2014年7月12日土曜日

ボルノウの希望

18世紀後半、アンシャンレジームにより人間はようやっと誰にもおかされない自由を手に入れたが、20世紀の二つの大戦は人間は決して理性的には生きることができない動物であることを証明してしまった。
しかし、ボルノウは「希望」をテーマに、人間について考えた。
理性ではなく衝動と欲望の動物である人間が「希望」を抱ける条件は何だろうと。
彼は人間が形成してきた文化(生き方)について調べることで、そのような文化を形成する人間の本質について考え続けている。

ボルノウが重視することの一つは、幼児の時代においては庇護されているという「信頼」の感覚。
大事なもの形あるものが壊れることがあっても、小さい時には「保護」されているという感覚が盾となり、それを乗り越えることができたのだから。
さらに、敵対的な世界の脅威に立ち向かう力はこの「保護」されていたことへの「信頼」のうちに育てられてきたと考えた。

「希望」とは底なしの淵へ没落するのではなく、またきっと救い上げられるという確信。
「希望」は不安と挫折を超えた人間の生活の土台となるもの。
確信を与え、土台をささえるのはボルノウはこの「信頼感」と言っている。

「希望」にとってもう一つ重要なことは「出会い」。
人間にとって「出会い」は偶然的なものであることは免れない。
あるいは、「出会い」はいくつもの可能性から選ぶこと、決断すること、賛成するか反対するかを強いるものです。
「出会い」は予期することはできないが、そのための用意だけは出来る。
教養と出会いのあいだには依存関係が生まれる。
教養は人生のお飾りではなく、教養の為にあるものではない
広い教養(リベラル・アーツ)は個々の出会いを偶然だけに終わらせない為の用意と言えるもの。

「信頼感」や「出会い」を支えるもの、ボルノウは、それは「親密な領域=家」、人間の空間と言っている。
つまり、ボルノウの「希望」は大きく意訳すると「信頼感」と「出会い」のある「建築」に支えらていると言って良い。
「人間と空間/オットー・フリードリッヒ・ボルノウ/せりか書房」を再読しつつ深夜になった。
しかし、つくりそして壊す、ボク自身の「建築」のなかでは、まだボルノウの言う「生きられている時間と空間」を見い出せてはいない。






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