2010年6月21日月曜日

サンデル教授の最終回

サンデル教授の12回シリーズは完結した。
昨日の放映、その最終回は「善き生の追求」だ。
近代個人主義の進展の中「全体」の再構成の試みは存在した。
しかし、個人が自由を望んでいる限り、統合化の試案は成功しない。
旧態の共同体を望む事はアナクロニズムであり、
統合化を作り上げる事は、外部からの区別にほかならないからだ。
彼の講義も結局ここに帰結する。
ではどうすればいよいのか。
個人主義の進展はあるいは個人の細分化はますます人間を孤立化する。
したがって、明確な結論はない。
さらにまた、個人主義の問題の克服は集団化でない、という結論は、現代の何人かの識者の見解と同一だ。
サンデル教授は「自分たちの人生をいかに最善に生きるかをそれぞれに選ばせるようにするべき」と言っている。
つまり、人間を人間らしく生きるのは各々個々人の生き方「ライフスタイルの問題」そのスタイルにおける議論そして重層化の問題、と言う事なのだろう。

2010年6月19日土曜日

ロシア構成主義のまなざし

形あるものから形が失われて行く時代にあって懸命に形を求めるロトチェンコの構成主義はある種の痛々しさを感じてしまう。
展示作品を眺めていて気がついた、建築も絵画も音楽に成りたがっていると。
「建築」と書かれたコーナーに9点ほどのタブローがあり、そこにあるのは空間ではない、運動と時間だ。
形のない現代、二次元の画面に形を生み出そうとするなら、表現されるものは時間、つまり音楽なのだ。
様々な戯れ言を語らせる展覧会は明日が最終日。
梅雨の休み、夏の日が輝いたり曇ったりの午後。
同時代の建築、アールデコの旧朝香宮邸、庭園美術館。
昨日、ロトチェンコ展を観ながら気になったことをつけたそう。
感想は昨日書いた通り、何か痛々しいものを感じたこと。
それはもちろん、作品そのものがではなく、自分自身が、ということなのだが。
同時代の印象派絵画、決して嫌いではない。
しかし、最近何故か、ヌクヌク感じられて空々しい。

名作であろうが傑作であろうが、作品は作品である以上、全て虚構の世界なのだ。
その世界が、現在のボクの世界とどう関わるかが、展覧会に行く楽しみ。
「いまなら僕は「デザイン」という言葉に「うぬぼれ」というルビを振るでしょう。」 これは今朝、読んだある人のブログだ。 http://gitanez.seesaa.net/article/153703729.html
建築も絵画もまたデザイン、そしてある種の虚構の世界。
ロトチェンコを観ていて気づかされたのは、このブログに近いもののような気がする。
20世紀初頭、作家は「虚構を生み出す方法」を失った。
少なくとも従来の方法からは模倣はともかく、虚構は生まれない。
印象派は様々な画法を駆使する事で、新たな虚構、作家の現実との橋を作品化した。
しかし、そこにあるのは「うぬぼれ」だ。
かたちは、あるいはフォルムは、虚構と現実を橋渡しする言葉を失って久しい。
ロトチェンコのみならず、モダニストはすべてこの失った言葉の再生に関わった。
しかし・・・・。
最近、なぜ、展覧会に行く事にこだわるのか。
あるいは、しきりに「いいと思われる作品に出会いたい」と思わせるのか。
秋には京都に、春には奈良に行った。
どうやら、ボクも「うぬぼれ」に気がつき始めたようだ。
失ったのは言葉ではない、ライフスタイルのようだ。

2010年6月16日水曜日

ラファエロとユリウス二世


(ラファエロのアテネの学堂)

ローマのバチカンの署名の間に「アテネの学堂」と呼ばれる壁画がある、盛期ルネサンスの名作。

ラファエロ・サンティは1510年、ユリウス二世の命によりこの絵を完成させた。

大きな半円形の画面のなかに、古代的建物を背景とした哲学者、科学者というギリシャの賢人たちの群像。その絵画の中に描かれた人々は現実のルネサンスの賢人たち。

古代の哲人の衣をまとい光の中を悠然と歩く画面の中の彼らの姿から、ルネサンスの人々の持つ理想的人間像が劇場的感覚をもって迫ってくる。

舞台背景となるのは厳正な左右対称、壁龕には神話的人物の彫刻像、ヴォールト天井は角型のピラスター(半柱)で支えられ、高貴な輝きに充ち、ゆるぎない安定感を放っている、屋根のない古代建築。

この絵画はルネサンスの舞台構成とまったく同質です。

透視画法の画面の中のシンボルは、この場合画面を彩る様々な人物だが、序列なく等質・等方に配置され、空間には入れ子あるいは代替可能の原則が貫かれている。

舞台とは変幻自在性を持った仮構による虚構の場、その中の役者は一時的な役割を演じるシンボルにすぎない。

「アテネの学堂」はまさに透視画法により構成された、ルネサンスの賢人たちが演じる舞台空間なのです。 

透視画法による序列なく等質・等方に配置されたシンボルの空間は、観客にとっては自由に想像的(イマージナル)に関われる虚構の世界、しかし、この想像的自由な虚構の場であることがとても重要。

やがて見るバロックの舞台空間、そこでの透視画法は観客の想像的自由を生み出す装置ではなく、特定の人間の操作による幻想的(イリュージュナル)な空間に変容する。

オペラはこのイリュージュナルな空間が基盤となって生み出された作品的世界と言えます。

しかし、「アテネの学堂」は幻想ではなく想像的世界。幻想的に透視画法を操作したのは権力の顕現をもくろむバロックの君主たち、彼らが必要とする恣意的な空間がやがてオペラを生み出して行く。

