2012年9月14日金曜日

アルベルティの理想都市

具体的に都市を計画する、ということはどの地域でもどの時代でもなされている。
碁盤目状の道路割等を導入し、実利的にも観念的にも選択された一地域に、何らかの秩序を導こうという手法は、ヨーロッパ・古代中国、平安京日本もまた同じ。
しかし、アルベルティの「建築論」の特徴は物理的な計画以上に人間が在るべき「理想的(アイデアル)社会」という考えを示したことにある。
そして、つぎにその考えを一つの町の計画に具体的に当てはめていく。
街路、広場、建物という都市の構成要素は機能的であると同時に、都市全体は威厳を持ち、秩序だつように計画する、その為には具体的にどう配置するか。
アルベルティは部分としての個の充実と全体としての集団の秩序だった調和を重視するコンキンニタスという言葉を採用した。
彼は「絵画論」で絵画の技法を実践から論理化を示したように、「建築論」では都市と建築の構成方法を論理化したのだ。

都市のための敷地の選び方、防御のための城砦のかたち、そして人々が秩序だって共存できるための都市の様々な構成要素の配置の仕方。
都市はゾーニングし性格付けられたいくつかの町の集合であり、町の威厳を持たせる為には、道路は広くて真っ直ぐが良いが、もし蛇行しているならば川の流れのように大きく曲がらなければならない。
あるいは建物の高さも統一し、規則正しく並べるべきであり、道路の交差するところには広場や重要な建築を置き、その装飾要素としてアーチを設けるようにと書いている。
川の流れのような道路を作ろうとか、子どもと広場の関係を克明に触れようとするこの書の記述はかなり具体的。
アイデアルな建築論であるがその論述は「家族論」に似て、きわめて人間的。
アルベルティの人となりをも見えてくるので、いささか長いが以下に引用する。

「都市の中に入れば、道は直進せず川の流れのように緩い湾曲を描いて、ここかしこ繰り返し部分的に曲がるのが良い。
というのは、このような道は実際よりも長く見え、大きいという印象を町に与えるが、この点以外に、確かに優美と使用上の便宜および折々の出来事や必要に非常に役に立つからである。
さらに理由をあげれば、湾曲路に沿って歩くと、一歩ごと徐々に新しい建物正面が現れてくること、および家の出現なり遠望は道幅の中央に位置すること、また、ある所では道が広大にすぎ不快なだけでなく、不健康であることを思うと、実に道の空きそのものが効果をもたらすこと、これらの諸点かはいかにも貴重ではないか。」(第四書第五章)
「交差点と広場はただ、広さが違うだけである。
無論ごく小さい広場が交差点である。
プラトーは交差点に余分な空間があるべき、といった。
そこには昼間、子供をつれて子守たちが集まったし、一緒ににもなったのである。
私は実際つぎのように信じる。
自由な外気の中で子供たちは一層強健になったであろう。一方子守たちはすべてのことにも、また自分たち仲間のことにも観察を怠らず、少しでも立派であると賞賛されれば喜んだであろうし、少しでも見劣りし無視されることに、落ちつかぬ思いをしたであろう。
たしかに交差点でも広場でも、装飾に優雅さを増すのは柱廊であろう。
その中で長老たちは<・・・・・・>また腰をおろして、あるいはまどろみ、あるいはお互いの間の用事を心待ちにする。
これに加えて、ゆとりのある戸外で遊び競いあう若者たちも、その場に老人が居合わすことで、若年の傲慢から、行き過ぎや悪ふざけに走らないですむ。」(第八書第六章)
すでに触れたが「建築論」の特徴は理想的社会という観念を示していること。
アルベルティは資本主義の発達は多層階級社会ではなく、人間平等主義に導くものと考えている。
しかし、決して無階層社会が良いと言っているわけではない。
社会はむしろ階級区分を明確にすべきであり、ゾーニングや市壁、さらに建築という都市構造を政治構造と明確に対応させることで、都市と社会の秩序化が計れると考えている。
つまり、彼の考えは悪戯に平等主義を貫く以前に、集団としての社会を如何に秩序づけるかに主眼が置かれているのだ。

人間の社会生活の基盤の一つとして秩序を重視する観念は、ギリシャ・ローマ以来ヨーロッパ社会の伝統である。十五・六世紀、絶対的キリストへの信頼が揺らいだ中にあってはますます厳格な階層構造こそ、社会的秩序を維持する正当なシステムとみなしていた。
ここからは余談だが、オペラもまた厳格な社会構造を維持しようとする意識が生み出したものと考えるべきであろう。
何故なら、ルネサンス期は厳格な社会階層に応じ、人々の生き方が別々であり、その別々の生き方に合わせて、いくつもの音楽が存在していたのが当時の実状。
そのような中、貴族館での教養主義的な試みの結果のみがオペラを生み出したのであって、当時の教会音楽あるいは流行していた闇雲な世俗音楽からは生まれ得ることはなかったからだ。
オペラの誕生は「瓢箪から駒」と言われる所以もこの当たりだが、しかし、ひとたび誕生してみると、その新しい音楽形式は、今度は別々の階層で別々に生きてきた様々の音楽をオペラ自身の中に積極的に取り込んでいく。そして、十八世紀末の社会変革(アンシャンレジーム)、それは旧態の社会構造を徹底的に破壊した出来事だが、その時代のオペラは、今度は全ての階層の音楽がその音楽形式の中ではすべてがきちんと秩序づけられていく。
十七世紀の誕生から十八世紀末の変革の時代まで、その歴史はまさにオペラこそ、この大きな社会変革を準備して来たものに思えてくる。
秩序感覚とその後の社会変革、アルベルティを深読みすれば、オペラこそがヨーロッパのその後の社会を先取ったものと思えてならない。

話が外れたが、アルベルティに戻ると、「建築論」で論じられた「人間にとっての理想的な都市」、それは十六世紀のトマス・モアのユートピアとは異なるものと理解できる。
この「建築論」は現実の教会や社会への不満から生まれた夢でも願望でも非現実でもない。
アルベルティは「観念による理想都市」を現実世界に構築しようとしている、そしてその役割を担うのが建築なのだ。
このアイデアルな世界がその後のオペラと都市を育むのであって、トマス・モアのユートピアからはオペラは決して生まれない。
アルベルティの十五世紀はしかし、まだ新しい都市を作る経済的余裕はなかった。
さらに、一つの都市建設を一人の建築家に任せることが出来るような絶対的権力者も存在しない。
アルベルティの理想都市は都市の一部分、あるいは絵画やルネサンス劇の背景画としてしか残されることはなかった。