ればその分「外部」被曝します。当然、ごく少しですが、発癌などのリスクは上昇します。が、それと同時に、その検査をすることで、肺癌などの早期発見が可能になれば、治癒の可能性が大幅に高まって、結果的にメリットのほうが大きい。検査というのはそういう性質をもっています。

小さなリスクとより大きなリスクのトレードオフ。そういう大人の分別を持ちましょう。

「絶対安全って言えるんですか。え? どうなんですか!!!」

と詰め寄るようなことをしても、確率的な対象に誰も不用意なことは言えないし、それを何か煮え切らない態度のように誤解する浅いジャーナリズムも目にするわけですが、何一つ役に立っていません。

報道なのだったら、売ることではなく社会の役に立つことを考え、実行しましょう。この2カ月ほどで、日本の報道に対する私の考え方はかなり大きく変わりました。きちんとした情報を選んで検討しないと時間の無駄になります。

(つづく)

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カステロベッキオ美術館

ヴェローナのカステロヴェッキオ、スカルパが改装した美術館。
ヴェネツィアに生まれ、ヴェネト一円で仕事をし、松島で客死した彼は想像としての「水と東洋」を快楽的とも言えるデザインで空間とディテールに置き換えた、まさに20世紀の巨匠。

フランスでコルに学んだ丹下・前川の機能的でモラリティ高い建築が手本であった学生時代、建築雑誌の中のスカルパのデザインは禁断の貴族的世界に踏み込むような感覚だった。 
やがて、建築修行に見切りをつけ、独立という名の失業を得た20代後半、持つ物は金ではなく時間、片言の英語のみで一人、イタリアのヴェローナとヴィチェンツァを目指した。  


Youtubeにアップされていたこの映像は、その時の印象そのもの。 
制作はElena Mariottiとあるが、これは「建築紹介」ではなく文字通り写真家の「見る快楽」。
ボクも体験したカステロヴェッキオが、ものの見事に音と映像となって表現されている。
そう、「建築は詩」と実感したのもこの体験。
詩人スカルパがボクにまったく新しい建築を開示したその瞬間だ。

2012年3月18日日曜日

音と光の建築 メキシコシティーの視覚障害者センター

メキシコシティーの視覚障害者センター。
 床面だけを平らにすれば良いと考える安易なユニバーサルではなく、 ここでは空間における音のリズム、その変化をどう感知させるかが考えられている。  
建築計画にあって、健常者のみならず視覚障害者にとって最も大事なことは音と光。 http://www.archdaily.com/158301/center-for-the-blind-and-visually-impaired-taller-de-arquitectura-mauricio-rocha/?utm_source

ブルース・ガフのプライス邸

たしか、ライトの弟子であったブルース・ガフ。 
 オクラホマにあるプライス邸。 
 「雨は漏るものだ、漏っても支障のない住まいを造れば良い」 作品集にはそんなガフの言葉が記されていた。  
ボクが知る世界最初のエコロジー(グリーン)・ハウス。
 http://www.archdaily.com/171574/ad-classics-bavinger-house-bruce-goff/?utm_source

2012年2月24日金曜日

家族・都市・オペラ・イタリア



イタリアは都市と家族、そのイデオロギーに支えられている、と考えている。 ダンテより100年後、ダ・ヴィンチより50年早い万能人アルベルティは15世紀半ばユニークな都市論(建築論)、家族論を書いている。 そんな彼はフィレンツェを追放された父親と亡命先ジェノヴァの寡婦ビアンカ・フィエスキとの間に生まれた次男。 しかし、アルベルティは若くして父と死別したため苦学し、家族も持たず都市を転々としている。 
そういえば、先日観たヴェルディのシモン・ボッカネグラも都市と家族、その持続をテーマとした悲劇だ。 何故、いつもこのオペラがボクを惹き付けて止まないのかわかったような気がする。


オペラの中のシモンとフィエスコ、三幕での彼ら二人、バリトンとバスの重唱は圧巻だが、まさに二人は都市と家族を失いかねない悲劇を朗々と歌い上げる。 そして、面白いことに気がついた。
 アルベルティの母ビアンカはフィエスコ家の寡婦と言うことだろうか。 調べてみなければ判らないが、ここまで来るともう一言いたくなる。 オペラを支えるのは音楽とドラマと劇場だ。 そしてイタリアの音楽とドラマと劇場を支えているのもまた都市と家族にほかならない。


2012年2月20日月曜日

建築のなかのアルカディア/©



(ゲーテが訪れたアルカディア)

十五世紀のイタリア・ルネサンスが生み出した新しい世界、それは透視画法の中の「理想都市そしてアルカディア」。その世界は十八世紀半ば、再び、多くの詩人・芸術家たちによって取り上げられる。

新古典主義時代の代表ゲーテは三十代の時、はじめてイタリアを訪れている。彼の「イタリア紀行」はその後、何度か改訂され、現在の我々の手元にあるのはその最終版、六十代後半の上梓されたもの。「われもまたアルカディアに!」が副題、ゲーテは生涯「アルカディア」を歩き続けたのだ。

「われもまたアルカディアに!」は現在ルーブル美術館に展示されているプーサンの絵画に由来する。アルカディアに生きる三人の牧童と一人の少女、彼らが見つめている墓碑にこの銘が刻まれている。テーマはメメント・モリ、理想郷にも死が存在することを強調し、人生の短さを教え、充実した人生を送るようにと、この絵画はメッセージする。ゲーテにとってのアルカディアはただいたずらな理想郷、「憧れのアルカディア」ではない、そこは古のローマの人々が「 日々をより良く生きた世界」、ゲーテはイタリアをそのように意味づけ、「イタリア紀行」の副題をプーサンの絵画から引用した。

ワイマール公国財務長官であったゲーテは1786年9月、その職務から逃れるかのようにブレンナー峠を越え、イタリア(アルカディア)に旅だった。この峠はフランス、ドイツ、オーストリアなどのアルプスの北の国々からイタリアへ向かう重要な山道。ルター、デュラー、モーツアルト、ホルバイン、ニーチェ、ヘッセ、マン、リルケなど、皆、若き日にこの峠を越えイタリアを訪れた

峠を越えれば、北イタリアの空はどこまでも高く、そよ風はいつまでもさわやか。左手に越えてきたアルプスの山並みを望み、右手にヴェネトの広漠たる平野が横たわる中、まっすぐな大道を馬車に揺られ、ゲーテはやがてミニョンの故郷、ヴィチェンツァに到着する。


(ミニョンの故郷)