 話を「アテネの学堂」に戻そう。画面の中央はプラトンとアリストテラス。左側を歩くプラトンは「ティマイオス」を小脇に抱え、右手で天を差し、イデアの在り方を示す。

「エティカ」を持つアリストテラス、天と地の間に右掌を広げ、イデアはそれ自身だけでは存在せず、個々の事物の姿となって存在することを示している。

そして演じるのは、レオナルド・ダヴィンチがプラトン、ニコマコス倫理学書を持つアリストテレスは不明だが、前方中央の階段下で書き物をするヘラクレイトスはミケランジェロ。

上手(右)床の上の黒板にコンパスをあてるのはブラマンテが演じるユークリッド、その他ソクラテス、ピュタゴラス、ディオゲネス、ゾロアスター、プトレマイオス、アルキメデス、エピクロス、パルメニデス、アルキピアデスと各々が様々なポーズを取っての総勢53人もの人物、右袖の柱の陰からわずかに顔を出すラファエロ自身も登場する。 絵画は虚構の空間による一遍のドラマ。

建築の壁面にあって空間の形成に参加していた絵画は、建築とは無関係に、建築の壁面に関わることなく、一個の独立した存在として、自らのうちに独自の空間を形成し始めた。

それは絵画の自立、と同時に建築の解体。絵画のみで世界を表現することが可能となった。透視画法によるアナザーワールドの発見により建築は従来の役割を終え、新しい役割を課せられるようになる。

空間が絵画で表現できるのなら、建築は実用的な箱、つまり、近代建築の始まり。

建築は表現の場から実体的空間としての役割を重視しなければならなくなったのです。

しかし、建築家はすべて実体に関わる技術者のみの道を歩めば良い、という訳ではない。

世界を生み出す役割とそのコンセプトを表現する役割は画家の役割だが、画家と同時に建築家自身も新たなテーマを発見し、自らがその問題に答えていく、という役割も浮上した。

神に変わり人間自らが問題を発見し、その問題に答えていく、という近代建築の持つプログレマティズムは、透視画法の開いた新たな使命、生まれたばかりの建築家が果たなければらない重要な役割となった。 

透視画法が生み出すアナザーワールドは近代の建築家を誕生させ、その彼に新たな役割を課す一方、画家と彫刻家の役割をもまた明確にした。

透視画法は彫刻によらなくとも三次元の像を作り出すことも可能となった。

従って、彫刻家の仕事は立体を作り出すこと、画家の仕事は空間全体を描きだすこと。

画家は人物像の周りに、建築を描くことで空間を生み出すことが役割。

一方、画家は空間を生み出すと共に、部屋を取り囲む建築の持つ壁体をも解体する、そしてついには、平な天井にドーム天井を描くことで、重たい危険なドームを実際に作ることなくして、天上の世界を表現した。

(図版いくつか)つまり、画家は実際の建築を超え、自由に建築空間を想像することが出来たのです。

(ラファエロのパルナッソス)

マンティーニャの「パルナッソス」に比べればラファエロの「パルナッソス」は判りやすい。「アテネの学堂」と同じ、バチカン宮殿の署名の間の壁画だ。山上の月桂樹の下に座り九人のミューズに囲まれ、リラ・ダ・ブラッチョを弾くアポロン。

画面は左から右へと壁画の円弧に合わせるように流れ詩人たちが配列される。ここでも描かれた人々はまるで舞台を飾る俳優たちのようだ。「アテネの学堂」と同じように登場人物は寓意ではなく実在の人たち、すべてギリシャ・ローマそして同時代に活躍した詩人たちが舞台を飾る。

彼らは桂冠をかぶりアポロンに敬意を表すためにパルナッソスに集まった。左下で巻物を持ち座っている女性がギリシャの抒情詩人サッフォー、その前に立つ三人目の詩人がペトラルカ。山上で詩を吟じる盲目のホメロスとその左手に座り耳を傾けメモを取るラテン詩の父エンニウス。ホメロスの背後ではダンテとウェルギリウスが「神曲」の場面のように視線を交わし話し合っている。右下でサッフォーに対応するかのように腰掛けているのがウェルギリウスと同時代の抒情詩人ホラティウス。その他アリオスト、ボッカチオ、サンナローザに変身物語を書いたオウディウスという詩人たちが舞台を飾る。

 (fig49)

アルカディアの情景のなかで芸術の擬人化であるミューズに囲まれた古今の詩人たち。この絵画のテーマは古今の「詩学」、あるいは「美」の象徴であることがよく解る。興味深いのはアポロンの持つ楽器、彼がいつも持つアトリビュート(象徴的持ち物)の竪琴を隣に座る青衣のミューズが持ち、アポロンはルネサンス時代のリラ・ダ・ブラッチョを持っている。ラファエロは詩を永遠の価値のシンボルとして、あえてルネサンス時代の楽器をアポロンに持たせたのだと言われている。ラファエロらしいユーモアだ。

(ユリウス二世のメッセージ)

ラファエロの絵画の読み取りは面白いが、「パルナッソス」と「アテネの学堂」を壁画とした「署名の間」全体の意味付けもまたとても興味深い。ユリウス二世はミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の壁画・天井画を任せ、聖なる空間の創出を計った。

