2014年4月26日土曜日

ジャック・カロ展

西洋美術館のジャック・カロ展
フランスのロレーヌ地方に生まれたカロはローマに行き、国外追放されたフランス人フィリップ・トマッサンから版画の技術指導を受ける。
貴族を自称する彼はやがて、フィレンツェのメディチ家の宮廷づき版画家に抜擢された、17世紀初めのことだ。
そして10年、その作品群は「奇想の劇場」、 今日の展覧会の副題にはぴったりの内容だ。

1600年にフィレンツェではじまるオペラ、あるいは当時流行のインテルメッツォやドラマ仕立の槍試合、カロが生み出す版画はまさに劇場世界の雰囲気を伝える格好のメディアだった。
版画は印刷技術は発達したが、写真撮影がまだままならぬ時代の、宮廷の祝祭やイベント、あるいは街風景の中の庶民や虐げられた人々の生活をそのまま現代にリアルに伝える貴重な資料。

同時代にあっては、そのままの出版物あるいは印刷書に刷り込まれた他面的視覚メディア。
多くの人々をリアルタイムで愉しませる、まさに現在の新聞のようなものと言って良い。
従って、カロがメディチ家宮邸にいた10年、その製作は寸暇も惜しむ毎日であったのだろうと推測され、その作品量は膨大だ。
絵画とは異なり、墨刷り小品群は華やかさには欠ける。
しかし、表情や仕草、衣類や情景等、当時の世界が写真以上に細やかに、リアルに写し取られていて、現代の我々をも惹きつけて止まない。
会場にところ狭しと飾られた作品群だが、入場者は少なく、17世紀の世界に引き釣り込まれたままの愉しい午後の時間は静かに過ぎていく。

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2014年4月18日金曜日

ロマン主義時代の音楽と建築



18世紀は虚構から自然、集団から個人、観念から経験という市民社会への変容の時代。芸術においては視覚的静止した絵画的世界より、音楽や建築のような動的体験的世界が問題となっている。その世界とはもはや「神話や風景」というsenographyではなくscenery、一時的瞬間世界ではなく持続的体験世界へと変容した。

一般的には18世紀はカソリック支配のバロックから脱した新たな人間の世紀、神ではなく人間の現実をよりどころとし理性主義、啓蒙主義の時代と言われている。啓蒙とは無知蒙昧を啓発し人間性の向上を目指そうという考え方。迷信や信仰、あるいは不合理な習慣は批判され、「自然に帰れ」と叫ばれた。しかし、同時代が言葉通り新しい人間を生み出したかどうかは疑わしい。そこに生きる多くの人々がことごとく新しい時代を理解し、新しい世界を生み出してきたわけではない。なぜなら、現代にいたる近代人は相変わらず、自然を破壊し、エコノミックアニマルとの戦いに明け暮れざるをえないからだ。
台頭した市民意識の中で旧態の共同体が持つ集団主義的権力は払拭されたが、それに変る個人主義的自由が新たな世界そして建築を生み出したわけではない。むしろ本来の建築が持つ集団的な意味や「特別な空間」という虚構的世界が解体されていっただけではなかったのか。その後、現在に至る350年間は機能と機械を拠り所とする建造物はともかく、新しい世界をメッセージする建築は悉く崩壊した。虚構から離れた建築はあるがままの風景に役立つの道具へと変容していく。
一方、音楽史からみるとこの18世紀は古典主義という土台の上にロマン主義の花を咲かせた時代。それは、建築とは異なり、あるはずの時代が持つ神話・宗教を払拭し、新しい人間の音楽を生み出す時代となっていた。コスモロジーは失ったが神と距離を知った時代、音楽はソナタという形式を獲得し、調性を駆使し、時間的にも空間的にも切れ目のなく連続する風景世界を描いていく。