「君知るや、レモンの花咲くかの国を。

小暗き葉陰にオレンジは熟し、

そよ風は碧き空より流れきて、

ミルテはひそやかに、月桂樹は高く

君知るや、かの国、

いざかの国へ、恋人よ、

いざかの国へともにいかまし。

君知るや、かの家を。円き柱は屋根を支え、

広間は輝き、小さき部屋はほのかに光る。

また立ち並べる大理石像、われを見つめて問う、

「あわれ、いかなる事に出会いし」

君知るや、かの家、

いざかしこへ、わが守護者よ、

いざかの家へともに行かまし。

君知るや、かの山、雲の懸け橋。

騾馬は霧中に径を求め、

竜子の古きやからの棲める洞窟、

絶壁にかかる滝は飛流し

君知るや、かの山、

いざやかしこへ、われらが道は、かしこに通ず。

わが父君よ、ともにいかまし。」(ヴィルヘルム・マイスターの 修行時代:新潮社)


ヴィルヘルム・マイスターに登場するミニョン。彼女はヴィルヘルムをアルカディアに誘う。ゲーテはイタリアに出掛ける前年、彼自身のはやる気持ちを、イタリアへのあこがれを、ミニョンに託しこの歌を作っている。物語の中でのミニョンは演劇修業中のヴィルヘルムの旅の共をする不思議な魅力と悲しみを持つ女の子。彼女はギリシャ神話の妖精ニンフのように、そこここにと現れ、物語の進行に関わっていく。ミニョンと共に旅する竪琴弾きは人間の認識を超える不可解な力の象徴。それは演劇修行中の主人公ヴィルヘルムとはある種の対旋律の関係にある。その旋律は読み手の心のうちそとを限りなく震わしていく。

物語はヴィルヘルムという定旋律にミニョンと老竪琴弾きの三つの旋律が絡まり、ミニョンの歌にある「丸き柱は屋根をささえ、広間は輝き、小さき部屋はほのかに光るかの家」で終曲する。

その家は北イタリアの小都市ヴィチェンツァ近郊に現存する。宇津井恵正氏は「ゲーテの視覚の世界」の「演劇空間としてのあの家と過去の広間」の章でヴィチェンツァのロトンダがミニョンの「かの家」であることを論証された。

その全体はアルカディアの神殿の趣、建物の名はロトンダ。ロトンダとは円形平面の部屋を持つ建築のこと。ドーム状の天井や屋根を持ち、その形状は宇宙観が表現されると共に、人間の生死とも関連し墳墓や神殿にも用いられた。

通称ロトンダだが正確にはヴィッラ・ロトンダあるいはヴィッラ・アルメリコと呼ばれた。十六世紀半ば、この小都市の建築家アンドレ・パラーディオにより建築されている。


 (fig52)

澄んだ青空と柔らかい風に包まれ、ロトンダはまるで現実的な時間の流れを突然止めてしまうかのように建ち、あたりの空間全体は絵画的であり、まさに舞台のなかのアルカディアような世界が展開されている。

ゲーテは次のように書く。「私は町から三十分かかる気持ちのよい丘のうえの金殿玉楼、通称ロトンダを訪れた。上から光線を採った丸い広間を中に囲む方形の建物である。四方いずれからでも、大階段を昇れば、常に六本のコリント式円柱によって作られた玄関に達する。」(イタリア紀行・上:岩波文庫)


(建築四書の中のヴィッラ・ロトンダ)

ヴィッラ・ロトンダを設計したパラーディオにはアルベルティの「建築論」に倣った自著がある、「建築四書」。名前からもわかるようにアルベルティ同様、古代ローマの建築家ヴィトルヴィウスの「建築十書」をモデルとし、この書を後世に残した。

建築四書は「イタリア紀行」のゲーテにとっても有効な参考書であったに違いない。ゲーテがミニョンにこの館を歌わせたのは、イタリア旅行の出発の前年こと。長編小説「修業時代」以前の「演劇的使命」の中、彼はイタリアを訪れる前に何度もこの「四書」を開き、図版を眺め想像を膨らまし、ミニョンに「かの家」を歌わせたのだ。


「四書」の中でパラーディオはヴィッラ・ロトンダをヴィッラの項ではなく「都市住宅」の項に掲載している。「この建物は町ほど近く、ほとんど町のなかにあるといってよいほどなので、私は、これをヴィッラ建築のなかに入れることが適切とは思われなかった。敷地は、考えるかぎり美しく、快適なところである。というのは、きわめて登りやすい小さな丘の上にあり、一方の側は、船が通えるバッキリオーネ川によってうるおされ、他の側は、きわめて美しい丘陵地で取り囲まれて、まるでおおきな劇場のような形になっており、また、一面耕されていて、きわめて良質の果物と、きわめてみごとなブドウの樹で充満している。それゆえ、ある方向では視界が限られ、ある方向では、より遠くまで見え、また他の方位では地平線まで見渡せるという、きわめて美しい眺望をあらゆる側から楽しめるので、四方の正面のすべてにロッジアが作られている。」(パラーディオ「建築四書」注解:中央公論美術出版)

ヴィッラ・ロトンダの建築的特徴はその完璧な形態にある。中央の広間は正円、広間を囲む四つの正方形の内部空間、その外側は四面均等にイオニア式(ゲーテはコンリント式円柱と書いている)の六本の列柱が立つギリシャ神殿風のロッジアだ。ロッジアとは列柱を持つ屋根が架けられているが、外部に開放されているポーチやギャラリーのこと。

四面のロッジアにはどの面もまた均等に、幅一杯の階段が設置されている。中央の円形広間の中心に点を取れば、建築の全ての部分はこの点による点対象として配置される。四面の同一性を強調し、どの方向にも特定な優越性を与えない透視画法の持つ等質・等法の空間的秩序がこの建築では明解に表現されている。

それは百年前のフィレンツェの二つの聖堂やウルビーノの理想都市図と全く同じ体験だ。そして、この中心点にはアルカディアの牧神パンの顔が雨水抜きの穴飾りとしてはめ込まれている。

円形広間の中心点の床から牧神パンが見上げる天井は球形のドーム。この地点に立ち四方を眺めれば、どの視線も広間をこえ、ロッジアをこえ、九月の晴れ渡ったヴェネトの田園をこえ、無限の彼方まで突き抜けていく。まさに自分自身はアルカディアの中心に立っているのだ。

 (fig54)

この建築の建主は「四書」によれば聖職者パオーロ・アルメーリコ、ピウス四世と五世の司法官をつとめ、その功によりローマ市民権者たることを許されたとある。しかし、行状は決してよろしくなく、ヴェネツィアの牢獄に監禁されたこともあるようで、建物は未完のまま、オドリコ・カプラに売却されていたので、ゲーテが訪れた時のロトンダは「ヴィッラ・カプラ」と呼ばれていた。