ミケランジェロの聖に対し、ラファエロには俗。「署名の間」は教皇の俗権の行使の場に見合うもの、つまり聖を象徴するシスティーナ礼拝堂に対し「署名の間」は世俗の人々のためのより調和ある世界の象徴として位置づけた。

教皇はミケランジェロとラファエロの力を借り、全世界に対する権力を与えられ、聖と俗、どちらの権威をも仲介する教会そのものの役割を強調しようとしているのだ。

「署名の間」は従って、当時の人文主義とキリスト教を統合した装飾計画により俗権の強調がテーマとなるが、具体的には啓示による真理としての神、そして理性による真理としての真・善・美、つまり、神学・哲学・詩学・法学という四つの徳と精神活動を壁画と天井画によって表現している。

そして「アテネの学堂」は哲学であり真、「パルナッソス」は詩学であり美がテーマ。すでに触れたように、ラファエロは寓意ではなく、実在の人物によって、それも舞台構成のような堂々とした建築や自然空間のなかに表現していく。その構成は大変解りやすく、完成されるや否やローマ中を熱狂させ、あらゆる人たちがその壮大さの前に立ち尽くし賛同したと言われている。


2010年6月15日火曜日

フィレンツェの二つの聖堂

(サン・ロレンツォ聖堂)
透視画法の発見によって生み出された考え方が直接的に表現された建築がフィレンツェに二つある。 サン・ロレンツォ聖堂とサント・スピリト聖堂。ともにブルネレスキの設計。
 サン・ロレンツォ聖堂(図版)は1419年頃設計が完了、資金難のため工事は何度か中断し1461年になってようやっとその交差ドームが完成する。 しかし、ファサードは補修されただけの未完のまま現在に至っている。 平面図を見ると、聖堂は交差部の正方形が基本単位となり、身廊は四つの正方形、両脇の側廊はその二分の一の八つの正方形で構成されていることがわかる。
 実際の建築の交差部に立ってみる。(写真) ここでは前後左右均質に作られた透視画法の空間を真のあたりに体験させられる。 さらに、床の正方形パターンと格天井のグリッドにより透視画法の空間的座標が一層協調され、まるで自分自身が絵の中の世界に入り込んだかのような感覚にとらわれる。 事実、この時代、建築と絵画の違いは、今のような種類の違いではなく、芸術的手段の違いに他ならない。
 建築空間を体験することと絵画空間を眺めることは全く同質の空間体験と同じ。 建築空間と絵画空間どちらも共にシンボルによって生み出されたイメージ空間(虚構の空間)、建築空間をリアルな日常空間としてのみ体験し、絵画空間と同様の虚構の空間としての体験を軽視する現代の我々、建築は想像力で体験するイメージ空間であったということを忘れてしまっている。 

十五世紀の人々にとって建築空間はリアルな日常空間である以上に、想像によるイメージ空間、それが西ヨーロッパの建築空間を読み解くためには不可欠。 サン・ロレンツォ聖堂で体験者が持つイメージとは、それは合理的な人間的空間の中に位置付けられた、己の身体そのものを実感すること。 その体験は神の絶対的支配を前提として生きているこの時代の人々にとって、全く新しい世界、新しい神の発見に他ならない。 何故なら、彼らはいままでは神の国の内にのみ己の場所を見いだしていたはず、しかし、透視画法による距離、あるいは「数」という概念で神なしで生きる、自分自身の空間を発見する事が可能となった。透視画法の中の建築を体験することで「神の存在」ということより、古代ギリシャに通低する宇宙の秩序を実際に目にする。 神なくして秩序を目にすることを可能とした建築、ブルネスキはサン・ロレンツォ聖堂を作ることで透視画法の持つ意味を多くの人々に示している。
(サント・スピリト聖堂)

サント・スピリト聖堂はブルネレスキ晩年の仕事。この聖堂もまた交差部の正方形が基本単位となっている。 図面をみれば基本単位による幾何学的構成がサン・ロレンツォ聖堂より一層徹底して適用されていることがわかる。(図版) さらに特徴的なことは、この聖堂の入り口である正面部分を除けば、周囲の全ては側廊部の基本単位を直径とするニッチで囲まれている。 左右の両翼は内陣と全く同じ平面形状を持ち、バジリカ形式(長方形プラン、身廊が長く軸線をつくる)であるが故に身廊部分のみが内陣の三倍となっているが、このことを除けば、前後左右全く同型の点対称図形として構成されている。
 ブルネレスキはここでは最早、伝統的な教会建築ときっぱりと訣別した。 従来の教会とは全く異なる空間イメージの表出を試みている。 それはまるでチェス盤の上に立っているような体験。 そのイメージとは後の十六世紀の建築家パラーディオにも引き継がれるが、神を中心として序列化し、秩序づけられた空間を、敵でも味方でもない等質な空間に変質させていることだ。
サン・ロレンツォ聖堂とサント・スピリト聖堂が示す明瞭さと穏やかさ、あるいはきちんとした整合性を持った佇まいと呼べるもの、それは壮大で超越的な当時の西ヨーロッパのゴシック建築とは全く異なる建築。 透視画法から生まれるこの穏やかな知的整合性は、その後に引き継がれる多くのルネサンス建築の大事な特質となっていく。

2010年6月14日月曜日

絵画のなかのアルカディア

(理想都市とアルカディア)

