2010年6月21日月曜日

サンデル教授の最終回

サンデル教授の12回シリーズは完結した。 昨日の放映、その最終回は「善き生の追求」だ。 近代個人主義の進展の中「全体」の再構成の試みは存在した。 しかし、個人が自由を望んでいる限り、統合化の試案は成功しない。 旧態の共同体を望む事はアナクロニズムであり、 統合化を作り上げる事は、外部からの区別にほかならないからだ。 彼の講義も結局ここに帰結する。 ではどうすればいよいのか。 個人主義の進展はあるいは個人の細分化はますます人間を孤立化する。 したがって、明確な結論はない。 さらにまた、個人主義の問題の克服は集団化でない、という結論は、現代の何人かの識者の見解と同一だ。 サンデル教授は「自分たちの人生をいかに最善に生きるかをそれぞれに選ばせるようにするべき」と言っている。 つまり、人間を人間らしく生きるのは各々個々人の生き方「ライフスタイルの問題」そのスタイルにおける議論そして重層化の問題、と言う事なのだろう。

2010年6月20日日曜日

ロトチェンコ展から考えていたこと


昨日、ロトチェンコ展を観ながら気になったことをつけたそう。 感想は昨日書いた通り、何か痛々しいものを感じたこと。 それはもちろん、作品そのものがではなく、自分自身が、ということなのだが。 同時代の印象派絵画、決して嫌いではない。 しかし、最近何故か、ヌクヌク感じられて空々しい。 名作であろうが傑作であろうが、作品は作品である以上、全て虚構の世界なのだ。 その世界が、現在のボクの世界とどう関わるかが、展覧会に行く楽しみ。 「いまなら僕は「デザイン」という言葉に「うぬぼれ」というルビを振るでしょう。」 これは今朝、読んだある人のブログだ。 http://gitanez.seesaa.net/article/153703729.html 建築も絵画もまたデザイン、そしてある種の虚構の世界。 ロトチェンコを観ていて気づかされたのは、このブログに近いもののような気がする。 20世紀初頭、作家は「虚構を生み出す方法」を失った。 少なくとも従来の方法からは模倣はともかく、虚構は生まれない。 印象派は様々な画法を駆使する事で、新たな虚構、作家の現実との橋を作品化した。 しかし、そこにあるのは「うぬぼれ」だ。 かたちは、あるいはフォルムは、虚構と現実を橋渡しする言葉を失って久しい。 ロトチェンコのみならず、モダニストはすべてこの失った言葉の再生に関わった。 しかし・・・・。 最近、なぜ、展覧会に行く事にこだわるのか。 あるいは、しきりに「いいと思われる作品に出会いたい」と思わせるのか。 秋には京都に、春には奈良に行った。 どうやら、ボクも「うぬぼれ」に気がつき始めたようだ。 失ったのは言葉ではない、ライフスタイルなのだから。

2010年6月19日土曜日

ロシア構成主義のまなざし 庭園美術館

形あるものから形が失われて行く時代にあって懸命に形を求めるロトチェンコの構成主義はある種の痛々しさを感じてしまう。 展示作品を眺めていて気がついた、建築も絵画も音楽に成りたがっていると。 「建築」と書かれたコーナーに9点ほどのタブローがあり、そこにあるのは空間ではない、運動と時間だ。 形のない現代、二次元の画面に形を生み出そうとするなら、表現されるものは時間、つまり音楽なのだだ。 様々な戯れ言を語らせる展覧会は明日が最終日。 梅雨の休み、夏の日が輝いたり曇ったりの午後。 同時代の建築、アールデコの旧朝香宮邸、庭園美術館。 昨日、ロトチェンコ展を観ながら気になったことをつけたそう。 感想は昨日書いた通り、何か痛々しいものを感じたこと。 それはもちろん、作品そのものがではなく、自分自身が、ということなのだが。 同時代の印象派絵画、決して嫌いではない。 しかし、最近何故か、ヌクヌク感じられて空々しい。 名作であろうが傑作であろうが、作品は作品である以上、全て虚構の世界なのだ。 その世界が、現在のボクの世界とどう関わるかが、展覧会に行く楽しみ。 「いまなら僕は「デザイン」という言葉に「うぬぼれ」というルビを振るでしょう。」 これは今朝、読んだある人のブログだ。 http://gitanez.seesaa.net/article/153703729.html 建築も絵画もまたデザイン、そしてある種の虚構の世界。 ロトチェンコを観ていて気づかされたのは、このブログに近いもののような気がする。 20世紀初頭、作家は「虚構を生み出す方法」を失った。 少なくとも従来の方法からは模倣はともかく、虚構は生まれない。 印象派は様々な画法を駆使する事で、新たな虚構、作家の現実との橋を作品化した。 しかし、そこにあるのは「うぬぼれ」だ。 かたちは、あるいはフォルムは、虚構と現実を橋渡しする言葉を失って久しい。 ロトチェンコのみならず、モダニストはすべてこの失った言葉の再生に関わった。 しかし・・・・。 最近、なぜ、展覧会に行く事にこだわるのか。 あるいは、しきりに「いいと思われる作品に出会いたい」と思わせるのか。 秋には京都に、春には奈良に行った。 どうやら、ボクも「うぬぼれ」に気がつき始めたようだ。 失ったのは言葉ではない、ライフスタイルのようだ。

