2014年8月30日土曜日

水の眠り灰の夢 桐野夏生&火刑都市 島田荘司

東京に生まれ、東京に育ったボクにとって、隅田川の水辺と皇居周辺の内濠・外濠はいつも共にある絵画であり、音楽だった。
そしてまた東京オリンピックの開催が決まり、今度は霞ヶ丘と神宮の森が侵される。そう、記憶の中の都市破壊がまた始まったのだ。
東京オリンピック開催を喜ぶのは決して東京人ではないだろう、安倍さんも猪瀬さんも・・・・。

そんなことから、かっての東京を描いた都市小説を読んでいた。
それは前回のオリンピックに起因する都市の解体と都市不安。

島田荘司の「火刑都市」。
外濠を遮断し、なんと飯田橋濠の上に高層建築を造ってしまった当時の役人の非。
現在のラムラの建設は神楽坂商店街を含め我々外濠の住人にとっては悔恨の出来事だった。
そんな水辺を奪われた外濠周辺に建つビルが次々と火刑に処されていく。
物語は推理小説というより、水辺都市東京へのオマージュだ。

伏線となって描かれるのが、まだ貧しかった東北、東京より東から東京に出てきた若い女性たちのもつ都市体験。
それは水を失った都市での水を求めての必死な生活。
彼女たちはまずは上野駅に到着、そしてその周辺や浅草さらに東に住まうが、やがて、夢を追い西へ西へと流れて行き、火刑事件に巻き込まれる。

浅草から新宿そしてさらに西へ、貧しい水辺から逃げるように遠のくのが女性たち、いや戦後の成長に合わせ、新たに東京に集まる人々の夢だったのかもしれない。
この夢は今も変わらない、人々の想いは下町から山手へ。
ダサい古い街ではなく、コジャレた珈琲ショップとコンビニエンス。
今ではそこは東京の郊外都市、かっての緑地田園を浸食して生まれた、フラットなハイパーヴィレッジ。

新しく作られた建築に決して罪がある訳ではない。
しかし、物語は女性たちを巻き込み、外濠に建つ建築を次々と火刑に処していく。
水を失った都市を顕在化させようとする強烈なメッセージをもった犯罪なのだ。

昨晩は「水の眠り 灰の夢:桐野夏生」を読んだ。
1963年9月、東京オリンピック前年の地下鉄銀座線爆発事件、いわゆる「草加次郎事件」だが、この小説もまた華やかさとは異なる、スカイツリー以前の東京の下町が描かれている。

「せっかく戦災にも遭わずに残った建物や道が、オリンピックのために、高度経済成長のために、と惜しげもなく壊されていくのだ。この銀座の商店街も例外ではなかった。松屋百貨店も松坂屋百貨店もこまつストアーも皆、大改装工事中だ」。(水の眠り 灰の夢 から)

おしなべて20世紀の都市建設は、確かに便利さは提供してくれた。しかし、その様はまさに無印都市の建設だった。そして今は21世紀の都市建設。それは再開発という名の高エネルギー集約による高層液状化都市建設。東京はもはや都市のミエもカタチもない、フラットな郊外都市、高密度集落へと変わりつつあるのです。

2013年11月21日 by Quovadis

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2014年8月27日水曜日

藤村の散文をめぐって

藤村は若菜集からスタートした詩人、やがて破戒、春、家、夜明け前等の長編作家と目されるが、実は沢山の短編・中編も書いている。
早くから英語もフランス語もマスターし、漢籍にも関心が高く、五七調の詩を書き、散文の世界にも関わっている。
その経緯はふるいものを壊し、新しい言葉を新たに作っていく。その時全てを壊すのではなく、いいものは残す。
藤村の方法はまさに、言葉の「継立て」と言えるようだ。

継立てとは 「夜明け前」にも度々登場する言葉。
街道において「宿」から「宿」へと「ひと」「もの」「情報」を 継立てていく。
この日、堀江敏幸氏の講演は「継立て」に視点を置いての藤村文学の話しと言ってよい。

