(via YouTube by Händel "Lascia la Spina", Cecilia Bartoli)
「イタリア紀行」を書いたゲーテ、彼は北イタリアの小都市ウ゛ィチェンチャに着くと早々にテアトロ・オリンピコを訪れている。
「数時間まえに当地に到着し、もう、町を一わたり駆けまわって、パラディオ作のオリンピコ劇場や建物をみてきた。」(イタリア紀行・岩波文庫)
パラディオ贔屓のゲーテの早る気持ちが伝わって来る。テアトロ・オリンピコは神人同形的な世界像(古代ローマ劇場)と古代の理想都市のイメージを合わせ持つ、興味深い劇場、ヨーロッパ最初の独立した近代劇場。
ゲーテが訪れたのが誕生後200年、それからさらに200年、すでに400年あまりを経過したこの劇場、幸い、火災に遭遇することもなく、丹念に保守され、1998年6月には冒頭のYouTube映像、チェチリア・バルトリの演奏会が開かれた。
テアトロ・オリンピコを作ったのはヴェネトの小都市ヴィチェンツァの文化人サークル<アカデミア・オリンピカ>。ルネサンスの黄昏期、フェラーラやマントヴァという北イタリア小都市の宮廷では盛んにラテン喜劇の上演が行われた。
当時の演劇は娯楽ということより、真の宮廷人に塞わしい教養とライフスタイルを身につける格好な手段と考えられ、ルネサンス劇場は生活上の規範とみなされた古典文化に直接触れる機会であり、紳士の教養とされる会話文体を学びとる場所でもあったのです。
しかし、宮廷では劇場と言っても大きなサロンや中庭が上演のための格好な場であり、独立した建築である劇場はまだ必要とされていない。
独立した劇場を必要としたのは宮廷ではなく、共和国ヴェネツィアと同様、君主を持たない貴族たち。宮廷人に劣らぬ教養とヒューマニズムを身につけた都市市民、<アカデミア・オリンピカ>という文化サークルを構成したヴィチェンツァの人々です。アッカデミアの人々は盛んにラテン喜劇の上演を行い、その為の劇場として、ヨーロッパで始めて近代劇場を建設した。
テアトロ・オリンピコを作ったアッカデミア・オリンピカは劇場と同様、現在も尚、存続している。「イタリア紀行」にはヴィチェンツァを訪れたばかりの(1786年)ゲーテが<アカデミア・オリンピカ>に招かれ、「創作と模倣、美術上どちらが多くの利益をもたらしたか」という議論に参加した様子が書かれている。
そして、既に触れた、この劇場でのチェチーリア・バルトリ、そのCDは日本でも発売されているが、YouTubeにアップされていたので、聴いてみたくなりこのブログを書いた。
コロラトゥーラの歌姫はゲーテを越え、パラディオを越え、澄みきった北イタリアの時空をその歌声に乗せ、私達の部屋へと運んでくれる。
1585年、テアトロ・オリンピコの柿落としの演目はソポクレースの「オイディープス」であったことが知られている。
2400年前のギリシャ悲劇の名作、建築家パラディオはこの時はすでに亡きひとであったのだが、ヴィチェンチャの市民たちは、オイディープスの「意思と運命」と、この劇場をどんな想いで重ね合わせたか。
ルネサンス理想都市あるいは古代ローマの広場と見立てられたこの劇場の設えは「人間が人間として生きるべき本来の世界」を表している。そんな世界であるからこそ、オイディープスはその過酷な運命を、全てをあるがままに受け入れて行く、人間としての生き様を一つの悲劇として、あるいは美学として存分に示し得たのではないだろうか。
最初の公演の劇中音楽はヴェネツィアのサン・マルコ寺院の第一オルガニストのアンドレア・ガブリエリとなっている。残念ながら音楽そのものの記録は見つからないが、ガブリエリの名は音楽史では重要。
フイレンツエ中心のルネサンス美術は、16世紀以降ヴェネツイアに移る。パラディオをはじめ、サンソビーノ、サンミッケーリというローマの主要な建築家は皆ヴェネツィアで活躍する。
ジョルジョーネ、ティッツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ、彼らは皆ヴェネツィアで活躍した画家たちだ。
音楽もまたフランドルの音楽家によるフイレンツエからイタリア人音楽家中心のヴェネツィアに移りつつあった。そして、北のフランドルやフランスの人々による複雑なポリフォニーに変わり、イタリア人によるホモフォニー、朗々とした和声の響きが重視され始めるようになる。
その中心がサン・マルコ寺院の音楽、そして2人のオルガニスト、ガブリエリ。アンドレア・ガブリエリはヴェネツィア発の新しい音楽の起点となる人、そんな彼がヨーロッパ近代劇場の幕開けの音楽を作曲した。
テアトロ・オリンピコは音楽も美術も建築も決して離れることなく一体であったことを、今に生きるその姿から、いつまでも私たちに教え続けているのです。