2017年3月29日水曜日

アメリカ大統領選の記事とポール・オースター

トランプが勝ったのではない、メッセージのないヒラリーが負けたのだという内容。民主党は長年政治に携わってきたインサイダーに頼り、それに固執すらしてきた。今回のトランプの勝利はそんなアメリカに於ける、グローバル化の疲弊に巻き込まれているポピュリストの抵抗であったと言うことだ。さらに踏み込めば、左派のポピュリズムは「エリートやエスタブリッシュに対立する人々」を擁護する部分では同じだが、右派のポピュリズムは「左派のエリートは移民、イスラム主義者アフリカ系アメリカ人過激派といった第三のグループを甘やかしている」と言って非難する。

今回の選挙でメッセージすべきは、まず、80年代のレーガンに始まるグローバリズムと脱工業化で疲弊した特に北部ラストベルトの人々へのメッセージ。そして、60年代以来、ニューディール連合崩壊によりすでに民主党を批判する南部サンベルト白人層へのメッセージ。民主党はすでに支持を失ったリベラリズムだが、いまだ固執するエリート、そのエスタブリッシュメントに対立する人々へのメッセージ。  ヒラリーは何もメッセージを持たなかった、ということだ。そして「トランプでさえ勝てた、2016年アメリカ。それはトランプが勝ったのではない、ヒラリーではアメリカはもう持たない。ヒラリーにはもはやメッセージがなかった。ヒラリーは社会階級より多様性に偏っていただけだ。得票数は上回ったが、北部ラストベルトでの敗退。黒人層における民主党と共和党との票差は僅かだが、彼女は貴重な64人の選挙人を失ってしまった。

このキャラベルの論点は日本のメディアはあまり触れていない。それをポピュリズムの勝利と呼ぶのは容易だが、彼らはむしろ歴史的にはいつも存在したリアリストであり現実主義者であったと言って良い。一方、ヒラリーは政治的には相変わらずリベラルなアイディアリスト理想主義者、彼らの持つ多様性に頼っていたのだ。グローバリーゼーションと脱工業化から置き去りにされた階層へのメッセージは今や、アメリカばかりではなく、EU諸国でも問題となっている。事実、EUが創り出したのは一つの共同体ではなく、グローバルな巨大市場過ぎないのだから。その市場は冷淡で、裕福な人々、そして金融市場と大都市にうまく接続した人々を喜ばせようとする以外の意志は、いまやどこにも見当たらないというのが現実であろう。

ヒラリー敗北を簡約すればこんなところ。ジェローム・キャラベルの論点で興味深いのは冒頭にあるインサイダー、リベラリズム崩壊の歴史だ。その詳細は添付した本文から読み取れるが、興味深いのはアメリカの崩壊はジョンソンの60年代に始まるが、決定的なのは80年代のレーガンの新自由主義と規制緩和、小さな政府による社会問題の市場化にあった。(日本の衰退はその20年後、小泉政権の新自由主義と規制緩和に始まったと言われる)崩壊はレーガンからブッシュに持ち込まれ決定的となる。途中、クリントンは中国の人権問題に派生する最恵国待遇見直しにより当選したが、中国主導の世界経済を迎え、何もなし得なかった。クリントンを引き継いだオバマだが、彼もまた絶えず晒される経済問題への対応にすべての時間を奪われ、チェンジを果しえずトランプ大統領と交代する。そして現在、民主主義は圧倒的に後退し、世界は均質平等に支えられた経済市場主義を引き継いでいるのである。

アメリカの崩壊はベトナム戦争の60年代に始まる、という話は雑誌等でしばしば目にしていた。一方、建築におけるモダニズムの終焉もこの時代。これ以降、デザインはポストモダニズムの建築と言われている。さらに大きな変化はレーガンの80年代、新自由主義、市場経済のグローバル化と機械生産の停滞による脱工業化時代の始まり。このル・モンド電子版の記事を読みながら、終始、頭をよぎっていたのはアメリカの小説家ポール・オースターの幾つかの作品だ。82年「孤独の発明」を書き、詩人から小説家に転身、その後ニューヨーク三部作で「エレガントな前衛」と呼ばれた人気者。彼はポストモダン特有のある種の知的悲劇性を持った作品を書き続け、ボクにとって毎年、新翻訳を楽しみにさせる貴重な小説家のひとりだ。

そんな、彼の本で最も最近読んだのは「ブルックリン・フォールズ」。読みながら、考え続けていたのはこの「フォールズ(愚行)」の意味なのだが、ジェローム・キャラベルのこの記事はその意味を明らかにしているのかもしれない、と考えてしまった。いや、決してポピュリズムが愚行だと言いたいわけではない。小説の中の人たちも何ら具体的な愚行を犯している訳ではない。「ブルックリン・フォールズ」だけでなく、前作「オラクル・ナイト」や92年の名作「リヴァイアサン」からも見えてくることだが、オースターの言う愚行、それはリアリスティックに生きる現実主義とアイディアルに生きようとする理想主義の格闘を意味しているのではないだろうか。いや、この格闘は決して対立ではない、むしろ、融和しようとする行為を意味している。対立ではなく融和だからこそ愚行と書くしかないのだ。