2010年6月13日日曜日

鞘堂美術館での若仲展

千葉市美術館は鞘堂と言われるユニークな建築です。 昭和2年に建設された旧川崎銀行千葉市店の建物を、新しい建物が鞘のようにオーバラップし建設されている。 鞘堂方式と言われるこの建築の保存方法は、当時、建築関係者には話題となり、15・6年前のことだが、その経過を見学に行ったことがある懐かしい建築だ。 古い建物を基礎から浮かし、レールが敷かれた車輪の上に載せ移動出来る状態にする。 そして全体を100メートルほどバックさせ、空いた用地に新築部分を建築する。 やがて、大きな一階ホールが建設された後、再び古い建築を静々と前にせり出し、 新築途中のホールの中に引き入れ、ようやっと全体の工事を完成させる。 そう、昔、日本の木造住宅の増築等ではよく使われた引き屋の工法による建設工事。 その工法を旧川崎銀行の保存のために実施するというので、かって、建築中に友人たちと2回ほど見学に行ったことがあったのだ。 しかし、完成してからは一度も見学していない。 今日「伊藤若冲展」を見学に行き、その会場がかっての引き屋建物、新しい美術館であることをはじめて知った。 珍しいことに、突然、息子が「昼飯」を食べにやってきた。 そして、彼の誘いで午後から急遽、若仲展を見に行くことになった。 つまり、千葉市美術館で「若冲展」をやっている事、また、この美術館が鞘堂である事は、昼飯までは全く知らないことだった。 つゆ空の千葉までのドライブは些か面倒でもあったのだが、 今日は息子の運転、たまには素直に誘いには応ずるもの。 結果、美術展と美術館まさに一石二鳥、何とも楽しい見学となったです。 美術展は7・8階。 階層分断はこの手の美術展ではやや不便。 作品の説明板が小さくてやや読みにくい事もあり、入館当初の最も重要なことでもある、全体の展示構成を掴めないままの見学となった。 展示は若仲の師匠筋の絵師の作品も同時に集められていて、若冲とその周辺を理解させようとする画期的なもの。 そして、一つ一つと作品を見るごとに感じられて来る若冲の世界。 彼の作品はいつも大らかだ、その作風も内容も。 絵を描かせるスポンサーたちもまた同じ。 18世紀後半と言う時代、そこは今とは異なる、何ともユーモラスでのんびりとした空気が流れていたに違いない。 いやぁ、そんなことはないだろう。 ここは若冲の世界なのだ、それも絵の中にのみ広がっている彼独特の世界だ。 今回の展示作品、かなりが個人蔵のもののように感じられた。 いつものきらびやかな彩色に比べ、水墨による無彩が多く、また、小品が沢山だから。 しかし、その全体はいつものと同じ彼独特の世界、その絵は造形的であり、物語的、どこまでも自由、かつ大胆な画面構成と表現上の工夫。 そのどれもが、入念な観察と逞しい創作欲の結果である事が良く判る。 なかでも、今回、はじめて見た「樹花鳥獣図屏風」は圧巻。 綿密な独特の点描は「デジタル時代の先駆けではないか」と思ってしまう。 今日の若仲展はしばらくブームが続き、一段落した若仲をもう一度、あるいは改めて日本の絵画の大スターとして、じっくり観てもらおうと言う企画のようだ。 その意図は十分に果たされている。 やや手狭な会場だが、決してせせこましい、がやがやした雰囲気ではない。 近め遠目、自由に立ち位置を変え、じっくり作品が楽しめた。 楽しみにしていた「像と鯨図屏風」は明日からの展示でお目にかかれなかったが、これはまたこの次の楽しみと言う事だろう。 梅雨空の元だが、思いもよらぬ息子の運転での素晴らしい半日。 幸い、この展覧会は6月27日まで開かれている。 お近くの方は決して、お見逃しのないように。

