2011年2月17日木曜日

ルネサンスの音楽と建築/©



(アルスとウースス)

西ヨーロッパの人々にとって芸術は長い間、イディアを模倣するものだった。現実を感情の赴くまま、目で見た世界をそのまま描くものではない。音楽もまた一過性の感情表現がその役割ではなく、合理的な思考の世界「全ての事柄は理論理性で説明がつく」という信念に支えられていたのだ。

人間の五感は不完全なもの、現実に見たり聞いたりする背後にこそ確かな世界がある。その世界だけが信頼するに足る世界であり、芸術が描くべき世界。

ギリシャのイディアにかわり中世では神のみが「音楽と建築」を支えていた。初期の教会の音楽には全音階を用いなければならいという不文律がある。半音階は悪魔の音階と考えられ教会の中では、全く許されていない。

十三世紀になるとこの音楽上の制約から、いかに表現の可能性を汲み尽くすかがポイントとなり技法の開発がなされる。 その技法をアルスという。アルスの対語がウースス、一般的慣習を意味する。

ウーススが支配する民族音楽、世俗音楽には半音階が多用されていたが、これらの音楽とは別個に、楽譜の上でアルスの開発を進めたことが、その後の音楽を大きな発展に導いた。

ヨーロッパの音楽はウーススから離れアルスの開発に向かうことにより、教会の音楽のみならず世俗の音楽もまた、単なる感情の表現媒体として捉えたのではなく、人間による思考や学問の一形態として位置づけられるようになった。

十四世紀になり音楽の状況は大きく変わる。教会に仕える聖職者であり「捧げものの職人」たちは、世俗にあっては娯楽を提供する役割をも担うようになっていった。司教座聖堂参事会員という肩書きを持つギョーム・ド・マショーは様々な世俗音楽を生みだすと同時に、アルス(技法)にのった自由な音楽作品を作曲する。


(詩学としての作曲)

ネウマ符による記譜が楽譜を誕生させ作曲への道を開いたことはすでに触れた。しかし、ヨーロッパの音楽をさらに大きな世界へ導いたものはアルスによる自由な作曲にある。

人間による作曲という観点で重要な事なので、再度、音楽の持つ「空間性」について触れておきたい。音楽という世界は絵画や建築とは異なり、全体が見渡すことが不可能、カタチを保って留まることがない。

楽譜に書き留めることで、はじめて「空間性」をもち、全体を見渡し、思考することが可能となる。空間性を与えられた音楽は始まりから終わりまでという時間の中に、ある区切りを獲得する。ひと区切りの全体を一つの「作品」として捉えることで、音楽は職人による演奏ではなく、理性的表現の為の思考の空間、つまり「作品」を生み出すことが可能となった。

音楽が多くの知識人や貴族たちに「作品」として認められたということはきわめて重要。ギリシャ・ローマの世界では作品を生み出すことが可能なのは詩神(ムーサ)だけ。あるいは詩学を学んだ詩人のみだった。

音楽はもはや神の啓示ではなく、アルスの開発により詩学とみなされる。音楽家は詩学を学んだ詩人と同列に位置づけられた。思考の空間を得た音楽家は詩学としての作品を生み出し自らは作曲家となった。

現代の私たちは当たり前のようにヨーロッパのたくさんの音楽作品を楽しんでいる。しかし、自国の音楽以上に何故、ヨーロッパの音楽を楽しむことが出来るのだろうか。それはヨーロッパの人々が作品に対し、より自覚的であるからだ。どんな物事に対しても自覚的に関わろうとする彼らは理性的に客観的に、誰にでもわかるようなやり方で作品を生み出している。

古代ギリシャ以来、人間が生きる「自然の世界」以上に、人間が住まう「観念の世界」に対し揺るぎない信頼を与えてきた彼らは、神が絶対の中世から、人間が中心となるルネッサンスの時代をむかえても、決して個人的、現実的感情に走ることはない。アルスによる「作品」を作ることは神の啓示と同じように「信頼に足る確かな世界」を人間自らが生み出していること意味しているからだ。そして、その創作にあたっては人間の持つ主知・主情のみがなせることと強く意識している。この強い意識が次の時代、複雑・多岐な想像的人工物の総体である音楽を作品(=オペラ)として積極的に生み出していく。


(アルス・ノヴァ)

オペラを生み出す十六世紀ではなく、十四世紀に戻ると、かって、ノートル・ダム大聖堂のリズミック・モードがガリレオの計量的時間を先取りし、多声音楽の道を開いたように、アルス(技法)に基づく音楽の時間構造の変化が観念や理念先行の音楽を実在の道に導いた。

それはアルス・ノヴァという音楽運動。リズムや拍子に関する考え方を神学者や哲学者がそれまで持っていた考え方から、新しい時間尺度に変えていこうとする運動だ。アルス・ノヴァは原則や正当性という理論重視の音楽を、新鮮な響きの世界へと開いていった。

アルスの開発により十三世紀も後半になると、自由なリズムを表記する試みが活発化し、音楽のスタイルは大きく変化する。そして十四世紀始めに音楽の理論書、フィリップ・ド・ヴィトリの「アルス・ノヴァ」(新技法)が登場した。ヴィトリは詩人であり、数学者、音楽の理論家であり作曲家。ペトラルカの友人でもあった彼はまさにルネサンス人の先駆けと言える人だ。

この理論書が重要なところは「音符の持つ時間の長さを多様化した」ところにある。多様化とは、本来は1対3という完全分割しか許されていないキリスト教音楽の記譜法に、1対2という不完全分割をも認めるようにしたこと。三拍子系のリズムでしか表記できなかった音楽が、二拍子系でも表現が可能となった。

三拍子は舞曲、それは詩的。二拍子は行進、自然の人間の歩行、行動を促す。従来のキリスト教の中の「三位一体」という理念からは許されなかった二拍子系のリズムの応用がアルス・ノヴァにより論理的に可能となった。結果、詩は全て韻文ではなく散文でも許されるように、音楽は理論上の作品も実践上の立場から書かれ、やがて現在の我々にとっても聞きやすい、滑らかで自由なリズムと旋律の道を開いていくことになる。


(音楽家ギョーム・マショー)

十四世紀始めは絶対的権力であった教皇権が没落し始める時代。新しいローマ教皇の選出にあたりフランス王が干渉し、選ばれた教皇がローマに行くことを妨げられる、歴史にいう「アヴィニョン捕囚」の時代だ。ギョーム・ド・マショーの音楽はこのような時代に作られた。それは教会の中の音楽より、宮廷における世俗音楽のほうが主流となる時代の始まりでもある。

教会の中で発展した多声音楽はバラードあるいはシャンソンと言った世俗のポリフォニーとして展開され、技巧に満ちた美しい歌が沢山生み出される。マショーの時代、それはアルス・ノヴァの結果と言えるものだろうが、音楽は教会の道具であることから独立し、自由な形式を持ち、人間性を自由に表現するものとみなされた。結果、教会では聞くことのできない、多彩なメロディーによるメランコリーな音楽が時代の主流となるのだ。

この時代の世俗音楽は、もはや、現代の私たちが聞く音楽の印象と大きな違いはない。十四世紀音楽の世界に起こったアルス・ノヴァは様々な音楽上の着想が取り込まれる新しい道を切り開いていた。面白いことに、アルス・ノヴァ、そしてギョーム・ド・マショーの音楽に示される音楽上のルネサンスは建築や絵画より百年も先行していたのだ。