藤村の故郷は美濃と木曾の境界にあり、中山道の宿、馬籠。そこは文字通り継立ての場。その文学もまた明治と大正の狭間、同時代、表現された言葉も文語と口語を継立てている。
藤村は言葉を「継立て」ることで、自らの文学を留まらせることなく、新たな表現を模索し、人間世界への洞察を深めていく。
藤村がもつ文章を書き続けていくことのしぶとさはこの「継立て」にあったようだ。

講演の後半で具体的に触れた作品は「柳橋スケッチ」の中の「海岸」。
「柳橋スケッチ」自体が5つの短編で作られているが、その中の一つの短編「海岸」は4部に分かれている。
内容は一文一文、時間が行ったり来たりする複雑な構成。
それは時間のズレを読者と共有しようとするもので、まさに柳橋の下を流れる水のように、絶えず揺れ動いている文章だ。
藤村は小さな短編を書いているのだが、それは大きな長編小説と全く変わることはない。
だからこそ、彼はその全体を「スケッチ」と呼んだのであろう。

「柳橋スケッチ」を一度も読んだことの無いボクにとって、堀江氏の言わんとするところを百パーセント理解できたわけではない。
しかし、メモ帳に残された走り書きはどれもこれも興味ある事柄ばかり。
すでに講演から1週間も経ってしまったが、幸い 「柳橋スケッチ」を電子ブックで見つけることが出来たのでメモ帳を片手に読んでみた。

「柳橋スケッチ」は柳並木、柳橋、神田川の岸、日光、海岸という5つの短編の一群とした中編小説。
明治から大正という狭間の時代に書かれている。
それは藤村自身が3人の子を失い、妻を失い、こま子との関係に懊悩している時。
そして彼がまさに自らの「新生」に向かおうとする象徴となる作品と言える。

特徴的なのは前半3部が川、藤村の日常生活の場である柳橋、神田川での考察、そして後半は海への思考。
この川から海への展開の「継立て」になるのがワイルドの「獄中記」であり、藤村を「新生」に導く。

川と海は死と再生のイメージを喚起し、生きる上での新たな活力を感じさせる。
その各々はバラバラなアンソロジーだが、全体は一つの長編のような構成。
事実、川部分の3部は長編小説の「新生」そのものと言える。
私とK君の川岸での出会いに始まり、静思、自省、停滞、澱み、理由のない寂寥感が描かれている。

転機を描く「日光」の編。
「私」という人間を規定している肉体的苦痛から旅行へを導くもの、それは獄中記への親近感と苦痛から遊離した虚構の持つ霊的な力と言えるようだ。

「彼(ワイルド)の「新生」とは人生を持って芸術の形式となすにあった。かくして始まる芸術的生活は結局一種の作り物語であろうと思うけれど、彼のいわゆる知力的勇桿には動かされる。」そして、「心がかわいてきたーどれ、日光を浴びようか」 (「日光」から引用) と藤村自身の「新生」への継立てを宣言する。

最後の編、「海岸」は今日の講演の堀江氏自身の継立てでもあるようだ。
藤村の特別な研究者でもない堀江氏が坪内祐三氏に請われ「明治の文学」の編集に関わったことからこの「海岸」に出会っている。
この短編は明治期に書かれ大正期に出版された。
文体には時代の気風が反映されるので、よくあることだが、書かれた時と校正し出版された時とのタイムラグはそのままズレとなって文章にはあらわれる。

「上総の海、とうとうこの海岸の漁村へ来た」 (「海岸」から引用) 、
今までの文体と異なり、まるで前代の雅文のような調子で藤村は「海岸」を書き始める。
つまり古い文体だが新しい精神を表現する。

中盤では海を写生する画学生の絵に現実の海にはない船が描かれていることから、無為、空虚、平凡な日常を引き吊り旅に出た自分だが、ごくわずかな間、 画学生の考えによって日常の海を「永遠」そのものとして見る海に、「なめらかな波の背、波のしわ、うず、日光の反射、透きとおるような海の色、それらのものが集まって自分のほうへはいってくる印象はあざやかに生き生きと感ぜられる。」海に、変わると藤村は書く。 (「海岸」から引用)
つまりここもまた、ワイルドが言う虚構が持つ霊的な力の再確認。

