2010年6月19日土曜日

ロシア構成主義のまなざし

形あるものから形が失われて行く時代にあって懸命に形を求めるロトチェンコの構成主義はある種の痛々しさを感じてしまう。
展示作品を眺めていて気がついた、建築も絵画も音楽に成りたがっていると。
「建築」と書かれたコーナーに9点ほどのタブローがあり、そこにあるのは空間ではない、運動と時間だ。
形のない現代、二次元の画面に形を生み出そうとするなら、表現されるものは時間、つまり音楽なのだ。
様々な戯れ言を語らせる展覧会は明日が最終日。
梅雨の休み、夏の日が輝いたり曇ったりの午後。
同時代の建築、アールデコの旧朝香宮邸、庭園美術館。
昨日、ロトチェンコ展を観ながら気になったことをつけたそう。
感想は昨日書いた通り、何か痛々しいものを感じたこと。
それはもちろん、作品そのものがではなく、自分自身が、ということなのだが。
同時代の印象派絵画、決して嫌いではない。
しかし、最近何故か、ヌクヌク感じられて空々しい。

名作であろうが傑作であろうが、作品は作品である以上、全て虚構の世界なのだ。
その世界が、現在のボクの世界とどう関わるかが、展覧会に行く楽しみ。
「いまなら僕は「デザイン」という言葉に「うぬぼれ」というルビを振るでしょう。」 これは今朝、読んだある人のブログだ。 http://gitanez.seesaa.net/article/153703729.html
建築も絵画もまたデザイン、そしてある種の虚構の世界。
ロトチェンコを観ていて気づかされたのは、このブログに近いもののような気がする。
20世紀初頭、作家は「虚構を生み出す方法」を失った。
少なくとも従来の方法からは模倣はともかく、虚構は生まれない。
印象派は様々な画法を駆使する事で、新たな虚構、作家の現実との橋を作品化した。
しかし、そこにあるのは「うぬぼれ」だ。
かたちは、あるいはフォルムは、虚構と現実を橋渡しする言葉を失って久しい。
ロトチェンコのみならず、モダニストはすべてこの失った言葉の再生に関わった。
しかし・・・・。
最近、なぜ、展覧会に行く事にこだわるのか。
あるいは、しきりに「いいと思われる作品に出会いたい」と思わせるのか。
秋には京都に、春には奈良に行った。
どうやら、ボクも「うぬぼれ」に気がつき始めたようだ。
失ったのは言葉ではない、ライフスタイルのようだ。

2010年6月13日日曜日

若仲展

千葉市美術館は鞘堂と言われるユニークな建築。
昭和2年に建設された旧川崎銀行千葉市店の建物を、新しい建物が鞘のようにオーバラップし建設されている。
鞘堂方式と言われるこの建築の保存方法は、当時、建築関係者には話題となり、15・6年前のことだが、その経過を見学に行ったことがある懐かしい建築だ。
古い建物を基礎から浮かし、レールが敷かれた車輪の上に載せ移動出来る状態にする。
そして全体を100メートルほどバックさせ、空いた用地に新築部分を建築する。
やがて、大きな一階ホールが建設された後、再び古い建築を静々と前にせり出し、 新築途中のホールの中に引き入れ、ようやっと全体の工事を完成させる。
昔、日本の木造住宅の増築等ではよく使われた引き屋の工法による建設工事。
その工法を旧川崎銀行の保存のために実施するというので、かって、建築中に友人たちと2回ほど見学に行ったことがあったのだ。

しかし、完成してからは一度も見学していない。
今日「伊藤若冲展」を見学に行き、その会場がかっての引き屋建物、新しい美術館であることをはじめて知った。
珍しいことに、突然、息子が「昼飯」を食べにやってきた。
そして、彼の誘いで午後から急遽、若仲展を見に行くことになった。
千葉市美術館で「若冲展」をやっている事、また、この美術館が鞘堂である事は、昼飯までは全く知らないことだった。

つゆ空の千葉までのドライブは些か面倒でもあったのだが、 今日は息子の運転、たまには素直に誘いには応ずるもの。
結果、美術展と美術館まさに一石二鳥、何とも楽しい見学となった。
美術展は7・8階。 階層分断はこの手の美術展ではやや不便。 作品の説明板が小さくてやや読みにくい事もあり、入館当初の最も重要なことでもある、全体の展示構成を掴めないままの見学となった。

