2017年7月21日金曜日

ロマン主義時代の音楽と建築


「ドラマとしてのオペラ」の中でカーマンは重要な指摘をしている。
 「オペラブッファが持つ音楽の連続性が劇的音楽の道を開いた。」
 18世紀の器楽曲が展開したソナタ形式を支えたのは調性だ。 
バロックの説明的展開に対し調性は機能的な展開を切り開き、葛藤・経過・興奮、絶え間ない変化を可能にしている。
 結果、器楽音楽はブッファを発展させ劇的連続性を生み出していく、とカーマンは考えている。 

18世紀まで、形式性の展開においては似たような方法をとってきた音楽と建築がその後、決定的に異なるのはこの連続性にあると考えられる。 
宗教曲からルネサンスそしてバロックへ、音楽は歌曲であり、オペラ誕生以降、その世界は音による絵画世界(視覚世界)だ。
従って、音楽と建築はその表現方法には大きな違いがない。
ロマン派以降、音楽はソナタ形式で調えられた、時間的に連続する器楽世界。
視覚的形式のみで展開せざるを得ない建築は不連続な行間をどう繋ぐかが問題となる。 
しかし、その方法が仮に機能主義・有用主義という倫理だけであったとするなら、近代建築は「失敗したロマン主義」ということになる。

 近代建築を批判し言語論を応用した建築もこの行間を繋ぐ方法とはならずポストモダニズム以降姿を消した。 しかし、まだ方法はあるはずだ。
ロッシは記憶・連想をその糸口とし、シザは?スティーブンホールは? 建築のロマン主義を検討する意味 がここにある。 hiroyuki kato/iPhone

2017年7月14日金曜日

ノルマ

日生劇場のオープニング(1963年10月)はベルリンオペラ・フィデリオだった。
客席から見上げると、天井は深い海の底から仰ぎ見る水面のよう。
太陽のひかりが差し込み、さざなみに揺れ、キラキラと輝いている。
初めて聴くベルリンの音楽と歌はどこまでも力強く、美しく、そこは水底か天上界での響き。
想像したこともない、架空いや虚構の世界に入り込んでしまった、という遠い思い出。
オペラと劇場はその日初めて知る、全くの異種の世界。
高校時代の日生劇場とフィデリオは、そんな劇場体験を残していた。
そして50年、その日からボクのオペラと建築がはじまり、今がある。

久し振りの日生劇場はオペラ・ノルマ。
まさか、東京でノルマの上演?
この3月、偶々、通りかかった日生劇場のピロティで見たボードはデヴイーアが歌うノルマ。
驚き、半信半疑、窓口で確かめると、マリエッラ・デヴイーアが7月の始め、この劇場でノルマを歌う。
東京でノルマを聴くなんて有り得ない。
ノルマを歌えるのは、いま世界で何人だろう。
YouTubeにはカラスのCasta divaはあるが、さすがに映像はない。
1974年、オランジュの古代ローマ劇場での伝説的公演はモンセラート・カバリエ。
その後、カラスやカバリエに並ぶ、「清らかな女神」のクリップは残念ながら見当たらない。
そしてこの日、あのデヴイーアがここ日比谷でノルマを歌う。

客席は2階の4列、全舞台が見渡せ、グラスも要らない。
1300席余りの日生劇場は日本で最も贅沢、最高のオペラ劇場と言って良い。
(オペラ・パレス=1800、サントリーホール=2000、東京文化会館=3000)
オペラは定時の午後2時、東京フィルを指揮するフランチェスコ・ランツィッロッタがオーケストラ・ピットに登場、真っ暗の場内に序曲が響き始まった。

舞台は粟国淳の演出によるドルイドの聖なる森の中のイルミンスルの大樹、そこはまるで円形の木造壁に囲まれた古代神殿の趣。
物語はこの地に駐屯するローマの将軍ポリオーネとイルミンスルの神託を聴く巫女、神官の娘であるノルマとの恋。
いやすでに、ポリオーネの恋人は若き見習い巫女、アダルジーザに移っていた。
ノルマはポリオーネとの間に二人の子どもまでもうけていたが、まだ何も知らない。
そして、駐屯するローマ軍の悪行に復讐しようとする父神官とガリア人の合唱。
やがて、ノルマが登場。
彼女はお猛る合唱を押さえ、イルミンスルの神託は、「戦ってはいけない、やがてローマは自ら滅ぶから」と歌い、「清らかな女神=Casta Dive」のアリアへと続く。

