2013年12月24日火曜日

正弦曲線 堀江敏幸

「いまだ出会わぬ出会い、まだ見ぬ出会い、この構図はまさに本との出会いそのものではないだろうか」と書かれた堀江敏幸の「恋の領域」。何年も前に出版され、一度も読むことなく自宅の書棚に置かれ、そのまま忘れさられていた「正弦曲線」がたまたま文庫になり、昨日、駅前の書店で再度購入し、気が付かず読み始めた。そして、「まだ見ぬ出会い」に出会ったようだ。彼の本は本当に素晴らしい。 「正弦曲線」も例によって小説ではない、エッセーだろうか、いや「散文」だ。 しかし、どの掌編も深い、優しい、美しい、静かだ。 堀江敏幸に恋をしているわけではない、「本」に恋をしているのだ。 Google Keepから共有

2013年12月11日水曜日

レオ・ヌッチの「シモン・ボッカネグラ」

今日のyoutubeからのおすすめはシモン・ボッカネグラだった、 大好きな曲だ。
この演目ではいつもはフェイエスコ役を歌う Leo Nucci が今日のシモン、 例によって安定した格調高いバリトンだ。 フェイエスコ役はまだ若いが堂々としたバス歌声Roberto Scandiuzzi 、 この柔らかいバスは貴重だ。
若いアメーリア役のTamar Iveriも初めて聴く。 名前からはイタリア人ではないのだろうか、 しかし、もうたくさんのファンがついていそうだ。
アドルノ役の Francesco Meli はボクも既に知る名テナー、 今日のパルマは2010年、いまや大劇場で引っ張りだこだろう。
このオペラではシモンがラストにマリアと呼び掛ける、 その声はいつも悲痛、ついぐぐぐと来てしまう。

今日の関心は舞台美術にあった。 最近よく見るイタリア・オペラの舞台背景はアルド・ロッシの建築を強くイメージさせるものが多い。
最近のやや抽象化して舞台背景を構成する舞台美術では、 ロッシの描く都市イメージがイタリア人にはピッタリなのかもしれない。
ロッシの建築はイタリア人にとっては、 予想以上にポピュラリティが高いと言えるようだ。 その都市イメージは観光客の多い大都市のローマ、ミラノ、フィレンツェとは異なる、 イタリア特有の歴史的中小都市のイメージ。
テアトロ・レッジョは小都市パルマのオペラ劇場、 都市もオペラも今日のシモンにピッタリだ。

シモン・ボッカネグラの本来の舞台は中世末期のジェノヴァ。 ロッシ風都市の立体書き割りの隙間に投影される電飾絵画、 シンプルだが僅かに猥雑な都市イメージが重なり、納得のできる舞台美術。 このクリップは音楽も舞台も素晴らしい、お勧めだ。 Google Keepから共有

2013年12月7日土曜日

ネトレプコとガランチャの「アンナ・ボレーナ」

最新版全曲オペラのyoutubeアップが最近とても多くなったようだ、おかげで週末は忙しい。arteが2011年4月に収録した「アンナ・ボレーナ」が今朝の「あなたへのおすすめ」で紹介されていたので、早速、聴いてみる。
ウィーンのシュタット・オパーの公演、なんとこの劇場での、このオペラは初演だそうだ。まさか音楽はイタリア・ベルカント、物語はイギリスだから、ということではないだろう。

イギリス・ヘンリー八世の王妃アンナはアンナ・ネトレプコ、次なる王妃ジョヴァンナはエリーナ・ガランチャ、ロシア生まれのソプラノとラトビア生まれのメゾ・ソプラノの共演、待ってましたの公演だ。
指揮はアバドの教え子、スカラ座でファゴットを吹いていたエヴェリーノ・ピド。まさにイタリア・オペラのウィーン占領。