十五世紀以降のイタリアにあって、建築・絵画・庭園・音楽等が透視画法に描いた世界は理想都市(ユートピア)と アルカディア( 理想郷)。この二つの世界は同時代の人文主義に支えられた人間が想像的に生きる理想世界を意味する。そこはまた神の国とは異なり現実世界でもあるのだ。「理想都市」とは社会的秩序、規範を体現する装置とみなされている。つまり、集団として生きる人間にとっての規範を表現するのが「理想都市」の役割。

「アルカディア」は生活の規範だ。ひと一人がこの世界をいかに生きるか。生きて行くための方法、約束ごとを表現するのが「アルカディア」の役割。

イタリア・ルネサンスの透視画法による「作品的世界」は絶対的な神の力から離れ、人間自身の力によって、あるいは個々人の自由と自立がメッセージされている。それは近代社会の始まり。さらにまた、作品の誕生は作家の登場、諸芸術の「自立」をも意味し、各々は神の力無くして、各々の役割を果たさなければならない。

やがて、教会という建築の中で一体化されていた絵画・彫刻と音楽は、同時代に発明されたタブロー化した印刷物同様、教会を離れ自由に飛び立って行く。そして音楽や絵画・建築は作品的世界、風景の世界、オペラの世界を生み出していく。

(マンティーニャの天井画)

ラファエロの「アテネの学堂」よりも四十年も前、マンティーニャはマントヴァのパラッツォ・ドッカーレの「夫婦の間の天井画」を完成させた。

従来、建築では主要室の天井はドームで構成される。建築は自然界から人間的世界を切取る、あるいは人間のための特別の空間を生み出す装置だ。さらに、その建築の中でも特別重要な場所にはドームが架けられ、そこはあたかも神のいる天上、あるいは宇宙そのもの、神そして宇宙の持つ秩序と一体的に調和した場所と見なされた。

実例としてはローマのパンテオン。そのメッセージは「全宇宙」。さらには大聖堂のアプス(内陣)の上のドーム天井、そこは天上に繋がる神の世界と考えればよい。そして「アテネの学堂」の屋根のないフレームだけの古代建築を描いたが、マンティーニャの「夫婦の間の天井画」は建築としては平たい天井だが、透視画法によるドームを描くことで虚構の建築を生みだし、天上に繋がる世界を表現した。

建築の外観はともかく、マンティーニャは寝室に天井に絵を描くことで、この部屋は特別な空間、建築のなかの特別な場所であることを示している。つまり、建築空間の意味は外観と内観、バラバラに二重の意味をも表現可能となったのだ。

(虚実の空間という新たな虚構の世界)

建築が重たいドームを作らなくとも、透視画法を使うこと特別な空間を生み出すことが可能。平らな天井に描かれた建築空間では屋根が切り開かれ、雲がたなびき、鳥が舞い、天使や天上の人々が親しげに現実の世界に入り込んで来る。実際に建築空間を構築することなく、絵画によって天に繋がる特別な空間を生み出している。

建築空間に透視画法による絵画を描くことで、建築と絵画を一体化した全く別種の空間が生まれる。透視画法が開いた空間は実なる空間と呼応し、また新たなる虚構の空間をも生み出している。

その手法は様々に展開され、応用される。一般にはだまし絵と言われるが、そこに展開される絵画空間と実なる空間の交歓は、私たちの日常をもう一つの世界へと導いていく。その空間は人間により生み出されたもう一つの虚構の世界。その世界を通しての、出たり入ったりという想像上の自由は、自身の持つ現実世界やイメージを舞台上の世界のように客観視し、距離をおいて眺めることを可能としている。つまり、虚実相交わった建築空間は、日常世界の持つ演劇的側面を強調し、その後のオペラの舞台のように、その幻想的世界をより自由に構成することが可能となった。

(マントヴァのマンティーニャ)

パドヴァ、ヴェローナで活躍していたアンドレア・マンティーニャは1459年、ルドヴィーコ・ゴンザーガから生活費だけでなく住まいと食事も用意され、宮廷画家として招かれた。

その年はマントヴァ公会議の開催の年。前節で触れたコルシニャーノの丘の上で教皇ピウス二世に理想都市の建設を決意させたのは、このマントヴァ公会議出席の為の旅。あるいは、ローマ、ウルビーノと忙しいアルベルティがサン・タンドレア聖堂の建設を急いでいたのもこの公会議の為だった。

この年、招かれた宮廷画家マンティーニャには小国マントヴァの文化政策、その威信の全てが懸けられていた。マンティーニャの作品の題材にはパドヴァ時代の学者たちとの親交の成果、宗教画以上に古典古代の理想郷が数多く取り上げられていた。つまり、この画家は画家であるばかりか古典学者でもあったのだ。

彼は早速、夫婦の間の壁画・天井画の制作に取りかかった。そして、ゴンザーガ家の別荘や宮殿、教会の壁画、さらに額縁画、祭壇画等、次から次へと宮廷からの注文に明け暮れこなしていく。イザベラの肖像画を残したことでも有名なレオナルドがこの宮廷に招かれたのもこの頃のこと。マンティーニャは小都市マントヴァを支えるのみならず、この都市の美術の最盛期を支えた最も重要な画家なのだ。

(ルネサンスのアルカディア)

西のアルプスから東のアドリア海まで、北イタリアを滔々と横断するポー河、その流域は全て肥沃な平野。豊かな農産物に恵まれ、音楽と建築に満たされた都市が連なる。マントヴァはその中央に位置する、古代ローマの最大の詩人ウェルギリウスが生まれたところとしても有名。

