2010年12月22日水曜日

絵になる都市

「新建築」12月号巻頭のエッセー、「絵になる都市づくり」。 建築家のみならず一度でもヨーロッパの都市を訪れた人が一様に思うこと。 それは「何故、日本の都市は絵にならないか」。 エッセーの内容はヨーロッパ歴史都市の賛美、彼らの保存活動、そして、今後の歴史的公共建築投資への期待。 相変わらずの内容だ。
「絵にならない」疑問と批判は明治以来の露伴や荷風を読むまでもなく今に引き継がれてはいる。 しかし、日本の都市は一向に絵にはなりそうもない。 デザイン力と技術力は進んだが、ボクたちの都市はますます思いと期待から外れていく。
ここで問題にしているのは視覚的都市のこと、居住環境や街づくりのことではない。 あるいはイルミネーションが一段と美しい12月の夜の東京のことではない。 都市は建築によって作られている。 その1つ1つの建築は周到にデザインされ、おのおのはみなそれぞれ「絵になる」ように作られている。 しかし、何故、都市は絵にならないか。

現代都市は貧しいのだ、建設資金は昔に比べれば問題にならないほど少額。 中世以来のヨーロッパ1000年の歴史的建築と都市に比べれば、20世紀の都市はどこも圧倒的に貧困、時間の蓄積にも耐えられない。 現代都市を一掃し、ゼロから新たに都市を建設しても、たぶん「絵にはならない」だろう、その貧しさも変わらない。
現代都市を生み出すもの、それは全て投資効率(RIO)の結果であって、かっての貴族や教会という権力者の資金による示威ではない。 建設投資はすべて市民のお金、それも投資効率の範囲内という条件付き。
現代都市を生み出すものは歴史や文化ではなく、経済でありその効率の結果に外ならない。 可能なのは膨大な資金と時間から生まれた歴史的建築の保存であつて、新たな建築から「絵になる都市」の建設は不可能だ。

現代都市の再構築はもはや「絵になる都市」という静止画に関わることではなく、可変的、動画的に関わることが課題。 その回答の1つが同じ「新建築」12月号のセントラル硝子国際建築設計競技の入賞作にあった。 (本題には関係ないが、このコンペ、面白いと思ったのは上位入賞者がいずれも中国人、韓国人であったこと。) 最優秀案は中国の秋天さんの「汚れない集合胡同」。
アイデアは既存の路地空間の外壁と床を新たな木材で覆い、半屋内のような公共の共有空間を生み出そうとするもの。 この計画案からは「絵にはならない」が新たな統一感のある生活空間が生まれることだけは確かだ。 そして何年かたち汚れたり痛んだりしたら、エーゲ海のミコノスの白壁塗りと同じように、また新たな板で張り替えれば良い。
つまり、これからの都市づくり、それは静止画のような「絵になる都市」を生み出すのではなく、動画のような「生きている都市」を継続することにほかならない。 時系列も読み、持続的投資効率の高い結果を生み出す方法が、都市を貧困から救う唯一の道であろう。

2010年12月20日月曜日

ル・トロネ修道院

 
 ロマネスク建築の時代(10世紀〜12世紀)、教会堂の設計およびその建設の指揮に関わる人はまたその堂内に響く音楽に携わる人でもあった。建築と音楽の担い手はその教会堂の聖職者であり、修道士という人々です。

音楽と建築は各々別々に専門家がいたわけではない。聖職者たちが宗教的メッセージと儀式(グレゴリアンチャント)を音楽化し建築化することでロマネスク聖堂を生み出してきたと考えて良いのではないだろうか。

シトー会のル・トロネ修道院(フランス・プロバンス)は、コルビジェをはじめ近代の多くの建築家を魅了し、その建築記録が小説「粗い石」としてフェルナン・プイヨンによって顕されている。この修道院こそ音楽が建築化された代表的建築と言える。

何故なら、怪奇幻想ユーモアと様々な表象をもったロマネスク彫刻によって彩られるのが流行であった12世紀初頭というこの建築の建設期にあって、ル・トロネはあえて視覚による一切の象徴表現を退け、光と音による神域表現に終始しているからです。そんな建築が示すシンプルなかたちと素材による表現。それはモダニズムの建築家が探していた形態と言えるようだ。