時制を含み、この短編の複雑な構成はすでに触れたが、藤村は最終節で70歳に近い、目の見えない老婦を登場させ、彼女の子供の頃、やがて大人になり、そして今はその人の最後を見る思いを感じさせる文章だと堀江氏は語っている。

「この宿に一人のおばあさんがある。七十近い、目の見えない老婦だ。その年まで生き延びたら、食うという欲よりほかに残らない人で、あてがわれたわんを大事にしては、食事の時間でなくともガツガツ震えている。暗い部屋《へや》にひとりで引きこもっていて、かみさんの足音を聞きつけるたびに、例のわんをさしつけて拝むようにする。
「おばあさん、朝の御飯がすんだばかりだよ……そんなに食べたがって、また腹下しするよ……。」かみさんにしかられては、おばあさんは、子供のようにわんを引きこます。わたしは思いがけない所で、人の一生の最後を見る気がした。
 わたしはよく年ごろな婦人やかわいらしい娘などを見るたびに、その人たちの子供の時の容貌《ようぼう》や、それから年をとっての、姿などを思い比べることがある。
「わたしたちがずっと年をとったら、どんなふうになるんでしょうねえ。」とある娘が言ったが、わたしは今、あの娘の言ったことを思い出した。おそらくわたしが東京へ帰って、この漁村で見たおばあさんの話をしたら、どうかしてそんなになりたくないものだと、あの娘などは言うかもしれない。」(「海岸」から引用)

それはあの娘、新生の節子、実の姪のこま子へと引き継がれる想像的世界、この小さな短編は壮大な長編をその内に秘めていると堀江氏は読み取っている。

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島崎藤村展

「小諸なる古城のほとり」や「まだあげ初めし前髪の」は歌曲としても知られた藤村の詩。
その歌には思い出がある。
高校時代の友人、と言ってももはや他界してしまった、男ともだちだが。古今和歌集や山家集に被れたふたりは共に伊豆や信州の旅をし、演奏会にも出かけた。
本とクラシックが好き、お互い島崎藤村を読んでいたことは間違いない。
しかし、話は「惜別の歌」を含め、多少の若菜集や落梅集と歌曲のことばかり。
藤村のことやその作品に深くふれ、話し合うことははほとんどなかった。

ボク自身から友人に藤村の話をできなかったのには理由がある。
「新生」だ。


ある時、この友人とは別の友人から芥川の「ある阿呆の一生」の話しを聞かされ、そのませた情報に唖然とさせられた。

「新生」は藤村の実話、それも兄の娘に子を産ませた近親相関というスキャンダルをそのまま描いた物語。
小説は様々の局面が舞台となる様々な人間の物語。実話であるか否かに関わらず、当時、まだウブなボクはこの小説もまた近代の浪漫派小説の一つとして気楽に読んでいた。

しかし、友人の言う「ある阿呆の一生」の中の、(「新生」に至っては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった。)という芥川のくだりが、それ以降、ボク自身から藤村に触れることを奪ってしまった。

高校卒業近くになって、偶然、藤村のこんな文章に触れた。
……ここに引いた『新生』とは私の『新生』であるらしく思われる。私はこれを読んで、あの作の主人公がそんな風に芥川君の眼に映ったかと思った。
 知己は逢いがたい。『ある阿呆の一生』を読んで私の胸に残ることは、私があの『新生』で書こうとしたことも、その自分の意図も、おそらく芥川君には読んでもらえなかったろうということである。私の『新生』は最早十年も前の作ではあるが、芥川君ほどの同時代の作者の眼にも無用の著作としか映らなかったであろうかと思う。しかし私がここで何を言って見たところで、芥川君は最早答えることのない人だ。唯私としてはこんなさみしい心持を書きつけて見るにとどまる。でも、ああいう遺稿の中の言葉が気に掛って、もっと芥川君をよく知ろうと思うようになった。

