2010年9月29日水曜日

ギリシャ・ローマの古代劇場/©


(聖地に建つ劇場)

ギリシャ悲劇はディオニュソスの祭礼が始まり、そのための劇場は神と合一の祝祭空間から始まった。ギリシャ劇場は満天の空の下、オルケストラという演技の場を、神である自然と、観客である人間が半円ずつを正円として囲むことで、デザインされる。あるがままの自然の山の中腹を人工的に斗の形に階段状に構築する、こうして未分化な祝祭から形式的な劇場空間が誕生した。

アテネのディオニュソス劇場、デルフィーのアポロン劇場、アッティカのエピダウロス劇場、ギリシャでは劇場のあるところはどこも聖地だ。聖地は世界の中心を意味する。したがって劇場もまた世界の中心。

劇場は人間的な様々な所作の象徴である劇を、あるいは演じられている人間的世界そのものを、神とともに眺める場所に他ならない。観客は劇場を体験することで世界の中心に立ち、人間所行の世界を外側から眺めることが可能となる。

劇場は世界を想像し、意識づける媒体としての役割を担ってる。人と神がもっとも幸せな交遊をしていたギリシャ時代、劇場は人と神、人と世界が有効な関係を生み出す装置として親密にデザインされていたのだ。


 (fig70)


(ディオニュソスの祭礼)

「春どきにこそ、おおディオニュソス

汝の聖なる宮居にきたれ

エリスの市へ 恵み姫たちを供いて

牡牛の足もて 走りきたれ

気貴き牡牛 気貴き牡牛よ」(古代の芸術と祭祀:叢書ウニベルシタス)

ディオニュソスの祭礼は訪れたばかりの春に始まる。松明の光に照らされた長い行列が祭神の神像を劇場に運び込み、オルケストラに安置する。ディオニュソスは牡牛そのものであることもある。牡牛は神の原始的な化身だった。

アテネの青年に付き添われた牡牛が神苑に入る。森も野も花盛り、蜜蜂がうなり、小鳥がさえずり、仔羊が跳びはねる時、ダフネの恋が芽生え、ギリシャ中の世界が目覚める。嵐のような冬が終わり春三月、爽やかな風と抜けるような青空、アテネの人々は日の出とともにアクロポリスの南麓、ディオニュソス劇場に集まった。


(ディオニュソス劇場)

豊壤の神ディオニュソスの大祭では悲劇の上演がメインイベントとなっている。当時の上演は競演。オリンピック同様、競技会のような形式を持っていた。毎日一人の作家が三編の悲劇と一編の喜劇を、三日に渡り三人の作者の十二編が上演される。

競演は十人の審判員によって審査され、瓶の中に投じられた十票から任意の五票が抜き出され、順位が決定された。判定そのものは偶然性によるのだから、審査そのものもゲームを楽しむお遊びのような雰囲気。しかし、選ばれた作品の数々、そのリストは現在でも残されていて、アイスキュロス、ソポクレース、エウリピデス、アリストパーネスの幾多の作品が記録されている。

 (fig71)

野外劇場は朝はやくから詰めかけた二万人近い観衆で一杯。普段はあまり外に出ない若い女性たちにとって、劇場は公に男性たちと同席できる格好の機会。隣邦からの外交使節や観光客はもちろん、子供たちや奴隷たちまで、アテネ中の人々は葡萄酒や無花果、オリーブの実をかじりながら、春の陽や風と共に演技の進行を楽しんだ。

ディオニュソス劇場は紀元前六世紀、アゴラ(広場)でのお祭りをアクロポリスの中腹に移したのが始まりと考えられている。現在の劇場の場所は以前からディオニュソスに捧げられた地でもあったのだから劇場建設にはもっとも意味のある場所。

劇場の形状はギリシャ東海岸で発掘されたトリコス(古代ギリシャの都市構成)に見られるように、当初は僅かな平坦の地を一様でない斜面が取り囲み、不整形な形状を持っていた。現在のように波紋のような形状に整形し、段状に構成したのは紀元前五世紀末のこと、そしてこのディオニュソス劇場が以後のギリシャ劇場の原形となって行く。


(エピダウロス劇場)

ギリシャ劇場の有様を今に示す、もっとも美しい劇場がエピダウロス劇場。ペロポネソス半島の東北部、アッテイカのアルゴリダ丘陵の内懐、松と夾竹桃の林の一角に現存する。紀元前四世紀の建設とされるこの劇場をローマ時代の旅行記作家パウサニアスが訪れ、紀元二世紀に次のような記録を残した。

「エピダウロスの劇場は神殿の中にあって特に見るべき価値があると私には思える。たしかに、ローマ劇場の装飾は他の劇場よりも優れメガラポリスにあるアルカディアの劇場は規模の点において比類ない。しかし調和と美に関しては、ポリュクレイトスを凌ぐ建築家がどこにいるだろうか。なんといっても劇場とトロスの両方を建てたのはポリュクレイトスしかいないのである。」(ギリシャ案内記:岩波文庫)

ローマ時代のパウサニアスがエピダウロス劇場の建築家をギリシャ最大の彫刻家ポリュクレイトスとみなすのは理解はできるがそれは間違い。この劇場が紀元前四世紀のものであることは考古学上の定説となり、ポリュクレイトスではなく、実際は彼の孫の小ポリュクレイトがこの劇場を建築している。


 (fig72)

正円のなかに正方形を取り込むエピダウロスの平面デザインは「カノン」(音楽で言う対位法としてのカノンと異なり美術用語としてのカノン)を書いたポリュクレイトスこそ相応しいが、彼は紀元前五世紀の人なのだ。ポリュクレイトの孫の仕事とは言え、この劇場は美しく調和した幾何学的形状を持ち、みどり豊かな景観に包まれ、二千年を経過した現在もまったく変わらない姿を残している。

訪れたのは秋深い十一月のことだった。柔らかい午後の陽を樹林の間から受けながら、ひとり長い散策道を登り続けると、突然に開けた丘の上では、雲ひとつない青空に抱かれた整然とした花崗岩の段組が、美しい円形を描いて、頂きへと登り詰めていた。


(オルケストラとスケーネ)

収容人員一万四千人、直径約120mの大劇場はその中央に五十五段の階段状の座席に囲まれたオルケストラ(合唱のための円形の平土間の広場)を持っている。観客席を形づくる、どの石の上に腰掛けてみても、その視線は全てオルケストラにそそがれる、と同時にオルケストラの中央にはめこまれた小石にコインを落とすと、その響きは最上段の観客席にまで伝わる。

ギリシャ劇場ではオルケストラこそ見られることの中心、しかし、ここは平坦ではあるが舞台ではない。オルケストラの周囲は白い石灰岩、円形の中央の小石は祭壇の位置を示している。

