18世紀は虚構から自然、集団から個人、観念から経験という市民社会への変容の時代。芸術においては視覚的静止した絵画的世界より、音楽や建築のような動的体験的世界が問題となっている。その世界とはもはや「神話や風景」というsenographyではなくscenery、一時的瞬間世界ではなく持続的体験世界へと変容した。
一般的には18世紀はカソリック支配のバロックから脱した新たな人間の世紀、神ではなく人間の現実をよりどころとし理性主義、啓蒙主義の時代と言われている。啓蒙とは無知蒙昧を啓発し人間性の向上を目指そうという考え方。迷信や信仰、あるいは不合理な習慣は批判され、「自然に帰れ」と叫ばれた。しかし、同時代が言葉通り新しい人間を生み出したかどうかは疑わしい。そこに生きる多くの人々がことごとく新しい時代を理解し、新しい世界を生み出してきたわけではない。なぜなら、現代にいたる近代人は相変わらず、自然を破壊し、エコノミックアニマルとの戦いに明け暮れざるをえないからだ。
台頭した市民意識の中で旧態の共同体が持つ集団主義的権力は払拭されたが、それに変る個人主義的自由が新たな世界そして建築を生み出したわけではない。むしろ本来の建築が持つ集団的な意味や「特別な空間」という虚構的世界が解体されていっただけではなかったのか。その後、現在に至る350年間は機能と機械を拠り所とする建造物はともかく、新しい世界をメッセージする建築は悉く崩壊した。虚構から離れた建築はあるがままの風景に役立つの道具へと変容していく。
一方、音楽史からみるとこの18世紀は古典主義という土台の上にロマン主義の花を咲かせた時代。それは、建築とは異なり、あるはずの時代が持つ神話・宗教を払拭し、新しい人間の音楽を生み出す時代となっていた。コスモロジーは失ったが神と距離を知った時代、音楽はソナタという形式を獲得し、調性を駆使し、時間的にも空間的にも切れ目のなく連続する風景世界を描いていく。