ルネサンスの人々をアルカディアに誘った長閑で甘美な牧歌や農耕詩は間違いなく、このマントヴァの風景が生み出したものだ。しかし、もともとの、あるいは現実のギリシャのアルカディアは急峻なパルナッソス山域に囲まれた荒涼地、長閑な田園とはほど遠い所。

アルカディアは古代ローマあるいはルネサンスの人々が生み出した想像上の理想郷。ギリシャの人々にとっての、「人間の生きるための規範のための舞台」としてのアルカディアは、苦難の続くルネサンス・イタリアの人々にとっては長閑な田園地帯、理想郷に変容した。

アルカディアはローマ時代の詩人テオクリストやウェルギリウスによる農耕詩や牧歌の中の世界として描かれる。ホイジンガの「中世の秋」によれば、あまりにも厳しすぎた中世末期の現実が、より美しい生活にあこがれ、理想の愛を追い求めるルネサンスを開いたとある。

凶作がつづき、二度に渡る壊滅的なペストの流行、加えて教会勢力の分裂という多難を体験したイタリアでは、十四世紀に入り、ウェルギリウスが描いたアルカディアはペトラルカ等により良い世界の象徴、理想世界、黄金郷として登場した。

列強との狭間で苦難に揺れる十五世紀末イタリア、フェラーラからマントヴァに嫁いだイザベラ・デステの同時代。アルカディアはナポリの詩人ヤコーポ・サンナローザの田園詩「アルカディア」によって、あるいはフィレンツェの詩人アンジェロ・ポリッツィアーノの牧歌劇「オルフェオ」によって再登場する。

やがて「アルカディア」は誕生期のオペラにも引き継がれる。そして十八世紀、その世界は台頭した市民社会の器楽演奏、交響曲や室内楽に取り込まれ、ヨーロッパ音楽の主要テーマとして展開されていく。

(マンティーニャのパルナッソス)

マンティーニャはこのアルカディアのようなマントヴァで十五世紀末、興味深い絵画を完成させた。「パルナッソス」、現在ルーブル美術館に展示されている。マンティーニャの「パルナッソス」は古代ギリシャのアルカディアの聖山、詩と音楽の神アポロンと九人のミューズの住むところとして描かれる。

この絵は后妃イザベラの注文により制作され、長らく彼女の書斎を飾っていた。ルドビーコ公亡き後、マントヴァ国家元首となった彼女は自分自身のための瞑想の場を必要とした。この絵はその為の主要な装置。イザベラの死後、五枚のカンバス画が書斎に残されたが、「パルナッソス」はその中の一つ。しかし、十七世紀にはルイ十四世の所有となり、以降、ルーブル美術館に保管される。

 (fig48)

この頃すでにフィレンツェでは新プラトン主義者たちの思想を反映したボッティチェリの「プリマベーラ」や「ヴィーナスの誕生」が完成していた。人文主義的教養も深いイザベラ、フィレンツェへの対抗心を充分に秘め、この部屋の構想を練ったに違いない。

ルネサンスの作品は、どの分野でも、個性の表出が目的となることはない。作品が作家の個性に結びつけられ解釈されたのは十九世紀以降のことだ。この時代の作品は全て、使用目的に合わせ、あるいは集団的要請に従い制作された。題材は画家が自由に選ぶのではなく注文主が決める。画家は題材に従い作品の持つ意味を的確に表現することが求められた。

イザベラはマンティーニャの「パルナッソス」に何を要求していたのだろうか。美術史家によれば、この絵は様々な解釈があるようだ。以下は長いが、当時の人々の「アルカディア」が垣間見えとても面白いので引用する。

「踊っている女性たちがミューズの神々であることは、その数が九人であることや、画面左上に崩れ落ちる山が描かれていることから、確かである。というのは伝承によれば、芸術の創造における霊感の女神たちの歌は火山の噴火や天変地異を引き起こし、ペガサスがひづめで大地をふみならしてこれらの天災を終わらせるからである。実際画面右手には宝石で飾られた有翼の馬がいて、神意によってしきりに地面をひずめで何度も掻いている。そのそばにメリクリウスがいるのは、彼がウェヌスス(ヴィーナス)とマルスの愛人関係に介入し、画面左端のアポロとともに不義のウェヌススをかばうことになっているからである。二人の愛人はベッドに置かれたパルナッソスの山頂から見下ろすように立っている。左に裏切られた夫、ウェウカヌスが仕事場である鍛冶場の洞穴から出て、不貞を働いた二人(ヴィーナスとマルス)に向かって怒鳴っている。彼の背後にかかっているブドウはたぶん力と不節制の象徴であろう。アポロはその下の方に座り、手にリラ(竪琴)を持っている。1542年に作成されたマントヴァのパラッツォ・ドゥカーレの財産目録では、このアポロがオルフェウスと記されており、またアポロは普通ミューズたちの間に交じっているものなのだが、これをオルフェウスと見なしたところで、その絵の内容をいたずらに混乱させてしまうだけだろう。・・・連作全体が教訓を目的としたものであったことは疑いないことである。それゆえ、パルナッソスにはマルスとウェヌススの不貞な結びつきに対するミューズたちの強い非難をはっきりと読みとることができるのである。とはいうもののマントヴァ宮廷の知識人たちがその裏切りを非難したとは思われない。」(マンティーニャ:東京書籍)