劇場は古代の宗教建築の一つ、アテネのディオニュソス劇場ではオルケストラに神体が置かれていた。ディオニュソス祭は農耕における豊穣の祝祭がその発端。祝祭では仮に旋律はなくとも、農作業で必要となる歩調を合わすかけ声、ある種の唱和は日常的であったに違いない。

従って祝祭から演劇が形成される過程では単純なリズムを持つ斉唱的歌曲が中心となったと考えられている。こうした中、ギリシャ劇では合唱隊が組織され、祝祭の場であるオルケストラは音響効果がもっとも重視されていたとことが理解できる。

オルケストラの背後はスケーネと呼ばれる。スケーネはローマ時代の劇場ではスカエナエ・フロンスと言い、舞台背景装置のことだが、宗教行事に近いギリシャ劇場ではオルケストラが見られることの中心の場所であって、スケーネは舞台背景ではなく単に仮設の楽屋に過ぎなかった。ギリシャ劇場では神々が君臨する背後の大自然こそが舞台背景なのだ。

エピダウロスがあるアルゴリダ丘陵は医療の神アスクレピオスの聖域。ヘレニズム時代の医療センターと考えられるこの場所ではスケーネの背後はストアだった。ストアは劇場と他の医療領域を結ぶ廊下、その後の修道院の回廊のような役割も持っていた。

オルケストラとスケーネの僅かな間が現在でいう舞台ということになるが、このエピダウロスに立つ限り、ギリシャ劇場では舞台よりオルケストラが重要とつぶさに理解できる。

話は劇場建設の百年前の彫刻家ポリュクレイトスに戻るが、彼はアスクレピオスの神殿の直ぐ脇に円形の建築トロス(円形建築)を作った。碑銘記録はテュメレー、祭壇を意味する。その建築の直径はほぼ20m、エピダウロス劇場のオルケストラの直径と全く同じだ。

トロスとオルケストラ、その結びつきの根拠の解明は、現在でも考古学的課題のようだが、爺と孫の関係にある二人のポリュクレイトスは百年間という時間差を挟み、なんらかの呼応する二つの建築をここエピダウロスに残したことは事実。パウサニアスが旅行記で書き間違えるのも十分に唸づける。


(医神アスクレピオス )

ギリシャ神アポロンの愛人、フレギュアス王の娘コロニスはアポロンの子を宿していたが、人間に恋をしてしまったがため、その不敬を咎められアポロンとは双子の妹であるアルテミスに殺されてしまう。

コロニスのお腹の中のアポロンの子は火葬の時、ヘルメスよって救出され、アスクレピオスと名付けられた。アスクレピオスはケンタウロスのキロン老人に育てられる。キロンから薬草の知識を授けられた彼は、やがて成人し、死んでしまった人間をも生き返らせる力を持つことになる。

しかし、この人間の身分を越えた(自然の理法に背いた)アスクレピオスの力に父神ゼウスは大いに怒り、ついに雷火によって彼を焼き殺してしまう。アスクレピウスの父アポロンは息子の死を嘆き悲しみ、天上の神として位置付けた。やがてアスクレピウスは医療の神として広く信仰され、各地に神殿や診療所を持つこととなった。

エピダウロスはアスクレピオスが生まれた処、ゼウスの怒りで一度は捨てられたが、牧犬に護られ、山羊の乳で育てられた、という伝説の地でもある。劇場の周辺にはアスクレピオスの神殿ばかりでなくアフロディテの神殿、アルテミスの神殿など、堂々たる神殿が軒を連ね、種々の治療や患者を宿泊させるための宿泊所(クセノン)や浴場、スポーツジムの設備も設けられていた。

ここはギリシャ最大の医療センター。絵画・彫刻で飾られた神殿を拝謁するため、あるいはアスクレピウスの助けを求める病人や不具を持つ巡礼の人々が、ひきもきらさずにこの地を訪れたであろうことは、整然とした劇場の最後列の石組みに立つと詳らかに理解される。波のような山々を赤く染める、沈みゆく静かな秋の陽の輝きは、こここそ伝説のアルカディア(古代神殿が建つ水と緑の理想郷)の地ではないかと想像させてくれるのだ。


(ギリシャ劇場のデザイン)

一般に舞台と観客席が生み出す形態には二種類ある。包囲型と対向型。包囲型は大相撲や闘技場や現代の格闘技のリングに似て、取り囲まれた舞台上の演技は回りの観衆の熱狂がプレッシャーとなり、その圧力への反動から必要以上に白熱する。

対抗型は比較的冷静。教会の説教、講演会の会場や大学の講義室に見るように、観衆に対し舞台上からは説得的で、伝えるべき内容を正確に理解してもらいたい場に適している。

ギリシャ劇場はその両方の型を合わせ持っている形態と言って良い。観衆に包囲されたオルケストラはコロスと呼ばれる合唱隊が歌を歌い、踊りを舞う場。コロスに立つ人々は舞台とは対向するが観客からは包囲されている。つまり、見る見られる関係が未分化なギリシャ劇場では客席、オルケストラ、舞台という三極の構造を生み出すことで、劇場がデザインされている。

コロスの役割は後世のオーケストラ同様、ドラマの進行に合わせその情緒感情を増幅する装置と考えられる。儀式祭礼としての意味合いを深く持つが故に、共同体に支えられていることが前提であったギリシャ劇場においては、コロスは観客の喜怒哀楽を代表し振る舞う人々、と捉えることが出来る。

と同時に彼らは目の前に再現される出来事に立ち会う運命の目撃者であり、時には演技者の心情を代弁し、あるいは進行する劇の筋だてに激しく反応する役割を持っている。

従って舞台との視覚的関係以上に、オルケストラに立つコロスとの聴覚的協和こそが観客にとって重要となる。音が視覚以上に優先された劇場、その形態はまた音の伝搬を水面に投じられた一片の石の描く波紋に見立て生み出されたと考えても良い。

しかし、このような劇場が盛んに建設される頃、すでに演じられる作品の方は儀式としての神と人間の関係から、人間と人間の関係あるいは個人の持つ心情へと関心が移っていった。アイスキュロスが活躍した紀元前五世紀の初頭はともかく、その後のソポクレス、エウリピデウスの時代は無情な運命を受け入れる人間の心情や特殊な人間関係から生まれる緊張状態の心理等がテーマとなっている。

祭礼から発生し共同体に支えられた劇場だが、その場はすでに、見る見られる関係によって生み出された個人の持つ心情に対峙する場と変化していたのだ。

 (fig73)


(二層の舞台を持つプリエネ劇場)

