2012年5月30日水曜日

秩父セメント工場 谷口吉郎

子供の頃、父親の写生旅行の共をしよく出かけていたので、この地の特徴ある二本煙突は懐かしい。 しかし、この工場がかの谷口吉郎氏の設計であることを知ったのは建築学生になってからのこと。 その後建築設計を仕事としたが、工場内に入り詳しく見学するのは今回が初めてだ。 武甲山での石灰岩の採掘はともかく、この工場でのセメント原料の生産はすでに最盛期は終えている。 幸い、ドコモモ(近代建築遺産)20選に選ばれたことでもあり、工場は60年あまりほとんどその形を変えていない。 その全体は巨大でありメカニカル、日常的なオフィスビルやマンション建築と比べれば、ものづくりの機能がそのまま露出しドラマティックであり、スペクタクルな魅力が一杯。
工業時代の日本を象徴する建築、しかし、その姿は何とも優しく女性的でもあり、決して冷たくない。 屋根は山並みをなぞるかのような曲線、外壁は錆色のスティールと石綿スレートの組み合わせによる繊細な格子模様を描いている。 操業は一部リサイクル燃料製造を取り入れはじめたことでもありまだまだ続く。 山での採掘から製品の生産まで、全てを操業のままの世界遺産として推薦される日も遠くはない。 とすれば、設計者谷口さんが描いていた、「中庭に緑の芝生をつくり、花壇には四季の花を咲かせて・・・・気持ちのいい生産環境」が実現され、多くの観光客を楽しませるに違いない。

2012年5月29日火曜日

秩父の山間、石間の斜面住宅


急峻な斜面に石垣を築き、斜面へばりつくような住居群。 「天空の里」と呼ばれるこの集落は空気が澄みどこまでも爽やかだ。 里に下りると吉田町、瀟洒な蔵づくりの「小次郎酒造」があった。 ここの「にごり酒」はコクが深く、粘り着くような味わい。 昨今のサラサラな日本酒はこの里には似合わない。 こんなご時世になっても、決して古びることもない、 しっかりと維持されている、味と風格の酒と集落に改めて感動した。

2012年5月18日金曜日

ピラネージ展

西洋美術館のユベール・ロベール展はこの20日で終わりのようだ。 
まだ寒かった3月の始め、芸大の帰りにたまたま寄ったのが最初だが、その後、気になり併設のピラネージ「牢獄」展を含め結局、3回も見学してしまった。 
もっとも、3回も観たとは言え、気になることが解決したわけではない。 
この時代の絵画や建築の特徴、カプリッチ(気まぐれ)、その真意はどこにあるのか。 
ピラネージの「幻想の牢獄」から始まり、ユベール・ロベールの古代憧憬画。 
ブーレ、ルドゥ、ルクーの「幻想の建築」をみると、同世紀の後半、建築にもカプリッチは引き継がれた。 
共通しているのはルネサンスからバロックの統一的透視画法は歪められ、スケールは巨大化し、人間は朱儒となり矮小化されて描かれていること。 
ピラネージの版画の持つ現実と虚構が一体となった作品群。 
それはグランドツァー客向けの土産物として出版され、北ヨーロッパの多くの人が共有した理想都市でありアルカディア。 
しかし、その最初の出版は「幻想の牢獄」に表現されたサディスティックな静寂世界、そこはもう人間の共生の場としての建築の意味とはほど遠く、孤独な個人的な世界だ。 
その後、パリよりローマを訪れ、古代憧憬として描かれたユベール・ロベールのサンギーヌによるスケッチ。 
それはピクチャレスな風景画ということだろうが、もはや神話も建築的カノン(規範)も失ったバラバラな人間社会にすぎない。 
描かれた世界はアルカディア・ローマだがすでにリアリティを失った幻想舞台と言えるのではないだろうか。 

18世紀後半、ルドゥは牢獄ではなく理想世界を描いている。
「ショウの製塩工場」や「ブザンソン劇場」は彼の師匠ブレに始まる球体や立体をテーマとした一連の新古典主義的建築に関わるもの、しかし、そこもまた巨大な人間不在なカプリッチであることは代わらない。 
そして見えてくる、この一連のカプリッチは現代の建築世界そのもの。 
意味もないバラバラな世界、美しいかもしれないが、感情を持った生の人間が不在の個人的世界。 
もっとも、18世紀のカプリッチは多くの観客を惹き付けたが、現代建築の100年後の廃墟がこの展覧会のように後世の人々に憧憬されるという保証はどこにもないのだが。 
つまり、ここには近代の始まりと現代の終焉、そのすべて展示されているような気がしてならない。

