2017年11月6日月曜日

静かなふたり


スタンダールは「恋愛論」で恋愛を四つに分けたそうだ。
情熱恋愛・趣味恋愛・肉体的恋愛・虚栄恋愛。
彼はマヴィとジョルジュの恋をどの恋愛に分類するだろうか。
趣味恋愛と思いついたが調べてみると、
「パルムの僧院」のファブリスが得意のようだ。
「彼は遊びの恋というか、社交界での自分の評価を賭けたようなゲームのような恋を好んだが、最後は全人生を賭け、情熱恋愛に落ちた」と説明されていた。
「静かなふたり」とは全く違うな。
やはり、この恋は四つの分類ではどこにも入らない。

祖父と孫ほどの年の隔たりはスタンダールも経験済みのことだろう。
そして舞台はパリ。
しかし、「静かなふたり」は19世紀の社交界ではなく21世紀のカルチェ・ラタン。
都市生活に慣れない27歳のマヴィは小さな古書店に居場所を求める。
店主は世間から隠れて生きざるを得ない70歳過ぎのジョルジュ。
孤独なふたりはパリの片隅、崩れ落ちそうな書籍に囲まれ、静かな静かな恋をする。
東京では有り得ないが、パリでは可能な恋愛。
そう、古来から都市の本当の役割は「出逢い」にある。
五つめの恋愛は「都市恋愛」だ。 

2017年11月4日土曜日

紙の上の建築 日本の建築ドローイング1970sー1990s


戦後の荒廃した廃墟にたち、復興に貢献してきた日本の建設産業は経済成長期を迎え、産業として大規模化し、その事業の大半は資本の論理と社会の要請にのみ答えることが使命となる。
 そんな中、大学を卒業する建築家の卵たちは、産業化社会に身を投じるか、近代においても可能な建築による表現の道を選択するか大いに悩んだ。 
思い出してみると、決して、二者択一であったわけではないが、建築設計領域を大人数の安定した組織事務所を選択するか、パトロンもなしに独立独歩で新たな建築の表現の道に身を投じるかは大きな別れ道だったのだ。 
そんな状況を「残像のモダニズム」(2017年9月21日岩波書店)で槇文彦さんは前者を「軍隊的世界」とするならば、後者は「野武士」であったと書かれている。 
そしてポイントは新世代の建築家は地域社会の人々と密に連携したり、改修工事や保存を積極的に引き受ける「民兵」として活躍している、ということだ。 

前書きが長くなったが、見学した「紙の上の建築」は「野武士」としての建築家たちのドローイング集といって良い。 
展示は「紙の上の建築」であり、実際の建築写真でも実物模型でもなく、全てが二次元の平面に描かれた建築コンセプト。 
最近流行している有名建築家の模型や完成パースでもなければコンピューター図面でもないのがこの展示会。 
民兵建築の時代は建築家のつくるカタチやコンセプトより、TVやYouTubeで語る建築家の言葉が重要かもしれないが、建築家ではなく「建築が意味するコンセプト」が描けなければ建築ではない、と言うのが軍隊時代の野武士だった。  

展示室の中央には柱状に四面のビデオ画面、4人の「野武士」がおのおのご自身の作品を「オーラルヒストリー」のかたちで語っておられる。 
その中で原広司さんが最も興味深い。
彼はボクの大学時代、「建築に何が可能か」(学芸書林)を出版され、建築をどう作るか(how to)ではなく、何を作るか(what)をラジカルに語っておられた。 
四面画面はヒストリーであるだけに、みな過去の事ばかりだが、ボクにとっては懐かしさが先にたち、野武士の時代はもはや終わったと感じられた。
 しかし、槇さんが書かれたように現在は民兵の時代ではあるが、建築が消えたわけではない。
 この機会が、若い建築家たちのラジカルなカタチ作りに貢献する展示会であってくれれば良いと思っている。

2017年11月3日金曜日

パターソン


新宿シネマカリテでパターソンを見る。
連休の初日、温かい秋の一日、新宿は大変な人だった。
騒音と雑踏、色とりどりのパッチワークに埋まる新宿に比べ、
映画のなかの街パターソンは人通りもクルマも少なく、寂れている。
ニュージャージーの街パターソンはかってのアメリカを支えてきた工業都市。
しかし、今や、ラストベルトの一つとして置き去りにされ、廃屋も多い地方都市。

映画はかっての工業都市パターソンに住まうパターソン夫妻の日常。
ふたりには子はないが、小さなブルドック・マーヴィンとささやかな生活。
スマホ嫌いの路線バスの運転手パターソンは毎日、小さなノートに言葉を綴る。
仕事を持たないパターソンの妻ローラはシロウトだが、優れたデザイナー。
ファッション・クッキング・インテリアの創作デザインに腕を振るう。

