2017年5月16日火曜日

マンチェスター・バイ・ザ・シー

質の高い小説を、大きな椅子に包まれ、
ゆったりと、いつまでも読み続けているような体験。
落ち着いた昔からの好みの映画館、恵比寿シネマガーデンで、
久し振り、映画らしい映画をじっくり観た。

素晴らしい映画です。
マンチェスター・バイ・ザ・シーは、
ボストンの北、イギリス風パブと教会が多い海辺の街。
観光地でもないこの街の風景は、なにもなく、静かで美しい。

実在の空間でおこる、どこにでもあるつましい家族の不運。
しかし、画面を流れる時間は、どこまでもただ静かに流れていくだけ。
誰にでも訪れるであろう不運と悲しみと小さな喜び。
それは野に咲く小さな花のような世界だ。
いや、この映画の舞台は海。
描かれているのは、只々静かに船縁を叩く小さな水の音。

この街を訪れてみたい、
小さなパブで主人公のリーと出会い、気が合えば共に夕方の潮風に触れ、
ゆっくりと話してみたい。
静かな人々のいる、静かな空間と時間は、
こんなカタチのない時代でも、
決して無くなるものではないことを、確認するために。

2017年5月12日金曜日

ダンサー、セルゲイ・ポルーニン

今朝のYouTube、Take Me to Churchの視聴回数はなんと19,768,413回をカウントしていた。
https://www.youtube.com/watch?v=c-tW0CkvdDI

この驚異的な数字は昨日、試写会で「ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣」を観て、多いに納得している。
しかし、タブレットではない、大画面で観るセルゲイのダンスはもう半端じゃない。
劇場はおろかTVでもあまり見たことがないバレエだが、ポルーニンのダンスは芸術的というより驚異的なもの。
コードに制御されない、肉体が刻むリズムと躍動とポーズが表現する世界、それはポルーニンのみに許された、究極的に人間がもつ、生きていることの素晴らしさだ。

しかし、現実世界にいる我々は、誰もがみなその生には苦労する。
ウクライナのキエフ近郊の家庭に育ったポルーニンも例外ではない。
家族と別れ、ひとり言葉の通じないロンドンでバレエの練習に明け暮れる少年時代。
圧倒的な才能を開花させ、19歳でプリンシパルにまで登り詰めたポルーニンだが、彼が失ったものも計り知れない。
ドキュメントはそんなポルーニンの目に見えぬ内面世界も、画面に躍動する野獣的ダンスを通し克明に語っていく。

残像

京橋テアトルで試写会を観る。来月より、岩波ホールで公開されるそうだ。
画家として、人間として、ストゥシェミンスキほど優れていなければ、こんな過酷な半生を送る必要はなかったかもしれない。
教育者として多くの若者に人気があり、卓越した技量と知性を持ったモダニズムの芸術家。
しかし、キャンバスやインテリア空間に描いてきた絵画、言葉として纏めた視覚論(芸術論)、その悉くを時代の持つ暴力に侵され、奪い取られ、そしてストゥシェミンスキは倒される。
残ったのは像(イメージ)のみ、ワイダが残し得た映画という残像のみだ。

50年代のポーランドにおいて、資本主義モダニズムの持つ抽象と社会主義リアリズムの対立がこれほど過酷なものであったことは知らなかった。
いや、ワイダが描いたものは、芸術的対立ではなく全体主義の持つ過酷な暴力だ。
権力者が持つ、政治的イデオロギーを盾にしての暴力、それは人間から全てを奪い取る、残酷なものだった。

しかし、見終わった後、ワイダの「残像」が残したものは本当に政治的暴力のみだったのか、と考えてしまった。
政治経済社会を覆うイデオロギー(風)により芸術(表現)を評価しようとする悪癖はモダニズムはもちろん、ポストモダニズムと言われる現代もそれ程変わっていないかもしれない。
差異化のみを強調する表装化したパッケージデザインに明け暮れるゼロ年代、人間拡張という真の生産性を持った芸術の自立は今や可能なのだろうか。
ワイダが残してくれたもの、いや残そうとしたものは「残像」のみだ。

2017年5月8日月曜日

僕とカミンスキーの旅


我々は観客席という現実世界から額縁の中の虚構の世界を眺めている。
絵画も映画も額縁(プロセニアム・アーチ)の中で演じられている世界だ。
プロセニアム・アーチは現実と虚構の境界を示す建築的装置。
舞台上のドラマが終われば、虚構の世界の演技者はこの境界から抜け出し、現実世界に戻るが、絵画や映画ではこの境界は決して消えることはない。
つまり、我々観客は永久に虚構の世界の住人に成ることは出来ない。

近代のキュビズム絵画やサウンド・スケープ、あるいはインスタレーションという表現活動では意図的にプロセニアム・アーチを解体し、虚実一体化した世界を産み出した。
ここでは、演技者も観客も一つの空間、虚実混淆した世界の住人となる。
しかし、映画ではどうだろうか。
かって、キアロスタミは虚実解体を目論んだ映画を制作したが、この映画の監督ダニエル・ブリュールはどうだろうか。

この映画ではどうやら、実在しない虚構の画家カミンスキー自身が描いた、絵画の中の世界が生身の現実世界であると設定し、作り出したようだ。
映画の中では額縁を施した絵画の中が現実であり、額縁の外側が虚構の画家カミンスキーが住む、虚構の世界として作られている。
そして、映画の外側にいる我々観客は、映画の中の虚実の反転に立ち会わされる。
その反転は唐突に登場する達磨大師の「有無相対」にある。

つまり、虚構を生み出す建築的装置であるプロセニアム・アーチが解体された映画の中では、カミンスキーの絵画という虚構こそ現実であり、その虚構からカミンスキーを眺める映画の中の「僕」はまた、映画の観客である僕でもあるのだ。
面白い映画ですね、美しいロードに展開される、戯画的な人間たちの虚実混淆、そして僕は本当にどこにいるのだろうか。
どうやら癖になりそうな、新たな映画タイプが生まれたようだ。