2010年6月7日月曜日

家康の直轄地 桐生


日本中の都市はどこもかしこも今、その構造と新たな仕組み作りに悩んでいる。 急激な経済的社会変化はこの国だけのことではなく、世界中どこも同じ。 しかし、我々の周辺、特に地域の中心から外れた中小都市は、 どこも若者人口の減少、その結果としての過疎と高齢化が問題となった。 「エコと街づくり」という言葉は聞こえて来るが、 どうしても見えてこない「明日をどう生きるのか」その手だてと方法。 街づくりには「バカ者、若者、余所者」が必要とよく言われる。 街の未来を夢想するばか者、その夢想を具体化する若者、 加えて、外から資源と情報を供給する余所者、と言う事のようだ。 足尾から渡良瀬川に沿い渓谷を下ると桐生の街に至る。 この街はかっては天領だった。 徳川家康は領地となったこの場所を、他の大名に与える事なく、 直轄の代官を置き開発した。 その開発は些かユニーク。 古くからあった天神様の鳥居をゼロ点とし、 そこから南に向かって真一文字の道路を設置。 次にその道の両側を間口6間奥行き40間、 短冊状に丁割し、町立てを施した。 ユニークなのはここからで、 分割され開発された用地は近郷からの入植希望者、 誰に対しても自由に分け与えたという。 結果、町は封建都市とは異なり、あたかも門前都市(自由都市)のおもむき、 各地から集まった住民は各々自身の持つ才覚と働きにより、 主体的かつ自由に活動し、営みを発展させ利益を得る事が出来たという。 近郷村から入植した新たな住人たちが最も得意とするところ、 ある人は養蚕農家、そして糸にする家、糸を染める家、機織りをする家。 やがて、街は必然的に西の西陣に負けない、 大きな繊維産業都市として発展し、成功して行った。 その成功によりGDPの15%近くをかっての桐生が占めたのだそうだ。 つまり、現代のトヨタ一社分より高い利益をこの小さな町は毎年はじき出していたのです。 大きく発展した小都市桐生ですが、戦後の繊維不況により街は徐々に疲弊していきます。 そして、生き残りの策どころか、疲弊して行く小都市の現状すら、 感知しようとしない人々が大半、と語るのはこの街の「ばか者」、 未来を夢想する住民たちの言葉でした。

2010年6月6日日曜日

足尾再訪


6月はじめの週末、足尾を訪ねた。 日頃の建築仲間、20人余の集団ドライブ。 毎年の恒例行事だが、今回は新人数名が新たに加わり、 マイカーを7台を連ねての、何とも騒がしい旅行となった。 一段となってのこのドライブには親睦に加えもう一つの目的がある、 それは単に建築を観る、体験すること以上に、 街の生活・歴史・文化・自然に触れ、街の人々とともに、 人間環境の有り様を学び、考えたいということだ。 足尾は風光明媚な日光の山々を背にした渡良瀬渓谷の最奥地。 しかしまた、誰もがよく知る鉱害の街でもある。 かっては、見上げれば禿げ山と岩山ばかりの渡良瀬の谷間であったが、 10数年ぶりの今回、まず気がつく事は、全山とは言わないが、 山々は新緑に覆われ、谷間には新しい家々が沢山立ち並んでいたこと。 そして、今回もっとも貴重であったのは、かっての公害の街はまた、 日本の産業近代化技術の発祥の地でもあった、と言う事の確認だった。 今年がちょうど、足尾銅山発見から400年。 写真集「足尾銅山」を出版された小野崎一徳氏のレクチャーと現場見学が実施された。 貴重なとき、貴重な方からの詳しいお話、 集団ドライブはにわかに有効な研究会と化していた。 足尾の近代化、その先端技術と人々の営み、そして不幸な惨状は、 一徳氏に伝わる小野崎家4代に渡る写真家によって、全てが記録されている。 「足尾鉱毒事件」は田中正造氏の活躍によって知られる日本の産業公害の原点、 その事件の情宣に小野崎家先代の方々の記録が大きな役割を占めている。 しかし、その写真は同時に、 日本の産業技術の歴史そのものの貴重な記録でもあったのです。 急速な産業の近代化は、大きな環境破壊を、その対策の失敗は、 覆いがたい人災を招いてしまった。 それが、再訪した足尾の現実だが、 同時にまた、この街は日本の様々な産業技術発祥の地でもありました。 明治政府により軽便鉄道をフランスから取り入れられ、 その技術に加え、足尾では削岩技術も導入された。 さらにこの地で最初に水力発電を実施され、 得たる電力により動力ポンプや構内電話設備を設置、 運搬のための鉄索から坑内巻上機や運搬車運行が可能となる。 結果、規模にして巨大な地下都市、上下1200m、 長さ4000メートルに及ぶ大坑道が建設されたのです。 一方、これもまた新技術だが、脱硫装置や坑内水浄水中和装置、 あるいは大規模砂防工事も実施された。 しかし、残念ながら、こちらの新技術はことごとく、 無惨な状況を招いてしまった。 明治以来の僅か80年間で、 近代技術は江戸期300年間の4倍余の銅を産出した。(総量82万トン) 急ぎすぎた近代化の代償は大きく、負の遺産であることは免れない。 しかし、そこには正なる部分もあり、新技術にチャレンジし続けた、 先人たちの存在もまた、けっして忘れてはならない。 今の足尾の姿は、正負併せ持った日本の近代化技術遺産そのものであろう。 その足尾では今日、 天高い青空とうぐいすが啼く若木のもと、 沢山の学生たちの参加も含め、緑化作業が進められていた。