「内部は住めば住むこともできるが、住み心地がよいとは言えない。」さすがのゲーテもあこがれの「ミニョンの館」について「イタリア紀行」でこんな辛辣な書き方をしている。

特異な建築形態を持つ住宅であるが故、ということなのだろうか、その運命は過酷だった。ゲーテがロトンダを訪れてまもなくカプラ家も血統が絶え、幽霊屋敷の異名を与えられた時代もあったようだ。しかし、この建築は無事、今に遺され、その独特の形態は単に明快な美しさだけでなく、「建築」について考える様々なテーマを投げかけている。


(ヴィッラとパラッツォ)

古来そして現在でも、イタリア建築の中のヴィッラは緑豊かな自然風景を長閑な人間的風景に変える空間装置。特に、ヴェネトやトスカーナを旅するとき、田園風景はヴィッラが垣間見えることによって一気に好ましさが強調され、忘れがたい景観となって記憶される。

ローマの時代から郊外所有地に建つ住居がヴィッラだが、都市のなかのパラッツォ(宮殿あるいは邸館、公的な空間、都市住宅)に対する田園の住居、それは私的な空間と意識され本来の集団的意味を持つ「建築」とはいささか異なるものと考えられていた。

ヨーロッパにおける「建築」の役割、それは過去に祝祭が持っていた役割を引き継いでいる。「建築」は労働や日常生活の場と言うより、集団としての人間の儀式・祭礼・社交の場。つまり、「建築」は祝祭そして都市を生み出す装置なのだ。従って「建築」は人間が自然や日常から離れた「特別な空間」であり、田園の民家や住居とまったく異なるものと考えられている。


(都市と田園)

ヨーロッパの古来の「都市」と「田園」に少し触れてみたい。「都市」とは本来、集落から訣別した「特別な空間」を意味している。そこは利便や効率のための場所であることより、動物とは異なる人間が「人間として生きる特別な場所」、つまり、日常とは異なる「ハレ」の場所、社交の場のことなのだ。

そのような都市に建つ建築は文化的内実が備わってこそ「建築」であって、単に機能や利便に供するのみならば、それは日常的な集落の延長、住居であっても「建築」ではない。これは建物の上下の問題ではなく、我々とは異なる考え方の問題。

従って、パラーディオが「四書」で強調している、都市的な生活の場であるヴィッラ・ロトンダは田園にあっても文化的世界であることが求められ、社交に供する劇場的環境に建つ作品的世界、虚構の世界でなければならなかった。

ピエンツァのピッコロリーニ宮殿を自然に放ち、私的空間化したピウス二世への批判も同じような考え方が背後にあり、私的で個人的な趣味は「建築」ではないと見なされたのだ。

パラーディオの時代は黄昏のルネサンス期、アルベルティやピウスの時代から百年も経過し、建築の考え方も変わっては来ている。しかし、彼は現代の我々のように施主の希望や使い勝手に合わせ、ただ闇雲にヴィッラを作った訳ではない。その観点から見るとパラーディオのヴィッラはとても興味深い。本来「建築」の範疇には入らないヴィッラを集団的意味を持つ「建築」としてデザインしなければならなかったのだから。

十六世紀半ばから後半は美術史でいうマニエリスム期、パラーディオは過渡期の建築家であることは確かだ。しかし、彼はギリシャ以来の本来の「建築」からも決して逸脱することのない、まさに最後のルネサンスの建築家と言って良い。

遅れてきたルネサンス人パラーディオはヴェネトに沢山のヴィッラとパラッツォを造っていく。彼の「建築」は初期ルネサンス同様、透視画法の持つ等質・等方、何者にも序列化されないイマージナルな秩序空間として組み立てられていることを決して見逃してはならない。


(ヴィッラ・ロトンダとアテネの学堂)

「パラーディオはラファエロが古代ギリシャを描いた絵に表明した理想に相通じるものを現実に作り出そうとした」(都市と建築:東京大学出版)と北欧の現代建築家ラスムッセンは書いている。パラーディオのヴィラ・ロトンダとラファエロの描く「アテネの学堂」はドーム広場を中心とし、その前後に同型の広間を配置している。大きさと構造、その空間構成は全く同相にあると指摘しているのだ。

「アテネの学堂」と「ヴィラ・ロトンダ」の違いは、絵画にあっては全体が一目で見渡せるが、建築においてはその歩みによってしか体験できないことの違いだけ。ブルネレスキのサン・ロレンツォ聖堂は建築体験は絵画を眺めることと同質であると示していたが、ラスムッセンは逆に絵画を眺めることは建築体験と同質と言っている。つまり、「アテネの学堂」という絵画の中に「ヴィラ・ロトンダ」の建築体験が描かれているのだ。

前述したが、絵画と建築の違いは種類の違いではなく手段の違いだ。一見、当たり前の話のようだが、重要な指摘。このことは、ルネサンスの透視画法は等質・等方な空間の中にシンボルを配置することから生まれる、全く新たなイマージナルな空間、ということに立ち戻らなければ理解出来ない。

手段は異なるが、建築も絵画も透視画法の空間にシンボルを配置することから生まれる虚構の空間に他ならない。

立ち戻れば、ルネサンスの画家や彫刻家を夢中にさせた透視画法の空間は神の絶対的支配を逃れた人間中心の空間。その空間の発見によって、絵画はシンボルを配置することで、実際の建築以前に空間を体験させることが可能となった。絵画は建築同様空間を生み出す。あるいは絵画は建築することなく建築を生み出す。

ラスムッセンはラファエロの絵画空間からパラーディオの建築空間が読み取れると書き、ブルネレスキは建築空間を透視画法の絵画として作った。理解を複雑にしているのは、我々はルネサンスの透視画法の空間を理解せず、ルネサンス以降の舞台背景を含め、絵画的なイリュージュナル(幻想的)な空間のみを透視画法の空間あるいは絵画空間とみなしていることにあるのだ。


(想像的空間と幻想的空間)

イマージナルな空間とイリュージュナルな空間、どちらも虚構の空間であることは変わらない。しかし、前者は想像的自由な空間、後者は人為的に生み出された幻想的な空間だ。後者だけを絵画空間とする現代人はルネサンスの絵画と建築は表現手段が違うだけで、全く同相にあることを理解しない。

