2010年7月24日土曜日

本物と偽物の峻別にもそれほど意味がなくなった時代

「偽物が本物と信じられた時代から、今日は本物も偽物に見えてしまう。 いや、本物と偽物の峻別にもそれほど意味がなくなった時代を、私たちは生きている。」 と文化欄「住まう技法」は書いている。 30年ほど前、ゴッドフリー・レッジョ監督はドキュメンタリー映画「コヤニスカッツィ」を製作した。 コヤニスカッツィはアメリア先住民の言葉で「常軌を逸し、混乱した生活、平衡を失った世界」という意味がある。 1956年に完成したアメリア・ミズーリ州セントルイスにあった巨大集合住宅は住宅計画史上最大の失敗作。 その集合住宅は1972年に爆破解体される。 ゴッドフリー・レッジョ監督は巨大集合住宅の建設から解体の経緯を映画にした。 つまり、ドキュメンタリー映画「コヤニスカッシュ」は常軌を逸した現実の建築の自爆状況の記録なのです。 一方、2001年9月11日、同時多発テロにより、WTCは崩落する。 ニュース映像を見る限り、この崩落は劇場で見る今風のどんなSFX映画以上に現実的であり衝撃的。 偶然ではあるが、セントルイスとWTC、どちらの建築もミノル・ヤマサキの設計。 繊細な機能美を誇った近代の名作と言われている。 そして、WTCの崩落は「モダニズム建築の終焉の日」と呼ばれるようになった。 冒頭の言葉に戻って欲しい。 ボクには「われわれは住まう技法(=建築批評)を失っている」と読み取れるのだ。 他方、同じ夕刊の6面、映画欄の下の四段の広告はユンカーマン監督の「老人と海」。 この映画も「コヤニスカッツィ」同様、30年ほど前のドキュメンタリー。 与那国島に住まい、小さなサバニを大海に浮かべ、大きなカジキと格闘する老人の記録だ。 というのは簡単だが、格闘と言う映画の中のクライマックスまでは、映画を創る人々にとって、 気の遠くなるような、長い待ち時間と思考と逡巡の日々。 むしろ、この映画は「待ちこそ人生」と語っていたのかもしれない。 じじつ、後で聞いた話だが、この映画のサバニの漁師は、映画に記録された格闘のあと、 嘘のように人生を閉じられたと言う。 映画の撮影は東中野「ポレポレ座」のスタートの頃だった。 ポレポレ座は写真家本橋成一氏の発案から誕生した、アクセスフリーのたまり場だ。 アフリカでの撮影旅行から帰り、その大地と動物たちの営みに触れ、彼はそこに生きる人々の言葉『ポレポレ」を仲間とともに共有しようとした。 お判りだと思うポレポレはスワヒリ語で「ゆっくり、ゆっくり」を意味する。 当時の、急ぎすぎる時代風潮、なんか変だなと感じる人々が沢山集まるようになったのだ。 たまり場となったのは青林堂という本屋さんの三階。 そこは男女半々、20代から60代、いつも様々の分野の人々で一杯だった。 ドキュメンタリー映画「老人と海」のプロデューサーはシグロの山上さん。 そして、彼もポレポレ座スタート時の主要メンバー。 撮影時の苦労話はいろいろ聞かされ、陣中応援に与奈国には必ず出向く約束しながら、 遂に果たせず、今にして思うと、ちょっと残念ことをした懐かしい思い出の人。 ボクにとって「老人と海」はそんな様々な記憶がある映画 しかし今日、夕刊では突然の四段の大広告。 金もなくスポンサーもままならない当時のこと、新聞広告など考えられなかった。 だから、びっくり、何事かとしばし、考えさせられてしまったのだ。 考えてみると、先ほどの文化欄「住まう技法」とは全く呼応している。 あの時代は批評があったのだ。 ポレポレ座ではよく議論もした、時に喧嘩にもなった。 しかし、今は批評がない、みあたらない。 本物と偽物の峻別にも意味がない。 だから、いま上映されることには大きな意味がある。 この映画には四段の大広告で宣伝し、多くの人に観てもらいたい、峻別があるからだ。

2010年7月15日木曜日

二期会オペラ「ファウストの刧罰」

久しぶり、二期会オペラに行く。ベルリオーズの「ファウストの刧罰」。 ゲーテのファウストではあるが、誰でもが知るこの物語を、 ベルリオーズはかなり抽象化してオペラにしている。 メトの体験では、主役はむしろメフィストペレスにあり、 その全体は交響曲「幻想」のオペラ化という印象を持っていた。 http://leporello.exblog.jp/12083661 しかし、二期会の「刧罰」は全く違うものだった。 当然だろう、演出は様々、それが舞台を観る我々の楽しみだ。 今日の二期会は華やかだ。 まるで「宝塚」。 抽象化されているオペラだが、全体はものすごく具体的。 地を這い、空中を舞うニンフたちが随所に登場するが、 その役割りはメフィストペレスの魔法により生み出される、 ファウストの想像的世界の創造にある。 しかし、終始登場するダンスの動きは、 舞台を一層華やかなものに変えてはいるが、 全体は恐ろしく直接的、具体的なものとして表現されていた。 まぁ、これはオペラなの、あるいはバレー? と思う人もいるのではないか。 ボクは不満足。 背景であるはずのダンス、その出来はともかく、 オペラ全体の流れのなかでは、余りにも頻繁すぎて、 歌手の歌を聴く楽しみ阻害している。 さらに、そのダンスそのものが表現していることだが、 振り付けはあまりにも単調、 全場面を通じて、その動きにメリハリがなく、 え、またなのと、 終盤に近づくほど嫌悪感さえ持ってしまった。 とは言え、やはり「ファウストの刧罰」はオペラだ。 音楽が終始全体をリードして行く。 ベルリーオーズはグノー以上に音楽としては具体的な表現を取っているので、 その流れはわかり易く戸惑うことはない。 ファウストやマルグリートの歌声はオーケストラとのバランスもよく、 のんびり、ゆったり、楽しく聴かせていただいた。 一点、不満を付け加えると、メフィストペレスは今イチだ。 メトのフアウスは、彼に魅せられたのだ。 しかし、今日は、メフィストペレスが何処にいたのか、 3階の観客席から舞台を見る限り、 演技・音楽からその存在を見いだすことが出来ず、赤い衣装を探す始末。 katohiroyuki/iPhone