ギリシャ劇場の初期の形態を残し、そのまま現在まで保存されたのはエピダウロス劇場だけとなってしまった。紀元前二世紀を迎えると劇場は大きく変化する。

ソポクレスの悲劇が示すように劇場は祭礼の場というより、人間的ドラマの世界。劇場建築は本来の宗教的な意味合いから世俗的なものに変わりつつあった。演劇の内容も演技の場もオルケストラから遊離する傾向を持ち始め、劇の演じられる舞台が一段と高い場所に設えられることになる。

小アジアやエーゲ海の島々とギリシャ本土にはエピダウロス同様ヘレニズム時代に沢山の劇場が作られたが、それらの劇場にはやがて新しい要請に応じて手が加えられて行く。

まず、かってのスケーネは楽屋というより舞台背景(ローマ劇場でいうスカエナ)となり、演技の場はその前だけではなく、その二層にまで拡張される。そして上の舞台の背景もしっかりとしたスケーネが建てられた。そのような劇場の好例が現在のトルコに現存する。

小アジアのギリシャ植民地プリエネの劇場は新しい上部スケーネが、紀元前二百年頃木造から石造に造り変られたが、この劇場もエピダウロスと同じ、元来のギリシャ劇場の形態で作られていた。

演技の中心がオルケストラからその背後の高い舞台に移るにまかせ、多くの劇場は舞台回りが改築され、スケーネは著しく変化した。しかし、優れた音響を保ち、美しい自然環境に囲まれたギリシャ劇場本来が持つデザインはどこも損なわれていない。

半円を観客となる人々が、残りの半円を自然(神)が取り巻き、自然と人間が融合した建築空間。その空間は、劇の内容と劇場の持つ意味が日に日に世俗化の方向に向かうものではあっても、古代ギリシャの人々にとっては満天の空のもと、神々と合い和し、交遊する最も重要な場として位置付けられていたのだ。


(都市の中の劇場、オランジュ劇場)

ローマ時代を迎え、演劇はますます盛んになる。一つにはギリシャ劇が流行する以前からすでにイタリア半島では演劇の伝統があり、中世のコメディア・デルラルテに引き継がれる大衆娯楽は盛んであったからと考えられている。

植民地によっては剱闘士の闘技以上に人気の高かったギリシャ劇、その上演は宗教的意味合いからはますます離れ、世俗化して行く。ローマの人々がより身近な場所で、より身近な時に、観劇を楽しみたいと考えた結果であろう。

ローマ劇場は、ギリシャのような街はずれの山の中腹ではなく、多くの人々が生活する街の中に移動した。ローマ人は植民地とした都市の街なかには必ず円形の闘技場と劇場を作っている。闘技場と劇場、どちらの建築も辺境に生きる人々にとっては不可欠な娯楽の場であったからだ。

一方、ローマは屈指の技術大国でもあった。とくに土木・建設技術の発達は目覚ましく、劇場の建設という大工事においても、もはや自然地形を利用するという方法ではなく、平らな用地に石や煉瓦を用い、大きな観客席を建てることが可能となっていた。


 (fig74)

都市の広場の一角に作られたローマ劇場の遺構の一つがプロバンスのオランジュ劇場。オペラ・ノルマやアーイーダ等の公演で現代のオペラファンを熱狂させるこの野外劇場は、広場と背中合わせに一体化して作られた典型的なローマ劇場。

眺めの良い自然空間と一体化したギリシャ劇場は神殿や聖域の一部であり、その建築は宗教施設の一つとみなされるが、世俗の街なかに建つローマ劇場は祭式とは無縁の非宗教的建築。

しかし、その上演は相変わらず、宗教的な行事に合わされるばかりか、劇場を宗教から全く切り離して建設しようとは考えてはいなかった。ローマ劇場は聖地を離れた劇場ではあるが、ギリシャ時代に習って劇場は劇場自身によって、そこが聖地であり、祝祭の場であることを示そうとデザインされていたのだ。


(ヴィトルヴィウスの世界劇場)

古代劇場は劇場のデザインみずからが、その場所は聖地であり、世界の中心、宇宙の原点となる場所というメッセージを発している。紀元前一世紀のローマの建築家ヴィトルヴィウスは劇場建築の作り方について次のように述べている。

「劇場そのものの形は次のように造られるべきである。低面の周に予定されている大きさの円周線がコムパスを中心に置いて引かれ、その中に円の縁に触れる四つの等辺三角形が等間隔に描かれる。これによってはまた天空十二座の星学においても音楽から借りた諸星の関係が割り付けられる。」(ヴィトルヴィウス建築書:東海大学出版)

ヴィトルヴィウスの記述から、ローマ劇場は天体あるいは宇宙の構造がそのまま劇場の平面として構成されていることが解る。劇場はドラマによって世界を描き出す以前に、その全体の物理的配置によって世界を、あるいは宇宙の形を表現しているのだ。

宇宙あるいは天空と十二の星座についての説明はヴィトルヴィウスにとっては十書の建築書の中の一書の全てをあてて説明しなければならないほど重要な記述。何故なら自然万物の総体としての宇宙、星郡と星の軌道とで形成された天空の説明は自然そのものを形づくる神の御心を語ることでもあったからだ。

ヴィトルヴィウスの建築書はギリシャ劇場とローマ劇場の間の幾つかの違いに触れている。円形のオルケストラを低面とし、背後にスケーネ(背景)が建ち、その中間を舞台とする構成はギリシャもローマも同じ。ヴィトルヴィウスは八項目にわたってローマ劇場の作り方を記述した後で以下のように述べている。

「ギリシャ劇場ではすべてがこれと同じ手法でつくられるべきでない。というのは、まず底の円において、ラテン劇場で四つの正三角形の稜(十二の星座)が円周線に接しているように、ギリシャ劇場では三つの正方形の稜が円周線に接し、そしてその正方形の一辺はスカエナに最も近く、それが円弧を切り取り、その線上にプロースカエニウムの縁が指定されるからである」。(前掲ヴィトルヴィウスの建築書)

正円に内接する正方形によって描かれたギリシャ劇場に対し、正三角形によって生まれるローマ劇場、オルケストラの直径が小さくなったのが最大の特徴。さらにその三角形の一辺をスカエナの壁面に一致させることで、舞台部分の間口は広がり、奥行きが圧倒的に深くなった。

ローマ時代、かっての宗教色をおびた内容から世俗的なものに大きく変わった劇の上演では、儀式的であることよりドラマの進行が重要となり、観客の視線はオルケストラではなく舞台の上に集中することが要求される。やがて、演じられる場はオルケストラから遊離し、一段と高い場に移された。