2010年6月13日日曜日

若仲展

千葉市美術館は鞘堂と言われるユニークな建築。
昭和2年に建設された旧川崎銀行千葉市店の建物を、新しい建物が鞘のようにオーバラップし建設されている。
鞘堂方式と言われるこの建築の保存方法は、当時、建築関係者には話題となり、15・6年前のことだが、その経過を見学に行ったことがある懐かしい建築だ。
古い建物を基礎から浮かし、レールが敷かれた車輪の上に載せ移動出来る状態にする。
そして全体を100メートルほどバックさせ、空いた用地に新築部分を建築する。
やがて、大きな一階ホールが建設された後、再び古い建築を静々と前にせり出し、 新築途中のホールの中に引き入れ、ようやっと全体の工事を完成させる。
昔、日本の木造住宅の増築等ではよく使われた引き屋の工法による建設工事。
その工法を旧川崎銀行の保存のために実施するというので、かって、建築中に友人たちと2回ほど見学に行ったことがあったのだ。

しかし、完成してからは一度も見学していない。
今日「伊藤若冲展」を見学に行き、その会場がかっての引き屋建物、新しい美術館であることをはじめて知った。
珍しいことに、突然、息子が「昼飯」を食べにやってきた。
そして、彼の誘いで午後から急遽、若仲展を見に行くことになった。
千葉市美術館で「若冲展」をやっている事、また、この美術館が鞘堂である事は、昼飯までは全く知らないことだった。

つゆ空の千葉までのドライブは些か面倒でもあったのだが、 今日は息子の運転、たまには素直に誘いには応ずるもの。
結果、美術展と美術館まさに一石二鳥、何とも楽しい見学となった。
美術展は7・8階。 階層分断はこの手の美術展ではやや不便。 作品の説明板が小さくてやや読みにくい事もあり、入館当初の最も重要なことでもある、全体の展示構成を掴めないままの見学となった。

展示は若仲の師匠筋の絵師の作品も同時に集められていて、若冲とその周辺を理解させようとする画期的なもの。
一つ一つと作品を見るごとに感じられて来る若冲の世界。
彼の作品はいつも大らかだ、その作風も内容も。
絵を描かせるスポンサーたちもまた同じ。
18世紀後半と言う時代、そこは今とは異なる、何ともユーモラスでのんびりとした空気が流れていたに違いない。 いやぁ、そんなことはないだろう。 ここは若冲の世界なのだ、それも絵の中にのみ広がっている彼独特の世界。
今回の展示作品、かなりが個人蔵のもののように感じられた。
いつもの若仲のきらびやかな彩色に比べ、水墨による無彩が多く、また、小品が沢山だからだろうか。

しかし、その全体はいつものと同じ彼独特の世界、その絵は造形的であり、物語的、どこまでも自由、かつ大胆な画面構成と表現上の工夫。
そのどれもが、入念な観察と逞しい創作欲の結果である事が良く判る。
なかでも、今回、はじめて見た「樹花鳥獣図屏風」は圧巻。
綿密な独特の点描は「デジタル時代の先駆けではないか」と思ってしまう。
今日の若仲展はしばらくブームが続き、一段落した若仲をもう一度、あるいは改めて日本の絵画の大スターとして、じっくり観てもらおうと言う企画のようだ。
その意図は十分に果たされている。
やや手狭な会場だが、決してせせこましい、がやがやした雰囲気ではない。
近め遠目、自由に立ち位置を変え、じっくり作品が楽しめた。
楽しみにしていた「像と鯨図屏風」は明日からの展示でお目にかかれなかったが、これはまたこの次の楽しみと言う事だろう。

梅雨空の元だが、思いもよらぬ息子の運転での素晴らしい半日。
幸い、この展覧会は6月27日まで開かれている。
お近くの方は決して、お見逃しのないように。

2010年6月11日金曜日

連隊の娘

昨晩の品川シネにおけるメトのライブヴューイング、今年最後の上演だそうだが「連隊の娘」を見る。評判のファン・ディエゴ・フローレスの美声を体験したいというのが目的だが、さすがに絶好調。メトの聴衆を魅了し拍手は鳴り止まない。

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マリー役のN・デッセーもまた柔らかい甘い高音質、このオペラでの競演はお互いの持ち味が発揮され文句なし。しかし、気になるのは映画化の方法だ。映画化そのものはありがたいことで、TVや大画面シネによりオペラがどんどん身近になることを大いに楽しみしている。問題はその方法。なんだかんだで結局、今回は全8作中5作品を楽しんだが、本当に楽しめたのは「ピーター・クライムズ」と「連隊の娘」の2作のみ。(映画とは言え安価ではない。)多分、劇場なら他の三作も素晴らしかったに違いない。問題の方法とは、映像編集社者の作り過ぎにある。チャカチャカ画面をチェンジされるので、落ち着いて音楽が楽しめない。クローズアップやマルチスクリーンも結構だが、とにかく音楽を聴かせることに集中すべきだ。最近、舞台ではなく、映像としてのオペラを制作しDVD化されることがよくある。この映像オペラの中には傑作は沢山ある。(ジョセフ・ロージーのドンジョヴァンニの映画化等)しかし、舞台の映像化で良いのもは少ない。来年のライブヴューイングに期待しよう。

2010年6月7日月曜日

家康の直轄地 桐生


日本中の都市はどこもかしこも今、その構造と新たな仕組み作りに悩んでいる。 
急激な経済的社会変化はこの国だけのことではなく、世界中。 
しかし、我々の周辺、特に地域の中心から外れた中小都市は、 若者人口の減少、その結果としての過疎と高齢化が問題となっている。 
「エコと街づくり」という言葉は聞こえて来るが、 どうしても見えてこない「明日をどう生きるのか」その手だてと方法。 
街づくりには「バカ者、若者、余所者」が必要とよく言われる。 
街の未来を夢想するばか者、その夢想を具体化する若者、 加えて、外から資源と情報を供給する余所者、と言う事のようだ。 