(アルス・ノヴァと透視画法)

国土の3分の2を高地と山に覆われたイタリア半島は、豊かで広大な平地が広がるアルプスの北とはいささか異なる生き方が必要とされている。イタリアの人々は地中海に突き出た地の利を活かし、東方の人々と積極的に交易し、手工業を発達させるという生き方を選択した。

西ヨーロッパの農業社会が安定した食料増産による経済的発展を迎える時、この半島の役割は、大陸にない物質資源を調達し流通させること、さらにその為の積極的な人間的交流を計ることにあった。

農業中心社会に於ける生き方では自然に従い、それを掌る神に従順であることが求められる。当然、そこでは清貧禁欲な生活を尊ぶ、キリスト教的価値観が大きな意味を持つ。

しかしイタリア、特にフィレンツェでは商業や手工業の発達を促す別種の価値観が必要とされた。それは現実的、合理的な生き方を賛美し、多少の快楽が許され、自然よりも人間を中心とする考え方。

十五世紀のイタリアでは新しい価値観とキリストに変わる新しい神が求められていたのだ。そんな彼らが新たな「人間と世界、人間と人間」の関係の構築に役立てようと生み出したモノ、それがアルス・ノヴァと透視画法。二つは新しい生き方、新しい神に関わるためのメディアなのだ。


(風景の世界、あるがままの世界)

そのメディアに期待された役割、それは神の啓示による中世的「あるはずの世界」をルネサンス的現実、人間が眺める「あるがままの世界」に変容することにあった。超越的な神が君臨する中世キリスト教社会とは異なる、現実的、快楽的、人間的社会を賛美する神を描くことにある。

透視画法の役割は、神の介入無くしても存在しうる、秩序ある統一世界を生み出すこと。画面の中に描かれる平行線は全て一点(焦点)に集まる。この一点を中心として描かれた世界には秩序ある統一が存在するとみなし、建築家や画家たちは、哲学者のイディアや神学者の神に関わらなくとも「生きるに足る確かな世界」を描けることを発見した。

透視画法の発見は人間の視野を哲学者の偏見からの解放であったと書いたのはゲーザ・サモシ(時間と空間の誕生:青土社)。彼によれば十四世紀の「アルス・ノヴァ」は概念的ではない音楽観を提示し、音楽の可能性を広げ、一世紀後の「透視画法」はルネサンスの画家が世界を見える「あるはずの世界」ではなく、実際に見られるもの、「あるがままの世界」として描き始める道を開いていった。

ラファエロやレオナルド・ダ・ヴィンチの描く世界は美しい絵画である以前にまず「あるがままという理念」として見なければならない。 ルネサンスの人々を魅了した透視画法は神に変わる秩序を人間によって生み出し得ることを可能としたのだ。その世界は神のいる世界ではなく、神のいる世界を眺めた世界。そしてルネサンス以降「音楽と建築」は「神話」や「聖書」に変わる「風景の世界」に関わることで、新たなデザインの道を開いていくことになる。


(自由都市フィレンツェの発展)

フィレンンツェは紀元前一世紀、カエサルによって建設された古代ローマの植民都市。その位置はローマと北イタリアさらに西のガリア(フランス)を結ぶ交通の要衝となっている。ローマの滅亡により一度は荒廃したこの都市も、十二世紀になると、新興商人階級の台頭により繁栄する。

アルテと呼ばれる商工業の同業組合による都市経営がその発展の基盤であり、君主や僭主に頼ることなく、市民みずからがこの都市を確立し、自由都市として発展させた。十三世紀、フィレンツェの人々は、毛織物、絹織物業を活発化させ、その生産品をヨーロッパ全土に輸出し富を得ることに成功する。

銀行家たちも、先行していたロンバルデイアやユダヤの商人を上回る活躍をし、フィレンツェの経済は大きな繁栄に包まれた。フィレンツェ・ルネサンスはこの歴史と繁栄が基盤。神や君主に頼ることのない、あらゆるものに対する創造精神が、市民自らが生み出す大きな文化活動となって花開いていく。


(大クーポラの建設)

花の聖母大聖堂(サンタ・ マリア ・デル・ フィオーレ)はフィレンツェのほぼ中央に位置している。赤茶瓦が一面に敷きつめられた町並みに一際高く、花のごとく咲ほこる大聖堂のクーポラ(円蓋屋根)。その威容はローマのパンテオンを凌駕し、文字通り花のルネサンスのシンボルと見なされている。


  (fig17)

この大聖堂は十三世紀末に建設が開始され、その後は都市の発展に併せ、徐々に工事が進められた。十五世紀のはじめ、いよいよ大聖堂の頂部、クーポラの建設が始まる。古代ローマを凌駕しようという大クーポラの建設はフィレンツェの威信、十三世紀以来の自由都市市民の全ての期待が懸けられていて、失敗を許されない大工事と言ってよい。その為、工事をまかなう大聖堂造営局と羊毛組合の役員たちは不安と周到な建設の協議に明け暮れる日々を重ねていた。

十六世紀半ばのジョルジョ ・ヴァザーリは「ルネサンス彫刻家建築家列伝」の中で、このクーポラを完成させたフィリッポ ・ブルネレスキの章の冒頭を次のように書いている。 「生来の容姿風貌は貧弱でも、偉大さに溢れた精神と、並はずれた気迫を持つが故に、ほとんど不可能と思えるような困難なことがらであっても、いったん着手したからには、見る人を驚嘆させるように完成せねば生涯安んじえないような人々が少なからず存在する」。( ルネサンス彫刻家建築家列伝:白水社)


 (fig18)

1418年、大聖堂造営局は公証人の息子で金銀細工師であったブルネレスキに大クーポラの建設を任せ、フィレンツェの全ての期待と威信を賭けることになった。

列伝は続く。「彼はジョットに劣らず容姿は貧弱であったが、その天賦の才は抜きん出ており、彼こそすでに幾百年ものあいだ正道をはずれていた建築に、新しい形を与えるために天から遣わされたされた人物であったといえるだろう。建築において当時の人々は、様式を欠き、誤った方法と貧相な構成、異様きわまる着想、優美さからほど遠い外観、劣悪な装飾からな建物を建てては、多くの財を無益に浪費していた。」

ヴァザーリがたびたび容姿貧弱と拘るのは気になるが、並外れた気迫と抜きん出た天賦の才を持つブルネレスキは、直径40mに及ぶ大クーポラには足場を掛けることなく、二重構造を持つリブ付きの八枚の尖塔状パネルを仮枠なしで掛け渡す方法を提案している。この方法は古代ローマのパンテオンに学んだもの。地上の床から木造の足場を掛け、仮枠の上に屋根・天井となる厚いレンガを直接載せ、ドームを組むという中世の方法では、この大クーポラを完成させることはできない、と誰もが気づいていたのだ。

 (fig19)


(建築家ブルネレスキ)

何度かの模型制作で、不安に明け暮れる羊毛組合や造営局を説得し、ようやっと着工の許しを得たブルネレスキには、しかし、もうひとつの難題が待ち受けていた。ブルネレスキの新しいアイディアに理解を示さず、旧来の方法のみを主張する、旧態化した工匠たちの存在。

彼は毎日、工事を進める親方たちとのやりとりに明け暮れざるを得なかった。ブルネレスキの大クーポラでの戦いは、袈構の仕掛けの考案以上に旧来の親方たちが持つ中世的職人気質とその習慣にあったとのだ。