「ヨーロッパ芸術文化と音楽」の中で原田玲子さんはグレゴリアンチャントをつぎのように説明している。
「グレゴリアンチャントは和声も楽器の伴奏もない単声音楽として生まれたものである。したがって豊かな旋律の構成と表現のためには、リズムがどうしても集中的な要件となってくる。そして、世俗的なものへの志向をできるだけひきとめる厳粛な静けさ、ただ官能的にのみ走る美しさを抑制しようとする繊細な均衡のある調和、いたずらに情感を沸き立たせることのない気高い旋律、これらの特性は、たしかにロマネスクの建築とも見合っているであろう。」



(via YouTube by mollro4 : the Cistercian Abbey of Le Thorone )

2010年12月19日日曜日

クリュニー修道院

中世キリスト教社会をリードしたのは、必ずしもカソリックの総本山ローマではなく、ヨーロッパ全域に広がった修道院だった。
事実、ローマでかたち作られたと言われるグレゴリアチャント(聖歌)は、今日私たちが耳にするものとは異なり、もっと素朴な旋律を持っていたといわれている。
現在のグレゴリアチャントはアルプス以北のクリュニー支配下の地域で歌われていたもので、それが私たちの手元に譜面となって残されたと考えられている。

聖歌はクリュニーの典礼改革の大きな柱となっていた。
このクリュニーはスイスに花開いたザンクト・ガレンのユートピア(初期キリスト教社会の修道院)とは異なり典礼を重視していた修道会。
遁世思想に裏付けら、勤労に奉仕し清貧に生きることが重要だったのではなく、不安な時代、貧民救済と典礼を重視し、多くの人の心をキリスト教世界に結びつけることを目標とした修道院。
従って、礼拝重視のクリュニーにとって最も重要であったことは祈りのための音楽と建築。
クリュニー修道院付属教堂を作ったのはグンゾ、かれはもともと典礼音楽に関わる聖職者として良く知られた人。
中世において音楽に意をつくすことは、建築を重視することでもある。音楽家グンゾが建築の設計者であることは当然のことであったであろう。

音楽と建築を支えるものはギリシャ以来、数による秩序。ピタゴラス音階による完全8度、完全5度、完全4度の音の協和は1対2、2対3、3対4という比例関係を持っている。
つまり、近世以前、音楽は数学でもあったのだ。
中世のアウグスティヌスは、この比例原理は建築を含め視覚芸術すべてに当てはまるものであり、この音楽から導かれた数が宇宙の秩序、そしてすべての安定の根源であるとみなしている。

フランス革命によって壊滅したクリュニー修道院、ケネス・コナントは忠実な復元図を作成した。
そして彼は建築のみならず、彫刻さえもその構造と構成において音楽に導かれた幾何学によって作られていたことを証明した。
クリュニーの修道士がいかに楽音に関心を寄せていたか、その証が旧修道院の内陣の柱頭彫刻に記されている。
彼らはグレゴリアンチャントの8つの楽音を重要な柱の柱頭飾に用いていた。
それもアーモンド型のメダイヨンの中という、ロマネスク彫刻のセオリーから離れた特殊な空間の中ではあったのだが。

リュートを弾き、シンバルや鈴を鳴らす人々とともにあるこの内陣は、彼らにとって天国そのものに置き換えられていたと考えて良い。
幸い、その柱頭彫刻の幾つかはフランス革命による壊滅を免れ、オシエ美術館に残されている。
この美術館にはキリスト教にとって最も重要な第三音、「プサルテリウムを弾く男」が保存されている。
第3音はキリストを受難へと押しやり、復活をなすことの象徴であり、まさに人類の救済のテーマにほかならない。




gregorian chant
This is part of the Responsory Benedicamus Patrem, for the feast of the Holy Trinity. As sung from late fifteenth century Antiphonary B-Gu15.
This is from the cd 'Etienne de Liège - In festo sanctissimae Trinitatis' RIC 249. Buy the cd at www.ricercar.be - other discs available as well. Check it out!
Chant group Psallentes was founded and is directed by Hendrik Vanden Abeele. The group particularly focuses on late medieval chant.
www.psallentes.be
(via YouTube by quijote347)

2010年12月18日土曜日

音楽から始まったキリスト教建築

偶像が拒否されていた初期キリスト教時代、礼拝に参加することが許されたのは、建築や絵画・彫刻ではなく音楽。
当初の教会は雨風をしのぐ粗末な小屋や、ありきたりの民家さえあれば充分だった。
そこで必要だったものは音楽、ミサ典礼という音楽によってのみ、キリスト教が示す神の国を現出していた。
やがて、キリスト教典礼は初期中世の人々の日常生活にしっかりと組み込まれて行く。
そして、人々はミサのための恒久施設を必要とするようになり、教会堂建設が始まりまった。