舞台背景となるスカエナの壁面は観客席と同じ高さに作られ、その両端が観客席と接するようになると、劇場は一気に外部の世界とは遮断され閉鎖性をおびてくる。

さらに、ローマ劇場は観客を強い陽射から守るため、バラリウムというテント状の屋根にも覆われる。劇場建築はここに至り自然世界、神の世界とはまったく分離したドラマのための別世界としてつくられるようになった。つまり、古代ローマでは劇場も劇の内容もすでに現代に近いものとなっていたのだ。

白日の天空の下、大自然に囲まれていたギリシャ劇場とは異なり街なかに建つローマ劇場だが、後々の人はこの劇場を「世界劇場」と名付けている。ギリシャでは世界の中心、聖地の証であった劇場は、ローマでは劇場自身がそこは聖地であり、世界の中心であることを示さなければならなかった。

世界の中心をメッセージする劇場、ローマ劇場は世界のカタチを示す装置、世界模型としてデザインされている。その為にヴィトルヴィウスが拘ったのが前術の正円に内接する正方形ということだ。(実際のローマ劇場は四つの正三角形、それはオルケストラを小さくし舞台間口を拡げるためのヴィトルヴィウスの工夫でもある)。

劇場の平面形状は正円と正方形の組み合わせ。正円はマクロコスモス(世界・宇宙)、正方形はミクロコスモス(人間)と意味づけられる。ミクロコスモスである人間(正方形)はマクロコスモス(円)のもとで様々な所行、生き様、己れの生き方、役割を演じる。

それは人間が神あるいは自然と一体となって生きてきた時代の人間的世界そのものの姿。共に生きる人間の世界を実体化し、人間が人間として生きるに足る場を象徴した劇場空間。建築家は劇場をミクロ(人間)とマクロ(天体)、二つのコスモスが相重なり合った空間としてデザインすることで、その空間を世界の似姿、世界模型と意味づけてきた。


(リビアのサブラータ劇場)

現在に残された、保存状態の良いローマ劇場の一つがリビアのサブラータ劇場。紀元二百年頃の建築、この地つまりリビアというアフリカ出身の皇帝セプティミウス・セウェルスによって建てられている。

この劇場の興味深いところは三階建てのスカエナ・フロンス(スカエナの正面の壁、ドラマの背景ともなる)にある。その壁面は列柱の組み合わせ、上階に行くほど短くなる円柱で飾られ、全体は直線ではなく小さく波打っている。壁面の両端には階段が付き上段の舞台に連絡している。


 (fig75)

この舞台では俳優たちは上と下各々で演技することが出来、サブラータ劇場では複雑な劇の展開が十分に可能となった。

舞台をよく見ると、列柱が四本と二本、交互に繰り返えされ、四本は台座を共有しニッチ(壁龕)を作っている。このニッチに挟まれた二本一対の丸柱はポーチのように入口を構成し、その数は正面と左右、三箇所。

このスカエナ・フロンスは何を意味するのだろうか。全体の印象は後のルネサンスの理想都市をイメージさせる。アーチではないが三箇所の入口ポーチを持つ立体的背景は近代劇場の原型となったテアトロ・オリンピコにそのまま引き継がれている。

ヴィトルヴィウスの建築書には三つの背景画の説明はあるが、この三つの入口については何も触れていない。しかし、今に残るローマ劇場として有名なプロヴァンスのオランジュ劇場の スカナエ・フロンス もまた三つの扉。この劇場の中央の扉を現在「王の扉」と呼んでいる。中央と左右の扉の使い分けで登場人物のヒエラルキーを観客に伝えていたのだろうか。


(古代劇場の固定背景が意味するもの)

興味はむしろ、スカエナ・フロンスが何故、劇の内容以前に設置され、劇の進行に関わらず固定化されているかにある。舞台背景はドラマの進行に合わせ、逐次変化するのが常識となっている現代のオペラや演劇の上演とは異なり、この固定化されたサブラータ劇場のフロンス・スカエナはどんな意味を持っていたのか。

「舞台に普遍的な背景とはっきり区別された特定の背景が使われるようになった頃には、劇中人物も強い個性を身につけていた。」(個人空間の誕生:せりか書房)と述べるイーフー・トゥアンによれば、ローマ時代からルネサンスまでの劇での登場人物は特定の人物を演じるのではなく寓意あるいは普遍的な「人間」、つまり神話や聖書の中の人物を演じる。そのようなドラマでの舞台背景はいつも固定的なものとなる。

固定的な背景は特定な場所を表現するものではなく、普遍的な場あるいは観念的な世界(コスモス、世界劇場あるいは理想郷)を示すもの、中世においては聖書に登場する天国とか地獄というような場の雰囲気を示すものに他ならない。舞台における登場人物は個性を持った個人ではなく、寓意を込められた象徴的人物。そしてドラマの場は普遍的・理念的世界。

劇場は二つのコスモス(人間と天体)が重なりあった象徴的空間。そのコスモスに於けるドラマは、寓意を担った登場人物が個人としてではなく集団的意味を表現する場として意味づけられている。つまり演劇空間は象徴的人物によって演技される集団的な場、それが「世界劇場」を意味する所以でもあるのです。

象徴的な演劇空間を現代的なドラマの空間に変容したのはシェークスピア。十六世紀エリザベス朝演劇の劇場がローマ同様コスモスの象徴性で満たされていたのに対し、シェークスピアの登場人物は生き生きとし、生々しい存在感を持つようになる。その理由は登場人物が抽象的な場ではなく、特定の場所に強く結びつけドラマ化されているからだ。

同時代の他の作家と異なりシェークスピアは主役たちに個性を持たせるためには、舞台背景は特定な場所(例えばヴェローナのジュリエットの家のバルコニー)をイメージさせる装置であることが不可欠だった。

シェークスピアの場所に対する感受性は、時代を先取りしている。やがて、西洋社会で自意識が成長するにつれ、場所や景観が個人の性格を明らかにするというシェークスピア的見方が多くの人々に共有され、舞台背景は場面ごとに変化しなければならなくなる。

このような舞台背景の写実主義への変化は、現実世界と劇場における自己の観念の掘り下げに平行している。舞台がコスモス全体(世界劇場)であった頃は、演じられる役は必然的に寓意的な人物や、紋切り型の人物であり、万人ということさえあった。

しかし、自己は集団としての存在であることから徐々に個人的な存在としての意味を持ち始める十六世紀以降、劇中人物は強い個性を身につけ、舞台背景は普遍的な場ではなく、特定な場所を表現するものが求められるようになるのだ。この事は日本の能と歌舞伎の舞台背景の違いにも表れている。つまり、劇場は「祝祭」あるいは「世界劇場」であることより、「見る・見られる」関係を重視するニュートラルな場としてデザインされるようになるのだ。