透視画法の空間はブルネレスキからベルニーニに至る二百年の間に大きく変わる。それはルネサンスとバロック、美術史を理解する主要テーマだが、ここでは前述したイマージナルな空間がイリュージュナルな空間へと変容していく。つまり、ルネサンス絵画とバロック絵画、その二つの空間は全く違うもの、と考えれば容易にラスムッセンの説明が理解できるだろう。

中世における絶対的神の世界の揉縛から逃れ、人間中心の世界を標榜したルネッサンス人の賛歌である「アテネの学堂」がヴィラ・ロトンダの直接のモデルであったかどうかは「建築四書」からはうかがえない。しかし、署名の間を飾る「アテネの学堂」が円形に縁取られたプロセニアム・アーチ(舞台に設置された額縁)の中の演劇的構成を持っているように、ヴィラ・ロトンダもまた劇場のような敷地環境の中にあって、舞台背景となるように設計されたことだけは間違いない。


(アルカディアとしてのヴィッラ)

当時の建築家の仕事は音楽家同様大半は教会にあった。しかし、パラーディオには教会の仕事は少なく、ヴィッラとパラッツォという住宅ばかりだ。パラーディオが世俗の建築家、最初の住宅建築家といわれる所以はこのあたりにある。

ではパラーディオは田園に建つ住宅をどのように「建築」にしたのか。パラーディオのヴィッラはあるがままの自然、民家や農家の持つ田園的風景をメタフィジカルな理念の世界に、現実の背後にある秩序だった理性的な世界に変容している。そのために用いられたテーマは「アルカディア」。

「アルカディア」は貴族たちの社交には欠くことの出来ない文化装置でもあった。パラーディオは建築だけではなく田園環境も一体化し、全体をウェルギリウスやサッフォーが描いた古典主義的な田園風景、「建築」をアルカディアとして描くことで、現実の風景をメタフィジカルな理念の世界に変容している。だからこそ、彼のヴィッラは「建築」であって、単なる自然あるいは田園に建つ民家や住居ではないのだ。


(ヴィッラ・ロトンダに託された物語)

ヴィッラ・ロトンダはアルカディアとして作られた劇場的世界。その世界は等質・等方なルネサンスの舞台空間。そして舞台に配されるシンボル、それは「四書」にも書かれている古代神話に由来する彫像の数々。

四つのペディメント(ロッジアの三角形の破風端部)には3体ずつ12体。階段の上がり口には2体ずつ8体の等身大の彫刻像。それらは個々に神話から由来するアレゴリー(寓喩)、円形広間の中央水抜孔の牧神パンを始めとしてアポロンやヴィーナス、ジュピター等々。

その全体はアルカディアに隠棲する「ミダス王の物語」となっている。ヴァネツィアに捕らえられたこの建築の施主であるアルメリコはミダス王と同じように、アルカディアの住人となって故郷ヴィチェンツァ隠棲する、それがヴィッラ・ロトンダに託された物語だ。


(王様の耳はロバの耳)

ミダス王とは「王様の耳はロバの耳」、あの誰もが知る欲張り王のお話。王はバッカスにねだり「手に触れるものなんでも黄金にして下さい」とねだる。願いは叶えられるが、食事の際の食べ物・飲み物、すべてが黄金に変わりミダス王は飢えと乾きに苦しめられる。再びバッカスのところにゆき、神の言いつけ通り、パクトロス川(ロトンダの前にはバッキリオーネ川が流れている)で身を洗い、黄金の地獄からは救われる。

そんなミダス王はある時、アポロンとパーンの音楽家としての腕比べの審査を引き受ける。彼は素朴なあし笛のほうがアポロンの銀の竪琴より響きが良いと気に入り、パーン(ロトンダの中心の雨落ち孔)の勝ちにした。しかし、アポロン(その彫像はロトンダでは裏側となる南西のメディメント頂部)は怒り「お前の耳はばかな耳だ、そんな耳はロバの耳になるがいい」と言い、ミダス王の耳は毛むくじゃらの耳に変えてしまった。

ミダス王は恥ずかしがり、特別仕立ての帽子をいつもかぶっていたが、床屋にだけは隠せない。王は床屋に「秘密をもらしたら命はない」と厳命するが、耐えきれなくなった床屋は野原に出て穴を掘り、その穴の中へ「王様の耳はロバの耳」と言って、また穴を埋める。

やがて、春になりあしが生えた。そのあしは風が吹くとささやいた、「王様の耳はロバの耳」と。王様の秘密は風に乗り世界中に広まって行く。

山室静氏の「ギリシャ神話:教養文庫」の「ミダス王」からの簡約。

改めてこの物語からヴィッラ・ロトンダに戻ると、「建築」とはつくづく面白い存在であることを教えてくれる。

この「建築」はまず十五世紀のヒューマニズムの体現装置(透視画法の空間)、と同時に十六世紀の「アルカディア」なのだ。ヴィッラ・ロトンダは建築とリアルな環境とが一体化された秩序ある世界を想像的に体験する劇場的世界として作られた。

その後、ヴィッラ・ロトンダは「幽霊屋敷」とも言われ荒廃に荒廃を重ねている。しかし、結果としては、今に残されている。「建築」を残すものは「何」なのか、といつも考えている。

それは決して個人的な趣味や利便ではない、「建築」は物語であり「メッセージ」であるからだ。「建築」への考えかたが変わり「時代」が変わっても、建築に託された「言葉」は何時までも生き続ける。そしてまた、あしに吹く風は永遠に「王様の耳はロバの耳」とささやき続ける。


(ヴェネツィア貴族の陸の支配)

ヴェネトのヴィッラは使い方の面でも、現在のリゾートハウスとは異なる役割をもっていた。ヴィッラはたしかに街なかの建築とは異なり、乗馬や運動により健康をもたらすもの、都市の刺激で疲れた心を慰めるもの、静かに文芸の研究や瞑想にふけることもできる住宅。しかし、産業や農業などにより資産を増やすための建築でもあった、とパラーディオは書いている。

ヴィッラは農業経営の為の建築だった。パラーディオと同時代、海の権益を奪われつつあるヴェネチア貴族にとっては陸に作った船なのだ。ヴェネトのヴィッラは現在に見る自然の中の別荘というより、追いつめられつつある海の貴族の陸の拠点と言って良いのかもしれない。納屋や小作人の住居さらに農作業の為の作業庭を持つばかりか、パラッツォ同様、社交のための華やかなサロンも持っている。

そのようなヴィッラの一つがヴェローナ近郊のヴィッラ・サレーゴ。ヴィッラ・サレーゴは現在はヴェネトワインの有数な生産拠点。シーズンには多くの人々が集まるワイナリーであり、一大社交場となっている。

