2011年10月15日土曜日

ゴシック建築と多声音楽




( パリ・ノートルダム大聖堂)

パリ・ノートルダム大聖堂は司教のモーリス・ド・シェリーが1163年に旧来の諸堂を廃し着工、二十年後に内陣が完成、やがて次の司教ユード・ド・シェリーに引継がれる。十三世紀に入りようやっと西正面、そして薔薇窓が徐々に完成して行くという長期の建設。 この大聖堂は人々にどのような意味やメッセージを発信し続けていたのか。それは人生における誕生から臨終まで、この建築は「人はいかに生きるか、いかに神とともにあるか」を伝えるもの。

建築に施されたメッセージはアレゴリー(寓意)化されている。具体的な言葉でなくシンボル(象徴)となる装飾を読みとり、解釈する事によって、人々は集団として生きる現実世界と個々人の持つ内面的・想像世界とを行ったり来たりして読み取る。

現実と観念という二つの世界にある絵画や彫像そして建築、この大聖堂の持つ壮大な視覚的デザインはゴシックと呼ばれる。語源はイタリア語のゴティコ、古典古代とは異なる野蛮な様式という意味を含めイタリアの知識人が呼んだことに始まる十二世紀フランスの宗教デザインの様式だ。アルプスの北、同時代の精神世界のすべてを表現している様式だ。

音楽と建築はメディア、しかし、大聖堂の個々の装飾的象徴が描くメッセージの解釈は他書に譲り、(十九世紀末ユイスマンスは「大伽藍」を著し、シャルトル大聖堂のメッセージを小説化している)ここでは大聖堂の建設の時代の「音楽と建築」の意味に触れてみたい。

(都市の時代に対応した神の姿)

天にも届くゴシック建築と華やかな綾織りのような音楽を生み出す世界。光に満たされた大聖堂とその誕生に呼応し立ち上げって来る複雑な音の絡まり、多声音楽の世界は何を意味していたか。外から差し込むステンドグラスの光によって華麗に装われた建築は、その空間に見合う多彩な音楽空間を必要とした。あるいは複雑華麗な音楽は多彩な色光が輝く巨大な建築空間を必要とした。次第に雄大な姿を現してくる大聖堂の工事と並行するように、様々なロマネスクの修道院の中で展開されてきたオルガヌムは、二声楽曲から三声、四声楽曲へと広がってゆき、 やがて壮大な多声音楽となり、この新しい大空間いっぱいに鳴り響いていく。

新しい世界の始まりはまずは建築だった。それはパリの大聖堂の建設とノートルダム楽派の多声音楽が始まる二十六年前のサン・ドニ大聖堂の建設にある。十二世紀初頭、二人の聖職者の論争がこの時代の音楽と建築に託された意味に触れている。

パリ近郊サン・ドニの修道院長シェジェールは荒れ放題の修道院の再建に当たって「より高価な、最も高価なものは皆、まず第一にミサ正餐に用いられなければならない」と語っている。ここでいう最も高価なもの、それはガラスのこと、彼は高価なステンドグラスを多用することで、光に満ちた聖堂を作ろうとした。その為には出来るだけ壁体を取り除き、透き通った建築物にすることによって神の国という観念の世界を地上に実在化しようと計ったのだ。

サン・ドニの再建の中世、西ヨーロッパは農業技術の革新による人口増加、その結果としての都市の成立を迎えている。人間と人間、人間と自然、人間と世界の関係は大きく揺れ動いていた。

働く人、戦う人、祈る人と身分(農民・貴族・僧侶)も住処も明解に分離していた社会は変わる。人々は集中して住まい、モノや人が集まる都市が作られ、商人や手工業者という新しい身分をも生み出た。水陸の区別を問わない交通網の整備、貨幣整備によるモノの流通の活発化は人々のライフスタイルを全く新しい世界に誘導しつつあったのだ。 そのような時代にもっとも必要とされたもの、それは個々人の富ということより、集団による華やかな正餐、その正餐を讃える豊かな音と光だ。

 (fig15)

ステンドグラスも新時代の技術と嗜好の産物だが、この変化の時代、シュジェールを含め聖職者たちはより直接的、危急なテーマを抱えていた。それは都市の時代に対応した神の姿、新時代のライフスタイルの精神的基盤となる天上界のイメージをこの地上にどのように実在化させるかにあった。 

(ベルナールとシェジュール)

新しい時代における建築への論争はへまずシトー修道会から始まった。 それはクリュニー修道院に対する痛烈な告発。修道院制度の改革を推進していたシトー会のベルナールは壮大華美に転じたクリュニー修道院総本山を「途方もない高さ、節度を知らない長大さ、あり余る横幅、贅沢な装飾、そして奇妙な彫像、そういったものは、礼拝者の視線を釘付けにし、かつ、かれらの信仰を阻害する・・・」。 ベルナールは時代とともに歩み寄ってきた修道院の世俗化に対し、清貧の理想、初源的で純粋な倫理の追求を広言する。

これに反論するのが前述のシェジュールの言葉。彼は次のようにつづける、これからのサン・ドニを再建するにあたっての新たな建築の正当化言説と言えるものだ。

「誹謗者たちは、聖徒のような精神、汚れのない心、信仰深い意志があれば、ミサ正餐には十分であるはずであると反駁する。わたし自身もそういったものが最も重要であるとはっきり確信できる。しかし私たちは、それらに加えて、外面の装飾を通しても、また言いかえれば、あらゆる内面の清浄さと同時に、あらゆる外面の壮麗さをもって、神に敬意を払わなければならない」。 