シェークスピアは先取りしたのではなく、むしろ、時代の要請に応えていたと言って良い。このような観点からローマ劇場の典型であるサブラータ劇場の舞台はまだ特定の場所ではなく、世界劇場という普遍的理念の場。そこは神がつくる天国や地獄であり、人間の観念が生み出す理想都市であったといことに留意する必要がある。

テアトロ・オリンピコのデザイン・コンセプトはルネサンスの「都市の広場」であり、ローマ時代の「世界劇場」という二つの普遍的理念の場が「重ね合わされ」表現されていたのだ。しかし、シェークスピアと同時代の近代劇場の誕生としては何とも時代遅れのデザインであったと言っても良いのかもしれない。

ローマの演劇がどんなに宗教性から離れ、上下に設えられた舞台のあらゆる場所を所狭と使用するリアル化したドラマであっても、それはまだシェークスピアの生き生きとした登場人物による演劇とは程遠いものだった。そこはある種の神話あるいは象徴劇を演じる場であるからこそ、背景は固定的なものでなければならなかったのだ。

ここで重要なことは、シェークスピアが先取りした、集団的空間とその意味を表現していた劇と劇場が個人的世界に還元される近代劇に変容する変局点は、舞台が固定的な背景から特定な場を表現する可動背景に変わる時にあるということだ。

すでに見たようにテアトロ・オリンピコ、そして後に見るようにオペラ、二つは共にこの変局点に誕生している。オペラは古代と近代の「狭間」あるいはその「重ね合わせ」により誕生する。オペラの持つ面白さは同時期の音楽と絵画を「重ね合わせ」ているばかりでなく、各々の時代が持つ空間的、集団的意味をも重層化しているところにあると言って良いのだ。


(教会は劇場)

ローマ文化を徹底的に埋葬してしまったキリスト教時代、この時代は祝祭の為の劇場は存在せず、必要とされてもいない。教会が祝祭空間であり、劇場そして音楽の空間だったからだ。カトリックと異なり十六世紀からのプロテスタント教会では音楽より聖書の中の言葉と説教が重視されるが、ここもまた、もとはと言えば歌と音楽の為の空間。

神への祈りとは、恋人への想いの表現に似て、なんらかのワクワク感を伴い吟じられるもの、そこでは日常的言語とは異なり感情が優先する。賛美歌は神に捧げる「愛の歌」と言って良い。教会のミサはもともと音楽と全く同質の体験なのだ。

宗教儀式はキリスト教文化圏だけでなく古代オリエント社会から日本まで、どこの文化圏でも音楽が中心だった。

劇場のない中世だが、教会での式典や野外での祝祭は中世の生活においても欠かすことの出来ない非日常的空間の現出装置となっていた。

中世劇には教会の典礼劇と地方回りの旅芸人によって演じられるローマ劇の二つがある。後者は教会からは迫害されてはいたが、イタリア半島ではローマ時代のテレンティウスのような喜劇を無言劇として、言葉のない身振りだけで演じることで人気を得ていた。

教会の中の宗教劇は九世紀にはすでに東方の教会(ビザンチン)で始まっている。それは信者の教化に役立つもの、西方教会(カトリック)でも十二世紀にはいると活発になる。一般的には日常の礼拝が劇へと発展し典礼劇として形を整えていく。

朝の単純な賛歌斉唱が神と英雄の物語へと発展し、復活祭の入祭唱へのトロープス(聖歌に新たに挿入される旋律または歌詞)が天使とマリアの交唱の形を取ることによって典礼劇がはじまった。

キリスト教会の中で演じられる劇と音楽の題材は聖書の中の物語、キリストの降誕と昇天、あるいは復活の話が中心となる。上演は教会の中の身廊と側廊を区切る柱間の一つ一つが、特定な場所を示した舞台とみなすことによって成り立っていた。教会では、演技の為の舞台は大道具によって作られる装置ではなく、人々の想像力によって生み出されるものだったのだ。

ギリシャ以来の象徴劇が基本となっている典礼劇では、当然のこと、舞台背景は逐次変化する必要はなく、もし特定の場を必要としても、そこはすでに神の国、物語を支える具体的な背景は教会全体が担っていた。

そして時には演じられていたものがそのままモチーフとなり、舞台を拡大し、大勢の参加が可能となる教会の前庭や戸外へと舞台を移して行くこともある。劇の主催者である教会は専用劇場を必要とすることなく、大小のドラマを教会の内外を使い分けることで巧みに挙行しつづけていた。


(都市は劇場)

中世は都市建設の時代。大聖堂のあるところ、どこも都市の広場が作られており、その広場は市民の為のもう一つの劇場となっていた。 都市の時代を迎えたヨーロッパ社会、祝祭をプロデュースしたのは教会だけではない。支配者となった君主や貴族たち、かれらはその権力と都市の維持や近隣都市との外交のため様々な祝祭を必要とした。

街路では外国からの賓客や花嫁を迎える行列、広場ではパリオ(競馬)や馬上槍試合。その祝祭の中で視覚的にも聴覚的にも、もっとも的確に異質な空間を生み出していたのはやはり音楽を伴った劇だった。

ここでの劇は教会と同じくキリストの物語。しかし君主の主催となれば、物語は世俗の見世物との組み合わせとなり複雑化する。当然、多少の舞台背景や仕掛けが必要となり、それらは全て、牧師と市民やクラフト・ギルド(同業者組合)の人々の共同作業となっている。

都市は全市民で劇の準備に取り掛かかる。彼らは20日からひと月、時には数ケ月もかけ準備をし、祝祭が始まると延々と数日間も続く野外劇を楽しんだ。

何処の祝祭も始まりはパレード。信徒団体や職人たちのギルド、商人たちの組合、その代表者たちは旗を掲げ、徒弟や見習いを引きつれて参加する。そして佳境は演劇。市民たちは建物の窓から身をのりだし、あるいは仮設の足場に鈴なりになり、なかには動きまわる演技者とともに走り回りながら見物した。

演技を正面だけから眺めるという形式はオペラ発展以降の事。仮設に作られた舞台や客席がまったく無かったわけではないが、大騒ぎの広場全体が舞台であり観客席。

中世劇の上演では役者と観客をはっきり分ける手だてはほとんどない。役者は演技が終われば即座に観客となる。あるいは隣の観客が突然、マリア様に変身し、演技が終わればまた観客に逆戻り。次の場面ではいままで演じていた役者が今度は見物するため、足場によじ登らなければならなかった。

中世社会、日常の都市空間では貧者と富者がいつでも隣り合って住まい、肩を寄せあって生活している。広場での劇の上演もこの姿に似て、役者と観客は未分化のまま。全員参加のディオニュソスの祭礼と同様、中世の祝祭空間もまた見る人見られ人に二分されることがない。従って、中世と言われる時代の五百年間、劇場建築は全く必要とされることはなかったのです。






