2014年8月14日木曜日

塩田平

亜熱帯化した東京を台風11号の接近前に抜け出し塩田平に来た。
ここはかっては湖の底、いや、常楽寺梅楽苑の女店主には海の底だったと教えられた。
大昔の信濃川が産み出す広大なアースワーク。
その河岸段丘の東は上田平だが、西が塩田平。
なるほど、ここはかって海の底だからこそ塩田平。
地名とは人が記録する文字ではなく、悠久の風景が語るものであるようだ。

東京駅から新幹線で僅か九十分、上田電鉄に乗り換え三十分余りで別所温泉。
シックなダークブルーの車両、オシャレな一両電車は塩田平をほぼ真一文字に西に走る。
その終点駅から、緩やかな坂を上ると段丘の淵、石造多宝塔の常楽寺と八角三重塔を持つ安楽寺に着く。

段丘の淵を段崖と呼ぶが、ここは崖とは言い難く、上る道はごく緩やか。
しかし、歩を進めれば進めるほど、振り返る眼下には長閑な平原が大きく広がって来る。
今は、フラットな戸建て住宅が密集する、日本中どこにでもある郊外住宅地の趣だが、かっては豊かな農産物を育む田園とそこに生きる人々の平安の地であったことを、前面の空を縁取る緩やかな山々の重なりが教えてくれる。

決して暑くない、幸いまだ雨もない塩田平の段丘に建つ幾つかの建築を見て回ろうと言うのが今日の目的。
と言っても、クルマもタクシーも使わないのが、ボクの建築見学の鉄則。
友人が待つ夕方の軽井沢の宿までのひとときの時間。
取り立てて下調べも予定も持たず、のんびりとした一人歩き。

安楽寺を有名にしているのは国宝の八角三重塔。
中国風禅宗建築と平安以来の和風建築をミックスした何ともユニークな建築。


四角を多角化すればするほど、形状は円に近づく。
軒を支える斗拱は複雑化し、部材断面は細分化され、木造架構は困難を極めるが、より丸く見せようとする塔は当時の新生中国、元との闘いに勝った明の国の息吹を伝えているかのようだ。

何故なら、明の時代こそ今の様々な大工道具が発明された時代。
我が国の木造建築もこの時代の中国からの到来した新しい道具を駆使し、いよいよ技術の洗練を極めていく。
一方、瓦ではない、こけら葺の屋根は和風の伝統、鳥の羽のような柔らかさはどの時代も我々の持つ心象とピッタリと呼応する。

隣りの常楽寺には塔はない。
あるのは日本には珍しい七重石塔の連なりと厚い入母屋茅葺きの屋根を持つ立派な本堂。
そして、圧巻は甘露甘露の梅汁のかき氷。
曇り空とは言え、今は日本の夏の真っ最中。
見晴らしのいい高台で、風に吹かれ、景観を楽しみつつの甘味は最高だ。

まだ、暑いし混むからと、家を出るの躊躇った我が身を強引に誘い出した友人に感謝しつつ、そんな話を他に客が居ないことを良いことに前述の女店主にうち明けた。
と、いろいろと彼女とのお喋りは続いたが、気がつくともうお昼すぎ、あわてて坂を降りかかると、今度は畑の中に「石挽き蕎麦」の旗竿を発見した。

信州に来たら、まずは蕎麦。
それに河岸段丘の断崖の地はどこも水がうまい。
その旗竿の脇にはクルマが数台。
さらに見回すと、店とはいえない普通の住宅の玄関に暖簾が掛かっていた。

ここの蕎麦も旨かった。
こんな店では山菜天麩羅は欠かせないのだが、
のんびり散歩には冷酒と焼き味噌か漬け物が決まりもん。
そば久は有名店のようだ。
混んではいたが、幸い引け時、待つこともなく座敷に座ると、
ほどなく注文の冷酒がきた。
それも、石挽きのさらしにはピッタリの酒、石川の「菊姫」だった。
ただ一人、顔には出さず胸の内では小躍りしながら、
小一時間タップリと想定外の酒と蕎麦を楽しんだ。

のんびり散歩とは言え、別所温泉だけですでに時間は悠に回ってしまった。
しかし、ついていると言って良いのか悪いのか、
そば久の席を立ちついでに帳場の女性に、これから行く段丘に建つ前山寺やデッサン館・無言館への道を聴こうとすると、なんと店の下二百メートルの温泉駐車場から、もうすぐ循環バスが出るという。

タンブラーのマップを見るまでもなく、バスは丘の緑陰を突っ走り、あっというまに龍光院まで来てしまった。
客は一人だけ、適当な場所で降ろしてもらおうと思っていたが、降りたのは正規の停留所。
なんのことはない、降りるつもりの中禅寺を一瞬のうちに通り越してしまったのだ。

中禅寺の薬師堂は重要文化財、平安末期の建築だが、見学は寺々だけが目的ではない、今日は諦め、先に進むこととした。
惜しまれ、躊躇させるのは塩野池手前の塩野神社。
その橋掛かりを持つユニークな形態の神社の話しは、梅楽苑で教えて貰っていただけに、悪いことした気分でチョット心残り。

