2017年9月15日金曜日

「ニコトコ島」と「石と歌とペタ」

「筋書きのないドラマ」はよくあるが、「目的がないドラマ」はお目にかかったことがない。
どうやらこの映画は「目的がない」のが目的のようだ。
「ニコトコ島」と「石と歌とペタ」という2本の映画を同時に見た。
多少雰囲気は違うが、同じような構成、音と映像、どちらも「目的がない」のが目的。
若い男性制作者たちがカメラを回し、画面に登場する。
情景は海を走る船甲板・鳥が鳴く針葉樹林・奇景な岩海岸・車内から見る雨中の道路・・・・。
地・水・火・風・空なら五輪塔だがここでは岩・水・林・風・空というところがモチーフのようだ。
五輪塔などと書いたのはこの映画「目的」が無いだけに哲学的、デストピアであり、ユートピア。
しかし、見終わって見ると、今の時代はこんなものかなと思ってしまう。
目的・筋書き・ドラマ・カタチがない。
そんなユートピアは高齢者のものだろう。
しかし、この映画は若者たち生み出すフィクションであるとしたらデストピアが相応しい。
目的はモノのことではなく、期待、あるいはコトのことだから。
若い制作者、大力拓哉、三浦崇志、松田圭輔が作るカタチに期待する。

2017年9月6日水曜日

ブランカとギター弾き


「ミョノンと竪琴弾き」をイメージさせる、悲しいが、爽やかな映画。小説や絵画ではなく、映画のみが表現できる、さしたるドラマもなく、言葉少ないリアルな世界が描かれている。フィリピンのバラック街を舞台とする、ドキュメンタリー作家によるファンタジー。

クルマも少なく、Tシャツと短パンの人々が行き交う、淡い土色に煙った雑踏。安物のアクセサリーとカラフルな晴れ着で着飾ったゲイや娼婦たちとビニールシート張りのテント屋根がその水彩画に彩りを添える。稼ぎ場である広場には屋台とゴミと野宿のベンチ、遊び場である水辺は涼やかだが水は汚れている。どの場面も、そこには一切の嘘も無駄もなく、親もない、家もない、子どもたちの現実がもの悲しい詩篇として描かれている。

2017年8月22日火曜日

ワーグナーの生誕100年、メトの「パルジファル」

週末に今年のバイロイト、ニュルンベルグがプレミアム放送され、面白かったので、今日はメトのワーグナーを楽しむことにし、東劇の「パルジファル」に行く。
ニューヨークのメトロポリタン劇場での2013年3月の作品。東劇ではその4月、映画版がすぐに上映され、今回はそのアンコールということになる。
ワーグナーは大人気、平日の午後だが客席はほぼ満席、生誕100年で評判になっていた演目、当然かもしれない。しかし、ボクには苦手なワーグナー、YouTubeにもアップされていたのだが、今日まで全く見過ごしていた。

内容は神聖祝祭劇と呼ばれるワーグナー最後の大曲、延々と5時間を超えるが地味なオペラだ。キリストを刺した聖槍とその時の血を受けた聖杯を守る中世騎士団の王アンフォルタス。彼は魔法使いクリングゾルに騙され、聖槍を奪われ大きな傷をおい、瀕死の状態にある。
その槍を愚者パルジファルが取り戻し、王と騎士団を救済するという物語。様々な歴史神話を題材にしてきたワーグナーだが、この大曲はキリスト教の持つ「愛と救済」を真正面から取り上げ、人間の愚かさ、弱さ、清さ、そして苦難を克服する忍耐と栄光を象徴と引用によって歌い続けるという、まさに神聖な人間訓話。

制作された舞台は映画版を意図した細かい構成。やや斜めに設えられている床面だが、上方からのカメラ目線ではないと気がつきにくい、水の流れや小さな草花が物語進行上の微妙な演出効果を発揮している。
その演出はメトは初めてのフランソワ・ジラール。この楽劇なら当然かもしれないが、やや堅苦しい教会の神父か牧師の訓話劇のような趣から、ワーグナーという19世紀の男の時代の作品をこよなく愛し、忠実にオペラにした演出家、という印象を持った。
上演された2013年はまさにワーグナー生誕100年、適材適所の上演と言える。
指揮はダニエレ・ガッティ、メトで聴くのは初めてだが、慎ましいアンサンブルはボクの好み。正直なところ、この楽劇の終幕では朗々とした凱旋のメロディーと荘厳な鐘の音の連なりを期待したが、今日の演奏は何処までも慎ましく、神聖に「愛と救済」を支えている。

