原子力発電により多大な廃棄物を生み出しているアメリカ、フランス、そして日本。
特に第三位の原発国日本は、不幸にして福島第一原子力発電所事故を起こしてしまった。
その結果、これからどういう被害が東日本に、日本全体に、太平洋沿岸地域に及ぶのか、想像するに恐ろしい。
さらにまた、すでに青森県六ヶ所村には3000トンの使用済み核燃料が保管されている。
映画は極寒のフィンランドが冬の安定した熱源を確保せざるを得ない事情から、多大な原子力廃棄物を生み出してしまったことに始まる。
フィンランドは「オンカロ」(=隠れた場所)と呼ぶプロジェクトによって、ヘルシンキの西240キロの小さな島、オルキルトに廃棄物貯蔵所を建設している。
貯蔵所は島の岩盤を掘削し、地下500メートルに建設している地下都市。
無色無臭、しかし、人類にとって最も危険な放射性廃棄物の処理は「太陽にロケットで打ち込むか」「海底に埋めるか」、結局は「地下に埋めるしかない」とわかりプロジェクはスタートした。
「オンカロ」の完成は100年後、つまり21世紀中建設しつづけ22世紀にようやっとの完成する。
「オンカロ」は「100,000年後の安全」のための施設、しかし、いま問われている最大の問題は、その存在を100、000年後の人々にどう伝えるのか、ということ。
「オンカロ」は永久に封じ込めら、永久に高レベル放射能と生命を遮蔽し続けなければならない施設。
そんな施設が小さな島、オルキルトにあることを未来の人々にどう伝えるのか、あるいは、伝える方法などあるのだろうか。
人類誕生からまだ数万年。
数万年前の人類はいまの我々とは全く異なる人類。
1万年前の人々が、彼らがルーン文字により「ここは危険、侵入してはならない」と書いたとしたら、本当に誰もが侵入をやめるだろうか。
多分、多くの人々が「宝が眠っている」と思い、懸命に封入を解く。
未来の人類もまた生物の生命に危険な放射性廃棄物を拡散してしまうにちがいないのだ。
ここに来て映画は情報は知らせない方が、忘れさせてしまう方が良いのではないかというテーマにも踏み込む。
つまり、人類の未来に真に関われる学問分野は哲学、情報学こそ重要、いやむしろ物理化学とは正反対の美術や音楽、芸術こそが最も有効ではないかと思えて来る。
ネットと新聞は毎日、事故現場の検証とその管理者原子力村の不手際を伝えている。
そして、そこから見える、日本人の政治と経済は原発の反対・賛成にかかわらず論議は5年先10年先までのこと、いまを生きる日本人、自分たちのことばかりにとどまっていると言って過言でない。
フィンランドの「オンカロ」もまた、電力と天然ガスをロシアに依存せざるを得ないトラウマからの開放目指す、自国の安全保障プロジェクトであることもまた事実であろう。
しかし、映画「100,000年後の安全」は今を超え、地政を超え、未来の安全保障をいかに生み出すかがテーマである。
なぜなら「オンカロ」を知ることが、今、地球にいる我々の責任と語っているからだ。