2011年2月17日木曜日

ド・ペイエのクラリネット

昨晩、夜遅く帰るとTVでブラームスのクラリネット・ソナタNO.1の解説をやっていた。曲の冒頭はピアノが奏でるドファミレド。そのメロディーを枯れたクラリネットが緩やかに追う。調性はクラリネットが最も豊かに響くへ短調。 61歳の時のこの曲も20代のブラームスの最初のピアノソナタも同じドファミレド。それはなんと、シューマンの妻、クララが作曲したクララ・コードと呼ばれている旋律だそうだ。音楽科卒業生なら誰もが知るエピソードかもしれないが、今、再び19世紀の音楽と建築を調べている建築科学生(??)にとっては大いなる驚き。 どうせ聴くならチョット古いがド・ペイエがいいなと、寒い中、銀座の店をはしごして、ようやっと見つけた幻の名盤。(ド・ペイエはその語りかけるようなクラリネットを一度聴き、いつかは手に入れたいとメモっておいた。今日はそのいつかだったのです。)モノラールのCDだが、これからゆっくり聴いてみたい思います。

2011年2月5日土曜日

早川式「居住学」の方法」という本がある。


題名からみると住宅関連本お得意のハウツー本と思われるかもしれないが、 とんでもない、 日本では唯一とでも言える住宅問題研究家の思索と実践の記録です。作者の早川和男氏は戦後50年、まさに孤軍奮闘、 「人間にふさわしい住まい」をテーマとしての活動と研究の日々。 TVドキュメント「空き屋放置」や建築学会誌「未来のスラム」に触れ、 そういえば最近、この種の問題から距離を置きすぎたな、との反省から、 早川氏の名前を思い出し、今日、この本を読んでみた。 紀元前2世紀の中国に「安居楽業」という故事がある。 「安心して生活し、生業を楽しむ」 住まいと仕事は人生を支える両輪、後漢書から遠く隔たった現在、 この国ではともに奪われようとしていると書かれ、この本は始まる。 内容は西山夘三氏の食寝分離論の真意から始まり、 スター建築家誕生の土壌となる住宅金融公庫、ILOが禁止した給与住宅、ウサギ小屋批判やヨーロッパの空き屋占拠運動、 阪神・淡路大震災後の復興公営住宅、 その道々に展開される「住宅貧乏物語」「日本住宅会議」「東アジア居住福祉宣言」そしてたどり着くのは「居住民主主義の実現」。 広範の分野だが著者は書斎の人というより実践家、 その内容は簡明で分かり易い。読んでいて一番気になった項は「研究者の社会的責任」。 1−住宅会議の運営委員の弁護士いわく。ある進歩的大学教授に(居住権侵害裁判の証人)依頼に行ったら「そんなことをしたら行政から資料をもらえなくなる。委託研究が来なくなる」と断られた、という。 2−ある全国紙の記者に”居住保障は憲法25条の生存権の土台である”という視点からキャンペーンするべきでないかと言ったところ、それでは記事にならない、とデスクがとりあげない。 3−某新聞社の学術奨励金へ応募し候補7点に残ったが、最終会議で、ある選考委員は「日本には住宅問題など存在しない」と政府の代弁者のような発言をして真っ先に落されたと、別の選考委員に教えてもらった。 4−デベロッパー団体である都市開発協会の事務局長は、大手不動産業者のエゴイズムとそれに追随する政治家や官僚による制度の方向を変えないと、日本の都市は乱開発が進み、業者の金儲けの場になってしまうと憂えていた。 5−中曽根内閣の都市計画や借地借家法などの規制緩和。 用途地域制決める容積率・用途規制の緩和、国有地の払い下げ、農民から農地を手放させる宅地並み課税の強化等々。 結果は不動産業者や大企業による市街地開発。時代劇に登場する悪徳代官の手先さながらの暴力的地上げが横行。 地上げにつながる制度の背景には、政府各種審議会のほか首相の私的諮問機関が大きな役割を果たしていた。 その審議会等に数多くの大学教授が参加していた。 市場原理主義を待つまでもなく、日本の土地・住宅政策は一貫して経済浮揚策の一端。その主導は政治・官僚主導であったとしても、情けない学者・知識人という助成者たちの存在。決して未知でない人々でもあるだけに読んでいて悲しい。 先週の「21世紀の歴史」に引き続き読後は暗く、正直なところ自責も感じている。しかし、早川氏があるいはアタリ氏が言う超民主主義のための人材

2011年2月4日金曜日

ドラマとしてのオペラの中でカーマンは重要な指摘をしている


「ドラマとしてのオペラ」の中でカーマンは重要な指摘をしている。 「オペラブッファが持つ音楽の連続性が劇的音楽の道を開いた。」といっている。 18世紀の器楽曲が展開したソナタ形式を支えたのは調性だ。 バロックの説明的展開に対し調性は機能的な展開を切り開き、葛藤・経過・興奮、絶え間ない変化を可能にしている。 結果、器楽音楽はブッファを発展させ劇的連続性を生み出していく、とカーマンは考えている。 18世紀まで、形式性の展開においては似たような方法をとってきた音楽と建築がその後、決定的に異なるのはこの連続性にあると考えられる。 ロマン派以降、音楽同様、形式のみで展開せざるを得ない建築では不連続な行間をどう繋ぐかが問題となった。 その方法が仮に機能主義・有用主義という倫理だけであったとするなら、近代建築は「失敗したロマン主義」ということになる。 近代建築を批判し図像論や言語論を応用した建築もこの行間を繋ぐ方法とはならずポストモダニズム以降姿を消した。 しかし、まだ方法はあるはずだ。ロッシは記憶・連想をその糸口とし、シザは?スティーブンホールは? 建築のロマン主義を検討する意味 がここにある。 hiroyuki kato/iPhone

2011年2月1日火曜日

プライマリー そしてミニマルしかし饒舌な建築


プライマリーもミニマルもボクの好みではない。時間も言葉も超えることができないチープな印象を与えるからだ。しかし、この建築はプライマリーでありミニマル(極めて少ない素材の微細な変化に依拠)でもあるが解説を読むと饒舌な建築だ。いま、現代建築が持つロマン主義に関心がある。ズントーもその一人かもしれない。 http://www.archdaily.com/106352/bruder-klaus-field-chapel-peter-zumthor/