親方たちの軋轢から何度か工事を中断しなければならない日々だったと記録されている。しかし、1436年8月、着工からちょうど二十年、ブルネレスキは最頂部ランタン(頂塔)の設置のみを残し、その偉業を達成した。

パンテオンを凌駕する大クーポラの完成は新時代の幕開けそのもの。ブルネレスキは赤煉瓦屋根に覆われた中世都市フィレンツェの上に大輪の花を咲かせ、誰疑うこともない自由都市のシンボルを完成させた。


 (fig20)

大クーポラの完成は技術上の成功ばかりでなく、前代までの建築との決別の宣言、新しい建築の時代の到来を告げていた。何故なら、この時から、建築はもはや一過性的な職人的技術ではなく、一貫性を持った建築理論であることが重要視された。

建築デザインとは、様々な工夫や概念を統御することである。旧来の経験の寄せ集め、単なる生産技術に支配される職人仕事ではない、ということをブルネレスキは身を持って示した。このことはまた職人とは異なる一人の「建築家の誕生」をも意味している。彼は個人の持つ叡知によって偉業を成し遂げた最初の建築家。ブルネレスキは技術とデザインのみならず、建築そのものを変格した人。新しい建築の時代はこの日、この建築家を起点として新たな道を歩み始める。


(献堂式の音楽)

花の大聖堂のクーポラの完成の五ヶ月も前、待ち切れぬフィレンツェ市民は1436年3月に花の聖母大聖堂の献堂式(落成式)を行う。その式典の執行は教皇エウゲニウス四世。反教皇的勢力の確執からローマを離れ、コンスタンチノープルの東方教会との四百年間の離反を改修すべくフィレンツェでの公会議を画策していた教皇は、丁度この時この都市を訪れていた。

エウゲニウス四世の遠征には当然、教皇庁聖歌隊も従っている。フランドルの音楽家ギョーム・デュファイは筆頭歌手。後に、ルネサンス最大の音楽家といわれるデュファイ、三十代半ばの彼は花の聖母大聖堂の献堂式のために、祝典モテトゥス「新たに薔薇の花」を作曲した。

式典に参列した人文学者マネッティは、鮮やかな衣服をまとったトランペット、ヴィオールなどの楽器の奏者や聖歌隊のことをつぎのように書き残している。「彼らの音楽が聴衆の心を打ち畏怖の念で満たしたので、音楽の響きと香の匂いと美しい装飾とで並みいるすべての人々は高揚し始めた・・・聖堂全体が調和の有る合唱と楽器の合奏で一杯に谺たので、天使たちや神聖な天国の合奏や歌が、天から送られてきたかのように思われた。」(ヨーロッパ音楽史・上:音楽之友社)


(数を合わせる音楽と建築)

ブルネレスキも聴いたであろうこの音楽は、その音楽的構成に大変興味深い仕掛けを持っていた。その仕掛けとは、祝典モテトウス「新たに薔薇の花」は、完成しつつある大聖堂と「数あわせ」がなされていたのだ。

どこの聖堂も同じだが、大聖堂の身廊の長さ、交差部の幅や円蓋の高さという建築の各部分は正確な比例関係を持っている。一方、音楽もまた数学的配列で構成されていることは既に触れた。

四声曲イソリズム技法(一定の決まったリズムが反復されるリズム法)で作曲されたこの曲は、上の二声部は聖母マリアに捧げられたこの大聖堂について歌い、下の二声部は献堂式の為のミサ曲、そこではグレゴリア聖歌の旋律が演奏されている。

そして「数あわせ」の方法だが、下の二声は同じ旋律が四回繰り返され、その四回は回ごとに長さが異なり、その長さの正数比は大聖堂の比例関係に適合している。正数比は6対4対2対3、その比率はそのまま身廊の長さ、交差部の幅、後陣の長さと大天井の高さの比を表している。

デュファイは、大聖堂という建築の持つ構造上の比例関係と、大聖堂の献堂の為の音楽の繰り返しにおける音の長さの比を調和させ、文字どおりマネッティのいう、天上の世界を音楽と建築を一体化し現出した。

音楽とその音楽に讃えられた建築との数による照応は、一種の数遊びに過ぎない。しかし、このような発想は当時の音楽と建築にはよくあること。もともと音楽と建築は数の世界、数学の世界に生まれた兄弟なのだから。

ギリシャ以来、音楽と建築にとって、もっとも重視されていたのはハーモニー(秩序)。建築の美しさは、各々の部材が持つ形や材料が示す味わいに左右されるが、美しさに関わらず、構成要素の基本は各部分部分と全体との比例関係によって規定されている。

建築は見かけや感覚によるものではなく、一種の抽象的な均衡に基づくものなのだ。柱と柱の間隔や柱の高さ、それらは全て柱の太さに関わる数量的調和によって決定され、冷徹で明晰な数に支配された完結した秩序をもった高貴な存在。建築は調和を生み出す数比によって構成された音楽と言って良い。


(数あわせ、感情より理性)

ヨーロッパでは古来から、音楽は単なる感覚的な楽しみ、と考えられたことは一度もない。音楽は鳴り響く世界、そこは耳で聞く音の世界である以上に、知的営為の対象だった。

音楽は宇宙や世界の構造を解きあかす物理学同様の一つの学問と見なされている。つまり音楽は数学。それ故に、ギリシャ時代だけでなく中世の大学においてさえ、音楽は自由七科の中の必修科目(クオドリビウム)の一つとなっていた。音楽は算術、幾何学、天文学と並ぶ必修四科のひとつ、それが、古代そして中世の考え方。

数と音の関係は協和音程に関わる事柄。すべての音が、数学的関係によって表されるということは理解できる。しかし、現代の我々にとって、数にこだわる作曲が音楽の創作上の必然であったとは、なかなか理解し難い。

現在の音楽の価値に直接関わる問題ではないが、ルネサンスを迎えても作曲上の構成において、数学的関係にこだわり、一種の「数あわせ」を採用していたことはとても興味深い。デザインとしての音楽は感覚以前の事柄。アルス・ノヴァ以降音楽のもつ感覚的な美しい響きはとても重要となっている、しかし、見て聞いて美しいか否かはどこまでも二次的な事柄だったということは十分に留意しなければならない。

「数あわせ」の音楽は十七世紀のバロック時代まで、しばしば見られた。「数あわせ」の音楽はバッハも作曲している。人間の持つ細かい感情を歌い始めたモーツァルト時代、そのような音楽は消えていくが、バッハもモーツアルトもそこには音として耳に聴こえる音楽とは異なる、もう一つの音楽の問題、音楽の意味と役割の問題があっことを忘れるわけにはいかない。

近代は沢山の音楽家の活躍した時代、しかし、それは学問であり知的営為でもあった音楽が、耳で聞く感覚的な楽しみとしての音楽に変容した時代とも言える。集団の為の音楽は個人の楽しみや慰めの音楽に変わっていったのだ。


(サン・マルタンのオケゲム)

花の聖堂の音楽を作ったギョウム・デュファイと並ぶもう一人のルネサンスの音楽家、ヨハンネス・オケゲムは現在でもその音楽に直接触れることができる重要な作曲家。

彼もまたデュファイ同様、フランドルの音楽家。しかし、彼は教皇ではなく、三代のフランス王に仕え、宮廷音楽家として活躍し、晩年はトゥールのサン・マルタン修道院の財務官に就任している。

ロワール河流域の主要都市トゥールの修道院は十世紀以来、歴代のフランス王が修道院長を勤めてきたところ。そんな重要な修道院に職を得たオケゲムは王による大変な厚遇を受けた音楽家であったことがわかる。