誇り高き海の貴族の一つバルバロ家はヴェネチアでは名門中の名門。粉屋の息子であったパラーディオにとっては、彼を古典の世界に導き、建築家として育ててもくれた恩人でもある一族だ。そんな貴族の為のヴィッラ・バルバロをパラーディオはロトンダよりも十年前に設計している。


(バルバロ兄弟のメッセージ)

このヴィッラは農業経営の為の建築、と同時に広大なアルカディアの体現装置。

ヴェネツィアからは北西方向の内陸部、アゾロ丘陵の麓にマゼールという小さな街がある。人口五千人足らずのこの街にヴィラ・バルバロは建つ。北斜面を埋める針葉樹の木立を背景として、ヴィッラは鮮やかな色彩を放ち、まるで絵本を飾る建物の趣。イオニア式の四本の円柱を持つギリシャ神殿のような主屋を中心とし、左右はロマネスク風の正円アーチのロッジア(開廊)が連なる。ロッジア の両端部にはどちらも日時計としても使われた鳩小屋が載りユニークが外観を形作っている。


 (fig55)

このヴィラの設計をパラーディオに託したのはバルバロ家の兄弟。二人はともに英国やフランスそしてトルコの大使を務める共和国の重鎮でもある人だ。兄ダニエーレはヴィトルヴィウスの注釈者としても有名であり、弟のマルカントーニオもまた美術好き、彫刻や機械、彫刻等に深い関心を持っていた。

アドリア海そして地中海を支配しつづけたヴェネツィア貴族だが、その支配が揺らぎ始めたこの時代、彼らは内陸部の農業経営に力を入れ、新しい時代を生きる術を模索していた。

海の貴族が陸の支配を目論む建築は、農地や自然というカオスの中にあっても、自然に支配される農家や民家ではなく、「大地から飛翔した特別な場所」を強く意識付けるメッセージを持った建築でなければならない。

バルバロ兄弟にあっては従来の自然に支配されるキリスト教とは別種のメッセージが不可欠となる。従って、建築には自然の中に屹立する人間的秩序世界を象徴する物語と、都市に建つパラッツォ(邸館)と同様、多くの知識人による知的コミュニケーション(社交)が可能な場が必要。つまり、ここでもまた居心地の良い居住空間と言うことより、知的な人間関係を生み出す社交の場、キリスト教会とは異なるある種の劇場空間が求められていたのだ。

主屋の正面に立ち、振り返ると視線は一直線にならぶ木立の列に導かれ無限の一点に消えて行く。透視画法が生み出す絵画的手法はこのヴィッラが神(自然)の支配から離れた人間的世界そのものであることを示している。

透視画法の焦点(中心)に建つのがヴィラ・バルバロの主屋。ヴェネツィア貴族バルバロは広大な自然を農地として従え、そのまっただ中に神の力をよらずして自らの館を構える。左右対称な建築の広がりと十字をなす真一文字の視線の交錯により、自然である無秩序世界(カオス)を秩序ある人間的世界(コスモス)に転換した。

しかし、既に触れたように十六世紀の時代意識はもはや、やみくもに古典を引用すれば良い時代とはいささか異なっていた。バルバロ兄弟が「建築」に託したメッセージ、それはオリンポス神話を引用した諧謔的な物語、神々と共に守る水の神殿なのだ。


(虚と実が重層する空間)

古来より、建築は詩や音楽同様、様々な物語を語るメディアでもあるが、このヴィラは農業神を表象する神話を建築空間と絵画空間を交差させ、リアルでありイリュージュナルな神話と現実を共存させることで物語っている。


 (fig56)

このヴィラの主屋の正面には玄関はない。入り口と目されるものは一階の厨房のための勝手口にすぎず、本来の玄関は主屋の裏側の階段を昇った二階部分。階段は左右対称のロッジアの両側に設置されているが、昇り切ると小さなホール、しかし、入り込んだ途端、あっと息を飲まされる

一瞬のうちに、前後左右のあらゆる壁面から、このヴィッラの住人たちと思われる人々の鋭い視線に射すくめられてしまうからだ。入り込んだ世界はバルバロ家の日常世界のまっただ中。奥方と太った小間使い、少年と遊ぶ小鳥に子犬、そして扉を開き挨拶に出る召使いと可愛らしい少女、奥の扉からは狩りから帰ったばかりの猟犬をつれたご主人の姿。描かれるのは住人たちだけではない、日常の掃除道具や小物、現実の扉と絵画の扉が混在したイリュージュナルな絵画空間。

そこでは眺める自分自身も絵画の中、リアルな自分も幻像化し真実と虚構が共存するドラマの中に巻き込まれる。つまり、ヴィッラ・バルバロは多くの人々が真実であり虚構であることから生まれる、豊かなコミュニケーション・スペース(社交)、劇場空間となっている。

ヴィッラの内壁のフレスコ画は画家ヴェネローゼによって描かれた。施主バルバロは建築家パラーディオ、彫刻家アレッサンドロ・ヴィットーリアそして画家ヴェネローゼを制作スタッフとし、このヴィラを完成させた。当代きっての三人の芸術家に託したヴェネツィア貴族による陸支配への意欲、それは並々ならぬものであることが良くわかる。


(水の神殿)

そして次に、バルバロが託した陸支配の意味、この建築が表現した劇場的世界そのものを福田晴虔氏の「パッラーディオ」を借り読み解いてみる。読み解く鍵はパラーディオの著書「 建築四書」にある。

「上階の部屋の床面が背後の中庭の地盤面と同一平面にある。その中庭には、家と向かい合った丘に泉が掘りぬかれ、スタッコ細工と絵画による大量な装飾が施されている。この泉は、小さな池となり、これは養魚池として役立っている。そこから溢れ出る水は、台所に流れ込み、それから、建物に向かってゆるやかに上昇してゆく道路の左右にある庭園をうるおし、二つの養魚池を形づくり、公道に面して、家畜の水呑場も設けられている。そこから溢れ出た水は果樹園をうるおしているが、この果樹園はひじょうに広大で、極めて良質の果樹や、さまざまな雑木が豊富に植えられている。」( 建築四書: 中央公論美術出版 )

「 建築四書」はヴィッラの背後の山裾から溢れ出る水のいく末ばかりに終始している。いや、陸の支配を意味付けるこのヴィッラのテーマはこの「水」にあるとパラーディオは間接的に語っているのだ。


 (fig57)

ヴィッラの背後の山裾から溢れ出る水は神々に導かれ、水の精ニンフに守られる池、ニンファエムに蓄えられる。グロテスクな神々とニンフを祭るニンファエムは彫刻家アレッサンドロ・ヴィットーリアにより作られた。