物語はよく知られたヘンリー八世の愛人たち、ブーリン家の姉妹や宮廷女官の話だが、映画とは随分異なっている。
毅然たるブーリン家の妹アンは結婚に際し、国王をカトリックから離反させ(イギリス国教会の始まり)るばかりか、後のエリザベス女王の母となるところが歴史であり映画の見どころ、しかし、ドラマが複雑すぎるとオペラにはなりにくい。
ドニゼッティは王妃アン(ネトレプコ)の斬首までの過程にポイントを置きオペラにしている。女官である継なる王妃ジョヴァンナ(ガランチャ)、初恋の人パーシー卿(フランシスコ・メーリ)との哀切に富む精神的絡まり、理不尽さ諦めが重唱・合唱をバックにきめ細かに表現される。
やはり、これがオペラだ。オペラはトラジェリーだから悲しいのではない、毅然たる人間を音楽にしようとすると、どうしても悲劇になってしまうのだ。 Google Keepから共有

2013年12月3日火曜日

ビッグ・ブラザーとリトル・ピープル

「ジョージ・オーウェルはその小説の中で、未来を全体主義に支配された暗い社会として描いた。人々はビッグ・ブラザーという独裁者によって厳しく管理されている。情報は制限され、歴史は休むことなく書き換えられる。主人公は役所に勤めて、たしか言葉を書き換える部署で仕事をしているんだ。新しい歴史が作られると、古い歴史はすべて廃棄される。それにあわせて言葉も作り替えられ、今ある言葉も意味が変更されていく。歴史はあまりにも頻繁に書き換えられているために、そのうちに何が真実だか誰にもわからなくなってしまう。誰が敵で誰が味方なのかもわからなくなってくる。そんな話しだよ。」(1Q84 BOOK1 p459:村上春樹) 眠れない夜、天吾がふかえりに語るシーンだ。昨今の「都市と建築」のことを考えていて、突然「平家物語」と「ギリヤーク人」に挟まれた、このフレーズを思い出した。インチキな民主主義、歴史は廃棄され、都市も言葉も作り替えられる時代だ。村上春樹は好きな作家だが、やはりこのベストセラーは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」に継ぐ傑作だ。 Google Keepから共有

明暗 夏目漱石

金の貸し借りと三角関係は漱石の定番だが、「明暗」の登場人物はかなり多彩で物語は複雑。 
数多いだけではなく、描かれる人物の各々、その内面・外面、心理と行動、すべてがきめ細かく、なんとまぁリアルで凄いと言うのが、昔読み、今に残る記憶だ。
 今回もその印象は変わらない。 描かれた東京の時間と空間に関心を持ち、電子版で再読した。 
主人公や叔父、叔母たちの家々、仕舞た屋のような木造の病院とその2階の病室、座桟敷の劇場の客席と幕間の食堂、場末の赤提灯とフランス・レストラン、そして迷路のような湯治の温泉旅館。
 加えて漱石は毎度のことだが、汽車やチンチン電車の車内シーンが面白い。 
そして今回、際立て見えてきたのは、女性たちが何とも活発。
 主人公夫人のお延はもちろん、皆が皆、現代のテレビドラマよう、表情豊かで個性的、忙しく激しく動き回る。
 ご存じのように、この小説は漱石の最後の長編、新聞連載中に他界したため未完に終わってしまった。 
しかし、驚くなかれ結末も読んでしまった。
 読み終わり、ちょっと疲れたが、同じタブレット、気になりググってみたら、こんな面白いブログに出くわしたのだ。 
驚いた、しかし、充分に納得させる素晴らしい解説。 
今回のボクのこの「明暗」の感想を書かせたもの、それはこの結末ブログを紹介したかったから、と白状しておこう。
 http://homepage2.nifty.com/LUCKY-DRAGON/kakurega-7meian.htm

2013年12月1日日曜日

印象派を超えて 点描の画家たち


午後から国立新美術館「印象派を超えて 点描の画家たち」を観る。 オランダのクレラー=ミュラー美術館がそのまま六本木に出張して来た展覧会と言って良い。 分かり易く楽しい展覧会だ。 この美術館には印象派とモダニズム、その狭間の時代の作品がコレクションされている。 コレクションは表現以前の技法がテーマ、絵画における光が放つ意味、 分割主義あるいは点描画を積極的に試みた画家たちの作品、世紀末から30年代まで。 絵画もまた絵画の上に築かれる、と言うのが今日の感想。 同時期、音楽も建築も懸命に「新しい世界」を模索していた。 19世紀、額縁の中に収まっていたリアルな風景画の世界は20世紀半ば、 まさに現実、なまの世界にそのまま生きる新たな絵画の道を目指していた。