十五世紀後半とは言えフランスはまだ中世的性格が強く漂っていた。オケゲムはそのような宮廷に沢山のフランス語の多声シャンソンを書く。しかし、オケゲムをルネサンスの音楽家とし有名にしているのは、楽譜が残っているわずか十曲のミサ曲だ。

彼の残した音楽には様々な工夫があり、当時としては最高度の技法が駆使されている。死者のためのミサ曲レクイエム、オケゲムは現存する最古のポリフォニー・レクイエム「死の淵を見つめて」を書いた。

ルネサンスの音楽の特徴はバロック以降の音楽とは異なり、様々な声部の重なり合いが重要であって、必要以上の感情表現や描写性はじっと押さえられていた。従って、このレクィエムは嘆くものでもなく、叫ぶものでもなく、ただただ死の淵にたたずみ祈ることを私たちに要求している。

最も有名なミサ曲は「プロラツィオーヌム」。その音楽は数学的あるいは建築的と呼べるもの。四つの声部の重なり合いで展開されるが、各々の声部の音符の長さは全部異なる。しかし、各声部は一定の比率を持たされていて、その比率に合わせ定旋律に絡まり調和を作り出して行く。複雑な数あわせの音楽だが、聞く耳には水のように音が流れて行く。

オケゲムにはもう一つ、興味深いミサ曲がある、「天使ガブリエルはつかわされぬ」。定旋律は九つの部分から構成されているが、前半の六つの部分は全曲中六回、後半の三つの部分は三回演奏される。さらにこの定旋律の音の数を調べると、最初の三つの部分と最後の三つの部分はともに34音、第四の部分は14音、第五・第六部分が28音、つまり1対1、1対2。そして驚くことに全曲中の定旋律部分の休符と音符の長さの比は662対993、この比は天使ガブリエルがマリアに告げる言葉のアルファベット番号の比66対99に対応した2対3となっているのだ。

まさに、音楽は詩学。感情と理性のたゆまない格闘が西洋の音楽を生み出していた。


(透視画法の発見)

透視画法を発見したのはブルネレスキです。 フィレンツェの花の聖母大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の献堂式の記録を残したマネッティによれば、幕開けはフィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂を描いたパネル画にあった。

洗礼堂が克明に描かれたパネルの空の部分には銀箔が張られている。そのパネル画の中央には小さな穴が開けられていた。パネルはそのまま手に取って眺めるのではなく、片手に鏡を持ち、もう一方の手にこのパネルを持つ。眺めるときはこのパネルの穴からパネルに描かれた洗礼堂を鏡に写しこんで眺める。

この動作を実際の洗礼堂の前、定められた広場の一点で鏡の中の鏡像と実際の洗礼堂を同時に眺める。鏡の中に再現されたものは現実の洗礼堂とは区別がつかない、現実性を持ったパネル画と実際の洗礼堂の姿だ。

ブルネレスキは何故、このようなことを試みたのか。彼の関心は絵の描きかたではなく都市にあった。都市における建物の配置方法への関心が透視画法を発見させている。

中世以来のシニョリーナ広場には、様々な記念建造物が巧みに配置されている。ブルネレスキの時代、この広場の構成はまさしく共和国の中での市民と聖職者の秩序だった関係の象徴と見なされていた。

この秩序を生み出すもの、それは当然、当時の考え方では、神の力によるものであったのだが、ブルネレスキはそのような構成を神の力に寄らずして人間の力で、客観的で科学的な根拠のある方法で生み出し得ると考えた。そして単一の視点より見ることから生まれる幾何学に基づいた一点透視画法を発見したのだ。

神の力に頼らずに秩序を生み出す方法の発見のためのヒントは古代ローマの宇宙論にある。かってのローマ全盛の時代には、宇宙も人体もともに秩序立った世界、コスモスだ。前者はマクロコスモス(大宇宙)、後者をミクロコスモス(小宇宙)。 図で描けば大円である宇宙と人体は一致する。(アントロポモルフィズム=レオナルド・ダ・ヴィンチ図) さらに各々はともに深い関係にあり、二つのコスモスは正確な比例関係を持つものとみなされていた。


 (fig21)

この考え方は十五世紀になると復活し、大宇宙=小宇宙の原理に基づく空間概念が後に、新しい建築の原理となり、比例を通じて表現された諸部分の調和ということに関心が持たれるようになる。

ルネサンス建築の特徴とされるのは、アプリオリの全体ではなく部分を重視する視点。全体はその部分の集積として改めて規定されるものという考え方。あるいは部分と全体は決してバラバラにあるのではなく空間的には一体化、統一化されている。この考え方はローマ以来の大宇宙=小宇宙の原理に基づくもの。ブルネレスキは同じ原理に励まされ、サン・ジョヴァンニ洗礼堂のパネル画の実験を試みるのだ。


(透視画法の原理はヒューマニズム)

ブルネレスキの一点透視画法の発見が当時の知識人たち、人文学者や建築家たちの最大の関心事となったのは、大宇宙=小宇宙の原理の強調や部分・全体の考え方を透視画法が理論づけていたからだ。空間が中心から発する光線によって理論的にも実際的にも把握されることに気が付いたブルネレスキは、目とモノとの間に置かれた画面は視覚錘体の断面を構成していることを示した。つまり、どんな部分も全体とは比例関係にあり、その部分と全体の関係は大宇宙=小宇宙を示している。

それはまた秩序ある都市の配列を導くもの。実際はともかくブルネレスキはシニョリーナ広場における様々な記念建造物の巧みな配置はこのような原理に基づくことを証明しようと考えた。

さらにもうひとつ、一点透視画法の発見がもたらした大事な考え方がある。それは世界を支配し、自然を変革するのは神のみではなく、人間もまた自然と法則を知ることで、世界を有効に支配できるという考え方。

世界は神ではなく、人間が人間のために計画的に支配出来るという確信が、人間が中心となった世界観を生み出す。つまり、人間中心主義というルネサンスのヒューマニズムは透視画法の原理そのものでもあったのです。


(透視画法が開いた世界)

ルネサンス建築の考え方を支配したのは透視画法。透視画法とは自分の目の前に一枚の透明なガラス板を置き、そのガラス板越しに見える世界をガラスの面に正確になぞって書くことだ。結果、目の前の世界は一つの秩序、まとまりを持った表現が可能となる。

そのまとまりは、人の目に「見えるまま」に表現された世界。つまり、ガラスという画面は「あるがままの世界」を写し取る装置。ここで重要なことは、画面に描かれた世界、あるいは空間の中にあるものは、宗教的観点から眺めたものではなく、人間の目が眺めた世界、人間の見た目が意義を持つ。

中世的絵画において、空間にあるものを画面の中に描こうとする時、描かれたものの大きさは宗教上序列、あるいは世俗の世界における階層を表すものに他ならない。つまり、空間は「あるがままの世界」ではなく、神によって秩序付けられ、序列化された世界、「あるはずの世界」なのだ。


 (fug22)

ガラス越しに見るという透視画法の中にあっては大きさの違いは距離を示すに過ぎない。中世的絵画にあっては、神は大きく中央に描かれ、序列の下位のものは外側あるいは小さく描かれている。いうならば描かれる前に、描かれる方法は決められていて、描かれる世界は序列化されたシンボルによる寓意の空間、それが中世の絵画空間だ。