筋書きはもういいだろう。
デヴィーアは決して大柄なソプラノではないが、美しく力のある歌声を聖なる森に響かせる。
ポリオーネを歌う笛田博昭は素晴らしかった。
彼の力強いバリトンはオランジュのヴィッカーズに劣らず、終始朗々と響き渡る。
そして、このオペラの聴かせどころは二幕と三幕のアダルジーザとの二重唱。
メゾ・ソプラノを歌うラウラ・ポルヴェレッリは初めてだが、彼女もまたシエナ出身のイタリア人。
その声の柔らかさと大らかさは、インペリア出身のデヴィーアとすっかり馴染み、イタリア・ベルカントの素晴らしさを存分に響かせていた。

ベリーニのこのオペラ、やはりテーマは女性。
神託の巫女であり、母であり、禁断の恋をも辞さない、そして掟の定めに身を捧ぐノルマ。
女性の持つ、清らかさ、美しさ、母性愛、友情、そして恋。
オペラ大流行の19世紀に、ベリーニは何処までも美しい女性を追い続けたのではなかろうか。
それは男にとっては、憧れであれ、未触の世界、この劇場が表現する虚構世界に通底している。

PS.

『フィデリオ』
カール・ベーム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団・合唱団
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ
クリスタ・ルートヴィヒ
ジェームズ・キング、ヨゼフ・グラインドル
グスタフ・ナイトリンガー

2017年7月6日木曜日

フーコーの振り子 ウンベルト・エーコ

陰謀(猟奇魔)に捕らわれることなく、カバラ(神秘主義)世界の歴史書を完成させようとするのはミラノ・ガラモン社の三人、ベルボ、ディオレッタレーヴィ、ガゾボン。
テンプル騎士団の研究者ガゾボンが語る物語は、編集部長ベルボがワードプロセッサ、アブラフィアに記録した多時間・多空間的世界と交錯し、多彩な想像的世界として展開される。

物語の始まりと終わりは、パリの国立工芸院(サン・マルタン・デ・シャン修道院)のフーコーの振り子にあるのだが、その全体は虚構を真実とし、真実を虚構化する壮大なミステリーと言って良いだろう。
テンプル騎士団、薔薇十字、フリーメーソン、聖杯伝説、ドルイド教、ケルト神話、さらに旧約聖書からキリスト教、ユダヤ教、イスラム教とヨーロッパのすべての精神世界が舞台となりミステリーは謎に謎が重なり迷宮へと入り込む。

唯心論が否定され、全ての思考あるいは想像を理性的唯物論にのみ帰結させなければならない近代にあっては、神話やオカルトはもはや感情の表出、ファンタジックなエンターテイメントとしてしか見なされていない。
しかし、近代社会の脆弱性、歴史認識の薄氷性が気になり始めたポストモダンの現代にあって、ヨーロッパの知性はかっての、あるいは別角度からの人間の思考・想像世界に大きく目を開こうとしている。

日常、全く触れることのないカバラ世界、前回は読み通す事が出来なかったが、今回はヨーロッパ最大の知性と言われるエーコが残してくれた、近現代への貴重な批評の書として読み続けせていただいた。

2017年6月21日水曜日

宇宙の謎を探る、LHCからILCへ

138億光年前のビッグバンにより宇宙が誕生した。しかし、宇宙望遠鏡を駆使してもその膨大な宇宙を観ることが出来るのはたった38万光年までと言われている。
その先の世界を観るためには、我々はビッグバンの爆発によって宇宙空間に飛び交った、様々な素粒子を掴まえなければならない。
超高エネルギー状態で無秩序に飛び交った様々な素粒子は、やがて宇宙が膨張し温度が下がると、まとまり始め物質を構成する。そして誕生したのが夜空の銀河であり、その一つの太陽系であり、 我々が住まう地球であり、地球上の全ての原子。我々人間自身もまた原子の塊に過ぎないのだから、人間もまたビッグバンに始まる素粒子の塊であり、星屑の一つに過ぎない。