オースターはありのままのニューヨークという現実の上に、現実主義と理想主義をいつも並列し、虚構化している。そこから生まれてくる悲劇性は決して涙を流すものではない、愚行としか言いようのない悲しみなのだ。実なるオースターはエリート的リベラリストだが、彼は決して理想主義だけを小説にする事はない。さりとて、リアリストに媚びを売るわけでも同情するわけでもなく、そこに対立が見えるとさりげなく融和を愚行として描いている。まだ未読だが、机の上にカバーのかかったままの「冬の日誌」がある。2017年2月25日発行、この書にはポストモダニズム・アメリカのどんな愚行が書かれているのだろうか。

大衆が起こしたポピュリストの叛乱 アウトサイダーの年

201612ー>政治ジェローム・キャラベル(Jerome Karabel

http://www.diplo.jp/articles16/1612-1outsider.html

2017年3月27日月曜日

ポリモルフィック・ネットワーキング

ポリモルフィックネットワーキングのシンポジウムに行く。IoT*AI技術の将来を見据え、あるべき都市のコンセプトの検討しようとするもの。ポリモルフィックとは多彩な知能化技術によって、様々な部分が多形的につながり合い、全体として協調と秩序を持ったあるべき姿を生み出そうとすることにある。
多彩なあらゆる部分の合理的な調和から、新しい秩序ある全体を生み出す方法とは、ルネサンス期の建築家アルベルティ、彼が建築論で示した「コンキンニタス」とよく似ている。しかし、コンキンニタスは、いわゆる美術研究家が問題にするデコルムが生み出す調和ある全体像ではなく、個々の充実した部分が先行し、その部分による結果としての調和ある全体が意味されている。

アルベルティのコンキンニタスはモノや材料に直接関わらない、リネアメントウムという想像上のカタチの検討をその方法としている。リネアメントウムは「モノ」ではなく「カタチ」の検討。単なる美しい部分の集合としての実体ではなく、充実した部分のみの持つカタチ、その線画を検討することにより、材料や技術という外づけの理由や事象には関わらない、全体を生み出すという方法の検討としての建築論。つまり、技術の持つ通念的な意味づけを別物に読み替え、試行を繰り返すことで調和ある全体に関わっていこうとするもの。

今日のシンポジウムは開発されつつある先端技術の可能性の追求に関わるものでコンセプトではない。そして、IoTとAIを同列で掛け合わせることで、まさに多元的な知能化技術を我々は持つことができると同時に、使い方を間違えると社会に大きなリスクをもたらすことが示めされた。

ルネサンスが切り開いた神に依存しない、人間による都市・建築時代だが、その実態は物理的にも観念的にもクラウド情報に一元的に管理されたフラットな人間世界に至っているのが現代社会。それはアルベルティのいうコンキンニタスとは程遠い世界となっている。さらに、身近な懸念ではAIロボットによる人間の仕事の消滅が取り沙汰されているのはルネサンス期の錬金術から科学への移行、新時代が生み出す近代機械への懸念と全く同相だが、それは一重に「人間と技術」の問題に尽きる。なぜなら、ルネサンス以降、西欧社会が500年間、いつも人間の外部にあるモノやイデオロギーに弾き飛ばされてきたテーマがここにあるからだ。

シンポジウムの感想としてアルベルティのコンキンニタスを思い出した理由も「技術と人間」にある。スマートと名を変えた都市が安易に人間に関われるとはとても思えない。都市という全体を生み出すのは部分としての人間に他ならない。アルベルティは方法論をモノから離れたリネアメントウムを検討することで示したが、その後の都市と建築はモノに拘った様式論とイデオロギーに終始し、人間は益々阻害されてしまった。そして現在、最も懸念するのは先端技術の名を借りた安易な自然主義と人間主義である。

今後、このシンポジウムがどのような方向に進むのかとても興味深い。しかし、今日のシンポで示された60年代のメダボリズム論や数学者クリストファー・アレグサンダーのセミ・ラチス論の安易な引用は、益々、人間不在の技術論や様式論に追いやりがちと感じてしまった。何故なら、 確かに、自然や水に準えるメタボリ技術や多様な人間集団を捉えるセミ・ラチス構造は魅力あるコンセプトだが、個々の部分としての人間の充実はどこに担保されるのであろうか。 外づけの時間と言語は立ち止まることが無く、いつも流れていくのだ。