足尾から渡良瀬川に沿い渓谷を下ると桐生の街に至る。 
この街はかっては天領だった。 
徳川家康は領地となったこの場所を、他の大名に与える事なく、 直轄の代官を置き開発した。 
その開発は些かユニーク。 
古くからあった天神様の鳥居をゼロ点とし、 そこから南に向かって真一文字の道路を設置。 
次にその道の両側を間口6間奥行き40間、 短冊状に丁割し、町立てを施した。 
ユニークなのはここからで、 分割され開発された用地は近郷からの入植希望者、 誰に対しても自由に分け与えたという。 
結果、町は封建都市とは異なり、あたかも門前都市(自由都市)のおもむき、 各地から集まった住民は各々自身の持つ才覚と働きにより、 主体的かつ自由に活動し、営みを発展させ利益を得る事が出来たという。 

近郷村から入植した新たな住人たちが最も得意とするところ、 ある人は養蚕農家、そして糸にする家、糸を染める家、機織りをする家。 
やがて、街は必然的に西の西陣に負けない、 大きな繊維産業都市として発展し、成功して行った。
 その成功によりGDPの15%近くをかっての桐生が占めたのだそうだ。 
つまり、現代のトヨタ一社分より高い利益をこの小さな町は毎年はじき出していた。  
大きく発展した小都市桐生だが、戦後の繊維不況により街は徐々に疲弊していく。 
そして、生き残りの策どころか、疲弊して行く小都市の現状すら、 感知しようとしない人々が大半、と語るのはこの街の「ばか者」、 未来を夢想する住民たちの言葉。

2010年6月6日日曜日

足尾再訪


6月はじめの週末、足尾を訪ねた。 
日頃の建築仲間、20人余の集団ドライブ。 
毎年の恒例行事だが、今回は新人数名が新たに加わり、 マイカーを7台を連ねての、何とも騒がしい旅行となった。 
一段となってのこのドライブには親睦に加えもう一つの目的がある、 それは単に建築を観る、体験すること以上に、 街の生活・歴史・文化・自然に触れ、街の人々とともに、 人間環境の有り様を学び、考えたいということだ。 

足尾は風光明媚な日光の山々を背にした渡良瀬渓谷の最奥地。 
しかしまた、誰もがよく知る鉱害の街でもある。 
かっては、見上げれば禿げ山と岩山ばかりの渡良瀬の谷間であったが、 10数年ぶりの今回、まず気がつく事は、全山とは言わないが、 山々は新緑に覆われ、谷間には新しい家々が沢山立ち並んでいたこと。 
そして、今回もっとも貴重であったのは、かっての公害の街はまた、 日本の産業近代化技術の発祥の地でもあった、と言う事の再確認。  
今年がちょうど、足尾銅山発見から400年。 写真集「足尾銅山」を出版された小野崎一徳氏のレクチャーと現場見学が実施された。 
貴重なとき、貴重な方からの詳しいお話、 集団ドライブはにわかに有効な研究会と化していた。  
足尾の近代化、その先端技術と人々の営み、そして不幸な惨状は、 一徳氏に伝わる小野崎家4代に渡る写真家によって、全てが記録されている。 
「足尾鉱毒事件」は田中正造氏の活躍によって知られる日本の産業公害の原点、 その事件の情宣に小野崎家先代の方々の記録が大きな役割を占めている。 
しかし、その写真は同時に、 日本の産業技術の歴史そのものの貴重な記録でもあったのです。 

急速な産業の近代化は、大きな環境破壊を、その対策の失敗は、 覆いがたい人災を招いてしまった。 それが、再訪した足尾の現実だが、 同時にまた、この街は日本の様々な産業技術発祥の地でもあったのだ。 
明治政府により軽便鉄道をフランスから取り入れられ、 その技術に加え、足尾では削岩技術も導入された。 
さらにこの地で最初に水力発電を実施され、 得たる電力により動力ポンプや構内電話設備を設置、 運搬のための鉄索から坑内巻上機や運搬車運行が可能となる。 
結果、規模にして巨大な地下都市、上下1200m、 長さ4000メートルに及ぶ大坑道が建設された。  
一方、これもまた新技術だが、脱硫装置や坑内水浄水中和装置、 あるいは大規模砂防工事も実施された。 
しかし、残念ながら、こちらの新技術はことごとく、 無惨な状況を招いてしまった。
 明治以来の僅か80年間で、 近代技術は江戸期300年間の4倍余の銅を産出した。(総量82万トン) 急ぎすぎた近代化の代償は大きく、負の遺産であることは免れない。 
そこには正なる部分もあり、新技術にチャレンジし続けた、 先人たちの存在もまた、けっして忘れてはならない。 
今の足尾の姿は、正負併せ持った日本の近代化技術遺産そのものであろう。 
その足尾では今日、 天高い青空とうぐいすが啼く若木のもと、 沢山の学生たちの参加も含め、緑化作業が進められていた。