宇宙のはじまりを知るビッグバン直後の高エネルギー状況を実験室に作り出す装置が「高エネルギー加速器=リトルバンを生み出す実験装置=LHC」。1980年代以降、LHCにより数多くの素粒子を発見された。その測定から宇宙の成り立ちや、素粒子の運動を支配する原理がわかりつつあるが、原理の理解は「標準理論」として纏められている。
しかし、理論で存在が予測されているが、なかなか発見されなかった粒子がある、ヒッグス粒子だ。この粒子の発見は2012年、この時からいよいよ、宇宙の解明が加速されたが、しかし、標準理論で説明出来るのはわずか5%に過ぎない。全宇宙の大半は見ることが出来ない謎の物質「ダークマター」と謎のエネルギー「ダークエネルギー」によってその大半は構成されているのだ。

そしていよいよヒッグス粒子や暗黒物質、暗黒エネルギーを捕まえる「国際リニアコライダー計画=ILC」が始まった。この実験装置を北上山中に作ろうというアインシュタインもコペルニクスもビックリするような計画。
ILCは全長50キロメートルの直線型加速器、可能な限りのエネルギーで電子と陽子を衝突させビッグバンを再現しようとする実験装置。
138億年前のビッグバンは物質の解明のみならず新たな「次元」、素粒子とは異なる複合粒子という新しい「階層」、あるいは単独宇宙に関わる我々だが、スカイウォーカーやダークベーダーが活躍する「複数宇宙」の存在が見えてくるかもしれない。どちらにしろ、人類史最大なワクワク計画といってよいだろう。

今日の早稲田大学井深大記念ホールでの講演は村山斉氏と鳥居祥二氏のお二人。どちらも超優秀な頭脳、話の内容は素人の私には難解だが、しかし、優秀なのは頭脳だけはない。話は各々一時間足らずだが、そのわかりやすさは驚くばかり、気持ちの良い、午後の時間を楽しませていただいた。
前者のお話は今やTVでもお馴染み、ユーモラスな解説で今日も巧みに我々を宇宙に引き込んでいく。ポイントは宇宙が冷え、結果、様々な物質・星・人間が生まれるのだが、その原理はエネルギーだけの問題ではなく、超特殊なヒッグス粒子により、熱い無秩序な宇宙がやがて秩序を持つところにもあるようだ。(聞き間違っていないかな、責任は村山氏ではなく、当然このわたし)
後者のお話はNASAの国際ステーション(ISS)での宇宙線観測するカロリメータ型宇宙電子線望遠鏡(CALET)とその観測データ。宇宙の高エネルギー現象の理解には宇宙線が最も重要。来月の国際会議には観測されたデータから重要な発見が発表されるかもしれない。

2017年6月16日金曜日

永遠のファシズム ウンベルト・エーコ

昨年の2月に亡くなったエーコを読み続けている。薔薇の名前は読みやすかったが、フーコーの振り子や前日島は途中で挫折していた。
最近になって、プラハの墓地が面白く、岩波がバウドリーノを文庫化していたので、今は虜になっている。
長らく気がつかなかったが、彼の本の面白さは人間の間のミステリーではなく、個人の中に巣くう陰謀にあるのかもしれない。
そして一昨日、共謀罪を強行裁決する国会を眼にし、「永遠のファシズム」の真実味をまのあたりにした。
何時の時代、何処にでも生きる、人間が持つファシズムの原形を永遠のファシズムとエーコは捉え、その形を次のように原ファシズムとして列記している。

1ー>伝統崇拝=知の発展はありえない、私たちのできることは解釈し続けることだけ。
2ー>伝統主義はモダニズムの拒絶を意味のうちに含む。
原ファシズムは非合理主義。
3ー>文化は批判的態度と同一視されるいかがわしいものとされる。
知的世界に対する猜疑心は、原ファシズムの兆候。
4ー>原ファシズムにとって、意見の対立は裏切り行為。
5ー>原ファシズムは人種差別主義。
6ー>原ファシズムは個人もしくは社会の欲求不満から発生する。
7ー>原ファシズムはその心性の根源に陰謀の妄想力を抱え込んでいる。
8ー>敵の力を客観的に把握する能力の欠如。
9ー>生のための闘争は存在せず、あるのは闘争の為の生。
平和主義は悪であって、敵とのなれ合いと見なされる。
10ー>原ファシズムは大衆エリート主義を標榜する。
11ー>原ファシズムは死(英雄)にあこがれ、死に急ぐ。
12ー>原ファシズムはマチズモの起源、英雄視は武器と戯れる。
13ー>原ファシズムは質的ポピュリスムに根ざしたもの。
個人は個人としての権利を持たない。
人間存在は量としては共通意志を持つことなどありえないのだが、原ファシズムは個人的意志を認めない。
14ー>原ファシズムは虚構を話す。