ローマが誇った数々の建築群は敬虔なキリスト教徒にとっては異教であり、不必要な存在。
アルプスの北の人々は当初、自分たちの持っている技術、木造で教会堂を作り始める。
しかし、堅固で永遠の神の館、神の国を視覚化するには、木造より耐久性の優れた石の建築が必要。
堅固な建築なら天井は木材でも良かったのだが、教会堂には石の天井が設けられた。
ローマ建築にある重い石のトンネルヴォールトや交差ヴォールトの建築にする必要は何処にあったのだろうか。

彼らが必要としたのは堅固で恒久的という強度的理由だけではない、石へのこだわりは音響効果にあった。
ドームはその形状によって天空を象徴しているが、天井が石造であることから生れる反響と残響こそが彼らが求めたもの。
教会堂の内部空間に響く単旋律の歌声は悪戯に情感を高めることがなく、厳粛な静けさと繊細な均衡を持った気高い旋律に変化し、その歌声が持続的な音に満たされた神の国を現出する。
彼らは視覚・絵画的象徴より、聴覚・音楽的空間を神の国と見立て必要としていたのだ。

カロリング期に入り、様々な地域は見よう見まねで、石造の教会堂をつくり、建築史の中では最も多様な様式を持つロマネスク時代を迎える。
ミサ典礼という音楽からはじまったキリスト教的芸術感はやがて建築にも反映される。
異教のローマ建築をそのまま引き継ぐのではなく、グレゴリアンチャントの響きとその視覚化による空間の現出が教会堂の使命となった。

教会堂の内部空間を体験してみよう。
身廊のアーケード(アーチの連続)がゆったりとしたリズムを刻む。
その上のトリフォリウムはアーケードの倍音を構成する。
トリフォリウムのアーチから静かに差し込まれた光は身廊の床に反響し柱列が生む旋律に絡まる。
重力と空間全体を支える質量を持った石の厚み、その厚みが織り成す柱のリズム、
それらはすべて聞く人の内面に響くグレゴリアンチャントの体験とまったく同質であると理解される。

音楽と建築のあまりにもぴったりとした照応、この時代はまた音楽において、モノフォニーからポリフォニーへの展開の時期でもあった。
その音楽の展開に誘導されるようにロマネスクの空間もまた多種多様な展開を遂げてゆく。
つまり、ロマネスクは芸術史上唯一、建築と音楽の融合と調和の時代であったと言えるのです。



(Gregorian Chant (Advocatam) Llibre Vermell de Montserrat from quijote347 on YouTube)

ザンクト・ガレン修道院の図面と楽譜

 

 中世ヨーロッパの人々が現実的世界から目を背けることなく、真摯に俗世と関われるようになったのは、修道院が各地に誕生したからだという。
人々は聖なるをものを求める道を修道院にまかせ、俗人は俗世に生きるという道を徹底することが可能となったから、との説明。
物理的のみならず精神的にも人が生きると言うことは、確かに、自分以外の自分をいつも持っていなければ落ち着かない、わかるような気がする、個人的経験としては神を信じたことはないのだが。

7世紀のはじめ、アイルランドの聖ガルスがスイスの東北シャルナッハの渓谷に住み着き、多くの人々の信頼と祈りを集めて行く。
やがて、その地は人々の心の安息所であるばかりかザンクト・ガレン修道院と呼ばれ、様々な中世文化の花を咲かせていく。
修道院は決して俗世とは無縁であったわけではない。
聖職者たちもまた土地所有者となり農民を抱え、国王とも交渉し政治にも関わっていく。
中世社会における修道院は祈祷の場であるばかりでなく、大学であり研究所、病院であり、農業開発センター、そして裁判所という役割を担うようになるのだ。

さらに重要なことは、ザンクト・ガレンは9世紀以降の貴重な書物の図書館でもあったことです(エーコの「薔薇の名前」の修道院のモデル)。ここは多くの僧侶たちが写本の筆写に訪れた所、筆写に訪れるということはまた沢山の写本が集まる所ともなっていく。
そんなザンクトガレンであったから、理想都市としての修道院の平面図が残されることとなった(古代ローマのヴィトルヴィウスの建築書もまた、ここザンクト・ガレンに保存されていた)。
この修道院は聖と俗がせめぎあう場でもあった、したがって人間の理念と現実がいつも明解である必要があったのだ。