二幕のクリングゾル館での魔性の女クンドリとパルジファルの絡まりは圧巻だ。パルジファルはあらゆる誘惑や欲望から立ち戻り、グリンゾルがかってアンフォルタスから奪った聖槍を取り戻す場面。今日のパルジファルはヨナス・カウマン、クンドリはカタリーナ・ダライマン。彼ら二人のこの幕の迫真的歌唱は、延々と5時間を超える楽劇の最高のクライマックスを生み出していた。

2017年7月26日水曜日

モダン・デザインの展開 ニコラウス・ペヴスナー

ヘーゲルの歴史主義あるいは弁証法的発展主義を下支えとしてきたモダニズムはミレニアルの建築をみる限り完全に破綻してしまったようだ。

そして、今、19世紀の建築家、著述家が再び注目されている。

記憶、出来事にオブセッションするロッシの建築からベンヤミンのパサージュ論が広く読まれているが、ベンヤミンはフロイトの精神分析やその後のシュールレアリスムとの関わりが強く、近代の理解には欠かせないのだろうが、ここからは前へは進めない。

しかし、建築もまた想像力が生み出す世界なら、今一度、世紀末に立ち戻ることは意味があろうと思い、ここのところ古い本の書棚を漁っている。

そして、引っ張り出したのは、ギーディオンでもバーンハムでもなくペヴスナーだった。

彼の二冊を読みながら実感したことは、建築は思想史にも美術史にも関わらない、建築の有り様にある、ということだ。

そして、彼が感情の魔術師と呼んだラスキンの言葉を載せていた。

建築の質は人間の質を示すもの、「おろかな者はおろかに、かしこい者は感受性豊かに、高潔な者は美しく、そして罪ぶかい者はいやしく、建てる。」

建築とは建物のうえに刻み込まれた「それ以外には何の必要もない、ある種の尊厳あるいは美の性格なのだ」

「われわれが建築とよぶものは、高貴なかたちをしたそれらを伴い、それらを適切な場所に配したものだけなのだ。高貴な芸術の力をもたないすべての建築は・・・単なる建物にすぎない。」

ペヴスナーは「ラスキンとヴィオレ・ル・デュク」の締めのページに書いている。
「19世紀絵画においては、進歩派と伝統派、受け入れらざる者と受け入れられた者との間に断絶があったことはよく知られている。けれど建築においては進歩派や新派はなかった。というのも、受け入れらざる建築というのは、存在しようがないからだ。・・・・・建築家は依頼主を持たなかったら、建築は存在しない。」
当然の事柄だが、ここに関わるペヴスナーもまた、建築は、美術とは全く別事とは考えられなかった。つまり、近代建築は決して、貴族的なルネサンス建築から離れることはなかったのだ。
やはり再び、アルベルティに戻る必要がある。
彼は同時代のマキャベリに似て、全く別種の建築を模索していたのだから。

2017年7月25日火曜日

プラハの墓地 ウンベルト・エーコ


偽文書づくりのシモニーニ(ユダヤ人嫌いの偽造遺言書公証人)とダッラ・ピッコラ神父(イエズス会)は同一人物なのか別人なのか。 
偽書と陰謀は歴史的事実の中に周到に紛れ混み、物語全体は巧みに重層化・多層化された19世紀を舞台にした壮大なサスペンス。
 かってル・カレのエスピオナージに膨大な読書時間を占領されたが、エーコはそれを凌駕する、画期的な知的エンターテイメントを描いてくれた。 
著者であるウンベルト・エーコはこの物語を2010年に発表している。  

ヴィクトル・ユーゴもジュリエット・ラメッシーヌ(後のアダン夫人)のサロンに登場する。
 もう高齢の彼は古代ローマ風の白衣を身にまとい、今や自分自身の記念碑と化している。 
19世紀末が現代の始まりとするならば、それはユダヤ人・フリーメイスン・イエズス会のおぞまし陰謀合戦により生み出されたと言えるようだ。 

本書でエーコが挑んだのは、いかにフィクションが危険なものとして在ったのかをフィクションの形式で書くという試みでもあった。 
それはあるはずのものだから、もしこの世に存在しないのであれば、あるようにしなければならない。 
そうした理念によって修正される歴史、そして成立してしまった偽の歴史を否定することの困難さを、まざまざと読者に見せつけてくれる。 

プラハのラビたちは、人文主義、フランス革命、アメリカ独立戦争が、キリスト教原理と諸国王の尊厳を損ない、ユダヤ人の世界征服を準備したことを指摘した。 
もちろんその計画実現のために、ユダヤ人は立派な看板すなわちフリーメイソンを作り上げなければならなかった。しかし!