2017年6月12日月曜日

バウドリーノ ウンベルト・エーコ

自分は嘘つきだ、という男が話す12世紀の歴史物語。
歴史は現実なのか、見たものなのか、人の話しなのか。

聴き手は十字軍の巡礼者に蹂躙された都市、コンスタンチノープルの高官ニキタウス。
語り手はイタリア中部、ロンバルデイアに生まれたバウドリーノ。

彼は13歳で街を出て、ケルン、パリで学び、コンスタンチノープルからアルメニア、キリキアへ、そして聖地エルサレムではなく、今では空爆が絶えることのない砂漠を越える。

12人の旅の仲間とともにたどり着いたのは不可思議な言葉と体型を持つキリスト教者の地でもあり、一角獣とヒュパティアの住まう古代ギリシャ。

しかし、バウドリーノの旅は終わらない。
ロック鳥に救われ一度はコンスタンチノープルに戻るが、今度はたったひとりヒュパティアの地を目指す。

信じるべきは、歴史かもしれない!

学ぶべきは、宗教かもしれない!

夢みるものは、旅かもしれない!

2017年6月11日日曜日

ばらの騎士

ロバート・カーセン演出の「ばらの騎士」を東劇で観た。
この5月のメトロポリタン劇場の映画版。
彼が演出するオペラは物語の解釈や舞台構成に独特の工夫があり、いつも興味深い。
かって見たバスティーユ版 「ホフマン物語」の面白さはブログにアップした。
(http://sadohara.blogspot.jp/2013/07/blog-post.html)

今回メトで見たばらの騎士は最初、ザルツブルグで公開されたという。
物語を第一次大戦前のウィーンに設定し評判となり、昨年末はロンドンのロイヤルオペラハウス、そして今年、ニューヨークのメトロポリタンで上演された。
歌手は劇場ごとに異なるが、全て人気のある公演となっている。
カーセン演出のばらの騎士は物語を第一次大戦前に置き換えたところが大きなポイントで、このオペラはまさにその時代、1911年にリヒャルト・シュトラウスによって作曲されている。
つまり物語だけではなく、カーセンはこのオペラが生み出された時代そのものも演出上のテーマとしているのだ。

18世紀の頭の禿げた田舎貴族とウイーンの成り上がり市民の若き美しい娘の結婚を取り持つ「銀のばら」を元帥夫人が恋人、オクタヴィアンに持たせるオペラは(http://sadohara.blogspot.jp/2010/02/blog-post_70.html)
今日のカーセン版は20世紀の大戦前の軍人と武器商人の娘に置き換えられたドタバタ喜劇。
オペラは19世紀市民のエンターテイメントであることは間違いないが、その物語を20世紀の始めに置き換えたことにより、カーセンはこのオペラにある種の真実性を帯びさせたと言って良いのかもしれない。
シュトラウスがこのオペラの生み出した第一次大戦前はまさに近代の始まり、それは芸術の崩壊、いや「文明の没落=ショッペングラー」、あるいは「中心の喪失=ゼードルマイヤー」が書かれたようにヨーロッパ文明の危機が騒がれていた時代だ。
シュトラウス自身もワーグナー的芸術オペラを作るが、モーツァルトやロッシーニの持つ喜劇的エンターテイメント・オペラにも関心を持っていたのだ。

世紀末は建築デザインにとっても大きな過渡期だが、音楽の世界では、 時代を超える新しい音楽を作ろうとする作曲家はシェーンベルクを筆頭とし、調性原理を放棄し、三和音によって秩序づけられた音楽とは異なる、複雑で独創的な音楽を追求し始めている。