2010年7月14日水曜日

カポディモンテ美術館展 国立西洋美術館

ダヴィンチやラファエロ、ミケランジェロという優れた画家たちの登場で、 どんな複雑な題材に遭遇しても、いつも調和があり、目を惹く、 絵画を生み出すことがあたりまえとなった16世紀前半。 次に登場する画家たちは、さらにどんな工夫をこらしたのであろうか。 彼らは、もはや単純な調和ではなく、不自然でわかりにくい絵画であっても、 まずは多くの目を唸らせることに腐心したであろうことは充分に理解出来る。 さらに、絵の中にいろんな意志や特別な知識を潜ませることは、 中世以来のヨーロッパ絵画の常道だが、絵画を解釈するにあたって、 より高度の知識がなければ理解出来ないような作品を描くようになったということも、 また理解出来ることです。 貴族が楽しんだ、16世紀絵画、いわゆるマニエリスム期絵画は、 もはやルネサンス絵画とは異なり、奇想と新趣向に富み、 高度な知的関心を持って鑑賞しなければ理解できないもの、と言えるようです。 さらに時代が進み16世紀末から17世紀以降の絵画作品。 それはカラヴァッジョたちが活躍したバロック時代のこと。 この時代のイタリアの画家たちが最も腐心したこと。 それはパレストリーナの音楽に明解に示されていることだが、 対抗宗教改革の目的に有効に機能する作品であることではなかったか。 知性豊かな貴族のためだけの作品ではなく、多くのローマの大衆にとって、 あるいはローマ以外の沢山のキリスト教信者にとって、新興プロテスタントとは異なる、 バチカンを中心としたカソリックの教えが、 直接的に、感覚的に充分に理解出来る作品であることが求められた。 そこでの作品を生み出す画家たちの格闘、 それは描き出したい伝説的な神話や物語の場面について、 もはや奇抜さを競うことでもなければ、 従来の見慣れた形式化された場面でもない。 画家たちの心に描かれる明確なビジョンを、 よりドラマチック場面として的確に表現することが求められていたのです。 つまり、バロックとは最初の近代画家たちの格闘の時代でもあったのです。 ルネサンス以降、多くの有名画家が沢山の作品を生み出したイタリアにあって、 このマニエリスムとバロックという二つの時代を理解することは容易ではない。 しかし、時代の異なる画家たちの取り組みの違いが少しでも見えて来ると、 今日の国立西洋美術館「カポディモンテ美術館展」はこよなく有効、 楽しい展覧会になるはずです。 展示ルートの中間に素描展の一室を挟んで、マニエリスムとバロック、 作品はこの前・後半に明解に分離され展示されています。 さらに、この分離はもう一つ、この美術館の形成過程をも説明してくれている。 前半マニエリスム期の作品はローマ・ファルネーゼ宮殿でのコレクション。 後半バロック期はカラヴァッジョがやってきたナポリのカルロス3世の宮殿の作品です。 会場はまだ開催間際で、平日は観客は少なく、ゆったりのんびりの鑑賞。 そして、なんと言っても前半の圧巻はこの美術館の珠玉の一品、 パルミジャニーノの「貴婦人の肖像」だった。 暗闇から、いま毅然と登場し、見るものに「無言」の言葉を発する、動き生きている屈指の美女。 彼女が貴婦人なのかコルテジア(高級娼婦)か、 美術史専門家間でも意見が割れているとの説明。 ボクにとっては、同時代を書いた多くの物語の中のコルテジアを全て想像させる、 まさに鋭く、強く、知的で気品ある女性の生の存在が実感される。 そこにある同時代に誘い込まれるような、強烈で誘惑的イメージが溜まらなく快楽なのだ。 後半の作品はカラヴァッジョではない、彼に影響を受けた画家たちの作品。 幾つか興味ある作品に触れたが、ひとつだけ挙げるならば、「ユディットとホロフエルネス」。 画家であるアルテミジアはカラヴァッジョやバロックの物語には、 必ず登場する、当時には珍しい女性画家。 その彼女の苦しみと環境をイメージするに、よくぞ描いたこの「ユディット」をと、 おもわず拍手喝采したくなる迫力とリアリティに、しばし留まらせ釘付けにされていたのだ。 面白かったのはヴァザーリとグレコ。 前者はやはり画家としてはこよなくへた糞。 そして、後者は若き日の習作の小品。 しかし、グレコはこの淡彩な一作ですでに後の全作品にある天才ぶりを充分に発揮していたのです。