透視画法では神ではなく人間の見ための現実が全てに優先される。そこでもっとも重要なことは、透視画法の中の消失点(焦点)や水平線が示していることは、モノや空間が無いのではなく、あるのに見えないだけだと認識させたこと。視覚によって見ることできる現実世界の限界はあっても、その限界は人間の住む世界の限界ではない、ことを透視画法は明らかにした。このことから、空間は誰の支配も受けない自由な広がりと見なされる。空間は特定な性格や好みも持たない等質で等方なもの、平準で均質なものと考えられた。

もはや空間は神が支配するものではなく、あるいはある種の質感をもった物体が外側にひろがって行くものではなく、その中にモノがあろうが空っぽであろうが、いつでも人間の力で計測・計画出来るものとなったのだ。

空間がこのように認識されることで、建築を支える考え方も大きく変わった。建築は自然を越えるという想像上のものではなく、あるいは目に見えない世界構造を示すというものでもなく、視覚で測定でき、規則的に表現できるある法則に基づいた機械のようなものとなった。

さらに、あらたな建築が生み出す空間のイメージとは、それは神が支配するものとしてアプリオリに限定されているのではなく、人がモノや記号を人為的に配列にすることによって生み出されるもの。詩人が言葉の配列によって生み出す空間と同様、シンボルの空間とみなされようになる。つまり、空間はあるいは世界は、神により生み出されるものではなく、詩人による制作、画家や建築家による「作品」となったのだ。


(シンボル配置の方法)

描かれている世界はいかに写実的であっても、絵画空間を構成するのはシンボル。シンボルはいかにありのままの表現であったとしても、それは音楽と同じように、実在物の似姿に過ぎない。

絵画は平な画面のなかに様々なシンボルを配置し、意味ある世界を表現したもの。そのシンボルを徹底した写実で表すか、あるいは別の意図を持って象徴的に表すかは、その絵画が描かれた時代の考え方の反映と言って良い。

写実性を生み出すことに熱心であったルネサンス、そこにはギリシャ・ローマと同じ様な自然を客観的に眺める時代精神が色濃く反映されている。反リアリズムであった古代エジプトや中世キリスト教社会、そこでは客観的に眺める以上に、「目に見えない世界」をいかに具体的に表現するかに関心が持たれた。中世社会では「あるはずの世界」が象徴的、超越的に表現されていたのだ。

ローマ時代のポンペイの家のいくつかには写実的な壁画が残されている。しかし、このような描きかたはキリスト教社会の中ではまったく消えている。十四世紀、音楽においてギョーム・ド・マショーがアルスを駆使し世俗音楽を作曲する頃、同じフランドルの画家ファン・アイクやイタリアのジョットが驚くほど写実的な絵画を描くようになった。しかし、彼らは後の透視画法のような奥行きを持った空間を描く技法を持ちえていたわけではない。ただひたすらだった自然観察がこれらの写実性を導き出していたのだ。

音楽におけるアルスへの関わりが「作品」と「作曲」、そしてその研究が音楽の革新となるアルス・ノヴァを生み出したように、十五世紀の透視画法の研究が画家と建築家を誕生させ、新しい人間と世界の関係を生み出す方法を開いていった。


(サン・ロレンツォ聖堂)

透視画法の発見によって生み出された考え方が直接的に表現された建築がフィレンツェに二つある。サン・ロレンツォ聖堂とサント・スピリト聖堂、ともにブルネレスキの設計。

サン・ロレンツォ聖堂は十五世紀初めの設計だが、資金難のため工事は何度か中断、四十年後にようやっとその交差ドームが完成した。しかし、ファサードは補修されただけ、未完のまま現在に至っている。平面図を見ると、この聖堂は交差部の正方形が基本単位となり、身廊は四つの正方形、両脇の側廊はその2分の1の八つの正方形で構成されていることがわかる。さらに同じ構成は内陣や翼廊でも繰り返されている。

実際の建築の交差部に立ってみる。ここでは前後左右均質に作られた透視画法の空間を真のあたりに体験させられる。 さらに、この聖堂では床の正方形パターンと格天井のグリッドにより透視画法の空間的座標が強調されている。


 (fig23)

まるで囲碁の番上に立っているがごとく、自分自身が透視画法の世界に直接入り込んだかのような感覚だ。事実、この時代、建築と絵画の違いは、今のような種類の違いではなく、芸術的手段の違いに他ならない。表現されているモノが二次元平面にあるか、三次元立体にあるか、という違いだけのことなのだ。

建築空間を体験することと絵画空間を眺めることは全く同質の体験、どちらも共にシンボルによって生み出されたイメージ空間(虚構の空間)を体験している。建築空間をリアルな日常空間としてのみみなし、絵画空間と同様の虚構の空間としての体験を軽視する現代の私たち、建築は想像力で体験する想像的(イマージナル)な空間であるということを忘れてしまっている。

サン・ロレンツォ聖堂で体験者が持つイメージとは、それは合理的な人間的空間の中に位置付けられた、おのれの身体、そのものの実感ではないだろうか。それは神の絶対的支配を前提として生きてきたルネサンスの人々にとって、全く新しい世界、新しい神の発見に他ならない。


(サント・スピリト聖堂)

サント・スピリト聖堂はブルネレスキ晩年の設計。この聖堂もまた交差部の正方形が基本単位となっている。図面をみれば基本単位による幾何学的構成がサン・ロレンツォ聖堂より一層徹底して適用されていることがわかる。

さらに特徴的なことは、この聖堂の入り口である正面部分を除けば、周囲の全ては側廊部の基本単位を直径とするニッチで囲まれている。左右の両翼は内陣と全く同じ平面形状を持ち、バジリカ形式(十字形平面)であるが故に身廊部分のみが内陣の三倍となっているが、このことを除けば、前後左右全く同型の点対称図形として構成されていることが明白に読み取れる。

ブルネレスキはここではもはや、伝統的な教会建築ときっぱりと訣別している。従来の教会とは全く異なる空間イメージの表出しているのだ。


 (fig24)

そのイメージとは後のパラーディオにも引き継がれることだが、ブルネレスキは神を中心として序列化し、秩序づけられた従来の聖堂空間を、敵でも身方でもない等質・等方な幾何学的空間に変質させた。そしてその空間の中のどこに分かり易く、的確にシンボルを配置するか、ということにのみに苦心しているのだ。

サン・ロレンツォ聖堂とサント・スピリト聖堂が示す明瞭さと穏やかさ、あるいはきちんとした整合性を持った佇まいと呼べるもの、それは壮大で超越的な当時のアルプスの北のゴシック建築とは全く異なる建築と言える。透視画法から生まれる出るこの穏やかな知的整合性は、その後に引き継がれる多くのルネサンス建築の大事な特質となっていくのだ。



(アルベルティの絵画論と家族論)

ブルネレスキの透視画法の発見を理論化したのはレオン・バッティスタ・アルベルティ。それは今でいう光学理論(perspective)への貢献でもあったが、むしろアルバルティの業績は実践的な絵画技法を開示したことにある。その理論は彼の「絵画論」の中に表され、1435年ブルネレスキに献呈された。

ブルネレスキは金銀細工師、職人社会の徒弟として修行を重ね、彫刻家兼建築家として大成したが、アルベルティはパドヴァ大学で学んだ人文学者だ。 没落したとはいえ、もとはフィレンツェの有数な貴族であった父を持つ彼は、ジュノバで生まれ、ヴェネツィアで育ち、パドヴァで人文主義を、ボローニャで法律を学んでいる。


