2010年1月22日金曜日

アカデミア・オリンピカ

アカデミア・オリンピカは、ゲーテの時代も、そして現在も健在です。ヴィチェンツァを訪れたゲーテはこのアカデミアに招かれている。1500名もの人を集めてのその日の演題は「創意と模倣のいずれが美術のためにより多くの利益をもたらしたか」という議論であったとイタリア紀行には書かれている。(イタリア紀行・上p80)
1556年創設のこのアカデミアは1561年とその翌年、ヴィチェンツァの大会堂・パラッツォ・デッラ・ラジョーネの二階大ホールで、シエナの古典学者ピッコロミーニのラテン喜劇「変わらぬ愛」とヴィチェンツァの文人トリッシノの悲劇「ソフォニスバ」を上演したと記録されている。(その情景はテアトロ・オリンピコの前室の欄間を飾るグリサイユに残されている。)

公演の舞台はパラッツォ・デッラ・ラジョーネ、後のロッジェ・ディ・バシリカ。この建築とテアトロ・オリンピコは、共に建築家パラーディオの設計、どちらの建築も依頼者のアカデミアと同様、現代も当時と同様活動している。しかし、テアトロ・オリンピコ誕生の20年あまり前、パラッツォ・デッラ・ラジョーネでの公演の時、ラジョーネ自体もまだ改装中だった。
アカデミア・オリンピカは会場の建設と公演費の捻出で火の車であったようだ。幸い「変わらぬ愛」と「ソフォニスバ」の公演は大成功をおさめた。多すぎた観客を一度には収容しきれず三度も上演が繰り返されたと「パッラーディオ」の著者、福田晴虔は書かれている。(パッラーディオ/p17)
ソフォニスバはカルタゴ将軍の娘。ドラマは政争の道具となり数奇な運命をたどるが、最後はローマ人の手を逃れようとして自殺するという悲しい話。
ヴィチェンツァの市民たちは「都市」と我が身をこの将軍の娘に置き換えていたに違いない。だからこその大ヒット。そして、この公演の成功が近代最初の常設劇場を作らせるきっかけとなったのです。

アカデミア・オリンピカは資金難のため何度か工事を中断し、ヴィチェンツァ市当局との交渉に明け暮れた。しかし、新しい時代を生きる為、自分自身の「都市」のイメージを必要とし、同時にそのような「都市」のイメージに合う建築を作り続けたパラーディオを愛したヴィチェンツァ市民たちは、すでに没していた彼の遺作を未完のまま放置するわけにはいかぬという強い意志で奮い立ち、ようやっと1585年3月8日、テアトロ・オリンピコは柿落としを迎えることとなったのです。



(via YouTube by Mitridate Mozart Harnoncourt)