展示は若仲の師匠筋の絵師の作品も同時に集められていて、若冲とその周辺を理解させようとする画期的なもの。
一つ一つと作品を見るごとに感じられて来る若冲の世界。
彼の作品はいつも大らかだ、その作風も内容も。
絵を描かせるスポンサーたちもまた同じ。
18世紀後半と言う時代、そこは今とは異なる、何ともユーモラスでのんびりとした空気が流れていたに違いない。 いやぁ、そんなことはないだろう。 ここは若冲の世界なのだ、それも絵の中にのみ広がっている彼独特の世界。
今回の展示作品、かなりが個人蔵のもののように感じられた。
いつもの若仲のきらびやかな彩色に比べ、水墨による無彩が多く、また、小品が沢山だからだろうか。

しかし、その全体はいつものと同じ彼独特の世界、その絵は造形的であり、物語的、どこまでも自由、かつ大胆な画面構成と表現上の工夫。
そのどれもが、入念な観察と逞しい創作欲の結果である事が良く判る。
なかでも、今回、はじめて見た「樹花鳥獣図屏風」は圧巻。
綿密な独特の点描は「デジタル時代の先駆けではないか」と思ってしまう。
今日の若仲展はしばらくブームが続き、一段落した若仲をもう一度、あるいは改めて日本の絵画の大スターとして、じっくり観てもらおうと言う企画のようだ。
その意図は十分に果たされている。
やや手狭な会場だが、決してせせこましい、がやがやした雰囲気ではない。
近め遠目、自由に立ち位置を変え、じっくり作品が楽しめた。
楽しみにしていた「像と鯨図屏風」は明日からの展示でお目にかかれなかったが、これはまたこの次の楽しみと言う事だろう。

梅雨空の元だが、思いもよらぬ息子の運転での素晴らしい半日。
幸い、この展覧会は6月27日まで開かれている。
お近くの方は決して、お見逃しのないように。

2010年6月10日木曜日

ルネサンスの祝祭劇場


(ルネサンスの祝祭)

ルネサンスの祝祭もまた音楽と建築に支えられている。祝祭を必要としたのは君主。君主の正当性を人々に知らしめるため、そのイメージの強調が絶えず求められるのは中世と変わらない。

しかし、この時代、君主の正当性と権威の強調に役立つモノ、それは最早、宗教的権威のみが総てではない。絶対化された宗教とは距離を保ち、いかにその権威を強調するかがルネサンスの祝祭の特徴。

前時代、教会の中で一体化していた音楽と建築は教会から離れ「作品」として分離し、宮廷や邸宅、庭園や都市という世俗の空間の隅々へと広がって行く。この時代の音楽と建築は神による典礼の時代を人間中心の祝祭の時代へと変容して行った。

周辺列強の侵出によりイタリア半島は共和制から君主制へ移行していかざるを得なくなる。市民・商人の間から抜きん出て登場したメディチ家のような新興君主は、その存続と正当性の維持のため、従来とは異なる手法を必要とする。

宗教的権威と距離をおいての君主制の強調、それは古代社会の寓意(アレゴリー)を利用し、神話的な劇的情景の創出することだった。新興君主は古代の神々に直接連なる家系であり、その威光と正当性を保持していることを示そうとする。祝祭を象徴的な寓意(アレゴリー)による視覚像の集合とし、そのイメージによって君主の権威を意識づける。それが手法であり、祝祭の役割。

祝祭を支えるの古代、中世と同じように音楽だが、その視覚的世界を演出する建築家は音楽家以上に重要な役割を果たすようになる。宗教的または職能的ギルドによる制作の規模も大きくなった演劇やページェント、その実際的な担い手が専業化しつつある中、ルネサンスにおける祝祭全体をプロデュースし、仕切っていくのは今や建築家の役割となっていたのだ。

彼らは当然、美術ばかりでなく、音楽も一体化させ、イメージの強調のための劇的情景を都市の隅々に生み出していく。ルネサンスの祝祭は視覚中心の一大ページェント。さらにまた、君主たるもの、その地位を確保し、存続するためには宮廷における祝宴が不可決。

アレゴリーによる劇的情景の創出は都市における祝祭以上に、広間における祝宴が有利だった。神話的情景は都市広場より宮廷の広間のほうが、より凝縮され繰り返され有効であったと同時に、そのテーマそのものも、街中の一般市民より宮廷内の貴族あるいは文化的エリートのほうが理解しやすかったのだ。

スペイン、フランス、神聖ローマ帝国という三大勢力の覇権争いに翻弄されるイタリア諸都市の君主たち、彼らは生き残りの道を画策し、政略的結婚の祝宴や外交上の祝祭を盛んに催す必要があった。都市の広場での祝祭は君主館の広間や中庭にまで持ち込まれ、そこには仮設舞台も設置される。