 島崎藤村 「芥川龍之介君のこと」

以来、ボクは芥川龍之介を読むことはなかった。と同時に、藤村の言う「新生」で書こうとしたことと、その意図を正確に知りたいと思い、藤村を読み続けた。
「新生」は確かに、スキャンダルには違いない。しかし、ボクは文人として生きることを自分自身に科した藤村自身の決意と覚悟の物語として読みとっている。
大学は文学部ではなく、工学部建築科だが小説はかなり読んでいる。多くはフランス、ドイツ、ロシアだっただろうか。リリカルだが、古典の叙事詩のような人間の物語がボクの好みだ。日本の私小説はボクには不向き、しかし、藤村は好きだった。多分、書店にある藤村の大半は読んだだろう。

「新生」は藤村自身がようやっと文人として世に出た頃、描かれたもの。物語のなか岸本捨吉は東京に移住するが家族の生活は貧困のどん底。そんな中、妻は子どもを残し、早々に他界してしまう。
必死に書き続ける捨吉は節子に助けられる。彼と彼の幼い息子たちの世話と生活を支える健気な節子。いつか岸本は、そんな節子を愛するようになる。

やがて、身ごもってしまった節子を残し、フランスに行く捨吉。しかし、パリは第一次大戦によるドイツの侵攻。捨吉は友人の画家と共にパリを脱出、フランス中を逃げ回り、這々の体で阿修羅のようだが日本に戻る。

物語は確かに、このフランス前後の藤村自身の世界だ。節子は兄の次女、実在のこま子のこと。そして、藤村はこの前後の事情を懺悔として描くと物語の中で語っている。と同時に標題は「新生」、人間は生まれ変わることはできないが、新たに生きることはできる。そんな、物語の核心は、阿修羅の中で取り交わされるふたりの手紙の中に垣間見える。特に節子の手紙、もちろんそれは作者である藤村自身の言葉だが。切々と語るその文は、もはやふたりだけの恋文とは大きく隔たる、人間としての新たに生れ出る新しい世界のことなのだ。

藤村は小さな私小説家ではない、大きなフィクションを書いているのです。
ギリシャ神話にあるような普遍的な人間の持つ虚構の世界を。
そんなかってな解答を秘め、芥川を嫌っていたが、さらに後年のある日、ネットの千夜千冊で松岡正剛さんの「夜明け前」を読んで「目から鱗」だ。

「夜明け前」は「新生」のすぐあと、フランスから帰国後、こま子と別れ完成させている。
その内容は藤村の実父、島崎正樹の半生を画いたもの。
つまり、「新生」と同様、藤村にとっての生の体験が大きな小説を生み出している。

そして松岡さんが書かれているのは以下のくだり。
(藤村は王政復古を選んだ歴史の本質とは何なのかと、問うた。しかもその王政復古は維新ののちに、歪みきったのだ。ただの西欧主義だったのである。むろんそれが悪いというわけではない。福沢諭吉が主張したように、「脱亜入欧」は国の悲願でもあった。しかしそれを推進した連中は、その直前までは「王政復古」を唱えていたわけである。何が歪んで、大政奉還が文明開化になったのか。
 藤村はそのことを描いてみせた。それはわれわれが見捨ててきたか、それともギブアップしてしまった問題の正面きっての受容というものだった。)
千夜千冊「夜明け前」から引用

そうだよ藤村の物語はいつも大きなフィクションなんだよ、単なる木曽山中の本陣の息子の話しではない、当時の日本人が誰も書けなかった本来の「ご一新」と挫折を藤村は実父正樹の半生を青山半蔵に託して浮き彫りにした。
「ご一新」の本来的な意味、それはまだまだ問うべきであろう、永井荷風や幸田露伴、さらに漱石や・・・・文化的範疇で近代日本に疑問を持つ作家は数知れないのだから。

藤村好きのボクには藤村について考えて見たいことがまだまだ沢山ある。そして、いつも気に掛かり、手放せず、ことあるごとに振り返って読みたくなるのが「夜明け前」なのだ。