入り口ホールの北側、主屋の最後尾に配されているのが、このヴィッラの最も重要なスペース、オリンポスの間だ。この部屋はバルバロが陸支配をメッセージする建築の始まりであり、ヴィラ全体の物語の中心。ニンファエムと中庭を挟んで、同じ床の高さで対峙するこの部屋こそ、新たな生命の誕生と豊かな人間生活を保障する神々の世界と意味付けられている。

入り口ホールから南、主屋の生活あるいは社交空間はすべてオリンポスの神々と共にある人間的世界ということになる。そこからの眺めは先に触れた木立による透視画法によって秩序づけられた農業空間へ一直線に導かれる。

ニンファエムから湧き出る水もまたヴィッラを飾る神々に導かれ前庭の噴水となり、さらに敷地を通過し一直線に田園地帯(無秩序な自然ではなく、人間の秩序支配により生み出された農業地)を貫いて行く。

田園に流れ出る水は地をうるおし、安定と繁栄を約束するもの。東洋でも同じだが、水は生命あるいは再生のシンボル。自然の中のニンフやサチュロスもまた生命・再生をイメージさせる小神たち。海の覇者であったバルバロは時代に追いつめられての農業経営ではあるが、かっての栄光の再生をこのヴィッラを建築することで祈願したのだ。


(ゲーテの建築術)

ヴィッラ・バルバロやロトンダを初めて訪れたのはゲーテと同様九月だった。天高く晴れ渡った午後、ヴィラ・ロトンダを訪れた時、ミニョンがそこここに佇み、追い掛けてくるような世界を体験した。またバルバロでは、そこは騙し絵の世界だがまさに家族の会話も聞こえるオペラの舞台に立たされた気分。その世界はゲーテとパラーディオの描く虚構が相和し、鳴動した「作品的的世界」と言って良い。

建築は「作品的」「観念的」世界にこそ、実在すると実感したのはこの時の経験。ゲーテは「イタリア紀行」の後、建築論を書いている。手近な目的、より高い目的、最高の目的と建築の目的には三段階あるというのが彼の重要な指摘だ。

「最高の目的は、あえていうなら感覚を溢れんばかりに満たすことを企て、教養ある精神を驚嘆と恍惚にまで高める。・・・これは建築術の詩的部分であり、本来ここに働くものは虚構である。・・・しかし、近代人は肝心かなめの点で最も立ち後れている。彼らは、それが最も必要なものであるのに、虚構の本来の姿、模倣の適切性をほとんど理解しなかった。彼らはこれまで寺院や公共の建物にのみ属していたものを個人の住居に持ち込み、そこに荘麗な外観を与えたのである。こうして近代では二重の虚構と二重の模倣が生まれ、そのため適用に際しても評価に際しても精神と感覚が要求されているということができる。この点においてパラーディオを凌駕した者はいない。彼はこの軌道において最も自由な活動を示した。そして彼がその限界を踏み越えた場合でも、人々は彼に非難すべき点に関してつねに寛大である。虚構とその精神的法則に関するこの理論は、建築術においていっさいを散文化したがる一種の国語浄化主義者たちに対抗するために必要である。」(ゲーテ全集第13巻:潮出版)

このゲーテの建築術に触発され、実用実利中心の現在の散文化した建築界ではほとんど見つけることが出来なくなった「虚構としての建築」をもう一つ、次の項で再びゲーテに従い見学する。


3-3 建築のなかの理想都市


( テアトロ・オリンピコ )

古代ローマ以来二千年の都市文化を持つイタリア、その歴史的建築物はどこの都市にも数多く遺されている。パラ-ディオの建築も同じだがその大半は現存する。保存も歴史的記念館や博物館としてではなく、建設当時と同様、オフィスや生活のためのスペースとして。

ヴェネトの小都市ヴィチェンツァにはパラーディオの名が被せられたメインストリートが今に残され、四百年前に彼が作ったパラッツォが軒を連ねる。パラ-ディオ通りは15分も歩けば突き抜けてしまう、ヴィチェンツァはそんな小さな都市。

しかし、近隣のヴェネツィア共和国やローマ教皇庁の支配からは一線を画して生きようとするヴィチェンツァは都市としての誇りが極めて高い歴史を持っている。文化的資質、気品のある佇まいは現在、ローマのコンドッティ通りに劣らず、たくさんの有名店を集め、世界中から多くの観光客を迎え入れている。

街はずれの広場の一角にテアトロ・オリンピコがある。ここがあの有名な劇場か、というのが第一印象。中世時代のレンガ積みの擁壁と鉄の門扉に囲まれ、外観から劇場をイメージさせるものは何もない。半信半疑のまま路地側の壁にうがかれた小さな木戸をくぐりぬけると突然、そこは十六世紀の世界。

パラ-ディオ時代もここが入り口だそうで、入り込んだ天井の高い殺風景なこの部屋は舞台や客席に至る広間(オディオン)の為の前室となっている。前室とはいえ、天井に接する壁面の上部の四面にはすべて、グリサイユ(単彩フレスコ)が描かれていて、その内の一枚は、なんと遠路遥々日本からやって来た天正の少年遣欧使節。

ちょうどこの劇場の完成期に訪れた日本の少年たちはヴィチェンツァ市民にとっても初めてのこと、大いに歓待されたようだ。彼らは得体の知れない劇場と舞台をどんな思いで眺めたのであろうか。

オディオンの扉を開けると、突然、古代広場に入り込んだ印象。しかし、ここは劇場、左手は舞台で右手が観客席。客席側に階段を降りると、舞台の上には実物大の立体模型化された都市風景、書き割り的な建築群が立体化され街並みのように連なっている。


 (fig58)

観客席はローマのサン・ピエトロ大聖堂と同じ様に列柱に取り囲まれた広場の趣。と同時にそこは階段状に駈け上る観客席、古代劇場のように半円形の形状を描いて登っている。

オディオンからの見学者は舞台脇から入り、広場(観客席)に降りるのだが、中央に進むと舞台上の立体模型の都市風景はますます現実感を帯びて迫ってくる。透視画法により遠近感が強調された舞台上の街並みは劇の為の固定背景として設えられている。それはアルベルティ以来思考され、幾たびか描かれてきた理想都市の情景だ。

しかし、この舞台背景となる都市の中に、俳優が直に入り込むことは出来ない。奥に行くほど街路はせり上がり、作られた建物は極端に小さくなって行く。この都市を形造る立体模型は客席からの視線に深い奥行き感を与える装置として造られている。