十七世紀に入ると、仮設舞台は常設化され、劇場は君主たちの権勢を誇示する為の不可欠の場となる。そして豪奢を極めた宮廷劇場が建てられた。

古代社会のあるいは神話的世界のアレゴリーで満たされる劇場空間は透視画法により生み出されたアルカディア、君主や貴族たちもニンフやパンと共に踊り舞う空間なのだ。祝宴を開き、政略的結婚をことほぎ、外交交渉を重ねる宮廷劇場は娯楽の場ではあるが、そこはまたイタリア半島に分立した諸都市にとっては生き残りを賭た重要な政治的装置となっていたのです。

(ラテン喜劇はルネサンス市民の教養)

十五世紀イタリアは清貧禁欲を尊ぶキリスト教に変わる新しい神を探していた。人間を中心とした現実的、合理的な価値観を賛美し、多少の快楽をも許してくれる新しい神、新しい秩序、新しい生き方を模索していたのだ。

そのような風潮が古代の文芸を復興させたのであり、多くの人文主義者(ユマニスト)を生み出した。文芸復興というルネサンスのテーマにとって、注目されていたのはローマ時代の喜劇や悲劇と、その上演の為の劇場のデザインにある。

テレンティウスやプラトゥスが書いた古代ローマの戯曲が再評価され、人文主義者の間ではその戯曲を具体的にどう上演するかが大きな関心。ルネサンスの人々にとって、ラテン喜劇こそ市民の教養(フマニスタ)の証しであり、上演の為の劇場は人文主義思想表現の最も有効な場となっている。

ラテン喜劇の上演は祝宴の催しものとしては些か華やかさに欠け、教育的ではあるがフェラーラ、フィレンツェ、マントバでは盛んに行われていた。観客にとって古典文化と接触しうる場は非キリスト教的生活の規範を知る、あるいは古典的会話の文体を学ぶ絶好の機会。その上演は政治的外交装置ではあるが、同時に新しいライフスタイルの為のカルチャーセンターとなっていたのです。

(古代劇場の再生)

ラテン喜劇の上演にはローマ時代の「ヴィトルヴィウスの建築書」が使われた。彼は紀元前一世紀、建築のみならず、音楽、天文学、機械、土木、都市計画の為の当時最先端の技術書を書き上げ、時のローマ皇帝アウグストゥスに捧げている。小宇宙=大宇宙の原理に関わるダヴィンチの人体比例図やアルベルティの「建築論」、パラーディオの「建築十書」等に大きな影響を与えたこの書は、すでに触れたが、ルネサンスの人文主義者・建築家にとって欠くことができないもの。

同時代のヴィトルヴィウスの研究とラテン喜劇への関わり、その数は記録が残されているだけでも膨大な量にのぼっている。フラ・ジョコンド、チェザリァーノ、ブラマンテ、セルリオ、バルバロという人たちはヴィトルヴィウス研究で名をなした人文主義者・建築家たち、彼らは各々の研究書の中で古代劇場の再生を試みている。

 (fig76)

人文主義者の関心はこの書の中では特に舞台背景画にあった。ヴィトルヴィウスによれば悲劇、喜劇、風刺劇の三つの背景画が存在する。「一つは悲劇の、他は喜劇の、第三は風刺劇のスカエナと呼ばれるもの。これらの装飾は手法において互に異なり別々である。悲劇のスカエナは円柱や破風や彫像やその他王者に属するもので構成され、喜劇のスカエナは私人の邸宅や露台の外観また一般建物の手法を模して配置された窓の情景を持ち、風刺劇のスカエナは樹木や洞窟や山やその他庭師のつくる景色にかたどった田舎の景色で装飾される。」(前掲ヴィトルヴィウス建築書)この記述から類推すれば先述したローマ時代のサブラータ劇場のスカエナ(舞台背景)は円柱や破風であるから悲劇用と言えるようだ。

(舞台の背景画と透視画法)

上演の舞台背景には発見されたばかりの透視画法の空間が不可欠。ブルネレスキが発見し、アルベルティが理論付けた、人間の想像による等質・等方の透視画法の空間こそ、神の支配を受けないルネサンス劇の舞台を支えるものと言える。

つまり、理想都市とアルカディアがその舞台背景を構成している。そして、ルネサンスの舞台と透視画法、それはどちらも人間の計画的意志を持ってその中にシンボル配置することから生み出される新しい世界。その新しい世界こそ、神なき世界の生き方をレヴューするルネサンス特有の思考の空間となっていたのです。

劇の上演だけであるなら貴族館の広間か中庭が用意され、そこに舞台背景画を掲げるだけで十分であったが、劇場全体の再構成を試みるとなると容易ではない。と同時に、最初の実践が具体的にどのようなものであったのか、実はまだ充分には解っていない。