現代の我々が日に日に失っているもの、それを短絡的に現代の西欧主義・日本主義、右主義・左主義、工業主義・自然主義、民族主義、宗教主義で語って腑に落ちてしまっているのが大半だ。しかし、そういうわれわれ自身の問題を藤村は90年も前、すべてを文章にし、かたちにした、それが「夜明け前」なのだ。

「親ゆづりの憂鬱」をもって自己を「歴史の本質」に投入させるという作業、 と松岡さん前述の彼の「夜明け前」に書かれているが、まさに、インフラストラクチャーの瓦解に関わる人間の生き様をこれほど実感を持って書かれた小説は日本では見当たらない。
ボクの関心はいつもこのインフラストラクチャーの瓦解に関わる「狭間の人間」にあり、それが相も変わらず「イタリア・ルネサンスの音楽と建築」から抜け出せない理由でもあるのだが、この「狭間」は決して単なる経過ではない、
人間の意志つまりフィクションだ、だからこそ、詩や小説が必要とされ、音楽と建築も必然なのだ、といつも思っている。

松岡さんは千夜千冊の「夜明け前」の締めを以下のように書いている。
(どうも「千夜千冊」にしては、長くなってしまったようだ。その理由は、おそらくぼくがこれを綴っているのが20世紀の最後の年末だというためだろう。ぼくは20世紀を不満をもって終えようとしている。とくに日本の20世紀について、誰も何にも議論しないですまそうとしていることに、ひどく疑問をもっている。われわれこそ、真の「夜明け前」にいるのではないか、そんな怒りのようなものさえこみあげるのだ。)
どうやら、狭間にあるボクたちは現在、意志あるいはフィクションを表現しえていない。
やはり、古代に習い叙事詩を語り、音楽と建築を生み出す毎日であらねばならないようだ。

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2014年8月14日木曜日

塩田平

亜熱帯化した東京を台風11号の接近前に抜け出し塩田平に来た。
ここはかっては湖の底、いや、常楽寺梅楽苑の女店主には海の底だったと教えられた。
大昔の信濃川が産み出す広大なアースワーク。
その河岸段丘の東は上田平だが、西が塩田平。
なるほど、ここはかって海の底だからこそ塩田平。
地名とは人が記録する文字ではなく、悠久の風景が語るものであるようだ。

東京駅から新幹線で僅か九十分、上田電鉄に乗り換え三十分余りで別所温泉。
シックなダークブルーの車両、オシャレな一両電車は塩田平をほぼ真一文字に西に走る。
その終点駅から、緩やかな坂を上ると段丘の淵、石造多宝塔の常楽寺と八角三重塔を持つ安楽寺に着く。

段丘の淵を段崖と呼ぶが、ここは崖とは言い難く、上る道はごく緩やか。
しかし、歩を進めれば進めるほど、振り返る眼下には長閑な平原が大きく広がって来る。
今は、フラットな戸建て住宅が密集する、日本中どこにでもある郊外住宅地の趣だが、かっては豊かな農産物を育む田園とそこに生きる人々の平安の地であったことを、前面の空を縁取る緩やかな山々の重なりが教えてくれる。

決して暑くない、幸いまだ雨もない塩田平の段丘に建つ幾つかの建築を見て回ろうと言うのが今日の目的。
と言っても、クルマもタクシーも使わないのが、ボクの建築見学の鉄則。
友人が待つ夕方の軽井沢の宿までのひとときの時間。
取り立てて下調べも予定も持たず、のんびりとした一人歩き。

安楽寺を有名にしているのは国宝の八角三重塔。
中国風禅宗建築と平安以来の和風建築をミックスした何ともユニークな建築。


四角を多角化すればするほど、形状は円に近づく。
軒を支える斗拱は複雑化し、部材断面は細分化され、木造架構は困難を極めるが、より丸く見せようとする塔は当時の新生中国、元との闘いに勝った明の国の息吹を伝えているかのようだ。