従って、現実に演技できる場はこの背景の前のわずか3mほどのスペースだけ。固定背景としての都市風景とその前の小さな演技スペースのみで構成される舞台空間なのだ。

テアトロ・オリンピコでは舞台上のドラマが始まる前から、ドラマが始まっているといって良い。周りを見渡せば、劇場全体はまるでルネサンスの都市広場だが、それはまた古代ローマの世界でもある。

空間の形態は古代のローマ劇場の形をそのまま模したものであり、固定背景の舞台と列柱で取り巻かれた観客席はルネサンスの都市広場の有り様。つまりローマ時代の劇場であり、ルネサンスの理想都市。建築が生み出すドラマは二重の「虚構の世界」となっているのだ。

観客は古代のローマ劇場を体験させられる、そしてまた理想都市の広場にも立たされる。つまり観客は舞台上で演じられるドラマ以前に古代のローマ人という役を演じなければならない。と同時に、ルネサンスの理想都市の広場にも立たされている。場内全体は小さい、しかし、密度の高いこの劇場空間は驚くほど饒舌な世界。


 (fig59)

テアトロ・オリンピコは残存する最古の屋内劇場。ギリシャ以来、劇場は野外であることが一般的。教会や宮殿のサロンも劇場として使われることはあるが、ここはヨーロッパで初めて作られた屋内の専門劇場。従って、近代劇場の原点と言われている。

古代のギリシャやローマ劇場には屋根はない、あっても日除け用のバリリウムと言われるテントのみ。しかし、この劇場には屋根がある。その天井には、ここがあたかも古来からの野外劇場でもあるかのように、円形の青空の中、幾すじもの雲が描かれたなびいている。

手法はマンティーニャの天井画同様、ルネサンスの透視画法が開いた世界。舞台上の書き割り的都市を生み出すのが透視画法だが、天井画の透視画法もまた近代劇場には不可欠となる重たい屋根を青空に換え解放している。


(二つの虚構の世界)

古代劇場はそこが劇場となる以前は秩序ある天体に覆われた世界の中心、聖なる場所、祝祭空間と意味づけられていた。従って劇場は大宇宙のもとの大地、野外でなければならない。古代劇場を模したテアトロ・オリンピコもまた、ここが世界の中心、自治都市ヴィチェンツァの誇りと文化を主張する場となるところ。

古代の祝祭空間を模したテアトロ・オリンピコは透視画法を駆使することにより生まれた、屋内の中の野外劇場ということになる。と同時にローマの英雄たちと共に今を生きる都市広場、ヴィチャンツァに生まれたこの劇場は、天体と一体化した古代の祝祭空間であると同時にルネサンスの理想都市。つまり、二つの空間が重ね合わされた二つの世界劇場、壮大な「虚構の世界」となっている。

屋内であり木造で作られている為、テアトロ・オリンピコは石造の中世教会に比べ残響が少なく、一音が長時間響きわたることはない。従って、ギリシャ・ローマの野外劇場同様、この劇場は細やかなニュアンスを持った台詞を聞き分けるに程よい反響を作り出している。テアトロ・オリンピコが近代劇場の初まりと言われる所以はここにもあるのだ。

残響の長い中世の教会では微妙な音の変化や声が発する意味を明瞭に聞き取ることは不可能。しかし、この劇場では詩や劇の朗唱が明瞭に聞こえる。つまり、宗教音楽の為の教会とは異なる、新しい音楽のための空間の誕生。

キリスト教会とは別種の屋内劇場の誕生は十七世紀まであとわずか、フィレンツェで始まる、繊細な器械である楽器、豪華な衣装、絢爛たる舞台装置によって統合化されるオペラの幕開けを待つばかりの時だった。


(ゲーテのパラーディオ論)

「数時間まえに当地に到着し、もう町を一わたり駆けまわって、パラディオ作のオリンピコ劇場や建物を見てきた。」ゲーテはヴィチェンツァに到着するや否やまずテアトロ・オリンピコを見学している。

そして次のようなパラーデイオ論を展開する。「それゆえ私はパラーディオを評して言う、彼は真に内面的にしてかつ内部から偉大性を発揮した人物であったと。この人が近代のすべての建築家と同じく征服しなければならなかった最高の困難は、市民的建築術における柱列の適正なる応用である。なぜなら円柱と囲壁とを結合することは、なんといっても矛盾であるからである。しかるに彼はどんなにこの両者をうまく調和せしめたか、また彼はどんなにその作品の現前の姿によって人を讃歎せしめ、彼が単に巧みに説伏しているのだということを忘れさせているか。実際彼の設計の中にある神的なものが存している。それは虚実皮膜の間から第三の物を造り出し、それの仮の存在を持ってわれわれを魅了し去る大詩人の通力と全く同じ物だ。」(イタリア紀行・上:岩浪文庫)

利便と快適性だけでは到達できない建築の価値、建築の持つ詩的側面となる「虚構として建築」の意味をゲーテはここでもまた見据えていた。前項で触れたゲーテの「建築術」の上梓は1795年、彼がテアトロ・オリンピコを見学したのはその九年も前のことなのだ。

「イタリア紀行」は何度も書き換えられているので、そのあと先はどちらでも良いのだが、彼の「虚構として建築」の論旨はこのテアトロ・オリンピコの見学で着想したと考えなければならない。そしてその手法は矛盾である柱列と囲壁の巧みな説伏にあると書いている。

ローマ建築の手法は日常的利便に供する空間を壁により生みだし、その壁にギリシャ的な柱列空間を巧みに付加することで、建築の目的である用と美を生み出しているが、イタリア・ルネサンスの建築家たちの関心もまた同じ。さらに十六世紀パラーディオの時代には、神殿や教会という聖なる建築のためばかりではなく、住宅や市民会館という世俗の建築に対して、この手法をいかに反映させるかが課題であった。

従って、ゲーテが言う円柱と囲壁とを結合することの矛盾、それは相異なる二つの構築的要素で一つの建築を作ることのみを言うならば、その手法はローマ以来のイタリアの手法であって、パラーディオの建築に帰することではない。

しかし、ゲーテはその巧みな使い手である建築家を虚実皮膜の間から第三の物を造り出す大詩人と絶賛しているのだ。

事実パラーディオはローマ的「柱列と囲壁」をパラディアーナという巧みな造形の構築的要素に変容しただけでなく、「光や色彩」さらに非古典的モチーフも同等の建築的要素として取り上げ、建築の中に折り込んでいく。

それは大詩人ゲーテのみが語り得る大詩人の通力。十六世紀のパラーディオは十八世紀の大詩人に「大詩人」と呼ばれた唯一人の建築家なのだ。

「イタリア紀行」の全体を読む限り、 ゲーテは面白いことに、 小都市ヴィチェンツァには長く逗留するが、フィレンツェには一度も立ち寄ることなくローマに向かっている。「イタリア紀行」ではゲーテはブルネレスキやアルベルティの建築には全く触れていないのだ。