アルベルティは1452年にニコラウス五世の為のテアトルムを建てている。このテアトルムは当然、ヴィトルヴィウス劇場の再現であり、最初の実践と目されているが、資料が少なく詳細が解らない。むしろ、残された透視画法との関連でのヴィトルヴィウスの舞台背景の再生の試みはレオナルド・ダ・ヴィンチが最初と考えられている。

「アトランティコ手稿」の街路の情景のための素描がその舞台背景。その手稿の制作が1496年あるいは97年であるならば、現存する最古の再生スケッチとなる。

(舞台の背景のスケッチ、透視画法による理想都市図)

一般的な研究ではウフィッツ美術館に保存されているブラマンテの版画が最初のスケッチ。十六世紀初頭の理想都市図だ。

線画描写の絵は左右に柱廊を持った街路が広場の入口を構成する古代風アーチの門を潜り、アルベルティ風のルネサンスの教会まで続いている。人文主義者あるいは建築家は舞台背景画は描くことで、彼らがイメージする理想都市を具現化していたことがよく解る。

  (fig77)

プロスペッティーヴァ(透視図)という言葉がフェラーラでのアリオスト作「ラ・カッサーリア」の舞台装置の記述に使われる。ウルビーノ公ロレンツォの結婚式、パラッツォ・メディチでの上演の際の背景画はヴィトルヴィウスの記述の再現、理想都市図が作られたという記録がある。

透視画法は人文主義者のいだいた理想的な都市観を表現するのに最も適している。ピエロ・デラ・フランチェスカ作とされるウルビーノの理想都市図はその情景から斬新で調和のとれた穏やかな佇まい、まさにルネサンスの理想がそのままシンボル化され表現された。

興味深い透視画法の背景画がもう一つある。ラッファエロとともに沢山の舞台背景を設計したペルツィッヒの作品。中央に格子状に仕切られた床模様を持つ街路、その左はアーケード、右は列柱廊、ルネサンス風宮殿の上にはパンテオンのドームにサンタンジェロの円筒の城砦が描かれている。

ポポロ広場のオベリスクの左にはゴシック風尖塔アーチ窓、後ろには空高くコロッセオの最上階の列柱も望める。この背景画は古代ローマ建築のコラージュとなっている。この背景を使いどんなラテン喜劇が演じられたかは定かではないが、観客にとってその世界はもう、迷うことなくイメージとしての理想都市ローマそのものであったことは間違いない。

(透視画法の役割と劇場の変容)

透視画法を使った舞台装置は建物をシンボル化して配置することで、都市をイメージさせてきたのだが、やがてその装置は絶対君主のイリュージュン操作の道具へと変容する。本来は純粋に人文主義者の都市観を表現していた透視画法だが、その役割は「都市のシンボル」としての役割からリアルな効果をもたらす「視覚的技巧」へと変化する。

ヴィトルヴィウスはその円形劇場の中心点について、そこはすべての視線が集まるが、何も置かずに、空いたままにされる場所と記しているが、やがて、その場所は必然的に絶対君主の座席として与えられることになった。

ルネサンス期の古代劇場の再生はキリスト教からは自由になり、人間中心のイマージナルな空間の発見ではあったが、劇場そして透視画法はバロックの絶対君主が操作するイリュージョナルな空間へと変容していく。

オペラはこのイリュージョナルな空間の誕生から始まる。その空間と音楽による表現性の高い、感情表現に富んだ娯楽的世界、それがオペラだ。

従ってオペラはその誕生から観客の想像力より、作り手の作品力がより大きな役割を占めるものと言える。さらに、そのイリュージュン効果を最大限に活用し、バロック音楽と結びつけたスペクタクルな劇的な世界を生み出していくことが、その発展の大きな道であったこともまた確かなのだ。

(アカデミアと貴族の責務)

十六世紀後半、北イタリアの小都市ヴィチェンツァにヨーロッパ最初の近代劇場、テアトロ・オリンピコが建設された。フィレンツェにオペラが誕生する一四、五年前のこと。

ヴィチェンツァの劇場とフィレンツェのオペラは、どちらも当時はやりのアカデミアが生みの親、新しい時代の「音楽と建築」は作家という個人ではなく、人文主義者(ヒューマニスト)たちという集団であったことが重要だ。

古代ギリシャのプラトン・アカデミーに習ったフィレンツェでの人文主義者たちの会合が最初のアカデミア。十五世紀のイタリアの人々にとって、キリスト教と古代哲学をいかに融合するか、いわゆる新プラトン主義という思考がまずは重要なテーマだった。