(ゴシック建築のメッセージ)

質素と豪奢、ベルナールとシュジェールの主張は相反してはいるようだ。しかし、よく考えれば二人はともに新しい時代への共通のメッセージを主張している。「 教会は超世俗的な空間でなければならない」。

超世俗的であることの実現は個々人の持つ豪華絢爛を遙かに越え、集団としての人間が神の国の実在に立ち会うことだ。ゴシックの世界はその後の歴史には二度と現れることのない集団による「超越的世界」を希求していた。

十ニ世紀初頭は西ヨーロッパの都市の時代の幕開け。古くから都市国家であったイタリア半島とは異なり、アルプスの北は初めて「都市」を実現する。多くのモノと情報に囲まれ、世俗的富を謳歌することがはじめて可能となった時代。そんな時代の到来であったからこそ、神はより高く、より超越的であることが求められた。さらに神は絶対者としての峻厳であることより、愛に満ちた<美しき神>であること。絶対者キリストから聖母マリア(ノートルダム)への信仰へと向かっていたのだ。 

  (fig16)

世俗を超越する、より高き天上界のイメージ、峻厳厳格なキリストから慈愛に満ちた聖母マリアへの信仰。 このことが新しい時代を迎えたシェルジュールたち聖職者たちが実在化しようとしたメッセージ。 その為に重い壁体をリブヴォールトやフライングバットレスという透明感のある構造体に変え、ステンドグラスから差し込む光りにより、新しい神の国の創出をめざしたのだ。

(時間を記述すること、計量的時間)

西ヨーロッパの主流となる科学的思考の始まりは中世になりギリシャの哲学や科学を知るようになってからのこと。ギリシャの思考が広まったのは西暦八百年から千二百頃に栄えたイスラム文明によるところが大きいと言われている。アラブ人やペルシャ人がギリシャ人の哲学、数学、科学を見いだし、その価値を認め、写本を保存し、翻訳し、注釈を加え、さらに自分たちの重要な発見を加えていった。

アリストテレスやユークリッドやアルキメデスを知ったのはザンクト・ガレンにおけるイスラム文明の接触を通じてのこと。十二世紀、ザンクト・ガレンに始まった研究活動は三・四世紀後にはギリシャの学問を完全消化吸収し、新たな科学的合理思考を形成する。その典型がコペルニクスやケプラーの開いた世界。しかし、彼らの考え方とてギリシャ流の思考の枠内、つまり依然として、静止した絵のような空間にかかわる概念に支配されていて、時間的変化、空間上の位置変化、天体の運動に関する記述という問題には全く踏み込んではいない。

運動を数学的に記述する方法をつかんだのはガリレオ・ガリレイ。彼は時間を記述し計量化することで物体の自由落下の法則を発見した。

運動を記述するには移動距離、速度、速度の変化が必要だが、彼は速度や速度の変化は経過した時間との関係で表されるということに気がついた。さらに時間の経過は環境にあるナニモノにも左右されない独立したもの(計量的時間)と考えた。時間は運動によって記述されるのではなく、その流れを一様とし、数学的に独立した変数としたことで計量化が出来、運動を記述することが可能となったのだ。

(多声音楽と計量的時間)

自分自身の主観的時間「経験」「自分が感じる時間」は計量的時間とは食い違うが、この「計量的時間」という抽象的な構造物は、実は十三世紀の初め パリ・のノートル・ダム大聖堂の多声音楽と記譜法の理論において最初に現れている。

多声という楽曲は二つ以上の旋律を持っている。音の高低が異なる男女が一オクターブあるいは五度ずれて歌うのは良くあることだ。しかし異なる旋律を意識的に構造化し同時に歌ったり演奏したりという音楽を作ったのはヨーロッパの十一世紀以降が初めてだ。多声の変遷は平行多声、自由多声という展開にはじまる。十二世紀リモージュにある修道院サン・マルシアルでは旋律が全く別であっても、同時に発声される音の長さは両方の声部とも同じという規則がなくなって行く。

このことから定旋律に対して付け加えられる第二の旋律はより自由に歌うことが可能となった。そのかわり、定旋律を歌う人は第二旋律を歌う人が独立したパートを歌い終わるまで自分の音を引き伸ばし、待たなければならないのだが。

パリのノートル・ダム大聖堂では、それはちょうどこの大聖堂が建築中でもあったのだが、同時に進行する三つから四つの声部を持つ多声曲が作曲された。

何故、そんな複雑な時間の構造体の記譜が可能となったのか。それは各旋律の時間的あり方が同じ時間の単位で調整されていたからだ。ガリレイの言う「計量的時間」についての概念なくしても、各声部は声部ごとのまとまりが与えられ、全体としては一つの記号体系を創りだすことが可能となった。

このノートル・ダムの体系をリズミック・モードという。時間の持続の標準を短い音に決め、その二倍長い音、三倍長い音を表す型をあらかじめ決めておき、その型をギリシャの韻にちなみ、「長短格」「長短短格」というようにモード設定し、その繰り返しを表記、調整し作曲していった。

この時間の構造体は科学でも哲学でもない。当時まだ大聖堂を創る建築家の名前は記録されなかった時代、この表記法を編み出したノートル・ダム大聖堂のレオナンとペロタンは歴史上最初の作曲家として賞賛されている。