振り返れば、18世紀以前、音楽は娯楽であり芸術。音楽は教会や宮廷にあり上流階級の独占物、 民衆が自然発生的に関わる民族音楽とは異なっていた。
さらに、フランス革命以降、宮廷オペラは勃興した中産階級に急速に普及していく。
娘にピアノを習わせることが新興上級市民たちのステータス・シンボルともなっていく時代だ。
そして、19世紀には様々な音楽が大量に作られ、サロン音楽や沢山のオペラ、いわゆるクラシックだけでなく、現在のポピュラー音楽の原型も生み出される。
ロッシーニのオペラに敵意を示したワーグナー、彼のオペラ(楽劇)は通俗性を嫌い難解なエリート性を強調する。しかし、全ての市民がみなワーグナーに傾倒したわけでもなければ、ベルリオーズやブラームス、シューマンだけが芸術家であったわけではない。
サロメ、エレクトラ、ばらの騎士を作曲したシュトラウス、彼はまさにオペラが娯楽か芸術かばかりでなく、新たな音楽を如何に生み出すかに立たされていたのだ。

ワーグナーの楽劇に示される、歌とオーケストラが連続し交響楽風に奏でられるオペラの隆盛はモーツァルトやロッシーニ、ヴェルディが作曲したアリア、レスタティーボで繰り返される絵画的オペラとは大きく異なる。
加えて、リストの交響詩やシェーンベルクの無調音楽も作られ始めた1911年、オペラや建築デザインは20世紀に何が可能かを問われていた。

この曲はサロメ、エレクトラから数年の間をおき、満を持し作曲されている。
前二作はどちらかと言うとワーグナー風であり娯楽性は乏しい。
シュトラウスはどうしても、芸術であり娯楽であるオペラを生み出さなければならなかった。
前作と同じ脚本家ホフマンスタールと喧々囂々のすえ、ばらの騎士は完成する。そして当時の新聞には、このオペラは前作を超え、観劇のために専用列車が仕立てられるほどの大評判になったと書かれている。

カーセンの演出はこの辺りの状況を丸ごとばらの騎士の演出に込めている。その方法は先に、このオペラにある種の真実性をおびさせたと書いたが、その真実性とは、オペラはいつも額縁の中の虚構であるところに作られてきた、そして、シュトラウスはその方法を舞台形式だけでなく、作曲にも取り入れていた。
ばらの騎士は前二作とは異なり、幕ごとに大きく音楽的色彩を変えて作曲されたところが、シュトラウスの成功の理由だが、カーセンはその音楽的色彩による枠組みに拘り、わかりやすく演出した。

ばらの騎士は幕が開く始まり部分と、三幕の終わりに再登場する元帥夫人の場面の音楽だけが連続した交響詩風の構成として作曲されている。
それがまさに音楽による額縁であり、その額縁の中はモーツァルトのフィガロ風の喜劇、田舎貴族と新興商人のドタバタ仮面劇として作られている。
つまり、カーセンはシュトラウスとホフマンスタールが呻吟した、枠の内外という、新しいオペラの事実をものの見事に強調し、このオペラの演出したのだ。

三幕のドタバタの真っ只の中に何故、突然、元帥夫人が現れたかはよくわからない。
しかし、登場した彼女はドタバタを終わらせ、オックス男爵に貴族的品位を持ってお帰りなさいと窘める。
さらに、状況が掴めない男爵に女中のマリアンデルは、実はばらの騎士オクタヴィアン、ロフラーノ伯爵であると明かし、「ウィーン風の 仮面劇 ただ それだけのこと」と歌う。
やがて、オックス男爵も得心し、彼も上出来の 仮面劇 と認め、「いまはもう終わり!」と退出する

終幕の元帥夫人とオクタヴィアンとゾフィーの三重奏はいつも美しい。
その歌は伯爵であるオクタヴィアンと商人の娘ゾフィーの恋の歌だが、華やかな元帥夫人の恋の終わりの歌でもある。
あるいは、三重唱はまさに20世紀の始まりの歌。

この公演の主役の男爵、ゾフィーはドタバタの中に時代の狭間をも感じさせる演技と歌唱で感心したが、特に素晴らしく、印象的でありビックリさせられたのは元帥夫人のルネ・フレミングとオクタヴィアン(ロフラーノ伯爵)のエリーナ・ガランチャ。
彼女たちはこのカーセンの「ばら」を、共々の当たり役の終わりの出演と決めていたと幕間に明かした。
芸術の終焉か新しい近代の始まりかの狭間を明快に演出したカーセン・オペラを二人の名歌手は、新たな始まりのための最後のオペラと決めていたのだ。