 (fig25)

彼はまた乗馬の達人、機知に富んだ会話の名手、劇も作り作曲もし、物理と数学を学び、法律にも通じ、法王や君主たちの良き相談相手でもあり、まさにルネサンスが生んだ新しいタイプの人。建築家、芸術家でもなければ職人でもない、ディレッタント・タイプの最初の建築家と言って良い。

アルベルティはローマ教皇庁からの依頼でフィレンツェ近郊の修道院院長の代理を勤める。マサッチョやドナテルロとも親しくなるのはこの頃のこと。花の聖母大聖堂のクーポラの建設も真っ最中、ブルネレスキが造営局の古い工匠たちと戦っていた頃だ。

アルベルティは書いている。「ここに、かくも壮大な、天にも聳え、その影でトスカナの人たちすべてを覆うほどの広さをもち、飛梁も大量の木材も付加せずに造られた、確固たる技量による構造の建造物を目のあたりにしても、どうしようもなく愚鈍でこの上なく嫉妬深い輩は建築家ピッポ(ブルネレスキ)を讃えなかった。仮に私がもちろんとした評価を下すとすれば、当代にあって彼が信じられぬほどの職能の持ち主であるのに同時代の人々の無理解にさらされているように、古代人の評でも彼は理解も認められもしなかった。」(ルネサンスの文化史:平凡社)

ブルネレスキによる花の聖母大聖堂のクーポラはアルベルティに新時代を感じさせる大きなの感動を与えた。その感動がブルネレスキが発見した透視画法の理論的基礎の明確化に駆り立て、「絵画論」を、それもラテン語で書かせることに繋がった。

アルベルティは沢山の本を書く。没落したとはいえ、アルベルティ家はイタリアでも屈指の家系、そんな一族がどのように生きるべきか、彼は二十代に「家族論」をまとめている。老いた父と兄弟、さらにアルベルティ家の叔父・従兄弟たちとの長い真摯な議論の経過を事細かに気負うことなく記録した「家族論」は大きな驚きだ。

レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロは有名だが、レオン・バッティスタ・アルベルティこそ真の万能人と言うべき人。「家族論」はどんな苦難に会おうとも、新しい時代をいかに生きるかの対話をまとめている。内容は当然、後世の個人主義とは異なり、真の集団としての人間の生き方、それも決して抽象に陥ることなく、判りやすく、具体的に書かれている。


(アルベルティの建築論)

アルベルティが四十代にまとめた書物が「建築論」。 それは文字通り都市と建築についての論、音楽と建築のデザインにとって、もっとも貴重な論考書。

アルベルティの時代、社会秩序の確立には、法の執行や行政での実現以上に、実体としての都市や建築がきわめて有効に機能すると考えらていた。建築デザインは六法全書のような役割を果たしていたのだ。今は忘れられてしまったことだが、建築することは社会秩序を構築することを意味していた。


 (fig26)

人々は法律の文章ではなく都市を作り、そのあり様を眺めることで、共に生きる人間の在るべき秩序を理解した。つまり、都市とはもともと文化的基盤の上に建つものだが、アルベルティの「建築論」は同時代の文化的指導者、都市経営に関わる支配者、諸侯、君主さらに教皇にとっての座右の書と位置づけられる。

事実、この書は時の教皇ニコラウス五世に献呈されている。ニコラウス五世はこの書に基づき、ローマを再建する最初の教皇として画策することになる。一方、この書を読んだ各都市の諸侯、君主たち、彼らは実際上の都市建設にまでは及べ無いとき、この書に基づき都市図を制作し、その支配化の都市の理想化を表明している。

著名な画家・建築家たちによって描かれた数々のルネサンスの都市図、それは間違っても今で言う眺めるだけの美しい風景画ではなく、都市の支配者が示した法律書、アイデアル(理想的)な都市のメッセージとして読まなければならない。

アルベルティの「建築論」はローマ時代の建築家「ヴィトルヴィウスの建築書」がモデルとなっている。ヴィトルヴィウスは紀元前一世紀の建築家。彼は建築のみならず、音楽、天文学、機械、土木、都市計画というあらゆる分野を網羅した最先端の技術を「十書」としてまとめ、ローマ皇帝アウグストゥスに捧げた。

この「建築書」はアラビヤを経由しザンクト・ガレン修道院に納められ、十四世紀になって発見される。その発見は時宜を得たもの。新時代をイメージするイタリアの研究者たちにその書の評判は一気に伝わり、やがて、ルネサンスの人文主義者たちの必読の書として、都市や建築はもちろん、音楽や天文学、数学とあらゆる分野に波及していく。

アルベルティは1432年、初めてローマを訪れ「都市ローマ記」を書く、しかし、この時はまだ、ヴィトルヴィウスの研究の成果が表れていない。彼自身の「建築論」の執筆はその十年後のこと。アルベルティはヴィトルヴィウスの「建築書」と実際のローマの遺跡を相合わせ研究し、両者の関係から都市のあるべき姿、彼自身の「建築論」の構想を整えている。


(アルベルティの理想都市)

具体的に都市を計画する、ということはどの地域でも、どの時代でもなされている。碁盤目状の道路割等を導入し、実利的にも観念的にも選択された一地域に、何らかの秩序を導こうという手法は、ヨーロッパ・古代中国、平安京日本もまた同じ。

しかし、アルベルティの「建築論」の特徴は物理的な計画以上に人間が在るべき「理想的(アイデアル)社会」という考えを示したことにある。つぎには、その考えをひとつの町の計画に具体的に当てはめていく。街路、広場、建物という都市の構成要素は機能的であると同時に、威厳を持ち、秩序だつように計画する、その為には具体的にどう配置するかを書いている。

アルベルティは「絵画論」で絵画の技法を実践から論理化を示したように、「建築論」では都市と建築の構成方法を論理化している。都市のための敷地の選び方、防御のための城砦のかたち、さらに人々が秩序だって共存できるための都市の様々な構成要素の配置の仕方。都市はゾーニングされ、性格付けられたいくつかの町の集合。町に威厳を持たせる方法、それは建物の高さも統一し、規則正しく並べるべき。さらに道路の交差するところには広場や重要な建築を置き、その装飾要素としてアーチを設けるようにと書いている。

この書の記述はかなり具体的だ。アイデアルな建築論ではあるがその論述は「家族論」に似て、きわめて人間的。アルベルティの人となりをも見えてくるので、いささか長いが以下に引用する。

「都市の中に入れば、道は直進せず川の流れのように緩い湾曲を描いて、ここかしこ繰り返し部分的に曲がるのが良い。というのは、このような道は実際よりも長く見え、大きいという印象を町に与えるが、この点以外に、確かに優美と使用上の便宜および折々の出来事や必要に役に立つからである。さらに理由をあげれば、湾曲路に沿って歩くと、一歩ごと徐々に新しい建物正面が現れてくること、および家の出現なり遠望は道幅の中央に位置すること、また、ある所では道が広大にすぎ不快なだけでなく、不健康であることを思うと、実に道の空きそのものが効果をもたらすこと、これらの諸点かはいかにも貴重ではないか。・・・・・交差点と広場はただ、広さが違うだけである。無論ごく小さい広場が交差点である。プラトーは交差点に余分な空間があるべき、といった。そこには昼間、子供をつれて子守たちが集まったし、一緒にもなったのである。私は実際つぎのように信じる。自由な外気の中で子供たちは一層強健になったであろう。一方子守たちはすべてのことにも、また自分たち仲間のことにも観察を怠らず、少しでも立派であると賞賛されれば喜んだであろうし、少しでも見劣りし無視されることに、落ちつかぬ思いをしたであろう。たしかに交差点でも広場でも、装飾に優雅さを増すのは柱廊であろう。その中で長老たちは・・・・・また腰をおろして、あるいはまどろみ、あるいはお互いの間の用事を心待ちにする。これに加えて、ゆとりのある戸外で遊び競いあう若者たちも、その場に老人が居合わすことで、若年の傲慢から、行き過ぎや悪ふざけに走らないですむ。」(建築論・アルベルティ:中央公論美術出版)

