2009年10月30日金曜日

聖ペテロ神殿の再建

古代ローマ帝国の首都であり、中世キリスト教社会の聖地であったローマはいつの時代も世界の中心、猶に2000年を誇る大都市です。しかし、古代ローマから後、教皇庁がその絶対的権力を誇り、世界に君臨することが出来たのは14世紀の始めまでのこと。フランス国王への配慮から、教皇に選ばれながらもローマ行きを果たすことが出来ず、クレメンス五世は南フランスのアヴィニョンに留められることとなり、その後のローマは衰退と疲弊を重ねることになりました。
廃墟のような都市となってしまったローマが現代に見る姿を取りだすようになるのは、16世紀を迎えてからのこと。宗教改革への気風が高まる中、ローマに戻った教皇庁はその権威の再興と都市の再建に取り組み始めることになったのです。最も初期にローマ再建を計画したのは15世紀半ばの法王ニコラウス五世。彼は建築家アルベルティの力を借り、教会を中心とした理想都市ローマの建設に着手しました。そして歴代の教皇もニコラウスに続きローマ・カトリックの権威の復活に力を注ぐこととなったのです。
しかし、15世紀後半から16世紀のローマはまだかってのように君主を生み出す役割からは程遠い段階です。教皇庁ローマと言えども他のイタリア半島の小国同様、その権威と領土は列強の巧妙な外交政策に翻弄され、波間の木の葉のような浮沈を重ねる状況にありました。
16世紀に入り教皇庁の権威の浮沈はまだ相変わらずではありましたが、都市ローマは着々と整備され、その偉容は刻々と姿を見せ始めました。カトリック・ローマを勇気づけ、活気づけ続けたのは音楽と建築です。新しい世界の到来やローマ・カトリックの復活を内外に示す重要な役割はいつ時代も建築が果たしてきました。建築は制度や行政という観念的な作業以上に、物理的実体を持って新しい世界の権威や秩序を示すことが出来たからです。
聖ペテロの殉教の地に建てられたローマ・カトリックのシンボル、旧サン・ピエトロ大聖堂がコンスタンチヌス帝の建設からすでに1200年を経過していた1505年、ユリウス二世は新教皇に選ばれるやいなや、老朽化した大聖堂の建て直すことを決意します。サン・ピエトロの建設こそ、ローマ・カトリックの再生を具体的に示し、さらにまた反宗教改革の意識と意欲を内外に示す、最も有効な手段だったからです。
ユリウス二世は巧みに世俗と手を結び着々と資金を確保するばかりでなく、建築家の能力を見抜く能力を併せ持った人です。ラマンテ、ラファエッロ、ミケランジェロという、ルネサンスが誇る最も重要な建築家たちが新教皇のもと、サン・ピエトロの再建の為に集められてくるのです。
新しいサン・ピエトロ大聖堂の構想のポイントは「聖ペテロの神殿」の再生にあります。古代にならった建築の方法に従って「壮大な神殿」をいかに作るかがテーマだったのです。従来のバシリカ的な教会ではなく、「神殿」を強調することは周辺の列強、ドイツ・フランスが標榜するゴシック社会とは一線を画すためにも大事なテーマです。改革を必要とする宗教は旧態化したゴシック・キリスト教であって、ラテンという古代社会に起源を持つローマ・カトリックの再生は、ルターの改革とは異なる、真の宗教改革であることを示すこと、とブラマンテ等は考えました。サン・ピエトロ大聖堂を「壮大な神殿」としてどうデザインするか、それはまさにその後の歴代の教皇庁建築家の思案のしどころであり、ローマ・カトリックの再生と真の宗教改革を示すための具体的なデザインが必要とされました。




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