しかし、文芸復興は単に古代回帰をだけを目指していたわけではない。新しい時代の担い手である自由都市市民(ポポロ・グラッツ)は、中世キリスト教社会の聖職者に代わり、正しい人間の生き方を具体的に学び得る場を必要としていた。ルネサンス宮廷でのラテン喜劇の上演もその一環と考えて良い。

十六世紀に入るとアカデミアは学問の研究というより、様々な考え方を討論し実践する場、文化活動運営の為の集まりとなっていく。戯曲の上演、サロンの劇場化、舞台設定の為の舞台背景画の制作等は新しい生活スタイルの実践そのもの。アカデミアは学ぶ場というより実践を通しての社会的貢献が責務となったのだ。

豪華絢爛、趣味と娯楽の集大成、その後のヨーロッパ社会には欠くことのできないオペラと劇場の展開はこのようなポポロ・グラッツと言われる人々の社会的貢献が基盤となっている。

「貴族の責務」としての音楽や建築、絵画や彫刻、様々な作品の制作、上演という文化活動を通しての新しいライフスタイルの実践がアカデミアの役割となっていたのだ。従って、オペラ誕生の契機となった「オルフェオの物語=エウリディーチェ」は結婚式の催しものとはいえ、その上演はただ単に余興として美しいメロディや華々しい音響効果が求められたのではなく、詩の意味、言葉の中身を的確に伝えることで、文体と思想をいかに具体的に表現するかが重要だった。

(都市を持続する意思)

テアトロ・オリンピコを建設したヴィチェンツァのアカデミアは、オペラを産み出したフィレンツェや数多くのラテン喜劇上演記録を残したフェラーラとは、その使命が些か異なっていた。 フィレンツェとフェラーラは君主国だが、ヴェネツィア支配下にあるとは言えヴィチェンツァは共和性の自由都市、使命の違いはこの辺りだ。

十六世紀後半のイタリア半島は事実上はスペインの支配下、情勢は逼迫し、どの都市もその生き残りを掛け画策する。画策とは合従連衡、その為の政略結婚そして沢山の祝宴。祝宴にはラテン喜劇やインテルメディオの上演が不可欠。

しかし、上演に必要なのは宮廷の中の大きなサロンや中庭であって、専門の劇場ではない。ヴィチェンツァのアカデミヤは何故、専用劇場としてのテアトロ・オリンピコを必要としたのだろうか。

 (fig78)

ベリーチ山脈の山麓に位置し、交通の要衝でもあるヴィチェンツァは十二世紀以来の自由都市。しかし、近隣都市のパドヴァやヴェローナとは絶えず衝突を繰り返していた。十五世紀に入り、ようやっと争いも減り安定もするが、それはヴィチェンツァ自身が本来持つ自治権を捨て、ヴェネツィア共和国の保護下に置かれたからだ。

風光明媚なこの都市は、皮革や織物という手工芸よりも土地そのものによる農産に依存している。つまり、土地持ちの有力者がこの都市の支配者。しかし、彼らは絶えず近隣に侵される微力で不安定な少壮貴族に過ぎない。少壮貴族たちはてんでんばらばら、外部の諸勢力と各々かってにつながりを持つことで個々の地位を守ってきた。ヴィチェンツァという都市は様々な外部勢力の手先となった貴族たちによって構成されていたのだ。

自治都市であればどこでも必要とする、市民同士の連帯や困難な時の対処のための一致団結は、もはや中世ではないこの都市では思いもよらぬこと。各々がバラバラに外部勢力と手を結び、ただただ共に住む都市人間として、都市空間を共有してきたのがこの時代のヴィチェンツァ市民。

しかし、ヴェネツィアの支配下に置かれてからの彼らには共通のテーマが浮上した。それは「都市」を保持しようとする意思だ。

都市が都会化し巨大な集落のようになった現代の都市では想像することは出来ないが、神の力に頼ることなく「都市」に生きると言う意志、「都市」に住むことの意味をヴィチェンツァのアカデミアは持続し、共有しなければならないと考えた。

必要とするものは連帯や一致団結ではない「都市という祝祭」だ。地位、利害はバラバラでも「人間としての生きる場」と「交歓そして社交の場」のみは保持し続けるという意志。 従って小都市とは言え実在のヴィチェンツァでは、街路には壮麗なパラッツオが軒をつらね、劇場の中には立体模型とはいえ、実在感ある「都市」が実現されることになった。

(アカデミア・オリンピカ)