多くの写本を制作したザンクト・ガレンは音楽史の幕開けの場所でもある。
そしてもっとも重要なことは、ヨーロッパ音楽の原点ともいえる記譜法成立の中心地、グレゴリオ聖歌に多声音(ポリフォニー)を持ち込む試みがなされたところ。
ポリフォニックな音の広がりはヨーロッパ独自のオーケストラの原点、聖なるものを讃えるための音楽が、聖なるものを表現し、聖なる力を広める役割へと転化するのは、ここザンクト・ガレンにおいてでもあったのです。

修道士たちは毎日毎日、夜明けから深夜に至るまで一日八回の聖務日課(定時化された勤行)とミサ典礼(最後の晩餐を再現した典礼)を行った。
その内容は聖書朗読と祈り、そして聖歌、歌を伴わない祈りはあり得ない、福音書朗読さえも、ある特定の音の高さを持って歌われた。
典礼のための福音書や聖歌集、それは聖具として神に捧げられたものだが、9世紀の写本の中に朗読する為の記号が書きこまれた。
ネウマという音符の登場です。
口頭伝承から楽譜記載による伝承へ、聖歌を統一化しようという動きが伝承形態を変化させ、やがて音楽そのものを大きく変える道を開く。

写本であっても聖具であることには変わりはない。
聖具に人為が関わることは許されないことだが、しかし記号の書き込みが許された聖歌集には、新たな歌詞や旋律の挿入も許された。それがトロープスと呼ばれる装飾部分。
この挿入部分がやがてネウマが聖具であることから離れ、楽譜となり作曲することの契機となる。
つまり、神からの授かりものであった音楽が人間的行為の結果としての音楽となる契機となったのがトロープス。

ザンクト・ガレンの写本の中に記されたネウマとトロープス、それは楽譜の成立と作曲の誕生を促した。ネウマとトロープスは単旋律の音の流れを幾条もの重なりをもった複雑な音楽に変えるばかりか、時間の経過とともに消えてしまう音楽では果たすことができなかった、全体を見渡し思考するという場をも音楽に与えていた。つまり音楽はここザンクト・ガレンで建築と同様、空間性を獲得したことにより、やがて作曲という行為が学として認められ、後に数多くの音楽家・作曲家が誕生することとなる。




(Convent of St. Gall from UNESCOVideos on YouTube)

ブッファの原点「奥様女中 」

オペラブッファの原点と言われるこのオペラ、 生の舞台で一度は観てみたいと、 かねてから思っていたが、 年末の休日、昨晩が絶好のチャンスとなった。
いやぁー、面白いのなんの! 登場人物はたった3人、歌手は2人。 これ以上はない小さな舞台だが、二幕も切れなく、 ひっきりなしに客席を沸かしてくれた。
そうだろう、演出はペルゴレージの研究者でもあり、 今晩の企画の責任者ダリオ・ポニッスィ。 かれは前半の舞台でペルゴレージ役を演じるばかりか、 「奥様女中」では召使いヴェスポーネという黙役も演じてくれた芸達者。
小間使いのセルピーナは高橋薫子、 藤原歌劇団のこの役ピッタンコの名歌手。 その歌声は軽やかでやさしい、ユーモアがありコケティッシュ、 モーツアルトやロッシーニのブッファには欠かせぬ逸材だろう。
ウベルト役は立花敏弘。 彼もまたブッファは得意そう、 その伸びのあるバリトンは客席の隅々に朗々と響きわたる。 幕間劇という切っ掛けはともかく、 300年近くも傑作と言われ続けたこのオペラ。 初めて観てその面白さを堪能した。

お話はたわいない。 ウルベルトのお屋敷で生まれた小間使いセルピーナ、 召使いヴェスポーネの力を借り、 まんまとウルベルトの奥様の座を射止めるという物語。
「奥様女中」はオペラのインテルメッゾ(幕間劇)として上演されたのが最初だそうだ。 その本体は1733年にナポリで発表された「誇り高き囚人」。
そう解説を読むとなるほどとも思う。 いまでは全く上演されることのないオペラセリア「誇り高き囚人」だが、 その題名から類推するに、 まさにこの幕間劇のウルベルトこそ、 幕が降りた後の「誇り高き囚人」といえるかもしれない。
これも解説だが、ナポリで名をあげやジョバンニ・バッティスタ・ペルゴレージ、 彼はなんと26歳の若さで結核で死んだと言う。
この生誕記念300年公演を観るかぎり、 モーツアルト以前、 こんな面白いブッファの作曲家がいたんだと改めて知り、 音楽もまた確実に音楽の上に作られていると実感した。

2010年12月5日日曜日

当麻寺の二つの三重塔


大和の西、二上山の麓の当麻寺は西ノ京の薬師寺に似て東西二つの三重塔を持つ古寺だった。