今回の展覧会には登場しないが、ヴェネツィアの風景を28枚の連作に仕上げたカナレット、さらにティエポロの版画集「空想のたわむれ」もまた同時代の作品。 
そんな一連の版画集を観ながら思うことは「夢と現実が入り交じった世界」とは何か、それは現代建築そのものに酷似しているが、その始まりは18世紀のオペラの舞台の中に描かれていた世界ではなかったか。
18世紀の劇場建築家はパルマのビビエーナ一族だが、同時代フェルディナン・ビビエーナは「市民建築」の中で、舞台装飾の一部として牢獄の光景を版画で表している。 
ピラネージの牢獄は間違いなくこの劇場装飾を引き継ぐもの。 
ピラネージのエッチングは全て、グランドツァー客が持ち帰る土産物として制作されている。 
同時代のプルチナーニやビビエーナのオペラ舞台画は宮廷の権威の印、その記録として残されていた。 

しかし、これらの先駆はすべて舞台の中の幻想世界であったことに留意しなければならない。 
その世界はフィクションだが意味のある世界、物語としての人間世界がプロセニアム・アーチの中に完結している。 
さらに、その世界はあくまでもフィクションであり、虚構の世界であることを少なくとも観客は理解していた。 
気になることはこの辺り。 
夢と現実をプロセニアム・アーチで切り分ける手法を失った現代の我々は日常的人間世界をオペラの世界と混同視していないか。 
オペラの中に描かれた文学と音楽と建築の世界、それはあくまでアーチの中の別世界、虚構の世界であるからこそ、虚構と幻想、巨大スケールとバラバラな空間を物語として眺め、古代を憧憬出来たのだ。
20世紀以来、プロセニアムアーチは存在せず、虚構と現実の額縁を失い、個人主義的欲望の中に人間的感情を求めている。 
そして本来、虚構であった建築は虚構であることを止め、合理的経済の道具と化す。 
21世紀、帝国化したグローバリゼンションの中、建築は虚構化した巨大スケールが前提となり、朱儒たる人間を阻害する。 
しかし、アーチを失った我々は虚構と現実の区別もつかず、その場限りの日常世界に一喜一憂している。

2012年5月8日火曜日

魔性の魅力、ネトレプコの「マノン」

マノンを東劇で観る。 今年のMETライブビューイングでもっとも楽しみにしていたのはマスネの「マノン」、ネトレプコです。 彼女のマノンはYoutubeではすでに大人気。
2007年のウィーンではアラーニャ、2010年のロイヤル・オペラハウスではグリゴーロ、そして今日のメトではピョートル・ベチァワを騎士デ・グリュー役としての、つまり当代きってのイタリアの3人の美男テノールを相手役としての官能的なソプラノです。

彼女はすべてに魅力を持つ現代のディーヴァ。 そして今日のオペラはその持ち味を充分に発揮しての小悪魔マノン。 男性ファンならず誰もが観てみたい、聴いてみたいと思うのは当然です、その2幕・4幕は特に圧巻。
これがオペラ!、と思ってしまう。
これがオペラ、(Youtubeをご覧ください)まぁ、彼女ならではかもしれないが。

17世紀のモンテヴェルディのヴェネツィア・オペラはどれもこれも官能的魅力にあふれている。 しかし、最近のオペラはどうも慎ましやか、偏見だろうがそう思ってしまう。
今日のネトレプコどうしてどうして、そしてその歌はどこまでも爽やか。
ロシア生まれの彼女、ゲルギエフに鍛えられたそうだが、その人柄はどんな役でも魅力一杯。

「マノン」の魅力はオペラ・ファンより文学ファンのほうが詳しいのかもしれません。 アナトール・フランスの言葉だっただろうか、「マノン・レスコー」を書いたアベ・プレヴォーはダンテにもシェークスピアにもゲーテにもスタンダールにもなし得ない、もっとも魅力ある女性を世に送り出した、と言っている。

その魅力は岩波文庫でも味わって下さい。 絵画ですが、一端は同時代のブーシェの「ソファーに横たわった少女」が伝えてくれる。
オペラではプッチーニの「マノン・レスコー」と今日のマスネ「マノン」の二作ある。 どちらが良いかは好みだろうが、最近はネトレプコの熱演でマスネが目立つ。

昨年のメトは確かプッチーニの「マノン・レスコー」。 ボクの好みはマスネ。 彼の方がどちらかというと様式化されていて、プッチーニに比べ筋立てがやや解りにくい。
しかし、その全体はやはりフランスで生まれたオペラ、とてもスマート。
音楽も比べてみるとプッチーニはメローでドラマチック。
マスネはどこまでもロマンチック。

今日のメトの舞台は五幕ともスロープを多用している。
このオペラの持つ愛し合う二人の持つ不安感・不安定がうまく表現されている。 (演出はロラン・ベリー、指揮はファビオ・ルイージ)