ヴィチェンツァのアカデミア・オリンピカは現在も健在。この都市を訪れた十八世紀のゲーテはこのアカデミアに招かれている。千五百名もの人を集めての、その日の演題は「創意と模倣のいずれが美術のために、より多くの利益をもたらしたか」という議論であったとイタリア紀行には書かれている。古典主義とロマン主義の狭間にあってゲーテはどんな話をしたのだろうか、できるなら聞いてみたいテーマだ。

1556年創設のこのアカデミアはその五年後と翌年、ヴィチェンツァの大会堂・パラッツォ・デッラ・ラジョーネの二階大ホールで、シエナの古典学者ピッコロミーニのラテン喜劇「変わらぬ愛」とヴィチェンツァの文人トリッシノの悲劇「ソフォニスバ」を上演している。

その風景は現在のテアトロ・オリンピコの前室の欄間を飾るグリサイユに残された。公演の舞台はパラッツォ・デッラ・ラジョーネ、後のロッジェ・ディ・バシリカ。この建築とテアトロ・オリンピコは、共に建築家パラーディオの設計、どちらの建築も建築に関わったアカデミアと同様、現代に残されている。

テアトロ・オリンピコ誕生の二十年あまり前、パラッツォ・デッラ・ラジョーネでの公演の時、ラジョーネ自体もまだ改装中だった。アカデミア・オリンピカは会場の建設と公演費の捻出で火の車。幸い「変わらぬ愛」と「ソフォニスバ」の公演は大成功をおさめた。多すぎた観客を一度には収容しきれず三度も上演が繰り返されたと前掲書「パッラーディオ:鹿島出版」には記されている。

ソフォニスバはカルタゴ将軍の娘。ドラマは政争の道具となり 数奇な運命をたどるが、ローマ人の手を逃れようとして自殺するソフォニスバの物語。ヴィチェンツァの市民たちは「都市」と我が身をこの将軍の娘に置き換えていたのだろうか。

この公演の成功が、近代最初の専用劇場を作らせるきっかけとなったことは間違いない。アカデミア・オリンピカは資金難のため何度か工事を中断し、ヴィチェンツァ市当局との交渉に明け暮れる。

しかし、新しい時代を生きる為、都市のイメージを必要とし、そのような建築を作り続けたパラーディオを愛したヴィチェンツァ市民、すでに没していた彼の遺作を未完のまま放置するわけにはいかぬという強い意志で奮い立ち、ようやっと1585年3月8日、テアトロ・オリンピコは柿落としを迎えることとなった。

2010年6月7日月曜日

家康の直轄地 桐生


日本中の都市はどこもかしこも今、その構造と新たな仕組み作りに悩んでいる。 
急激な経済的社会変化はこの国だけのことではなく、世界中。 
しかし、我々の周辺、特に地域の中心から外れた中小都市は、 若者人口の減少、その結果としての過疎と高齢化が問題となっている。 
「エコと街づくり」という言葉は聞こえて来るが、 どうしても見えてこない「明日をどう生きるのか」その手だてと方法。 
街づくりには「バカ者、若者、余所者」が必要とよく言われる。 
街の未来を夢想するばか者、その夢想を具体化する若者、 加えて、外から資源と情報を供給する余所者、と言う事のようだ。 

足尾から渡良瀬川に沿い渓谷を下ると桐生の街に至る。 
この街はかっては天領だった。 
徳川家康は領地となったこの場所を、他の大名に与える事なく、 直轄の代官を置き開発した。 
その開発は些かユニーク。 
古くからあった天神様の鳥居をゼロ点とし、 そこから南に向かって真一文字の道路を設置。 
次にその道の両側を間口6間奥行き40間、 短冊状に丁割し、町立てを施した。 
ユニークなのはここからで、 分割され開発された用地は近郷からの入植希望者、 誰に対しても自由に分け与えたという。 
結果、町は封建都市とは異なり、あたかも門前都市(自由都市)のおもむき、 各地から集まった住民は各々自身の持つ才覚と働きにより、 主体的かつ自由に活動し、営みを発展させ利益を得る事が出来たという。 

近郷村から入植した新たな住人たちが最も得意とするところ、 ある人は養蚕農家、そして糸にする家、糸を染める家、機織りをする家。 
やがて、街は必然的に西の西陣に負けない、 大きな繊維産業都市として発展し、成功して行った。
 その成功によりGDPの15%近くをかっての桐生が占めたのだそうだ。 
つまり、現代のトヨタ一社分より高い利益をこの小さな町は毎年はじき出していた。  
大きく発展した小都市桐生だが、戦後の繊維不況により街は徐々に疲弊していく。 
そして、生き残りの策どころか、疲弊して行く小都市の現状すら、 感知しようとしない人々が大半、と語るのはこの街の「ばか者」、 未来を夢想する住民たちの言葉。