2010年6月3日木曜日

エステルハージ家のハイドン


イギリスでは1649年の王制の廃止が公共コンサートの始まりのきっかけとなったが、ヨーロッパ大陸では18世紀に入ってもまだ公のコンサートに出掛けるという習慣はなかった。上流階級の私邸か宮廷でのサロンが音楽の集いです。
ヨゼフ・ハイドンは1761年、エステルハーザ家の副楽長任命され、以降2代のエステルハージ候のおかかえ音楽家となります。
彼はオーストリアのアイゼンシュタットのエステルハージー居城(中世の砦を17世紀に宮殿に改修したもの)とハンガリーのエステルハーザー城に25年間もとどまり音楽活動を続けた。

アイゼンシュタットは現在ハイドン・ザールと呼ばれ、400人も収容できる大きなホールを持っている。
間口15m、奥行き40mという細長い形を持ち、天井高も12m余りもありもある。
彩色が施され折上げ天井、側壁にそっては深いニッチがならび長方形の両端には円柱に支えられたバルコニーが設置されている。
ハイドンはこのホール用に34曲もの交響曲を書いているが、比較的中低音域の残響が教会なみに長いことと、狭い側壁からの反射音が強いことを意識的に取り入れ、合奏部分の強音と独奏部分の弱音を対照化して表現する手法で作曲した。(交響曲6番や8番など)


エステルハージ侯ニコラウス1世はロココ式宮殿エステルハーザ城をハンガリーに作る。
そこにはミュージックルーム(1766年完成)だけではなく、オペラハウス(1768年完成)や人形劇の劇場(1773年完成)、さらに音楽家のための宿舎(1768年完成)まで作られた。
ここのミュージックホールは16m×10m×9mとハイドン・ザールに比べかなり小さい。
当然残響は短く、澄んで乾いた音色を持って聞こえる。
ここでのオーケストラはアイゼンシュタットと同規模であったようだが、その曲全体は室内楽のように響いたと想像される。
ハイドンはここで作曲した交響曲57番や67番などを2つの版で出版した。
ここでの二つの版ということが重要なことで、ハイドンは同じ曲を野外を含め他の会場用にトランペットやティンパニーを使ったものと、このミュージックルーム用に親近感のある響きを持ったものとの2版を使い分けて演奏したのです。
もう一つ大事な事がある。
アイゼンシュタットのハイドン・ザールの教会並みの残響の長さにはハイドンは相当苦しんでいる。
そしてここの演奏会では必ず木の床を張り開いているのだ。
彼は長い残響をも考慮して交響曲を作り続けたが、やはり、新しいシンフォニーの時代、音の大きい楽器演奏は教会のような空間ではとても難しかったのです。

2010年6月2日水曜日

ラニラ・ガーデンのロトンダ


モーツアルトの父親レオポルトは1764年、ロンドンからザルツブルクの友人に次のような手紙を書いている。
「ラニラ庭園は決して大きなものではないが芸術的に作られている。毎週月、水、金曜に照明が灯される。ここにびっくりするほど大きな一階建ての円形ホールがあり、その中は数えきれないほどたくさんの吊りさげ灯、ランプ、壁かけ灯などで照らされている。一方の側で音楽が階段状にならんだ席から演奏され、最上部にオルガンがある。7時から10時まで3時間音楽は続く。それから1時間かしばしばそれ以上、つまり11時から12時まで、ヴァルトホルン、クラリネット、ファゴットなどの四重奏が行われる。」(人間と音楽の歴史・音楽之友社)

テームズ河畔チェルシーは土地が肥沃であり眺望も良く、16世紀トマス・モアが屋敷を構えるころから上流の人々の人気となる。
そしていくつかのマナーハウス、果樹園、庭園が作られてきた。
ロンドンからは陸路の馬車より、船によるテムズ河の往き来の方がはるかに安全で快適な小旅行。
そんな場所に18世紀には飲食と娯楽の為の遊園(プレジャー・ガーデン)がこの地域に沢山作られた。




1741年、建築家ウィリアム・ジョーンズの設計によるロトンダ(円形劇場)が建つ。
このラニラ遊園は、朝食と朝のコンサートが毎朝行われ、ロールパンと紅茶がロンドンの最高の演奏家のコンサート共に楽しめる、ということでこの地域でも最も人気となっている。
現在ではナショナル・ギャラリーが所有しているカナレットの絵画を見ると、レオポルトが手紙に書いたラニラ庭園のロトンダの内部の状況と雰囲気がとても良くわかる。
ホールの中央はファイアープレス。
当初はここが舞台でオーケストラの演奏はこの中央部分で行われ、観客は周辺をそぞろ歩きしながら楽しんだ。しかし、やがてオルガンの設置とともに右手の階段状の演奏台にうつされ、観客は中央のファイアープレスからの暖をとりながらの散歩となった。
周辺は劇場の桟敷席のような観客席。

ロンドンからの市民たちは庭園を散歩するばかりでなく、ここで音楽をききながら朝食をとり談笑を楽しんだ。
レオポルトはさらにこんなことも書き送っている。
「常に100人、200人、そして4〜500人の人々が周囲をそぞろあるきしており、お互いに挨拶をしている。床には全面麦藁を細かに編んだ敷物とか絨毯が敷かれていて、気持ちよく歩き回れて、かつ歩くことで雑音がでないようになっている。庭園とホールには、少なくとも6000人の人の座る席があった。ホールだけでも3000人の人たちがゆったりすわることができた。」
予約会員制によらない自由な公開コンサートで音楽を商業化することに成功したプレジャーガーデンだが、19世紀に入り閉鎖されて行った。
それは、「音楽は音楽を聞くためだけの空間」を必要とし始めたからです。