2010年9月22日水曜日

絵画のなかのアルカディア/©



(理想都市とアルカディア)

十五世紀以降のイタリアにあって、建築・絵画・庭園・音楽等が透視画法に描いた世界は理想都市(ユートピア)と アルカディア( 理想郷)。この二つの世界は同時代の人文主義に支えられた人間が想像的に生きる理想世界を意味する。そこはまた神の国とは異なり現実世界でもあるのだ。「理想都市」とは社会的秩序、規範を体現する装置とみなされている。つまり、集団として生きる人間にとっての規範を表現するのが「理想都市」の役割。

「アルカディア」は生活の規範だ。ひと一人がこの世界をいかに生きるか。生きて行くための方法、約束ごとを表現するのが「アルカディア」の役割。

イタリア・ルネサンスにおける「作品的世界」の誕生は絶対的な神の力から離れ、人間自身の力によって、あるいは個々人の自由と自立によって生きることを義務づけている。それは近代社会の始まり。さらにまた、作品の誕生は作家の登場、諸芸術の「自立」をも意味し、各々は神の力無くして、各々の役割を果たさなければならない。

やがて、教会という建築の中で一体化されていた絵画・彫刻と音楽は、同時代に発明されたタブロー化した印刷物同様、教会を離れ自由に飛び立って行く。そして音楽や絵画・建築は集団としての人間が生きる 作品的世界、風景の世界、オペラの世界を生み出していくのだ。


(ラファエロのアテネの学堂)

ローマのバチカン宮殿の署名の間に「アテネの学堂」と呼ばれる壁画がある。盛期ルネサンスの名作、透視画法の意味を伝える貴重な絵画。後の時代のオペラの舞台の先駆けとなる絵画だ。ラファエロ・サンティは十六世紀の初めユリウス二世の命によりこの絵を完成させた。

大きな半円形の画面のなかに、古代的建物を背景とした哲学者、科学者というギリシャの賢人たち。古代の賢人たちを演じているのは現実のルネサンスの芸術家たち。古代の哲人の衣をまとい光の中を悠然と歩く画面の中の姿から、ルネサンスの人々の持つ理想的人間像が劇場的感覚をもって迫ってくる。


 (fig46)

舞台背景となるの建築空間は厳正な左右対称の堂々たる壁面、壁龕には神話的人物の彫刻像、ヴォールト天井は角型のピラスター(半柱)で支えられ、高貴な輝きに充ち、ゆるぎない安定感を放っている。その全体は屋根のない古代建築。

透視画法で描かれたこの絵画はルネサンスの舞台構成とまったく同質のもの。絵画の中のシンボルは、この場合画面を彩る様々な人物だが、序列なく等質・等方に配置され、空間には入れ子あるいは代替可能の原則が貫かれている。

ルネサンスの舞台とは変幻自在性を持った仮構による虚構の場、その中の役者は一時的な役割を演じるシンボルにすぎない。「アテネの学堂」はまさに透視画法により構成された、ルネサンスの賢人たちが演じる壮大なオペラ空間となっている。

透視画法による序列なく等質・等方に配置されたシンボルの空間は、観客にとっては自由に想像的(イマージナル)に関われる虚構の世界。現在の私たちにとって、ルネサンスの世界が想像的自由な虚構の場であったことはとても重要ことだ。

やがて見るバロックの舞台空間、そこでの透視画法は観客の想像的自由を生み出す装置ではなく、特定の人間の操作による幻想的(イリュージュナル)な空間に変容する。

特定な人間とはバロックの君主こと。神と異なり君主には誰もが成れるのだから、ロマン主義以降の作家たちにとっては特定な「個人」と言って良いだろう。オペラはこの恣意的なイリュージュナルな空間が基盤となって生み出された作品的世界と言える。

しかし、「アテネの学堂」は幻想ではなく想像的世界。ルネサンスの透視画法は個人により恣意的に操作されるのではなく、集団としての人間に支えられる等質・等方、シンボルのみの空間であったことを忘れると、何も理解できない。

話をラファエロの絵画に戻そう。画面の中央はプラトンとアリストテレス。左側を歩くプラトンは「ティマイオス」を小脇に抱え、右手で天を差し、イディアの在り方を示す。「エティカ=倫理」を持つアリストテレスは天と地の間に右掌を広げ、イディアはそれ自身だけでは存在せず、個々の事物の姿となって存在することを示している。

そして演じるのは、レオナルド・ダ・ヴィンチがプラトン。ニコマコス倫理学書を持つアリストテレスはミケランジェロということだが、前方中央の階段下で書き物をするヘラクレイトスもまたミケランジェロ。ダヴィンチとミケランジェロ、仲の悪かったこの二人が同一の舞台上であるがため、諸説はさまざまだ。

上手(右)床の上の黒板にコンパスをあてるのはブラマンテが演じるユークリッド、その他ソクラテス、ピタゴラス、ディオゲネス、ゾロアスター、プトレマイオス、アルキメデス、エピクロス、パルメニデス、アルキピアデスと各々が様々なポーズを取っての総勢五十三人もの人物。右袖の柱の陰からわずかに顔を出すのがこの絵を描いたラファエロ自身。


(建築家の新たな役割)

絵画は虚構の空間による一遍のドラマ。かって建築の壁面にあって空間の形成に参加していた絵画は、建築とは無関係に、一個の独立した存在として、自らのうちに独自の空間を形成し始めた。それは絵画の自立を意味する。絵画のみで世界をあるいは空間を表現することが可能となったのだ。

透視画法による人間が眺める世界、風景の発見により建築は従来の役割を終え、新しい役割を課せられるようになった。空間が絵画で表現できるのなら、建築は実用的な現実世界へ、つまり、近代建築の始まり。

建築は虚構的表現の場から実体的空間としての役割を重視しなければならなくなっていく。しかし、建築家はすべて実体に関わる技術者の道を歩めば良い、という訳ではない。

空間を生み出しそのコンセプトを表現するのは透視画法だが、建築はさらに新たなテーマを発見し、自らがその問題に答えていく、という役割も浮上した。神に変わり人間自らが問題を発見し答えていく、という近代建築の持つプログレマティズムは、透視画法が開いた新たな使命、生まれたばかりの建築家が果たなければらない重要な役割だ。

透視画法が建築家を誕生させ、その彼に新たな役割を課す一方、画家と彫刻家の役割もまた明確となった。透視画法は彫刻によらなくとも三次元の立体を作り出すことが可能だ。従って、彫刻家の仕事は現実の立体を作り出すこと、画家の仕事は空間全体を描きだすことがその役割となる。