IoT*AIはモノやイデオロギーから一度キッパリ縁を切り、その技術を様々な多元的な人間環境に投げ渡し、新たな自立状況を検討すべきではないだろうか。ここで求められるのは設計者やデザイナーの持つ合理主義や経済主義ではなく、人間個々人が持つ充実、そのリネアメントウムの模索ではないかと考えている。

2017年3月20日月曜日

オペラのような建築

建築は絵画より音楽に近い、その経験は視覚的に明瞭であることより、感情的、触覚的蓋然的である。建築の面白さは何かと問えば、工学的にどう作るか、芸術的に美しいか、実用的で使いやすいか、精神的に居心地が良いか、ではないだろう。それは、建築を経験することから生まれる、日常とは異なる異種の世界に入り込んだという感覚的な楽しみ。

ロマネスクの聖堂では、暗闇の中に据えられた柱頭飾りついての知識がなくとも、反響する音と呼応し、実際にはまったく目には見えないのだが、不可解な妖精に見張られているような体験をする。そこでは音楽が無くとも、柱が刻むリズムや差し込む光に誘われて耳には聞こえないメロディーを聴く。この異次元の経験が建築の持つ面白味だ。その想像的世界はある種の物語性、音楽性を秘めたオペラなのかもしれない。

2017年3月13日月曜日

建築空間の音楽化

建築空間の歴史は一つの空間からの分離にあった。

神聖なる内部空間

自然なる外部空間

この2つの空間の分離は当たり前のようだが、ローマ時代から始まる。
ギリシャの時代は内部と外部の分離はなく空間は一つ。ー>ギーディオン

ギリシャにあっては神の空間と人間の空間は同相の空間であり、パルテノン神殿は私たちが生きる自然空間と一体のものとして作られている。

そこでは自然空間から物理的に隔たるための境界はどこにもなく、自然空間の一部が部分的に梁と柱で聖別され「建築」として作られた。

つまり神殿は自然空間のなかに生成された幻像のようなもの。

建築の役割は空間の生成ある。

その変遷はローマ時代以降の空間の分離分節の歴史にあったと言える。

さらに現在、建築は空間の分離の道具あるいは装置と見なされている。

音楽もまた空間生成に関わってきた。
音楽は現在でも、新しい空間の創生に関わっている。
何故なら、音楽が奏でられる時、いつもそこには、また新たな空間が立ち上がる。

建築はまた空間の創生に関われるだろうか、その糸口は「建築の音楽化」にあるのかもしれない。

 

2017年3月9日木曜日

ありふれた現実に魔法をかける

路上パフォーマンスはギリシャ以来、人間の表現活動の一端だろう、しかし、評価されるか否かには、作品の仕上がり状況、様々な議論、時代感覚が介入してくる。
マネが物議をかもしたフランス第三共和時代のパリにもグラフィティは登場した。美がモラルと一体であったモダニズム初期、物議は美術館内では起こっても路上では許されなかった。しかし、そんな時代であっても、パリにはストリート・アートは登場した。1930年代のシュールレアリストからアメリカのポップ・アートへ。その30年後の五月革命、70年代はポンピドー・センターやルーブル美術館工事中の囲い壁、そして1989年の崩壊までのベルリンの壁は全て重要な場所となっていた。

60年代後半、ポスト・モダニズムと言われる時代になると、ストリートという政治空間は誰にとってもアクセス可能なメディア媒体となって行く。しかし、美術館のような、見る見られる関係が定かでない都市空間において、アートと市民の関係はいかなる方法によって築かれるのであろうか。芸術表現の役割が社会批評から離れ、所有者や権力者のプロパガンダで終わるなら、現代芸術は広告の中にしかその居場所を見つけることができない。さらに、美術館における作品が「フレームは絵画を支配する”淫売宿の主人」(エドガー・ドガ)と見なされたり、単なるキューレションの道具として片づけられてしまうなら、作品化される状況すべてを作品として支配したい画家の心情は当然のことと理解できるのではないだろうか。

フィリップ・パト・セレリエ「その場にふさわしい作品を作るのではなく、状況そのものを作る。・・・ストリート・アートは肌の上にじかに着る服のように、街がアートを身にまとう。」と言っている。さらに、グラフィティが現在、一定の評価を得られるようになったと報告し、「パリにおけるグラフィティが一定の評価を与えられたことから、セーヌ=サン=ドニでガイド付きツアーも企画された。ストリート・アーティストは認知されたことから、抗議意志を放棄することもあったという。しかし、作品が商品に回収されることだけは拒み続けている。」と記している。

現代の都市空間は建築物を含め今やアドバタイジング空間、仮にストリート・アーティストがフラットな広告都市を超えるパフォーマンスを発揮するのであれば、大いに期待して良いのではないだろうか。


抵抗と服従のストリート・アート


「ありふれた現実に魔法をかける」

フィリップ・パト・セレリエ(Philippe Pataud Célérier)


http://www.diplo.jp/articles16/1609-1lartderue.html