具体的に書かれた「建築論」だが、この書の特徴は「理想的社会」という観念を示していることにある。アルベルティは資本主義の発達は、多層階級社会ではなく人間の平等主義を導くもの。しかし、決して無階層社会が良いと言っているわけではない。社会はむしろ階級区分を明確にすべきであり、ゾーニングや市壁、さらに建築という都市構造を政治構造と明確に対応させることで、都市と社会の秩序化が計れると考えている。


(観念による理想、都市とオペラ)

彼の考えは悪戯に平等主義を貫く以前に、集団としての社会を如何に秩序づけるかに主眼が置かれているのだ。人間の社会生活の基盤のひとつとして秩序を重視する観念は、ギリシャ・ローマ以来ヨーロッパ社会の伝統。十五・六世紀、絶対的キリストへの信頼が揺らいだ中にあってはますます厳格な階層構造こそ、社会的秩序を維持する正当なシステムとアルベルティはみなしていた。

十六世紀末誕生のオペラもまた厳格な社会構造を維持しようとする意識が生み出したもの。何故なら、ルネサンス期は厳格な社会階層に応じ、人々の生き方が別々であり、その別々の生き方に合わせて、いくつもの音楽が存在していた。

そのような中、貴族館での教養主義的な試みの結果がオペラを生み出したのであって、当時の教会音楽あるいは流行していた闇雲な世俗音楽からは決して生まれ得ることはなかったのだ。

しかし、オペラはひとたび誕生してみると、その新しい音楽形式は、今度は別々の階層で別々に生きてきた様々の音楽をオペラ自身の中に積極的に取り込んでいく。そして、十八世紀末の社会変革(アンシャンレジーム)を迎える。それはルネサンス的社会構造を徹底的に破壊した画期的な出来事だが、その時代のオペラは、今度は全ての階層の音楽をその音楽形式の中にすべてをきちんと秩序づけていく。

オペラの誕生から十八世紀末の変革の時代まで、その歴史はまさにオペラがこの大きな市民革命を準備して来たものとさえ見えてくる。秩序感覚とその後の社会変革、アルベルティを深読みすれば、オペラの歴史はヨーロッパのその後の社会を先取ったものと思えてならない。

話が外れたが、アルベルティに戻ると、「建築論」で論じられた「人間にとっての理想的な都市」、それは十六世紀のトマス・モアのユートピアとは異なるものだ。アルベルティの「建築論」は現実の教会や社会への不満から生まれた夢でも願望でも非現実でもない。

アルベルティは「観念による理想都市」を現実世界に構築しようとしている、そしてその役割を担うのが建築なのだ。

このアイデアルな世界が後の時代のオペラと都市を育むのであって、トマス・モアのユートピアからはオペラも都市も生まれない。

アルベルティの十五世紀はしかし、まだ新しい都市を作る経済的余裕はなかった。さらに、一つの都市建設を一人の建築家に任せることが出来るような絶対的権力者も存在していない。アルベルティの理想都市は都市の一部分、あるいは絵画やルネサンス劇の背景画としてしか残されることはなかった。


(ウルビーノの理想都市図)

アルベルティの「建築論」に示されるアイデアルな都市はウルビーノの「理想都市図」として描かれ、現在に残されている。円形の神殿を中央に配置した広場、その周囲は「建築論」にあるように同じ高さの建築群で囲まれている。この板絵の最も重要な特徴は正確な一点透視で構成された透視画法にある。

ブルネレスキが発見した神の支配を受けない、人間中心の理想的な空間。特定な性格や好みも持たない等質で等方、平準で均質な空間、その中に配置される新しい建築群、それらの建築は全て、当時の都市を構成していたキリスト教教会の形式、ゴシック建築とは異なり、柱とアーキトレーブ(三層の柱上帯の最下部)による古代建築。ルネサンスの理想都市、そのイメージはどこまでも穏やかで静かな佇まい。透視画法は人文主義者の抱いた「理想的な都市観」を表現するのに最も適していた。


 (fig27)

透視画法の中に建築がシンボル配置された絵画空間は現在のような額縁のなかの非実在的なイリュージュナルな世界とは明らかに異なっている。画面は確かに都市風景だが、そこには人間が描かれず、透視画法の空間のみが強調されている。そう、ブルネレスキの二つの聖堂と全く同様、観察者はその空間に入り込み、そこでイメージされる世界を実感し、体験しなければならない。

その世界はもはや現実ではなく、現実を超えた観念の世界。現実以上に信頼できる確固とした空間。サモシの言う「哲学者の偏見」から解放された世界だ。

ウルビーノ公に招かれたアルベルティが公の画家・建築家であったルチャーノ・ラウラーナやピエロ・デラ・フランチェスカと協力して生み出したものと考えられるこの理想都市像は、その情景から斬新で調和のとれたまさにルネサンスの理想がそのままシンボル化され表現されている。

アルベルティの仕事はフィレンツェのほかフェラーラ、ウルビーノ、マントバ、リミニでも展開されている。十五世紀イタリアを動かしていたのはミラノ、フィレンツェ、ナポリ、ヴェネツィア、そして教皇領という五つの勢力だが、アルベルティが招かれた小都市はエステ家、モンテフェルトロ家、ゴンザーガ家、マラテスタ家という一族による支配。小都市である公国は共和国とは異なり唯一の貴族、つまり君主の力により繁栄していた。

しかし、どの一族も強国の覇権を交わし、生き残る為には、戦争に変わる外交と、その威信を示すための文化政策が不可欠だった。

アルベルティはそんな君主がもっとも必要とする人材。文化政策とは公国は軍事力のみならず文化的資質を内外に示すことにあった。その中心は古典文化を広め、透視画法利用により新たな理想世界の表象を描きだすこと。その為の見識と手法を示した「絵画論」「建築論」はギリシャ・ローマの悲劇・喜劇、あるいはヴィトリヴィウスの建築書同様、君主にとって欠かすことが出来ないものとなっていた。

後のフィレンツェがオペラを生み出すのもまた同じ理由、共和国はトスカーナ公国に代わりハプスブルグ支配から免れる生き残りの為の文化政策が十六世紀末オペラを生み出している。十五世紀のアルベルティは孤軍奮闘、イタリア中の僭主・貴族に招かれ、きわめて多彩、驚くべく広範囲の都市と建築に関わっていくことになる。


(ウルビーノ公女のサロン)

ウルビーノはマールケ州、アドリア海に近い山間の小都市。十五世紀半ば、教皇庁の総司令官であった傭兵隊長フェデリーゴ・ダ・モンテスフェルトロにより絵画と建築に満たされたルネサンス都市として変貌した。

フェデリーコは軍人ではあるが、信心深く、教養も高い、文化政策にも優れた名君として有名。彼に招かれた芸術家たちとの関わりのなかから生まれた作品、それは「理想都市図」だけではない。