2010年6月6日日曜日

足尾再訪


6月はじめの週末、足尾を訪ねた。 
日頃の建築仲間、20人余の集団ドライブ。 
毎年の恒例行事だが、今回は新人数名が新たに加わり、 マイカーを7台を連ねての、何とも騒がしい旅行となった。 
一段となってのこのドライブには親睦に加えもう一つの目的がある、 それは単に建築を観る、体験すること以上に、 街の生活・歴史・文化・自然に触れ、街の人々とともに、 人間環境の有り様を学び、考えたいということだ。 

足尾は風光明媚な日光の山々を背にした渡良瀬渓谷の最奥地。 
しかしまた、誰もがよく知る鉱害の街でもある。 
かっては、見上げれば禿げ山と岩山ばかりの渡良瀬の谷間であったが、 10数年ぶりの今回、まず気がつく事は、全山とは言わないが、 山々は新緑に覆われ、谷間には新しい家々が沢山立ち並んでいたこと。 
そして、今回もっとも貴重であったのは、かっての公害の街はまた、 日本の産業近代化技術の発祥の地でもあった、と言う事の再確認。  
今年がちょうど、足尾銅山発見から400年。 写真集「足尾銅山」を出版された小野崎一徳氏のレクチャーと現場見学が実施された。 
貴重なとき、貴重な方からの詳しいお話、 集団ドライブはにわかに有効な研究会と化していた。  
足尾の近代化、その先端技術と人々の営み、そして不幸な惨状は、 一徳氏に伝わる小野崎家4代に渡る写真家によって、全てが記録されている。 
「足尾鉱毒事件」は田中正造氏の活躍によって知られる日本の産業公害の原点、 その事件の情宣に小野崎家先代の方々の記録が大きな役割を占めている。 
しかし、その写真は同時に、 日本の産業技術の歴史そのものの貴重な記録でもあったのです。 

急速な産業の近代化は、大きな環境破壊を、その対策の失敗は、 覆いがたい人災を招いてしまった。 それが、再訪した足尾の現実だが、 同時にまた、この街は日本の様々な産業技術発祥の地でもあったのだ。 
明治政府により軽便鉄道をフランスから取り入れられ、 その技術に加え、足尾では削岩技術も導入された。 
さらにこの地で最初に水力発電を実施され、 得たる電力により動力ポンプや構内電話設備を設置、 運搬のための鉄索から坑内巻上機や運搬車運行が可能となる。 
結果、規模にして巨大な地下都市、上下1200m、 長さ4000メートルに及ぶ大坑道が建設された。  
一方、これもまた新技術だが、脱硫装置や坑内水浄水中和装置、 あるいは大規模砂防工事も実施された。 
しかし、残念ながら、こちらの新技術はことごとく、 無惨な状況を招いてしまった。
 明治以来の僅か80年間で、 近代技術は江戸期300年間の4倍余の銅を産出した。(総量82万トン) 急ぎすぎた近代化の代償は大きく、負の遺産であることは免れない。 
そこには正なる部分もあり、新技術にチャレンジし続けた、 先人たちの存在もまた、けっして忘れてはならない。 
今の足尾の姿は、正負併せ持った日本の近代化技術遺産そのものであろう。 
その足尾では今日、 天高い青空とうぐいすが啼く若木のもと、 沢山の学生たちの参加も含め、緑化作業が進められていた。

2010年6月3日木曜日

エステルハージ家のハイドン


イギリスでは1649年の王制の廃止が公共コンサートの始まりのきっかけとなったが、ヨーロッパ大陸では18世紀に入ってもまだ公のコンサートに出掛けるという習慣はなかった。上流階級の私邸か宮廷でのサロンが音楽の集いです。
ヨゼフ・ハイドンは1761年、エステルハーザ家の副楽長任命され、以降2代のエステルハージ候のおかかえ音楽家となります。
彼はオーストリアのアイゼンシュタットのエステルハージー居城(中世の砦を17世紀に宮殿に改修したもの)とハンガリーのエステルハーザー城に25年間もとどまり音楽活動を続けた。

アイゼンシュタットは現在ハイドン・ザールと呼ばれ、400人も収容できる大きなホールを持っている。
間口15m、奥行き40mという細長い形を持ち、天井高も12m余りもありもある。
彩色が施され折上げ天井、側壁にそっては深いニッチがならび長方形の両端には円柱に支えられたバルコニーが設置されている。
ハイドンはこのホール用に34曲もの交響曲を書いているが、比較的中低音域の残響が教会なみに長いことと、狭い側壁からの反射音が強いことを意識的に取り入れ、合奏部分の強音と独奏部分の弱音を対照化して表現する手法で作曲した。(交響曲6番や8番など)