画家は人物像の周りに、建築を描き空間を生み出す。さらに、画家は空間を生み出すばかりか、部屋を取り囲む建築の壁体をも解体する。そしてついには、平な建築の天井にドーム天井を描くことで、重たい危険なドームを実際に作ることなく、天上の世界の表現が可能となった。つまり、画家は実際の建築を超え、建築家が実際の建築を作る以前に、自由に建築空間を生み出すことが出来たのです。


(マンティーニャの天井画)

ラファエロの「アテネの学堂」よりも四十年も前、マンティーニャはマントヴァのパラッツォ・ドッカーレの「夫婦の間の天井画」を完成させた。

従来、建築では主要室の天井はドームで構成される。建築は自然界から人間的世界を切取る、あるいは人間のための特別の空間を生み出す装置だ。さらに、その建築の中でも特別重要な場所にはドームが架けられ、そこはあたかも神のいる天上、あるいは宇宙そのもの、神そして宇宙の持つ秩序と一体的に調和した場所と見なされた。

実例としてはローマのパンテオン。そのメッセージは「全宇宙」。さらには大聖堂のアプス(内陣)の上のドーム天井、そこは天上に繋がる神の世界と考えればよい。そして「アテネの学堂」の屋根のないフレームだけの古代建築を描いたが、マンティーニャの「夫婦の間の天井画」は建築としては平たい天井だが、透視画法によるドームを描くことで虚構の建築を生みだし、天上に繋がる世界を表現した。

建築の外観はともかく、マンティーニャは寝室に天井に絵を描くことで、この部屋は特別な空間、建築のなかの特別な場所であることを示している。つまり、建築空間の意味は外観と内観、バラバラに二重の意味をも表現可能となったのだ。


 (fig47)


(虚実の空間という新たな虚構の世界)

建築が重たいドームを作らなくとも、透視画法を使うこと特別な空間を生み出すことが可能。平らな天井に描かれた建築空間では屋根が切り開かれ、雲がたなびき、鳥が舞い、天使や天上の人々が親しげに現実の世界に入り込んで来る。実際に建築空間を構築することなく、絵画によって天に繋がる特別な空間を生み出している。

建築空間に透視画法による絵画を描くことで、建築と絵画を一体化した全く別種の空間が生まれる。透視画法が開いた空間は実なる空間と呼応し、また新たなる虚構の空間をも生み出している。

その手法は様々に展開され、応用される。一般にはだまし絵と言われるが、そこに展開される絵画空間と実なる空間の交歓は、私たちの日常をもう一つの世界へと導いていく。その空間は人間により生み出されたもう一つの虚構の世界。その世界を通しての、出たり入ったりという想像上の自由は、自身の持つ現実世界やイメージを舞台上の世界のように客観視し、距離をおいて眺めることを可能としている。つまり、虚実相交わった建築空間は、日常世界の持つ演劇的側面を強調し、その後のオペラの舞台のように、その幻想的世界をより自由に構成することが可能となった。


(マントヴァのマンティーニャ)

パドヴァ、ヴェローナで活躍していたアンドレア・マンティーニャは1459年、ルドヴィーコ・ゴンザーガから生活費だけでなく住まいと食事も用意され、宮廷画家として招かれた。

その年はマントヴァ公会議の開催の年。前節で触れたコルシニャーノの丘の上で教皇ピウス二世に理想都市の建設を決意させたのは、このマントヴァ公会議出席の為の旅。あるいは、ローマ、ウルビーノと忙しいアルベルティがサン・タンドレア聖堂の建設を急いでいたのもこの公会議の為だった。

この年、招かれた宮廷画家マンティーニャには小国マントヴァの文化政策、その威信の全てが懸けられていた。マンティーニャの作品の題材にはパドヴァ時代の学者たちとの親交の成果、宗教画以上に古典古代の理想郷が数多く取り上げられていた。つまり、この画家は画家であるばかりか古典学者でもあったのだ。

彼は早速、夫婦の間の壁画・天井画の制作に取りかかった。そして、ゴンザーガ家の別荘や宮殿、教会の壁画、さらに額縁画、祭壇画等、次から次へと宮廷からの注文に明け暮れこなしていく。イザベラの肖像画を残したことでも有名なレオナルドがこの宮廷に招かれたのもこの頃のこと。マンティーニャは小都市マントヴァを支えるのみならず、この都市の美術の最盛期を支えた最も重要な画家なのだ。


(ルネサンスのアルカディア)

西のアルプスから東のアドリア海まで、北イタリアを滔々と横断するポー河、その流域は全て肥沃な平野。豊かな農産物に恵まれ、音楽と建築に満たされた都市が連なる。マントヴァはその中央に位置する、古代ローマの最大の詩人ウェルギリウスが生まれたところとしても有名。

ルネサンスの人々をアルカディアに誘った長閑で甘美な牧歌や農耕詩は間違いなく、このマントヴァの風景が生み出したものだ。しかし、もともとの、あるいは現実のギリシャのアルカディアは急峻なパルナッソス山域に囲まれた荒涼地、長閑な田園とはほど遠い所。

アルカディアは古代ローマあるいはルネサンスの人々が生み出した想像上の理想郷。ギリシャの人々にとっての、「人間の生きるための規範のための舞台」としてのアルカディアは、苦難の続くルネサンス・イタリアの人々にとっては長閑な田園地帯、理想郷に変容した。

アルカディアはローマ時代の詩人テオクリストやウェルギリウスによる農耕詩や牧歌の中の世界として描かれる。ホイジンガの「中世の秋」によれば、あまりにも厳しすぎた中世末期の現実が、より美しい生活にあこがれ、理想の愛を追い求めるルネサンスを開いたとある。

凶作がつづき、二度に渡る壊滅的なペストの流行、加えて教会勢力の分裂という多難を体験したイタリアでは、十四世紀に入り、ウェルギリウスが描いたアルカディアはペトラルカ等により良い世界の象徴、理想世界、黄金郷として登場した。

列強との狭間で苦難に揺れる十五世紀末イタリア、フェラーラからマントヴァに嫁いだイザベラ・デステの同時代。アルカディアはナポリの詩人ヤコーポ・サンナローザの田園詩「アルカディア」によって、あるいはフィレンツェの詩人アンジェロ・ポリッツィアーノの牧歌劇「オルフェオ」によって再登場する。

やがて「アルカディア」は誕生期のオペラにも引き継がれる。そして十八世紀、その世界は台頭した市民社会の器楽演奏、交響曲や室内楽に取り込まれ、ヨーロッパ音楽の主要テーマとして展開されていく。


(マンティーニャのパルナッソス)

マンティーニャはこのアルカディアのようなマントヴァで十五世紀末、興味深い絵画を完成させた。「パルナッソス」、現在ルーブル美術館に展示されている。マンティーニャの「パルナッソス」は古代ギリシャのアルカディアの聖山、詩と音楽の神アポロンと九人のミューズの住むところとして描かれる。