今日は観ていて、椿姫のヴィオレッタを思い出した。 考えてみると原作はどちらもフランス、純粋だが薄幸な娼婦のお話し。 ヴェルディとプッチーニというイタリア人のオペラにはいつも泣かされてきたが、 このフランス語のオペラもなかなか胸に迫る。
相変わらずの語学音痴ではあるのだが。

こんな素晴らしいコメントをいただいた。
>ボクもマノンのような一直線の女性が好き! 魅惑的で移り気な女に対する若い貴族のひたぶるな恋。 彼女は全く本能のままの生きものなのであるから、自分の思うままに行動せずにはいられない。 彼女は悪意を持っているのではない、ふしだらで軽卒なのです。しかし、正直で、真面目です。

2012年5月4日金曜日

裏切りのサーカス  ル・カレ

「寒い国から帰ってきたスパイ」「スクールボーイ閣下」等は冷戦時代の英国諜報部M6(サーカス)を描いた70年代のベストセラー。 ジョン・ル・カレが書いたジョージ・スマイリーは同時代のジェームス・ボンドの対局にある、中身の濃い本格的エージェント。 ション・コネリーのボンドは欠かさず見たが、スマイリーも早川から翻訳される度に神保町出かけては買い込み読んでいた。 

「テインカー・ティラー・ソルジャー・スパイ」は失脚したスマイリーが復活し、エージェントからコントロールになるまでの話。 「裏切りのサーカス」はこの小説の映画化であることを実は最近まで知らなかった。 まさか、ジョージ・スマイリーが映画になるとは考えてもいなかったから。 もっとも、スマイリーものはすでにアレック・ギネスでTV化されている。 それを知ったのもごく最近、残念ながら一つも見ていない。

 今晩の有楽町の館内はほぼ満員、聞いてはいたが大変な人気だ。 70年代とは異なり、いまはインターネット時代、 チケットは人気の割には容易に手には入ったので良かったが。 館内はボクと同世代が多い。 みんな、かってのル・カレのファンというところだろうか。 実に良くできた映画だ。 読んでいた記憶があるせいかもしれないが、二重スパイの筋立ては決して難しくない。 頭脳戦であることは変わらないが。 映像をしっかり見ていれば読んでいなくとも、誰がモグラかすぐ判る。

 良く出来ているなと思うのは、小説としてではなく映画としてしっかり出来ている、と感じたから。 最近のこの手の映画の特徴、時系列が錯綜する作りだが、時間差を巧みに映像で描き分けている。(ネタバレになるがスマイリーのめがねとかのファッション、店や町という空間のしつらえなど) この映画は決して単なる小説の映画化ではない。 
アカデミー脚本賞ということだが、この映画を支えているのはまさに脚本だ。 台詞が簡潔。 小説のように言葉で理解しようとするのでなく、映像をしっかり読むように作られている。 ボクでも判る、それほど難しい英語ではないから、字幕を追うより映像を見落とさないように。
 あの、コンパクト鏡、なんとも色っぽい。 あの、クルマの中の蜂のうごめき、言葉以上に語っている。 この映画はいつになく男たちの涙が多い、一言の言葉もなく、映像の奥深く。 脚本とは小説から台詞を抜き出すことではなく、映画にすること。 そして、ここには小説では表しにくい人間の確執が事細かに描かれている。

 そう、この映画はむしろ恋愛映画だ、青年と老年の二組と様々な人々の繊細な関係。 エスピオナージだからこそ描きやすい、不確かな環境と不安定で不可解な人間世界。 音と映像そして音楽も実に良い、多くを語らず、観客の想像力が決め手。 小説としてもやや複雑難解な「テインカー・ティラー・ソルジャー・スパイ」をまさに映画として巧みに作り上げた名作。 映画好きなら何度でも楽しめそう、お勧めです。

2012年5月2日水曜日

シャッラ/いいから!

家族とトラブルと笑いとハートウォーミング、 イタリア映画のエキスのすべてを95分にまとめた上質の映画。 よく見る典型的なイタリア映画のパターンだが決して陳腐ではない、 内容は新鮮、センスが良い。 ヴィルズィ監督の脚本家であったブルー二が監督に転じた第一作ということだが、 新しい作家が登場したように思う。 題名がすべてを語っている、シャッラ! イタリア語を知らなくとも感覚的に良くわかる。 これでいいんだから、ほっといてくれ、それでいい! 結構切羽詰まっているが、思い通りにやってみよう、やらせよう! どこにでもいる15歳の男の子と中途半端な父親のシャッラな同居生活。 シャッラ!だけに、本音をぶっつけあっての二人の生活はトラブルつづき。 シャッラ!だけに、教条的な人間論、家族論、教育論などは一切、意味がない。 シャッラ!だけに、二人は決していい加減ではない。 「人間は人間として生きる」というあたりまえのイタリア人の持つ本音。 シャッラ!という言葉が持つこだわりとリアリティがボクにはうらやましい。