十五世紀は古典・古代を想像した時代、十八世紀のゲーテの時代はルネサンス以来の発掘が完了し、古代ローマが最も研究された時代でもある。

ルネサンス初期の建築はゲーテにとっては古代ローマの建築とは異なるものだったのかもしれない。彼のイメージする古典世界は全てパラーディオの建築を意味している。ゲーテの「アルカディア」はフィレンツェではなく、建築家パラーディオによって描かれた世界だった。


2012年1月18日水曜日

多声音楽と計量的時間

西ヨーロッパの主流となる科学的思考の始まりは中世になりギリシャの哲学や科学を知るようになってからのこと。ギリシャの思考が広まったのは西暦八百年から千二百頃に栄えたイスラム文明によるところが大きいと言われている。アラブ人やペルシャ人がギリシャ人の哲学、数学、科学を見いだし、その価値を認め、写本を保存し、翻訳し、注釈を加え、さらに自分たちの重要な発見を加えていった。 
アリストテレスやユークリッドやアルキメデスを知ったのはザンクト・ガレンにおけるイスラム文明の接触を通じてのこと。十二世紀、ザンクト・ガレンに始まった研究活動は三・四世紀後にはギリシャの学問を完全消化吸収し、新たな科学的合理思考を形成する。その典型がコペルニクスやケプラーの開いた世界。
しかし、彼らの考え方とてギリシャ流の思考の枠内、つまり依然として、静止した絵のような空間にかかわる概念に支配されていて、時間的変化、空間上の位置変化、天体の運動に関する記述という問題には全く踏み込んではいない。

 運動を数学的に記述する方法をつかんだのはガリレオ・ガリレイ。彼は時間を記述し計量化することで物体の自由落下の法則を発見した。 運動を記述するには移動距離、速度、速度の変化が必要だが、彼は速度や速度の変化は経過した時間との関係で表されるということに気がついた。さらに時間の経過は環境にあるナニモノにも左右されない独立したもの(計量的時間)と考えた。
時間は運動によって記述されるのではなく、その流れを一様とし、数学的に独立した変数としたことで計量化が出来、運動を記述することが可能となったのだ。 自分自身の主観的時間「経験」「自分が感じる時間」は計量的時間とは食い違うが、この「計量的時間」という抽象的な構造物は、実は十三世紀の初め パリ・のノートル・ダム大聖堂の多声音楽と記譜法の理論において最初に現れている。

 多声という楽曲は二つ以上の旋律を持っている。音の高低が異なる男女が一オクターブあるいは五度ずれて歌うのは良くあることだ。しかし異なる旋律を意識的に構造化し同時に歌ったり演奏したりという音楽を作ったのはヨーロッパの十一世紀以降が初めてだ。多声の変遷は平行多声、自由多声という展開にはじまる。十二世紀リモージュにある修道院サン・マルシアルでは旋律が全く別であっても、同時に発声される音の長さは両方の声部とも同じという規則がなくなって行く。 
このことから定旋律に対して付け加えられる第二の旋律はより自由に歌うことが可能となった。そのかわり、定旋律を歌う人は第二旋律を歌う人が独立したパートを歌い終わるまで自分の音を引き伸ばし、待たなければならないのだが。 パリのノートル・ダム大聖堂では、それはちょうどこの大聖堂が建築中でもあったのだが、同時に進行する三つから四つの声部を持つ多声曲が作曲された。 何故、そんな複雑な時間の構造体の記譜が可能となったのか。それは各旋律の時間的あり方が同じ時間の単位で調整されていたからだ。ガリレイの言う「計量的時間」についての概念なくしても、各声部は声部ごとのまとまりが与えられ、全体としては一つの記号体系を創りだすことが可能となった。

 このノートル・ダムの体系をリズミック・モードという。時間の持続の標準を短い音に決め、その二倍長い音、三倍長い音を表す型をあらかじめ決めておき、その型をギリシャの韻にちなみ、「長短格」「長短短格」というようにモード設定し、その繰り返しを表記、調整し作曲していった。 この時間の構造体は科学でも哲学でもない。当時まだ大聖堂を創る建築家の名前は記録されなかった時代、この表記法を編み出したノートル・ダム大聖堂のレオナンとペロタンは歴史上最初の作曲家として賞賛されている。

2012年1月15日日曜日

アルプスの北と南の音楽と建築


ロマネスク期イタリア半島の聖堂は木造小屋組による天井構成とバジリカ式(長方形)平面という単純な形式。 石造のヴォールト天井は古代ローマ時代の技術、当然、イタリア半島の聖堂で普及してしかるべき建築。 
しかし、その形式はイタリア半島ではなく、もともと石造建築には不慣れであったアルプスの北の人々が採用している。(ロマネスクはローマ風という意味、イタリア人ではなく、北の人々が石造建築をロマネスクと呼んだようだ) 彼らは 作り慣れた木造ではなく、あえて石造で天井をヴォールトで建設しようとする真意は一体どこのあったのかだろうか。

 確かに、火災にも強く、より堅牢な耐久性のある聖堂を求めたことは理解できる。 しかし、それだけが不慣れな石造天井を必要とした理由では無い。 
北の人々が新しい聖堂に求めたこと、それは石造であることから生まれる音の反響と残響にあったようだ。 つまり、彼らにとって聖堂は音の空間、音楽重視の聖堂と言って良い。
 一方、イタリア半島は視覚の空間。イタリア人にとっては音以上に、祭壇に向かって集中する視線のパースペクティブこそ聖堂にはもっとも重要なものと考えていたようだ。

 北の人々が好んだ音の反響とは後世で言えば和声のこと。 単声歌あるいはユニゾンを音楽とする半島の人々と早くから和声あるいは音の協和に関心を示す北の人々。 イタリアとフランスの音楽の特性はすでにこのロマネスク期の建築に明解に示されていたと考えて良い。
 付け加えると、古代ギリシャ人にとっての音の調和は継起的なもの、複数の音が同時に鳴る和声とは全く異なるもの。 何人かの演奏者が同時的に奏でる形態はこのフランスロマネスク以降の中世的発想と言って良い。 
さらに中世以降、多声音楽を一般化したフランドルのポリフォニーに対し、ルネサンス以降、イタリアでは多声であるがホモフォニーに拘り、やがてオペラの基となるモノディー(単旋律の歌唱声部を低声部と和音の伴奏で支える独唱歌曲)を生み出している。