あるがままの世界にあって、あるはずの世界を視覚化しなければならない近現代の建築家、その苦難は歴史的発展主義の中に消滅していく。

2017年7月23日日曜日

ユーパリノス=建築はだまり、語り、歌う



「建築はだまり、語り、歌う」はヴァレリーの「ユーパリノス」に書かれている言葉です。冥府にいるソクラテスはパイドロスとの対話の中で建築家ユーパリノスのつぎの言葉を聞き、「再び生きるなら建築家として生きたかった」と語っている。
「私の神殿は愛する対象が人を動かすように人を動かさねばならない」。
「町のむらがる建物の中で、あるものは黙し、あるものは語り、あるものは歌うということに気づきはしなかったか?」
「精神と肉体が見事に調和したときには、単に作品が出来上がるだけではなく私自身の建築が出来上がる」。
感覚的世界、形や外界という物質的世界、あるいは地上的美の世界を必要としなかったソクラテスにとってユーパリノスの言葉は大いなる驚きだった。
そこにはソクラテス自身が果たせなかった「観念と行為の応答」を成し得た人がいたからである。
「歌う建築」はヴァレリーが冥府にいる哲学者ソクラテスに生前成すべきことを、「ユーパリノス」を通じて伝えた。
そして、ソクラテスは言う「アンチ・ソクラテス、私の中には、周囲の事情からとうものにならなかった一人の建築家がいたのだ」と。

講義録をまとめるに当たっては「ユーパリノス」のこの言葉を表題にしたいと考えていた。誇大妄想、アナクロニックな試みではあるが、「建築の中の意味の世界」の散策、「建築を科学や芸術とは異なる視点からの面白さ」として講義してみたいと考えていたからだ。
優れた建築は、見る人に感覚的喜びだけではなく、想像的な楽しみを与えてくれる。
建築家の生み出す形態は動的役割や美しさを表現するばかりか、形態に付された表象は建築の体験者に、物語の世界に入り込むような楽しさを与えてくれる。

建築に物語のような意味を与えることはヨーロッパでは当たり前のことだった。
しかし、現在では建築は黙して語らない。
ヴァレリーが「ユーパリノス」を書いたのは1921年、第一次世界大戦直後のこと。
それはまさに西欧の精神の崩壊の時、建築は歌うどころか、科学と芸術の乖離のなか、建築はその集団的意味を失い、一言も発することがなくなった。
ヴァレリーは「ユーパリノス」を大図録「建築」の序文として書いている。
彼は「建築的調和は音楽的調和、建築は精神と肉体の調和から生み出されるもの」とみなし「建築はだまり、語り、歌う」と書いたのだ。

2017年7月21日金曜日

ロマン主義時代の音楽と建築


「ドラマとしてのオペラ」の中でカーマンは重要な指摘をしている。
 「オペラブッファが持つ音楽の連続性が劇的音楽の道を開いた。」
 18世紀の器楽曲が展開したソナタ形式を支えたのは調性だ。 
バロックの説明的展開に対し調性は機能的な展開を切り開き、葛藤・経過・興奮、絶え間ない変化を可能にしている。
 結果、器楽音楽はブッファを発展させ劇的連続性を生み出していく、とカーマンは考えている。 

18世紀まで、形式性の展開においては似たような方法をとってきた音楽と建築がその後、決定的に異なるのはこの連続性にあると考えられる。 
宗教曲からルネサンスそしてバロックへ、音楽は歌曲であり、オペラ誕生以降、その世界は音による絵画世界(視覚世界)だ。
従って、音楽と建築はその表現方法には大きな違いがない。
ロマン派以降、音楽はソナタ形式で調えられた、時間的に連続する器楽世界。
視覚的形式のみで展開せざるを得ない建築は不連続な行間をどう繋ぐかが問題となる。 
しかし、その方法が仮に機能主義・有用主義という倫理だけであったとするなら、近代建築は「失敗したロマン主義」ということになる。

 近代建築を批判し言語論を応用した建築もこの行間を繋ぐ方法とはならずポストモダニズム以降姿を消した。 しかし、まだ方法はあるはずだ。
ロースはラウムプラン、ロッシは記憶・連想をその糸口とし、シザは?スティーブンホールは? 建築のロマン主義を検討する意味 がここにある。 hiroyuki kato/iPhone