何故なら、明の時代こそ今の様々な大工道具が発明された時代。
我が国の木造建築もこの時代の中国からの到来した新しい道具を駆使し、いよいよ技術の洗練を極めていく。
一方、瓦ではない、こけら葺の屋根は和風の伝統、鳥の羽のような柔らかさはどの時代も我々の持つ心象とピッタリと呼応する。

隣りの常楽寺には塔はない。
あるのは日本には珍しい七重石塔の連なりと厚い入母屋茅葺きの屋根を持つ立派な本堂。
そして、圧巻は甘露甘露の梅汁のかき氷。
曇り空とは言え、今は日本の夏の真っ最中。
見晴らしのいい高台で、風に吹かれ、景観を楽しみつつの甘味は最高だ。

まだ、暑いし混むからと、家を出るの躊躇った我が身を強引に誘い出した友人に感謝しつつ、そんな話を他に客が居ないことを良いことに前述の女店主にうち明けた。
と、いろいろと彼女とのお喋りは続いたが、気がつくともうお昼すぎ、あわてて坂を降りかかると、今度は畑の中に「石挽き蕎麦」の旗竿を発見した。

信州に来たら、まずは蕎麦。
それに河岸段丘の断崖の地はどこも水がうまい。
その旗竿の脇にはクルマが数台。
さらに見回すと、店とはいえない普通の住宅の玄関に暖簾が掛かっていた。

ここの蕎麦も旨かった。
こんな店では山菜天麩羅は欠かせないのだが、
のんびり散歩には冷酒と焼き味噌か漬け物が決まりもん。
そば久は有名店のようだ。
混んではいたが、幸い引け時、待つこともなく座敷に座ると、
ほどなく注文の冷酒がきた。
それも、石挽きのさらしにはピッタリの酒、石川の「菊姫」だった。
ただ一人、顔には出さず胸の内では小躍りしながら、
小一時間タップリと想定外の酒と蕎麦を楽しんだ。

のんびり散歩とは言え、別所温泉だけですでに時間は悠に回ってしまった。
しかし、ついていると言って良いのか悪いのか、
そば久の席を立ちついでに帳場の女性に、これから行く段丘に建つ前山寺やデッサン館・無言館への道を聴こうとすると、なんと店の下二百メートルの温泉駐車場から、もうすぐ循環バスが出るという。

タンブラーのマップを見るまでもなく、バスは丘の緑陰を突っ走り、あっというまに龍光院まで来てしまった。
客は一人だけ、適当な場所で降ろしてもらおうと思っていたが、降りたのは正規の停留所。
なんのことはない、降りるつもりの中禅寺を一瞬のうちに通り越してしまったのだ。

中禅寺の薬師堂は重要文化財、平安末期の建築だが、見学は寺々だけが目的ではない、今日は諦め、先に進むこととした。
惜しまれ、躊躇させるのは塩野池手前の塩野神社。
その橋掛かりを持つユニークな形態の神社の話しは、梅楽苑で教えて貰っていただけに、悪いことした気分でチョット心残り。

バスを降りれば、ここは塩田の館。
立派な新築の木造建築の展示館。
形態は上階を持つ養蚕農家、多分、全盛を極めた繊維の上田の象徴だろう。
山門は欅の大木を従えた大きな黒門。
龍光院はそれだけでも、すでにある種の威厳を放っている。
この威厳はこの地を治めた北条氏の力だけではない、遠い鎌倉からの歴史を伝えているようだ。

創建は十三世紀後半、その後北条氏の滅亡とともに衰退したが、塩田北条氏ゆかりの地であっただけに武田氏に保護され、徳川時代、曹洞宗寺院として再建されている。
しかし、塩田の館と同様、今の建築は新しい。
狭い境内に大きな本堂。
屋根も大きく堂々としている。
正面入り口扉の両側に設えられた禅宗寺院特有の二つの火灯窓が何とも可愛らしく微笑ましい。

龍光院を出て心残りの塩野池を背にすると散策には持って来いの小道が前山寺まで続いている。
梅楽苑で教えてもらったアジサイの道、かっての鎌倉街道だ。
本道に戻ると、やがて右手に大きな椎の木(多分)を従えた黒塗りの門と前山寺と書かれた石柱。
同じ黒塗りだが、その門の風格と大きさは龍光院の黒門には叶わない。

