2011年1月31日月曜日

「凍れる音楽」考©


ヨーロッパ中世、教会の中で一体であった音楽と建築は、15世紀イタリアでは、音楽は耳で聴くもの、建築は目で見るもの、つまり、別々の役割を持ち、神の世界の顕現に貢献するものとなっていた。しかし、明確な分離を意識することなく18世紀を迎えたアルプスの北、ドイツでは民族意識の高揚をきっかけとしてゴシック建築の見直しと礼賛が盛んとなる。
ルネサンス・バロックというヨーロッパの音楽や建築の主調がまだイタリアに重心がおかれ、当時野蛮な様式と見なされていたゴシック建築を後にドイツ・ロマン派と呼ばれる人々が、この建築こそ我々の精神の崇高な体現として評価した。

 18世紀中頃、音楽はソナタ形式の隆盛に伴い、イタリア中心のバロック・オペラによる静止画的世界から器楽的・動画的世界へ、不連続な継起的ドラマから連続的体感の世界へと変化していきます。この連続的高揚こそアルプスの北の人々を支える美学。ゴシック建築とソナタ形式の音楽は相和し、美学におけるドイツ・ロマン、後の「凍れる音楽」を体現させる装置となった。 
「凍れる音楽」はイタリア・ルネサンスを凌駕するドイツ的意識の広がりを証拠だてる有効な説明言語、その筆頭はフリードリッヒ・シェリングと言われている。芸術は人間の最高の精神的所産かつ生産活動と位置づけ、彼は「彫塑における無機的芸術形式すなわち音楽は、建築である」あるいは建築を「空間における音楽 Musik in Raume」と「芸術哲学」に書いた。
シェリングの義兄弟でもあり、友人のフリートリッヒ・シュレーゲルは「建築は凍れる音楽 gefrorene Musik なり」と語っている。やがて、「凍れる音楽」はゲーテ、ヘーゲルを始め多くの人々に愛用され、文学・音楽・美術・建築のロマン主義を象徴する言葉となって行くのは周知の通りです。 

「凍れる音楽」において興味深いのは「ドイツの建築術について」(1773年)から始まるゲーテの建築論です。この書は若きゲーテがシュトラスブルグ大聖堂について論じたもの。当時ヴィンケルマンの古代美術史によりギリシャ美術に傾倒していたはずのゲーテだが、彼は大学生活を通じ身近に体験したゴシックの大聖堂を賛美して止まず、この書を書き上げた。
 「大聖堂の眺めはなんという思いがけない感じで私を襲ったことか。これまで私の頭は良き趣味についての通念で埋まっていたのだ。聞き伝えによってマッスの調和とか、形式の純粋とかをあがめ、ゴシック的粉飾の恣意に対する断固たる敵になっていたのだ。辞典の見出し語でも説明するように、ゴシック風という語のもとに、私は不確定、無秩序、不自然、かき集め、つぎはぎ、飾り過ぎ等々、脳裏をかすめたありとあらゆる生半可な同義語を積みあげていたのだ。それは外部の世界をみな野蛮呼ばわりしている民族よりも愚かしく、自分の体系に適合せぬものをすべてゴシックと呼んでいたのだ。・・・・ところがどうだろうこの大伽藍は互いに調和している。無数の細部から成り立っているので味わいを享受することはできるが、けっして認識したり説明したりすることの出来ぬ建物だ。」 

ゲーテの熱い感情が手に取れる。彼は教室であるいは書物で得ていた古典主義をかなぐり捨て、理知を超えたシュトラスブルグの魅力にうち震えた。 そんな、若きゲーテのゴシック賛美は「イタリア紀行」と相前後して急に消えてしまう。 「ドイツの建築術について」から10年あまり後、ワイマール宰相の地位にあった彼は突然、逃げるようにブレンナー峠を越え、檸檬の花咲く、パッラーディオのラ・ロトンダ(ミニョンの館)を訪れた。
 紀行は「我もまたアルカディアに」と裏表紙の言葉に示されるようにイタリア古典主義の経験と考察、1786年から1788年の記録が元となった有名な書。晩年まで改訂に改訂を重ね、文学者ゲーテの原点といわれる「イタリア紀行」は仰ぎ見るゴシックを振り払った北の国の感性が初めて触れるアルカディア、ルネサンスとは異なる、古代ローマを体得した後世にも貴重な旅行記となった。(余談だが不思議なことにゲーテはフィレンツェは訪れなかった)
この紀行からドイツに戻ったゲーテは1788年、再び「ドイツの建築術について」を書く。 それはギリシャ建築を主題とし、古典建築研究の成果示す内容です。さらに1895年には「建築術」と題する手記により、イタリアでの体現を総括し、古典主義礼賛の芸術論を上梓する。つまり、若き血が燃えるゴシック礼賛から、理知的古典主義文学者へと変貌した詩人ゲーテの誕生。しかし、そんなゲーテは晩年、再びゴシックへとその関心は回帰するのです。

人間ゲーテの大きさはその変容の中にこそ見るべきであろう。それは「ドイツの建築術について1823年」に記されている。 「私が後にシュトラスブルグやケルン、そしてフライブルグの芸術を見失い、そのうえ、それよりも発達した芸術(古典古代の芸術)に心を惹かれて、それらをまったく捨て去ってしまったことについては、自分を責めぬわけにはゆかぬ」。 
ゲーテはゴシック主義と古典主義の両面に挟まれつづけ、ドイツについて、文学について、建築について、芸術について考え続けた人、だからこそ偉大なる詩人と呼べるのだ。
そして、生み出されたものはドイツ民族のためだけのロマン主義ではなく、全ての人間のためのロマン主義。 ゴシックはドイツ・ロマン主義に直結していた。また「凍れる音楽」は「ドイツ・ロマン主義の常套句」と考えて良い。 しかし、その後、ロマン主義はイギリスに引き継がれ、「ピクチャレスク」にまで応用されると、ある種の古典主義と結びついていく。

ゲーテはファウストの中で「わたしは神殿全体が歌っているかと思います」と言っているが、自身には「凍れる音楽」という直接的言辞はない。この言葉がゲーテの言葉として広まったのは、ゲーテの生涯にわたる建築論がゴシックと古典主義の狭間に立つ、一民族ではなく世界に通低するロマン主義の表明となっていたからに違いありません。
 「凍れる音楽」は感覚的に理解しやすい言説だが、どこまでも反アカデミズムのなせる技であったところが重要です。 建築という分野では、ロマン主義が主流になったことはない、そしてまた「凍れる音楽」が建築側から語られることもほとんどなかった。 そんな観点に立って考えると、20世紀に入り、多くの建築家が音楽との関係を語り始めたことは大変興味深いことです。 アールヌーボ以降新しい建築を模索したのは皆、反アカデミズムの人たちです。
ヨーロッパ世紀末はクリムトやオットー・ワーグナー、グスタフ・マーラーの活動が主因となり活動が始まっている。その分離派的ゴシック好みに対し、反アカデミズム、反分離派的ロースやシェーンベルグの近代音楽と建築がその後の大きな役割を果たしていく。こんな100年前の建築状況を改めて思い出してみると、現在もまた新たな「凍れる音楽」を論じる時代ではないかと思えて来る。 それは機械主義・機能主義主義・環境主義を超克し、新たな人間のエティカ(美学)に通低する新しい建築を必要とする時代だからだ。