2013年9月10日火曜日

ルネサンスのアナザーワールド

国土の三分の二を高地と山に覆われたイタリア半島は、豊かで広大な平地が広がる地域とはいささか異なる生き方が必要とされている。イタリアの人々は地中海に突き出た地の利を活かし、東方の人々と積極的に交易し、手工業を発達させるという生き方を選択した。
西ヨーロッパの農業社会が安定した食料増産による経済的発展を迎える時、この半島の役割は、大陸にない物質資源を調達し流通させること、さらにその為の積極的な人間的交流を計ることにあった。

農業中心社会に於ける生き方では自然に従い、それを掌る神に従順であることが求められる。当然、そこでは清貧禁欲な生活を尊ぶ、キリスト教的価値観が大きな意味を持つ。しかしイタリア、特にフィレンツェでは商業や手工業の発達を促す別種の価値観が必要とされた。それは現実的、合理的な生き方を賛美し、自然より人間中心の生き方とそれを支える考え方。ルネサンス・イタリアは新しい価値観とキリストに変わる神を探していたのだ。
そんな模索から生み出されたメディア、それはアルス・ノーヴァと透視画法。

二つのメディアに期待された役割は中世的「あるはずの世界」をルネサンス的現実、「あるがままの世界」に変容することにある。
新しいメディアは超越的な神が君臨する中世キリスト教社会に変わり、現実的、快楽的、人間中心的社会に素手で関わろうとするモノ。しかし、「はずの世界」が消えたわけではない。「あるがままの世界」の世界の上にいかに「あるはずの世界」を生みだすかがテーマだろう。つまり、虚構あるいはフィクションとしての建築をいかに作るかの方法がテーマ。

アルスノヴァは三位一体化した観念的な三拍子を自然歩行に近い二拍子の音楽として解放する。透視画法は画面の中に描かれる平行線は全て一点(焦点)に集まる、この一点を中心として描かれた世界にも秩序ある統一が存在することを明らかにした。そして画家・音楽家・建築家たちは、ギリシャ以来の哲学者のイデアや神学者の神に関わることなく、「あるはずの世界」を「あるがままの世界」の中に描き出すことが可能となった。つまり、メディアによる「神話」から「風景」への変容。

新しいメディアの発見の驚きは現在の私たちの想像をはるかに超えている。透視画法は単に絵を描く為の手法ではない。神に支配されていた中世的世界を人間中心の世界に変容した。その発見は現代のコンピューターの発明にも似た新しい世界、アナザーワールドを切り開くもの。アナザーワールドとは、西欧的生き方に於いては欠くことの出来ない「生きるに確固足る世界」、その世界を「あるはずの世界」だけではなく「あるがままの世界」に有ることを示している。

ルネサンスの人々が透視画法に夢中になったのはこの一点にある。 人々はアナザーワールドを実際に「建築」を作ることなく、透視画法の中の建築的世界を描き出すことで、秩序ある世界の存在を実感している。つまり、絵画が建築に先行し、空間を表現することが可能となった。そして、絵画も音楽も教会(建築)の壁面や内陣から解放され、現実の世界に飛び立って行く。
建築家はもはや、かっての建築の持つ役割(諸芸術をインテグレートしているという役割)を失い、建築物や模型に頼ることなく、絵画によってのみ「建築」を生み出すことになる。もっと別の言い方をすれば、建築家の仕事は実際の建築を作ることではなく、作るべく建築のコンセプトを描くことがその役割。そして実際の建築はそのコンセプトに従い、職人たちの力によって建設される。つまり「建築」は物理的実体以前に、思考の経過を示すことがその重要な仕事。それはまた同時に、中世以来の学問への参加でもあった。ブルネレスキアルベルティ等ルネサンスの建築家はその役割を使命とし、自立したアナザーワールドの構築に専念する。