しかし、大木を従え視線を参道に導くそのデザインには、今どきは見ることがない、意志の強さ鋭さが感じられる。
門からの敷石の参道は桜並木とともに一直線。
石段にかかると、ここからも一切折れることなく真一文字に頂上の山門に掛け上る。
上りきると三重塔は山門に縁取られ、なんと真正面に姿を表す。
塔は手招きするように前面に躍り出て、その全容を露わにする。

ここまでは大木を従えた小さな黒門から一直線の敷道と石段。
そしてまた、また山門をくぐると、三重塔まで一直線の敷道、石段が繰り返される。
ここまで来るともう、デザインの意志のもつ強さどころか脅威を感じさせる。
こんな古代風の伽藍配置も始めて体験させられた。

しかし、この配置は偶々だろう。
門、塔、講堂と一直線に列ぶ伽藍配置は日本では飛鳥や四天王寺という奈良以前の寺院ですでに終わっている。
斑鳩の法隆寺ですら、塔は本堂と並列、門の真正面に建つことは決してない。
この寺は九世紀の弘法大師に始まり、三重塔の建立も十六世紀前半の室町時代と目されている。
そんな古刹の寺が北を正面とした山門の前面に建つ事などありえない。

境内に上がり周囲を見渡してようやっと気がついた。
上がり切った境内の右手、西側に当たる、さっき通り過ぎてきた鎌倉街道側が元々の参道なのだ。
こちら側から上れば塔は真西に位置し、その左手、南側に本堂が建つことになる。
その本堂の正面も、いくら眺めが良いからといって決して北側、塩田平側に向けることなく、塔側(南側)、鬱蒼とした山側、 に向いている。

小さな三重塔だがこの塔は見応えがある。
解説書では未完の塔と書かれているが、この塔の魅力はむしろその完成度にある。
室町特有、塔身はやや膨らみかげん、しかし、こけら葺の屋根は反りが強く柔らかく、その全体はまるで十代の少女のようなイメージ。

すでに、日本中多くの五重塔、三重塔を見てきたが、やはりこの塔はボクの好み。
部材構成や断面形状に狂いなく、その全体は清楚絢爛に組み上げられている。
狭い壇上に建つ、立ち位置から、納得のゆくフォトを撮るのが難しいのは、日本の中どこの寺にも共通している。
そしてまた、プロのフォト作品でさえ、これはいい、これは凄いというものには、なかなかお目にかかれない。
雪や桜や紅葉という取り巻く周辺に一切関わることなく、生身の塔の面白さはやはり、生身で体験し、想像するしか方法がないのだ。

石段を北に降りると、平地の右手は信濃デッサン館。
蔦に絡まれた平屋建て切り妻の美術館。


今日は憑いていることになんと立原道造展の開催日。
本郷東大裏にあった道造記念館は一昨年閉館されたが、今日もまた図らずも、こころゆくまで、その展示を見ることができた。

実は明日からの友人との軽井沢予定は昨年六月に亡くなられた、なだいなださんの講演会、そして、立原道造展を覗こうというのが今回の目的。
そうそうに一人出かけてきたのは、この塩田平では道造展に出会うことはつゆ知らず、前山寺周辺の槐多庵・無言館・スケッチ館でのんびりしていようと思ったからだ。

無言館(戦没画学生慰霊美術館)は切り妻の屋根に打放しコンクリートの外壁、デザインは素朴で単純、そのイメージはストレートにヨーロッパ中世ロマネスクの僧院に繋がる。
その前方はすべて北の塩田平を見渡す長閑な平原。
後方の樹林からは蝉音も鳥声も聞こえてこない。
雨もないが照りもない、人もいない静かな時間。


草地には厚板の木板の椅子とテーブル。
そして、漂う珈琲の薫りと湯気。
まるで月並みな、コマーシャルなような時間だが、突然のバス音に消える。
16時31分、ボクだけを駅に連れて行く、小さな循環バスが到着した。




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