描かれているのは、秋だろう、月曜日の朝から次の月曜日の朝までの日常風景。
朝6時過ぎ、目覚めたパターソンはローラをベッドに残し、ひとり身支度。
椅子の上のマーヴィンとの静かなつましいシリアルの朝食をとる。
前夜ローラが用意したランチボックスを手にし街へ。
朝早く人通りのない街を歩き、バス車庫へ。
路線バスの運転席で詩作のノートを開く。
夕方、家に戻ると、前庭のポストは左に傾いている。
毎日のこと、マーヴィンからパターソンへのお帰りの挨拶。
夕食後、パターソンとマーヴィンはネオン看板の街なかの散歩。
小さなジャズバーのカウンター、店主ドクとのお喋り。
隅のテーブルではエヴェレットとマリーの別れ話。

映画はウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩「パターソン」のようにリズムを刻む。
映画の伏線は全て、この街パターソンが生んだ現代アメリカ最大の詩人にあるようだ。
詩人は抽象的観念ではなく、事物を飾らず現実を言葉に変えた現代詩人と言われる。
映画はパターソンの詩人が「パターソン」という詩集を生み出したことに始まり、
路線バス「パターソン23」のドライバー・パターソンがパターソンを走る、
事実としての「パターソン」の街を映像詩集に換え制作されている。

2017年10月31日火曜日

婚約者の友人


映画の始まりは何処までも静かだ。
ドイツの小さな田舎町、
家々の連なりは春浅いまどろみの中にある。
婚約者フランツを失ったアンナは花束を抱え、
石畳の道を靴音を響かせ墓地に向かう。

モノクロ画面に描かれる世界は第一次世界大戦が集結した1919年。
アンナとフランツの両親が住まう田舎町の外れの墓地に、
フランスの青年アンドリアンが訪ねてくる。
物語はここから始まる、フランス青年とドイツ女性の恋。

アンドリアンが亡くなったフランツの街を訪れると、
街中の人々は息子たちを失った悲しみを憎しみに変え、
彼を悉く阻害する。
しかし、息子たちを失った本当の原因は何処にあったのか。
アンナが婚約者フランツを失うこの戦争の50年前の普仏戦争も、
我々が知るアンナとアンドリアンの恋から20年後の第二次世界大戦も、
どちらもともに戦場には赴かない、
フランスとドイツの大人たちが生み出した戦争に他ならない。
そう、本当の悲劇と憎しみはいつの時代も、
戦争には行くことのない大人たちが生み出したものなのだ。

時が流れ、アンナは返送されきたアンドリアンへの手紙を手にし、
ひとりパリへ赴く。
しかし、彼はもはや行方知れず、
アンドリアンを探してのアンナの旅は続く。
そこで出会うのはフランスの大人たちのドイツ女性アンナへの阻害と憎しみ。

物語はやがて伏線となっていたルーブル美術館のマネの「草上の昼食」とその下に掛かる「自殺」が大きな意味を持つ。
アンナがマネから導き出しもの、
それは「婚約者」と「婚約者の友人」が生きたパリでひとり生き抜くことだった。

2017年10月12日木曜日

「軽蔑」そして「暗殺の森」


軽蔑 
 アダルベルト・リベラのマラパルテ邸、1938年にカプリ島の崖の上に建てられたヴィラ。 
ファシズム政権下マラパルテとリヴェラはこの建築に何を託したか。
 陽光の下、青い海へと駆け上がるこのうつろな大階段を舞台に、1963年にゴダールはブリジット・バルドーを主演に迎えモラビアの小説を映画化した。
 今日はそのデジタルリマスター版を恵比寿ガーデンシネマで観る。  

「神が人間を作ったのではない、人間が神を作ったのだ。」 
「映画は欲望を視覚化したのだ。」 
デジタルリマスター版はディレクターズカット、TV用に2時間弱に編集されている。 
この映画を昔観たものにとっては、大事なシーンがカットされていてやや物足りない。 
ポールは入浴中もアメリカ帽を取ることはない。 
裸の美しいカミュは金髪だが、不似合いなショートカットの黒いウィッグがお好み。 
そして、カミュの赤、ポールの白のタオルケットが強力なメッセージを発する。 