バスを降りれば、ここは塩田の館。
立派な新築の木造建築の展示館。
形態は上階を持つ養蚕農家、多分、全盛を極めた繊維の上田の象徴だろう。
山門は欅の大木を従えた大きな黒門。
龍光院はそれだけでも、すでにある種の威厳を放っている。
この威厳はこの地を治めた北条氏の力だけではない、遠い鎌倉からの歴史を伝えているようだ。

創建は十三世紀後半、その後北条氏の滅亡とともに衰退したが、塩田北条氏ゆかりの地であっただけに武田氏に保護され、徳川時代、曹洞宗寺院として再建されている。
しかし、塩田の館と同様、今の建築は新しい。
狭い境内に大きな本堂。
屋根も大きく堂々としている。
正面入り口扉の両側に設えられた禅宗寺院特有の二つの火灯窓が何とも可愛らしく微笑ましい。

龍光院を出て心残りの塩野池を背にすると散策には持って来いの小道が前山寺まで続いている。
梅楽苑で教えてもらったアジサイの道、かっての鎌倉街道だ。
本道に戻ると、やがて右手に大きな椎の木(多分)を従えた黒塗りの門と前山寺と書かれた石柱。
同じ黒塗りだが、その門の風格と大きさは龍光院の黒門には叶わない。

しかし、大木を従え視線を参道に導くそのデザインには、今どきは見ることがない、意志の強さ鋭さが感じられる。
門からの敷石の参道は桜並木とともに一直線。
石段にかかると、ここからも一切折れることなく真一文字に頂上の山門に掛け上る。
上りきると三重塔は山門に縁取られ、なんと真正面に姿を表す。
塔は手招きするように前面に躍り出て、その全容を露わにする。

ここまでは大木を従えた小さな黒門から一直線の敷道と石段。
そしてまた、また山門をくぐると、三重塔まで一直線の敷道、石段が繰り返される。
ここまで来るともう、デザインの意志のもつ強さどころか脅威を感じさせる。
こんな古代風の伽藍配置も始めて体験させられた。

しかし、この配置は偶々だろう。
門、塔、講堂と一直線に列ぶ伽藍配置は日本では飛鳥や四天王寺という奈良以前の寺院ですでに終わっている。
斑鳩の法隆寺ですら、塔は本堂と並列、門の真正面に建つことは決してない。
この寺は九世紀の弘法大師に始まり、三重塔の建立も十六世紀前半の室町時代と目されている。
そんな古刹の寺が北を正面とした山門の前面に建つ事などありえない。

境内に上がり周囲を見渡してようやっと気がついた。
上がり切った境内の右手、西側に当たる、さっき通り過ぎてきた鎌倉街道側が元々の参道なのだ。
こちら側から上れば塔は真西に位置し、その左手、南側に本堂が建つことになる。
その本堂の正面も、いくら眺めが良いからといって決して北側、塩田平側に向けることなく、塔側(南側)、鬱蒼とした山側、 に向いている。

小さな三重塔だがこの塔は見応えがある。
解説書では未完の塔と書かれているが、この塔の魅力はむしろその完成度にある。
室町特有、塔身はやや膨らみかげん、しかし、こけら葺の屋根は反りが強く柔らかく、その全体はまるで十代の少女のようなイメージ。

すでに、日本中多くの五重塔、三重塔を見てきたが、やはりこの塔はボクの好み。
部材構成や断面形状に狂いなく、その全体は清楚絢爛に組み上げられている。
狭い壇上に建つ、立ち位置から、納得のゆくフォトを撮るのが難しいのは、日本の中どこの寺にも共通している。
そしてまた、プロのフォト作品でさえ、これはいい、これは凄いというものには、なかなかお目にかかれない。
雪や桜や紅葉という取り巻く周辺に一切関わることなく、生身の塔の面白さはやはり、生身で体験し、想像するしか方法がないのだ。

石段を北に降りると、平地の右手は信濃デッサン館。
蔦に絡まれた平屋建て切り妻の美術館。


今日は憑いていることになんと立原道造展の開催日。
本郷東大裏にあった道造記念館は一昨年閉館されたが、今日もまた図らずも、こころゆくまで、その展示を見ることができた。

実は明日からの友人との軽井沢予定は昨年六月に亡くなられた、なだいなださんの講演会、そして、立原道造展を覗こうというのが今回の目的。
そうそうに一人出かけてきたのは、この塩田平では道造展に出会うことはつゆ知らず、前山寺周辺の槐多庵・無言館・スケッチ館でのんびりしていようと思ったからだ。

無言館(戦没画学生慰霊美術館)は切り妻の屋根に打放しコンクリートの外壁、デザインは素朴で単純、そのイメージはストレートにヨーロッパ中世ロマネスクの僧院に繋がる。
その前方はすべて北の塩田平を見渡す長閑な平原。
後方の樹林からは蝉音も鳥声も聞こえてこない。
雨もないが照りもない、人もいない静かな時間。


草地には厚板の木板の椅子とテーブル。
そして、漂う珈琲の薫りと湯気。
まるで月並みな、コマーシャルなような時間だが、突然のバス音に消える。
16時31分、ボクだけを駅に連れて行く、小さな循環バスが到着した。




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