美しい中庭を持つウルビーノ公館と図書館は今に残され、この山間の小都市はルネサンスの華と言われている。その息子、グイドバルド公の時代、その宮廷は大国の狭間で揺れに揺れるが、バルダッサーレ・カスティリオーネがこの宮廷を舞台に「宮廷人」を書いたことは有名。ウルビーノはまずはアルベルティの「理想都市」、そしてカスティリオーネの「宮廷人」を生み出したルネサンスの華の都市と言える。

グイドバルドは父のように才能豊かでもなければ心身が壮健でもない。国事の全ては妻である、エリザベッタ・ゴンザーガが仕切ることになる。彼女はマントヴァ公フェデリーコ一世の娘、イザベラ・デステとは義妹という間柄。イザベラほどではなかったが、彼女もまた美人で教養も深く、趣味も多彩。マントヴァ時代に人文主義の教育も受け、数カ国語が話せるばかりか、美術を解し音楽も興じ、ルネサンスの才女の一人として小国の文化政策に貢献する。昼は病弱なウルビーノ公を助け政務に励み、夜はサロンを主宰する。公館の広間は夜遅くまで、詩人、画家、建築家、音楽家との歓談が続いていた。


(カスティリオーネの宮廷人 )


  (fig28)

エリザベッタのウルビーノはイタリア中の知識人にとっても最も魅力ある場所。そこにはいつも物憂げな貴公子の姿だが公妃のお気に入りであり、当時最も洗練された社交人、カスティリオーネが中心的役割を果たしていた。十五世紀後半に生まれた彼はアルベルティとは丁度一世代異なっている。残念ながら、二人がこの宮廷で会い見合うことはなかったが、歴史家が描く二人の相貌はとてもよく似ている。共に見識ある青年貴族の常として馬術、弓術、剣術をたしなみ、リュートやヴィオールを演奏し、作曲もするが、舞踊にも長じる。

その優雅な身のこなしは女性を魅了し、軽快な話術を巧みとした。カスティリオーネにとって、フェデリーゴとアルベルティ以来のウルビーノ宮廷の持つ瀟洒で軽快な雰囲気は最も好ましい世界であった。後にその体験からカスティリオーネは「宮廷人」を書く、結果、彼はイタリア中に知れ渡り、ローマ、マドリッドという当代一級の宮廷にも招かれる。


(ウルビーノのラファエロ)

カスティリオーネと同時期、ローマで活躍したラファエロは彼より五歳若く、ウルビーノ宮廷画家ジョヴァンニ・デ・サンティの子として生まれ、十四歳までこの山間の都市ウルビーノで生活した。父ジョヴァンニは傑出した才能の持ち主ではなかったが、文筆に長け、フェデリーゴの政治力、軍事力、文化的業績を賛美する記録を数多く残す。

ラファエロはそんな父に連れられるまま幾度も公館を訪れている。利発で見目麗しい彼は父の自慢であると同時に、宮廷でも人気があった。この時、当然、カスティリオーネとも面識が生まれている。ラファエロはローマ時代の彼の自画像をルーブル美術館に残している。

この時代、最も人気の高かった画家はミケランジェロでも、レオナルドでもない、ラファエロだ。彼を仕事から引き離すことが出来たのは女性の魅力だけ、と言われるほどラファエロと女性との関係は喧しい。美青年で、粋で、気前が良かった彼のもとへは女性はいつでも、いくらでも集まってきた。

そんな彼が当時の大天才たちよりも人気が高かったのは、ラファエロの方が生き方においても、芸術においても、その時代の気分と理想をよりよく代弁していたからに他ならない。十五世紀末の持つ反キリスト教的理想世界、そのイメージは一世紀あとのオペラに注がれるものだが、それはこの時代ラファエロのみが表現できたことかもしれない。

オペラ揺藍の場所こそ優雅なウルビーノ宮廷。フェデリーゴ・ダ・モンテスフェルトロ、アルベルティ、カスティリオーネそしてラファエロ、彼らはもちろんオペラにはなんの関わりもない。しかし、トリッチーノ(二本の塔)を持つこの宮殿を舞台とするならば、彼らの多彩で優雅な生き方はその後、万人があこがれるオペラそのものと思えてならない。好ましい環境と優雅で多彩な役者に恵まれたウルビーノもまたオペラ発祥の地と呼んで良いのではないだろうか。


 (fig29)


(アルベルティのマントヴァの二つの聖堂)

ウルビーノ公に数々の助言を与えていたアルベルティ、彼は同時期、理想都市の一部をマントヴァ公ルドヴィーコ・ゴンザーガのもとで実現する。「道路の交差するところには広場や重要な建築を置き、その装飾要素としてアーチを設けるように」と「建築論」に書いたように、マントヴァの中心に二つのユニークな聖堂を建築する。

ひとつは円形の神殿とはいかなかったが、円形と同じコンセプトを持つ、ギリシャ十字の平面形、サン・セバスティアーノ聖堂、もうひとつは大きな都市の凱旋門のようなアーチを持ったサン・タンドレア聖堂。どちらも古代ローマのイメージが聖堂のファサード(正面の外観)に色濃く反映されている。


 (fig30)

サン・セバスティアーノのアイディアは古代ローマの廟墓や初期キリスト教の殉教者記念堂から引き継いだものであって、ビザンチン様式(東ローマ帝国の様式)の平面形の復活でもある。アルベルティはファサードに古代建築のオーダーを直接壁面に取り込んだ。彫りの深いペディメント(古代神殿の正面の壁の三角形部分)や極端な厚みを持ったエンターブラチャー(三層の柱上帯)、しかもそのエンタブラチャーは中央で分断されペディメントと一体化し、堂々としたアーチを構成する。

サン・タンドレア聖堂はサン・ロレンツォ聖堂と同じように、従来からのラテン十字の平面形。しかし、その内部空間は主廊が側廊を持つこともなくそのまま聖堂の内部を縦貫している。主廊の両サイドの壁面側は幅の広い祭室とサービス用の小さなスペースが繰り返す形で連なる。中央の主廊、壁面側の祭室、どちらも天井には大きなトンネルヴォールトが架せられていて、そこはまるで古代のバシリカか、大浴場のように見えてくる。つまりアルベルティは壮大なローマの大空間を取り込んでマントヴァの聖堂全体を支配しているのだ。


 (fig31)

ファサードもまたはローマ時代の凱旋門そのものの形態。入り口部分前面のナルテックと称するところ。そこは教会における玄関ポーチのような場所だが、この部分の天井も内部の祭室と全く同様、両袖に幅の狭い壁を従え、大きなトンネルボールが架けられていて、その頂部はエンタブラチャに接する。正面から見ると壁面全体が一段と大きなアーチによってくり貫かれ、それはまさに都市の門、ローマ時代の凱旋門が聖堂のファサードとなって登場した。

アルベルティはマントヴァ以前、すでに、リミニでとてもユニークな聖堂の建築に関わった。それはキリスト教聖堂をリミニ公シジスモンドのための記念建築物に改装しようという仕事、テンピオ・マラスティアーノの建設だ。

異教であるはずのローマの神殿のデザインをキリスト教聖堂に持ち込んだり、あるいはその逆であったり、アルベルティの建築は従来のキリスト教建築のセオリーに縛られることがなく、余りにも斬新にして大胆な展開。ブルネレスキ同様、まさに初期ルネサンスの典型、古典復興の精神を文字通り目に見える形で表現しているのだ。


 (fig32)




コメントを投稿