エステルハージ侯ニコラウス1世はロココ式宮殿エステルハーザ城をハンガリーに作る。
そこにはミュージックルーム(1766年完成)だけではなく、オペラハウス(1768年完成)や人形劇の劇場(1773年完成)、さらに音楽家のための宿舎(1768年完成)まで作られた。
ここのミュージックホールは16m×10m×9mとハイドン・ザールに比べかなり小さい。
当然残響は短く、澄んで乾いた音色を持って聞こえる。
ここでのオーケストラはアイゼンシュタットと同規模であったようだが、その曲全体は室内楽のように響いたと想像される。
ハイドンはここで作曲した交響曲57番や67番などを2つの版で出版した。
ここでの二つの版ということが重要なことで、ハイドンは同じ曲を野外を含め他の会場用にトランペットやティンパニーを使ったものと、このミュージックルーム用に親近感のある響きを持ったものとの2版を使い分けて演奏したのです。
もう一つ大事な事がある。
アイゼンシュタットのハイドン・ザールの教会並みの残響の長さにはハイドンは相当苦しんでいる。
そしてここの演奏会では必ず木の床を張り開いているのだ。
彼は長い残響をも考慮して交響曲を作り続けたが、やはり、新しいシンフォニーの時代、音の大きい楽器演奏は教会のような空間ではとても難しかったのです。

2010年6月2日水曜日

ラニラ・ガーデンのロトンダ


モーツアルトの父親レオポルトは1764年、ロンドンからザルツブルクの友人に次のような手紙を書いている。
「ラニラ庭園は決して大きなものではないが芸術的に作られている。毎週月、水、金曜に照明が灯される。ここにびっくりするほど大きな一階建ての円形ホールがあり、その中は数えきれないほどたくさんの吊りさげ灯、ランプ、壁かけ灯などで照らされている。一方の側で音楽が階段状にならんだ席から演奏され、最上部にオルガンがある。7時から10時まで3時間音楽は続く。それから1時間かしばしばそれ以上、つまり11時から12時まで、ヴァルトホルン、クラリネット、ファゴットなどの四重奏が行われる。」(人間と音楽の歴史・音楽之友社)

テームズ河畔チェルシーは土地が肥沃であり眺望も良く、16世紀トマス・モアが屋敷を構えるころから上流の人々の人気となる。
そしていくつかのマナーハウス、果樹園、庭園が作られてきた。
ロンドンからは陸路の馬車より、船によるテムズ河の往き来の方がはるかに安全で快適な小旅行。
そんな場所に18世紀には飲食と娯楽の為の遊園(プレジャー・ガーデン)がこの地域に沢山作られた。




1741年、建築家ウィリアム・ジョーンズの設計によるロトンダ(円形劇場)が建つ。
このラニラ遊園は、朝食と朝のコンサートが毎朝行われ、ロールパンと紅茶がロンドンの最高の演奏家のコンサート共に楽しめる、ということでこの地域でも最も人気となっている。
現在ではナショナル・ギャラリーが所有しているカナレットの絵画を見ると、レオポルトが手紙に書いたラニラ庭園のロトンダの内部の状況と雰囲気がとても良くわかる。
ホールの中央はファイアープレス。
当初はここが舞台でオーケストラの演奏はこの中央部分で行われ、観客は周辺をそぞろ歩きしながら楽しんだ。しかし、やがてオルガンの設置とともに右手の階段状の演奏台にうつされ、観客は中央のファイアープレスからの暖をとりながらの散歩となった。
周辺は劇場の桟敷席のような観客席。

ロンドンからの市民たちは庭園を散歩するばかりでなく、ここで音楽をききながら朝食をとり談笑を楽しんだ。
レオポルトはさらにこんなことも書き送っている。
「常に100人、200人、そして4〜500人の人々が周囲をそぞろあるきしており、お互いに挨拶をしている。床には全面麦藁を細かに編んだ敷物とか絨毯が敷かれていて、気持ちよく歩き回れて、かつ歩くことで雑音がでないようになっている。庭園とホールには、少なくとも6000人の人の座る席があった。ホールだけでも3000人の人たちがゆったりすわることができた。」
予約会員制によらない自由な公開コンサートで音楽を商業化することに成功したプレジャーガーデンだが、19世紀に入り閉鎖されて行った。
それは、「音楽は音楽を聞くためだけの空間」を必要とし始めたからです。