物語の下敷きになる、トロイ戦争の英雄オデッセウスは何故、 イタケ島に帰れなかったのか、いや、帰らなかったのか。
 リヴェラのマナパルト邸の屋上に立つものはポールなのかオデッセウスなのか。 
青い海と空の先にあるものはカミユかペネロパか。 
いや、ゴダールが見るアメリカではないだろうか。 
美しい地中海の島々はリアルでもあり、神話でもあるのだ。

 暗殺の森  
ベルトリッチの1970年の作品。 
周到に計算され描かれた二次平面が静かに動き、イメージとして記憶される、ベルトリッチの映画はそんな印象だ。 
映像が素晴らしい監督は数々あるが、彼の映像はアーティファクトとでも言うのだろうか、作りもの的ではあるが、それが返って忘れがたい強烈なイメージを形成する。

 原作者は前回の「軽蔑」と同じイタリアのモラヴィア、優柔不断な哲学講師マルチェロの話だ。
 少年時代の性的トラウマ(悪友のいじめから救ってくれた青年は同性愛者リノ、マルチェロは正当防衛だが彼を射殺してしまう)が原因ということだが、彼は盲目の友人イタロに誘われるままにナチ党員になり、言われるままに反ナチズムの恩師の暗殺に加担する。
 やがて大戦は末期、人々はファシズム糾弾の狼煙を揚げる中、マルチェロは盲目の友人イタロと共に街を歩き、トラウマの原因となっていた同性愛者リノが死んではいなかったことを知る。 
ファシズムに傾倒させたマルチェロのトラウマは何を意味するのか。
 彼は共に生きるすべての人に対して寡黙な哲学者と見なされてはいるが、いつもいい加減であったのだ。 
そして、ナチに荷担し恩師を暗殺したことも曖昧視し、ファシズム糾弾者の渦の中に、今度は盲目の友人イタロを投げ込み、彼こそ糾弾すべきナチだと叫び生き残る。  

原作者モラヴィアの最初の作品「無関心な人々」は1929年、「消えた野心」は1935年、ムッソリーニ政権に禁書扱いされたこともあるが、1951年に映画「暗殺の森」の原作となる「孤独な青年」、そして1954年「軽蔑」1960年「倦怠」と終始、孤独で優柔不断、カッコばかりでいい加減な男ばかりの小説を書き続けている。 
そんなモラヴィアの小説世界が今年、30年前の映画化だが、連続して東京で上映されることは意味深いことかもしれない。 
何故なら、モラヴィアの小説に登場する男たちは、今の我々のことではないかと思えてならないからだ。

2017年9月15日金曜日

「ニコトコ島」と「石と歌とペタ」

「筋書きのないドラマ」はよくあるが、「目的がないドラマ」はお目にかかったことがない。
どうやらこの映画は「目的がない」のが目的のようだ。
「ニコトコ島」と「石と歌とペタ」という2本の映画を同時に見た。
多少雰囲気は違うが、同じような構成、音と映像、どちらも「目的がない」のが目的。
若い男性制作者たちがカメラを回し、画面に登場する。
情景は海を走る船甲板・鳥が鳴く針葉樹林・奇景な岩海岸・車内から見る雨中の道路・・・・。
地・水・火・風・空なら五輪塔だがここでは岩・水・林・風・空というところがモチーフのようだ。
五輪塔などと書いたのはこの映画「目的」が無いだけに哲学的、デストピアであり、ユートピア。
しかし、見終わって見ると、今の時代はこんなものかなと思ってしまう。
目的・筋書き・ドラマ・カタチがない。
そんなユートピアは高齢者のものだろう。
しかし、この映画は若者たち生み出すフィクションであるとしたらデストピアが相応しい。
目的はモノのことではなく、期待、あるいはコトのことだから。
若い制作者、大力拓哉、三浦崇志、松田圭輔が作るカタチに期待する。

2017年9月6日水曜日

ブランカとギター弾き


「ミョノンと竪琴弾き」をイメージさせる、悲しいが、爽やかな映画。小説や絵画ではなく、映画のみが表現できる、さしたるドラマもなく、言葉少ないリアルな世界が描かれている。フィリピンのバラック街を舞台とする、ドキュメンタリー作家によるファンタジー。

クルマも少なく、Tシャツと短パンの人々が行き交う、淡い土色に煙った雑踏。安物のアクセサリーとカラフルな晴れ着で着飾ったゲイや娼婦たちとビニールシート張りのテント屋根がその水彩画に彩りを添える。稼ぎ場である広場には屋台とゴミと野宿のベンチ、遊び場である水辺は涼やかだが水は汚れている。どの場面も、そこには一切の嘘も無駄もなく、親もない、家もない、子どもたちの現実がもの悲しい詩篇として描かれている。