2014年9月30日火曜日

オルフェオの終焉、以降

このブログCommediaでは7年前、「三つのオルフェオ」の最終項に「オルフェオの終焉」をアップしている。モンテヴェルディのオルフェオからグルックのオルフェオまでの150年間はまさに美術史に言うバロック時代。その終焉は「ヨーロッパの音楽と建築」の大きな変曲点を意味していた。
Commediaの最近のテーマは近・現代の音楽と建築の変容。「オルフェオの終焉」はまさに現代の我々の時代の始まりと言えるようだ。18世紀以降の市民社会は旧世界のコスモロジーの崩壊とともに、音楽と建築は「理想都市とアルカディア」に変わる均質で無味乾燥な「空間」の中に、新たな世界を描きださなければならなくなった。
そして、今、「作品的世界」からミメーシスが消え、無調音楽がセリー化していくなか、それはまさに「オルフェオの終焉」に続く「空間の喪失」を意味している。20世紀初頭、シェーンベルクの音楽とロースの建築だけが鋭く見抜いていた現代の音楽と建築の世界。そこにはその後の理論・抽象では決して届くことのなかった、創作者としてのメッセージ(意味)を支えるミメーシス(形=空間)がある。たびたび触れている事柄だが、優れた音楽と建築には「目利き」である人によって生み出される「批評」があり「作品」があるからだ。
同じテーマをイーフー・トゥアンは「個人主義空間の誕生」に書いている。
その内容は「劇場」をキーワードとした、ヨーロッパの空間の変容にある。あるいは西洋における個人主義の発生と空間の分節化と重なり合い。アナクロニックにかっての共同体に依存することなく、何を新たに「作品化」するか。かれは最終頁で次のように書いている。
「伝統的な共同体では、客観的な価値が昔のまま残っている。物事や人々の活動の意味は明白である。意味はひとつの観点でも、個人的な情熱を傾けた結果でもないのだ。人はある役割を受け持つ。なぜならそれはそこにあるからである。そして、気まぐれなものではない、単に自明と思われる意見を述べるのだ。逆説的ではあるが、必要性は生活にやすらぎを与える。必要性は、単に心によって認識された事実というだけではなく、心とからだが十分に感じている重荷でもあり、それが世界の客観性を支えているのである。」(個人主義空間の誕生/p279)

2014年9月21日日曜日

ヒュプネロトマキア・ポリフィリ 

15世紀イタリアの奇書「ヒュプネロトマキア・ポリフィリ」については数年前、Quovadisで取り上げたことがある。
当時、「ダヴィンチ・コード」がブームだったが、ボクは小説なら同時期出版された「フランチェスコの暗号」のほうがはるかに面白いと言いたかったからだ。

しかし「ヒュプネロトマキア」は「暗号」の一部であって、「フランチェスコの暗号」でもその周辺情報しか触れていない。
ボク自身は奇書そのものにも興味が惹かれ、その後調べても見たのだが、全く情報もなくお手上げ、すべて????で終わっていた。

ヴェネツィア建築大学ジョルジョ・アガンベン教授の「イタリア的カテゴリー」の中に「言語の夢」という章がある。偶々見つけたことだが、ここになんと「ヒュプネロトマキア」について30ページに渡って論述がなされていた。

「イタリア的カテゴリー」とは何かと言えば、「詩は何故必要か」という問いかけ、ポイエーシス(制作すること)とプラクシス(実践すること)の関係を問うことで「人間」の中味に言及しようとしている。
「人間」についてそれほど自覚的ではない我々にとっては「中味のない人間」を問うことは意味のないことかもしれないが、「イタリア的カテゴリー」はイタリアをテーマとしたのではなく古代から現代にいたる「人間の中味」「詩学に於ける言語と言葉」が問題となっている。

どうやら「ヒュプネロトマキア」はラテン語の幹に生きた俗語(母語としてのイタリア語)を接木した二重言語主義がテーマのようだ。
この奇書はルネサンス・イタリアの知的遊戯と言ってしまえばそれまでだが、アガンベン教授は「言語の夢」の中でこんな解説をしている。