この絵は后妃イザベラの注文により制作され、長らく彼女の書斎を飾っていた。ルドビーコ公亡き後、マントヴァ国家元首となった彼女は自分自身のための瞑想の場を必要とした。この絵はその為の主要な装置。イザベラの死後、五枚のカンバス画が書斎に残されたが、「パルナッソス」はその中の一つ。しかし、十七世紀にはルイ十四世の所有となり、以降、ルーブル美術館に保管される。


 (fig48)

この頃すでにフィレンツェでは新プラトン主義者たちの思想を反映したボッティチェリの「プリマベーラ」や「ヴィーナスの誕生」が完成していた。人文主義的教養も深いイザベラ、フィレンツェへの対抗心を充分に秘め、この部屋の構想を練ったに違いない。

ルネサンスの作品は、どの分野でも、個性の表出が目的となることはない。作品が作家の個性に結びつけられ解釈されたのは十九世紀以降のことだ。この時代の作品は全て、使用目的に合わせ、あるいは集団的要請に従い制作された。題材は画家が自由に選ぶのではなく注文主が決める。画家は題材に従い作品の持つ意味を的確に表現することが求められた。

イザベラはマンティーニャの「パルナッソス」に何を要求していたのだろうか。美術史家によれば、この絵は様々な解釈があるようだ。以下は長いが、当時の人々の「アルカディア」が垣間見えとても面白いので引用する。

「踊っている女性たちがミューズの神々であることは、その数が九人であることや、画面左上に崩れ落ちる山が描かれていることから、確かである。というのは伝承によれば、芸術の創造における霊感の女神たちの歌は火山の噴火や天変地異を引き起こし、ペガサスがひづめで大地をふみならしてこれらの天災を終わらせるからである。実際画面右手には宝石で飾られた有翼の馬がいて、神意によってしきりに地面をひずめで何度も掻いている。そのそばにメリクリウスがいるのは、彼がウェヌスス(ヴィーナス)とマルスの愛人関係に介入し、画面左端のアポロとともに不義のウェヌススをかばうことになっているからである。二人の愛人はベッドに置かれたパルナッソスの山頂から見下ろすように立っている。左に裏切られた夫、ウェウカヌスが仕事場である鍛冶場の洞穴から出て、不貞を働いた二人(ヴィーナスとマルス)に向かって怒鳴っている。彼の背後にかかっているブドウはたぶん力と不節制の象徴であろう。アポロはその下の方に座り、手にリラ(竪琴)を持っている。1542年に作成されたマントヴァのパラッツォ・ドゥカーレの財産目録では、このアポロがオルフェウスと記されており、またアポロは普通ミューズたちの間に交じっているものなのだが、これをオルフェウスと見なしたところで、その絵の内容をいたずらに混乱させてしまうだけだろう。・・・連作全体が教訓を目的としたものであったことは疑いないことである。それゆえ、パルナッソスにはマルスとウェヌススの不貞な結びつきに対するミューズたちの強い非難をはっきりと読みとることができるのである。とはいうもののマントヴァ宮廷の知識人たちがその裏切りを非難したとは思われない。」(マンティーニャ:東京書籍)


(ラファエロのパルナッソス)

マンティーニャの「パルナッソス」に比べればラファエロの「パルナッソス」は判りやすい。「アテネの学堂」と同じ、バチカン宮殿の署名の間の壁画だ。山上の月桂樹の下に座り九人のミューズに囲まれ、リラ・ダ・ブラッチョを弾くアポロン。

画面は左から右へと壁画の円弧に合わせるように流れ詩人たちが配列される。ここでも描かれた人々はまるで舞台を飾る俳優たちのようだ。「アテネの学堂」と同じように登場人物は寓意ではなく実在の人たち、すべてギリシャ・ローマそして同時代に活躍した詩人たちが舞台を飾る。

彼らは桂冠をかぶりアポロンに敬意を表すためにパルナッソスに集まった。左下で巻物を持ち座っている女性がギリシャの抒情詩人サッフォー、その前に立つ三人目の詩人がペトラルカ。山上で詩を吟じる盲目のホメロスとその左手に座り耳を傾けメモを取るラテン詩の父エンニウス。ホメロスの背後ではダンテとウェルギリウスが「神曲」の場面のように視線を交わし話し合っている。右下でサッフォーに対応するかのように腰掛けているのがウェルギリウスと同時代の抒情詩人ホラティウス。その他アリオスト、ボッカチオ、サンナローザに変身物語を書いたオウディウスという詩人たちが舞台を飾る。


 (fig49)

アルカディアの情景のなかで芸術の擬人化であるミューズに囲まれた古今の詩人たち。この絵画のテーマは古今の「詩学」、あるいは「美」の象徴であることがよく解る。興味深いのはアポロンの持つ楽器、彼がいつも持つアトリビュート(象徴的持ち物)の竪琴を隣に座る青衣のミューズが持ち、アポロンはルネサンス時代のリラ・ダ・ブラッチョを持っている。ラファエロは詩を永遠の価値のシンボルとして、あえてルネサンス時代の楽器をアポロンに持たせたのだと言われている。ラファエロらしいユーモアだ。


(ユリウス二世のメッセージ)

ラファエロの絵画の読み取りは面白いが、「パルナッソス」と「アテネの学堂」を壁画とした「署名の間」全体の意味付けもまたとても興味深い。ユリウス二世はミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の壁画・天井画を任せ、聖なる空間の創出を計った。

ミケランジェロの聖に対し、ラファエロには俗。「署名の間」は教皇の俗権の行使の場に見合うもの、つまり聖を象徴するシスティーナ礼拝堂に対し「署名の間」は世俗の人々のためのより調和ある世界の象徴として位置づけた。

教皇はミケランジェロとラファエロの力を借り、全世界に対する権力を与えられ、聖と俗、どちらの権威をも仲介する教会そのものの役割を強調しようとしているのだ。

「署名の間」は従って、当時の人文主義とキリスト教を統合した装飾計画により俗権の強調がテーマとなるが、具体的には啓示による真理としての神、そして理性による真理としての真・善・美、つまり、神学・哲学・詩学・法学という四つの徳と精神活動を壁画と天井画によって表現している。

そして「アテネの学堂」は哲学であり真、「パルナッソス」は詩学であり美がテーマ。すでに触れたように、ラファエロは寓意ではなく、実在の人物によって、それも舞台構成のような堂々とした建築や自然空間のなかに表現していく。その構成は大変解りやすく、完成されるや否やローマ中を熱狂させ、あらゆる人たちがその壮大さの前に立ち尽くし賛同したと言われている。