この物語のポリフィロとポリアはダンテとベアトリーチェ、あるいはポリアはラテン語、ポリフィロは俗語に置き換えられる。
15世紀イタリアは都市や家族どころか人間にとって最も基本的な言語そのものの危機、知識人にとっては俗語も絶え間ない死にさらされていた。
そして「ヒュプネロトマキア」は14世紀のダンテの詩における諸テーマに類似させ作られている。
詩における愛の経験は生の出来事に対する言葉の根源的絶対性、生きられたものに対する詩作されたものの絶対性に支えられている。
しかし、今やその関係は転倒。
そんな詩作上の危機感から「ヒュプネロトマキア」がつくられた。
ということのようだ。

考えてみればボクの知るダンテ、ペトラルカ、アルベルティ、後年はラテン語だが初作はみな俗語、現在に言うフィレンツェ語が中心となるイタリア語だった。
「神曲」はイタリア語で書かれているからこそ、現代イタリアで小中高校と勉学中の全員が学ばなければならない教科書となっている。
しかし、ボクはラテン語は古代からのヨーロッパ公用語であるから、普遍的な論を立てる時の必要上の言語とかってに思い込んでいたのだが、それは余りにも浅はか、まさに人間の中味が全く理解できていないようだ。
ダンテが組み立てた清新体派の抒情詩の意味を理解しなければ、ボクは永遠に転倒に転倒を繰り返さざるを得ないかもしれない。

先の「言語の夢」はさておき「イタリア的カテゴリー」にもうすこし留まっていることにした。
序文に戻ると70年代にアガンベンはイタロ・カルヴィーノとクラウディオ・ルガーフィオーレとの三人で雑誌の発行を計画していたと言う。
目的はイタリア文化のカテゴリー的構造を究明しようとするもの。
発刊にはいたらなかったそうだが、この時ルガーフィオーレは「建築/優美」という対概念を提示していたと言う。
つまり、数学的かつ建築的な秩序によっての支配と移ろいゆくものとしての美の知覚。
このカテゴリーこそ、ボクの関心があるところ。
検索したが、残念ながらまだルガーフィオーレの「建築/優美」は見つからない。
しかし、松岡正剛がアガンティを解説する記事を千夜千冊(2009年10月14日)に書いていたのを思い出した。
久しぶりに読んでみて、そうか、やっぱりこの辺りだったんだ、ボクの関心。
その後、前に進むことは出来なかったが、イタリアに関わってみようという気持ちだけは今も変わらない。

2014年9月5日金曜日

幻影の書 ポール・オースター

名作映画「ルル・オン・ザ・ブリッジ」の監督であり、脚本家、そして現代アメリカ最高の小説家ポール・オースターの「幻影の書」を先週末、図書館から借り出し、ナイトキャップ代わりナイトブックとして楽しんだ。

アメリカの映画と小説はTVやネット、新聞以上に21世紀を最もポピュラーに表現する媒体といって良いのではないだろうか。
映画と小説どちらにも秀でているオースターは、こともあろうに今度はこの「幻影の書」によって、まさに映画と小説による「20世紀の鎮魂歌」を生み出した。

すべてが真実、すべてがあり得ない話。そして、すべてが消えさる壮大な虚構あるいは幻影。「わたしが月を見なかったなら、月はそこにはなかったのだ。」
やはり、彼は面白い、明日はまたオースター漁りだ。

この書は読みやすいから蛇足だが、若干内容に触れると、忽然と姿を消した無声映画時代の俳優の話。そして映画づくりでも良くあるように、オースターはこの物語の中に、「ガラスの街」のピーターや「リヴァイアサン」のサックスを登場させている。つまりフィクションの中に既に知られているフィクションを重ね合わせることでオースターは通俗的ではあるが、ある種の現代の世界観を描き出している。

日本の私小説のような私とアナタの物語ではなく、どこまでも彼(三人称の普遍的人間)を描こうとする姿勢。このスタイルこそ、エンターテイメントではあっても芸術的と呼べる古来からの方法と言って良いのではないだろうか。

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